考古学一覧

第1351話 2017/03/11

太宰府都城の造営年代

 太宰府都城の年代を論じる場合、現在の研究水準からすれば、条坊都市、その北部の政庁や観世音寺、水城、大野城、基肄城などを個別に年代を判断しなければなりません。「都城」というからには、それら全てを含みますから、学術論文であれば丁寧に分けて論じる必要があることは言うまでもないでしょう。
 わたしは太宰府条坊都市部分の成立を七世紀前半(倭京元年〔六一八〕が有力候補)、北部エリアの大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺などを七世紀後半(白鳳十年〔六七〇〕頃)の成立と考えていますが、残念ながらそれらの遺構から出土した木材等の炭素同位体年代比測定のデータの存在を知りません。まだ測定されていないのかもしれません。
 大野城については出土した柱の炭素同位体比年代測定がなされており、650年頃とする測定値が発表されています(西日本新聞 2012年11月 23日)。このことから、大野城は大宰府政庁Ⅱ期と同時期に造営されたと考えることができそうです。その規模と城内に点在する倉庫遺構の存在から、大野城は太宰府政庁の北の守りと条坊都市住民の為の逃げ城の性格を有しているようです。
 他方、博多湾方面からの敵の侵入から太宰府を防衛する為の水城は条坊都市とほぼ同時期の造営と考えていますので、水城の造営年代を炭素同位体比年代測定値を参考に検討してみることにします。(つづく)


第1350話 2017/03/10

炭素同位体比年代測定値の性格

 友好団体「多元的古代研究会」の機関紙『多元』No.138に掲載された内倉武久さんの「太宰府都城は五世紀中ころには完成していた」を興味深く拝見しました。内倉さんが太宰府都城の成立を五世紀中頃とされた根拠は炭素同位体比年代測定(14C)データという「実証」でした。よい機会ですので、古代史研究に使用する際の炭素同位体比年代測定値の性格について整理しておきたいと思います。
 古代遺跡や遺物の年代判定において、従来の土器や瓦の相対編年に対して、理化学的年代測定が科学技術の進歩とともにますます重視されるようになりました。炭素同位体比年代測定もその一つですが、絶対年代の判断材料になるという長所と同時に留意すべき弱点も持っています。従ってこの弱点や限界を正確に理解しておかないと、誤判断が避けられません。
 わたしの本業は化学ですが、勤務先の品質保証部で製品検定などにも携わってきた経験もあります。そのとき、機器分析や化学分析において様々な弱点や欠点に配慮しながら品質評価をしてきました。中でも、必要とされる評価基準に機器の精度や管理は適切なのか、測定するサンプルは製品全体を正しく代表しているのか、母集団に対してサンプル数は妥当なのか、分析担当者の技能は十分なのか、その技能水準の判定は確かかなど、実に多くの項目や課題をクリアしなければなりませんでした。その上で出された分析値を信用してよいのかどうかを勘と経験を交えて判断するのですから、理化学的分析能力と職人芸の両方が必要でした。理科学的分析と「勘と経験」では矛盾するようですが、機械による測定値を無条件に信用してはならないということは、同じような仕事の経験をお持ちの方であればご理解いただけるのではないでしょうか。
 理化学的年代測定全般を含め、特に炭素同位体比年代測定も同様で、それで出された年代をそのままサンプルやサンプル採取した遺物・遺跡の年代と判断することは危険です。ちょっと考えただけでも次のような問題をはらんでいるからです。

