考古学一覧

第3515話 2025/08/14

「海の正倉院」

  沖ノ島祭祀遺跡の中の王朝交替(5)

 「海の正倉院」と呼ばれている沖ノ島の祭祀遺跡は次の4期に分かれています。

❶ 岩上祭祀遺跡 4世紀後半~5世紀
❷ 岩陰祭祀遺跡 5世紀後半~7世紀
❸ 半岩陰・半露天祭祀遺跡 7世紀後半~8世紀
❹ 露天祭祀 8世紀~9世紀

 この内、❶❷❸からは日本列島の代表王権にふさわしい奉献品が出土しています。次の通りです。

❶ 銅鏡、鉄剣等の武具、勾玉等の玉類が中心。鏡・剣・玉は三種の神器(王権のシンボル)。
❷ 鉄製武器や刀子・斧などのミニチュア製品、朝鮮半島からもたらされた金銅製の馬具など。新羅王陵出土の指輪と似た金製指輪。ペルシャ製カットグラス碗片。
❸ 金銅製の紡織具や人形、五弦の琴、祭祀用の土器など、祭祀のために作られた奉献品。

 ところが❹(8世紀)になると、宗像地域独特の形状や材質で製作された祭祀用土器を含む土師器・須恵器、人形・馬形・舟形等の滑石製形代が中心です。そのため、8世紀以降は宗像地域の豪族による祭祀が続いたと考えられています。

 8世紀は大和朝廷にとって、『大宝律令』による全国統治が開始され、巨大な条坊都市である平城京の造営、大仏の建立など隆盛を誇った時代です。それにもかかわらず、沖ノ島からは列島の代表王朝にふさわしい奉献品は見られません。すなわち通説に従えば、4世紀から続けてきた沖ノ島への奉献をなぜか突然に大和朝廷は8世紀になるとやめてしまったということになるのです。このような近畿天皇家一元史観というイデオロギーに基づく通説の解釈は不自然であり、出土事実を合理的に説明できていません。

 他方、701年に王朝交代があったとする古田武彦氏の九州王朝説によれば、4世紀から沖ノ島へ奉献し、祭祀を続けてきたのは天孫降臨以来の海洋国家である九州王朝であり、大和朝廷への王朝交代により沖ノ島の祭祀や奉献が続けられなくなったとする説明が可能です。この3期と4期の奉納品の激変は、8世紀における王朝交代の痕跡を示しているのです。

 東アジア最高の優品と評価された、沖ノ島の金銅製矛鞘はヤマト王権からの奉献品ではなく、九州王朝によるものとする仮説は、沖ノ島の祭祀跡から出土した奉献品が8世紀に激変するという史料事実に基づきます。本テーマの最後に、改めてその理由を列挙します。

理由1 九州王朝は天孫降臨以来の海洋国家。沖ノ島を「海の正倉院」としたのは九州王朝。
理由2 九州王朝は卑弥呼以前から鏡文化の国。弥生時代以来、鏡の埋納・奉納の伝統文化を持つ。
理由3 九州地方は金銀象眼・鍍金文化圏。中国伝来の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が国内唯一出土、国内最大の鍍金方格規矩四神鏡が出土。
理由4 九州王朝は騎馬文化受容国家。石人・石馬・馬具出土、『隋書』俀国伝に騎馬隊が見える。

Y0uTube講演
多元的古代研究会
令和七年(2025)八月一日
海の正倉院の中の王朝交代
沖ノ島金銅製矛鞘の象眼発見ニュースに触れて
古賀達也
https://youtu.be/HkZ-f_2JMyo

 

 


第3513話 2025/08/09

「海の正倉院」

  沖ノ島祭祀遺跡の中の王朝交替(4)

 宗像大社沖津宮で玄界灘の孤島、沖ノ島からは4世紀頃~9世紀頃にわたる夥しい奉献品が出土しており、その全てが国宝に指定されています。そのため沖ノ島は「海の正倉院」とも呼ばれています。島の中腹にある祭祀遺跡は4期に分かれ、次のように編年されています。

❶ 岩上祭祀遺跡 4世紀後半~5世紀
❷ 岩陰祭祀遺跡 5世紀後半~7世紀
❸ 半岩陰・半露天祭祀遺跡 7世紀後半~8世紀
❹ 露天祭祀 8世紀~9世紀

 これらの遺跡はおおよそ次のように説明されてきました。

❶ 岩上祭祀遺跡 4世紀後半~5世紀
4世紀後半、対外交流の活発化を背景に巨岩上で祭祀が始まる。岩と岩とが重なる狭いすき間に、丁寧に奉献品が並べ置かれた。祭祀に用いた品は、銅鏡・鉄剣等の武具、勾玉等の玉類が中心で、当時の古墳副葬品と共通する。鏡・剣・玉は三種の神器(王権のシンボル)といわれ、後世まで長く祭祀で用いられる組み合わせ。

❷ 岩陰祭祀遺跡 5世紀後半~7世紀
5世紀後半になると、祭祀の場は庇(ひさし)のように突き出た巨岩の陰へと移る。岩陰祭祀の奉献品には、鉄製武器や刀子・斧などのミニチュア製品、朝鮮半島からもたらされた金銅製の馬具などがある。金製指輪は新羅の王陵から出土した指輪と似ており、ペルシャ製のカットグラス碗片はシルクロードを経て倭国にもたらされたと考えられる。

