考古学一覧

第3366話 2024/10/10

関川さんから

  『葛城の考古学』をいただく

 過日、奈良市で関川尚功(せきがわ ひさよし)先生と10/27東京講演会の最終打ち合わせを行った際、著書『葛城の考古学』(注)をいただきました。同書は、一般の古代史ファンや考古学ファン向けというよりも、研究者向けの専門書です。奈良盆地の南西部にあたる葛城の地から出土した遺構・遺物を紹介したもので、時代的には旧石器から律令国家までを網羅したもの。関川先生はその中の下記の項目を執筆されています。

 第2章 初期農耕文化の展開と地域統合
第3節 ムラからクニへ
1 集落の動向
2 高地性集落の出現

 第3章 葛城氏の勃興と古墳文化
第1節 台頭した地域の首長層
1 葛城北部における首長墓の出現と系譜
2 葛城南部における首長墓とその特色
第2節 馬見古墳群と葛城の天皇陵
1 馬見古墳群
2 王墓と石棺
3 埴輪や木製品にみる古墳の葬祭

 次にお会いする10月27日の東京講演会までには読んでおかなければならないと思い、『古代に真実を求めて』投稿論文の査読の合間に読んでいますが、奈良県の古墳時代の基礎知識や葛城地方の土地勘がないこともあって、難渋しています。

 しかし、読んでいて気づいたのですが、九州や他の地方の古墳とは異なり、『日本書紀』や延喜式などを根拠に、被葬者を推定しながら仮説や論が展開されており、今まで読んだ弥生や古墳時代の考古学専門書とは雰囲気が異なるのです。この点は、文献史学を研究しているわたしにも、興味深く拝読できました。

 相変わらず超多忙な日々が続いていますが、頑張って読破します。なお、東京講演会のリハーサルで説明を受けた古墳や遺物、銅鏡などが同書に紹介されており、この点は理解が進みました。

(注)松田真一編『葛城の考古学 ―先史・古代研究の最前線―』八木書房、2022年。


第3319話 2024/07/06

『多元』182号の紹介

 友好団体である多元的古代研究会の会報『多元』182号が届きました。同号には拙稿〝吉野ヶ里出土石棺被葬者の行方〟を掲載していただきました。同稿では、30年前に古田先生と吉野ヶ里遺跡に行ったときの思い出や、銅鐸が出土した加茂岩倉遺跡(島根県加茂町)を先生が一人お忍びで訪問されたときのエピソードなどを紹介しました。更に〝日本の発掘調査技術の進歩〟として、最先端機材を使用した福岡県古賀市の船原古墳発掘調査の方法を解説しました。それは次のようなものです。

(a)遺構から遺物が発見されたら、まず遺構のほぼ真上からプロカメラマンによる大型立体撮影機材で詳細な撮影を実施。
(b)次いで、遺物を土ごと遺構から取り上げ、そのままCTスキャナーで立体断面撮影を行う。この(a)と(b)で得られたデジタルデータにより遺構・遺物の立体画像を作製する。
(c)そうして得られた遺物の立体構造を3Dプリンターで復元する。そうすることにより、遺物に土がついたままでも精巧なレプリカが作製でき、マスコミなどにリアルタイムで発表することが可能。
(d)遺物の3Dプリンターによる復元と同時並行で、遺物に付着した土を除去し、その土に混じっている有機物(馬具に使用された革や繊維)の成分分析を行う。

 こうした作業により、船原古墳群出土の馬具や装飾品が見事に復元され、遺構全体の状況が精緻なデジタルデータとして保存されました。日本の発掘調査技術がここまで進んでいる一例として紹介しました。

 同誌には清水淹(しみず ひさし、横浜市)さんの「最近の団体誌を見て」という記事が連載されており、『古田史学会報』や『東京古田会ニュース』などに掲載された論稿の批評がなされています。わたしも友好団体から送られてくる会誌を拝読していますが、わたしとは異なる清水さんの視点や感想が報告されており、とても勉強になります。学問研究は、自説への批判や自分の考えとは異なる意見に触れることにより発展しますので、毎号、楽しみに読んでいます。


第3312話 2024/06/27

関川尚巧(元橿原考古学研究所)さん

           との考古談義

 一昨日、奈良市で関川尚巧(せきかわ ひさよし)さんと長時間考古学・古代史談義をしました。関川さんは元橿原考古学研究所の考古学者で、学生時代から40年近く大和・飛鳥を発掘されてきた方です。今でも、発掘の現地指導をしているそうです。そうした永年の経験に基づいた〝大和に邪馬台国はなかった〟とする『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』(注①)の著者でもあります。「古田史学の会」でも講演していただきました。

 今回の面談では、「多元的古代研究会」「古田史学の会」創立30周年記念東京講演会(日程・会場は未定)での講演依頼とその打ち合わせを行いました。「古田史学の会」からは正木事務局長・竹村事務局次長・上田事務局員とわたしが出席し、打ち合わせ後は三時間にわたり考古学や古代史について歓談が続きました。

