考古学一覧

第2530話 2021/08/03

土器編年による水城造営時期の考察(1)

 九州王朝史研究にとって太宰府関連遺跡の造営時期や位置づけは重要課題です。しかし、文献史学によるそれらの造営年次と考古学による土器編年は整合していません。この問題についてはこれまでも論究してきましたが、残念ながら未だに解決できていないのが現状です(注①)。そのため、土器編年研究を一旦ペンディングし、炭素同位体比年代測定などの科学的年代測定からのアプローチを進めてきました。
 たとえば、水城については、東土塁基底部(第35次調査)から出土した敷粗朶工法最上層(全11層)の敷粗朶の炭素同位体比(14C)年代測定によるAD600~770年(中央値660年)という測定値や(注②)、西門付近北東側(第40次調査)から出土した敷粗朶と炭化物の年代測定値が共にAD675~769の範囲に含まれることなどから(注③)、これら測定値は『日本書紀』に記された天智三年条(664年)の水城造営記事と整合しており、水城の造営時期は660年頃と考えて問題ないとしてきました(注④)。
 このわたしの見解に対して、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からは、炭素同位体比年代測定値には測定幅の誤差が大きく、『日本書紀』天智三年条(664年)記事(注⑤)の当否や、水城完成が白村江戦の前か後かという判断の根拠に使用するのは不適切とする批判をいただいていました。確かに、この批判はもっともなものです。そこで、ペンディングしていた太宰府関連遺跡群の土器編年精査を再開することにしました。どのような結論に至るのかは今のところ不鮮明ですが、学問研究ですから、自説と土器編年との齟齬を避けては通れません。時間はかかりそうですが、真正面から挑戦してみます。(つづく)

(注)
①たとえば、拙稿「大化改新詔と王朝交替」(『東京古田会ニュース』194号、2020年10月)において、次のように述べた。〝わたしは太宰府条坊都市の造営を、九州年号「倭京」(六一八~六二二年)などを史料根拠に七世紀前半に遡ると考えているが、考古学的出土事実に基づく証明には未だ成功していない(太宰府条坊遺構からの七世紀前半に遡る土器の出土報告がない)。〟
②『大宰府史跡発掘調査報告書 Ⅱ』九州歴史資料館、2003年。
③『水城跡 ―下巻―』九州歴史資料館、2009年。
④古賀達也「洛中洛外日記」1627~1630話(2018/03/13~18)〝水城築造は白村江戦の前か後か(1)~(3)〟
古賀達也「洛中洛外日記」2451~2454話(2021/05/07~09)〝水城の科学的年代測定(14C)情報(1)~(3)〟
⑤「是歳、対馬嶋・壹岐嶋・筑紫国等に、防と烽を置く。又筑紫に、大堤を築きて水を貯へしむ。名づけて水城と曰ふ。」『日本書紀』天智三年是歳条(664年)


第2527話 2021/07/26

「土器編年」、関川尚功さんとの対談

 7月22日に京都市で開催された古代史講演会(市民古代史の会・京都主催)の後、講師の関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)と夕食をご一緒しました。大和の発掘調査に50年近く携わってきたベテランの考古学者と意見交換できる貴重な機会でしたので、わたしからは7世紀の土器編年について質問させていただきました。その内容は次のようなものでした。

〔古賀〕7世紀での飛鳥の土器編年と北部九州(太宰府など)の土器編年とでは年代差はありますか。あるとすれば何年くらいですか。
〔関川さん〕7世紀であれば同じと考えてよい。当時の土器職人の移動や土器製造技術の伝播は速いので、飛鳥と北部九州であれば年代差はないと思う。
〔古賀〕飛鳥編年は正確で、5~10年ほどの精度で編年できるとする考古学者の見解もありますが、±10年の幅はあるのではないでしょうか。
〔関川さん〕飛鳥編年は『日本書紀』(文献史学の判断)に基づいており、考古学的に土器様式で判断するのであれば25年の幅はあると思う。土器は長期間使用されるので、新様式の土器が発生したからといって、旧様式の土器がなくなるわけではない。

 以上のような対話が続きました。わたしも関川さんの見解(25年ほどの幅)に賛成です。以前にも、「洛中洛外日記」で土器や瓦の編年の難しさについて論じたことがあるのですが(注①)、土器編年には次のような難しさがついてまわるからです。

(a)土器の様式差や法量の違いによる相対編年にとどまる。
(b)土器による相対編年を暦年とリンクさせて絶対編年にするためには土器編年以外の方法に依らねばならないが、同一遺跡の同一層位とリンクできる他の暦年判定方法があることは極めて希である。
(c)同一層位から年代が異なる土器が共伴することはよくあることで、その場合、どの土器を重視するのかという判断が恣意的になる可能性がある。

