考古学一覧

第2428話 2021/04/10

百済人祢軍墓誌の「日夲」について (2)

 ―古田先生との冨本銭研究の想い出―

 「古田史学の会・東海」の会報『東海の古代』№248に掲載された石田泉城さん(名古屋市)の「『祢軍墓誌』を読む」の最大の論点と根拠は墓誌に記された「日夲」の文字で、「本」と「夲」は本来別字で、この部分は国名としての「日本(夲)」ではないとするものです。そして、次のように述べられています。

 「文字の精査は、「壹」と「臺」を明確に区別した先師古田武彦の教えの真髄です。」『東海の古代』№248

 わたしもこのことについて、全く同感です。古田ファンや古田学派の研究者であれば御異議はないことと思います。それではなぜ同墓誌の「日夲」を別字の「日本」のことと見なしたのかについて説明します。

 実はこの「本」と「夲」を別字・別義とするのか、別字だが同義として通用したものと見なすのかについて、「古田史学の会」内で検討した経緯がありました。それは飛鳥池遺跡から出土した冨本銭がわが国最古の貨幣とされたときのことです。当時、「古田史学の会」代表だった水野孝夫さん(古田史学の会・顧問)から、「フホン銭と呼ばれているが、銭文は『冨夲』(フトウ)であり、それをフホンと読んでもよいものか」という疑義が呈されました(注①)。

 その問題提起を受け、わたしも検討したのですが、通説通り「フホン」と読んで問題ないとの結論に至りました。古田先生も同見解だったと記憶しています。当時、古田先生とは信州で出土した冨本銭(注②)を一緒に見に行ったこともありましたが、先生も一貫して「フホン銭」と呼ばれていました。その後、わたしからの発議と古田先生のご協力により、「プロジェクト 貨幣研究」が立ち上がりしました。その成果の一端は『古田史学会報』や『古代に真実を求めて』などに収録されました(注③)。

 古田先生やわたしが「冨夲」を「フホン」と呼んでもよいと判断した理由は、国内の古代史料には「夲」の字を「本」の別字として使用する例が普通にあったからです。たとえば古田先生が京都御所で実物を調査された『法華義疏』(御物、法隆寺旧蔵)の巻頭部分に記された次の文です。

 「此是 大委国上宮王私
集非海彼夲」

 この文は「此れは是れ、大委国上宮王の私集にして、海の彼(かなた)の夲(ほん)に非ず」と訓まれており、「夲」は「本」の同義(異体字)と認識されています。「大委国上宮王」とあることから、多利思北孤の自筆の可能性もあり、いわば九州王朝内での使用例です。

 更にこの十年に及ぶ木簡研究においても、7~8世紀の木簡に「夲」の字は散見されるのですが、むしろ「本」の字を目にした記憶がわたしにはありません。ですから当時の木簡においては、「夲」が「本」の代わりに通用していたと考えてもよいほどでの史料状況なのです。たとえば明確に「本」の異体字として「夲」を用いた8世紀初頭の木簡に次の例があります。

 「本位進第壱 今追従八位下 山部宿祢乎夜部/冠」(藤原宮跡出土)

 これは山部乎夜部(やまべのおやべ)の昇進記事で、旧位階(本位)「進第壱」から大宝律令による新位階「従八位下」に昇進したことが記されています。この「本位」の「本」の字体が「夲」なのです。

 以上のような史料事実を知っていましたので、冨本銭の「夲」の字も「本」の別字(異体字)と、むしろ見なすべきと考えられるのです。

 『日本書紀』や中国史書における「日本」については、原本も同時代刊本も現存しないため、7~8世紀頃の字体は不明とせざるを得ませんが、後代版本では「日夲」の表記が散見され、その当時には「本」の異体字として「夲」が普通に使用されていたようです。具体的には『通典』(801年成立)の北宋版本(11世紀頃)には「倭一名日夲」とありますし、いつの時代の版本かは未調査ですが、岩波文庫『旧唐書倭国日本伝』に収録されている『新唐書』日本国伝の影印(163頁)にも「日夲国」の使用例が見えます。

 他方、中国の金石文によれば、百済人祢軍墓誌(678年没)よりも60年ほど後れますが、井真成墓誌(734年没)には明確に国号としての日本が見え(注④)、この字体も「日夲」です。

 「贈尚衣奉御井公墓誌文并序
公姓井字眞成國號日本」(後略)