❸ 半岩陰・半露天祭祀遺跡 7世紀後半~8世紀
岩陰祭祀の終わり頃(22号遺跡)から半岩陰・半露天祭祀(5号遺跡)にかけて、奉献品に明確な変化がみられるようになる。従来のような古墳の副葬品とは異なる金銅製の紡織具や人形、五弦の琴、祭祀用の土器など、祭祀のために作られた奉献品が目立つようになる。

❹ 露天祭祀 8世紀~9世紀
8世紀になると、巨岩群からやや離れた露天の平坦地に祭祀の場が移る。大石を中心とする祭壇遺構の周辺には大量の奉献品が残されている。露天祭祀出土の奉献品は、祭祀用土器を含む多種多様な土師器・須恵器、人形・馬形・舟形等の滑石製形代が中心。それ以前とは激変する。奉献品は宗像地域独特の形状や材質で製作されていることから、宗像地域の豪族による祭祀が続いたと考えられる。

 ❶❷❸の奉献品は、王権からの祭祀品としてそれぞれの時代にふさわしい物ですが、8世紀の❹になると、それ以前とは激変し、「宗像地域独特の形状や材質で製作されていることから、宗像地域の豪族による祭祀」へと祭祀主宰者の変化を示しています。この3期と4期とでの奉献品の様相の激変は、沖ノ島の祭祀はヤマト王権が続けてきたとする、近畿天皇家一元史観による通説では説明できません。これは7世紀から8世紀にかけての王朝交代の痕跡であり、すなわち九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代を示しているのです。(つづく)

多元的古代研究会
令和七年(2025)八月一日
海の正倉院の中の王朝交代
沖ノ島金銅製矛鞘の象眼発見ニュースに触れて
古賀達也(古田史学の会)
https://youtu.be/HkZ-f_2JMyo


第3509話 2025/07/22

「海の正倉院」

  沖ノ島祭祀遺跡の中の王朝交替(3)

 象眼が確認された沖ノ島の金銅製矛鞘のような鉄矛は、騎兵が備えていた主要な武器とされ、日本列島には5世紀に朝鮮半島から騎馬文化が流入し普及したとされているようです。この騎馬文化の痕跡は、当の沖ノ島出土の馬具・装飾品を見てもわかるように、九州王朝内でもその痕跡は少なからず遺されています。例えば、九州王朝の王(筑紫君磐井)の墳墓・岩戸山古墳(福岡県八女市)から出土している石人・石馬は有名ですし、江田船山古墳(熊本県玉名郡和水町)出土の鉄刀(国宝)に馬の銀象眼が施されていることからも騎馬文化の受容をうかがえます。

 極めつけは、九州王朝のことを記した『隋書』俀国伝に次の記事が見えることです。

 「また大礼、哥多毗を遣はす。二百余騎を従え郊に労す。」

 大礼哥多毗が、二百余騎の騎馬隊を率いて隋使を迎えたとする記事ですから、九州王朝が騎馬文化を受容し、七世紀初頭、少なくとも二百余騎の騎馬隊を擁していたことを示しています。ちなみに、『隋書』俀国伝の俀国(倭国)が、大和朝廷ではなく九州王朝であることは次の記事からも明らかです。

❶「阿蘇山有り。その石、故無く火起こり、天に接す。」
❷「小環を以って鸕鷀の項に挂け、水に入りて魚を捕しむ。日に百余頭を得る。」
❸「楽に五弦の琴、笛あり。」

 ❶の阿蘇山噴火の記事は隋使の見聞に基づいており、九州王朝の代表的な山を表したものです。❷の鸕鷀(ろじ)とは鵜のことで、これは鵜飼の記事です。北部九州の筑後川や矢部川、肥後の菊池川の鵜飼は江戸期の史料にも記されており、これもまた九州王朝の風物を表した記事です(注)。❸の「五弦の琴」は沖ノ島から出土しており、九州王朝の楽器を紹介した『隋書』の記事と出土物とが対応しています。

 以上のように、石馬や馬の象眼鉄刀などの出土遺物や『隋書』の騎馬隊記事は、金銅製矛鞘が示す騎馬文化を九州王朝(倭国)が受容していたことを示唆しています。(つづく)

(注)
古賀達也「九州王朝の築後遷宮 ―玉垂命と九州王朝の都―」『新・古代学』古田武彦とともに 第4集、1999年、新泉社。
同「洛中洛外日記」704話(2014/05/05)〝『隋書』と和水(なごみ)町〟

多元的古代研究会
令和七年(2025)八月一日
海の正倉院の中の王朝交代
沖ノ島金銅製矛鞘の象眼発見ニュースに触れて
古賀達也(古田史学の会)
https://youtu.be/HkZ-f_2JMyo


第3508話 2025/07/21

国立羅州博物館との質疑応答

         とAIレポート

7月19日に「古田史学の会」関西例会が豊中倶楽部自治会館で開催されました。8月例会も会場は豊中倶楽部自治会館です。

今回は、例会デビューとなった松尾匡さんの発表が注目されました。韓国の古墳や甕棺の編年について、全羅南道の国立羅州博物館に問い合わせたその回答書の報告です。たとえば次のような質疑応答がなされました。

