倭国(九州王朝)の天子と蝦夷国の参仏理大臣
羽黒山を開山したと「勝照四年」棟札(注①)に記された「能除大師」は「参仏理大臣(みふりのおとど)」という名前でも伝承されています(注②)。わたしはこの能除の別称に「大臣」という官職名が付いていることが気になっていました。「勝照四年」(588年)の頃ですから、羽黒山は蝦夷国内と思われ、それであれば能除は蝦夷国の大臣だったのだろうか、あるいは倭国(九州王朝)の大臣が布教のために蝦夷国内の出羽に派遣されたのだろうかと考えあぐねていたのです。ところが意外なことから決着が付きました。
「洛中洛外日記」で連載した蝦夷関連の拙稿を読み返していたら、次のことを既にわたしは書いていました。それは「洛中洛外日記」2391話(2021/02/25)〝「蝦夷国」を考究する(8) ―多利思北孤の時代の蝦夷国―〟で紹介した次の『日本書紀』の記事でした。
○『日本書紀』敏達十年(581年)閏二月条
十年の春閏二月に、蝦夷数千、邊境に冦(あたな)ふ。
是に由りて、其の魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)等を召して、〔魁帥は、大毛人なり。〕詔(みことのり)して曰はく、「惟(おもひみ)るに、儞(おれ)蝦夷を、大足彦天皇の世に、殺すべき者は斬(ころ)し、原(ゆる)すべき者は赦(ゆる)す。今朕(われ)、彼(そ)の前の例に遵(したが)ひて、元悪を誅(ころ)さむとす」とのたまふ。
是(ここ)に綾糟等、懼然(おぢかしこま)り恐懼(かしこ)みて、乃(すなわ)ち泊瀬の中流に下て、三諸岳に面(むか)ひて、水を歃(すす)りて盟(ちか)ひて曰(もう)さく、「臣等蝦夷、今より以後子子孫孫、〔古語に生兒八十綿連(うみのこのやそつづき)といふ。〕清(いさぎよ)き明(あきらけ)き心を用て、天闕(みかど)に事(つか)へ奉(まつ)らむ。臣等、若(も)し盟に違はば、天地の諸神及び天皇の霊、臣が種(つぎ)を絶滅(た)えむ」とまうす。
この記事は三段からなっており、一段目は蝦夷国と倭国との国境付近で蝦夷の暴動が発生したこと、二段目は、倭国の天子が蝦夷国のリーダーとおぼしき人物、魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)等を呼びつけて、「大足彦天皇(景行)」の時のように征討軍を派遣するぞと恫喝し、三段目では、綾糟等は詫びて、これまで通り「臣」として服従することを盟約した、という内容です。
すなわち、綾糟らは自らを倭国(九州王朝)の「臣」と称し、倭国(九州王朝)と蝦夷国は、「天子」とその「臣」という形式をとっていることを現しています。これは倭国(九州王朝)を中心とする日本版中華思想として、蝦夷国を冊封していたのかもしれません。従って、能除の別称が「参仏理大臣」であることは、この『日本書紀』の記述通りであり、倭国の臣下として蝦夷国の有力者であろう能除の別称としてふさわしいのです。
敏達十年(581年、九州年号の鏡當元年)は能除による羽黒山開山「勝照四年」(588年)の七年前であり、時期的にも対応しています。こうして、倭国(九州王朝)と蝦夷国との歴史が一つ明らかになったと思われます。ちなみに、『拾塊集』(注③)には「能除太子者崇峻天皇之子也」とあり、没年月日を「舒明天皇十三年(641年)八月二十日」(九州年号の命長二年)としています。
(注)
①『社寺の国宝・重文建造物等 棟札銘文集成 ―東北編―』国立歴史民俗博物館、平成九年(1997)。表面に次の記載がある。
「出羽大泉荘羽黒寂光寺
(中略)
羽黒開山能除大師勝照四年戊申
慶長十一稔丙午迄千十九年」
②「出羽三山史年表(戸川安章編)」(『山岳宗教史研究叢書5 出羽三山と東北修験の研究』昭和50年(1975)、名著出版)によれば、能除の別称を「参弗理大臣」とする。
『出羽国羽黒山建立之次第』(同)には「崇峻天皇の第三の御子、(中略)名を参弗梨の大臣と号し上(たてまつ)る。」とある。
③『拾塊集』(著者・成立年代ともに不明)『山岳宗教史研究叢書5 出羽三山と東北修験の研究』昭和50年(1975)、名著出版。