2022年12月一覧

第2892話 2022/12/11

秦王と秦造

 古田説によれば『隋書』俀国伝に見える「秦王国」を〝文字通り「秦王の国」〟と理解されており、わたしも同意見です。

〝では「秦王国」とは、何だろう。現地名の表音だろうか。否! 文字通り「秦王の国」なのである。「俀王」と同じく「秦王」といっているのだ。〟(注①)

 このように古田先生は述べています。もし現地名の表音表記であれば、「しんおう」あるいはそれに近い音の地名に「秦王」という漢字を採用したことになり、他の表音表記の「邪靡堆(やまたい、やひたい)」「都斯麻(つしま)」「一支(いき)」「竹斯(ちくし)」「阿蘇(あそ)」とは異質です。それでは秦王とは誰のことでしょうか。七世紀初頭頃に秦王と呼ばれた、あるいはそれにふさわしい人物が国内史料中に遺されているでしょうか。この問題について考えてみました。
 「秦王国」という国名表記からうかがえることは、その領域規模は不明ですが、「秦王」という名称を国名に採用することが九州王朝から許されているわけですから、秦王は多利思北孤の〝右腕〟ともいえる氏族のように思われます。そこでわたしが注目したのが秦造河勝で、その姓(カバネ)の「造(みやっこ)」が根拠の一つでした。これはある地域や集団の長を意味する姓と考えられます。たとえば「○○国造」とか「評造」(注②)などのようにです。那須国造碑や「出雲国造神賀詞」(注③)は有名ですし、氏族名の姓としても『新撰姓氏録』に「○○造」が散見され、「秦造」もあります(注④)。この理解が正しければ、秦造河勝とは秦氏の造(長)の河勝とする理解が可能となり、当時の「秦王」にふさわしい人物ではないでしょうか。その痕跡が『新撰姓氏録』の「太秦公宿禰」(左京諸蕃上)に見えます。仁徳天皇が秦氏のことを「秦王」と述べています。

〝(仁徳)天皇詔曰、秦王所獻絲綿絹帛。朕服用柔軟。温暖如肌膚。仍賜姓波多。〟『新撰姓氏録』太秦公宿禰(左京諸蕃上)

 『日本書紀』皇極天皇三年(644年)に見える秦造河勝の記事からも、そのことがうかがわれます。

〝秋七月。東国の不尽河(富士川)のほとりに住む人、大生部多(おおふべのおお)は虫を祀ることを村里の人に勧めて言う。
 「これはの常世の神。この神を祀るものは富と長寿を得る。」
 巫覡(かむなき)たちは、欺いて神語に託宣して言う。
 「常世の神を祀れば、貧しい人は富を得て、老いた人は若返る。」
 それでますます勧めて、民の家の財宝を捨てさせ、酒を陳列して、野菜や六畜を道のほとりに陳列し、呼んで言う。
 「新しい富が入って来た。」
 都の人も鄙の人も、常世の虫を取りて、清座に置き、歌い舞い、幸福を求め珍財を棄捨す。それで得られるものがあるわけもなく、損失がただただ極めて多くなるばかり。それで葛野(かどの)の秦造河勝は民が惑わされているのを憎み、大生部多を打つ。その巫覡たちは恐れ、勧めて祀ることを止めた。(後略)〟『日本書紀』皇極三年条

 葛野(かどの)の秦造河勝が駿河(東国の不尽河)の大生部多なる人物を討ったという記事で、その行動範囲が東国(駿河国)にまで及んでいることから、広範囲に展開する軍事集団の長のように思われます。(つづく)

(注)
①古田武彦『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。
②『常陸国風土記』多珂郡条に「石城評造部志許」の名が見える。
③『古事記 祝詞』日本思想体系、岩波書店、1958年。
④「秦造 始皇帝五世孫融通王之後也」『新撰姓氏録』左京諸蕃上。


