考古学一覧

第1493話 2017/09/02

須恵器窯跡群の多元史観(4)

 朝鮮半島から陶質土器がもたらされ、初期須恵器が国内各地で造られたました。その初期須恵器窯跡の分布を見て、不思議なことに気づきました。初期須恵器窯は福岡県朝倉を筆頭に大阪府の陶邑窯や吹田窯、そして名古屋の東山窯など西日本に主に分布しているのですが、東日本には関東を飛び越えて仙台の大蓮寺窯が発見されています。これは実に不思議な分布状況ではないでしょうか。
 この大蓮寺窯跡は東北地方最古の須恵器窯跡とされ、古墳時代中期中頃(5世紀中頃)と編年されています。今後は関東からも初期須恵器窯跡が発見されるかもしれませんが、大蓮寺窯跡は陶邑窯跡の流れとする説や朝鮮半島から直接この地にもたらされた可能性を指摘する説があります。いずれにしても、大和朝廷一元史観による従来の解釈、すなわち陶邑に伝わった須恵器製造技術が日本各地に伝播したとする一元説では説明しにくく、多元的に国内各地に初期須恵器窯が成立したとする理解が有力説として登場しているようです。
 しかし、わたしの目から見るとこの初期須恵器窯多元説でも、なぜ東北地方の仙台にいち早く伝わったのかという説明がなされておらず、大和朝廷一元史観に基づく解釈を常とする考古学界の限界を感じます。古田史学・多元史観によりこの分布状況を解釈すれば、古墳時代中期において列島各地に多元的に王朝・王権が存在しており、まず九州王朝に伝わった須恵器製造技術が各地の王権に伝播したと理解するのが穏当と思われます。そのように考えると、近畿の王権(近畿天皇家あるいは冨川ケイ子さんが提唱された「河内王朝」)へ伝わったのが陶邑窯跡群であり、蝦夷国に伝わったのが仙台市の大蓮寺窯跡ではないでしょうか。
 この考えを更に敷衍すると、その論理展開として埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣銘等に代表される関東王朝の地からも初期須恵器窯跡が発見されるのではないかと考えています。すなわち初期須恵器窯多元説とは多元史観(多元的王朝の成立)を前提とした考古学的理解なのです。(つづく)


第1492話 2017/09/02

須恵器窯跡群の多元史観(3)

 須恵器は古墳時代中期に朝鮮半島の陶質土器がもたらされ、その製造技術や工人が渡来し初期須恵器が国内各地で造られたと考えられています。そしてその初期須恵器が最初に造られたのが福岡県の小隈窯跡とする見解があることを紹介しました。
 従来は堺市の陶邑窯跡群が国内最古とされてきましたが、さすがに朝鮮半島から瀬戸内海を通過して、その間の他地域には目もくれず一直線に畿内に向かい、陶邑窯跡群が造営されたとするのは言いにくくなったようです。しかし強固な一元史観論者からは様々な解釈(いいわけ)が試みられているようです。いわく、「中央政権(大和朝廷)と朝鮮半島諸国の太いパイプにより、直接的に陶邑に須恵器製造技術がもたらされた」というような解釈です。ものは言いようと、わたしは感じました。その一例を紹介します。

 「地理的要因とは別に、こうした生産工人集団は東をめざし、大阪湾に直進している。そして生産を開始した。この事実は、北部九州のあり方とは基本的に異なる。瀬戸内海の東端を目的地として目指したのであり、不目的な漂流の結果ではない。恐らく、中央政権ないしは関連する中央豪族と深く関係していたことは、先学の説くところであり、そのあり方は、陶邑窯における後の展開に大きく現れてくる。」(226頁)
 「窯成立のルートとして、北部九州→三谷三郎池西岸窯→吹田32号窯→陶邑窯・一須賀2号窯と藤原氏は描くが、筆者は前述したように、第1に朝鮮半島→陶邑窯の太いルートを前提として考えたい。その過程で三谷三郎池西岸窯・吹田32号窯・一須賀2号窯への同時到着、あるいは折り返しを想定する。もちろん漂着等による偶発的な開窯も否定できないが、各港々にそうした偶然は不自然である。」(227頁)
 植野浩三「日本における初期須恵器生産の開始と展開」『奈良大学紀要』第21号(1993年)

