2024年03月20日一覧

第3253話 2024/03/20

鶴岡八幡宮の神社本庁離脱に思う (1)

 鎌倉市の鶴岡八幡宮が神社本庁から離脱するというニュースに接しました。何年か前にも四国の金刀比羅宮も離脱したと記憶しており、神社界に何か大きな異変が起きているようです。個別の事情にはあまり関心はありませんが、日本思想史という学問領域の視点からすれば、日本人の価値観や倫理観、精神の美意識の変化が根底にあるようにも思われます。巷に言われている〝今だけ、金だけ、自分だけ〟という近年流行の思想が神社界にも影響しているのかもしれません。

 〝今だけ、金だけ、自分だけ〟という思想の対局にあったのが古田先生の学問精神であり、美意識でした。先生は物事や事象を歴史的に俯瞰されていましたし、お金に執着される姿をわたしは見たことがありません。そして何(自分)よりも真実と学問を大切にされていました。「学問を曲げるくらいなら、千回殺された方がましだ」とも仰っていました(注①)。

 わたしは鶴岡八幡宮には少々御縁がありました。若い頃、日蓮遺文の研究を行い、「日蓮の古代年号観」という論文を書いたことがあったからです(注②)。そのとき、膨大な日蓮遺文を何度も読み、年号に関する記事を検索しました。今でこそWEBで簡単に検索できますが、当時は会社が休みの日に図書館にこもって何時間も読み続けるしかありませんでした。36歳のときのことで、体力と集中力がありましたので、そうした無茶な調査研究も可能でした。そのとき読んだ「諫暁八幡抄(かんぎょうはちまんしょう)」という日蓮遺文がとても印象的で、強く記憶に残っていました。

 文永八年(1271年)、鎌倉幕府に捕えられた日蓮が龍ノ口の刑場に引かれる途中、鶴岡八幡の前で「法華経の行者を守護すべき八幡菩薩よ、何故日蓮を護らぬのか」と大声で叱った事件について、後に日蓮が認めたのが「諫暁八幡抄」です(注③)。弟子等により伝えられた有名な遺文です。このとき、刑場にひかれる日蓮を乗せた馬の手綱をとったのは弟子の四条金吾と伝えられており、日蓮の突然の「諫暁」に金吾も驚いたことと思いますが、それ以上に驚いたのが叱られた八幡菩薩ではないでしょうか。結果としては、〝光り物〟の出現に、刑場の役人は恐れおののき、頸を刎ねることができず、日蓮は佐渡に流罪となりました。ちなみに、和田家文書にもこの事件「龍ノ口の法難」に触れた興味深い記事があります。(つづく)

(注)
①和田家文書偽作キャンペーンの中心的人物の一人であるS記者の取材を青森で受けられたとき、古田先生は東日流外三郡誌が偽書ではないことを説明し、「わたしは嘘をついていない。真実と学問を曲げるくらいなら、千回殺された方がましだ」と言われたことを、同席したわたしは聞いている。
②古賀達也「日蓮の古代年号観」『市民の古代』14集所収、新泉社、1992年。
③弘安三年(1280年)、日蓮59歳のときの撰述。真筆は静岡県富士大石寺所蔵(欠失あり)。