(質問1) 遺物の年代を特定された手法について
貴博物館では、甕棺・段型古墳などについて、3世紀~6世紀の編年とされていますが、この遺物の年代を特定された際の基準を教えていただけませんか。絶対年代は何を基準に決定されましたか?
(背景)
日本では古代史上の遺物の年代を特定する場合、主に須恵器を使って年代を特定する方法が使われています。しかし、最近のその基準に疑問を出している研究者が出てきています。韓国では、現在の編年の基準はどうですか。

(回答1) 遺物の年代を特定された手法について
甕棺や古墳などの年代に関しては、様々な要素を考慮して相対編年しています。そのためには遺物の層序地質学的文脈と自然科学的な調査結果をもって想定し、甕棺の相対編年も考慮します。共伴遺物を中心に判断します。遺跡の年代は学者ごとに違いがあり、報告書や事典などの資料を中心に編年しています。

こうした質問と回答が紹介されました。回答書はハングルで書かれており、それを松尾さんが訳して発表されたものです。またAI(Gemini)を使用して、「韓国における甕棺埋葬の歴史的変遷;その起源、発展、そして終焉」というレポートも発表されました。これからは古代史研究においてもAIを駆使する時代です。その長所と限界をよく理解して利用する能力が研究者に要求されることを実感でき、とても勉強になった発表でした。

7月例会では下記の発表がありました。発表希望者は上田さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。
なお、古田史学の会・会員は関西例会にリモート参加(聴講)ができますので、参加希望される会員はメールアドレスを本会までお知らせ下さい。

〔7月度関西例会の内容〕
①国立羅州博物館からの回答書について (木津川市・松尾 匡)

②武具・甲冑から見えてくる“倭の五王”の時代〈4~5世紀の極東アジア〉 (豊中市・大下隆司)参考
YouTube動画(Zoommeeting)https://youtu.be/lwehH0wVplw

③考古学から論じる「邪馬台国」説の最近の傾向 (神戸市・谷本 茂)

④炭素14 年代測定法の原理と限界 (京都市・古賀達也)
⑤「中学生による証明」と古田論証 (京都市・古賀達也)
参考YouTube動画(Zoommeeting)https://youtu.be/AmqQzFjQMxc

⑥岡山県平福陶棺の図像は水と馬のケルトの女神エポナ (大山崎町・大原重雄)参考YouTube動画(Zoommeeting)https://youtu.be/9T1fhD50zu4

⑦改造された藤原京 (八尾市・服部静尚)

⑧消された「詔」と遷された事績 (東大阪市・萩野秀公)
参考YouTube動画(Zoommeeting)https://youtu.be/oJSIX4PMDFA

⑨小戸の原譜と「古事記」の譜 (大阪市・西井健一郎)
参考YouTube動画(Zoommeeting)

⑩百済記に記された「貴国」が栄山江流域の勢力であった可能性
(茨木市・満田正賢)
参考YouTube動画(Zoommeeting)https://youtu.be/tg4t-7R_gEA

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
08/16(土) 10:00~17:00 会場 豊中倶楽部自治会館
09/20(土) 10:00~17:00 会場 東成区民センター 601号集会室
10/18(土) 10:00~17:00 会場 豊中倶楽部自治会館


第3507話 2025/07/17

「海の正倉院」

 沖ノ島祭祀遺跡の中の王朝交替(2)

 今回、象眼が確認された沖ノ島の金銅製矛鞘は当時の東アジアで最高峰といえる優品と評価されています。そのことには異論はないのですが、多元史観・九州王朝説から見れば、九州王朝が沖ノ島の祭祀をいかに重要視していたかを示す奉献品と言えます。たとえば、九州では古墳時代の金銀象眼鉄刀が出土しており、ヤマトからの技術にたよる必要はありません。例えば次の象眼鉄刀が著名です。

○銀象眼龍文大刀 宮崎県えびの市、島内地下式横穴墓群出土。古墳時代中期~後期、5~6世紀。全長98.6cm。
○銀象眼錯銘大刀 熊本県玉名郡和水町、江田船山古墳出土。5世紀末~6世初頭。
○金象眼庚寅銘大刀 福岡市西区の元岡古墳群から出土した金象眼の銘文を持つ6世紀の鉄刀。これは四寅剣と呼ばれるもので、国家の災難を防ぐという。庚寅は570年に当たり、九州年号の金光元年。

 また、鉄鏡ではありますが、「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」が大分県日田市のダンワラ古墳から出土しており、魏・漢時代の中国鏡と見られています。これほど見事な金銀錯嵌が施された鉄鏡は国内ではこの一面だけです。

 象眼ではありませんが、国内では珍しい鍍金鏡が糸島市から出土しています。それは「鍍金方格規矩四神鏡」と呼ばれる鏡で、福岡県糸島市の一貴山銚子塚古墳から出土しています。4世紀後半。

 以上のように、金銅製矛鞘の象眼は九州王朝の伝統的技術で製造することが可能であり、遠く離れたヤマト王権からの奉献説をわざわざ持ち出す必要はないのです。(つづく)

多元的古代研究会
令和七年(2025)八月一日
海の正倉院の中の王朝交代
沖ノ島金銅製矛鞘の象眼発見ニュースに触れて
古賀達也(古田史学の会)
https://youtu.be/HkZ-f_2JMyo


第3505話 2025/07/14

「海の正倉院」

 沖ノ島祭祀遺跡の中の王朝交替(1)

 7月5日(土)、九州古代史の会の月例会(福岡市早良区ももち文化センター)で、「海の正倉院」と呼ばれている沖ノ島祭祀遺跡出土奉献品の変遷に、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交替の痕跡が遺されていることを報告しました。講演の冒頭では次のように述べました。

