「二倍年暦」研究の思い出 (9)
―孔子の弟子、曾参の二倍年暦《ケースB》―
『論語』二倍年暦説の論証的手法の一つとして、次に《ケースB》の検討結果(注①)を紹介します。
《ケースB》更に時代と史料を絞り込み、孔子の弟子の史料に二倍年暦が確認できる場合。孔子とその弟子らは同じ暦法(年齢計算方法)に基づいて会話していたはず。そうでなければ、寿命や年齢に関する師と弟子の対話が成立しない。
『論語』中に年齢記事はそれほど多くなく、一倍年暦で七十歳(孔子の年齢記事「七十従心」)も当時としては長寿だったとする解釈が可能です。そこで、孔子に学んだ弟子達による寿命や年齢記事を調査したところ、曾参による次の記事が目にとまりました。
「人の生るるや百歳の中に、疾病あり、老幼あり。」『曾子』曾子疾病
この記事は曾参の会話中に見えるもので、この百歳は当時の一般的な人の寿命のことであり、その百歳の中に疾病や老幼があるとしています。すなわち、百歳記事が頻出する他の周代史料と同様に、この会話は二倍年暦(二倍年齢)を共通認識として成立しています。
これ以外に、『曾子』には次の年齢記事が見えますが、先の記事が二倍年暦であれば、これも二倍年暦記事と考えなければなりません。
「三十四十の間にして藝なきときは、則ち藝なし。五十にして善を以て聞ゆるなきときは、則ち聞ゆるなし。七十にして徳なきは、微過ありと雖も、亦免(ゆる)すべし。」『曾子』曾子立事
大意は、三十~四十歳で無芸であったり、五十歳で「善」人として有名でなければ大した人間ではないというものですが、これは一倍年暦の十五~二十歳、二五歳にあたります。類似した人間評価が『論語』にも見えます。「後生畏るべし」の出典となった次の記事です。
「子曰く、後生畏る可し。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆること無くんば、斯れ亦畏るるに足らざるのみ。」『論語』子罕第九
この記事も、四十歳五十歳になっても名声が得られないようであれば、とるに足らない人間であるという趣旨で、『曾子』曾子立事と同じように四十歳や五十歳(一倍年暦の二十歳、二五歳)を人間評価の基準年齢としています(注②)。従って、『曾子』の記事が二倍年暦であることから、この『論語』の記事も二倍年暦で語られたと理解すべきです。古田先生も同様の見解を発表されています(注③)。
以上のように、孔子(『論語』)と弟子の曾参(『曾子』)が語る人間評価基準年齢が共に二倍年暦に基づいていると考えられ、〝周代は二倍年暦だが、『論語』はなぜか一倍年暦だった〟とするのは憶測であり、論理的には成立し得ないと言わざるを得ません。(つづく)
(注)
①古賀達也「『曾子』『荀子』の二倍年暦」『古田史学会報』59号、2003年。
同「続・二倍年暦の世界」『新・古代学』第8集、新泉社、2005年。
同「『論語』二倍年暦の史料根拠」『古田史学会報』150号、2019年。
②大越邦生「中国古典・史書にみる長寿年齢」(『古代史をひらく 独創の13の扉』古田武彦、ミネルヴァ書房、2015年)で、二倍年暦の可能性があると指摘された『論語』陽貨第十七の次の記事も、四十歳(一倍年齢の二十歳)を人間評価年齢の一つの基準としており、本稿の結論と対応している。
「子曰く、年四十にして悪(にく)まるれば、其れ終らんのみと。」『論語』陽貨第十七
③古田武彦「日本の生きた歴史(二十三)」『古代史をひらく 独創の13の扉』ミネルヴァ書房、2015年。