王朝交代期のエビデンス、藤原宮木簡 (1)
「洛中洛外日記」3336~3341話(2024/08/29~09/05)〝同時代エビデンスとしての「天皇」木簡 (1)~(6)〟で紹介した飛鳥宮遺跡の木簡は、王朝交代前の七世紀第4四半期のものが中心でした。その続編として、王朝交代期(701年前後)の藤原宮木簡を紹介します。飛鳥宮遺跡よりも出土数が多いので、重要な遺構を中心に見ていくことにします。
『日本書紀』によれば、持統八年(694年)に藤原遷都がなされていますが、藤原宮造営がいつ頃から始まったのかについてのエビデンスとして注目された干支木簡が遺構SD1901Aから出土しています。同遺構は藤原宮大極殿のすぐ北方の宮内下層から発見された大溝(運河)で、次のように説明されています。
〝大溝は幅約七メートル、深さ二メートルを越える大規模なもので、平らな底に、両岸が垂直に近い形になる人口の溝である。(中略)大溝は役割を終えてのち一気に、しかも入念、堅固に埋められており、その後に大極殿院施設の建設が行われている。〟木下正史『藤原京』58~59頁、中公新書、2003年。
この大溝下層の粗砂層からは約130点の木簡が出土しており、その中に、「壬午年」(天武十一年・682年)「癸未年」(天武十二年・683年)「甲申年」(天武十三年・684年)の干支木簡が出土し、藤原京・宮の造営時期を判断する上でのエビデンスとして重視されました。奈良文化財研究所HPの「木簡庫」より、大溝(遺構番号SD1901A)から出土した重要な木簡を紹介します。
《藤原宮大極殿北方の下層大溝SD1901A出土木簡》
【木簡番号】522
【本文】・甲申年七月三日○□〔部ヵ〕□□\□○□・○日仕○甘於連
【遺構番号】SD1901A
【和暦】(甲申年)天武13年 【西暦】684年
【木簡説明】(前略)甲申年は天武一三年(六八四)。日仕とはその日勤務したことを示すものか。ここでは甘於連が出勤執務したことを意味する。但し律令等に日仕の用語はみえない。甘於連は『続日本紀』天平神謹二年四月丁未条にみえる甘尾氏のことか。
【木簡番号】523
【本文】陶官召人
【遺構番号】SD1901A
【木簡説明】(前略)陶官が人を召喚した文書の冒頭部分にあたる。陶官は『令義解』にみえる養老令官制の宮内省管下の筥陶司の前身となるものであろう。大宝令施行期間中に筥陶司が存在したことは天平一七年(七四五)の筥陶司解(『大日本古文書』二-四〇八)の存在から確認できる。したがって、陶官という官名は飛鳥浄御原令制下にあったものと思われるが、さらにこの海(ママ)から出土した他の木簡の例からみて浄御原令施行以前にも存在していた可能性がある(総説参照)。官司名+召という書きだしをもつ召喚文は藤原宮木簡四九五、平城宮木簡五四・二〇九四などにもみえるが、この木簡の例などからみて、かなり古くから行われたものらしい。
【木簡番号】524
【本文】□□〔且ヵ〕□舎人官上毛野阿曽美□□〔荒ヵ〕□○右五→
【遺構番号】SD1901A
【木簡説明】(前略)舎人官は大宝・養老令官制の左右大舎人寮か東宮舎人監の前身官司と考えられる。舎人官の上にある文字は、大・左・右のいずれでもない。人名中にみえる阿曽美は朝臣の古い表記法と思われ、『続日本紀』宝亀四年五月辛巴条に見える。
【木簡番号】528
【本文】□〔豊ヵ〕□評大伴部大忌寸廿六以白
【遺構番号】SD1901A
【国郡郷里】摂津国豊嶋郡〈豊□評〉・遠江国豊田郡〈豊□評〉・武蔵国豊嶋郡〈豊□評〉・安芸国豊田郡〈豊□評〉・長門国豊浦郡〈豊□評〉
【木簡説明】(前略)評名と人名とが記されている。豊ではじまる郡は摂津国豊嶋郡、武蔵国豊嶋郡、安芸国豊一田郡、長門国豊浦郡、遠江国豊田郡があるが、この木簡にみえる評名との関係は確められない。末尾に「以白」と記しているところからみて文書の断片であろう。廿六は年齢か。
【木簡番号】531
【本文】□進~大~肆□□→
【遺構番号】SD1901A
【木簡説明】進大肆は天武十四年(六八五)制定の位階で、最下位から二番目の位。上から墨繰で沫消している。
【木簡番号】544
【本文】癸未年十一月/三野大野評阿漏里/□〔阿ヵ〕漏人□□白米五斗∥
【遺構番号】SD1901A
【国郡郷里】美濃国大野郡上杖郷〈三野大野評阿漏里〉・美濃国大野郡下杖郷〈三野大野評阿漏里〉
【和暦】(癸未年)天武12年 【西暦】683年
【木簡説明】(前略)癸未年は天武一二年(六八三)にあたり、今のところ里の表記をもっている最も古い史料である。阿漏里については、正倉院文書中に美濃国大野郡上荒郷に本貫をもつ阿漏人大嶋、阿漏君国麻呂の記載があって(『大日本古文書』二五-一四三・一四四)、ここからみると上、下に分かれる前の荒郷の前身が阿漏里ではないかと考えられる。『倭名鈔』には美濃国大野郡の項に上杖、下杖郷がみえる。
