第3334話 2024/08/21

「古田史学」「古田学派」

    という用語誕生時期

 「古田史学」「古田学派」という言葉がいつ頃から使用され始めたのかについて調べたことがあります。わたしが「市民の古代研究会」に入会した1985年頃には、「古田史学」という言葉は「市民の古代研究会」内では普通に使用されており、多元史観・邪馬壹国説・九州王朝説などを中心とする古田先生の学説やそれに基づく研究方法や関連仮説全体を指して、「古田史学」と呼ばれていました。今でもこの傾向は変わらないと思います。

 「古田説」という言葉も使用されていますが、多元史観により体系化された学説・学問総体を指す場合は「古田史学」と呼ばれ、徐々に使い分けが進んだようです。例えば、「邪馬台国」九州説の中の「邪馬壹国」博多湾岸説のように、具体的に限定されたテーマについては、他の九州説と区別して「古田説」と簡略して表現するケースもありましたが、これはテーマが限定されていることが明確な場合に限って有効ですので、講演会や論文中に使用する場合は注意深く使用する必要があります。

 管見では、「古田史学」という言葉が見える初期の論文は、『古田武彦とともに』創刊第一集(1979年、「古田武彦を囲む会」編)に収録された次のものです。同書は、後に『市民の古代』と改名し、同じく「市民の古代研究会」と改称した同団体から出版社を介して書店に並びました。ちなみに、「市民の古代研究会」の分裂解散後は、わたしたち「古田史学の会」が同書や団体の伝統を事実上継承し、今日に至っています。

❶いき一郎 「九州王朝論の古田さんと私」
〝私は古田史学と同じように~〟

❷米田 保(注①) 「『「邪馬台国」はなかった』誕生まで」
〝こうして図書は結局第十五刷を突破し、つづけて油ののった同氏による第二作『失われた九州王朝』(四十八年) 第三作『盗まれた神話』(五十年二月) 第四作『邪馬壹国の論理』(同年十月)と巨弾が続々と打ち出され、ここに名実ともに古田史学の巨峰群の実現をみたのである。〟

❸義本 満 「古田史学へのアプローチ」
〝古田史学が、堂々と定説となり、学校の教材にも採用される日の来る事を私は疑いません。ただ私の元気なうちにその時期の訪れることを願って止みません。〟

 以上の「古田史学」の他に、「古田学派」という言葉も同書に見えます。次の論考です。

❹佐野 博(注②) 「民衆のなかの古田説 (古田説のもつ現代史的意味)」
〝そこで古田さんの方法と論理、現在までの諸成果を純粋に受け入れ、古田学派とでも呼ばれる集団が現れたからとて、なにもこだわることはないのです。(中略)

 だからそれが、“通説”“定説”の嵐のなかで、“古田説”“古田学派”と指弾されようとも、あえてその名を冠されることを喜ぶものでしょう。真実は歴史を創る側にあるのです。わたしたちは、つねに学問とは、民衆とのかかわりぬきであるとは思いません。この国の民衆はつねに政治に支配されつづけてきましたが、それでも歴史を創る主体であることを否定することはできないのです。〟

❺丸山晋司(注③) 「ある中学校の職員室から」
〝しかも自分がもし社会科の教師になっていたら、ゾッとする。故鈴木武樹氏の提唱した「古代史を入試に出させない運動」は、我々古田学派にこそ必要なのではないかと思ったりもする。(中略)

 職員室談義で気のついたこと。「大和朝廷」への信仰はかなり根強い。古田説だけでなく、色んな王朝交替説とか有力と思える説もどこ吹く風、ひたすら教科書が「定説」なのだ。〟

 以上の記事が見えますが、1979年当時の古田ファンや支持者の熱気と世相を感じることが出来ます。

 本稿を執筆していて思い出しましたが、「古田史学の会」創立のきっかけとなった「市民の古代研究会」分裂騒動の当時、わたしや水野顧問ら古田支持派は、反古田派と激しく対立していました。そのときわたしが「古田史学」という言葉を使うと、それまでは「古田先生、古田先生」とすり寄っていた反古田派の理事から、「学問に個人名をつけるのはけしからん」と非難されたことを思い出しました。

 こうした体験があったため、わたしは今でも意識的意図的に「古田史学」「古田学派」という言葉を使い続けています。いわば、自他の立ち位置を明示するための〝リトマス試験紙〟のようなものです。しかし、古田史学が仮に〝異端〟としてでも日本古代史学界に許容され、古田説・古田史学が学界内で研究発表できる新時代が到来すれば(今は全くできません)、わたしは「古田史学」「古田学派」という言葉を使わなくて済むかも知れないと期待しています。(つづく)

(注)
①元朝日新聞社出版編集部員(当時)。米田氏の提案とご尽力により、『「邪馬台国」はなかった』を初めとする古田史学初期三部作などが朝日新聞社から刊行され、古田史学ブームが到来した。
②(社)日本非鉄鋳物金属協会 会員(当時)。
③大阪市の中学校音楽教師(当時)。九州年号研究では先駆的な業績を残した(『古代逸年号の謎 古写本「九州年号」の原像を求めて』株式会社アイ・ピー・シー刊、1992年)。「市民の古代研究会」分裂時、反古田派側につかれたので、わたしは袂を分かったが、氏が九州年号研究で『二中歴』に着目したことは評価している。

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