1.測定年代値は幅を持っており、たとえば西暦500年±50年のような表記がなされます。従って、年輪年代測定や年輪セルロース酸素同位体比測定のようにピンポイントで暦年を特定できません。
2.酸素同位体比については新たな補正値が報告されており、その補正が適切になされているか確認しなければなりません。
3.サンプルが木材の場合、年輪の最内層と最外層では年輪の数だけ年代幅があります。従って、木材のどの部分からサンプリングしたのかが明示されていない測定データは要注意です。木材が大きければそれだけサンプリング箇所の年代と伐採年との年代差発生の原因となります。
4.その点、米(炭化米)のような一年草は年代幅がなく、比較的年代判定に有利です。水城築造に使用された敷粗朶のような小枝の場合も年輪の数が少ないので、これも比較的年代判定に有利です。
5.炭化木材のように年輪の外側から焼失した炭からのサンプリングの場合、当然のこととして伐採年よりも焼けた年輪の数だけ古く測定値が出ます。したがって、炭による測定値はそのまま遺物・遺跡の年代とするのは危険です。
6.古代においては木材の再利用や、廃材の再利用は一般的に行われます。従って、測定値が伐採年か再利用時なのかの判断が必要です。その判断ができない場合は遺跡の年代判定に炭素同位体比年代測定値を採用してはいけません。
7.以上の問題点をクリアできても、その測定値から論理的に言えることは、そのサンプルの遺物・遺跡は測定値よりも「古くならない」ということであり、測定値の年代は参考値にとどまるという論理的性格を有しています。
8.従って、炭素同位体比年代測定は遺物・遺跡の年代判定の参考にはできるが、その他の年代判断方法(年輪年代や土器編年など)による総合的判断を加え、より適切な年代判定を行う必要があります。

 以上のことは極めて単純で常識的なことですから、理系の人間でなくてもご理解いただけるものと思います。
 また、最先端の理化学的分析結果であれば信頼できるとされた時代もありましたが、足利事件のように当時としては最先端のDNA鑑定結果(実証)を採用した判決によって悲劇的な冤罪事件が発生した経験もあり、現在では最先端技術はそれだけ未完成部分が多い不安定な技術と理解されるようになりました。他方、「和歌山毒物カレー事件」では最先端科学装置スプリング8による砒素の分析結果を根拠に有罪判決が出されましたが、その分析値に対する判断が誤っているとする京都大学の学者による指摘もなされるようになりました。(つづく)


第1348話 2017/03/07

石の宝殿(生石神社)の九州年号「白雉五年」

 今日は仕事で兵庫県加古川市に行ってきました。お昼休みに時間が空きましたので、出張先近くにある石の宝殿で有名な生石神社(おうしこじんじゃ)を訪問しました。どうしても行っておきたい所でしたので、短時間でしたが石の宝殿を見学しました。
 有名な史跡ですので説明の必要もないかと思いますが、同神社の案内板に書かれた御由緒によれば、御祭神は大穴牟遅と少毘古那の二神で、創建は崇神天皇の御代(97年)とのことです。
 特に興味を引かれたのが、孝徳天皇より白雉五年に社領地千石が与えられたという伝承です。この白雉五年が九州年号による伝承であれば656年のこととなります。この「白雉五年」伝承を記した出典があるはずですので、これから調査することにします。


第1337話 2017/02/14

金印と志賀海神社の占い

 志賀島の金印「漢委奴国王」が本来は糸島の細石神社にあったものだったとする伝承の存在を古田先生が紹介されています。そのこととは直接関係はありませんが、志賀島の志賀海神社が金印を神寳にしようとしていたという記録の存在を知りました。
 本年1月、「九州古代史の会」主催の井上信正さんの講演を聴きに福岡市に行ったとき、早く会場についたので会場近くの図書館で時間待ちをしました。そのおり、福岡地方史研究会の『会報』第24号(昭和60年4月)に掲載されていた塩屋勝利さんの「『漢委奴国王』金印をめぐる諸問題(上)」が眼に留まりました。天明4年(1784)2月に志賀島村叶の崎から発見された金印の発見当時の史料紹介と考察ですが、今まで知らなかったことが記されており、興味深く拝読しました。
 中でも、志賀島の志賀海神社が、発見された金印を同社の神寳にしようと占ったが、良い結果が出なかったので断念し、黒田藩に提出したことが記されていました。志賀海神社宮司阿曇家本『筑前国続風土記附録』にみえる次の記事です。