 こうした問題点を理解した上で、なるべく客観的な手法や判断で出土物や遺構の編年がなされます。しかし、それでも同一遺跡に対する編年が考古学者間で異なる例は少なくありません。
 わたしたち古田学派には考古学を専門分野とする研究者が極めて少ないこともあり、遺跡に対して恣意的な判断がなされるケースが散見されます。わたし自身もそうだったのですが、太宰府関連遺跡の従来の土器編年は誤りであり、実際は百年ほど古くなるとする見解を漠然と信じていたこともありました。しかし、この10年間ほど、7世紀の須恵器編年の勉強を続けた結果、7世紀の土器編年はそれほど間違ってはいないことを知りました。たとえば大阪歴博などの考古学者による難波編年は、九州年号や多元史観による文献史学の成果とも見事に整合していました(注②)。
 他方、未だに解決できていない太宰府関連遺跡(政庁、条坊、水城、他)の造営年代には、九州王朝説に基づく文献史学と、出土土器による考古学編年とが整合しないケースがあります。一例として、大宰府政庁の造営年代があります。文献史学によれば白鳳十年(670年)創建と記されている観世音寺と同一尺が採用され、同じ老司式瓦で造営された政庁Ⅱ期遺構は同時期の造営とわたしは考えています。しかし、政庁Ⅰ期(新段階)やⅡ期の整地層からは7世紀第4四半期頃に編年されている須恵器坏Bが出土していることから(注③)、通説では土器編年により、観世音寺や政庁Ⅱ期の造営を8世紀第1四半期中頃とする見解が有力視されています(注④)。
 なお、政庁Ⅰ期・Ⅱ期の整地層からは古墳時代と見られる土器片や6世紀から7世紀前半に編年される須恵器坏Hなども出土しており、通説では整地に使用した土壌に古墳時代の土器が含まれていたと理解されているようです。同様の現象は前期難波宮整地層でも見られており、より新しい須恵器坏Bを重視した編年そのものは妥当と思われます。しかし、政庁Ⅱ期の成立について、文献史学(九州王朝説)の成果とは30~40年ほどの齟齬があるため、北部九州の須恵器坏Bの年代観の再検討が必要とわたしは考えています。残念ながら、考古学者を説得できるほどのエビデンスに基づく編年研究はまだできていません。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1764~1773話(2018/09/30~10/13)〝土器と瓦による遺構編年の難しさ(1)~(9)〟
②古賀達也「難波の須恵器編年と前期難波宮 ―異見の歓迎は学問の原点―」『東京古田会ニュース』185号、2019年4月。
③『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。233~234頁
④山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。


第2524話 2021/07/20

「景初四年鏡」問題、日野さんとの対話(2)

 三角縁神獣鏡は古墳時代に作られた国産鏡とする古田旧説と弥生時代(景初三年・正始元年頃)の日本列島で作られ、古墳から出土する夷蛮鏡(伝世鏡)とする古田新説ですが、わたしは古田旧説の方が穏当と考えてきました。その理由は、弥生時代の遺跡から三角縁神獣鏡は出土せず、古墳時代になって現れるという考古学的事実でした。
 そして、「景初四年鏡」などの魏の年号を持つ紀年鏡は、卑弥呼が魏から鏡を下賜されたという倭人伝にある国交記事の記憶が反映したものと考えていました。すなわち、倭国の勢力範囲が列島各地に広がった古墳時代になると、魏鏡をもらえなかった勢力がその代替品として作らせた、あるいは魏鏡を欲しがった勢力に対しての交易品(葬送用か)として作られたものが三角縁神獣鏡(中でも魏の年号を持つ紀年鏡)だったのではないかと考えていました。もちろん、その三角縁神獣鏡が本物の魏鏡とは、もらった方も考えてはいなかったはずです。古墳から出土した鏡類の中で、三角縁神獣鏡がそれほど重要視されたとは思えない埋納状況(例えば棺外からの出土など)がそのことを示しています。
 こうした、やや漠然とした理解に対して、深く疑義を示されたのが日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)でした。日野さんは、新旧の古田説が持つ克服すべき論理的課題として、次のことを指摘されました。

(1)「景初四年鏡」が古墳時代の国産鏡であれば、倭人伝に見えるような弥生時代の国交記事を知っていたはずである。従って、景初三年の翌年が正始元年に改元されていたことを知らないはずがない。その存在しなかった「景初四年」という架空の年号を造作する動機もない。

(2)この点、古田新説であれば〝中国から遠く離れた夷蛮の地で作られたため、改元を知らなかった〟とする弥生時代成立の夷蛮鏡説で説明可能だが、古墳から出土したことを説明するためには伝世鏡論を受け入れなければならず、その場合、三角縁神獣鏡が弥生時代の遺跡からは一面も出土していないという考古学的事実の説明が困難となる。