 〝最近のニュースですが、「海の正倉院」と呼ばれている沖ノ島から出土していた国宝「金銅製矛鞘」に象眼文様が確認されたと新聞やテレビが報道し、次のように説明しています。
「当時の東アジアの鞘、矛で最高峰といえる優品。ヤマト王権が沖ノ島の祭祀をいかに重要視していたかを改めて示す発見だ。」
「金銅製矛鞘」はヤマト王権が沖ノ島に奉献したとするこの説明(解釈)は正しいのでしょうか。その根拠はなんでしょうか。そもそも根拠はあるのでしょうか。〟

 日本各地で優れた遺物や遺構が出土すると、学者は申し合わせたかのように、「ヤマト王権からもたらされたもの」「大和朝廷の影響が及んだもの」と説明するのが常ではないでしょうか。そして、その〝隠された根拠〟は、『日本書紀』に記された歴史認識の大枠(日本列島の代表王権は神代の時代から近畿天皇家である)を論証抜きで是とする歴史観、すなわち「近畿天皇家一元史観」と古田武彦先生が呼んだものです。

 もちろん、当人がそのことを自覚しているのか無自覚なのかはわかりませんが、少なくとも学校ではそうならい続け、受験でも教科書に書かれたその歴史観に基づいた回答が正解とされる教育システムの中で高得点をとり続け、大学教授にまで上り詰めた人々が今日の学界の中枢を占めています。

 それでは古田先生が提唱した多元史観・九州王朝説に立てば、今回の「金銅製矛鞘」はどのように位置づけることができるでしょうか。福岡市の講演ではこのことに焦点を絞り、史料根拠を提示し、それに基づく論理を説明しました。(つづく)


第3504話 2025/07/09

英文タイトル・アブストラクトの提案

7月5日(土)・6日(日)の福岡市と久留米市の講演会に千葉市から参加された倉沢良典さん(古田史学の会・会員)から、『古代に真実を求めて』掲載論文に英文のタイトル(表題)とアブストラクト(概要)を付けてはどうかとの提案をいただきました。

確かに古田史学を世界に発信するためには必要なことですし、近年では文系の学会誌にも投稿時の英文タイトル・アブストラクトの提出要請は普通に行われています。とは言うものの、英文に強くないわたしにはハードルが高く、自分の論文を英訳するだけならまだしも、アブストラクトとは言え、他者の英文論文を正しく査読する自信はありません。氏の提案に躊躇するわたしにハッパをかけるかのように、FaceBookに転載した「洛中洛外日記」第3502話(2025/07/04)〝炭素14 年代測定法の原理と限界〟の倉沢さんによる英訳が送られてきました。下記の通りです(気づいた点を少し修正しました)。もともとの私の構文が英訳を前提としないものですから、そのまま英訳するのは大変な作業だったと思います。

読んでいて、なるほどと思ったのが次の英訳でした。

『古代に真実を求めて』 ’Seeking the Truth in Antiquity’
『「邪馬台国」はなかった』”There Was No ‘Yamataikoku'”

いきなり英文アブストラクトは難しくても、タイトルだけなら英文表記して目次に入れることはできるかもしれません。そのために、古田史学独特の単語だけでも統一しておいたほうが良いと思いました。たとえば、「九州王朝」「九州年号」「多元史観」「一元史観」「二倍年暦」などです。ちなみに「古田史学の会」は‘Furuta’s Historical Science Association’としてきました。英文ホームページをご参照下さい。

現役時代、製品説明書や注意表記は、輸出業務や海外でのプレゼン資料用に英訳したことはありましたが、テクニカルタームが国際的に統一されている分野ですから何とかなったものの、古田史学独特の専門用語の英訳は簡単にできそうもありません。もっと、英語を勉強しておけばよかったと、この年になって後悔しています。

《以下、倉沢さんによる英訳》
‘Rakuchu Rakugai Diary’ 3502 July 4th,2025
The principles and limitations of carbon-14 dating method
―Email from Mr.Shigeru Tanimoto―

I received the following email from Mr.Shigeru Tanimoto (editor of ‘Seeking the Truth in Antiquity’), who read the article by Mr.Fumitaka Urano introduced in ‘Rakuchu Rakugai Diary’ 3501, titled ‘Hashihaka is around AD300, and Hokenoyama is around AD270: Simple Evidence’ (Note).
The content scientifically points out the limitations of the carbon-14 dating method from the perspective of a science researcher (a graduate of the Department of Electronic Engineering at Kyoto University, who has excelled at Hewlett-Packard and Agilent Technologies).
I will quote the relevant part.