「明神の境地より得たる故、神寳とせん事を占ひしに神鬮下らざる事再三也といふ。故に府呈に呈けしとなり」 *古賀注 「府呈」の「呈」は衍字か。

 わたしの持っている『筑前国続風土記附録』活字本にはこの記事が見つかりませんので、志賀海神社宮司阿曇家本にのみ付記された記事で、志賀海神社内の記録に基づいているのかもしれません。いずれにしても志賀海神社は金印が志賀島から出土したと認識していることがわかります。
 金印を発見したとされる志賀島村の百姓甚兵衛については記録がなく不審とされてきましたが、寛政二年(1790)の『那珂郡志賀嶋村田畠名寄帳』中冊に同名の「甚兵衛」が見えるとのこと。さらに『粕屋郡志』(粕屋郡役所編、1923年刊)には、「村の農坂本甚兵衛」と姓名が記されていることが紹介されています。
 そして、甚兵衛のその後の消息が不明になった理由として、地元の「甚兵衛火事」伝承と関係があるのではないかとされています。伝承では「甚兵衛火事」は1811年(文化8年)とされているが、藩の記録では見あたらず、1809年(文化6)の火災のことで、甚兵衛は火元の責任を取って志賀島を去ったと思われるとされています。少なくとも地元に「甚兵衛」と呼ばれる人物がいた証拠にはなりそうで、興味深い伝承です。
 金印は志賀島で発見されたのではないとする意見の根拠の一つとして、志賀島村叶の崎付近には弥生時代の遺跡が見つからないということが指摘されています。しかし、金印が弥生時代に埋納されたという根拠もなく、歴代の倭王に相続された可能性も考えられ、そうであれば弥生時代の遺跡の存在の有無は関係ありません。中国からもらった金印が倭王一代のみで埋納されるとするのも、やや違和感があります。金印について、引き続き調査検討したいと思います。

(追記)本稿執筆の夜、古田先生に本稿の内容を報告する夢を見ました。先生がうれしそうにメモを取られているところで眼が覚めました。


第1323話 2017/01/16

井上信正さんの謦咳に接す

 昨日は「九州古代の会」主催の井上信正さん(太宰府市教育委員会)の講演会に参加しました(於:ももち文化センター)。「大宰府-古代都市と迎賓施設」というテーマで、太宰府条坊の発掘調査にたずさわられている条坊研究の第一人者である井上信正さんの講演を是非ともお聞きしたいと、前日から実家のある久留米に戻っていました。講演会当日は大雪により新幹線ダイヤが乱れましたので、正解でした。
 初めてお聞きするような新発見や新説が次から次へと発表され、2時間では説明しきれないようでした。発表された新説の中でも特に驚いたのが、大宰府政庁の西に位置する「蔵司(くらのつかさ)」の礎石造りの大型建物が倉庫ではなく、唐長安城の麟徳殿に相当する「饗宴施設」とされたことです。その根拠は礎石配列や礎石が自然石ではなく加工されていることなどでした(大野城や奈良の正倉院など、倉の礎石は自然石をそのまま使用するのが普通で、蔵司の礎石は丸い柱に対応した加工が施されている。礎石配列も政庁正殿と同じ)。それではなぜ「蔵司」という地名が遺存しているのかという問題は残りますが、出土事実からの判断としては納得できるものでした。
 太宰府条坊都市が完成した後に大宰府政庁Ⅱ期と朱雀大路が造営されたことを井上さんは発見されたのですが、なぜその位置に造営されたのかという点についても明らかにされました。それは都城の南に位置する南山を「闕」とみなす秦始皇帝以来の中国都城の伝統を受け継いだ(模倣)ためと説明されました。大宰府政庁から南へ延びる朱雀大路の延長線上には基肄城の「東北門」があり、その位置関係が唐の乾陵(高宗・則天武后陵)に類似しているとのことでした。
 井上さんとは講演会後の懇親会でも隣の席に座らせていただき、太宰府や飛鳥・難波編年についてかなり突っ込んだ意見交換をさせていただき、とても有意義でした。「古田史学の会」の講演会へ講師として来ていただくことを了承していただきましたので、日程などが決まりましたらお知らせします。わたしは井上さんのお名前とその太宰府条坊研究は日本古代史学の研究史に残るものと確信しています。
 なお、1月21日の「古田史学の会」関西例会で、井上講演の概要をわたしから報告する予定です。