 従って、百済人祢軍墓誌の「日夲」も「日本」のことと理解して問題ありません。むしろ、その当時の国名表記の用字としては、「日夲」が使用されていた可能性の方が高いとするのが、日中両国の史料事実に基づく妥当な理解ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①水野孝夫「『富本銭』の公開展示見学」『古田史学会報』31号、1999年4月。当稿においても、〝「本」字の問題(「本」の字は「木プラス横棒」ではなくて、「大プラス十」と刻字されている。ここにも意味があるかも知れない)。〟と述べている。
②長野県の高森町歴史民俗資料館に展示されている富本銭を見学した。同富本銭は高森町の武陵地1号古墳から明治時代に出土したもの。同資料館を訪問したとき、同館の方のご所望により、来訪者名簿に大きな字で、「富本銭良品 古田武彦」と先生は署名された。
③古田武彦「プロジェクト 貨幣研究 第一回」『古田史学会報』31号、1999年4月。
古田武彦「プロジェクト貨幣研究 第二回(第二信)」『古田史学会報』33号、1999年8月。
古田武彦「プロジェクト貨幣研究 第三回」『古田史学会報』34号、1999年10月。
古賀達也「プロジェクト 古代貨幣研究 第一報 古代貨幣異聞」(下にあり)
『古田史学会報』31号、1999年4月。
古賀達也「プロジェクト 古代貨幣研究 第二報 『秘庫器録』の史料批判(1)」
『古田史学会報』33号、1999年8月。
古賀達也「プロジェクト 古代貨幣研究 第三報 『秘庫器録』の史料批判(2)」
『古田史学会報』34号、1999年10月。
古賀達也「プロジェクト 古代貨幣研究 第四報 『秘庫器録』の史料批判(3)」
『古田史学会報』36号、2000年2月。
『古代に真実を求めて』第三集(2000年11月、明石書店)に「古代貨幣研究・報告集」として、次の論稿が掲載された。
古賀達也 プロジェクト貨幣研究 規約
古田武彦 プロジェクト貨幣研究 第一回、第二回、第三回
山崎仁礼男 古代貨幣研究方針
木村由紀雄 古代貨幣研究方針
浅野雄二 第一回報告
古賀達也 古代貨幣異聞
古賀達也 続日本紀と和銅開珎の謎
古賀達也 古代貨幣「無文銀銭」の謎
古賀達也 古代貨幣「賈行銀銭」の謎
古賀達也 『秘庫器録』の史料批判(1)(2)(3)
④井真成墓誌には次のように、「國號日夲」と記されている。
「贈尚衣奉御井公墓誌文并序
■公姓井字眞成國號日夲才稱天縱故能
■命遠邦馳騁上國蹈禮樂襲衣冠束帶
■朝難與儔矣豈圖強學不倦聞道未終
■遇移舟隙逢奔駟以開元廿二年正月
■日乃終于官弟春秋卅六皇上
■傷追崇有典詔贈尚衣奉御葬令官
■卽以其年二月四日窆于萬年縣滻水
■原禮也嗚呼素車曉引丹旐行哀嗟遠
■兮頽暮日指窮郊兮悲夜臺其辭曰
■乃天常哀茲遠方形旣埋于異土魂庶
歸于故鄕」
※■は判読できない欠字。

百済人祢軍墓誌


第2426話 2021/04/08

『俾弥呼と邪馬壹国』読みどころ (その4)

正木 裕

 「改めて確認された『博多湾岸邪馬壹国説』」

 『俾弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)には「総括論文」として、先に紹介した谷本 茂さんの「魏志倭人伝の画期的解読の衝撃と余波」と並んで、正木 裕さん(古田史学の会・事務局長)の「改めて確認された『博多湾岸邪馬壹国説』」が掲載されています。
 この正木論文では、最新の考古学的発見が古田説の正しさを証明しているとして、福岡市の比恵・那珂遺跡が弥生時代最大規模の都市遺構であることや、近年立て続けに発見されている弥生の硯が福岡県を中心に数多く分布していること、銅鏡の鉛同位体分析の結果から三角縁神獣鏡が国産であることなどが紹介されています。更には『三国志』の里程記事の実証的な分析から、短里説(1里=約76m)の正しさを改めて証明されました。
 また、『俾弥呼と邪馬壹国』に収録された正木さんの別の論文「周王朝から邪馬壹国そして現代へ」では、倭人伝に見える用語や漢字が周王朝に淵源していることに論究されており、倭人伝研究の最先端テーマを次々と手がけられていることがわかります。
 「改めて確認された『博多湾岸邪馬壹国説』」の最後に書かれた「まとめ」を以下に転載します。〝「モノ」は「論証」されることによって始めて単なる「モノ」ではなく「物証・証拠」になる〟という指摘は、まさに学問(古田史学)の真髄です。

【以下、転載】
 『「邪馬台国」はなかった』発刊五十年を迎える。依然としてヤマト一元説は広く喧伝されているが、本稿で述べたように、近年の考古学や諸科学の発展により、五十年前に古田氏が唱えられた「博多湾岸邪馬壹国説」の正しさが、改めて証明されることとなった。
 また一方で、単なる砥石状の破片と見られていたものが、弥生期に遡る文字使用を示す硯だったことがわかった。これは「モノ」は「論証」されることによって始めて単なる「モノ」ではなく「物証・証拠」になることを示している。
 私たちの前にある「モノ」や「文献」を、一元史観による思い込みにとらわれず、もう一度多元史観により解釈することで『「邪馬台国」はなかった』で示された古田氏の事績をさらに豊にできることになろう。(54頁)


第2410話 2021/03/16

逆遠近法の宮殿、「飛鳥宮内郭」「エビノコ郭」

 飛鳥宮跡の研究を始めたとき、その内郭やエビノコ郭の平面図(注①)が四角形ではなく台形であることを不思議に思いました。なぜこんなヘンテコな形にしたのだろうかと、そのことを「洛中洛外日記」573話(2013/07/25)〝いびつな宮殿、飛鳥宮〟と574話(2013/07/27)〝へんてこな大極殿、エビノコ郭〟で指摘しました。天武期以前に造営された前期難波宮(九州王朝の複都)や九州王朝系の近江大津宮は四角形であり、この差は造営した主体(王朝)が異なるためと考えました。しかし、近畿天皇家の王宮がなぜ台形を採用したのかについてはわかりませんでした。
 前話の〝拡張する飛鳥宮「エビノコ郭」遺跡〟の執筆にあたり、その規模を調べました。飛鳥宮内郭ははっきりと台形であり、北側の塀が台形の〝長辺〟になっています。すなわち、南の正門から宮殿を眺めると、内部の殿舎配置も〝末広がり〟の構造となっているのです。