 こうした植野さんの理解は、わたしたち多元史観・九州王朝説論者からは強引な解釈と見えますが、現在の古代史学界の通説“大和朝廷一元史観”に従えばこのように解釈せざるを得ず、考古学者の植野さん一人を責めるのは酷のようにも思えます。大和朝廷一元史観という日本古代史学界の「岩盤規制」を打ち破ることは、古田学派にしか成し遂げられない歴史的使命だとわたしは考えています。(つづく)


第1491話 2017/09/01

須恵器窯跡群の多元史観(2)

 一元史観によれば畿内の陶邑窯跡群(堺市・他)から各地に須恵器や須恵器製造技術が工人とともに伝播したと考えられているようですが、須恵器の勉強を続けていると面白い事実を発見しました。それは国内最古の須恵器生産地は九州の窯跡のようなのです。
 九州王朝説からすれば、朝鮮半島から伝えられた須恵器製造技術がまず北部九州に定着し、それが関西や東海に伝播したのではないかと考えられ、初期の須恵器窯跡遺跡について文献調査したところ、次のような記述がありました。

 「北九州地域では、初期須恵器か陶質土器かで議論を呼んでいた古寺・池の上墳墓群(朝倉市:古賀注)出土の遺物がまず注目される。初期須恵器と陶質土器(朝鮮半島産の土器:古賀注)が混在する状況があり、その評価をめぐって見解が分かれていた。すなわち舶載の可能性を含めたものと、すべて国産とするものであり、後者は、さらにその前後関係をも問題にしている。
 しかし、これらの遺物のうち、陶質土器は、近接して所在する小隈・山隈・八並窯跡群で生産されたものと考えられるにいたり、やがて、この点の決着もつくものと期待されている。
 またこのほか、筑紫野市内でも窯跡が相次いで見つかっている。これらから、従来の初期須恵器あるいは陶質土器の産地および流通などに関して再検討が必要となってきている。
 したがってこの点、結論を出すには早計であるが、九州地域の初期須恵器あるいは陶質土器の流通は、必ずしも畿内とのかかわりを考慮しないで考えるほうがよいかもしれない。今後は、当該地域における生産活動が、いったいいつ畿内の体制に組み込まれるのか、あるいは、組み込まれないのかなど問題が発展していくものと考えられる。」中村浩『須恵器』34〜35頁(1990年、柏書房)

 北部九州の朝倉市の初期須恵器窯跡群が畿内の陶邑窯跡群とは無関係に成立していたと考えたほうがよいとする記述ですが、いまひとつ何が言いたいのか素人にはよくわかりません。そこで、更に文献調査したところ、次の記述を見つけました。

 「ところで、福岡県小隈窯跡については、最近の調査によって『窯跡の範囲を把むことができ、その数は、さらに数基に及ぶことが想定』されるにいたっている。また灰原から池の上Ⅱ、Ⅲに相当する遺物が『灰原から一括遺物として取り上げ』られている。従来これらの遺物は、陶質土器と呼称されており、国産品であることが明らかとなった上は、報告者が『これらの遺物を須恵器として報告』したことに賛意を表する。
 さらにこれらの製品が供給されていたと見られる古寺・池の上墳墓群の調査報告から判断すると、この確認によって当該窯が、いわば我が国の須恵器生産の最古の可能性も残されている。しかし当該墳墓群出土遺物についても必ずしも一致しておらず、問題を残している。」中村浩『古墳時代須恵器の編年的研究』67〜69頁(1993年、柏書房)

