2023年07月一覧

第3061話 2023/07/05

『隋書』俀国伝に記された

       都の位置情報 (3)

 前話で挙げた『隋書』俀国伝に記された俀国やその都の位置認識に関する(1)~(5)の記事(注①)のなかで、(3)が重要であると指摘しました。このことについて説明します。

 (3)の記事には、俀國の都のある場所は「邪靡堆」であり、それは『三国志』魏志倭人伝に言うところの「邪馬臺」であるとする情報が記されています。それを読んだ読者は次のように認識します。

(a) 俀國とは倭人伝など歴代史書に見える倭国のことである。
(b) 現在(『隋書』編纂時、七世紀中頃)は邪靡堆を都としているが、その地は倭人伝にある女王の都「邪馬臺」(実際は邪馬壹国)のことであり、同じ位置にある。

 すなわち、俀國は中国と交流してきた日本列島の代表王朝とする歴史認識と、その都の位置は三世紀から七世紀まで変化していないとの位置認識に読者は至ります。この認識は現代の古代史学界でも同様に持たれ、大和朝廷一元史観の通説を形成する上で、重要な史料根拠となっています。それは次のような等式で表せます。

 七世紀の俀國の都「邪靡堆」=三世紀の倭国の都「邪馬臺」=その位置は畿内(考古学界多数説)=七世紀の俀國も畿内の王権=『日本書紀』に記された大和朝廷
従って中国史書も『日本書紀』も通説(一元史観)と対応しており、これは歴史事実と見なして良い。すなわち、『隋書』俀国伝は通説(邪馬台国畿内説・大和朝廷一元史観)を支持する史料根拠である。

 この一連の論理構造が一元史観という岩盤規制を支えているのですが、同時に、二番目の等式「三世紀の倭国の都「邪馬臺」=その位置は畿内(考古学界多数説)」が崩れると、一元史観という結論(不動の信念)が瓦解するという構造でもあります。そのため、学界内で「邪馬台国」九州説が発表されると、その論者に対して手厳しい批判がなされます。たとえば「邪馬台国」北部九州説を著書(注②)で発表した小澤毅氏に対して、寺崎保広氏は書評(注③)で次のように批判しています。

 「ただし、邪馬台国を論じた部分には違和感を覚えた。その所在地を巡っては膨大な研究史があるが、著者は北九州説をとるべきだと主張する。(中略)先行研究に目配りしてきた著者にしては、あまりにも簡明に断定しすぎているのではないか。近年では纏向遺跡の調査をはじめとして、邪馬台国畿内説がかなり優勢となっている状況にあって、著者のように冷静な判断力を備えた考古学者が北九州説をとるのは大いに興味深いことであり、そうであれば、邪馬台国の所在論だけで本格的な議論を展開し、ぜひそれを一書にまとめてもらいたいものである。」

 一見、学問的な批判のように見えますが、その内実は「先行研究に目配りしてきた著者にしては、あまりにも簡明に断定しすぎている」「著者のように冷静な判断力を備えた考古学者が北九州説をとるのは大いに興味深いこと」の表現からわかるように、あまり本質的な批判になっていません。従来の畿内説が妥当ではないとする著者に対して、慇懃無礼な対応(冷静な判断力で先行研究に目配りせよ)のようにも映ります。また、「邪馬台国の所在論だけで本格的な議論を展開し、ぜひそれを一書にまとめてもらいたい」と言うからには、「邪馬台国」大和説はあり得ず、北部九州説をとる関川尚功さん(注④)の著書『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』(梓書院、2020年)にも書評で応答していただきたいものです。

 関川さんは先の等式中の「三世紀の倭国の都「邪馬臺」=その位置は畿内(考古学界多数説)」が成立しないことを、大和盆地を40年以上発掘してきた考古学者として証言したものであり、それは決定的な指摘です。

 他方、古田先生は文献史学の立場から、「七世紀の俀國の都「邪靡堆」=『日本書紀』に記された大和朝廷」が成立しないことを繰り返し指摘してきたことは著名です。すなわち、次の等号否定式などを提示され、「俀国≠大和朝廷」を論証しました。

『隋書』俀国伝の多利思北孤(男性)≠『日本書紀』の推古天皇(女性)
『隋書』俀国伝の多利思北孤(天子)≠『日本書紀』の聖徳太子(摂政)

 すなわち、古田先生は一元史観の論理構造の最も〝痛いところ〟を突かれたのです。(つづく)