【Email from Mr. Shigeru Tanimoto (excerpt)】
Thank you for providing very interesting information. (Omitted)
Regarding the analysis by Fumitaka Urano, although he uses the calibration curve (Intcal20) to obtain actual ages from measurement data with the age calibration software OxCal, while it is good to utilize those results, there seem to be some inaccuracies in his basic understanding of statistical inference (if evaluated strictly).
That aside, in broad terms, M.Urano’s concise logic is impressive as it sharply points out the internal contradictions of the conventional interpretation while relying on the same data as the mainstream view!
I was impressed that he recognized the logical constraints of dating based on pottery forms and that he was someone capable of scientific logical thinking.
Well, since the original interpretations of the C14 measurement data from historical museums and the Nara National Research Institute were somewhat distorted, I think it is impressive that the point that clearly pinpointed those shortcomings with straightforward logic.
Perhaps it means that we can no longer maintain unreasonable interpretations forever, and the veneer of common theory has begun to wear off…
By the way, it is a major misunderstanding to think that the actual age can be pinpointed (for example, ±10 years) using the C14 method.
Considering factors such as measurement errors in data and the range of calibration curves (statistically significant range), there is a width of about one century (±50 years) even under the best conditions, and typically the precision (or accuracy) is about ±100 years.
In the historical museum’s paper, there was a mention that the construction period of the Hashihaka Tomb was identified within a margin of ±10 years, but this is clearly an erroneous interpretation of the calibration curve reading results.
For those who are familiar with measurement theory and statistical inference, it was a basic interpretative error.
(I don’t know how it is currently interpreted, but…) [End of reproduction]

I completely agree with Mr.Tanimoto’s point.
During my active years, I was also responsible for quality control and testing operations of chemical products, and in order to accurately measure the quality of products, it is fundamental to confirm that the precision of measuring instruments and the measurement principles are appropriate for the purpose of measurement.
In that sense, carbon-14 dating can be expected to have a scientifically significant and excellent effect for rough dating on the order of hundreds of years, but it is fundamentally not possible to achieve measurement accuracy on the order of tens of years.
It’s a basic problem, so to speak, of whether you can measure the size of a grain of sand, which is about 1mm, with a ruler that only has markings at 1cm intervals.
If we are to investigate the “Yamatai(臺) Kingdom” (referred to as Yamawi (壹) Kingdom in the original text) as recorded in the “Chronicles of Japan,” we must rely on methods such as dendrochronology or the measurement of cellulose oxygen isotopes in tree rings, rather than the carbon-14 dating method, which has a wide calibration curve (intCAL).
Just as measuring a sand grain’s size, roughly 1mm, requires at least a ruler with divisions of 0.1mm, ideally 0.01mm, so too does our inquiry into Yamatai necessitate more precise methodologies.
Of course, even in that case, the required measurement conditions and sampling environment (methods) will be necessary. (to be continued)

(Note) Urano Fumitaka “Hashihaka is around AD300, Hokenoyama is around AD270: Simple Evidence” ‘note’ September 2, 2024.
https://note.com/fumitaka_urano/n/n33c623b935b1

(Photos) A transcript of a lecture by Mr. Tanimoto and Koga published in “Criticism of Eastern Historical Sources – A Challenge from ‘Honest History'” (2001).
A transcript of the lecture held at the Asahi Shimbun building in Tokyo to commemorate the 30th anniversary of the publication of “There Was No ‘Yamataikoku'”.


第3502話 2025/07/04

炭素14 年代測定法の原理と限界

 ―谷本茂さんからのメール―

 「洛中洛外日記」3501で紹介した、浦野文孝さんの「箸墓は三〇〇年前後、ホケノ山は二七〇年前後:シンプルな根拠」(注)を読まれた谷本茂さん(『古代に真実を求めて』編集部)から次のメールが届きました。内容は理系研究者(京都大学工学部電子工学科卒)の視点で、炭素14年代測定法の限界を科学的に指摘したものです。当該部分を転載します。

【谷本茂さんからのメール(抜粋)】
〝非常に興味深い情報をご報告戴き、有難うございます。(中略)

 浦野文孝さんの分析については、測定データから較正曲線(Intcal20)を使って実年代を求める方法において、年代較正ソフトOxCalを用いておられるのですが、その結果を利用するのは良いとしても、(厳密に評すれば)統計的推論法の基礎的な理解に若干不正確な部分があるようです。

 それはともかく、大枠として、浦野氏の簡明な論理は、通説と同じデータに依拠しながら、通説の解釈の内部矛盾を鋭く指摘して、あっぱれですね!
土器形式による編年の論理的制約を認識しておられて、理系的論理思考ができる人なのだと感心しました。まぁ、元々の歴博や奈文研などの箸墓のC14測定データの解釈が曲解の類だったのですから、その欠点を簡明な論理で突いた点は、見事だと思います。いつまでも無理な解釈は維持できず、通説のメッキが剥げてきたということでしょうか…。

 ちなみに、C14法で、実年代がピンポイント(例えば、±10年)で分かると考えるのは大きな誤解です。データの測定誤差および較正曲線の幅(統計的有意性の範囲)などを考慮すれば、どんなに条件の良い場合でも、約1世紀分の幅(±50年)がありますし、通常は±100年程度の精度(あるいは確度)のものなのです。

 歴博の論文で、箸墓の築造時期が±10年の幅で特定されたというような記載もありましたが、明らかに較正曲線の読み取り結果の解釈の誤りです。測定論や統計的推論を知っているものからすれば、初歩的な解釈誤りでした。(現在はどう解釈されているのか知りませんが…)〟【転載終わり】

 この谷本さんの指摘は全くその通りだと思います。わたしも現役時代に、化学製品の品質管理と検定業務の責任者をしていたことがありますが、製品の品質を精確に測定するためには、測定機器の精度や測定原理が測定目的に対して適切であることの確認は、基本中の基本です。