 このように鋭い指摘をされた日野さんですが、それでは「景初四年」の銘文や「景初四年鏡」の存在をどのように説明すべきかについては、まだわからないとのこと。
 なお、古墳時代の鏡作り技術者たちは「景初四年」がなかったことを知らなかったという説明もできないことはありませんが、その場合はそう言う論者自身がそのことを証明しなければなりません。「景初」という魏の年号や倭国(卑弥呼)への銅鏡下賜のことを知っている当時のエリート技術集団である鏡作り技術者や銘文作成者が、倭人伝に記された「景初二年」ではなく、なぜ「景初四年」としたのかの合理的説明が要求されます。
 この日野さんが提起された「景初四年鏡」への論理的疑義について、古田学派の研究者は真正面から取り組まなければならないと思うと同時に、このような深い問題に気づかれた日野さんに触発された懇親会でした。


第2523話 2021/07/19

「景初四年鏡」問題、日野さんとの対話(1)

 先日の関西例会終了後の懇親会で、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)から「景初四年鏡」に関する新旧の古田説について、仮説成立の当否に関わる論理構成上の重要な問題提起がありました。その紹介に先立って、「景初四年鏡」に関する古田説の変遷について説明します。
 「洛中洛外日記」1267話(2016/09/05)〝「三角縁神獣鏡」古田説の変遷(2)〟でも紹介したのですが、当初、古田先生は「三角縁神獣鏡」は国内の古墳から出土することから、古墳時代に作られた国産鏡とされ、「邪馬台国」畿内説の根拠とされてきた三角縁神獣鏡伝世理論を批判されていました。
 ところが、1986年に京都府福知山市から「景初四年」(240年)の銘文を持つ三角縁神獣鏡が出土(注①)したことにより、弥生時代の日本で作られた「夷蛮鏡」説へと変わられました。すなわち、魏の年号である「景初」は三年で終わり、翌年は「正始」元年と改元されており、その改元を知らなかった夷蛮の地(日本列島)で造られたために、「景初四年」という中国では存在しない紀年(金石文)が現れることになったとされ、この「景初四年鏡」は三角縁神獣鏡が中国鏡ではないことを証明しているとされたのです。そして、そのことを意味する「夷蛮鏡」という概念を提起されました(注②)。
 そして古田先生は最晩年において、三角縁神獣鏡の成立時期を「景初三年(239年)・正始元年(240年)」前後とされ、そのことを『鏡が映す真実の古代』の「序章」(2014年執筆。注③)で次のように記されましたが、これは「景初四年鏡」の出土に大きく影響されたためと思われます。

〝次に、わたしのかつての「立論」のあやまりを明白に記したい。三角縁神獣鏡に対して「四~六世紀の古墳から出土する」ことから、「三世紀から四世紀末」の間の「出現」と考えた。魏朝と西晋朝の間である。
 いいかえれば、魏朝(二二〇~二六五)と西晋朝(二六五~三一六)の間をその「成立の可能性」と見なしていたのだ。だがこれは「あやまり」だった。「景初三年・正始元年頃」の成立なのである。この三十数年間、「正始二年以降」の年号鏡(紀年鏡)は出現していない。すなわち、三角縁神獣鏡はこの時間帯前後の「成立」なのである。〟『鏡が映す真実の古代』10頁

 この古田新説の発表は、わたしを含め古田学派の研究者にとって衝撃的な出来事でした。それまでは古墳時代の鏡とされてきた三角縁神獣鏡を、「景初四年」の銘文を持つ、ただ1枚の鏡の出土により、弥生時代(結果として古墳から出土した「伝世鏡」となる)のものとされたのですから。(つづく)

(注)
①京都府福知山市広峯の広峯古墳群の広峯15号墳(4世紀末~5世紀初頭頃の前方後円墳)から出土。「景初四年五月丙午之日陳是作鏡吏人詺之位至三公母人詺之母子宜孫寿如金石兮」の銘文を持つ直径16.8cmの銅鏡。
②1986年11月24日、大阪国労会館で行なわれた「市民の古代研究会」の古代史講演会で発表された。同講演録は『市民の古代』九集(新泉社、1987年)に「景初四年鏡をめぐって」として収録。
③古田武彦『鏡が映す真実の古代 ―三角縁神獣鏡をめぐって―』ミネルヴァ書房、2016年。


第2503話 2021/06/26

年輪年代測定値の「100年誤り」説 (3)

