2023年11月19日一覧

第3161話 2023/11/19

藤原京と太宰府の朱雀大路

 八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2023)での発表時間が30分でしたので、藤原京造営主体についての研究結果を詳述できませんでした。そこで、「洛中洛外日記」で説明することにします。

 セッションⅡ〝遺構に見る「倭国から日本国へ」〟の司会をされた橘高修さん(東京古田会・副会長)のご配慮により、論点整理が事前に届き、問題意識を共有することができました。提示された三つの論点(注①)についての私見を橘高さんに返信しました。なかでも《論点Ⅲ》はパネルディスカッションでの中心テーマでしたので、わたしも再検討を続け、下記のような私見(1)(2)(3)をまとめました。

《論点Ⅲ》先行条坊は何のために造られたか?造ったのは倭国か天武かそれとも・・?
(1) 藤原京整地層出土土器編年(須恵器坏B出土)と藤原宮下層出土の井戸ヒノキ板の年輪年代測定(682年伐採)などから天武期の造営とするのが最有力。
(2) 飛鳥池出土の「天皇」・(天武の子供たち)「大津皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」・「詔」木簡により、天皇と皇子を称し、「詔」を発していた天武ら(近畿天皇家、後の大和朝廷)による造営とするのが妥当。その他の勢力によるとできるエビデンスはない。
(3) これらの史料事実に基づけば、王朝交代の準備として天武・持統らが全国統治のために造営したとする理解が最も穏当である。

 出土事実に基づく限り、以上の考察が最有力と思われますが、もう一つ重要な考古学的エビデンスとして〝朱雀大路の幅〟がありました。「洛中洛外日記」(注②)でも指摘しましたが、難波京・太宰府(倭京)・藤原京・平城京の朱雀大路幅についての比較・考察です。

【前期難波宮道路幅】(652年創建) 側溝芯々間距離
▷朱雀大路幅 約33m ※時期(前期か後期か)についてはまだ絞り込めていないようなので、今のところ参考値に留まるが、前期難波宮の時代に朱雀大路は存在していたと考えられている。
【大宰府政庁Ⅱ期道路幅】(670年頃創建。通説は八世紀初頭)
▷朱雀大路(路面幅)約36m (側溝芯々間)約37.8m
【藤原京道路幅】(694年遷都) 側溝芯々間距離
▷朱雀大路 24m
【平城京道路幅】(710年遷都)
▷朱雀大路 約75m

 この四つの都城の朱雀大路を比較すると、藤原京は難波京よりも太宰府政庁Ⅱ期よりも規模が小さいことが注目されます。これは何とも説明しにくい出土事実です。すなわち、九州王朝の東西の都城(難波京・太宰府倭京)よりも小さいことは、701年の王朝交代に先だって造営された藤原京が、天武・持統ら大和朝廷のために造営されたとしても、あるいは九州王朝の天子のために造営されたとしても、その理由(動機)が説明しにくいのです。

 今のところ、わたしは次のように推察しています。天武らが造営した藤原京は、王朝交代以前(九州王朝の時代)の王宮であったため、九州王朝の天子の王都よりも朱雀大路を小規模にせざるを得なかったが、王朝交代後に造営した平城京では、誰はばかることなく最大規模(太宰府の二倍)の朱雀大路を造営したのではないでしょうか。他に、もっと良い推察が可能かもしれませんので、断定は控えますが、九州王朝が自らの天子のために藤原京を造営したとする仮説では、この朱雀大路がかなり小規模という出土事実の説明が困難なように思います。ちなみに、長谷田土壇のある右郭二坊大路の幅は約16mであり、朱雀大路(24m)よりも更に小規模です。

(注)
①橘高氏からは次の三点が提示された。
《論点Ⅰ》7世紀前半における倭国と日本国の関係:従属関係か並列関係か
《論点Ⅱ》倭国の近畿進出はあったか? あったとすればいつ頃か?
《論点Ⅲ》先行条坊は何のために造られたか? 造ったのは倭国か天武かそれとも・・?
②古賀達也「洛中洛外日記」3138話(2023/10/17)〝七世紀の都城の朱雀大路の幅〟

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8,古代史セミナー2023セッション Ⅱ
遺構に見る「倭国から日本国へ」 次第 古賀達也
 
解説

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