大雨警報下の久留米大学公開講座
本日は一年ぶりに久留米大学公開講座(御井キャンパス)で講演させていただきました(注①)。数日前から続く大雨で山陽新幹線が運休しそうでしたので、前日から福岡入りし、大野城市の弟の家に泊めてもらいました。午前中には山陽新幹線(広島博多間)が止まりましたので、この判断は良かったようです。心配された正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からはお電話をいただきました。わたしからは久留米大学の福山先生にお電話し、前日から福岡に着いていることをお知らせし、公開講座が予定通り開催されるのかを確認したところ、金曜日に大学側で検討した結果、大雨のピークは過ぎるだろうとの判断で開催するとのことでした。
福岡県内各地は大雨警報下でしたが、熱心な受講者約40名ほどが参加されました。そして、大雨の中、参加していただいたお礼に急遽追加したテーマ「吉野ヶ里出土石棺、被葬者の行方」を後半30分に発表しました。このタイミングで久留米まで来て、吉野ヶ里出土石棺について触れなければ、古田史学の名折れですので、石棺から被葬者や副葬品が出なかったことは学問的に重要な意味を持ち、新たな学問研究がその出土事実から始まると、その意義を説明しました(注②)。
「古田史学の会」書籍担当の仕事として、過剰在庫になっていた『俾弥呼と邪馬壹国』を数冊持ち込んだのですが、中村秀美さん(古田史学の会・会員、長崎市)や菊池哲子さん(久留米市)のご協力もいただき、おかげさまで完売できました。終了後は福山先生・中村さん・菊池さんと久留米の居酒屋で懇親会を行い、大雨警報下での楽しい一日を過ごすことができました。ありがとうございます。
(注)
①演題は「京都(北山背)に進出した九州王朝 ―『隋書』俀国伝の秦王国と太秦氏―」。同レジュメを本稿末尾に転載した。
②古賀達也「洛中洛外日記」3034話(2023/06/07)〝吉野ヶ里出土石棺墓が示唆すること (1) ―吉野ヶ里の日吉神社と須玖岡本の熊野神社―〟
同「洛中洛外日記」3035話(2023/06/08)〝吉野ヶ里出土石棺墓が示唆すること (2) ―蓋裏面に刻まれた「×」印―〟
同「洛中洛外日記」3047話(2023/06/20)〝吉野ヶ里出土石棺、被葬者の行方 (1)〟
同「洛中洛外日記」3049話(2023/06/22)〝吉野ヶ里出土石棺、被葬者の行方 (2) ―〝被葬者・副葬品不在墓〟の論理―〟
【転載 久留米大学公開講座レジュメ】
京都(北山背)に進出した九州王朝
―『隋書』俀国伝の秦王国と太秦氏―
古賀達也(古田史学の会・代表)
九州王朝史(倭国興亡の歴史)を概観する際の基本史料として歴代中国史書がある。なかでも『宋書』倭国伝に見える倭王武の上表文は倭国の軍事侵攻について触れており、注目されてきた。他方、『日本書紀』にも神武東征記事や景行紀に「東山道都督」記事が見え、これらは九州王朝(倭国)の東国侵攻の痕跡と思われる。
「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」『宋書』倭国伝
「彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。」『日本書紀』景行天皇五五年条
こうした九州王朝による東方侵攻が史実であれば、その痕跡や伝承が各地に遺されているはずである。そこで文献や考古学的出土事実を精査したところ、京都市(北山背)の古代寺院遺構の造営を担ったとされる秦(はた)氏は、『隋書』俀国伝に見える秦王国出身の有力氏族であり、九州王朝の軍事氏族とする理解に至った。
「明年(608年)、上遣文林郎裴清使於俀國。度百濟行至竹島南望 羅國。經都斯麻國逈在大海中。又東至一支國。又至竹斯國。又東至秦王國、其人同於華夏。以爲夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸。自竹斯國以東皆附庸於俀。」『隋書』俀国伝
俀国伝の行程記事に見える秦王国の位置について、古田武彦氏は筑後川流域とした。
〝海岸の「竹斯国」に上陸したのち、内陸の「秦王国」へとすすんだ形跡が濃厚である。たとえば、今の筑紫郡から、朝倉郡へのコースが考えられよう。(「都斯麻国→一支国」が八分法では「東南」ながら、大方向(四分法)指示で「東」と書かれているように、この場合も「東」と記せられうる)
では「秦王国」とは、何だろう。現地名の表音だろうか。否! 文字通り「秦王の国」なのである。「俀王」と同じく「秦王」といっているのだ。いや、この言い方では正確ではない。「俀王」というのは、中国(隋)側の表現であって、俀王自身は、「日出づる処の天子」を称しているのだ。つまり、中国風にみずからを「天子」と称している。その下には、当然、中国風の「――王」がいるのだ。そのような諸侯王の一つ、首都圏「竹斯国」に一番近く、その東隣に存在していたのが、この「秦王の国」ではあるまいか。筑後川流域だ。
博多湾岸から筑後川流域へ。このコースの行く先はどこだろうか。――阿蘇山だ。〟(注①)