 関川さんの遺跡発掘体験談の数々をお聞きしましたが、なかでも太安萬侶墓発掘時(注②)のエピソードはとても興味深いものでした。同墓は茶畑開墾中に発見されたとのことで、そのとき墓誌が移動したため、墓誌本来の位置が不明だったのですが、墓誌の破片の一部が本来の場所に残っていることを関川さんが発見され、その破片の場所が本来の墓誌の位置であることを確定できたとのことでした。この他にも、飛鳥や奈良県から出土した多くの有名な遺跡発掘調査に関川さんが携わられていることをうかがうことができました。

 ちなみに、「邪馬台国」畿内説は全く成立せず、北部九州であるという点は、わたしたちと完全に意見が一致したことは言うまでもありません。氏の考古学に対する情熱や真摯な学問精神は共感するところ大でした。関東の皆さんにも関川さんの講演を聴いて頂きたいと願っています。

(注)
①関川尚巧『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②1979年(昭和54年)、奈良県奈良市此瀬町の茶畑から安万侶の墓が発見され、火葬された骨や真珠が納められた木櫃と墓誌が出土した。


第3289話 2024/05/23

二つの「白雉元年」と難波宮 (1)

 ―「白雉」年号のエビデンス―

 九州年号「白雉」には『日本書紀』型と『二中歴』型の二種類があります。

◎『日本書紀』型は元年を650年庚戌として、五年間続く。
◎『二中歴』型は元年を652年壬子として、九年間続く。

 後代史料には、この二種類の白雉年号の存在に困惑したためか、次のような表記さえ出現します。

 「白雉元年[庚戌]歳次壬子」『箕面寺秘密緑起』(注①)

 []内の庚戌は小字による縦書き二行ですので、元来は「白雉元年歳次壬子」(652年)とあった記事に、『日本書紀』の「白雉元年」の干支「庚戌」(650年)を小文字で書き加えたものと思われます。というのも、元々「白雉元年[庚戌]」とあったのであれば、「歳次壬子」を付記する必要は全くありませんし、意味不明の年次表記にする必要もありません。しかし、「白雉元年歳次壬子」とあったのであれば、『日本書紀』の白雉元年干支と異なっているため、「庚戌」を付記したと動機を説明できます。

 50年に及ぶ九州年号研究により、『二中歴』型が最も九州年号の原姿に近く、『日本書紀』孝徳紀の白雉は九州年号から二年ずらしての転用であると理解されてきました。その後、芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した「元壬子年」木簡の再調査(2006年)により、『二中歴』型が正しかったことが決定づけられました。

 しかしながら、『木簡研究』19号(注②)には「三壬子年」と判読していましたので、兵庫県教育委員会の許可を得て、2006年4月21日に古田先生らと同木簡を二時間にわたり実見調査しました。そして次の所見を得ました。

【「元壬子年」木簡観察の所見】
1.第三画の右端が極端に上に跳ねている。木目に沿った墨の滲みかとも思われたが、そうではなく明確に上に跳ねていた。下には滲みがない。これが「元」である最大の根拠である。
2.第三画の中央付近が切れている。赤外線写真も撮影して確認したが、肉眼同様やはり切れていた。従って、「三」よりも「元」に近い。
3.第三画が第一画と第二画に比べて薄く、とぎれとぎれになっている。更に、左から右に引いたのであれば、書き始めの左側が濃くなるはずだが、実際は逆で、右側の方が濃くなっている。これは、右側と左側が別々に書かれた痕跡である。
4.木目により表面に凹凸があるが、第三画の左側は木目による突起の右斜面に墨が多く残っていた。これは、右(中央)から左へ線を書いた場合に起きる現象。従って、第三画の左半分は、右から左に書かれた「元」の字の第三画に相当する。
5.第三画右側に第二画から下ろしたとみられる墨の痕跡がわずかに認められた。これは「元」の第四画の初め部分である。

 以上のように、「三」ではなく「元」であることは明白ですし、肉眼でも「元」に見えました。元年を壬子の年とする年号は九州年号の「白雉」であり(注③)、やはり『二中歴』型が正しかったわけです。『木簡研究』の報告は『日本書紀』の二年ずれた白雉年号の影響を受けたようです。(つづく)

(注)
①「箕面寺秘密緑起」は五来重編『修験道資料集Ⅱ』(名著出版、1984年)による。同書解題には、「箕面寺秘密緑起」を江戸期成立と見なしている。
②『木簡研究』19号、木簡学会、1997年。
https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/8834/1/AN00396860_19_044_045.pdf
③『木簡研究』19号には、高瀬氏一嘉氏による次の説明がなされている。
「裏面は年号と考えられ、年号で三のつく壬子は候補として白雉三年(六五二)と宝亀三年(七七二)がある。出土した土器と年号表現の方法から勘案して前者の時期が妥当であろう。」


第3288話 2024/05/20

前期難波宮孝徳朝説は「定説」です (4)

 前期難波宮孝徳朝説はほとんどの考古学者が認めている定説である。この見解の根拠となる、前期難波宮孝徳朝説に反対する考古学者であっても「孝徳朝説は定説」とする、泉武さんと伊藤純さんの見解を紹介しました。同様の見解は考古学者にとどまらず、文献史学の著名な研究者からも述べられていることを本シリーズの最後に紹介します。直木孝次郎さん(1919~2019)と市大樹さんのお二人です(他にも大勢いますが)。