 そうした意味からすると、炭素14年代測定法は100年単位のざっくりとした年代測定には科学的で優れた効果を期待できますが、10年単位の測定精度など原理的に望むべくもありません。言わば、1cm単位のメモリしかない定規で、1mmほどの砂粒の大きさを測れるのかというレベルの初歩的な問題です。
倭人伝に記載された「邪馬台国」(原文では邪馬壹国)を探るのであれば、例えば1mmほどの砂粒の大きさを測定するためには、せめて0.1mm単位、できれば0.01mm単位のメモリを持つ定規で測らなければならないように、較正曲線(intCAL)そのものが幅を持つ炭素14年代測定法ではなく、年輪年代測定法や年輪セルロース酸素同位体比測定法などに頼らざるを得ません。もちろんその場合でも、必要な測定条件・サンプリング環境(手法)が要求されます。(つづく)

(注)浦野文孝「箸墓は三〇〇年前後、ホケノ山は二七〇年前後:シンプルな根拠」『note』二〇二四年九月二日。
https://note.com/fumitaka_urano/n/n33c623b935b1

 

《以下、倉沢さんによる英訳》
‘Rakuchu Rakugai Diary’ 3502 July 4th,2025
The principles and limitations of carbon-14 dating method
―Email from Mr.Shigeru Tanimoto―

I received the following email from Mr.Shigeru Tanimoto (editor of ‘Seeking the Truth in Antiquity’), who read the article by Mr.Fumitaka Urano introduced in ‘Rakuchu Rakugai Diary’ 3501, titled ‘Hashihaka is around AD300, and Hokenoyama is around AD270: Simple Evidence’ (Note).
The content scientifically points out the limitations of the carbon-14 dating method from the perspective of a science researcher (a graduate of the Department of Electronic Engineering at Kyoto University, who has excelled at Hewlett-Packard and Agilent Technologies).
I will quote the relevant part.

【Email from Mr. Shigeru Tanimoto (excerpt)】
Thank you for providing very interesting information. (Omitted)
Regarding the analysis by Fumitaka Urano, although he uses the calibration curve (Intcal20) to obtain actual ages from measurement data with the age calibration software OxCal, while it is good to utilize those results, there seem to be some inaccuracies in his basic understanding of statistical inference (if evaluated strictly).
That aside, in broad terms, M.Urano’s concise logic is impressive as it sharply points out the internal contradictions of the conventional interpretation while relying on the same data as the mainstream view!
I was impressed that he recognized the logical constraints of dating based on pottery forms and that he was someone capable of scientific logical thinking.
Well, since the original interpretations of the C14 measurement data from historical museums and the Nara National Research Institute were somewhat distorted, I think it is impressive that the point that clearly pinpointed those shortcomings with straightforward logic.
Perhaps it means that we can no longer maintain unreasonable interpretations forever, and the veneer of common theory has begun to wear off…
By the way, it is a major misunderstanding to think that the actual age can be pinpointed (for example, ±10 years) using the C14 method.
Considering factors such as measurement errors in data and the range of calibration curves (statistically significant range), there is a width of about one century (±50 years) even under the best conditions, and typically the precision (or accuracy) is about ±100 years.
In the historical museum’s paper, there was a mention that the construction period of the Hashihaka Tomb was identified within a margin of ±10 years, but this is clearly an erroneous interpretation of the calibration curve reading results.
For those who are familiar with measurement theory and statistical inference, it was a basic interpretative error.
(I don’t know how it is currently interpreted, but…) [End of reproduction]

I completely agree with Mr.Tanimoto’s point.
During my active years, I was also responsible for quality control and testing operations of chemical products, and in order to accurately measure the quality of products, it is fundamental to confirm that the precision of measuring instruments and the measurement principles are appropriate for the purpose of measurement.
In that sense, carbon-14 dating can be expected to have a scientifically significant and excellent effect for rough dating on the order of hundreds of years, but it is fundamentally not possible to achieve measurement accuracy on the order of tens of years.
It’s a basic problem, so to speak, of whether you can measure the size of a grain of sand, which is about 1mm, with a ruler that only has markings at 1cm intervals.
If we are to investigate the “Yamatai(臺) Kingdom” (referred to as Yamawi (壹) Kingdom in the original text) as recorded in the “Chronicles of Japan,” we must rely on methods such as dendrochronology or the measurement of cellulose oxygen isotopes in tree rings, rather than the carbon-14 dating method, which has a wide calibration curve (intCAL).
Just as measuring a sand grain’s size, roughly 1mm, requires at least a ruler with divisions of 0.1mm, ideally 0.01mm, so too does our inquiry into Yamatai necessitate more precise methodologies.
Of course, even in that case, the required measurement conditions and sampling environment (methods) will be necessary. (to be continued)

(Note) Urano Fumitaka “Hashihaka is around AD300, Hokenoyama is around AD270: Simple Evidence” ‘note’ September 2, 2024.
https://note.com/fumitaka_urano/n/n33c623b935b1

(Photos) A transcript of a lecture by Mr. Tanimoto and Koga published in “Criticism of Eastern Historical Sources – A Challenge from ‘Honest History'” (2001).
A transcript of the lecture held at the Asahi Shimbun building in Tokyo to commemorate the 30th anniversary of the publication of “There Was No ‘Yamataikoku'”.