 須恵器研究の第一人者である中村浩さんによる、朝倉市出土の「当該窯が、いわば我が国の須恵器生産の最古の可能性も残されている」という指摘は貴重です。朝鮮半島からもたらされた須恵器生産技術が距離的に近い北部九州でまず受容されるのは、多元史観・一元史観を問わず普通に納得できることですが、それでも一元史観の論者には「不都合な真実」かもしれません。ご紹介した両書は今から20年ほど前の発行ですから、引き続き最新情報についても調査と勉強を進めます。(つづく)


第1488話 2017/08/26

須恵器窯跡群の多元史観(1)

 このところ太宰府に須恵器を供給した九州最大の牛頸須恵器窯跡群(大野城市・他)に興味を持って、須恵器窯跡群について勉強を続けています。古代において代表的で最大規模の須恵器窯跡群として堺市の陶邑窯跡群は有名ですが、それに次いで規模が大きいのが愛知県名古屋市の猿投山(さなげやま)と牛頸(うしくび)の須恵器窯跡群とされています。これらは三大須恵器窯跡群遺跡とも称されており、古代(古墳時代〜)においてこれらの地域に権力中枢が多元的に存在していたことを想像させます。
 とりわけ陶邑窯跡群は近畿の巨大古墳群を造営した権力者に須恵器を供給していたのですが、このことが大和朝廷一元史観の考古学的根拠の一つとなっています。さらに一元史観によれば陶邑窯跡群から各地に須恵器や須恵器製造技術が工人とともに伝播したと考えられているようです。その上で、陶邑窯跡群出土須恵器の編年がそのまま各地域の須恵器編年に援用されています。
 九州王朝説からすれば、朝鮮半島から伝えられた須恵器製造技術がまず北部九州に定着し、それが関西や東海に伝播したと考えたいところです。規模も北部九州の窯跡群が最大規模であってほしいところですが、現在の発掘結果では堺市等の陶邑窯跡群が最大です。
 九州王朝や近畿天皇家の中枢領域にそれぞれ巨大窯跡群が存在することを考えると、東海の猿投山窯跡群にも対応すべき九州王朝や近畿天皇家に匹敵する権力者がいたと考える必要がありそうです。(つづく)


第1487話 2017/08/25

7世紀の王宮造営基準尺(3)

 7世紀頃の王都王宮の遺構の設計基準尺について、最も信頼性が高い数値が藤原宮の基準尺(1尺29.5cm)です。一寸刻みの目盛りを持つ物差しが出土したことと、遺構の設計数値がその物差しと一致していることにより、その信頼性が得られました。その物差しと設計基準尺について、木下正史著『藤原京 よみがえる日本最古の都城』(中公新書、2003年)には次のように紹介されています。

 「藤原宮からは一寸ごとに印をつけた一尺(復元長29.5センチ)の木製物差しが出土している。長距離の測定や割り付けには間縄(けんなわ)なども使用されたはずである。道路間の距離や大垣の柱位置の割り付けなどから復元できる物差しも、一尺の長さが29.5センチとほぼ一定しており、きわめて精度の高いものであった。」(84ページ)

 藤原宮は出土干支木簡の年代から680年頃から造営が始まったことが判明しており、当時の近畿天皇家(天武期)の公式な基準尺が1尺29.5cmであることがわかります。
 前期難波宮(652年)が1尺29.2cm、大宰府政庁Ⅱ期、観世音寺(670年頃)が1尺約29.6〜29.8cmであることから、7世紀において、基準尺が少しずつ大きくなっているようです。この変化がどのような理由によって起こったのかはまだわかりませんが、九州王朝(倭国)から近畿天皇家(日本国)への王朝交代期に何らかの事情により、基準尺にも変化が生じたのではないでしょうか。(つづく)


