九州王朝説に三本の矢を放った人々(2)
わたしには、「九州王朝説に刺さった三本の矢」(注①)の存在をはっきりと意識した瞬間やきっかけがありました。たとえば《一の矢》については、ある科学者との対話がきっかけでした。その科学者とは年輪セルロース酸素同位体比年代測定法の開発者、中塚武さんです。
2016年9月9日、わたしは服部静尚さんと二人で、京都市北区にある総合地球環境学研究所(地球研)を訪問し、中塚武さんにお会いしました。中塚さんは年輪セルロース酸素同位体比年代測定法を用いて、前期難波宮出土木柱の年輪が7世紀前半のものであることや平城京出土木柱の伐採年が709年であったことなどを明らかにされ、当時、もっとも注目されていた研究者のお一人でした。
2時間にわたり、中塚さんと意見交換したのですが、理系の研究者らしく、論点がシャープで、九州王朝存在の考古学的事実の根拠や説明を求められました。たとえば、巨大古墳が北部九州よりも近畿に多いことの説明や、7世紀の北部九州に日本列島の代表者であることを証明できる考古学的出土事実の説明を求められました。これこそ、「九州王朝説に刺さった《一の矢》」に相当するものでした。中塚さんは、考古学的実証力(金属器などの出土事実)を持つ邪馬壹国・博多湾岸説には理解を示されたのですが、九州王朝説の説明には納得されなかったのです。
巨大前方後円墳分布などの考古学事実(実証)を重視するその中塚さんからは、繰り返しエビデンス(実証データ)の提示を求められました。そして、わたしからの文献史学による九州王朝実在の説明(論証)に対して、中塚さんが放たれた次の言葉は衝撃的でした。
「それは主観的な文献解釈に過ぎず、根拠にはならない。古賀さんも理系の人間なら客観的エビデンスを示せ。」
中塚さんは理由もなく一元史観に固執する人ではなく、むしろ論理的でシャープなタイプの世界的業績を持つ科学者です。その彼を理詰めで説得するためにも、戦後実証史学で武装した大和朝廷一元史観との「他流試合」に勝てる、史料根拠に基づく強力な論証を構築しなければならないと、このとき強く思いました。(つづく)
(注)
①《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。
②酸素原子には重量の異なる3種類の「安定同位体」がある。木材のセルロース(繊維)中の酸素同位体の比率は、樹木が育った時期の気候が好天だと重い原子、雨が多いと軽い原子の比率が高まる。この酸素同位体比は樹木の枯死後も変わらず、年輪ごとの比率を調べれば過去の気候変動パターンが分かる。これを、あらかじめ年代が判明している気温の変動パターンと照合し、伐採年代を1年単位で確定できる。この方法は年輪年代測定のように特定の樹種に限定されず、原理的には年輪がある全ての樹木の年代測定が可能となる。