第3501話 2025/07/01

箸墓とホケノ山、C14年代の比較論

 ―浦野文孝さんの編年方法―

 6月22日に開催した『列島の古代と風土記』出版記念講演会で講演していただいた久住猛雄さんの主張「考古学では編年が基本」という言葉に触発され、新しい情報に基づく弥生編年について勉強し直しています。そうしたところ、とてもシンプル(単純明解)でロバスト(強固)な論理構造を持つ面白い論証をWEB上で見つけました。浦野文孝さんの「箸墓は三〇〇年前後、ホケノ山は二七〇年前後:シンプルな根拠」という論稿〔note〕です(注)。要点部分を抜粋引用します。

〝シンプルでわかりやすい根拠
箸墓周濠小枝、ホケノ山小枝群の測定結果と、両者の前後関係をもとに、以下のように整理できます。

・ホケノ山から出土した小枝群の炭素14年代測定によると、ホケノ山古墳は270年前後または4世紀後半の確率が高い。どちらが正しいかはわからない
・箸墓周濠から出土した小枝の炭素14年代測定によると、箸墓古墳は230年前後または300年前後の確率が高い。どちらが正しいかはわからない
・ホケノ山古墳→箸墓古墳の順番でつくられたと考えられる
(中略)
・ホケノ山古墳は箸墓古墳よりも古いのだから、4世紀後半の可能性は消え、270年前後が確定する
・ホケノ山古墳が270年前後で、ホケノ山古墳は箸墓古墳よりも古いのだから、箸墓古墳の230年前後の可能性は消え、300年前後が確定する

 これが僕の「箸墓古墳は300年前後、ホケノ山古墳は270年前後」の年代推定の根拠になります。とてもシンプルでわかりやすいです。〟

 この浦野さんの論理構造はわかりやすく、反論しにくいように思います。箸墓古墳が300年前後に編年されると、同様に布留0式も300年前後の土器となり、同種の土器が出土した各地の遺構や古墳の編年も軒並み300年頃となり、おそらく「邪馬台国」畿内説の根拠(鏡や土器)が失われるのではないでしょうか。

 ちなみに浦野さんは自説を「卑弥呼博多/邪馬台国大和説」とされていますので、「邪馬台国」東遷説に近いのかもしれません。古田先生の邪馬壹国博多湾岸説とは異なりますが、注目したい論者です。(つづく)

(注)浦野文孝「箸墓は三〇〇年前後、ホケノ山は二七〇年前後:シンプルな根拠」『note』二〇二四年九月二日。
https://note.com/fumitaka_urano/n/n33c623b935b1


第3500話 2025/06/28

7/05(土)「九州古代史の会」

     講演での追加テーマ

 ―「海の正倉院」の中の王朝交替―

 友好団体「九州古代史の会」の7月例会(7/05 福岡市早良区ももち文化センター)で講演させていただきます。当初予定していた講演テーマは「王朝交代前夜の倭国と日本国 ―温泉の古代史・太宰府遷都の真実―」だけでしたが、沖ノ島出土金銅製鞘から象眼発見のニュースが駆け巡ったため、急遽、最新のご当地ネタとして〝「海の正倉院」の中の王朝交替 ―沖ノ島・金銅製鞘の象眼発見ニュースに触れて―〟を追加することにしました。

 同ニュースの全てが「ヤマト王権が奉納した」と解説することを不審に思い、その根拠を調べたところ、大和朝廷一元史観という一つの仮説を根拠としており、ヤマトからもたらされたとする確たるエビデンスは無いようでした。むしろ、古墳時代から続く九州王朝(倭国)の象眼技術や美術・芸術の歴史的流れの中に位置づけられるとする理解の方が現実的であることがわかりました。

 更に、沖ノ島の遺跡(Ⅰ期 岩上祭祀遺跡 4世紀後半~5世紀、Ⅱ期 岩陰祭祀遺跡 5世紀後半~7世紀、Ⅲ期 半岩陰・半露天祭祀遺跡 7世紀後半~8世紀、Ⅳ期 露天祭祀遺跡 8世紀~9世紀)毎に遺物を精査したところ、Ⅲ期とⅣ期の間に九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交替(701年)の痕跡が残されていることがわかりました。この発見と仮説を追加テーマとして発表します。ご当地の皆さんに是非お聞きいただきたいと願っています。

多元的古代研究会
令和七年(2025)八月一日
海の正倉院の中の王朝交代
沖ノ島金銅製矛鞘の象眼発見ニュースに触れて
古賀達也(古田史学の会)
https://youtu.be/HkZ-f_2JMyo


第3495話 2025/06/12

九州古代史の会で講演します

沖ノ島・金銅製鞘の象眼発見ニュースに触れて

 7月5日、友好団体「九州古代史の会」の例会で発表させていただきます。日時・演題は下記のとおりです。

7月5日(土)午後1時半から ももち文化センター
演題 王朝交代前夜の倭国と日本国
―温泉の古代史・太宰府遷都の謎―
《追加テーマ》沖ノ島・金銅製鞘の象眼発見ニュースに触れて

 予定していたテーマ「王朝交代前夜の倭国と日本国」に加えて、急遽「沖ノ島・金銅製鞘の象眼発見ニュースに触れて」を追加することにしました。
「王朝交代前夜の倭国と日本国」は翌日(7/06)の久留米大学公開講座と同様の内容ですが、より詳しく説明します。『旧唐書』倭国伝・日本国伝の記事から、7世紀末に起きた九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交替の実体に迫り、九州王朝が太宰府を都とした理由の一つに、二日市温泉(次田の湯)の存在が大きかったことを論じます。