第1486話 2017/08/24

大阪歴博で市大樹さんの講演会

 木簡研究で優れた業績を発表された市大樹さんの論文「難波長柄豊碕宮の造営過程」(武田佐知子編『交錯する知』思文閣出版、2014年)について、「洛中洛外日記」1470話「白雉改元『難波長柄豊碕宮』説」にて紹介しました。
 『日本書紀』孝徳紀の白雉改元(650年2月)の儀式が行われた宮殿を前期難波宮とする新説を市さんは発表されたのですが、そのことを講演されるようです。前期難波宮(通説では難波長柄豊碕宮)の完成は孝徳紀白雉三年(652年9月)と記されており、その二年以上前に白雉改元の儀式が前期難波宮で行われるとは考えにくいと思うのですが、上町台地で大規模な改元儀式が行える場所は前期難波宮(法円坂)以外にはありません。そのため、市さんは650年には改元儀式が行える程度には工事が進んでいたとされました。
 わたしは『日本書紀』の白雉と九州年号の白雉は2年のずれがあり、九州年号の白雉元年(652年)であれば、その年に完成した前期難波宮での改元儀式は可能と考えています。すなわち、九州王朝説と九州年号の実在を認めれば、前期難波宮の完成と白雉改元儀式の年が一致し、市さんのように完成の2年前に改元儀式を行ったという無理な解釈にはしらなくてもすむのです。講演会で質疑応答ができれば、この点をお聞きしたいと思います。
 最後に大阪歴博ホームページの講演会の案内を転載します。前期難波宮が一元史観の通説ではどのように位置づけられているのかがよくわかりますので、ご参照ください。

【転載】
特集展示「新発見!なにわの考古学2017」関連行事
「大阪の歴史を掘る2017」講演会
 市 大樹氏講演
孝徳朝における難波の諸宮

 特集展示「新発見!なにわの考古学2017」の関連行事の一つとして9月23日(土・祝)に「大阪の歴史を掘る2017」講演会を開催します。
 今回は、大阪大学大学院文学研究科 准教授の市 大樹氏にご講演いただきます。前期難波宮が孝徳天皇の造営した難波長柄豊碕宮(なにわながらとよさきのみや)に相当することは、現在ほぼ受け入れられています。しかし『日本書紀』をひもとくと、孝徳朝には難波の諸宮として、子代離宮(こしろのかりみや)・蝦蟇行宮(かわずのかりみや)・小郡宮(おごおりのみや)・難波碕宮(なにわさきのみや)・味経宮(あじふのみや)・大郡宮(おおごおりのみや)なども登場し、問題はかなり複雑です。この講演では、難波長柄豊碕宮に軸を据え、他の諸宮との関係を探ります。
 また、当館の村元健一が、特集展示「新発見!なにわの考古学2017」で展示する大阪市内の発掘調査の成果を紹介します。注目される調査には喜連西(きれにし)遺跡の古墳時代初頭の方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)、後期難波宮の官衙(かんが)、住吉行宮(すみよしあんぐう)跡の堀と思われる中世の大規模な溝があります。昨年の発掘調査から何が明らかになったのかを考えます。

主催 大阪歴史博物館
日時 平成29年9月23日(土・祝)
   午後1時30分〜4時30分(午後1時より受付)
会場 大阪歴史博物館 4階 講堂
内容
「平成28年度 大阪市内の発掘調査」
     村元健一(当館学芸員)
「孝徳朝における難波の諸宮」
     市大樹 氏(大阪大学大学院文学研究科 准教授)

定員 250名(当日先着順)
参加費 500円
参加方法 当日直接会場にお越しください


第1485話 2017/08/21

牛頸遺跡大型須恵器窯跡の質疑応答

 「洛中洛外日記【号外】2017/08/20」にて、冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人)から教えていただいた「大野城市牛頸遺跡から大型須恵器窯跡発見」のニュースを紹介しました。太宰府に須恵器を供給していた九州最大規模の牛頸窯跡群遺跡(大野城市・春日市・太宰府市)の小田浦窯跡遺跡から大型須恵器窯跡発見の報告が大野城市ホームページで閲覧可能とのことで、わたしも拝見しました。
 そして、大野城市ホームページを介して次の質問を出したところ、翌日には丁寧なご返答をいただきましたので、紹介します。