 直木さんは次のように主張され、前期難波宮こそ孝徳朝の首都にふさわしいとされました。

 〝周知のように藤原宮朝堂院も、平城宮第二次朝堂院も、いずれも十二朝堂をもつ。平城宮第一次朝堂院はやや形態をことにして十二朝堂ではないが、一般的には十二朝堂をもつのが朝堂院の通常の形態で、長岡京朝堂院が八朝堂であるのは、簡略型・節約型であるとするのが、従来の通説であった。この通説からすると、後期難波宮の八堂というのは、簡略・節約型である。なぜそうしたか。奈良時代の首都である平城京に対し、難波京は副都であったから、十二堂を八堂に減省したのであろう。(中略)

 首都十二堂に対し副都八堂という考えが存したとすると、前期難波宮が「十二の朝堂をもっていた」すなわち十二堂であったという前記の発掘成果は、前期難波宮が副都として設計されたのではなく、首都として設計・建設されたという推測をみちびく。

 もし前期難波宮が天武朝に、首都である大和の飛鳥浄御原宮に対する副都として造営されたなら、八堂となりそうなものである。浄御原宮の遺跡はまだ明確ではないが、現在有力視されている明日香村岡の飛鳥板蓋宮伝承地の上層宮跡にしても、他の場所にしても、十二朝堂をもっていたとは思われない。そうした浄御原宮に対する副都に十二朝堂が設備されるであろうか。前期難波宮が天武朝に造営されたとする意見について、私はこの点から疑問を抱くのである。

 前期難波宮が首都として造営されたとすると、難波長柄豊碕宮と考えるのがもっとも妥当であろう。孝徳朝に突如このような壮大な都宮の営まれることに疑惑を抱くむきもあるかもしれないが、すでに説いたように長柄豊碕宮は子代離宮小郡宮等の造営の試行をへ、改新政治断行の四、五年のちに着工されたのであろうから、新政施行に見合うような大きな構想をもって企画・設計されたことは十分に考えられる。(中略)

〔追記〕本章は一九八七年に執筆・公表したものであるが、一九八九年(平成元年)の発掘の結果、前期難波宮は「従来の東第一堂の北にさらに一堂があることが判明し、現在のところ少なくとも一四堂存在したことがわかった」(中尾芳治「難波宮発掘」〔直木編『古代を考える 難波』吉川弘文館、一九九二年〕)という。そうならば、ますます前期難波宮は副都である天武朝の難波の宮とするよりは、首都である孝徳朝の難波の長柄豊碕宮と考えた方がよいと思われる。〟(注②)

 次に木簡研究で著名な市大樹さん(大阪大学大学院教授)は次のように述べています。

 〝一九五四年から続く発掘調査によって、大阪市の上町台地法円坂の一帯から二時期にわたる宮殿遺構が検出され、上層を後期難波宮、下層を前期難波宮と呼んでいる。後期難波宮が聖武朝(七二四~四九)に再興された難波宮であることは異論を聞かない。これに対して前期難波宮は、ほぼ全面に火災痕跡があることから、『日本書紀』朱鳥元年(六八六)正月乙卯条に「酉時、難波大蔵省失火、宮室悉焼」と記される難波宮に相当すると見てよいが、造営時期を孝徳朝(六四五~五四)・天武朝(六七二~八六)いずれとみるのかで長い議論があった。しかし、一九九九年に北西部にある谷から「戊申年」(大化四年、六四八)と書かれた木簡が出土したことや、造成整地土から七世紀中葉の土器が多く出土したことなどもあり、現在では孝徳朝の難波長柄豊碕宮とみるのがほぼ通説となっている。〟(注③)

 このように「戊申年」木簡等を根拠として、前期難波宮を七世紀半ばの造営とすることが「ほぼ通説」であるとされ、市さんも通説に賛成しています。2017年9月、大阪歴博での講演会でも市さんはそのように述べていました。
学問は多数決ではありませんから、少数意見という理由でその仮説を否定するのは学問的ではありません。何よりも、わたしの説も定説「孝徳朝説」とは異なる超少数意見です。すなわち、前期難波宮を九州王朝による七世紀中葉(652年)創建とする説だからです。(おわり)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」668話(2014/02/28)〝直木孝次郎さんの「前期難波宮」首都説〟
②直木孝次郎『難波宮と難波津の研究』吉川弘文館、1994年。
③市大樹「難波長柄豊碕宮の造営過程」『交錯する知』武田佐知子編、思文閣出版、2014年。


第3286話 2024/05/15

前期難波宮孝徳朝説は「定説」です (3)

