2023年04月28日一覧

第3000話 2023/04/28

九州年号「大化」年間に

   編纂された「大宝律令」 (2)

 井上光貞説では、「大宝律令」の編纂開始は文武四年(697)、九州年号の大化三年からとされています。すなわち、「大宝律令」は九州王朝の時代、大化年間に編纂された言わば〝大化律令〟とでも称すべきものなのです。この理解(史実)は様々な問題を惹起します。その一例を紹介します。
『令集解』戸令には下記のように「古記同之」とあることから、古記とされた「大宝戸令」には、行政単位「郡」を採用したことがわかります。

〝凡郡以廿里以下。十六里以上。爲大郡。(中略)〔古記同之。〕〟『令集解』巻第九 戸令一(注①)。〔〕内は細注。

 これは戸令の一部ですが、「大宝戸令」編纂時の七世紀末は九州王朝が制定した行政単位「評」の時代です。ところが、ここでは既に「郡」としていますから、大化三年(697)頃、近畿天皇家は王朝交代後に「評」から「郡」に変更する意志を固めていたことがうかがえます。従って、荷札木簡などが701年以降は全国一斉に「郡」表記に変更されているという出土事実もあり、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代がほぼ平和裏に、周到な準備のもとに行われたと理解せざるを得ません。
こうした王朝交代直前の権力移行準備が九州年号「大化」年間に行われていることを考えると、この「大化」という年号の字義「大きく化す」にも注目せざるを得ません。これは王朝交代を前提にした年号かもしれません。そうであれば、「大化」への改元を実質的に決めたのは持統ら近畿天皇家だったのかもしれません。九州年号で見ると、持統の藤原宮遷都が朱鳥九年(694)十二月になされており、その翌年には「大化」へ改元しています。すなわち、大化年間の藤原宮では〝大いなる変化〟=王朝交代へとまっしぐらに突き進んでいたのではないでしょうか。
こうした推定が正しければ、大化九年の翌年(704)に九州年号は「大長」に改元されていますが、この「大長」の字義にも何かいわくがありそうです。もしかすると「大長」は、王朝交代を快く思わない九州王朝の残存勢力により、〝大いに長ず〟という希望を込めた年号だったのでしょうか。しかし、大長九年(712)で九州年号は終わりを告げています。その年に九州地方で反乱があり、大和朝廷により鎮圧された痕跡が『続日本紀』に見えます(注②)。その後も九州王朝の残影が『万葉集』などに遺されているようです(注③)。稿を改めて紹介したいと思います。(おわり)

(注)
①『国史大系 令集解 第二』吉川弘文館、昭和四九年(1974)。
②古賀達也「続・最後の九州年号 ―消された隼人征討記事」『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2012年。初出は『古田史学会報』78号、2007年。
③赤尾恭司氏(多元的古代研究会・会員、佐倉市)が「古田史学リモート勉強会(2023年4月8日)」他で、「天平時代の「筑紫」の様相…西海道節度使に関する万葉歌を手掛かりとして」を発表している。


第2999話 2023/04/28

九州年号「大化」年間に

   編纂された「大宝律令」 (1)

九州王朝律令の研究をしていて、改めて気付いたことがありました。それは、大和朝廷の最初の律令、「大宝律令」は九州王朝の時代、七世紀末に編纂されたという事実です。具体的には九州年号の大化年間(695~703年。注①)、おそらくは文武天皇即位前後の697~700年頃に撰定作業が行われたと考えられています。なお、「大宝律令」が大和朝廷にとって初めての律令であることについて、『古代は輝いていたⅢ』(注②)に古田先生による次の指摘があります。

〝その一つは、大宝元年(七〇一)に「律令を撰定す。是に於て始めて成る」(『続日本紀』文武天皇)の記事であり、その二は、「大宝元年を以て律令初めて定まる」(威奈大村骨蔵器、慶雲四年=七〇七)の金石文だ。両者そろって“七世紀以前に、近畿天皇家制定の律令なし”の事実を、率直に告白していたのである。〟(ミネルヴァ書房版、316頁)

この「大宝律令」の撰定時期について、岩波の新日本古典文学大系『続日本紀 一』(注③)では次のように説明されています。

〝井上光貞は撰定の過程を以下のように整理している(「日本律令の成立とその注釈書」『著作集』一)。大宝令の撰定事業は、文武の即位直後もしくはその少し前の立太子直後に開始され、文武四年三月以前にその編纂は終わっており、文武四年三月の(1)においてそれを朝廷官人に披露するとともに、大宝律の撰成に入り、同年六月の(2)において大宝令の編纂終了にともなう編纂者への賜禄の儀が行われた。〟(『続日本紀 一』287頁)

ここでの(1)(2)とは次の『続日本紀』の記事です。

(1)文武四年(700)三月甲子、詔諸王臣読習令文。又撰成律条。
(2)文武四年(700)六月甲午、勅浄大参刑部親王、…等、撰定律令。賜禄各有差。

「大宝令の撰定事業は、文武の即位直後もしくはその少し前の立太子直後に開始され、文武四年三月以前にその編纂は終わっており」とする井上光貞説によれば、文武立太子の持統十一年(697)二月か、即位した文武元年(697)八月の直後に大宝令の編纂が開始されており、その年は九州年号の大化三年に当たります。そして大宝律令編纂を完了したのが文武四年(700)で、これは大化六年に当たります。(つづく)

(注)
①701年の王朝交代後も九州年号「大化七年~九年(701~703年)」「大長元年~九年(704~712年)」が続いたとする次の拙稿がある。
「最後の九州年号 ―『大長』年号の史料批判」『「九州年号」の研究』、古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2012年。初出は『古田史学会報』77号、2007年。
「続・最後の九州年号 ―消された隼人征討記事」同上。初出は『古田史学会報』78号、2007年。
「九州年号の史料批判 ―『二中歴』九州年号原型論と学問の方法―」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』『古代に真実を求めて』20集、明石書店、2017年。
「九州年号『大長』の考察」同上。初出は『古田史学会報』120号、2014年。
②古田武彦『古代は輝いていたⅢ』朝日新聞社、昭和六十年(一九八五)。ミネルヴァ書房より復刻。
③新日本古典文学大系『続日本紀 一』岩波書店、1989年。