第2891話 2022/12/09

『風姿華傳』『明宿集』

    に記された秦河勝

 「聖徳太子」の命により蜂岡寺(広隆寺)を創建したとされる秦河勝は、〝申楽(さるがく)の祖〟として世阿弥(1363-1443年)の『風姿華傳』にも名を遺しています。

〝上宮太子、天下少し障りありし時、神代・佛在所の吉例に任(せ)て六十六番の物まねを、彼河勝に仰(せ)て、同(じく)六十六番の面を御作にて、則、河勝に與へ給ふ。橘の内裏紫宸殿にて、これを懃ず。天(下)治まり、國静かなり。上宮太子、末代の爲、神楽なりしを、神といふ文字の片を除けて、旁を残し給(ふ)。是日暦の申なるが故に、申楽と名付く。すなはち、楽しみを申(す)によりてなり。又は、神楽を分くればなり。
 彼河勝、欽明・敏達・用明・崇峻・推古・上宮太子に仕へ奉る。(中略)上宮太子、守屋〔の〕逆臣を平らげ給(ひ)し時も、かの河勝が神通方便の手を掛りて、守屋は失せぬと、云々。〟『風姿華傳』(注①)

 世阿弥の娘婿の禅竹(金春禅竹、1405-1471年)が著した『明宿集』には、荒唐無稽とも思われる翁面の謂われや秦河勝の所伝が記されており、その記事の一部を紹介します。

〝昔、上宮太子ノ御時、橘ノ内裏ニシテ、猿楽舞ヲ奏スレバ、国穏ヤカニ、天下太平ナリトテ、秦ノ河勝ニ仰セテ、紫宸殿ニテ翁ヲ舞フ。ソノ時ノ御姿、御影ノゴトシ。〟
〝河勝ノ御子三人、一人ニワ武ヲ伝エ、一人ニワ伶人ヲ伝エ、一人ニワ猿楽ヲ伝フ。武芸ヲ伝エ給フ子孫、今ノ大和ノ長谷川党コレナリ。伶人ヲ伝エ給フ子孫、河内天王寺伶人根本也。コレワ、大子、唐ノ舞楽ヲ仰テナサシメ給フ。仏法最初ノ四天皇寺ニ於キテ、百廿調ノ舞ヲ舞イ初メシナリ。猿楽ノ子孫、当座円満井金春大夫也。秦氏安ヨリ、今ニ於キテ四十余代ニ及ベリ。〟
〝一、面ノ段ニ可有儀。翁ニ対シタテマツテ、鬼面ヲ当座ニ安置〔シ〕タテマツルコト、コレワ聖徳太子御作ノ面也。秦河勝ニ猿楽ノ業ヲ被仰付シ時、河勝ニ給イケル也。是則、翁一体ノ御面ナリ。(中略)マタ、河勝守屋ガ首ヲ打チタリシソノ賞功ニヨテ施シ給エル仏舎利有之。〟『明宿集』(注②)

 これらの能楽書の秦河勝記事で注目されるのが、「上宮太子、天下少し障りありし時、神代・佛在所の吉例に任(せ)て六十六番の物まねを、彼河勝に仰(せ)て、同(じく)六十六番の面を御作にて、則、河勝に與へ給ふ。」に見える「上宮太子」と「六十六番」という表記です。というのも、九州王朝の多利思北孤が支配領域の三十三国を六十六国に分国したことが、わたしたちの研究により判明しているからです(注③)。能楽書に基づいて、このテーマを詳述した正木裕さん(古田史学の会・事務局長)による優れた研究もあります(注④)。
 こうした伝承も、「蜂岡寺」(後の広隆寺)が倭国(九州王朝)下の寺院であり、秦造河勝に仏像の恭拜を命じた「皇太子」も九州王朝の多利思北孤とすることを示唆しています。従って、七世紀の京都市の廃寺群は九州王朝の進出の痕跡と考えることができます。従って、『日本書紀』はこれら廃寺(注⑤)の存在を記さなかったのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①『歌論集 能楽論集』日本古典文学大系、岩波書店、1961年。
②『世阿弥 禅竹』日本思想体系24、岩波書店、1974年。
③古賀達也「続・九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の分国」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』明石書店、2000年。
 同「『聖徳太子』による九州の分国」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
④正木裕「盗まれた分国と能楽の祖 ―聖徳太子の「六十六ヶ国分国・六十六番のものまね」と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)古田史学の会編、明石書店、2015年。
⑤北野廃寺(北区)、樫原廃寺(西京区)、北白川廃寺(左京区)、大宅廃寺(山科区)など。
 北野廃寺は北山背最古(七世紀初頭頃)の寺院で、国内でも最古級。樫原廃寺は七世紀で唯一の八角仏塔をもち、創建年代も八角殿を持つ前期難波宮(652年)と同時期。北白川廃寺は吉備池廃寺に次ぐ巨大金堂基壇を持つ。大宅廃寺の瓦は藤原宮の瓦と同范で、大宅廃寺が先行する。