 年輪年代測定値が、AD640年以前では100年古く誤っているという鷲崎弘朋さんの指摘に対して、年輪年代測定により594年とされた法隆寺の五重塔心柱伐採年については妥当な年代ではないかと思うのですが、もう一つ、妥当と思われる年輪年代測定値があります。前期難波宮址水利施設から出土した木製の水溜枠です。
 『難波宮址の研究 第十一』(注①)によれば、井戸がなかった前期難波宮の水利施設(石組)が出土し、その周辺から多くの木材も出土しました。中でも大型の水溜枠の木材には樹皮が残っており、年輪年代測定により伐採年が634年とされました。『日本書紀』によれば、前期難波宮の完成年が孝徳天皇白雉三年(652年、九州年号の白雉元年)とされ、その18年前に伐採されたことになります。同水利施設からは須恵器坏Hや坏Gが多数出土しており、7世紀中頃の遺構であるとされ、出土木材の伐採年とも整合しています。ちなみに、同遺構からは7世紀後半の須恵器坏Bは出土していませんので、前期難波宮から出土した「戊申年」(648年)木簡などと共に、前期難波宮孝徳期造営説はほとんどの考古学者から支持されて定説となりました。更に前期難波宮を囲んでいだ塀の木柱が出土し、その最外層の年輪セルロース酸素同位体年代測定値も612年、583年であり(注②)、孝徳期造営説を支持するものとされました。
 この木枠の年輪年代測定は奈良文化財研究所の光谷拓実さんによるもので、次のように解説されています。

 「(前略)№1の木枠の形状は、原材から板状に割り、若干一部分を成形しただけのもので、転用材ではない。したがって、634年と確定した年輪年代は原木の伐採年である。」『難波宮址の研究 第十一』208頁。

 そして、「年代を割り出すヒノキの暦年標準パターンには、37B.C.~845A.D.のものを使用した」と説明されています。この「ヒノキの暦年標準パターン」は、鷲崎さんが

 〝飛鳥奈良時代の建造物でAD640年以前を示す事例(法隆寺五重塔等)は、記録と全て100年以上乖離があり100年修正すると整合する。
 光谷実拓氏のヒノキ新旧標準パターンのうち旧パターンは飛鳥時代で接続を100年誤り、弥生古墳時代の100年遡上は全てこの誤った「旧標準パターン」に起因する。なお、新標準パターンは正しいが、古代の測定事例はまだほとんど無い。〟(注③)

 と批判されたもので、この年輪年代の新旧標準パターンを鷲崎さんは次のように説明されています。

○旧標準パターン:1990年作成(BC317~AD1984) 全国各地のパターンの寄せ集め。
○新標準パターン:2005~2007年作成(BC705~AD2000) 木曽系ヒノキだけで2700年間をカバー。

 法隆寺五重塔心柱と同様に、前期難波宮水利施設の木枠にも旧標準パターンが採用されており(注④)、前期難波宮出土木枠の年輪年代測定値(634年)が、伴出した7世紀中頃の土器編年からも妥当と考えざるを得ないことから、法隆寺五重塔心柱の年輪年代測定値(594年)も妥当とせざるを得ません。少なくとも、前期難波宮出土木枠の年輪年代測定値を100年新しくすると後期難波宮の時代となり、それは極めて困難です(出土層位も出土遺物も全く異なり、まず不可能)。
 以上のように、鷲崎さんが100年古く間違っているとした遺物の中でも、法隆寺五重塔心柱と前期難波宮水利施設木枠の年輪年代測定値は妥当なものと、わたしには見えます。
 しかしながら、新旧標準パターンや測定木材の原データを公開すべきという、鷲崎さんの主張(注⑤)は正当なものです。国民の税金で運営・測定した奈良文化財研究所のデータは全国民の共有財産です。そうした国民からの(個人情報でもなく、人権や国益も損なわない)学術データの開示要請に応えない姿勢は、どのような事情があるのかはわかりませんが、学問的態度とは言い難いとする批判を避けることはできないでしょう。また、自説の根拠となる基礎データを掲載しないというのは、自然科学の研究論文ではおよそ考えられないことです。

(注)
①『難波宮址の研究 第十一 ―前期難波宮内裏西方官衙地域の調査―』大阪市文化財協会、2000年。
②古賀達也「洛中洛外日記」667話(2014/02/27)〝前期難波宮木柱の酸素同位体比測定〟
 古賀達也「洛中洛外日記」672話(2014/03/05)〝酸素同位体比測定法の検討〟
③鷲崎弘朋「年輪年代法による『弥生古墳時代の100年遡上論』は誤り」考古学を科学する会、第80回2019年5月24日、https://koukogaku-kagaku.jimdofree.com/%E6%A6%82%E8%A6%81%EF%BC%98/80/。
④光谷拓実「法隆寺五重塔心柱の年輪年代」『奈良文化財研究所紀要』2001年。同報告には「前37~838年」のヒノキの暦年標準パターンを使用した旨、記されている。
⑤鷲崎氏らによる奈良文化財研究所への情報開示請求書と同不開示決定通知書が次のサイト「邪馬台国の位置と日本国家の起源」に掲載されている。http://washiyamataikoku.my.coocan.jp/


