律令に遺る多元的「天皇」号 (3)
九州王朝時代の七世紀において、九州王朝の天子の下に複数の「天皇」が併存したと考えているのですが、大和朝廷の律令にもその痕跡が遺っていることに気づきました。『養老律令』儀制令の次の条文中に見える「太上天皇」です(注①)。
『養老律令』儀制令 天子条
天子。祭祀に称する所。
天皇。詔書に称する所。
皇帝。華夷に称する所。
陛下。上表に称する所。 太上天皇。譲位の帝に称する所。 乗輿。服御に称する所。 車駕。行幸に称する所。
大和朝廷において、天子・天皇・皇帝・陛下の使い分けを規定した条文です。そこには、譲位した天皇に「太上天皇」という天皇号の使用を認めています。しかし、「太上天子」や「太上皇帝」「太上陛下」という使用は定めず、天皇号にのみ「太上天皇」を認めているのです。すなわち、譲位された天皇と譲位した太上天皇という、複数の「天皇」の併存を律令で想定しているのです。これは不思議な規定であり、七世紀における複数の天皇の併存、すなわち「天皇」は複数いてもよいという政治思想を背景を持つことによるのではないでしょうか。
ちなみに唐の儀式書『大唐開元礼』(732年成立)には次の規定があります。
『大唐開元礼』巻三、「序例、雑制」
「皇帝。天子。夷夏通じて之を称す。 陛下。対揚咫尺上表通じて之を称す。 至尊。臣下内外を通じて之を称す。 乘輿。服御称するところ。 車駕。行幸称するところ。」
『養老律令』儀制令に似ていますが、決定的に異なるのは、唐では最高権力者としての皇帝・天子はただ一人で、譲位した前皇帝は〝凡人〟となります。比べて『養老律令』では、太上天皇として権力の座に留まります。後代には、上皇として〝院政〟を行い、ときに天皇を超える権力者として振る舞うこともありました。これはわが国の特徴的な制度であり(注②)、七世紀における九州王朝下の〝天子の臣下としての多元的「天皇」の併存〟に淵源を持つものと思われるのです。
更に、『大唐開元礼』「序例、雑制」には見えない天皇号の規定を持つことや、皇帝ではなく天子を冒頭に置き、その役割を「祭祀に称する所」に限定していることも注目されます。この点についても検討を続けたいと思います。(おわり)
(注)
①『養老律令』儀制令 天子條【原文】
天子。祭祀所稱。
天皇。詔書所稱。
皇帝。華夷所稱。
陛下。上表所稱。 太上天皇。讓位帝所稱。 乘輿。服御所稱。 車駕。行幸所稱。
②滝川政次郎『律令の研究』(昭和六年、1931年)に同様の指摘があり、本稿執筆に当たり示唆を受けた。