第2890話 2022/12/08

『日本書紀』に記された秦造河勝

 西日本を中心とした秦氏の分布は、倭国(九州王朝)の領域拡大、たとえば〝倭の五王〟時代の東方進出(注①)や、『隋書』に見える多利思北孤時代の河内進出(注②)と六十六ヶ国分国(注③)に伴ったものではないかと推察しています。そうした秦氏の一人に、「聖徳太子」の命により蜂岡寺(京都の広隆寺とされている)を創建したと、『日本書紀』で次のように伝えられている秦造河勝(はたのみやっこ・かわかつ)がいます。

 『日本書紀』推古天皇十一年(603年)
〝十一月一日。皇太子(厩戸皇子=「聖徳太子」)、諸々の大夫に語りて言う。
 「私には尊い仏像が有る。誰かこの像を得て、恭拜せよ。」
時に秦造河勝、前に進みて言う。
 「私が拝み祭る。」
 すぐに仏像を受け取り、それで蜂岡寺を造る。〟

 この推古11年条(603年)に見える蜂岡寺が京都市右京区太秦蜂岡町にある広隆寺のこととされています。同寺の推定旧域内からは七世紀前半の飛鳥時代に遡る瓦が出土しており、考古学的にも妥当な有力説です。他方、北野廃寺(京都市北区)からも広隆寺よりも古い飛鳥時代の瓦が出土しており、その遺構を蜂岡寺と考える考古学者や研究者もあります。
 もう一つわたしが注目しているのは、皇極紀三年条に見える次の秦造河勝の記事てす。

 『日本書紀』皇極天皇三年(644年)
〝秋七月。東国の不尽河(富士川)のほとりに住む人、大生部多(おおふべのおお)は虫を祀ることを村里の人に勧めて言う。
 「これはの常世の神。この神を祀るものは富と長寿を得る。」
 巫覡(かむなき)たちは、欺いて神語に託宣して言う。
 「常世の神を祀れば、貧しい人は富を得て、老いた人は若返る。」
 それでますます勧めて、民の家の財宝を捨てさせ、酒を陳列して、野菜や六畜を道のほとりに陳列し、呼んで言う。
 「新しい富が入って来た。」
 都の人も鄙の人も、常世の虫を取りて、清座に置き、歌い舞い、幸福を求め珍財を棄捨す。それで得られるものがあるわけもなく、損失がただただ極めて多くなるばかり。それで葛野(かどの)の秦造河勝は民が惑わされているのを憎み、大生部多を打つ。その巫覡たちは恐れ、勧めて祀ることを止めた。時の人は歌を作りて言う。
 太秦(禹都麻佐)は 神とも神と 聞え来る 常世の神を 打ち懲(きた)ますも
 この虫は常に橘の木になる。あるいは曼椒(山椒)になる。その虫は長さが四寸あまり。その大きさは親指ほど。その虫の色は緑で黒い点がある。その形は、蚕に似る。〟