第2502話 2021/06/25

年輪年代測定値の「100年誤り」説 (2)

 年輪年代測定値が、AD640年以前では100年古く誤っているという鷲崎弘朋さんの指摘が妥当であれば、古田学派での研究や諸仮説にも影響を受けるものがあります。
 たとえば、年輪年代測定により594年とされた法隆寺の五重塔心柱伐採年が100年後の694年となり、米田良三さんが提唱された法隆寺移築説(注①)の成立根拠の一つが失われます。他方、現法隆寺の再建年代を和銅年間(708~714年)とする通説と修正伐採年(694年)が整合し、通説が更に有力となります。このことも、年輪年代測定値が100年古く誤っていることの根拠の一つとされています。というのも、従来説では、594年に伐採した心柱が約100年後の法隆寺再建時に使用されたことになり、伐採から100年も放置(不使用)した合理的説明に苦慮してきたからです。
 この点、移築説であれば、100年前に建立された古い寺院を移築したという説明が容易にでき、通説の再建説よりも有力な仮説であると古田学派内では考えられてきました。ところが、年輪年代測定値は100年古く間違っているという鷲崎さんの指摘により、移築説が成立困難となったわけです。
 しかしながら、法隆寺五重塔の建築様式は8世紀初頭の頃とは考えにくいと思います。たとえば、心柱を基壇地下に埋め込むタイプは古いもので、とても8世紀の寺院建築とは思えません。また、版築基壇が二重に形成されているのも古い様式とされてきました(注②)。更に、金堂の釈迦三尊像光背銘(注③)に記された「法興元卅一年」(621年)という紀年が年輪年代測定による伐採年(594年)と近いことも、偶然とは考えにくいのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①米田良三『法隆寺は移築された』新泉社、1991年。
②「二重基壇」については、白鳳十年(670年)創建の観世音寺五重塔(太宰府市)にも採用されており、決定的な根拠とはできないが、現法隆寺は古い寺院を移築したものとする説と矛盾しない。なお、観世音寺の「二重基壇」については次の拙稿を参照されたい。
 古賀達也「洛中洛外日記」1694話(2018/06/19)〝観世音寺古図の五重塔「二重基壇」〟
 古賀達也「『観世音寺古図』の史料批判 ―塔基壇と建物、非対応の解明―」『東京古田会ニュース』182号、2018年9月。
③古田説ではこの釈迦像や光背銘文を、九州王朝の天子阿毎多利思北孤(『隋書』による)のためのものとする。


第2501話 2021/06/24

年輪年代測定値の「100年誤り」説 (1)

 関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)が指摘された、炭素14年代測定での国際補正値と日本補正値とで、弥生時代や古墳時代では100年程の差が生じるケースについて調査していましたら、年輪年代測定値もAD640年以前では実際よりも100年古くなるという見解があることを知りました。鷲崎弘朋さんという方の説で、「考古学を科学する会」という団体のサイト(注)に次の記事がありました。

【以下転載】
第80回 2019年5月24日 年輪年代法による「弥生古墳時代の100年遡上論」は誤り(鷲崎弘朋)

 年輪年代法で、弥生中後期および古墳開始期が通説より100年遡上した(池上曽根遺跡等)。しかし、肝心の標準パターンと基礎データは非公開でブラックボックス。また、飛鳥奈良時代の建造物でAD640年以前を示す事例(法隆寺五重塔等)は、記録と全て100年以上乖離があり100年修正すると整合する。
 光谷実拓氏のヒノキ新旧標準パターンのうち旧パターンは飛鳥時代で接続を100年誤り、弥生古墳時代の100年遡上は全てこの誤った「旧標準パターン」に起因する。なお、新標準パターンは正しいが、古代の測定事例はまだほとんど無い。

①旧標準パターン:1990年作成(BC317~AD1984) 全国各地のパターンの寄せ集め。
②新標準パターン:2005~2007年作成(BC705~AD2000) 木曽系ヒノキだけで2700年間をカバー。
 (後略)
【転載終わり】

 わたしは年輪年代測定法は1年単位で年代が判断できる優れた方法と評価してきましたので、この鷲崎さんの指摘に驚いています。もちろん、その当否を判断できるほどの知見を持っていませんので、何とも言えないのですが、もしこの指摘が妥当であれば、古田学派での研究や諸仮説についても影響を受けるものがありそうです。知り合いの考古学者にたずねてみたところ、鷲崎さんの説は有名で、考古学界内では賛否両論があるとのことでした。(つづく)

(注)考古学を科学する会 https://koukogaku-kagaku.jimdofree.com/%E6%A6%82%E8%A6%81%EF%BC%98/80/


第2500話 2021/06/23

関川尚功さんとの古代史談義(3)