 追加テーマ「沖ノ島・金銅製鞘の象眼発見ニュースに触れて」では、ほとんど全てのメディアで〝ヤマト王権が沖ノ島に奉納したもの〟と説明していますが、九州王朝による奉納とする多元史観による仮説を提起したいと考えています。この発見はご当地のビッグニュースですので、触れないわけにはいかないと思い、急遽、付け加えることにしました。ご期待下さい。

 なお、「九州古代史の会」では三役が交代されたとのことで、代表に元伊都国歴史博物館長の榊原英夫さん、副代表に松中祐二さん、事務局長に工藤和幸さんが就任されるとのこと。松中さんや工藤さんはこれまでも懇意にさせていただいており、松中さんとは三十年来の友人です。「九州古代史の会」と「古田史学の会」との友好関係が更に進むものと期待しています。お世話になってきた旧三役の方々には厚く御礼申し上げます。

【写真】左の写真は、九州古代史の会の皆さんと、博多駅近くのお店で新年会の二次会(2020年1月12日)。中央が工藤さん、その左が松中さん。わたしの左が前田和子さん(前事務局長)。
 右の写真は、左端が松中さん、右端はわたしが尊敬している太宰府市の考古学者、井上信正さん。福岡市天神での新年会場にて(2017年1月15日)。

第3481話 2025/05/01

志賀島の金印発見の経緯記した史料

 本日の読売新聞 WEB版に興味深い記事がありました。志賀島で金印が発見されて福岡藩に納められるまでの経緯が記された文書「金印考文」を、作成者の子孫にあたる東大寺の森本公誠長老が所蔵しているというもので、その文書には、1784年に農民の甚兵衛が田んぼで発見し、福岡藩主の黒田家に献上したという内容が記されているとのことです。

 他方、そうした通説とは異なる口碑伝承が当地には伝えられており、古田先生も調査されていました。それは、金印は糸島市の細石神社に代々伝わってきたもので、何らかの事情により福岡藩にわたったというものです。古田先生の調査によれば、発見者とされる甚兵衛という人物の実在を確認できないことと、志賀島叶の崎には弥生時代の遺構が発見されておらず、甚兵衛により発見されたという経緯も怪しく、細石神社や当地に伝えられてきたという伝承の存在を軽視できないということでした。

 今回のニュースによれば、従来説の信憑性が高まることになり、このテーマは引き続き検討が必要です。下記の「洛中洛外日記」などでも複数の現地伝承について触れていますので、ご覧下さい。

「古賀達也の洛中洛外日記」
806話 2014/10/19 細石神社にあった金印
1337話 2017/02/14 金印と志賀海神社の占い
1776話 2018/10/25 八雲神社にあった金印
1781話 2018/11/04 亀井南冥の金印借用説の出所
『古田史学会報』139号、2017年 金印と志賀海神社の占い

【以下、読売新聞 WEB版から転載】
三つの石に箱のように囲まれて…
「金印」発見の経緯記した史料、東大寺長老が所蔵

 江戸時代に福岡・志賀島(しかのしま)で国宝の金印が発見されて福岡藩に納められるまでの経緯が記された文書「金印考文」を、作成者の子孫にあたる奈良・東大寺の森本公誠長老(90)が所蔵している。子孫にあたる家などに伝えられたとみられ、貴重な資料として研究者が注目する。(奈良支局 栢野ななせ)

 金印は、約2.3センチ四方の印面に篆書(てんしょ)体で「漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)」と刻み、つまみ部分の「鈕(ちゅう)」は蛇をかたどったとされる。1784年に農民の甚兵衛が田んぼで発見し、福岡藩主の黒田家に献上されたという。1954年に国宝に指定され、78年に福岡市に寄贈された。

 金印考文は、発見から約20年後の1803年に福岡藩の学者・梶原景熙(かげひろ)が記した史料。〝金印は三つの石に箱のように囲まれて埋められていた。鑑定で黄金の印であると判明したため郡奉行に伝え、福岡藩主が実見した。金印は蔵に納め、甚兵衛は褒美を受け取った〟などと記されている。福岡市博物館によると、文書は複数あり、志賀島の旧家などに伝わったと考えられる。島の地図が添えられたものと地図のないものの大きく2系統に分けられるという。

 森本長老が所蔵する文書は縦37.7センチ、横50.5センチ。長老の祖母が梶原家出身で、長老が30年ほど前、おじから文書を引き継いだ。金印発見の経緯や「印を押し、鈕の形を図に写した」という記述、島の地図、金印と大きさが一致する「漢委奴國王」の印影がある。蛇の細かい文様や金印のわずかな欠損まで描き表した図も添えられている。

 同博物館の朝岡俊也学芸員は「(景熙の)自筆かどうかの判断は難しいが、金印考文の中でも、書いた本人の一族に伝えられているという点で貴重だと言える」と説明。大阪市立美術館の内藤栄館長(芸術学)は「手元に金印があったとすれば、実際に押し得たかもしれない。実物を写し取らなければ、図もこれほど細部まで描けないだろう」と指摘する。森本長老は「文書とともに石が伝えられたが、戦争の混乱で失われたと聞く。もしかすると(文書に記されている)金印を囲んでいた石だったのかもしれない」と話している。

 金印は、大阪市立美術館で開催中の「日本国宝展」(読売新聞社など主催)で7日まで展示されている。

【写真】森本長老が所蔵する金印考文。志賀島の金印。