俀国伝の行程〝古田理解と論理の根幹〟(1)
『三国志』倭人伝に見える邪馬壹国への行程記事について、古田先生は名著『「邪馬台国」はなかった』(注①)で、倭人伝原文の一字一句も改訂することなく見事に博多湾岸へと至る解読を明示されました。たとえば短里説(1里約76m)、韓国内陸行説、対海国(対馬)・一大国(壱岐)半周読法、部分里程の和は総里程(万二千余里)説などです。
倭人伝の里程記事ほどではありませんが、『隋書』俀国伝にも百済から都への行程記事(注②)があり、古田学派内でも諸説が発表されています。古田先生は俀国の都をヤマトとする通説を次のように批判しています(注③)。
〝「対馬国→一支国→竹斯国→秦王国」と進んできた行路記事を、まだここにとどめず、先(軽率なルート比定)の(B)の「又十余国を経て海岸に達す」につづけ、この一文に“瀬戸内海行路と大阪湾到着”を“読みこもう”としていたのである。
しかし、本質的にこれは無理だ。なぜなら、
①今まで地名(固有名詞)を書いてきたのに、ここには「難波」等の地名(固有名詞)が全くない。
②九州北岸・瀬戸内海岸と、いずれも、海岸沿いだ。それなのに、その終着点のことを「海岸に達す」と表現するだけでは、およそナンセンスとしか言いようがない。
ことに①の点は決定的だ。裴世清の「主線行路」は、先の「対馬――秦王国」という地名(固有名詞)表記部分で、まさに終了しているのだ。これに対して、(B)(「十余国」表記)は、地形上の補足説明(傍線行路)にすぎないのだ。だから地名(固有名詞)が書かれていないのである。後代人の主観的な“読みこみ”を斥け、文面自体を客観的に処理する限り、このように解読する以外、道はない。〟『邪馬一国の証明』ミネルヴァ書房版、265頁。
この古田先生の批判は強烈です。隋使が向かった相手国(俀国)の都への途中地名(固有名詞)が記されていないことになる、「又十余国を経て海岸に達す」を主線行路と見なす理解はあまりに恣意的です。国使であれば、何をおいても相手国の首都への行路地名(固有名詞)を一つ一つ確認し、本国に報告しなければならないはずです。従って、「十余国」もの個別国名やそれらを経て達した海岸名が全く記されていないのですから、この記事を地形上の補足説明(傍線行路)と見なす古田先生の理解は妥当です。そして、この理解を確証づけた根幹の論証があります。(つづく)
(注)
①古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(一九七一)。ミネルヴァ書房より復刻。
②次の行程記事が見える。
「度百濟行至竹島南望*タン羅國。經都斯麻國逈在大海中。又東至一支國。又至竹斯國。又東至秦王國、其人同於華夏。以爲夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸。」 ※「*タン」は偏が「身」、旁が「冉」の字。
③古田武彦「古代船は九州王朝をめざす」『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。