(注)
①『隋書』俀国伝に記された俀国やその都の位置認識の記事。
(1) 俀國在百濟新羅東南水陸三千里、於大海之中依山㠀而居。
(2) 其國境、東西五月行、南北三月行、各至於海。
(3) 都於邪靡堆。則魏志所謂邪馬臺者也。
(4) 古云、去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與儋耳相近。
(5)〔大業四年(608年)〕上遣文林郎裴清使於俀國。度百濟行至竹島南望羅國。經都斯麻國逈在大海中。又東至一支國。又至竹斯國。又東至秦王國、其人同於華夏。以爲夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸。自竹斯國以東皆附庸於俀。
俀王遣小徳阿輩臺從數百人設儀杖鳴鼓角來迎後十日。又遣大禮哥多毗從二百餘騎郊勞既至彼都。
②小澤毅『古代宮都と関連遺跡の研究』吉川弘文館、2018年。
③寺崎保広「書評 小澤毅著『古代宮都と関連遺跡の研究』」『日本歴史』2019年。
④元橿原考古学研究所の考古学者。著書『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』で、次のように指摘した。詳細は拙稿「『邪馬台国』大和説の終焉を告げる ―関川尚功著『考古学から見た邪馬台国大和説』の気概―」(『古代史の争点』2022年、明石書店)を参照されたい。
〝『魏志』に描かれているような、中国王朝と頻繁に通交を行い、また狗奴国との抗争もあるという外に開かれた活発な動きのある邪馬台国のような古代国家が、この奈良盆地の中に存在するという説については、どうにも実感がないものであった。特に、それが証明できるような遺物も、見当たらないからである。〟一~二頁
〝弥生時代後期には瀬戸内・山陰・北陸など、その中でも特に西日本地域では、丘陵上に築かれる各種大型の墳丘墓が発達することはよく知られている。しかし、大和地域ではこのような、大型墳丘墓については未だに確認されないばかりか、墳丘墓自体がほとんどみられず、むしろ、その空白地帯といえるのである。(中略)
さらに、方形周溝墓などを含めた弥生墳墓全体をみても、副葬品はほぼ皆無という状態である。〟三二~三三頁
〝最も重視されるべき直接的な対外交流を示すような大陸系遺物、特に中国製青銅製品の存在は、ほとんど確認することができない。このことは弥生時代を通じて、大和の遺跡には北部九州、さらには大陸地域との交流関係をもつという伝統自体が、存在しないことを明確に示しているといえよう。
また、鉄器の出土も周辺地域に比べるとかなり少量であり、青銅器自体の出土や、その生産遺跡も近畿の中で特に多いということはない。〟六七頁
〝大和の弥生時代では、今のところ首長墓が確認されてないこともあり、墳墓出土の銅鏡は皆無である。特に中国鏡自体の出土がほとんどみられないことは、もともと大和には鏡の保有という伝統がないことを示している。(中略)
このような大和の銅鐸や銅鏡が示す実態からも、大和と邪馬台国との接点を見出すことはできないのである。〟六九~七一頁
〝今日までの長い調査歴にもかかわらず、大和地域では、未だに大型前方後円墳に連続するような、弥生時代以来の首長墓の存在は不明確な状況にある。
その一方で、北部九州や吉備・山陰・北陸などでは、多くの副葬品を保有する、あるいは大型の墳丘をもつような墳墓などから、弥生時代の有力首長墓の存在はすでに明らかになっているのである。(中略)考古学的にみると大和においては古墳を出現させうるような勢力基盤が認め難いという事実こそが、明らかに邪馬台国大和説が成立しえないことを示しているといえよう。〟一四一~一四二頁


第3060話 2023/07/03

『隋書』俀国伝に記された

     都の位置情報 (2)

 『隋書』俀国伝などの中国正史の夷蛮伝を読む際に留意すべき事があります。それは、想定された第一読者が、史書編纂時の王朝の天子であることです。『隋書』の場合は唐の天子(第三代高宗)です。従って他国の歴史の専門家でもない天子が読んで、普通に理解できる文章で書かれているはずです。

 次に大切なことが、読者は俀国伝を初めから読み始め、俀国に対する認識を構成するということです。これはフィロロギーという学問(注①)に於いて重要な視点で、当時の読者が史書から得た認識を、現代の研究者が同じように辿り、同じように再認識するための大切な留意点といえます。これらのことを踏まえた上で、『隋書』俀国伝に記された俀国やその都の位置情報を記載順にピックアップします。次の通りです。論者によっては訳が異なる場合がありますので、まずは関連部分を原文で紹介します。

(1) 俀國在百濟新羅東南水陸三千里、於大海之中依山㠀而居。
(2) 其國境、東西五月行、南北三月行、各至於海。
(3) 都於邪靡堆。則魏志所謂邪馬臺者也。
(4) 古云、去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與儋耳相近。
(5)〔大業四年(608年)〕上遣文林郎裴清使於俀國。度百濟行至竹島南望羅國。經都斯麻國逈在大海中。又東至一支國。又至竹斯國。又東至秦王國、其人同於華夏。以爲夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸。自竹斯國以東皆附庸於俀。
俀王遣小徳阿輩臺從數百人設儀杖鳴鼓角來迎後十日。又遣大禮哥多毗從二百餘騎郊勞既至彼都。

