第1472話 2017/08/06

一元史観から見た前期難波宮(2)

 わたしが前期難波宮を九州王朝副都とする説に至ったきっかけは、その規模の巨大さと律令官制に対応した最古の朝堂院様式の宮殿遺構だったことです。大阪市中央区法円坂から発見された前期難波宮の巨大さについて、関西の方ならよくご存じかもしれませんが、遠方の方には実感する機会がないかもしれません。そこで、一元史観の研究者がどのように前期難波宮の規模や様式を捉えているのかをご紹介します。
 村元健一さんの論文「前期難波宮の南方空間」(『大阪歴史博物館 研究紀要』13号、2015年)では前期難波宮について次のように説明されています。

 「本稿で扱う前期難波宮は7世紀半ばの王宮であり、孝徳朝の難波長柄豊碕宮と考えられている。この宮城は中軸線を正方位にとり、中枢部を左右対称に築き、しかも広大な朝堂院を設けるなど、前代までの倭王宮とは隔絶した規模を有することが明らかとなっており、宮城の平面配置は藤原宮以降の古代宮城の規範となっている。また、この宮城の存在によって倭王権への権力集中を一定程度認め、所謂『大化改新』の具体像が語られるようになってきている。」(11頁)
 「前期難波宮は対外的に倭国の威信を示すために築かれたとされる。視覚的には岬の突端の高所に築かれ、遠方からでも非常に目立つようになっている。また宮城内では、内裏南門とその東西両側の八角殿の造営に見られるように、宮城の正面観を南方に強く打ち出したものであったことは明らかである。このように『見られる』ことを強く意識した宮城と言えるが、その周辺の様子はどうだったのであろうか。」(12頁)

 村元さんはこのように前期難波宮を「前代までの倭王宮とは隔絶した規模」「平面配置は藤原宮以降の古代宮城の規範」「この宮城の存在によって倭王権への権力集中を一定程度認め」られるとされています。そして論文を次の言葉で締めくくっておられます。

 「新たに難波に生まれた『都』は倭の新たな王都の誕生を予感させるものだったのである。」(21頁)

 一元史観の研究者がここまで評価する巨大王宮前期難波宮を通説通り近畿天皇家の孝徳の宮殿とするのか、九州王朝の副都とするのか、どちらの理解が九州王朝説と整合性があるのかは言うまでもないでしょう。一元史観の論者との前期難波宮の評価を巡っての「他流試合」を想定してみてください。かれらは本稿で紹介した村元論文と同じように主張し、「だから九州王朝などなかった」と言うはずです。仮に前期難波宮を天武朝造営と反論しても同様です。一元史観の論者は同様に「だから九州王朝はなかった」「九州にこれ以上の規模の宮殿は出土しているのか」と言うはずですから。(つづく)

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