大宰府政庁と前期難波宮の須恵器杯B
大宰府政庁1期と2期遺構から須恵器杯Bが出土していることを第526話で指摘しましたが、大宰府政庁の編年も含めて、もう少し詳しく説明したいと思います。
大宰府政庁遺構は1期・2期・3期の三層からなっており、1期は堀立柱形式の建物跡で、2期と3期は礎石を持つ朝堂院様式の「大宰府政庁」と呼ぶにふさわしい立派なものです。もっとも「大宰府政庁」とは考古学的につけられた名称で、九州王朝説からすると2期遺構は「政庁」ではなく、倭王がいた「王宮」で はないかと考えられています。もっとも、倭王が生活するには規模が小さいという指摘が伊東義彰さん(古田史学の会・会計監査)からなされており、今後の研究課題でもあります。
問題の須恵器杯Bは1期遺構の中でも最も古い1期古段階の整地層からも出土しているようで(藤井巧・亀井明徳『西都大宰府』NHKブックス、昭和52 年。229頁)、一元史観の通説では660年代頃の遺構とされています。その整地層からの出土ですから、当該須恵器杯Bの年代は通説でも7世紀中頃となり ます。田村圓澄編の『古代を考える大宰府』(吉川弘文館、昭和62年)にも、「第1期は堀立柱建物で主に上層遺構の中門と回廊東北隅に相当する所で検出さ れた。(中略)この整地土の中に含まれる土器は最も新しいもので七世紀中ごろのものである。」(112頁)とあります。
須恵器杯Bはその後の1期新段階や2期からも出土しますから(杉原敏之「大宰府政庁と府庁域の成立」『考古学ジャーナル』588号、2009年)、その継続期間は小森俊寛さんが主張する20年や30年のような短いものではありません。九州王朝説の立場からは、大宰府政庁1期や2期の時代は一元史観の通説よりも古いと考えられますが、仮に通説に従っても須恵器杯Bの発生は7世紀中頃以前まで遡ることとなり、近畿よりも大宰府政庁の方がより古いことがうかが えます。
その場合、須恵器杯Bは北部九州で発生し、近畿には前期難波宮の地、上町台地に先駆けて伝播したこととなりそうです。同様の現象については既に洛中洛外日記第224話「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」でも紹介してきたところです。これらの現象は、上町台地がいち早く九州王朝の直轄支配領域となったこと の傍証となり、前期難波宮九州王朝副都説と整合するのです。七世紀の九州王朝倭国の研究にあたっては、この前期難波宮をどのように位置づけるのかが重要な判断基準になることを強調しておきたいと思います。