 これは不思議な記事です。葛野(かどの)の秦造河勝が駿河(東国の不尽河)の大生部多なる人物を討ったというもので、その理由が〝都の人も鄙の人も、常世の虫〟を崇め私財を投じていることに対する、言わば「宗教弾圧」記事です。〝常世の虫〟を都の人までもが崇めているというのですから、事実とすれば、ただならぬ事態が倭国(九州王朝)で発生していたことになります。しかも現在の京都市の豪族(葛野の秦造河勝)が駿河の豪族(大生部多)を征討したというのですから、九州王朝説の視点からすれば、倭国(九州王朝)による東国制服譚の一端と捉えなければなりません。その時代が『日本書紀』の記述の通りであれば、多利思北孤の時代ですから、都とは倭京(太宰府)のことと考えられます(注④)。
 しかしながら、『隋書』俀国伝によれば、俀国は「雖有兵無征戰(兵〈武器〉あれども、征戦なし)」とされていますので、『日本書紀』の年次をそのまま信用しても良いのか疑問が残ります(注⑤)。いずれにしても、葛野の秦造河勝は近畿天皇家ではなく、倭国(九州王朝)の臣下と考えた方がよさそうです。そうであれば、「蜂岡寺」(後の広隆寺)も倭国(九州王朝)下の寺院であり、秦造河勝に仏像の恭拜を命じた「皇太子」も九州王朝の天子である阿毎多利思北孤か太子の利歌彌多弗利のこととする仮説が成立しそうです。(つづく)

(注)
①『宋書』倭国伝の〝倭王武の上表文〟に、倭国の侵攻による支配地拡大がの様子が見える。
②冨川ケイ子「河内戦争」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
③古賀達也「続・九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の分国」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』明石書店、2000年。
 同「『聖徳太子』による九州の分国」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
④古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年6月。後に『古代に真実を求めて』12集(明石書店、2009年)に収録。
 正木裕「倭国の城塞首都『太宰府』」、「よみがえる『倭京』大宰府―南方諸島の朝貢記録の証言―」『発見された倭京 ―太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集)明石書店、2018年。
⑤日野智貴氏(古田史学の会・会員、たつの市)によれば、『日本書紀』に見える九州王朝記事は年次をずらして転用するのが常であるとのこと。


第2889話 2022/12/07

「大宝二年豊前国戸籍」の秦部氏

 『隋書』俀国伝の秦王国の位置を〝二日市市から朝倉街道を東南に向かう筑後川北岸エリア、それと杷木神籠石付近で筑後川を渡河した先の浮羽郡エリアが秦王国〟とわたしは考えており、現代の名字でも「秦」さんがうきは市に濃密分布していることに注目しています。しかしながら、明治時代に近代的な戸籍制度が施行されたとき、古来から続いた本姓を名字とすることを明治政府が禁止(注①)しているので、古代からの「秦」姓ではなく別の名字や同音の別字(注②)に置き換えて戸籍登録したと考えられ、現代の「秦」さんの分布実態がそのまま古代の「秦氏」の分布を示しているとは限りません。しかしながら、地域差もあるようで、明治政府の命令を厳格に適用した地域と、そうではなかった地域もあるようです(注③)。
 そのため、古代史料に基づいて秦氏の分布状況を調べなければなりません。たとえば、「大宝二年(702)豊前国戸籍」(注④)に「秦部」姓が多数見えることは著名です。「秦部」は秦氏の部民とされており、同戸籍には316名の「秦部」が記載されています。次の通りです。

「豊前国戸籍(大宝2年)」の秦部(注⑤)
 仲津郡丁里  217
 上三毛郡塔里  63
 加目久也里  26
 某里     10
 計  316

 この他、多くの史料中に「秦」の名が散見され、西日本を中心に各地に分布していたことがうかがえます(注⑥)。おそらく、この秦氏の分布は九州王朝(倭国)の進出に伴ったものではないかと推察していますが、その一人に、京都の広隆寺を創建したと伝えられている秦造河勝(はたのみやっこ・かわかつ)がいます。(つづく)