《質問1》「1・2号窯で7世紀前半ごろの須恵器と一緒にまとまった量の瓦が見つかっている」とのことだが、どんな瓦か? 編年は可能か?
《回答》軒丸・軒平瓦は出土していません。大部分が丸瓦・平瓦で構成され、凸面は平行タタキ、凹面は布目痕(+同心円文当具痕の資料を含む)が基本となっています。当窯跡資料だけでの編年は困難だと考えています。

《質問2》「7世紀前半頃の須恵器」とは様式は何か?
《回答》瓦が出土した窯(2号窯)の須恵器は、小田富士雄編年(北部九州で一般的に利用する編年)で1VB期にあたります。近畿地方で類似した土器相としては、中村浩編年のⅡ型式5段階が挙げられます。年代観は、小田先生に準拠したものです。

《質問3》正式な報告書はいつごろ発刊されるか?
《回答》2007年(平成19年)3月に刊行しています。図書名は『牛頸小田浦窯跡群Ⅱ』(大野城市文化財調査報告書第73集)です。大学や研究機関、自治体に配布しておりますので、ご参照ください。また、九州国立博物館の関連サイト「西都太宰府」の中、「資料ライブラリー」にPDF版が掲載されています。合わせてご案内申し上げます。
 不明な点などございましたら、ご連絡ください。
 今後ともよろしくお願いいたします。
         大野城市ふるさと文化財課
             林 潤也

 以上のような懇切丁寧なご返答をいただきました。研究者として、とてもありがたいことです。現在、ご教示いただいたサイトの資料を精読しています。発見がありましたら、「洛中洛外日記」でご紹介します。


第1484話 2017/08/20

7世紀の王宮造営基準尺(2)

 7世紀頃の王都王宮の遺構の設計基準尺について現時点でわたしが把握できたのは次の通りですが、この数値の変遷が何を意味するのかについて考えてみました。

(1)太宰府条坊(7世紀頃) 1尺約30cm。条坊道路の間隔が一定しておらず、今のところこれ以上の精密な数値は出せないようです。
(2)前期難波宮(652年) 1尺29.2cm 回廊などの長距離や遺構の設計間隔がこの尺で整数が得られます。
(3)大宰府政庁Ⅱ期、観世音寺(670年頃) 1尺約29.6〜29.8cm 政庁と観世音寺中心軸間の距離が594.74mで、これを2000尺として算出。礎石などの間隔もこの基準尺で整数が得られるとされています。
(4)藤原宮 1尺29.5cm ものさしが出土しています。
(5)後期難波宮(726年) 1尺29.8cm 律令で制定された「小尺」(天平尺)とされています。

 これら基準尺のうち、わたしが九州王朝のものと考える三つの遺構の基準尺は次のような変遷を示しています。

①太宰府条坊(7世紀頃) 1尺約30cm
②前期難波宮(652年) 1尺29.2cm
③大宰府政庁Ⅱ期、観世音寺(670年頃) 1尺約29.6〜29.8cm

 7世紀初頭頃に造営されたと考えている太宰府条坊は「隋尺」(30cm弱)ではないかと思いますが、前期難波宮はそれよりも短い1尺29.2cmが採用されています。この変化が何により発生したのかは今のところ不明です。670年頃造営と思われる大宰府政庁Ⅱ期、観世音寺の1尺約29.6〜29.8cmは「唐尺」と思われます。この頃は白村江戦後で唐による筑紫進駐の時期ですから、「唐尺」の採用は一応の説明ができそうです。
 ここで注目すべきは、前期難波宮の1尺29.2cmで、藤原京の1尺29.5cmとは異なります。従って、こうした両王都王宮の設計基準尺の違いは、前期難波宮天武朝造営説を否定する事実と思われます。同一王朝の同一時期の王都王宮の造営基準尺が異なることになるのですから。(つづく)