 上記をまず簡単に説明します。(1)は俀國が百濟・新羅の東南方向の水陸三千里先にあり、大海中の島国であるとしています。(2)は、その国の規模が「東西五月行、南北三月行」であり、それぞれ海に至るとあります。これは(1)の大海中の島国とする記事に整合しています。この二つの記事を読んだ当時の読者は、〝俀國は朝鮮半島から三千里先の東南方向にある大きな島国〟であると認識したことでしょう。

 (3)では、俀國の歴史と都の位置情報が具体的に紹介されます。都のある場所は「邪靡堆」であり、それは『三国志』魏志倭人伝に言うところの「邪馬臺」であると説明します。倭人伝には「邪馬壹国」とあり、この「邪馬臺」は五世紀に成立した『後漢書』倭伝の「その大倭王は邪馬臺国に居す」に基づいたものと思われます。この位置情報は重要で、この記事を読んだ読者は次の認識に至ったはずです。

(a) 俀國とは倭人伝など歴代史書に見える倭国のことである。
(b) 現在(『隋書』編纂時)は邪靡堆を都としているが、その地は倭人伝にある女王の都「邪馬臺」(実際は邪馬壹国)のことであり、同じ位置にある。

 すなわち、俀國は古くから中国と交流した日本列島の代表王朝であるとの歴史認識と、その都の位置は三世紀(『三国志』編纂時)から七世紀(『隋書』編纂時)まで変化していないとの位置認識に至ったことでしょう。この(3)の情報は重要ですので後述します。そしてこの認識を(4)の記事で読者は再確認します。すなわち、「古に云う」として俀國の位置情報「去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與儋耳相近。」が記され、俀國が倭人伝や『後漢書』等に記された古の倭国であることが示されます(注②)。

 ここまでが、俀國伝の冒頭にある俀國の概要が記された部分です。そして、(5)の俀國と隋との具体的な国交記事へと移るわけですが、読者は(1)~(4)までを読んで得た基本認識に基づいて、(5)の具体的な行程記事(国交記事)を読むことになります。従って、(5)の行程記事は読者が抱いた基本認識に基づいて、あるいは基本認識と矛盾しない読み方(理解)を現代の読者(研究者)はしなければなりません。これは、わたしが古田先生から学んだ文献史学やフィロロギーの基本姿勢(学問の方法)です。(つづく)

(注)
①〝人間が認識したことを再認識する〟という学問。ドイツのアウグスト・ベークが提唱し、村岡典嗣氏が日本に紹介した。文献を対象とした狭義の訳として、文献学と称されることもある。
②『三国志』倭人伝に次の記事が見える。
「自郡至女王國、萬二千餘里。」「計其道里、當在會稽東冶之東。」「所有無、與儋耳朱崖同。」
『後漢書』倭伝には次の記事が見える。
「楽浪郡徼去其國萬二千里」「其地大較在會稽東冶之東、與朱崖儋耳相近故其法俗多同。」


第3059話 2023/07/02

『隋書』俀国伝に記された

    都の位置情報 (1)

 『多元』176号に掲載された八木橋誠さんの論稿「倭国の漢字 ―音読みを探る―」に、『隋書』俀国伝に記された俀国の都の位置に関して、次の見解が示されていました。

〝隋帝が裴清を『俀国に使せしむ』という派遣記事は倭国の都が目的地となるので、その後は壱岐島を経て博多に上陸、盛大な歓迎セレモニーを受けて目的地に(ママ。「到着」が脱落か)したことで長安からの行程は終わるのである。(中略)ところが多元の古代史会議でも未だに裴清が大阪まで赴いたという主張に固執する先学がいて、思い込み持論を展開し、通説と相通じているようにも思える。本文では九州上陸後に「海を渡る」との表現はないので九州島に留まっていたことになるだろう。どこにも「海」や難波津の字もない。仮に瀬戸内海を渡ったとすれば、難波までは途中停泊しながら7~8日要するなど長い航海になる訳であるから、瀬戸内海の島々の描写や各停泊港の様子が全く書かれていないことは有り得ないことではないだろうか。〟

 「多元的古代研究会」や「古田史学の会」では、『隋書』俀国伝の都の位置や都への行程記事について諸説が発表されており、論争が続いています。学問は批判を歓迎し、真摯で誠実な論争は研究を深化させます。わたしは古田説(注①)を支持していますが、古田先生も行程や位置の詳細については断定されていませんし、自説の修正も行われていますので、未だ検討途中のテーマということもできます。

 学問論争であれば、いずれ真実に向かって論議が最有力説に収斂しますが、その前提として諸説の根拠となる俀国伝の史料事実を正確に把握することが必要です。なかでも論点となっている都の位置については、どのような位置情報が記載されているのかが決め手となります。そこで、当論争テーマに関わる位置情報について、改めて精査することにします。

