2023年05月05日一覧

第3007話 2023/05/05

『多元』No.175の紹介

友好団体「多元的古代研究会」の会誌『多元』No.175が届きました。同号には拙稿「古代貨幣の多元史観 ―和同開珎・富夲銭・無文銀銭―」を掲載していただきました。同稿は、本年一月の「多元の会」主催リモート研究会で清水淹さんが発表された「謎の銀銭」に啓発されて、投稿したものです。そのなかで、藤原宮から出土した地鎮具に9本の水晶と9枚の富夲銭が使用されていたのは、九州王朝(9本の水晶)を同じく9枚の富夲銭で封印するという、新王朝(日本国)の国家意思を表現したものとする仮説を発表しました。
当号冒頭に掲載された黒澤正延さん(日立市)の「推古朝における遣唐使(一) ―小野妹子と裴世清―」は、推古紀に見える遣唐使の小野妹子は九州王朝が派遣したとする研究です。意表を突く仮説であり、その当否はまだ判断できませんが、わたしは注目しています。今後の検証と論争が期待されます。


第3006話 2023/05/05

九州年号「大化」「大長」の原型論 (1)

五十年にも及ぶ九州年号研究において、いくつかの画期を為す進展がありました。私見では次のエポックです。

(1) 九州王朝(倭国)により公布された九州年号(倭国年号)実在説の提起(注①)。
(2) 『二中歴』「年代歴」の九州年号が最も原型に近いとする(注②)。
(3) 大和朝廷への王朝交代後(701年)も九州年号は、「大化」(695~703年)を経て「大長」(704~712年)まで続く(注③)。
(4) 九州年号「白雉元年」(652年)を示す、「元壬子年」木簡の発見(注④)。

(1)は古田先生による九州王朝説の花形分野ともいえる先駆的研究です。わたしが古田門下となって最初に挑戦したテーマがこの九州年号でした。
(2)は、その中心的課題としての九州年号の原型論(年号立て、用字)研究の成果として、『二中歴』に採録された「年代歴」冒頭部分の継体元年(517)に始まり大化六年(700)で終わる九州年号群が本来の九州年号の姿をより遺しているとする古田先生の見解です。
(3)は、九州年号の「大化」「大長」が701年を越えて続いたとする、わたしの研究です。
(4)は、芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した「三壬子年」と当初発表された木簡(『日本書紀』の「白雉三年壬子」のこととする。注⑤)の文字が実は「元壬子年」であり、九州年号の白雉元年壬子を意味する〝九州年号木簡〟であるという発見です。わたしがそのことに気づき、古田先生らと共に同木簡を実見して、「三」ではなく「元」であることを確認しました。(つづく)

(注)
①古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(一九七三)。ミネルヴァ書房より復刻。
②古田武彦「補章 九州王朝の検証」『失われた九州王朝 天皇家以前の古代史』ミネルヴァ書房、2010年。
古賀達也「九州年号の史料批判 『二中歴』九州年号原型論と学問の方法」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集)明石書店、2017年。
③古賀達也「最後の九州年号 ―『大長』年号の史料批判」『「九州年号」の研究』所収。古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年。初出は『古田史学会報』77号、2006年。
「続・最後の九州年号 ―消された隼人征討記事」『「九州年号」の研究』所収。古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年。初出は『古田史学会報』78号、2007年。
同「九州年号『大長』の考察」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集)、2017年。
同「洛中洛外日記」1516~1518話(2017/10/13~16)〝九州年号「大化」の原型論(1)~(3)〟
④古賀達也「木簡に九州年号の痕跡 「三壬子年」木簡の史料批判」『古田史学会報』74号、2006年。『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年)に収録。
古田武彦「三つの学界批判 九州年号の木簡(芦屋市)」『なかった 真実の歴史学』第二号、ミネルヴァ書房、2006年
古賀達也「『元壬子年』木簡の論理」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
⑤『木簡研究』第十九号(1997)には次のように報告されている。
「子卯丑□伺(以下欠)」
「 三壬子年□(以下欠)」
「年号で三のつく壬子年は候補として白雉三年(六五二)と宝亀三年(七七二)がある。出土した土器と年号表現の方法から勘案して前者の時期が妥当であろう。」