第1482話 2017/08/18

7世紀の王宮造営基準尺(1)

 古代中国では王朝が交代すると新たな暦を採用したり、度量衡も改定される例が少なくありません。わが国においても、九州王朝から大和朝廷に交代する際に同様の事例があるのではないかと考えてきました。そこで7世紀の基準尺を精査し、大宰府政庁や条坊、前期難波宮や藤原京の造営において変化があるのかについて関心を持ってきたところです。
 古田学派では九州王朝は中国南朝系の基準尺を採用してきたとする諸論稿が発表されてきました。近年では服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が「古田史学の会」関西例会において、古代日本における基準尺について論じられています。わたしも「洛中洛外日記」1362話(2017/04/02)「太宰府条坊の設計『尺』の考察」において、九州王朝の基準尺について次の推測を述べました。

 ①6世紀以前、南朝尺(25cm弱)を採用していた九州王朝は7世紀初頭には北朝の隋との交流開始により北朝尺(30cm弱)を採用した。
 ②太宰府条坊都市から条坊設計に用いられた「尺」が推測でき、条坊間隔は90mであり、整数として300尺が考えられ、1尺が29.9〜30.0cmの数値が得られている。「隋尺」か。
 ③条坊都市成立後、その北側に造営(670年頃か)された大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺の条坊区画はそれよりもやや短い1尺29.6〜29.7cmが採用されており、この数値は「唐尺」と一致する。

 以上の推定に基づいて、考古学的調査報告書を中心に基準尺について調べてみました。調査の対象を国家公認の主要尺とするため、王都王宮の遺構としました。現時点でわたしが把握できたのは次の通りです。引き続き、調査しますので、データの追加や修正が予想されますが、この点はご留意ください。

(1)太宰府条坊(6〜7世紀) 1尺約30cm。条坊道路の間隔が一定しておらず、今のところこれ以上の精密な数値は出せないようです。
(2)前期難波宮(652年) 1尺29.2cm 回廊などの長距離や遺構の設計間隔がこの尺で整数が得られます。
(3)大宰府政庁Ⅱ期、観世音寺(670年頃) 1尺約29.6〜29.8cm 政庁と観世音寺中心軸間の距離が594.74mで、これを2000尺として算出。礎石などの間隔もこの基準尺で整数が得られるとされています。
(4)藤原宮 1尺29.5cm ものさしが出土しています。
(5)後期難波宮(725年) 1尺29.8cm 律令で制定された「小尺」(天平尺)とされています。

 これら基準尺の数値は算出根拠が比較的しっかりとしており、信頼できると考えています。(つづく)


第1479話 2017/08/15

一元史観から見た前期難波宮(3)

 今回は視点を少し遡らせて、前期難波宮が摂津難波の地に造営された歴史的背景について、一元史観の考古学者はどのように出土事実を捉えているのかを紹介します。
 土器の専門家である寺井誠さんは「難波における百済・新羅土器の搬入とその史的背景」(『大阪歴史博物館 共同研究成果報告書』7号、2013年)で6〜7世紀の難波について次のように説明されています。

 「難波は倭王権にとって長く外交の窓口としての重要な役割をはたしてきた。『日本書紀』には、中国や朝鮮諸国からの使節が到来する場面がしばしば登場する。難波には、外国の使節によってもたらされた「調」の検閲・記録や饗応儀礼を行ったりした「難波大郡」、使節を宿泊・休養させるための「館」が、外交関連施設として存在したことが記されている。(中略)
 難波ではまた、これを反映するかのように、朝鮮半島からの搬入土器が多く出土している(寺井2012bなど)。こうした土器は古代難波における外交を考えるための基礎的な物証となる可能性を秘めている。特に、これまで筆者が何度か指摘しているように、難波で確認できる朝鮮半島の土器のほとんどが難波遷都以前の段階のものである。難波宮が完成したにもかかわらず、何故に継続的に朝鮮半島から土器がもたらされなかったのか、素朴な疑問を抱く方も多いであろう。」(5頁)