 なお、ここでいう「位置情報」とは『隋書』成立時点(注②)での中国側の認識を意味しており、それが現代日本人の地図情報や歴史認識、あるいは『日本書紀』の記述と一致しているかどうかとは一応別問題です。まずはこの点を峻別して論じるのが、文献史学やフィロロギー(注③)という学問領域の基本姿勢です。(つづく)

(注)
①古田武彦『邪馬一国の証明』ミネルヴァ書房版、265頁に次のように記されている。
〝「対馬国→一支国→竹斯国→秦王国」と進んできた行路記事を、まだここにとどめず、先(軽率なルート比定)の(B)の「又十余国を経て海岸に達す」につづけ、この一文に“瀬戸内海行路と大阪湾到着”を“読みこもう”としていたのである。
しかし、本質的にこれは無理だ。なぜなら、
①今まで地名(固有名詞)を書いてきたのに、ここには「難波」等の地名(固有名詞)が全くない。
②九州北岸・瀬戸内海岸と、いずれも、海岸沿いだ。それなのに、その終着点のことを「海岸に達す」と表現するだけでは、およそナンセンスとしか言いようがない。
ことに①の点は決定的だ。裴世清の「主線行路」は、先の「対馬――秦王国」という地名(固有名詞)表記部分で、まさに終了しているのだ。これに対して、(B)(「十余国」表記)は、地形上の補足説明(傍線行路)にすぎないのだ。だから地名(固有名詞)が書かれていないのである。後代人の主観的な“読みこみ”を斥け、文面自体を客観的に処理する限り、このように解読する以外、道はない。〟
②『隋書』は本紀五巻・志三十巻・列伝五十巻からなる。唐の魏徴と長孫無忌らが太宗の勅を奉じて編纂した。第三代高宗の顕慶元年(656)に完成した。九州王朝の時代に九州王朝(倭国)のことを記した俀国伝は同時代史料であり、九州王朝研究にとって貴重である。
③〝人間が認識したことを再認識する〟という学問。ドイツのアウグスト・ベークが提唱し、村岡典嗣氏が日本に紹介した。文献を対象とした狭義の訳として、文献学と称されることもある。


第3058話 2023/07/01

『多元』No.176の紹介

友好団体「多元的古代研究会」の会誌『多元』No.176が届きました。同号には拙稿「七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―」を掲載していただきました。同稿は、本年11月の八王子セミナーで発表予定の〝律令制都城の絶対条件〟という研究テーマ(注①)を、本年三月の「多元の会」月例会で先行発表した内容を論文化したものです。月例会で出された批判や疑問などを参考にして、八王子セミナーでの発表に活かしたいと考えています。
当号冒頭に掲載された八木橋誠さん(黒石市)の「倭国の漢字 ―音読みを探る―」は、倭人伝や『隋書』俀国伝の国名・地名表記が倭国側で成立したものとされ、その漢字使用の経緯や上古音・中古音について詳述した労作で、刺激を受けました。個別の論点では見解がわかれるケースもあるのですが、倭語(地名・人名など)の漢字による表記を論じる上で貴重な研究と思われました。20年ほど前に、わたしも上古音の復元や倭人伝の音韻について論争したことがあり(注②)、当時の研究を思い起こしました。

(注)
①次の「洛中洛外日記」などで提起した。
古賀達也「洛中洛外日記」2963話(2023/03/13)〝七世紀の九州王朝都城の“絶対条件”〟
同「洛中洛外日記」2964話(2023/03/14)〝七世紀、律令制王都の有資格都市〟
同「洛中洛外日記」2965話(2023/03/15)〝律令制王都の先駆け、倭京(太宰府)〟
同「洛中洛外日記」2966話(2023/03/16)〝律令制王都諸説の比較評価〟
同「洛中洛外日記」2967話(2023/03/17)〝異形の王都、近江大津宮〟
同「洛中洛外日記」2970話(2023/03/20)〝続・異形の王都、近江大津宮〟
②内倉武久「漢音と呉音」『古田史学会報』100号、2010年。
古賀達也「『漢代の音韻』と『日本漢音』―内倉武久氏の「漢音と呉音」に誤謬と誤断―」『古田史学会報』101号、2010年。
内倉武久「魏志倭人伝の読みに関する「古賀反論」について」『古田史学会報』103号、2011年。
古賀達也「再び内倉氏の誤論誤断を質す ―中国古代音韻の理解について―」『古田史学会報』104号、2011年。
内倉武久「反論になっていない古賀氏の『反論』」『古田史学会報』106号、2011年。
古賀達也「倭人伝の音韻は南朝系呉音 ―内倉氏との「論争」を終えて―」『古田史学会報』109号、2012年。