筑後川流域に秦王国があったとする説だが、筑後川流域という表現では南方向の久留米市などを含むため、二日市市から朝倉街道を東南に向かう筑後川北岸エリア、更に杷木神籠石付近で筑後川を渡河した先のうきは市エリアを秦王国とするのが穏当ではあるまいか。現在でも秦(はた)を名字とする人々が、うきは市に濃密分布していることも注目される(注②)。
また、秦王という名前は『新撰姓氏録』「左京諸蕃上」に見える。
「太秦公宿禰
秦の始皇帝の三世の孫、孝武王より出づる也。(中略)大鷦鷯天皇〈諡仁徳。〉(中略)天皇詔して曰く。秦王が獻ずる所の絲綿絹帛。(後略)」(注③)
太秦公宿禰は秦の始皇帝の子孫とする記事で、大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の時代(五世紀頃か)には秦王と呼ばれていたと記されている。七世紀になると、広隆寺(蜂岡寺)を創建した秦造河勝(はたのみやっこ・かわかつ)が現れる。『日本書紀』は次のように伝える。
〝十一月一日。皇太子(厩戸皇子=「聖徳太子」)、諸々の大夫に語りて言う。
「私には尊い仏像が有る。誰かこの像を得て、恭拜せよ。」
時に秦造河勝、前に進みて言う。
「私が拝み祭る。」
すぐに仏像を受け取り、それで蜂岡寺を造る。〟『日本書紀』推古天皇十一年(603年)
この推古十一年条に見える蜂岡寺は京都市右京区太秦(うずまさ)蜂岡町にある広隆寺とされている。同寺の推定旧域内からは七世紀前半に遡る瓦が出土している。他方、北野廃寺(京都市北区)からも広隆寺よりも古い飛鳥時代の瓦が出土しており、その遺構を蜂岡寺とする見解もある。もう一つ注目されるのが皇極紀三年条に見える次の記事だ。
〝秋七月。東国の不尽河(富士川)のほとりに住む人、大生部多(おおふべのおお)は虫を祀ることを村里の人に勧めて言う。
「これは常世の神。この神を祀るものは富と長寿を得る。」
巫覡(かむなき)たちは、欺いて神語に託宣して言う。
「常世の神を祀れば、貧しい人は富を得て、老いた人は若返る。」
それでますます勧めて、民の家の財宝を捨てさせ、酒を陳列して、野菜や六畜を道のほとりに陳列し、呼んで言う。
「新しい富が入って来た。」
都の人も鄙の人も、常世の虫を取りて、清座に置き、歌い舞い、幸福を求め珍財を棄捨す。それで得られるものがあるわけもなく、損失がただただ極めて多くなるばかり。それで葛野(かどの)の秦造河勝は民が惑わされているのを憎み、大生部多を打つ。その巫覡たちは恐れ、勧めて祀ることを止めた。時の人は歌を作りて言う。
太秦(禹都麻佐)は 神とも神と 聞え来る 常世の神を 打ち懲(きた)ますも
この虫は常に橘の木になる。あるいは曼椒(山椒)になる。その虫は長さが四寸あまり。その大きさは親指ほど。その虫の色は緑で黒い点がある。その形は、蚕に似る。〟『日本書紀』皇極天皇三年(644年)
秦造河勝が駿河(東国の不尽河)の大生部多を討ったという記事で、その理由が〝都の人も鄙の人も、常世の虫〟を崇め私財を投じていることに対する、言わば「宗教弾圧」譚だ。都人までもが〝常世の虫〟を崇めており、ただならぬ事態が倭国(九州王朝)で発生していたことがうかがえる。しかも北山背の豪族(葛野の秦造河勝)が駿河の豪族(大生部多)を征討したというのだから、これは倭国(九州王朝)による大規模な東国征服の一端に他ならない。『日本書紀』の記述によれば7世紀前半の事件であり(注④)、それは『隋書』俀国伝に見える多利思北孤と利歌彌多弗利の時代となり、都とは太宰府(倭京)のことと考えられる。
九州王朝の天子、多利思北孤や次代の利歌彌多弗利の事績が聖徳太子伝承として伝わっていることが諸研究により判明しており(注⑤)、北山背地域や東近江に遺る聖徳太子と関係する寺院伝承も同様の視点で見直されている(注⑥)。本年の公開講座では、九州王朝の東征(列島支配の拡大)の痕跡について、考古学と文献史学の両面から解説する。
(注)
①古田武彦『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。ミネルヴァ書房より復刊。
②「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)によれば、名字「秦」の人口と分布は次のようである。
人口 約29,000人
【都道府県順位】
1 福岡県(約2,900人)
2 大分県(約2,700人)
3 大阪府(約2,400人)
4 東京都(約2,200人)
5 兵庫県(約1,600人)
【市区町村順位】
1 大分県 大分市 (約1,700人)
2 愛媛県 新居浜市(約600人)
3 島根県 出雲市 (約600人)
4 福岡県 うきは市(約500人)
5 愛媛県 西条市 (約400人)
③佐伯有清編『新撰姓氏録の研究 本文編』吉川弘文館、1962年。
④『日本書紀』では九州王朝の事績を年次をずらして転用しているとする指摘が日野智貴氏(古田史学の会・会員、たつの市)よりなされている。秦造河勝の東征記事の実年代についても検討が必要である。
⑤古田史学の会編『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
⑥古賀達也「近江の九州王朝 ―湖東の「聖徳太子」伝承―」『古田史学会報』160号、2020年。