 飛鳥宮最上層内郭 東西152-158m 南北197m
 飛鳥宮エビノコ郭 東西92-94m  南北約55m

 地形上の制約をうけて飛鳥宮を台形にしたとも思われませんし、測量技術が劣っていたわけでもありません。従って、意図的に台形にしたと考えざるを得ないのです。もしかすると〝逆遠近法〟を採用したのではないでしょうか。。
 わたしが中学生の頃、美術の先生から逆遠近法という画法を教えていただきました。特に日本画に多く使われているとのことでした。遠近法とは逆で、遠くのものを大きく描くという画法です。古代建築に応用例があるのかどうか知見はありませんが、丘陵に囲まれた飛鳥の狭量な地域に宮殿を建てる際に、より広く見せるために逆遠近法の原理を採用したのではないでしょうか。
 このことの当否については全く自信ありませんが、平安末期成立の『源氏物語絵巻』(注②)は逆遠近法で描かれていますし、七世紀にも同様の技術や設計思想があっても不思議ではないように思われます。古代の絵画や建築に詳しい方のご教示をお願いします。

(注)
①吉田歓著『古代の都はどうつくられたか 中国・日本・朝鮮・渤海』(吉川弘文館、2011年)89頁掲載の飛鳥浄御原宮(飛鳥宮3-B期)平面図による。
②通称「隆能源氏」(たかよしげんじ)と呼ばれている『源氏物語絵巻』(国宝)は平安末期の作とされる。


第2407話 2021/03/12

飛鳥「京」と出土木簡の齟齬(6)

本シリーズの最後に、飛鳥「京」と出土木簡との最も大きな齟齬について考察します。

 〝服部理論〟によれば、飛鳥出土の王宮跡や官衙遺構などが、律令制による全国統治には不適切(不十分)な規模であることは自明です。しかし、評制下(七世紀後半)の出土木簡(九州諸国と陸奥国を除く全国各地から献上された「荷」札木簡、『日本書紀』に対応した「天皇」「皇子」「詔」木簡、「仕丁」木簡など)を見る限り、飛鳥に七世紀の第4四半期における列島内の最高権力者(実力者)がいたこともまた自明です。この服部さんの論証結果と出土木簡による実証結果の差異が〝最大の齟齬〟とわたしは考えています。

 おそらく通説(一元史観)ではこの〝最大の齟齬〟の合理的説明は不可能ではないでしょうか。従来から学界内で指摘されていた問題ですが、孝徳没後に近畿天皇家は飛鳥へ還都したと『日本書紀』にはありますが、それならばあの巨大な前期難波宮(京)にいた大勢の官僚たちは飛鳥のどこで勤務したのか、その家族はどこに住んでいたのか、という問いに答えられないのです。

また考古学的にも次のような指摘がなされており、『日本書紀』が記す難波や飛鳥の姿と、土器の出土事実が示す風景が全くことなっていることが判明しています。

「考古資料が語る事実は必ずしも『日本書紀』の物語世界とは一致しないこともある。たとえば、白雉4年(653)には中大兄皇子が飛鳥へ“還都”して、翌白雉5年(654)に孝徳天皇が失意のなかで亡くなった後、難波宮は歴史の表舞台からはほとんど消えたようになるが、実際は宮殿造営期以後の土器もかなり出土していて、整地によって開発される範囲も広がっている。それに対して飛鳥はどうなのか?」
「難波Ⅲ中段階は、先述のように前期難波宮が造営された時期の土器である。続く新段階も資料は増えてきており、整地の範囲も広がっていることなどから宮殿は機能していたと考えられる。」
「孝徳天皇の時代からその没後しばらくの間(おそらくは白村江の戦いまでくらいか)は人々の活動が飛鳥地域よりも難波地域のほうが盛んであったことは土器資料からは見えても、『日本書紀』からは読みとれない。筆者が『難波長柄豊碕宮』という名称や、白雉3年(652)の完成記事に拘らないのはこのことによる。それは前期難波宮孝徳朝説の否定ではない。
しかし、こうした難波地域と飛鳥地域との関係が、土器の比較検討以外ではなぜこれまで明瞭に見えてこなかったかという疑問についても触れておく必要があろう。その最大の原因は、もちろん『日本書紀』に見られる飛鳥地域中心の記述である。」
「本論で述べてきた内容は、『日本書紀』の記事を絶対視していては発想されないことを多く含んでいる。筆者は土器というリアリティのある考古資料を題材にして、その質・量の比較をとおして難波地域・飛鳥地域というふたつの都の変遷について考えてみた。」佐藤隆「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」(注)

この佐藤さんの論文は、日本の考古学界に〝『日本書紀』の記事を絶対視しない〟と公言する考古学者が現れたという意味に於いても研究史に残る画期的なものです。

 他方、多元史観による古田学派の研究者からは、こうした王朝交替期の実相について諸仮説が提起されており、活発な学問論争が続いています。いずれ、研究が深化し、諸仮説が発展・淘汰され、〝最大の齟齬〟を合理的に説明でき、反対論者をも納得させうるような最有力説に収斂していくものと、わたしは期待しています。

(注)佐藤隆「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」『大阪歴博研究紀要』15号、2017年。「洛中洛外日記」1407話(2017/05/28)〝前期難波宮の考古学と『日本書紀』の不一致〟、同1906話(2019/05/24)〝『日本書紀』への挑戦、大阪歴博(2) 七世紀後半の難波と飛鳥〟で紹介した。


第2406話 2021/03/11

飛鳥「京」と出土木簡の齟齬(5)

 飛鳥木簡を調査していて気になったことがありました。以前は飛鳥出土の宮跡のことを、『日本書紀』に見える各天皇の宮殿名と対応させるように、「伝飛鳥板蓋宮跡」とか「後飛鳥岡本宮跡」「飛鳥浄御原宮跡」などと呼ばれていたのですが、いつの頃からか「飛鳥宮跡」「飛鳥京跡」と呼ばれるようにもなりました。当地が〝飛鳥「京」〟といえるほどの大規模都城の地とは思えませんので、なぜこのような名称が定着したのか疑問に思っていました。
 古代史学の〝常識〟では、「京」と呼べるのは条坊都市を持つ大規模な平安京・平城京・藤原京、そして近年の発掘調査で条坊の存在が確実となった難波京くらいです。それと条坊都市を有する九州王朝の首都「太宰府(倭京)」(注①)も含まれるでしょう。そこで、飛鳥京命名についての背景や根拠を調べたところ、『ウィキペディア』の「飛鳥京跡」の項に次の解説がありました。

