2023年03月17日一覧

第2967話 2023/03/17

異形の王都、近江大津宮

 律令制王都に必要な五つの絶対条件(注①)から見た近江大津宮(近江京)に、都として必要な巨大条坊都市が見当たらないことについて考察を続けます。
近江大津宮(近江京)に関係する重要な論文「日本国の創建」(注①)が古田先生から発表されています。これは古田先生の数ある論文の中でも非常に異質であるにもかかわらず、古田説の中での位置づけが難解で、古田学派の研究者からもほとんど注目されてきませんでした。その冒頭には次のように記されています。

「実証主義の立場では、日本国の成立は『天智十年(六七一)』である。隣国の史書がこれを証言し、日本書紀もまたこれを裏付ける。」

 これは天智十年に日本国が成立したとする仮説で、その主体は天智天皇とされています。この新説と701年に九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)へ王朝交代したとする従来の九州王朝説とが、はたして整合するのだろうかと、わたしには難解な内容でした。後に、正木裕さんの「九州王朝系近江朝」説(注②)の登場により、ようやく九州王朝説との縫合が可能になったと思われました。
また、律令制国家の一大事業である全国的戸籍(庚午年籍)の造籍が近江大津宮天皇(天智)により670年(天智九年、白鳳十年)に行われています。すなわち、「日本国の創建」も「全国的戸籍の造籍」も中央集権的な律令体制を前提としているはずですから、近江大津宮は律令制王都であると、わたしは理解してきました。ところが、今回の分析手法(注③)によれば、「巨大条坊都市の存在」という、律令制王都としての絶対条件の一つを近江大津宮は満たしていないことに気付き、愕然としたのです。
そこで、改めて当時の情勢を見たとき、九州王朝の複都、難波京(前期難波宮)が健在であることに着目しました。『日本書紀』によれば、前期難波宮は朱鳥元年(686)に焼亡していますから、天智の時代は機能していたと考えられます。前期難波宮で執務する八千人近くの官僚や、その家族・従者・商工業者・兵士ら数万人が居住する巨大条坊都市難波京が健在であったことは、考古学的にも証明されています。大阪歴博の考古学者、佐藤隆さんの「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」(注④)に次の記述があります。

「考古資料が語る事実は必ずしも『日本書紀』の物語世界とは一致しないこともある。たとえば、白雉4年(653)には中大兄皇子が飛鳥へ“還都”して、翌白雉5年(654)に孝徳天皇が失意のなかで亡くなった後、難波宮は歴史の表舞台からはほとんど消えたようになるが、実際は宮殿造営期以後の土器もかなり出土していて、整地によって開発される範囲も広がっている。それに対して飛鳥はどうなのか?」
「難波Ⅲ中段階は、先述のように前期難波宮が造営された時期の土器である。続く新段階も資料は増えてきており、整地の範囲も広がっていることなどから宮殿は機能していたと考えられる。」

 佐藤さんのこの指摘は、考古学者から発せられた本格的な『日本書紀』批判(既存の文献史学批判)であるとわたしは紹介し(注⑤)、「古田史学の会」講演会にもお招きし、講演していただきました(注⑥)。

 以上の事実を直視すれば、行政の中枢は依然として難波京(前期難波宮)にあり、従って数千人の律令制官僚群は難波で執務していたと考えざるを得ません。(つづく)

(注)
①古田武彦「日本国の創建」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、一九八七年。ミネルヴァ書房より復刻。
②正木 裕「『近江朝年号』の実在について」『古田史学会報』133号、2016年。
③古賀達也「洛中洛外日記」2966話(2023/03/16)〝律令制王都諸説の比較評価〟
④佐藤隆「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」大阪歴博『研究紀要』15号、2017年。
⑤古賀達也「洛中洛外日記」1407話(2017/05/28)〝前期難波宮の考古学と『日本書紀』の不一致〟
⑥同「洛中洛外日記」2656話(2022/01/07)〝令和四年新春古代史講演会の画期〟