 大下隆司さんの発表資料には、前期難波宮孝徳朝説への反対論者として伊藤純さんの名前がありました。伊藤さんとは面識がありましたので、懐かしく思いました。十二年前のことですが、大阪歴博研究員だった伊藤純さんに前期難波宮造営年代についてお聞きしたことがありました(注)。
わたしは伊藤さんが前期難波宮孝徳期造営説に立っておられると思いこみ、その根拠について質問を続けていたのですが、どうも様子がおかしのいです。そこで突っ込んでおたずねしたところ、なんと伊藤さんは前期難波宮天武朝造営説だったのです。
「わたしは少数派です。九十数パーセント以上の考古学者は孝徳朝説です。学問は多数決ではありませんから。」
「学問は多数決ではない」という意見には大賛成ですとわたしは述べ、考古学的出土物(水利施設出土土器編年、634年伐採木樋の年輪年代、「戊申年」648年木簡)は全て孝徳期造営説に有利ですが、天武期でなければ説明がつかない出土物はあるのですかと質問しました。伊藤さんの答えは、もし「宮殿平面の編年」というものがあるとすれば、前期難波宮の規模は孝徳朝では不適格であり、天武朝にこそふさわしいというものでした。

 この伊藤さんの見解にわたしは深く同意しました。もちろん、「天武朝造営説」にではなく、「前期難波宮の規模が孝徳朝では不適格」という部分にです。この点こそ、わたしが前期難波宮九州王朝「副都」説(後に「複都」とした)に至った理由の一つだったからです。すなわち、七世紀中頃の大和朝廷の宮殿としては、その前後の飛鳥宮と比較して突出した規模と全く異なった様式(朝堂院様式)なのです。

 更に言えば、九州王朝説に立つものとして、大宰府政庁よりも格段に大規模な前期難波宮を通説通り大和の天皇のものとするならば、701年の王朝交代まで列島の代表王朝だった九州王朝(倭国)の存在と九州王朝説そのものが揺らぎかねません。しかも、前期難波宮創建(652年)は、王朝交代の主要因となった白村江敗戦(663年)よりも前のことです。この問題に気づいてから、わたしは何年も考え続け、その結果出した解答が前期難波宮九州王朝「副都」説だったのです。

 そこで、わたしは伊藤さんに次の質問を投げかけました。
「考古学的に見て、孝徳期説と天武期説のどちらが妥当と思われますか」。
この問いに対して、伊藤さんは
「孝徳期説の方がおさまりがよい」
と述べられたのです。自説は天武朝説であるにもかかわらず、考古学的な判断としては「孝徳朝の方がおさまりがよい」と正直に述べられたのです。この言葉に、伊藤さんの考古学者としての誠実さと、古代史研究者としての論理の鋭さを感じました。たとえ意見が異なっていても、伊藤さんのような誠実な研究者とは学問的対話が成立し、お互いを高め合うことができます。

 対話の最後にわたしは、
「大阪歴博の研究者は全員が孝徳期造営説と思いこんでいたのですが、伊藤さんのような少数説があることに、ある意味安心しました。これからは文献研究者も考古学者も、考古学編年と宮殿発展史との矛盾をうまく説明することが要請されます。学問は多数決ではありませんので、これからも頑張ってください。今日はいろいろと教えていただき、ありがとうございました。」
とお礼を述べました。そして、伊藤さんが抱かれた矛盾(前期難波宮造営時期は、考古学的には七世紀中葉だが、近畿天皇家の宮殿様式・規模の変遷史からは七世紀後葉とするのが妥当)を解決できる仮説は、前期難波宮九州王朝王宮説しかないと確信を深めたものでした。

 孝徳朝説に反対の伊藤さんの認識「九十数パーセント以上の考古学者は孝徳朝説」からも、〝前期難波宮孝徳朝説はほとんどの考古学者が認めている定説である〟とした、わたしの見解はやはり妥当なものなのです。(つづく)

(注)古賀達也「洛中洛外日記」474話(2012/09/26)〝前期難波宮「孝徳朝説」の矛盾〟


第3285話 2024/05/14

前期難波宮孝徳朝説は「定説」です (2)

 大下隆司さんが前期難波宮孝徳朝説への反対論者として紹介した研究者に白石太一郎さん(注①)がいます。しかし、白石さんは大下さんや泉武さんの天武朝説とは異なり、天智朝造営説です。白石さんの論文「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」(注②)冒頭の「はじめに」に次のように記されています。

「今日では、少なくとも考古学の分野では、前期難波宮を孝徳朝の難波長柄豊碕宮と考える説がほぼ定説化している。」3頁

 このように、孝徳朝説に反対する白石さん自身が、孝徳朝説を「少なくとも考古学の分野では(中略)ほぼ定説化している」と認識していることがわかります。わたしが〝前期難波宮孝徳朝説はほとんどの考古学者が認めている定説である〟としたことと同様の認識なのです。そして、白石さんは次のような見解をくり返し述べ、孝徳朝説と同時に天武朝説(672~686年)をも否定しています。

