2023年03月25日一覧

第2973話 2023/03/25

『大安寺伽藍縁起』の

   仲天皇と袁智天皇 (4)

 『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(天平十九年・747年作成)の「仲(なか)天皇」の場合、一連の記事中に「後岡基宮御宇天皇(斉明)」「天皇(斉明)行幸筑志朝倉宮、將崩賜時」「爾時近江宮御宇天皇(天智)」とあり、その後に「仲天皇奏〔久〕、妾〔毛〕我妋等」と仲天皇の発言記事が続きますから、この記事が斉明の最晩年の時期のものと同縁起編纂者には認識され、天智とも関係する人物とされています。こうした史料事実に基づき、仲天皇の比定について諸説出されているわけです。
他方、「袁智(おち)天皇」の記事は次のようであり、史料情況が異なります。

「宮殿二具〔一具千佛像 一具三重千佛像〕 金(泥)雜佛像參具 木葉形佛像一具 金(泥)灌佛像一具 金(泥)雜佛像三(躯) 金(泥)太子像七(躯) 金(泥)菩薩像五(躯)
合(繍)佛像參帳〔一帳高二丈二尺七寸廣二丈二尺四寸 二帳並高各二丈廣一丈八尺〕 一帳像具脇侍菩薩八部等卅六像
右袁智 天皇坐難波宮而、庚戌年冬十月始、辛亥年春三月造畢、即請者」

 奉納された仏具仏像の説明として、〝難波宮に坐す袁智天皇、庚戌年(650年)冬十月に始めて、辛亥年(651年)春三月に造り畢わる〟とあることから、恐らく通説では袁智天皇を孝徳としているはずです。というよりも、近畿天皇家一元史観ではそれ以外の候補者がいません。ちなみに、この庚戌年(650年)と辛亥年(651年)は、『日本書紀』孝徳紀の白雉元年と二年、九州年号では常色四年と五年に相当します。
この記事で注目すべきは、「袁智天皇坐難波宮」とある部分です。もし孝徳天皇であるのなら、同縁起中の他の多くの天皇表記と同様に「難波長柄豊碕宮天皇御宇」と縁起編纂者は記したはずです。また、前期難波宮(九州王朝の複都)の創建は652年壬子(『日本書紀』の白雉三年、九州年号の白雉元年)であり、庚戌年(650年)辛亥年(651年)は未完成です。従って、袁智天皇を九州王朝系の天皇と考えた場合、「坐難波宮」の理解が困難です。このことは、『日本書紀』に見えない袁智天皇を九州王朝系の天皇とする場合の克服すべき課題です。
ひとつのアイデアとしては次のようなものがあります。それは袁智天皇を、前期難波宮(難波京)造営を九州王朝から命じられた袁智(越智)国(現愛媛県)の有力者であり、九州王朝から天皇号を与えられたとする作業仮説です。その傍証として『伊予三島縁起』に見える次の記事があります(注①)。

「孝徳天皇のとき番匠の初め。常色二年戊申(648年)、日本国をご巡礼したまう。」
〔原文〕卅七代孝徳天王位 番匠初 常色二年戊申 日本国御巡礼給

  『伊予三島縁起』は九州年号史料として著名で、「端政二暦庚戌(590年)」「金光三暦壬辰(572年)」「願轉元年辛丑(601年)(注②)」「常色二年戊申(648年)」「白鳳元年辛酉(661年)」「大長九年壬子(712年)」などの九州年号が見えます。とりわけ、「大長九年壬子(712年)」は九州年号が701年の王朝交代後も続いていることを示しており、貴重です(注③)。番匠記事に続く「常色二戊申」も要注目です。前期難波宮のゴミ捨て場と見られる層位から「戊申年」木簡が出土しているからです。この年次の一致は偶然ではなく、何らかの関係を示唆するものと正木さんは指摘されています(注④)。
もし、このアイデアが当たっていれば、愛媛県西条市の字地名「紫宸殿」も袁智天皇と関係があるのかもしれません。(つづく)

(注)
①『伊予三島縁起』内閣文庫本(番号 和34769)による。齊藤政利氏(古田史学の会・会員、多摩市)から同書写真を提供していただいた。
②『二中歴』によれば願轉の元年干支は「辛酉」。「辛丑」とあるのは誤写・誤伝か。
③同じ内閣文庫の『伊豫三島明神縁起 鏡作大明神縁起 宇都宮明神類書』(番号 和42287)や五来重編『修験道資料集』所収本には「天長九年壬子(832年)」とあり、「大長」が「天長」に書き変えられている。この点、内閣文庫本(番号 和34769)が最も九州年号の原型を伝えている。大長年号については次の拙稿を参照されたい。
古賀達也「最後の九州年号 ―『大長』年号の史料批判」(『「九州年号」の研究』所収。古田史学の会編・ミネルヴァ書房、二〇一二年)
「続・最後の九州年号 ―消された隼人征討記事」同前。
「九州年号『大長』の考察」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集)、2017年。
④正木裕「前期難波宮の造営準備について」『発見された倭京 太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集)、2018年。