 このように論文は書き始められているのですが、寺井さんは難波における『日本書紀』の外交関連記事と朝鮮半島土器の出土、すなわち史料事実と考古学的出土事実の一致という、実証的な視点で論述を進められます。
 この戦後実証史学の方法からは九州王朝説は片鱗も見えず、一元史観による説明をとりあえず可能としています。多元史観・古田学派の研究者は、この一元史観による「実証主義」をよく理解しておく必要があります。そうでないと「他流試合」を戦えないからです。“大阪市の考古学者など信用できない”というような非学問的な非難や態度は、「他流試合」では全く無力で無意味ですし、学問論争の体もなしていません。
 さらに寺井さんは考古学者らしく、次のような出土事実を提示されます。

 「まず、百済土器は、6世紀後半頃に遡る可能性があるものを含むと総数で10点程度出土している。6〜7世紀の日本列島では、管見による限り百済土器の出土例がきわめて少なく(寺井2012bなど)、これが当時の実体であるというなら、いかに難波に偏っているかわかるであろう。」(9頁)
 「以上、難波およびその周辺における6世紀後半から7世紀にかけての時期に搬入された百済土器、新羅土器について整理した。出土数については、他地域を圧倒していて、特に日本列島において搬入数がきわめて少ない百済土器が難波に集中しているのは目を引く。(中略)
 このように朝鮮半島の搬入土器が難波に集中的に出土する背景としては、やはり難波に外交関連の施設が設置され、次第に外交の窓口として定着してきたことが考えられよう。土器の搬入は外交使節による場合もあったであろうし、文献には登場しないような来訪もあったと思われる。いずれにせよ、難波は朝鮮半島諸国と接する機会の多い場所であったことを反映しているのであろう。」(18頁)

 以上のように寺井さんは、摂津難波が6〜7世紀の日本列島内においてトップクラスの外交拠点であることを朝鮮半島からの搬入土器の出土事実(実証)と『日本書紀』の記述(実証)の一致から説明されています。これらの実証結果は九州王朝説を否定するものです。こうした戦後実証史学の成果に対して、わたしたち古田学派はどのようにして反論すべきかが問われているのです。(つづく)


第1472話 2017/08/06

一元史観から見た前期難波宮(2)

 わたしが前期難波宮を九州王朝副都とする説に至ったきっかけは、その規模の巨大さと律令官制に対応した最古の朝堂院様式の宮殿遺構だったことです。大阪市中央区法円坂から発見された前期難波宮の巨大さについて、関西の方ならよくご存じかもしれませんが、遠方の方には実感する機会がないかもしれません。そこで、一元史観の研究者がどのように前期難波宮の規模や様式を捉えているのかをご紹介します。
 村元健一さんの論文「前期難波宮の南方空間」(『大阪歴史博物館 研究紀要』13号、2015年)では前期難波宮について次のように説明されています。

 「本稿で扱う前期難波宮は7世紀半ばの王宮であり、孝徳朝の難波長柄豊碕宮と考えられている。この宮城は中軸線を正方位にとり、中枢部を左右対称に築き、しかも広大な朝堂院を設けるなど、前代までの倭王宮とは隔絶した規模を有することが明らかとなっており、宮城の平面配置は藤原宮以降の古代宮城の規範となっている。また、この宮城の存在によって倭王権への権力集中を一定程度認め、所謂『大化改新』の具体像が語られるようになってきている。」(11頁)
 「前期難波宮は対外的に倭国の威信を示すために築かれたとされる。視覚的には岬の突端の高所に築かれ、遠方からでも非常に目立つようになっている。また宮城内では、内裏南門とその東西両側の八角殿の造営に見られるように、宮城の正面観を南方に強く打ち出したものであったことは明らかである。このように『見られる』ことを強く意識した宮城と言えるが、その周辺の様子はどうだったのであろうか。」(12頁)