【以下、転載】
飛鳥宮跡の発掘調査
 発掘調査は1959年(昭和34年)から始まった。発掘調査が進んでいる区域では、時期の異なる遺構が重なって存在することがわかっており、大まかにはⅠ期、Ⅱ期、Ⅲ期の3期に分類される。各期の時代順序と『日本書紀』などの文献史料の記述を照らし合わせてそれぞれ、
・Ⅰ期が飛鳥岡本宮(630~636年)
・Ⅱ期が飛鳥板蓋宮(643~645、655年)
・Ⅲ期が後飛鳥岡本宮(656~660年)、飛鳥浄御原宮(672~694年)
の遺構であると考えられており、Ⅲ期の後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮については出土した遺物の年代考察からかなり有力視されている。発掘調査で構造がもっともよく判明しているのは、飛鳥浄御原宮である。
 地元では当地を皇極天皇の飛鳥板蓋宮の跡地と伝承してきたため、発掘調査開始当初に検出された遺構については「伝飛鳥板蓋宮跡」の名称で国の史跡に指定された。しかし、上述のようにこの遺跡には異なる時期の宮殿遺構が重複して存在していることが判明し、2016年10月3日付けで史跡の指定範囲を追加の上、指定名称を「伝飛鳥板蓋宮跡」から「飛鳥宮跡」に変更した(平成28年10月3日文部科学省告示第144号)。
【転載おわり】

 同じく「飛鳥京」の項では次のように説明されています。

【以下、転載】
 飛鳥京(あすかきょう、あすかのみやこ)は、古代の大和国高市郡飛鳥、現在の奈良県高市郡明日香村一帯にあったと想定される天皇(大王)の宮やその関連施設の遺跡群の総称、およびその区域の通称。藤原京以降のいわゆる条坊制にならう都市ではなく、戦前の歴史学者喜田貞吉による造語とされる。

概要
 主に飛鳥時代を中心に、この地域に多くの天皇(大王)の宮が置かれ、関連施設遺跡も周囲に発見されていることから、日本で中国の条坊制の宮都にならって後世に飛鳥京と呼ばれている。飛鳥古京(あすかこきょう)や「倭京」、「古京」などの表記(『日本書紀』)もみられる。君主の宮が存在していたことから当時の倭国の首都としての機能もあったと考えられる。
 しかし、これまでの発掘調査などでは藤原京以降でみられるような宮殿の周囲の臣民の住居や施設などが見つかっておらず、全体像を明らかするような考古学的成果はあがっていない。また遺跡の集まる範囲は地政的に「飛鳥京」とよべるほどの規模を持たず実態は不明確であり、歴史学や考古学の文脈での「飛鳥京」は学術的でない。しかし、現在では好事家や観光業などで広く使われ飛鳥周辺地域を指す一般名称の一つとしてよく知られる。(後略)
【転載おわり】

 上記の解説によれば、従来は「伝飛鳥板蓋宮跡」と呼ばれていた遺跡が複数の宮の重層遺跡であることが判明したため、総称して「飛鳥宮跡」とされたわけで、この変更は妥当なものと思います。
 しかし、〝これまでの発掘調査などでは藤原京以降でみられるような宮殿の周囲の臣民の住居や施設などが見つかっておらず、全体像を明らかするような考古学的成果はあがっていない。また遺跡の集まる範囲は地政的に「飛鳥京」とよべるほどの規模を持たず実態は不明確であり、歴史学や考古学の文脈での「飛鳥京」は学術的でない。〟としながら、〝現在では好事家や観光業などで広く使われ飛鳥周辺地域を指す一般名称の一つ〟として「飛鳥京」の名称が採用されているとのことです。
 〝好事家や観光業〟が趣味やビジネスで使用するのは理解するとしても、橿原考古学研究所編集発行の書籍(注②)などに遺跡名称として「飛鳥京苑地遺構」が使われていますし、発掘調査報告書にも「飛鳥京跡」と記されています。その規模からすれば、「飛鳥京」と呼ぶのはいかがなものかと違和感を感じてきたのですが、「飛鳥京」の名称が不適切であることを、多元史観により学問的に論証したのが服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の秀逸な論文「古代の都城 ―『宮域』に官僚約八〇〇〇人―」(注③)です。
 『古代に真実を求めて』21集に掲載された同論文は七頁の小論ですが、それは二十世紀最大の科学的発見といわれるDNAの二重螺旋構造を明らかにした、ワトソンとクリックによるわずか二頁(実質的には一頁)の論文(注④)を彷彿とさせます(彼らはその論文でノーベル医学・生理学賞を受賞)。この服部論文は次のシンプルで頑強な論理構造により成立しています。

(1)律令政治には官僚が業務を行う官衙と、官僚とその家族が生活する住居、この二つが必須である。
(2)『養老律令』では全国統治を行う中央官僚(宮域勤務の官僚)の人数が規定されており、その合計は約八千人である。
(3)それら中央官僚の職場と住居スペースを持つ七~八世紀の巨大都市は、前期難波宮(京)、藤原宮(京)、平城宮(京)、平安宮(京)である(いずれも条坊都市)。※後に太宰府条坊都市が追加される。
(4)飛鳥にはそのような大規模都域はなく、全国統治が可能な王都とはできない。すなわち、「飛鳥京」という名称は不適切である。