第1322話 2017/01/14

新春講演会(1/22)で「酸素同位体比測定」解説

 来週1月22日に開催する「古田史学の会」新春講演会では講師のお一人として中塚武さん(総合地球環境学研究所)をお招きして、木材の最先端年代測定法である「酸素同位体比測定」の解説をしていただきます。木材年輪セルロース中の酸素同位体比を年代測定に利用するというアイデアが素晴らしく、樹種を選ばす、精度も高いということにとても驚きました。
 「洛中洛外日記」667話で紹介しましたように、西井健一郎さん(古田史学の会・全国世話人)から送っていただいた「読売新聞」(2014.02.25)の記事『難波宮跡の柱「7世紀前半」…新手法で年代特定』により「年輪セルロース酸素同位体比法」という、樹木の年代を測定する新技術を知りました。インターネットでは次のように解説されています。

 「酸素原子には重量の異なる3種類の『安定同位体』がある。木材のセルロース(繊維)中の酸素同位体の比率は樹木が育った時期の気候が好天だと重い原子、雨が多いと軽い原子の比率が高まる。酸素同位体比は樹木の枯死後も変わらず、年輪ごとの比率を調べれば過去の気候変動パターンが分かる。これを、あらかじめ年代が判明している気温の変動パターンと照合し、伐採年代を1年単位で確定できる。」

 新聞報道によれば、難波宮から出土した柱を酸素同位体比法で測定したところ、7世紀前半のものとわかったとのこと。この柱材は2004年の調査で出土したもので、1点はコウヤマキ製で、もう1点は樹種不明。最も外側の年輪はそれぞれ612年、583年と判明しました。伐採年を示す樹皮は残っていませんが、部材の加工状況から、いずれも600年代前半に伐採され、前期難波宮北限の塀に使用されたとみられるとのことです。
 新春講演会でこの技術と測定結果が詳しく解説していただけます。これからの古代史研究にとっても基本技術となることでしょう。とても楽しみです。


第1308話 2016/12/10

「古田史学の会」新春講演会のご案内済み

 来年1月22日(日)に「古田史学の会」新春講演会を開催します。正木事務局長によるご案内がfacebookに掲載されていますので、以下転載します。科学と考古学の最先端研究の講演がなされます。皆さんのご参加をお待ちしています。

【以下転載】
 新春1月22日(日)13時30分より、大阪府立大学なんばサテライト(I-siteなんば)の2階カンファレンスルームで新春古代史講演会を開催します。
参加費は1000円、当日受付です。
 演者は、大阪府文化財センター次長の江浦洋氏、総合地球環境学研究所教授の中塚武氏で、最新の前期難波宮の発掘成果と、遺跡出土木材の新しい年代測定法である「年輪セルロース酸素同位体比による測定法」を紹介します。
江浦洋氏は長年大阪府の遺跡発掘に携わってきた考古学者、中塚武氏は常に新たな分野にチャレンジしている気鋭の科学者です。
 考古学と科学、文献史学の「三位一体」で、古代の新しい歴史が浮かび上がることと思います。ぜひご参加ください。

講演会案内チラシPDF

◆I-siteなんばの住所:大阪市浪速区敷津東2-1-41南海なんば第1ビル2階
アクセスは、南海電鉄難波駅 なんばパークス方面出口より南約800m 徒歩12分。地下鉄なんば駅(御堂筋線)5号出口より南約1,000m 徒歩15分、または地下鉄大国町駅(御堂筋線・四つ橋線)1号出口より東約450m 徒歩7分。