【木簡番号】545
【本文】・壬午年十月〈〉毛野・□〔芳ヵ〕□□〔評ヵ〕
【遺構番号】SD1901A
【国郡郷里】下野国芳賀郡〈□毛野芳□評〉
【和暦】(壬午年)天武11年 【西暦】682年
【木簡説明】(前略)壬午年は天武一一年(六八二)でSD1901A溝から出土した木簡の最古の紀年をもっている。
【木簡番号】546
【本文】旦波国竹野評鳥取里大贄布奈
【遺構番号】SD1901A
【国郡郷里】丹後国竹野郡鳥取郷〈旦波国竹野評鳥取里〉
【木簡説明】贄についての貢進物の荷札。旦浪(ママ、波の誤り)国竹野評鳥取里は『和名鈔』では、丹後国竹野郡鳥取郷にあたる。丹後国の分離は和銅六年(七一三)。『延喜式』にみえる丹後国からの貢進物に布奈はみえない。
【木簡番号】547
【本文】海評佐々里/阿田矢/軍布∥
【遺構番号】SD1901A
【国郡郷里】隠岐国海部郡佐作郷〈隠岐国海評佐々里〉
【木簡説明】海評佐々里は『倭名鈔』の隠岐国海部郡佐作郷にあたる。軍布の訓はメで海藻である。阿国矢は人名で、氏は欠いている(東野治之「藤原宮木簡における無姓者」『続日本紀研究』第一九九号参照)。
【木簡番号】548
【本文】・宍粟評山守里・山部赤皮□□
【遺構番号】SD1901A
【国郡郷里】播磨国宍粟郡安志郷〈播磨国宍粟評山守里〉
【木簡説明】(前略)宍粟評は『倭名鈔』の播磨国宍栗郡にあたる。
【木簡番号】552
【本文】鴨評□
【遺構番号】SD1901A
【国郡郷里】参河国賀茂郡〈鴨評〉・(伊豆国賀茂郡〈鴨評〉・美濃国賀茂郡〈鴨評〉・佐渡国賀茂郡〈鴨評〉・播磨国賀茂郡〈鴨評〉・安芸国賀茂郡〈鴨評〉
【木簡説明】(前略)鴨評は『倭名鈔』にみえる参河国賀茂郡、伊豆国賀茂郡、美濃国加茂郡、佐渡国賀茂郡、安芸国賀茂郡のいずれかに相当するか。
これらの木簡から判断できる同遺構SD1901Aの年代観は天武期末頃とできます。干支木簡の他に天武十四年から大宝律令で新位階制が採用されるまで使用された「進大肆」(木簡番号531)、700年まで採用された行政単位「評」もその年代観と対応しています。また、飛鳥浄御原令以前の官司名とみられる「陶官」(木簡番号523)「舎人官」(木簡番号524)もこの年代観を支持しています。こうした木簡は当地近辺に官衙があったことを示唆しています(注)。
他方、出土土器編年については次のように説明されています。
〝木簡と一緒に多量に出土した土器群も、藤原宮の外濠や内濠、東大溝、官衙の井戸などから出土する藤原宮使用の土器群よりも、はっきりと古い特徴が窺われる。〟木下正史『藤原京』60~61頁、中公新書、2003年。
以上の年代観などから、天武期末頃に大溝が掘削され、藤原宮造営のための資材運搬用の運河として使用されたとする通説が成立しました。この大溝は既にあった条坊道路を取り壊して造営されていますから、藤原京条坊は天武期末頃よりも早い段階で造営されていたことになります。その造営範囲と時期は今後の発掘調査で明らかになることと思います。
これらの出土事実から、既にあった条坊を取り壊して、運河用大溝を造り、使用後は埋め立てて、そこに藤原宮大極殿が造営されたことがわかりました。なぜこのような計画性のない王都王宮の造営がなされたのかについて、学界でも古田学派でも諸仮説が提起されており、注目されます。いずれにしましても、出土木簡というエビデンスとの整合性が重要であることは言うまでもありません。なお、木簡に記された地名(美濃国・下野国・旦波国・隠岐国・播磨国)から、天武期当時の勢力範囲がうかがえます。(つづく)
(注)七世紀(九州王朝時代)の官職名
○「尻官」 法隆寺釈迦三尊像台座墨書(7世紀初頭)
○「見乃官」 大野城市本堂遺跡出土須恵器刻書(7世紀前半~中頃)
○「大学官」 明日香村石神遺跡出土木簡(天武期)
○「勢岐官」 明日香村石神遺跡出土木簡(天武期)
○「道官」 明日香村石神遺跡出土木簡(天武期)
○「舎人官」 藤原宮跡大極殿院北方出土木簡(天武期)
○「陶官」 藤原宮跡大極殿院北方出土木簡(天武期)
○「宮守官」 藤原宮跡西南官衙地区出土木簡
○「加之伎手官」 藤原宮跡東方官衙北地区出土土器墨書
○「薗職」 藤原宮北辺地区出土木簡
○「蔵職」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「文職」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「膳職」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「塞職」 藤原宮跡北面中門地区出土木簡
○「外薬」 藤原宮跡西面南門地区出土木簡
○「造木画処」 藤原宮跡東面北門地区出土木簡