 このように根拠や論理がシンプル(単純平明)でロバスト(頑強)なため、反証が困難です。この論理は通説の「飛鳥京」にとどまらず、古田学派研究者から提起された諸仮説の是非をも明らかにします。これが現在の多元史観・古田史学の論理水準ですから、律令制時代における九州王朝の都域に関する仮説を提起する場合は、この服部論文のハードルをまず超えなければなりません。(つづく)

(注)
①九州王朝の首都「太宰府(倭京)」については、『発見された倭京 ―太宰府都城と官道』(古田史学の会編、明石書店、2018年)の収録論文を参照されたい。
②『飛鳥宮跡出土木簡』橿原考古学研究所編、令和元年(2019)、吉川弘文館。
③服部静尚「古代の都城 ―『宮域』に官僚約八〇〇〇人―」『発見された倭京―太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集)古田史学の会編、明石書店、2018年。初出は『古田史学会報』136号、2016年10月。
④〝Molecular Structure of Nucleic Acids: A Structure for Deoxyribose Nucleic Acid〟Nature volume 171,pages737–738(1953), J.D.WATSON & F.H.C.CRICK


第2404話 2021/03/09

『古事記』序文の「皇帝陛下」(1)

 近畿天皇家が「天皇」を称したのは文武からとする古田新説は、二〇〇九年頃から各会の会報や講演会・著書で断続的に発表され、その史料根拠や論理構造を体系的に著した論文として発表されることはありませんでした。他方、古田先生とわたしはこの問題について意見交換を続けていました。古田旧説(七世紀には近畿天皇家がナンバーツーとしての「天皇」を名乗っていた)の方が良いとわたしは考えていましたので、その史料根拠として飛鳥池出土「天皇」「皇子」木簡の存在を重視すべきと、「洛中洛外日記」444話(2012/07/20)〝飛鳥の「天皇」「皇子」木簡〟などで指摘してきました。
 そうしたところ、数年ほど前から西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)より、七世紀の中国(唐)において、「天子」は概念であり、称号としての最高位は「天皇」なので、当時の飛鳥木簡や金石文の「天皇」は九州王朝のトップの称号とする古田新説を支持する見解が聞かれるようになりました。そこで、そのことを論文として発表してもらい、それを読んだ上で反論したいと申し入れたところ、『古田史学会報』162号で「『天皇』『皇子』称号について」を発表されました。
 この西村論文の要点は〝近畿天皇家が天皇号を称していたのであれば、九州王朝は何と称していたのか〟という指摘です。このことについては、調査検討の上、『古田史学会報』にてお答えしたいと考えていますが、同類の問題が二〇〇七年頃に古田先生との話題に上ったことがありました。それは『古事記』序文に見える「皇帝」についてでした。
 『古事記』序文には、「伏して惟(おも)ふに、皇帝陛下、一を得て光宅し、三に通じて亭育したまふ。」で始まる一節があり、通説ではこの「皇帝陛下」を元明天皇とするのですが、これを唐の天子ではないかとするSさんの仮説について古賀はどう思うかと、短期間に三度にわたりたずねられたことがありました。ですから、古田先生としてはかなり評価されている仮説のようでした。(つづく)


第2396話 2021/03/01

「蝦夷国」を考究する(11)

 ―多元史観でみる多賀城―

郡山遺跡(仙台市)を蝦夷国衙ではないかとする仮説を「洛中洛外日記」2393話(2021/02/27)〝「蝦夷国」を考究する(10) ―郡山遺跡(仙台市)、蝦夷国衙説―〟で提起しましたが、実は多賀城も同様の可能性を持っていることに気づきました。それは次の考古学的知見と考察によります。

(1)多賀城遺構はⅠ期からⅣ期が出土している。Ⅰ期が創建期の遺構で、通説では多賀城碑に見える神亀元年(724年)の大野東人によるものとされ、Ⅱ期は同じく多賀城碑に見える天平宝字六年(762年)藤原朝獦の「修造」によるものとされている。

(2)政庁とそれを囲む内郭、政庁南門から南へのびる大路は正方位にそって建造されているが、外郭は正方位をとらず、その南辺は時計回りに7度傾いている。更に外郭南門の南500mほどの位置で交差する東西の大路も、外郭南辺と同方向に傾いている。これは設計思想が異なる別勢力による造営の可能性を示唆している。あるいは、政庁などの正方位造営物に先だって、外郭やそれに伴う建築物が造営されていた可能性をうかがわせる(多賀城に先立つ「多賀柵」の成立か)。

(3)創建時のⅠ期に使用された瓦は、多賀城から30~40km程北の大崎地区の瓦窯から供給されている。いわば蝦夷国との〝最前線〟付近とされる瓦窯から供給されていることになる。他方、多賀城の南方にあり、多賀城よりも古い郡山遺跡(仙台市)の瓦はその近隣の瓦窯から供給されている。この状況について、「それにしても重貨である瓦を、わざわざ大崎地方から多賀城に大量に運ぶということは、まったく異例のことである。」「ほかの時期には例をみない刮目すべき事実である。」(注①)と見られていた。

(4)そのため、「大崎地区で生産された瓦が、そこから三〇~四〇キロほど南に位置する多賀城へ大量に運ばれているということは、この時期には大崎地方に大規模な瓦の生産組織が構築されて、その後方に位置する多賀城すらも、大崎地方を中心とする瓦の生産――供給体制に組み込まれた」(注①)と説明(解釈)されるようになった。なお、「その後方に位置する多賀城」とは、〝最前線〟の大崎地方から見た表現である。