(注)
①管見によれば、明治政府は名字(苗字)に関わる下記の布告を発しており、この中の「姓尸(セイシ)不称令(太政官布告第534号)」が「本姓」使用禁止の布告である。
〈発布年次 太政官布告 内容〉
○明治3年(1870)9月19日 平民苗字許可令(太政官布告第608号) 平民も自由に苗字を公称できる。
○明治3年(1870)11月19日 国名・旧官名使用禁止令(太政官布告第845号) 名前に国名(例えば但馬守や阿波守)や旧官名(衛門や兵衛)の使用禁止。
○明治4年(1871)4月4日 全国統一の「戸籍法(壬申戸籍)」制定(大政官布告第170号)
○明治4年(1871)10月12日 姓尸(セイシ)不称令(太政官布告第534号) 日本人は公的に本姓を名乗ることはできない。
○明治5年(1872)5月7日 複名禁止令(太政官布告第149号) 公的な本名が一つに定まる。
○明治5年(1872)8月24日 改名禁止令(太政官布告第235号) 登録済みの苗字(約12万種)の変更と屋号の改称を禁止。
○明治8年(1875)2月13日 平民苗字必称令(太政官布告第22号) 国民はすべて苗字を公称せねばならぬ義務。
②羽田、波田など。日野智貴氏(古田史学の会・会員、たつの市)のご教示を得た。
③日野智貴「近代の本姓」古田史学リモート勉強会(2022年7月9日)で発表。
④『寧楽遺文』上巻(昭和37年版)。
⑤「みやこ町歴史民俗博物館 WEB博物館『みやこ町遺産』」による。
⑥『ウィキペディア』には次の秦氏が紹介されている。
 秦氏の系統(一覧)
○豊前秦氏 正倉院文書によると豊前国の戸籍には加自久也里、塔里(共に上三毛郡=現在の築上群)、丁里(仲津郡=現在の福岡県行橋市・京都群みやこ町付近)の秦部や氏名が横溢している。
○葛野秦氏 拠点は山城国葛野郡太秦。長岡京、平安京の遷都にも深く携わったとされる。弓月君一族の秦酒公、秦河勝、秦忌寸足長(長岡京造営長官)、太秦公忌寸宅守など。
○深草秦氏 拠点は山城国紀伊郡深草。上宮王家が所有する深草屯倉を管理経営したとされる。大蔵の財政官人を務めた秦大津父(おおつち)、秦伊侶具(伏見稲荷大社の建立)など。
○播磨秦氏 拠点は播磨国赤穂郡。平城宮出土木簡に書き残されている。風姿花伝によると秦河勝はこの地域に移住したとされる。
○近江依知秦氏 依知や近江など琵琶湖周辺が拠点。楽師なども多く輩出。太秦嶋麿、楽家として栄えた東儀、林、岡、薗家など。現在の宮内庁楽部にもその子孫が在籍する。
○若狭秦氏 若狭国は現在の福井県。塩や海産物を朝廷に多く献上した地。
○越前秦氏 坂井、丹生、足羽の越前北部を基盤とした。
○東国秦氏 駿河国、甲斐国、相模国秦野など東日本の秦氏をまとめた名称。(東海秦氏と記述されている場合もある。)
○信濃秦氏 信濃国の国司などを務め、更級郡を拠点としたとされる。
 ※主なものを掲載。年代や書物などにより名称が異なる場合がある。


第2888話 2022/12/05

『隋書』俀国伝「秦王国」の位置と意味

 北山背の渡来系氏族とされる秦氏と『隋書』俀国伝に見える秦王国とは関係があるのではないかと考えていますが、最初に秦王国についての古田説について紹介します。俀国伝の行程記事に見える秦王国の位置について古田先生は筑後川流域とされました。それは次のようです。

