第2784話 2022/07/10

「九州年号金石文の紹介」の準備

 古田史学の勉強のため、リモートで遠方の研究者や若い研究者との意見交換を続けていますが、来月はわたしから九州年号金石文の紹介をさせていただく予定です。その為の資料作りを進めています。今まで発表していなかった金石文や行方不明になっている史料も網羅した、総合的な資料にしたいと考えています。また、金石文ではありませんが、「九州年号」部分が空白となっている干支木簡についても、複数紹介する予定です。
 あわせて、後代造作「九州年号」金石文も資料に加えようと、過去の論稿や写真を書棚から探していますが、なかなか見つからずに難儀しています。その一例として、八年前に「洛中洛外日記」(注①)で紹介した「大化元年」石文の資料がようやく見つかりました。それは、豊国覚堂「多野郡平井村雑記(上)」(注②)に掲載された「大化元年の石文」の報告です。

〝大化元年の石文
 又富田家には屯倉の遺址から掘出したと称する石灰岩質の牡丹餅形の極めて不格好の石に「大化元乙巳天、□神王命」と二行に陰刻した石文がある。神王の上に大か天か不明の一字があつて、其左方より上部は少しく缺損して居るが――見る所随分ふるそうなものである、併し大化の頃、果して斯る石文があつたものか、或は後世の擬刻か、容易には信じられない、又同所附近よりは赤土素焼の瓶をも発掘したと聞いたが未だ實物は一覧しない。〟

 掲載された拓本によると、陰刻文字は「大化元巳天 文神王命」とわたしには見えます。元年干支が「巳」とあり、これは『日本書紀』の「大化元年乙巳」(645年)と一致しますから、この石文は『日本書紀』成立以後に作成された後代造作「九州年号」金石文と思われます。ちなみに、本来の九州年号「大化元年」(695年)の干支は乙未です。
 下山昌孝さん(多元的古代研究会・元事務局長、故人)に同石文の所在調査をお願いしていたのですが、その調査結果を記したお手紙(2000年8月)も見つかりました。それによると、多野郡平井村は現・藤岡市に属し、所蔵されている富田家に問い合わされたところ、同家はこの石文のことをご存じなかったとのこと。富山家は倉を持つ旧家で、藤岡市教育委員会が同家所有古文書の目録を作成中とお手紙にはありましたから、現在では完成しているのではないでしょうか。
 今日まで35年間、古田史学を支持する全国の方々のご協力を得て、情報収集や調査研究を進めてきましたので、わたしの記憶と体力が確かなうちに、書棚のどこかに眠っている資料の探索と整理(デジタルデータ化)を行い、「洛中洛外日記」やFaceBook、リモート勉強会などで紹介していきたいと思います。古田先生亡き後、この仕事はわたしの大切なライフワークの一つです。

(注)
①「洛中洛外日記」816話(2014/11/02)〝後代「九州年号」金石文の紹介〟
②豊国覚堂「多野郡平井村雑記(上)」『上毛及上毛人』61号、大正11年。

フォローする