(5)この大崎地方や牡鹿地方の多くの城柵・郡家などの官衙や官衙付属寺院の造営と多賀城Ⅰ期の造営は同時期に一体のものとして進められてきたとされ、「そのうち、名生舘遺跡・伏見廃寺跡・色麻町一の関遺跡・菜切谷廃寺などからは、多賀城創建期の瓦よりも古い七世紀末~八世紀初頭の時期の瓦が出土している。また赤井遺跡でも、七世紀後半に遡る土器が出土している。これらの事実は、少なくとも七世紀末ごろまでに、多賀城創建期と同様に大崎地方から牡鹿地方にかけての地域が中央政府の支配下に組み込まれていたことを示すものである。」(注①)とされるようになった。

(6)「七世紀末頃まで」という九州王朝の時代に、九州王朝軍であれ、後の〝大和朝廷〟の軍であれ、宮城県北部の大崎・牡鹿地方まで侵攻・支配したことをうかがわせる記事は、『日本書紀』にはみえない。また、白村江戦敗北後の九州王朝に東北地方まで侵攻できる軍事力が残っていたとは考えにくい。近畿天皇家も同様で、〝壬申の乱〟などの国内戦を戦い、国内最大規模の藤原京造営を行っている。そうした王朝交代前の時期に、宮城県北部まで侵攻・支配できていたとは考えにくく、七世紀における〝陸奥国〟からの荷札木簡も出土していない。

(7)多賀城の付属寺院とされる多賀城廃寺は観世音寺式伽藍配置であり、その2kmほど西側からは「観音寺」と墨書された土器が出土しており、同寺は「観音寺」あるいは「観世音寺」と呼ばれていたと考えられている。このことは多賀城・多賀城廃寺(観世音寺)と太宰府・観世音寺との関係をうかがわせる。ともに、蝦夷国と九州王朝(倭国)による「鎮護国家」のための寺院ではあるまいか(注②)。

(8)以上の所見と考察によれば、創建多賀城・多賀城廃寺と宮城県北部の柵・寺院跡の造営は蝦夷国によるものではなかったか。九州王朝の滅亡により、新たな列島の代表権力者となった大和朝廷の脅威にさらされた蝦夷国が、国衙であった郡山遺跡から、より安全な北部の丘陵地帯に多賀城を創建し、大崎・牡鹿地方にも防衛施設(柵)を造営、あるいは強化修築したのではないか。

以上のような仮説をわたしは検討中です。同地方の遺跡調査報告書の精査途中(注③)ですので、誤解や不十分な点があることと思います。引き続き調査検討を続けますので、皆さんからのご批判とご教導をお待ちしています。(つづく)

(注)
①熊谷公男「養老四年の蝦夷の反乱と多賀城の創建」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第84集、2000年3月)。この論文を正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からご紹介いただいた。
②貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」(『日本考古学』30号、2010年。
③『宮城県多賀城跡調査研究所年報』を中心に精査中。


第2393話 2021/02/27

「蝦夷国」を考究する(10)

 ―郡山遺跡(仙台市)、蝦夷国衙説―

 考古学の分野から蝦夷国を見たとき、多賀城とともに最も注目されるのが郡山遺跡(仙台市)です。旧名取郡域に相当する仙台市南部から出土した同遺跡は、七世紀中頃から八世紀初頭までの短期間存続したとみられ、古いⅠ期官衙と七世紀末に立て替えられたⅡ期官衙と寺院に分けられます。文献には見えないことから、その性格については名取柵・名取郡衙・陸奥国衙など諸説あるようです。
 Ⅰ期の遺構は官舎や倉庫とそれを囲む塀などからなっており、外郭は不明とのこと。その建物の向きは真北から30度ほど東偏しています。Ⅱ期官衙はほぼ正方形地割で南北正方位にあわせて立てられています。その南には寺院跡があり、官衙と寺院がセットになっているという、東北地方の柵の一般的傾向と同じです。しかし、外郭は直径30cmほどのクリ材の約6,000本の丸太を隙間無く一列に立て並べた塀で、地上7~8mの高さであったと推定されています(注①)。
 この郡山遺跡をわたしが注目した理由は次の点です。

(1)七世紀中頃から八世紀初頭の遺跡であり、九州王朝の時代に遡るものである。

(2)その時代での東北地方の他の柵よりも規模が大きく、蝦夷国を代表する官衙にふさわしい。

(3)それにもかかわらず、大和朝廷側の史書『日本書紀』や『続日本紀』に記されていない遺跡である。蝦夷国の存在を『日本書紀』『続日本紀』が隠していることに対応している。

(4)九州王朝から大和朝廷への王朝交代の直前にあたる七世紀末頃に、Ⅰ期官衙は正方位のⅡ期官衙に建て替えられ、高さ7~8mの頑強な丸太塀に囲まれている。すなわち、何らかの必要が発生し、防衛力を強化したと考えられる。このことは、八世紀に入ると蝦夷国が大和朝廷の東山道軍・東海道軍の侵攻(注②)を受けていることと無関係ではないように思われる。

(5)Ⅱ期官衙の南に寺院が併設されている。多量の瓦片や「学生寺」と書かれた木簡が当遺跡から出土している。出土した寺院様式は観世音寺式(注③)とされており、九州王朝との主従関係をうかがわせる。