〝海岸の「竹斯国」に上陸したのち、内陸の「秦王国」へとすすんだ形跡が濃厚である。たとえば、今の筑紫郡から、朝倉郡へのコースが考えられよう。(「都斯麻国→一支国」が八分法では「東南」ながら、大方向(四分法)指示で「東」と書かれているように、この場合も「東」と記せられうる)
 では「秦王国」とは、何だろう。現地名の表音だろうか。否! 文字通り「秦王の国」なのである。「俀王」と同じく「秦王」といっているのだ。いや、この言い方では正確ではない。「俀王」というのは、中国(隋)側の表現であって、俀王自身は、「日出づる処の天子」を称しているのだ。つまり、中国風にみずからを「天子」と称している。その下には、当然、中国風の「――王」がいるのだ。そのような諸侯王の一つ、首都圏「竹斯国」に一番近く、その東隣に存在していたのが、この「秦王の国」ではあるまいか。筑後川流域だ。
 博多湾岸から筑後川流域へ。このコースの行く先はどこだろうか。――阿蘇山だ。〟(注①)

 筑後川流域に「秦王の国」があったとする古田説にわたしは賛成ですが、「筑後川流域」という表現ですと、久留米市や大川市も含まれてしまい、八分法で「東南」とは言いがたくなります。そこで、〝二日市市から朝倉街道を東南に向かう筑後川北岸エリア、それと杷木神籠石付近で筑後川を渡河した先の浮羽郡エリアが秦王国〟と表現した方が良いのではないでしょうか。この点、現在でも「秦(はた)」を名字とする人々が、福岡県うきは市に濃密分布していることが注目されます(注②)。しかしながら、現在の名字「秦さん」の分布をそのまま古代の「秦氏」の分布とすることは適切ではありませんので、この点は留意が必要です(注③)。
 また、「秦王」という名前は『新撰姓氏録』「左京諸蕃上」に見えます。

〝太秦公宿禰
 秦の始皇帝の三世の孫、孝武王より出づる也。(中略)大鷦鷯天皇〈諡仁徳。〉(中略)天皇詔して曰く。秦王が獻ずる所の絲綿絹帛。(後略)〟(注④)

 これは「太秦公宿禰」は秦の始皇帝の子孫とする記事で、「大鷦鷯天皇(仁徳天皇)」の時代(五世紀頃か)には「秦王」と呼ばれていたことが記されています。(つづく)

(注)
①古田武彦『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。
②「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)によれば、「秦」さんの分布は次のようである。
  人口 約29,000人
【都道府県順位】
1 福岡県(約2,900人)
2 大分県(約2,700人)
3 大阪府(約2,400人)
4 東京都(約2,200人)
5 兵庫県(約1,600人)
 【市区町村順位】
1 大分県 大分市 (約1,700人)
2 愛媛県 新居浜市(約600人)
3 島根県 出雲市 (約600人)
4 福岡県 うきは市(約500人)
5 愛媛県 西条市 (約400人)
③日野智貴氏(古田史学の会・会員、たつの市)のご教示による。本姓「秦氏」の分布調査については、別途詳述する機会を得たい。
④佐伯有清編『新撰姓氏録の研究 本文編』吉川弘文館、昭和三七年(1962年)。


第2887話 2022/12/04

よみがえる京都の飛鳥・白鳳寺院2023年 1月21日(土)

京都の秦氏と『隋書』俀国伝の秦王国

 来年1月21日(土)の新春古代史講演会のテーマと演題が次のように決まりました。

〔テーマ〕
□よみがえる京都の飛鳥・白鳳寺院
〔講師・演題〕
□高橋潔氏(京都市埋蔵文化財研究所 資料担当課長)
 京都の飛鳥・白鳳寺院 ―平安京遷都前の北山背―
□古賀達也(古田史学の会・代表)
 「聖徳太子」伝承と古代寺院の謎