 村元さんはこのように前期難波宮を「前代までの倭王宮とは隔絶した規模」「平面配置は藤原宮以降の古代宮城の規範」「この宮城の存在によって倭王権への権力集中を一定程度認め」られるとされています。そして論文を次の言葉で締めくくっておられます。

 「新たに難波に生まれた『都』は倭の新たな王都の誕生を予感させるものだったのである。」(21頁)

 一元史観の研究者がここまで評価する巨大王宮前期難波宮を通説通り近畿天皇家の孝徳の宮殿とするのか、九州王朝の副都とするのか、どちらの理解が九州王朝説と整合性があるのかは言うまでもないでしょう。一元史観の論者との前期難波宮の評価を巡っての「他流試合」を想定してみてください。かれらは本稿で紹介した村元論文と同じように主張し、「だから九州王朝などなかった」と言うはずです。仮に前期難波宮を天武朝造営と反論しても同様です。一元史観の論者は同様に「だから九州王朝はなかった」「九州にこれ以上の規模の宮殿は出土しているのか」と言うはずですから。(つづく)


第1471話 2017/08/06

一元史観から見た前期難波宮(1)

 前期難波宮九州王朝複都説について、関東の古田学派の皆さんにより論議検討が進められており、提唱者として名誉なことと感謝しています。そこで、今まで「洛中洛外日記」では前期難波宮九州王朝複都説の立場で説明などしてきましたが、今回は視点を変えて大和朝廷一元史観の研究者からは前期難波宮がどのように捉えられているのかをご紹介します。
 たとえば、「洛中洛外日記」1470話で紹介した市大樹さんの論文「難波長柄豊碕宮の造営過程」(武田佐知子編『交錯する知』思文閣出版、2014年)では冒頭に次のように記されています。

 「一九五四年から続く発掘調査によって、大阪市の上町台地法円坂の一帯から二時期にわたる宮殿遺構が検出され、上層を後期難波宮、下層を前期難波宮と呼んでいる。後期難波宮が聖武朝(七二四〜四九)に再興された難波宮であることは異論を聞かない。これに対して前期難波宮は、ほぼ全面に火災痕跡があることから、『日本書紀』朱鳥元年(六八六)正月乙卯条に『酉時、難波大蔵省失火、宮室悉焼』と記される難波宮に相当すると見てよいが、造営時期を孝徳朝(六四五〜五四)・天武朝(六七二〜八六)いずれとみるのかで長い議論があった。しかし、一九九九年に北西部にある谷から「戊申年」(大化四年、六四八)と書かれた木簡が出土したことや、造成整地土から七世紀中葉の土器が多く出土したことなどもあり、現在では孝徳朝の難波長柄豊碕宮とみるのがほぼ通説となっている。」(285頁)

 このように前期難波宮を七世紀半ばの造営とすることがほぼ通説であると記されています。わたしの九州王朝副都説も造営時期についてはこの立場に基づいているのですが、そうしたわたしの理解を“大阪歴博の考古学者の見解を盲信したもの”と非難される方もあるようです。しかし、前期難波宮を七世紀中頃の造営とするのは市さんも記されているように学界ではオーソドックスな見解であり、とりたててこの立場に立ったこと自体を盲信したなどと批判されるいわれはありません。
 もちろん学問研究は「多数決」ではありませんから、七世紀中頃造営説に反対される前期難波宮天武朝造営説に立つ論者は、わたしの理解(前期難波宮「孝徳期」説)を批判される前に、考古学界・古代史学界の通説(前期難波宮=難波長柄豊碕宮「孝徳朝」説)を学問的に批判されてはいかがでしょうか。現在まで膨大な論文や発掘報告著が出されていますから、一元史観との「他流試合」の対象に事欠くことはないでしょう。(つづく)