―なぜ古墳から木簡が出土しないのか―

関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)は様々な問題意識をお持ちで、その中に〝なぜ古墳から木簡が出土しないのか〟というものがあり、わたしも同様の疑問を抱いていたので、意見交換を行いました。
国内で出土した木簡は7世紀中頃のものが最古で、紀年が記されたものでは、前期難波宮址の「戊申年」(648年)木簡が最も古く(注①)、次いで芦屋市の三条九之坪遺跡からの「元壬子年」(652年、九州年号の白雉元年)木簡があります(注②)。
一般的には水分を多く含んだ地層から出土しており、普通の地層では木簡は腐食し、残りにくいとされています。古墳石室内の環境では腐食が進み、木簡が遺らないのではないかと推定しています。あるいは木簡を埋納する習慣そのものがなかったのかもしれません。
他方、中国では漢代の竹簡が出土しており、油分を含む竹であれば材質的に遺存しやすいようにも思います。ところが、関川さんによれば、古墳時代の日本には竹簡に使用できるような竹がなかったとのことでした。孟宗竹のわが国への伝来は遅かったということを聞いたことはありますが、竹取物語など竹に関する古い説話(注③)があるので、古代から竹は日本列島にあったのではないかと文献を根拠に反論すると、「古墳から出土しない以上、古墳時代の日本には竹は伝来していなかったと判断せざるをえない」と、関川さんは考古学者らしく、出土事実に基づいて説明されました。しかし、鏃が出土しているので、細い〝矢竹〟はあったはずとのことでした。
古代の日本と中国における木簡と竹簡の採用事情が、情報記録文化の差によるものか、湿度などの自然環境の差によるものなのか、興味深い研究テーマです。先行研究論文などを読んでみることにします。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」419話(2012/05/30)〝前期難波宮の「戊申年」木簡〟
古賀達也「洛中洛外日記」1984~1985話(2019/09/07-08)〝難波宮出土「戊申年」木簡と九州王朝(1)~(2)〟
②古賀達也「木簡に九州年号の痕跡 ―「三壬子年」木簡の史料批判―」『「九州年号」の研究 ―近畿天皇家以前の古代史―』ミネルヴァ書房、2012年。
古賀達也「『元壬子年』木簡の論理」同上。
③『万葉集』(巻十六、3791番長歌の詞書)に「竹取の翁」の説話が見える。


第2499話 2021/06/22

関川尚功さんとの古代史談義(2)

―古墳の巨大化は畿内から―

 6月19日の古代史講演会後の関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)との古代史談義の一つに、〝古墳の巨大化〟についてがありました。関川さんによれば、古墳が巨大化するのは大和からであり、弥生時代の先進地域である北部九州ではないとのこと。なぜ大和で最初に古墳が大型化したのか、その理由の解明が必要とされました。
 おそらく、通説では大和で自生した大和政権(後の大和朝廷)が箸墓古墳などの大型前方後円墳を造営し、全国に影響力を拡げたということになるのですが、古田説(九州王朝説)ではこの現象をあまりうまく説明できていません。従来は、高句麗との交戦状態にあった九州王朝(倭国)には、大型古墳を造営する余力がなかったためと説明してきました。古田学派内ではこの説明で納得してもらえるのですが、通説を支持する人への説得力は残念ながら有していません。なぜなら、〝列島内最大規模の巨大古墳群を造営できる大和・河内の勢力こそが列島の代表王朝〟とする単純簡明な論理構造が「頑強」だからです。
 関川さんは、通説とも異なる視点でこの問題を考えておられました。畿内大和の箸墓古墳などを造営した勢力は、北部九州の鉄器製造技術を受容し、東海地方や吉備の土器も多数出土することから両地域の影響も色濃く受けています。他方、古墳を大型化する〝文化・風習〟は山陰・北陸などの弥生時代の大型墳丘墓の影響を受けたのではないかとされました。
 こうした古墳時代前期の大和の考古学的事実は、どのような歴史的背景の存在があって成立したのか、多元史観・九州王朝説による説明が必要です。(つづく)


第2497話 2021/06/20

関川尚功さんとの古代史談義(1)

―炭素14年代測定の国際補正値と日本補正値―

 昨日、奈良新聞本社ビルで開催された古代史講演会(注)での関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)の講演は、考古学者として出土事実にこだわる氏の気概と熱意、そして学問に対しての誠実なお人柄を感じさせるものでした。講演会後の懇談の場においても様々な知見を紹介していただきました。また、関川さんは長野県出身とのことで、古田先生が松本深志高校で教鞭をとっておられたことをご存じでした。そうしたこともあって、会話が弾みました。そこでの貴重な意見や古代史談義を紹介します。
 関川さんの一貫した主張は、考古学は出土事実に基づかなければならず、文献史学や理化学に〝寄りかかる〟のではなく、それぞれが対等な立場で切磋琢磨すべきというもので、考古学者として真っ当なご意見と思いました。その上で、それぞれの結論が一致すれば、より強力な見解となり、異なっていれば更に研究・検討を深めることになるとのこと。わたしも、この考え方や姿勢に大賛成です。
 講演でも、炭素14年代測定値について、国際標準補正値(IntCal)と日本補正値(JCal)とでは、弥生時代から古墳時代にかけてズレが大きく、国内の出土物の場合はより正確な国内補正値を使用しなければならないと指摘されました。たとえば、纒向遺跡出土物(桃の種)の測定に国際補正値を使用すると古くなり(100~250年)、それが「邪馬台国」時代とする根拠に使われたりするが、国内補正値であれば4世紀となるので、「邪馬台国」大和説に有利となる国際補正値による年代発表は問題であるとされました。
 この他にも、大きな木材の場合は年輪差があり、サンプリング部位によっては遺跡より古い年代を示すことがあり(「古木効果」と呼ばれる)、測定値をそのまま遺跡の年代判定に使用すべきではないことを、同一遺跡の複数の測定値を示して指摘されたのが印象的でした。(つづく)

(注)「古田史学の会」他、関西の古代史研究団体の共催による古代史講演会。6月19日(土)、奈良新聞本社ビル。
 講師 関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)
 演題 考古学から見た邪馬台国大和説 ―畿内ではありえぬ邪馬台国―
 講師 古賀達也(古田史学の会・代表)
 演題 日本に仏教を伝えた僧 ―仏教伝来「戊午年」伝承と雷山千如寺・清賀上人―


第2495話 2021/06/18

「倭の五王」以前(3~4世紀)の銅鐸圏

 ―倭国(銅矛圏)と狗奴国(銅鐸圏)の衝突―

 関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)が『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)で、弥生時代の纒向遺跡がその終末期には銅鐸使用の終焉を迎えており、4世紀になると箸墓古墳の造営が始まったことを紹介されました。これは大和における〝銅鐸勢力の滅亡〟を意味する考古学的出土事実と思われます。
 古田先生が考古学について著された『ここに古代王朝ありき』(注②)を併せ読むと、弥生時代終末期には西日本各地の銅鐸勢力(狗奴国:古田説)が圧迫され、箸墓古墳などの前方後円墳を造営する勢力(倭国)が東へ東へと侵攻したことがわかります。
 こうした、銅矛勢力(倭国)から銅鐸勢力(狗奴国など)への軍事侵攻説話が『古事記』『日本書紀』中に記されていることを、古田先生は『盗まれた神話』(注③)で明らかにされてきました。近年では正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が、近江の後期銅鐸勢力圏への侵攻説話が『古事記』『日本書紀』にあることを発表されました。〝神功紀(記)の「麛坂王・忍熊王の謀反」とは何か〟(注④)という論文で、近江の銅鐸圏への侵攻説話が神功紀(記)に取り込まれているとする仮説です。
 この正木説は有力と思うのですが、正木稿では近江の銅鐸圏征討の年代を3世紀末とされており、大和の銅鐸終焉時期を弥生時代末期とする関川説と整合しているのか、精査が必要です。いずれにしても、銅鐸圏を制圧しながら、古墳文化が東へと拡大を続けるわけですから、九州王朝の全国制覇の時代として古墳時代を検討する必要に迫られています。
 なお、通説ではこの現象を〝大和政権による全国統一の痕跡〟とするのですが、関川さんによれば、北部九州の鉄器製造技術が箸墓造営時期に大和に入ったとされますから、やはり古田説のように、北部九州の勢力が大和の勢力(神武の子孫ら)を伴って銅鐸圏を制圧しながら全国統一を進めたと理解せざるを得ないと思います。鉄器製造技術を北部九州から導入した大和の勢力が同時期にその北部九州にも侵攻し、前方後円墳を造営しながら、東西へ将軍を派遣し全国統一したとする通説は論理的ではありません。それでは、北部九州の勢力があまりに〝お人好し〟過ぎるからです。
 そうすると、大阪難波から出土した古墳時代中期(5世紀)最大規模の都市遺構(注⑤)は、九州王朝(倭国)による東征軍の軍事拠点とする理解へと進みそうです。この理解は、通説だけではなく、従来の古田説(近畿天皇家による関西地方制圧)にも修正を迫ることになりますので、別途、詳述したいと思います。