 高橋氏の考古学的成果の発表を受けて、わたしからは考古学と文献史学による、京都市(北山背)の古代寺院群と九州王朝(倭国)との関係について論じる予定です。
 同講演に備えて、発掘調査報告書の精査と文献史学による京都(北山背)の研究を進めていますが、わたしが最も注目しているのは、北山背の渡来系氏族とされる秦氏の存在です。七世紀の古代寺院の造営にあたり秦氏が大きな役割をはたしたと通説では説明されているのですが、この秦氏と『隋書』俀国伝に見える秦王国とは関係があるのではないかと考えています。
 この秦氏の「秦」は、「はた」あるいは「はだ」と訓まれていますが、本来は「しん」であり、渡来後のある時期に「はた」「はだ」の訓みが与えられたとする記事が『新撰姓氏録』には見えます。従って、秦(しん)氏と秦(しん)王国は関係があるのではないでしょうか。俀国伝の行程記事に見える秦王国の位置については諸説ありますが、わたしは古田先生が推定された筑後川流域説(注)を支持しています。そして、その地に割拠した渡来系集団としての秦氏は、太宰府条坊都市の造営に貢献したのではないでしょうか。
 その秦氏の一派が倭の五王や多利思北孤の東征に伴って、北山背にも入り、当地の古代寺院群の創建に関わったとする仮説をわたしは検討しています。更には平安京造営にもその秦氏が深く関わったのではないかと考えています。(つづく)

(注)古田武彦『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。後にミネルヴァ書房より復刊。


第2886話 2022/12/01

十三弁軒丸瓦とフィボナッチ数列

 「洛中洛外日記」読者で久留米大学の公開講座にも参加されている菊池哲子さん(久留米市)から、興味深い情報を記したメールが届きました。九州王朝の十三弁菊花紋についての仮説(注①)に関する情報です。
 この十三弁紋は筑後地方から出土する軒丸瓦(注②)が十三弁蓮華紋であることとも対応しており、とても興味深いものですが、製造にあたり均等に分割しにくい十三弁にした理由が不明でした。ところが、菊池さんからのメールによれば、この13という数値は自然界によく現れるフィボナッチ数列であり、古代蓮の花弁は十三弁が基本であるとのことなのです。メールには次のような説明がありました。

 〝自然界によく表れてくる[フェボナッチ数列]というのがあり、「どんな花であっても花弁は3,5,8,13,21枚…のようになる」ことが多いとか。直前の2つの数の和が次の数となり、隣り合う数の比は限りなく黄金比に近づく…のだとか。花弁も品種で付き方に法則性があって、アサガオは1枚、ユリ3枚、サクラ5枚、コスモス8枚、キク科13・21・34・55枚など、花占いはだいたい初めから結果はわかっているそうです。13はこれだったのかなと思います。(中略)調べると古代のハスは、今の品種改良が進んだものと違い花弁が少なく、13枚が基本のようです。〟

 フィボナッチ数列とはイタリアの数学者フィボナッチ(1170~1259年頃)が紹介したもので、1・1・2・3・5・8・13・21・34・55・89・144~のように、前の2つの数字を足した数字という規則の数列です。この数値が自然界、中でも植物によく見られることは知っていましたが、まさか古代蓮が13弁だったとは知りませんでしたし、このフィボナッチ数列が九州王朝の家紋や筑後地方の十三弁蓮華紋軒丸瓦と関係するというアイデアなど思いもつきませんでした。これらが偶然の一致なのか、因果関係があるのかは分かりませんが、こうした視点にも留意して研究を進めたいと思います。菊池さんのご教示に感謝いたします。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」992話(2015/07/03)〝九州王朝の家紋「十三弁の菊」説〟
②同「洛中洛外日記」1180話(2016/05/04)〝犬塚さんから十二弁、十三弁紋の調査報告〟
 同「洛中洛外日記」1181話(2016/05/04)〝十二弁、十三弁蓮華紋瓦の調査報告〟
 同「洛中洛外日記」1188話(2016/05/16)〝十三弁花紋と五十猛命と九州王朝〟
 同「九州王朝の家紋(十三弁紋)の調査」『古田史学会報』138号、2017年