第2396話 2021/03/01

「蝦夷国」を考究する(11)

 ―多元史観でみる多賀城―

郡山遺跡(仙台市)を蝦夷国衙ではないかとする仮説を「洛中洛外日記」2393話(2021/02/27)〝「蝦夷国」を考究する(10) ―郡山遺跡(仙台市)、蝦夷国衙説―〟で提起しましたが、実は多賀城も同様の可能性を持っていることに気づきました。それは次の考古学的知見と考察によります。

(1)多賀城遺構はⅠ期からⅣ期が出土している。Ⅰ期が創建期の遺構で、通説では多賀城碑に見える神亀元年(724年)の大野東人によるものとされ、Ⅱ期は同じく多賀城碑に見える天平宝字六年(762年)藤原朝獦の「修造」によるものとされている。

(2)政庁とそれを囲む内郭、政庁南門から南へのびる大路は正方位にそって建造されているが、外郭は正方位をとらず、その南辺は時計回りに7度傾いている。更に外郭南門の南500mほどの位置で交差する東西の大路も、外郭南辺と同方向に傾いている。これは設計思想が異なる別勢力による造営の可能性を示唆している。あるいは、政庁などの正方位造営物に先だって、外郭やそれに伴う建築物が造営されていた可能性をうかがわせる(多賀城に先立つ「多賀柵」の成立か)。

(3)創建時のⅠ期に使用された瓦は、多賀城から30~40km程北の大崎地区の瓦窯から供給されている。いわば蝦夷国との〝最前線〟付近とされる瓦窯から供給されていることになる。他方、多賀城の南方にあり、多賀城よりも古い郡山遺跡(仙台市)の瓦はその近隣の瓦窯から供給されている。この状況について、「それにしても重貨である瓦を、わざわざ大崎地方から多賀城に大量に運ぶということは、まったく異例のことである。」「ほかの時期には例をみない刮目すべき事実である。」(注①)と見られていた。

(4)そのため、「大崎地区で生産された瓦が、そこから三〇~四〇キロほど南に位置する多賀城へ大量に運ばれているということは、この時期には大崎地方に大規模な瓦の生産組織が構築されて、その後方に位置する多賀城すらも、大崎地方を中心とする瓦の生産――供給体制に組み込まれた」(注①)と説明(解釈)されるようになった。なお、「その後方に位置する多賀城」とは、〝最前線〟の大崎地方から見た表現である。

(5)この大崎地方や牡鹿地方の多くの城柵・郡家などの官衙や官衙付属寺院の造営と多賀城Ⅰ期の造営は同時期に一体のものとして進められてきたとされ、「そのうち、名生舘遺跡・伏見廃寺跡・色麻町一の関遺跡・菜切谷廃寺などからは、多賀城創建期の瓦よりも古い七世紀末~八世紀初頭の時期の瓦が出土している。また赤井遺跡でも、七世紀後半に遡る土器が出土している。これらの事実は、少なくとも七世紀末ごろまでに、多賀城創建期と同様に大崎地方から牡鹿地方にかけての地域が中央政府の支配下に組み込まれていたことを示すものである。」(注①)とされるようになった。

(6)「七世紀末頃まで」という九州王朝の時代に、九州王朝軍であれ、後の〝大和朝廷〟の軍であれ、宮城県北部の大崎・牡鹿地方まで侵攻・支配したことをうかがわせる記事は、『日本書紀』にはみえない。また、白村江戦敗北後の九州王朝に東北地方まで侵攻できる軍事力が残っていたとは考えにくい。近畿天皇家も同様で、〝壬申の乱〟などの国内戦を戦い、国内最大規模の藤原京造営を行っている。そうした王朝交代前の時期に、宮城県北部まで侵攻・支配できていたとは考えにくく、七世紀における〝陸奥国〟からの荷札木簡も出土していない。

(7)多賀城の付属寺院とされる多賀城廃寺は観世音寺式伽藍配置であり、その2kmほど西側からは「観音寺」と墨書された土器が出土しており、同寺は「観音寺」あるいは「観世音寺」と呼ばれていたと考えられている。このことは多賀城・多賀城廃寺(観世音寺)と太宰府・観世音寺との関係をうかがわせる。ともに、蝦夷国と九州王朝(倭国)による「鎮護国家」のための寺院ではあるまいか(注②)。

(8)以上の所見と考察によれば、創建多賀城・多賀城廃寺と宮城県北部の柵・寺院跡の造営は蝦夷国によるものではなかったか。九州王朝の滅亡により、新たな列島の代表権力者となった大和朝廷の脅威にさらされた蝦夷国が、国衙であった郡山遺跡から、より安全な北部の丘陵地帯に多賀城を創建し、大崎・牡鹿地方にも防衛施設(柵)を造営、あるいは強化修築したのではないか。

以上のような仮説をわたしは検討中です。同地方の遺跡調査報告書の精査途中(注③)ですので、誤解や不十分な点があることと思います。引き続き調査検討を続けますので、皆さんからのご批判とご教導をお待ちしています。(つづく)

(注)
①熊谷公男「養老四年の蝦夷の反乱と多賀城の創建」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第84集、2000年3月)。この論文を正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からご紹介いただいた。
②貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」(『日本考古学』30号、2010年。
③『宮城県多賀城跡調査研究所年報』を中心に精査中。

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