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田武彦『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』「第二章 銅鐸圏の滅亡」朝日新聞社、昭和五四年(1979)。ミネルヴァ書房より復刻。
③古田武彦『盗まれた神話 記・紀の秘密』「第十章 神武東征は果たして架空か」朝日新聞社、昭和五十年(1975)。ミネルヴァ書房より復刻。
④正木裕〝神功紀(記)の「麛坂王・忍熊王の謀反」〟『古田史学会報』156号、2020年2月。
⑤杉本厚典「都市化と手工業 ―大阪上町台地の状況から」(『「古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―」資料集』、大阪市博物館協会大阪文化財研究所、2018年12月)に次の解説がある。
 「難波宮下層遺跡は難波宮造営以前の遺跡の総称であり、5世紀と6世紀から7世紀前葉に分かれる。大阪歴史博物館の南に位置する法円坂倉庫群は5世紀、古墳時代中期の大型倉庫群である。ここでは床面積が約90平米の当時最大規模の総柱の倉庫が、16棟(総床面積1,450㎡)見つかっている。」
 南秀雄「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」(『研究紀要』第19号、大阪文化財研究所、2018年3月)には次の指摘がなされている。
 「何より未解決なのは、法円坂倉庫群を必要とした施設が見つかっていない。倉庫群は当時の日本列島の頂点にあり、これで維持される施設は王宮か、さもなければ王権の最重要の出先機関となる。」
 「全国の古墳時代を通じた倉庫遺構の相対比較では、法円坂倉庫群のクラスは、同時期の日本列島に一つか二つしかないと推定されるもので、ミヤケではあり得ない。では、これを何と呼ぶか、王権直下の施設とすれば王宮は何処に、など論は及ぶが簡単なことではなく、本稿はここで筆をおきたい。」


第2493話 2021/06/16

近畿の古墳時代開始の古田説と関川説

 「倭の五王」研究においては、文献史学と考古学の双方の整合と両立が不可欠です。特に考古学においては、古墳時代の編年の問題を避けては語れません。この点、古田学派の研究動向をみると、考古学分野の論考が残念ながら充分とはいえません。何よりも、わたし自身の勉強不足を痛感してきたからです。そうしたこともあって、元橿原考古学研究所員の関川尚巧さんの『考古学から見た邪馬台国』(注①)はとても勉強になっています。
 同書をもう十回近くは読みましたが、面白いことに気づきました。それは古田先生の見解と重要な部分で一致、あるいは対応しているケースが散見されることでした。一例をあげれば、近畿(畿内)における古墳時代の開始年代が一致しているのです。それは次の通りです。
 「洛中洛外日記」で紹介してきたところですが、関川さんは最古の大型前方後円墳とされる箸墓古墳の造営年代について次のように述べられています。

〝最古の大型前方後円墳である箸墓古墳の年代というものは、実際の所、前期後半とされる4世紀後半頃より大きく遡ることは考えられないということになる。〟『考古学から見た邪馬台国』131頁

 古田先生は『ここに古代王朝ありき』(注②)で、次のように説明されています。

〝噂はともあれ、確かなこと、それは”近畿の「弥生中期」「弥生後期」は九州の「弥生中期」「弥生後期」よりもおくれている”――この事実だ。そのことは当然、次のことを意味するであろう。”近畿の古墳時代の開始は、九州の古墳時代よりもおくれているのではないか”という問いだ。
 (中略)
 そしてそのことは、近畿における古墳時代の開始は、右の三一六年よりもあとに、ずれおちることを意味する。つまり、近畿における古墳時代の開始は、早くても、四世紀中葉を遡らない、ということになるのである。〟『ここに古代王朝ありき』251頁

 表現は若干異なりますが、両者とも従来説とは異なる視点により、近畿(畿内)の古墳造営開始を四世紀前半頃とされています。古田先生の著作は昭和五四年(1979)のものですから、四十年以上も前の論理的考察結果が、最新の橿原考古学研究所による考古学的発掘事実に基づいた、関川さんの見解にほぼ一致していることに驚きました。
 この一致は、ただ単に近畿(畿内)の古墳時代の開始年代にとどまるものではありません。というのも、古田先生は続いて次の重要問題を提起されているからです。

〝このことは一体、何を意味するか。――すなわち、応神ー仁徳ー履中ー反正ー允恭ー安康ー雄略の各「天皇陵」を、五世紀の倭の五王と結びつけてきた、あの時間帯の定点――考古学上の根本定式の崩壊である。〟『ここに古代王朝ありき』252頁

 このように「倭の五王」を考古学的に検証するにあたり、古墳時代編年そのものから検証し、論じなければなりません。これにはかなりの研鑽が必要となります。本年11月に開催される八王子セミナーまでに、どれだけ勉強が進むかはわかりませんが、古田先生の関連著作だけはしっかりと精読するつもりです。

(注)
①関川尚巧『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田武彦『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』「第四部 失われた考古学」朝日新聞社、昭和五四年(1979)。ミネルヴァ書房より復刻。

※「考古学上の根本定式」などについては別の機会に詳述します。