 以上のような理由から、わたしは郡山遺跡は蝦夷国衙ではないかと考えています。なかでも、(5)で指摘した寺院様式が観世音寺式であることは示唆的です。というのも、貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」(注④)によれば、古代における「鎮護国家の観世音寺式伽藍配置」の寺院が日本列島に12箇所発見されており、大宰・総領の支配地域や古代山城の分布と多くが重なっているとされています。九州王朝の都城である大宰府政庁・観世音寺と同様に、郡山遺跡も蝦夷国における「鎮護国家の伽藍配置」(注⑤)寺院を持つ国衙だったのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①高橋崇『蝦夷(えみし) 古代東北人の歴史』中公新書、1986年。
②多賀城碑には、神龜元年(724年)に「按察使兼鎭守將軍」の大野朝臣東人が多賀城(多賀柵)を置き、天平寶字六年(762年)には「東海東山節度使」「按察使兼鎭守將軍」の藤原朝獦が修造したとある。
③回廊内に金堂(西側)と五重塔(東側)が東西に並ぶ様式。
④貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」(『日本考古学』30号、2010年。
⑤「鎮護国家の伽藍配置」について、次の拙稿があるので参照されたい。
古賀達也「洛中洛外日記」1178話(2016/05/01)〝観世音寺式寺院の意義に新説か〟
古賀達也「洛中洛外日記」1179話(2016/05/03)〝観世音寺の創建年と瓦の相対編年〟
古賀達也「洛中洛外日記」1182話(2016/05/05)〝「鎮護国家の伽藍配置」の明暗(1)〟
古賀達也「洛中洛外日記」1186話(2016/05/13)〝「鎮護国家の伽藍配置」の明暗(2)〟


第2307話 2020/12/02

古田武彦先生の遺訓(16)

周代史料の史料批判(優劣)について〈中篇〉

 主な周代史料には伝世史料(『春秋左氏伝』『周礼』『国語』『竹書紀年』など)、金文(殷周の青銅器に記された文字)、竹簡(精華簡『繋年』など)があります。これらの史料批判として、一般論としては竹簡や金石文などの考古史料が確かな史料として位置づけられるのですが、それほど単純ではないことがわかってきました。
 これはわたしの初歩的なミスだったのですが、当初、『竹書紀年』は出土竹簡に基づいており、信頼性が高いと思っていました。ところが調べてみると、それはとんでもない誤解でした。『竹書紀年』については『中国古代史研究の最前線』(注①)に次のような解説があります。

〝『竹書紀年』は西晋の時代に(注②)、当時の汲郡(今の河南省衛輝市)の、戦国魏王のものとされる墓(これを汲冢と称する)から出土した竹簡の史書であり、夏・殷・周の三王朝及び諸候国の晋と魏に関する記録である。体裁は『春秋』と同様の年代記で、やはり記述が簡潔である。(中略)
 ただし『竹書紀年』は後に散佚したとされており、現在は他の文献に部分的に引用された佚文が見えるのみである。その佚文を収集して『竹書紀年』を復元しようとする試みが清代より行われている。その佚文や輯本(佚文を集めて原書の復元を図ったもの)を便宜的に古本(こほん)『竹書紀年』と称する。
 これに対して、南朝梁の沈約のものとされる注が付いた『竹書紀年』が現存しているが、こちらは一般的に後代に作られた偽書であるとされる。これを古本に対して今本(きんぽん)『竹書紀年』と称する〟157頁

 この説明によれば、今ある『竹書紀年』は三世紀の出土後に散佚し、その千年以上後の清代になって収集されたものであり、元の姿をどの程度遺しているのか、用心してかからなければならない伝世史料なのでした。
 金文についても同様で、同時代金石文と単純にとらえることができないこともわかりました。殷周の青銅器の中には古美術商ルートで出回ったものも少なくなく、偽造の可能性がついてまわります。次に出土であってもその遺構の編年の問題があります。というのも、その時代における青銅器の偽造、あるいは模造という可能性があり、殷周時代との同時代性の確認が必要です。
 このような「周代史料」の実態がわかってきましたので、それでは最も信頼できる史料は何なのかという課題について熟慮しました。(つづく)

(注)
①佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』星海社、2018年。
②西晋(265~316年)。


第2283話 2020/11/04

古田武彦先生の遺訓(9)

精華簡『繋年(けいねん)』の史料意義

 佐藤信弥さんは『中国古代史研究の最前線』(星海社、2018年)で、金文(青銅器の文字)による周代の編年の難しさについて、次のように指摘されています。

〝金文に見える紀年には、その年がどの王の何年にあたるのかを明記しているわけではないので、その配列には種々の異論が生じることになる。と言うより、実のところ金文の紀年の配列は研究者の数だけバリエーションがあるという状態である。〟108頁

 そのような一例として、「精華簡『繋年(けいねん)』」のケースについて紹介します。
 精華簡とは北京の「精華大学蔵戦国竹簡」の略で、精華大学OBから2008年に同大学に寄贈されたものです。2388点の竹簡からなる膨大な史料で、放射性炭素同位体年代測定法によると紀元前305±30年という数値が発表されています。ですから、出土後に散佚し、清代になって収集編纂された『竹書紀年』とは異なり、戦国期後半の同時代史料といえるものです。
 この精華簡のうち、138件からなる編年体の史書を竹簡整理者が便宜的に『繋年』と名付け、2011年に発表しました。西周から春秋時代を経て戦国期までおおむね時代順に配列されており、全23章のうち第1章から第4章までに西周の歴史が記されています。
 先の『中国古代史研究の最前線』によれば、従来、西周が東遷して東周となった年代は紀元前770年とされてきたのですが、この新史料『繋年』に基づいて次々と異説が発表されました。たとえば『繋年』の記事に対する解釈の違いにより、周の東遷年を前738年とする説(注①)や前760年とする説(注②)があり、「東遷の紀年や、『繋年』の記述をふまえたうえで、東遷の実相がどうであったかという問題は、やはり今後も議論され続けることになるだろう。」(注③)とされています。
 このように、二倍年暦(二倍年齢)という概念(仮説)を導入していない、学界の周代暦年研究は未だ混沌とした状況にあるようです。『史記』や『竹書紀年』『春秋左氏伝』などの史料事実(周王らの年齢・在位年・紀年など)をそのまま〝是〟とするような実証的手法では、結論は導き出させないのではないでしょうか。このことを改めて指し示した新史料『繋年』の持つ意義は小さくありません。
 なお、『繋年』については、小寺敦さんにより全章の原文と訓読、現代語訳などが発表されています(注④)。300頁近くの長文の論文ですので、少しずつ読み進めているところです。(つづく)

