第3439話 2025/02/27

『三国志』短里説の衝撃〔余話〕

 ―陳寿を信じとおす、とは何か―

 8回続けた〝『三国志』短里説の衝撃〟ですが、思いのほか好評だったようで「古田史学の会」HPのアクセス件数も増えました。同シリーズの学問的核心は、〝倭人伝の行程や里程記事は信用できない〟と言い続け、しかし結論だけは〝「邪馬台国」は畿内で決まり〟とする「邪馬台国」畿内説論者が採用した方法(倭人伝不信論と原文改定)に対して、『三国志』の著者陳寿を信じとおし、原文の合理的解釈を求めるという古田武彦先生の学問の方法との違いにありました。陳寿を信じとおした古田先生は、魏・西晋朝短里説や邪馬壹国博多湾岸説、倭人の二倍年暦説など従来にない仮説群へと至り、倭人伝を原文のまま読んで、合理的に解釈することに成功しました。

 このことを象徴するように、古田古代史学の第一著『「邪馬台国」はなかった』(注①)の序文末尾には次の一文があります。

「しかし、だれも本当に信じなかった。『三国志』魏志倭人伝の著者陳寿のことを。

 シュリーマンがホメロスを信じたように、無邪気に、そして徹底的に、陳寿のすべての言葉をまじめにとろうとした人は、この国の学者、知識人の中にひとりもいなかったのである。

 かれらおびただしい学者群のあとで、とぼとぼとひとり研究にむかったわたしの、とりえとすべきところがもしあるとすれば、それはたった一つであろう。

陳寿を信じとおした。――ただそれだけだ。

 わたしが、すなおに理性的に原文を理解しようとつとめたとき、いつも原文の明晰さがわたしを導きとおしてくれたのである。
はじめから終わりまで陳寿を信じ切ったら、どうなるか。

 その明白な回答を、読者はこの本によって、わたしからうけとるであろう。」

 この「陳寿を信じとおす」という言葉は、かなり挑発的です。エビデンスや既成概念を疑うことから始まる学問研究の世界では、「信じる」という表現がネガティブなものと受け取られかねず、そのことをわかったうえで、古田先生はあえてこの言葉で序文を締めくくったのです。それは、倭人伝の原文を自説に都合良く書き変えても(邪馬壹国→邪馬台国、南に至る→東に至る)、みんなやっていることだから誰からも咎められないという、日本古代史学界の〝宿痾〟への果敢な挑戦だったのです。これは古田武彦という人物だけが成し得たことでした。

 この「陳寿を信じとおす」という言葉の真意が、古田古代史学第二著『失われた九州王朝』(注②)の、やはり序文で次のように述べられています。

「〝陳寿を信じとおす〟わたしは、前の本の序文でそう言った。陳寿は『三国志』の著者である。わたしの用法では、〝信じる〟とは〝盲信する〟の反対語だ。『三国志』に真正面から立ち向かい、その一字一句、綿密に調べ抜く。そして、科学的に実証することなしに安易な「原文改定」を行わない。――これが〝陳寿を信じる〟わたしの立場だった。

 だから、この研究方法はそのまま『三国志』以外の中国史書に対するわたしの立場である。『後漢書』『宋書』『隋書』『旧唐書』、それらの語る倭国像に対し、わたしは耳を傾けつくそうとしたのである。」

 古田学派の研究者であれば、〝陳寿を信じとおす〟という言葉の真の意味、すなわち文献史学の学問の方法(史料批判)を理解していただけるのではないでしょうか。この学問の方法の違いによって、古田史学(多元史観)が持つ説得力は際立っているのです。

(注)
①古田武彦著『「邪馬台国」はなかった』朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻。
②古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、1972年。ミネルヴァ書房より復刻。

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