 「前期難波宮整地層出土の土器群の中には明らかに西暦660年代頃のものが含まれている可能性が大きいと思われる。」3頁
「このように、前期難波宮整地層にはおそらくは水落段階、すなわち前章の検討結果からは660年代中頃から後半の土器が含まれていることになる。」17頁
「前期難波宮の整地層と水利施設の厳密な層位関係はもとより不明であるが、この水利施設が前期難波宮造営の一環として建設されたものであることについては疑いなかろう。ただしその時期は、飛鳥編年では坂田寺池段階のものであり、660年代前半、遡っても660年前後にまでしか上らない。」20頁
「前期難波宮下層の土器が『到底天武朝まで下がるものとは考えられない』という考え方が大きな落とし穴になっていたように思われる。それは天武朝までは下がらないとしても、孝徳朝までは遡らないのである。」22頁 ※この部分は白石氏自身の以前の見解に対してのもの。

 以上のように、白石さんは前期難波宮天武朝説ではなく、天智朝説(662~671年)なのです。その根拠は飛鳥編年に基づくもので、「最近の飛鳥編年にもとづく土器の編年研究では、少なくとも七世紀中葉から第3四半期では10年単位の議論が可能な段階になってきている」(20頁)として、孝徳朝説も天武朝説も否定し、天智朝説を主張されています。
ですから、孝徳朝説(定説)を否定する少数意見のなかにも両立し得ない天智朝説と天武朝説があり、飛鳥編年による土器編年も一様ではないことが見て取れます。ここで重要な視点は、飛鳥編年とは『日本書紀』の記事をその年次も含めて正しいとすることを前提として成立しています。更に、飛鳥から出土した遺構や層位を『日本書紀』の特定の記事に対応させ、そこからの出土土器を相対編年するという手法を採用しています。

 従って、『日本書紀』の記述が正しいかどうかは検証の対象であり、論証抜きで是とする一元史観を批判するわたしたち古田学派の研究者にとっては、飛鳥編年も検証の対象であり、採用する場合でも用心深く使用しなければならないことを改めて指摘しておきたいと思います(注③)。わたしは、白石さんのように土器の相対編年だけで10年単位の年次判定をすることは危険であり、難波編年を作成した佐藤隆さんのように前葉・中葉・後葉の幅で土器編年を捉えるのが妥当と考え、佐藤さんの七世紀の難波編年を支持してきました(注④)。
今回紹介した白石さんの論文によっても、前期難波宮孝徳朝説が定説となっていることがご理解いただけると思います。(つづく)

(注)
①下記①の論文発表時、大阪府立近つ飛鳥博物館々長。
②白石太一郎「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」『大阪府立近つ飛鳥博物館 館報16』大阪府立近つ飛鳥博物館、2012年。
③飛鳥編年の基礎データそのものが信頼性に問題があるとした次の論文がある。
服部静尚「須恵器編年と前期難波宮 ―白石太一郎氏の提起を考える―」『古代に真実を求めて』17集。古田史学の会編、明石書店、2014年。
④佐藤隆『難波宮址の研究 第十一 前期難波宮内裏西方官衙地域の調査』2000年、大阪市文化財協会。


第3278話 2024/05/01

泉論文と

  前期難波宮造営時期のエビデンス

前期難波宮を天武朝による七世紀後葉の造営とする泉論文(注①)ですが、わたしは、前期難波宮と藤原宮の整地層出土主要土器が異なっており(前期難波宮は須恵器坏GとH。藤原宮は坏B)、両者を同時期(天武期・七世紀後葉)と見なすのは無理であり、明らかに前期難波宮の整地層が数十年は先行すると考えています。このことは、殆どの考古学者も認めているところです。更に言えば、前期難波宮孝徳期(七世紀中葉)造営を示す次のエビデンスが知られています(注②)。

(1) 難波宮近傍のゴミ捨て場層から「戊申年」(648年)木簡が出土し、前期難波宮整地層出土土器編年と一致したことにより、前期難波宮孝徳期造営説は最有力説となった。

(2) 水利施設出土木材の年輪年代測定により、最外層年輪を有す木材サンプルの伐採年が634年と判明した。転用の痕跡もなく、634年に伐採されたヒノキ原木が使用されたと考えられ、前期難波宮孝徳期造営説が更に強化された。

(3) 年輪セルロース酸素同位体比による年代測定によれば(注③)、難波宮から出土した柱を測定したところ、七世紀前半のものとわかった。この柱材は2004年の調査で出土したもので、1点(直径約31㎝、長さ約126㎝)はコウヤマキ製で、もう1点(直径約28㎝、長さ約60㎝)は樹種不明。最外層の年輪は612年、583年と判明した。伐採年を示す樹皮は残っていないが、部材の加工状況から、いずれも600年代前半に伐採され、前期難波宮北限の塀に使用されたとみられ、通説(孝徳朝による七世紀中葉造営説)に有利な根拠とされた。

以上のように、干支木簡や理化学的年代測定値のいずれもが前期難波宮の造営を七世紀中葉であることを示唆しており、七世紀後葉の天武期とするエビデンスはありません。これらは難波宮研究では有名な事実ですが、(2)(3)については、なぜか泉論文には触れられてもいません。自説に不都合なデータを無視したのであれば、それは学問的態度ではないという批判を避けられないでしょう。(つづく)

(注)
①泉武「前期難波宮孝徳朝説の検討」『橿原考古学研究所論集17』2018年。
同「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。
②この場合、孝徳期(七世紀中葉)の造営を示唆するというにとどまり、造営主体が孝徳天皇(近畿天皇家)であることを示すわけではない。
③総合地球環境学研究所・中塚武教授による測定。


第3277話 2024/04/29

泉武氏「前期難波宮孝徳朝説」批判の論理

 高橋工さん(注①)から教えて頂いた、泉武さんの論文「前期難波宮孝徳朝説の検討」とその続編「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」を読みました(注②)。前期難波宮天武朝造営説は、今までにも少数の研究者から発表されていましたが、発掘調査などで判明した多くの考古学的根拠により、殆どの研究者からは孝徳朝造営説が支持され、ほぼ定説と見なされてきました。ですから、今更どのような根拠でその定説を批判するのだろうかと興味を持って泉論文を精読したのですが、今までにはない新たな視点による批判が見られ、驚きました。

 それは一元史観(日本書紀の記事の大枠を是とする歴史認識)に基づく定説(孝徳朝説)の考古学者には反論しにくいものでした。今後、定説の立場から、どのような反論がなされるのか楽しみです。しかし、泉さんの孝徳朝説批判の多くに対しては反証が可能なのですが、定説側からの反論が困難な指摘部分こそ、わたしが提唱した前期難波宮九州王朝複都説の傍証とも言えるものでした。そうした意味に於いて、泉論文はとても重要な指摘がなされており、その結論(前期難波宮天武朝説)にわたしは反対ですが、優れた批判論文でした。

 泉説の特徴は、前期難波宮整地層の下から出土した下層遺跡の建物を孝徳朝の宮殿と見なし、整地層の上に立てられた前期難波宮を天武朝による造営とすることです。従って、更に上にある聖武朝の後期難波宮を含めて、上町台地法円坂には三層の王宮があったとします。定説では、前期難波宮整地層から出土する土器が7世紀中葉と編年されることから、整地層の上に造られた朝堂院様式の巨大宮殿を難波長柄豊碕宮とします。これに対して、泉さんは次のように論断します。

 〝1.前期難波宮整地層の問題。通説的には同整地層出土の土器を7世紀中葉に比定して、この整地層を基盤にする建物が孝徳天皇の長柄豊碕宮であると主張されているが、考古学上の基本的な方法論では、整地層の造営は7世紀中葉以降であるとしかできない。〟「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」42頁。

 この「考古学上の基本的な方法論では、整地層の造営は7世紀中葉以降であるとしかできない」とする見解自体は誤りではありませんが、実際の整地層出土土器の様相を見れば、この見解をもって整地層の造営を天武紀とする根拠にはできません。なぜなら、天武朝の時代(671~686年)の代表的な土器である須恵器坏Bが整地層からは全く出土しないからです。この出土事実に触れないまま、泉論文では「基本的な方法論」のみを述べて、整地層出土土器の現実を無視しており、学問的には恣意的な論法と言わざるを得ません。

 更に言えば、天武朝の時代の造営である藤原宮(京)の整地層から出土する主要土器は須恵器坏Bであり、主要出土土器を須恵器坏G・坏Hとする前期難波宮整地層とは様相が全く異なっています。この一点だけでも、泉説が成立しないことは明白と思われます。(つづく)

(注)
①大阪市文化財協会・事業企画課。
②泉武「前期難波宮孝徳朝説の検討」『橿原考古学研究所論集17』2018年。
同「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。


第3274話 2024/04/21

高橋工氏の

  「前期難波宮孝徳朝説批判への批判」

 4月6日の「古田史学の会・関西」遺跡巡りの特別企画として、高橋工さん(大阪市文化財協会)をお招きして、難波宮発掘調査の最新状況についてのお話しをうかがうことができました(注①)。高橋さんは難波京条坊を最初に発見した考古学者です。実証的発掘調査研究を主領域とする考古学界において、氏はものごとを極めて論理的に考察される研究者で、わたしが尊敬する考古学者のお一人です。

 講演の終わりの方で次のことが書かれたスライドが映し出され、驚きました。

「5 孝徳朝(前期)難波宮説批判への批判
70年代に前期難波宮内裏の構造が明らかになるにつれ、この宮跡が孝徳朝(7世紀中葉)に遡ることがわかってきた。『日本書紀』に登場する難波長柄豊碕宮である。しかし、主に文献史学(古代史)の研究者から前期難波宮は天武朝(7世紀後葉)より古くはならないという批判が出た。理由は、孝徳朝にはこのように大規模な宮殿を必要とする官僚制度(およびそれを規定する成文法)がなかったとする考えによる。

 しかし、その後約30年間に行われた発掘調査では、遺構の年代が7世紀中葉を示す発見が積み上げられ、前期難波宮が孝徳朝の難波長柄豊碕宮である蓋然性は高まっていった。そして、ついに2000年、府警本部の発掘調査で「戊申年(749年)」を記した木簡が出土したことで、このことは証明されたと私達は考えている。

 ところが、ここ数年で、やはり孝徳朝説を否定する論文が続けて発表された。この論文では難波宮下層を孝徳朝難波宮に比定している。遺構考古学的にはこの殆どを論破することが可能であるが、根本には大化改新を史実性を低く評価し、巨大な前期難波宮が文献に現れた官僚制度とつりあわないとみる一部の文献史学者の考え方がいまだに根強く残っているということであろう。
では、文献との整合性を重視するのであれば、日本書紀白雉三(652)年に長柄豊碕宮の完成を記された「秋九月、造宮已訖、其宮殿状不可殫論」の評価に相応しい宮殿が他にあることを示す必要があろう。」

 この高橋さんの反論は近畿天皇家一元史観に基づく通説に依っていますので、全てに賛成するわけではありませんが、前期難波宮が7世紀中葉の造営とする見解は大賛成ですし、〝「秋九月、造宮已訖、其宮殿状不可殫論」の評価に相応しい宮殿が他にあることを示す必要があろう〟という反論も当然の指摘です。

 他方、わたしは未だに「前期難波宮孝徳朝説」(正確には前期難波宮7世紀中葉造営説)に反対する論文が発表されていることに驚き(注②)、「誰の論文でしょうか」とたずねたところ、「橿原考古学研究所の泉さんです」とのこと。存じ上げない名前でしたので、早速、調べてみることにしました。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3266話(2024/04/08)〝高橋工氏の難波宮最新報告を聴講〟
②古田学派内でも、前期難波宮を天武の造営とする見解が、大下隆司氏より発表されてきた。ところが、昨年、孝徳朝造営説に変更したと、同氏は多元的古代研究会のリモート研究会において、同会の和田事務局長の質問に対して答えられていた。論文による変更理由の説明がなされるものと期待している。


第3240話 2024/03/02

公開シンポ「高地性集落」論のいま

 昨日、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からのメールで、同志社大学今出川キャンパスにおいて〝「高地性集落」論のいま〟というテーマで公開シンポジウムが開催されることを知り、急遽、先約をキャンセルして、本日の公開シンポに参加しました。正木さん竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)、大原重雄さん(『古代に真実を求めて』編集部)をはじめ何名かの会員の皆さんのお顔も見えました。

 同シンポは高名な考古学者、森岡秀人先生が研究代表をされた〝2020年~2023年度科学研究費助成事業「弥生時代高地性集落の列島的再検証」〟の成果公開・普及シンポジウムで、副題は「半世紀ぶりの研究プロジェクトの成果と課題」というもの。昨年、「古田史学の会」講演会で講演していただいた若林邦彦さん(注①)が、開催校の教授として中心的に関わっておられていましたので、お礼を兼ねてご挨拶しました。

 発表者は17名(一人20分)に及び、高地性集落の研究動向に大きな変化が起きていることがわかりました(注②)。わたしとしては、個々の論点とは別に、研究動向変化の背景や事情に関心を覚えました。その解説は別途行いたいと思います。

 会場で出版物の販売も行われており、『古代武器研究』Vol.3(2002年)を購入しました。同書は2002年1月、滋賀県立大学で開催された第三回古代武器研究会の記録集です(注③)。その討論会の発言者に古田先生の名前があり、購入したものです。古田先生の発言部分を引用します。

 「古田武彦でございます。先ほど、韓国の5世紀末ですか、そのころに非常に深く鋭い軍事施設が作られているという報告がございました。非常に感銘いたしました。それは、結局、倭の五王であり、朝鮮半島で激戦が繰り返されていた時期だと思いますので、当然のことだろうと思います。
ところが、その当然のことが、日本列島に来ると、何も全然軍事的な防御もせずに平和そのものであるというのは、ちょっとおかしいと思うんです。というのは、韓半島で闘っているのは、百済だけではなく、倭の軍隊が、ある意味では百済以上の軍事力を発揮していたと思いますので、その倭国へ高句麗や新羅側からの反撃がないと、たかをくくっていたとはちょっと考えにくいわけです。

 そうしますと、今日あそこにポスターセッションさせていただきましたが、神籠石と呼ばれる明らかな軍事施設、しかも防御施設、それが延々と築かれているわけです。これは太宰府、筑後川流域を囲んで作られているわけです。展示しましたのは、皆さんよくご存じの高良山とか、そういう中心部分のものはよく写真、本に出ていますので、むしろあまり出ていない御所ヶ谷とか、おつぼ山の写真だけを載せたのですが、非常に鋭く深い軍事要塞の痕跡が残っているわけです。

 あれは、天皇陵を作るのと、どちらが巨大な労力がいったか、簡単には言えないのですが、私はむしろあちらの神籠石のほうが、よりしんどかったのではないか。というのは、天皇陵は平地へ作る場合が多いですが、あそこは山の中腹から上方に、巨大な石を延々と人間が当然運び上げて、はりめぐらせているわけですから、経済的にも政治的にも、軍事的にも、大変な犠牲をはらって造られたことは、まず疑うことはできないわけです。
ところが、それが大和を囲んでいればいいのですが、いまの太宰府、筑後川流域を囲んでいるために、これに対する軍事的な評価をせずに、いままできているのではないか。

 早い話が、中学にも高等学校の教科書にも、全く神籠石の図は出ておりません。出ると、子どもに質問されたら、先生は答えにくいと思うんですね。何で、倭の五王は大和朝廷なのに、大和を囲まずに太宰府、筑後川流域だけを囲んだ軍事施設を作ったんですかと言われたらごまかさずに答えるというのはたいへん難しいと思うんです。

 要するに、いま話題になっている、古墳時代の日本における防御的軍事施設というテーマの際に、神籠石の問題にノータッチで論じたのでは、本当の議論は、失礼ですができないのではないか。
かつては白村江以後に作られたという説もありましたが、いまはさすがにそういう人はいないようで、武雄市教育委員会で出された報告書でも、6世紀ないし7世紀に作られた、つまり白村江以前に作られたというふうに、何人かの方々の意見を集約して書かれています。
そういうことで、長々申すつもりはございませんが、いわゆる神籠石問題を視野に入れて、いま出ております軍事的防御施設の問題を論じていただければありがたい。お願いでございます。」

 実はこのときの古代武器研究会に、先生のポスターセッションのお手伝いとして、わたしも参加していましたので、『古代武器研究』を読んでいて、当時のことを懐かしく思い出しました。そのときの緊迫した状況など、別の機会に紹介したいと思います。
なお、本日のシンポジウムの参加者は二百名を越え、一般市民の参加が三割ほどもあり、代表として閉会の挨拶をされた森岡先生から、「市民の協力があって、わたしたち考古学者は研究ができます。研究者だけてはできません。」とお礼の言葉があり、会場からは大きな拍手が起こりました。朝の九時半から夕方五時半過ぎまで、聞いている方にとってもハードな研究発表が続きましたが、考古学における学問の方法や、「高地性集落」研究が抱えている難しさもわかり、とても勉強になりました。

(注)
①『九州王朝の興亡』(『古代に真実を求めて』26号、明石書店)出版記念講演会。2023年6月17日、会場:エルおおさか。
講師/演題。
若林邦彦さん(同志社大学歴史資料館・教授)/「大阪平野の初期農耕 ―国家形成期遺跡群の動態」
正木 裕さん(古田史学の会・事務局長)/「万葉歌に見る九州王朝の興亡」
②従来は、高地性集落を防御など軍事的な視点で論じられてきたが、近年では海上活動や流通経済、船舶航行のためのランドマークなど多角的な視点での研究が重視されている。
③伊東義彰「第三回古代武器研究会を傍聴して」『古田史学会報』48号、2002年。(報告は下にあります。)


第3239話 2024/02/28

二つの「薩摩国一宮」の真実

 南九州に遺る「天智天皇」行幸伝承や「天智の后」とされる大宮姫伝承の再検討を進めていて、不思議なことに気づきました。それは薩摩には一宮が二つあることです。一つは薩摩国府(薩摩川内市)にある新田神社、もう一つが開聞岳の麓、指宿市の枚聞(ひらきき)神社です。ちなみに、この「ひらきき」の当て字に「開聞」が使用され、後に山名は開聞岳(かいもんだけ)と呼ばれるようになり、本来の地名「ひらきき」は神社名に遺ったようです。

 通常、一宮や国分寺・国分尼寺などその国を代表する寺社は、国府またはその近傍にあるもので、薩摩国は古代の国府があったとされる薩摩川内市にある新田神社が一宮であるのは理解できますが、薩摩半島の最南端(指宿市)にある枚聞神社が本来の一宮であったことは、何とも不思議です(注①)。この経緯について、ウィキペディアには次の解説がなされています。

〝一宮 新田神社(薩摩川内市) 式外社。国府の近くにあった。
元々の一宮は枚聞神社であった。鎌倉時代ごろから、新田神社が擡頭して枚聞神社と一宮の座を争うようになり、鎌倉時代末から南北朝時代のころに守護の島津氏の力を背景に新田神社が一宮となった。明治時代に定められた社格も新田神社の方が上になっている。日本全国の一宮が加盟する「全国一の宮会」には両社とも加盟している。 〟(Wikipedia)

 わたしは学生時代に指宿市・枕崎市を旅行したことがあります。秀麗な開聞岳(薩摩富士)がある良い観光地ですが、薩摩半島最南端であり、国府を置くには適切な地とは思われませんので、そこに一宮(枚聞神社)があることは不思議です。しかも、大和朝廷(日本国)時代の国府があった薩摩川内市からもかなり離れています。この現象を説明できる最有力の仮説が、当地や南九州に遺る「天智天皇」巡幸説話、頴娃(えい)郡出身の「大宮姫」伝承を九州王朝に関わる史実の反映とする仮説です。従って、大枠に於いては36年前に発表した拙論「最後の九州王朝 ―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析―」(注②)には、未熟ではありますが、学問的意義が残されているように思うのです。(つづく)

(注)
①薩摩国内主要施設
薩摩国府 薩摩川内市
薩摩国分寺 薩摩川内市(国分寺跡)
薩摩国分尼寺(推定) 薩摩川内市
一宮 新田神社 薩摩川内市
枚聞神社 指宿市
②古賀達也「最後の九州王朝 ―鹿児島県「大宮姫伝説」の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。