(注)
①吉本道雅「精華簡繋年考」『京都大学文学部研究紀要』第52巻、2013年。 
②水野卓「精華簡『繋年』が記す東遷期の年代」『日本秦漢史研究』第18号、2017年。
③佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』星海社、2018年。167~168頁。
④小寺敦「精華簡『繋年』訳注・解題」『東洋文化研究所紀要』第170冊、2016年。


第2255話 2020/10/08

『纒向学研究』第8号を読む(3)

 柳田康雄さんが「倭国における方形板石硯と研石の出現年代と製作技術」(注①)において、「弥生時代は、もはや原始時代ではなく、教科書を改訂すべきである」と主張されていることを紹介しましたが、この他にも貴重な提言をなされています。たとえば次のようです。

〝中国三国時代以後に研石が見られないのは固形墨の普及と関係することから、倭国では少なくとも多くの研石が存在する古墳前期までは膠を含む固形墨が普及していないことが考えられる。したがって、出土後水洗されれば墨が剥落しやすいものと考えられる。〟(41頁)

〝何よりも弥生石器研究者に限らず考古学に携わる研究者・発掘調査担当者の意識改革が必要である。調査現場での選別や整理作業での慎重な水洗の重要性は、調査担当者のみにらず作業員の熟練が欠かせないことを今回の出土品の再調査でもより一層痛感した。出土品名の誤認に始まり、不用意に水洗された結果付着していたはずの黒色や赤色付着物が失われている。(中略)
 原始時代とされている弥生時代において、文字だけではなく青銅武器や大型銅鏡を製作できる土製鋳型技術が出現し継続しているはずがないという研究者が多い現実がある(柳田2017c)。また、遺跡・遺物を観察・分類できる能力(眼力)を感覚的だと軽んじ、認識・認知や理論という机上の操作で武装する風潮が昨今の考古学者には存在する。このような考古学の基礎研究不足は、研究を遅滞し高上(ママ)は望めない。基礎研究不足のまま安易に科学分析を受け入れた、その研究者のそれまでの研究成果はなんだったのだろう、旧石器捏造事件を想起する。修練された感覚的能力なくして、遺跡・遺物を研究する考古学という学問は存在意義があるのだろうか。大幅に弥生時代の年代を繰り上げた研究者や博物館などの施設は、それまでの考古学の基礎研究では弥生時代の年代が決定できなかったことを証明している。考古学研究の初心に戻りたいものだ。これはデジタル化に取り越されたアナログ研究者のぼやきだけで済むのだろうか。〟(43頁)

 弥生編年の当否はおくとしても、柳田さんの指摘や懸念には共感できる部分が少なくありません。この碩学の提言を真摯に受け止めたいと思います。(おわり)

(注)『纒向学研究』第8号(桜井市纒向学研究センター、2020年)所収。


第2253話 2020/10/06

『纒向学研究』第8号を読む(2)

 柳田康雄さんの「倭国における方形板石硯と研石の出現年代と製作技術」(注①)によれば、弥生時代の板石硯の出土は福岡県が半数以上を占めており、いわゆる「邪馬台国」北部九州説を強く指示しています。なお、『三国志』倭人伝の原文には「邪馬壹国」とあり、「邪馬台国」ではありません。説明や論証もなく「邪馬台国」と原文改定するのは〝学問の禁じ手(研究不正)〟であり、古田武彦先生が指摘された通りです(注②)。
 古田説では、邪馬壹国は博多湾岸・筑前中域にあり、その領域は筑前・筑後・豊前にまたがる大国であり、女王俾弥呼(ひみか)がいた王宮や墓の位置は博多湾岸・春日市付近とされました。ところが、今回の板石硯の出土分布を精査すると、その分布中心は博多湾岸というよりも、内陸部であることが注目されます。それは次のようです。

〈内陸部〉筑紫野市29例(研石6)、筑前町22例(研石5)、朝倉市4例、小郡市3例(研石1)、筑後市4例(研石1)

〈糸島・博多湾岸部〉糸島市13例(研石3)以上、福岡市17例(研石1)
 ※この他に、豊前に相当する北九州市20例と築城町8例(研石1)も注目されます。

 しかも、弥生中期前半頃に遡る古いものは内陸部(筑紫野市、筑前町)から出土しています。当時、硯を使用するのは交易や行政を担当する文字官僚たちですから、当然、倭王の都の中枢領域にいたはずです。内陸部に多いという出土事実は古田説とどのように整合するのか、あるいは今後の発見を期待できるのか、古田学派にとって検討すべき問題ではないでしょうか。
 柳田さんは次のように述べて、教科書の改訂を主張されています。

 「これからは倭国の先進地域であるイト国・ナ国の王墓などに埋葬されてもよい長方形板石硯であるが、いまだに発見されていない。いずれ発見されるものと信じるが、今回の集落での発見は一定の集落内にも識字階級が存在することを示唆しているだけでも研究の成果だと考えている。青銅武器や銅鏡の生産を実現し、一定階級段階での地域交流に文字が使用されている弥生時代は、もはや原始時代ではなく、教科書を改訂すべきである。」(43頁)

 大和朝廷一元史観に基づく通説論者からも、このような提言がなされる時代に、ようやくわたしたちは到達したのです。(つづく)

(注)
①『纒向学研究』第8号(桜井市纒向学研究センター、2020年)所収。
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻)