七世紀後半と八世紀初頭の律令の差異
4月8日(土)のリモート勉強会(注①)で発表した「七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―」では、数学や論理学の「公理」という概念を援用し、七世紀の九州王朝都城について論じました。これは、11月の八王子セミナー2023で発表予定のわたしの主要論点です(注②)。そのことを簡潔に説明したのが、次の発表要旨です。
《要旨》大宝律令で全国統治した大和朝廷の都城(藤原京)では約八千人の中央官僚が執務した。それを可能とした諸条件(官衙・都市・他)を抽出、これを七世紀の遺構に適用し、倭国(九州王朝)王都と中央官僚群の変遷を論じる。
ここで抽出した諸条件とは次の5条件(律令制王都の絶対条件)です。そして、これらを研究者が合意できる「公理」と見なしました。
《条件1》約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在。
《条件2》それら官僚と家族、従者、商工業者、首都防衛の兵士ら数万人が居住できる巨大条坊都市の存在。
《条件3》巨大条坊都市への食料・消費財の供給を可能とする生産地や遺構の存在。
《条件4》王都への大量の物資運搬(物流)を可能とする官道(山道・海道)の存在。
《条件5》関や羅城などの王都防衛施設や地勢的有利性の存在。
ここで問題となるのが、《条件1》の約八千人という中央官僚の人数は、八世紀の『養老律令』(史料事実)から導き出されたものであり(注③)、そのまま七世紀の律令制官僚の規模として援用できるのかという点です。言い換えれば、九州王朝(倭国)律令と大和朝廷(日本国)律令(大宝律令・養老律令)との差異や、王朝交代時(701年)の九州王朝と大和朝廷の統治領域の差異が大きければ、八世紀の「公理」をそのまま七世紀の律令制都城の存立条件として適用できるのかという、方法論の当否です。リモート勉強会でもこのことについて疑義が出されました。
わたしは七世紀後半の九州王朝律令と八世紀初頭の大宝律令、それに基づいて成立した養老律令とは、中央官僚群の規模は大きくは異なっておらず、王朝交代時(701年)の大義名分上の両王朝の統治領域(倭国の版図と日本国の版図)もほぼ重なっていたと考えています。この点は重要ですので、引き続き詳述します。(つづく)
(注)
①Skypeを使用した勉強会を毎月の第二土曜日の夜に開催している。
②正式名称は「古田武彦記念古代史セミナー2023」で公益財団法人大学セミナーハウスの主催。実行委員会に「古田史学の会」(冨川ケイ子氏)も参画している。今回のテーマは「倭国から日本国へ」。
③服部静尚「古代の都城 ―宮域に官僚約八千人―」『古田史学会報』136号、2016年10月。『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』(『古代に真実を求めて』21集)に収録。