第1306話 2016/12/04

現地説明会資料に「大宰府都城」の表記

 筑紫野市前畑遺跡で発見された太宰府防衛の土塁(羅城)の現地説明会資料が、犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員、久留米市)から送られてきましたので、解説部分を下記に転載します。
 この解説で驚くべき表現が使用されています。なんと「大宰府都城(とじょう)」と記されているのです。さらに「東アジア古代史上において大きな意味をもち、わが国において類をみない稀有な遺跡」と説明されています。筑紫野市教育委員会による、太宰府を「都城」とするこの表記はほとんど九州王朝説による解説といえます。九州王朝の故地では、考古学的出土事実が当地の考古学者を確実に九州王朝説へと誘っているかのようです。
 さらに土塁の造営を「7世紀後半」と認定し、「大宰府防衛の羅城」と理解されていますが、実はこの理解は大和朝廷一元史観に決定的な一撃を与える論理性を有しています。すなわち、この土塁が防衛すべき「大宰府政庁Ⅱ期」の宮殿も7世紀後半には存在していたことが前提となった防衛施設だからです。従来の8世紀初頭という「大宰府政庁Ⅱ期」の編年が数十年遡るわけですが、ことはこれだけでは終わりません。「大宰府政庁Ⅱ期」よりも太宰府条坊都市の成立が早いという井上信正説がここでも頭をもたげてくるのです。
 井上信正説に従えば、「大宰府政庁Ⅱ期」が7世紀後半成立となることにより、太宰府条坊都市は7世紀前半まで遡り、難波京(652年前期難波宮造営)や藤原京(694年遷都)よりも太宰府がわが国最古の条坊都市となってしまうのです。もちろん九州王朝説に立てば当然の結論です。
 犬塚さんが現地説明会で、この土塁(羅城)が守るべき太宰府の創建時期について質問されたそうですが、筑紫野市教育委員会の担当者が回答できなかったのにはこのような「事情」があったからです。地元の考古学者が井上信正説や九州王朝説を知らないはずがなく、大和朝廷一元史観を否定してしまう今回の発見に、彼らも本当に困っていることと思います。

【現地説明会資料から転載】
    平成28年 12月3日(土曜日)・4日(日曜日)
    筑紫野市教育委員会 文化情報発信課
新発見太宰府を守る土塁
前畑遺跡第13次発掘調査 現地説明会

1.発見された土塁(どるい)
 筑紫駅西口土地区画整理事業に伴い実施している前畑遺跡の発掘調査では、弥生時代前期〜中期の集落、古墳時代後期の集落と古墳群、窯跡、中世の館跡、近世墓などが発見され、遺跡が長期間にわたって形成されてきたことがわかりました。
 今回の丘陵部での調査では、7世紀に造られたと考えられる長さ500メートル規模の土塁が、尾根線上で発見されました。

2.土塁の構造
 土塁は大きく上下2層から成り、上層の外に土壌(どじよう:模式図紫部分)を被せた構造です。上層は層状に種類の異なる土を積み重ねた「版築」(はんちく:模式図緑部分)と呼ばれる工法で造られています。このような工法は特別史跡の水城跡(みずきあと)や大野城跡(おおのじょうあと)の土塁の土壌にも類似しており、7世紀後半に相次いで築造された古代遺跡に共通した要素と言えます。
 ただ、すでに知られている水城や小水城、とうれぎ土塁、関屋(せきや)土塁といった7世紀の土塁は、丘陵と丘陵の間の谷を繋ぎ、敵の侵入を遮断する目的で作られた城壁としての機能が想定されています。
 今回、前畑遺跡で発見された土塁は、宝満川から特別史跡基難城跡(きいじょうあと)に至るルート上に構築されたもので、丘陵尾根上に長く緩やかに構築された、中国の万里の長城のような土塁となっています。
 また、土塁の東側は切り立った斜面になっており、西側はテラス状の平坦面を形成しています。これは東側から攻めてくる敵を想定した構造で、守るべき場所、つまり大宰府を防御する意図を持って築かれたと考えられます。

3,前畑遺跡で発見された土塁の歴史的な背景
 このように都市を防御するために城壁(土塁や石塁)を巡らす方法は、古代の東アジアで中国を中心として発達し、羅城(らじょう)と呼ばれていました。
 日本に最も近い羅城の類例は、韓国で発見された古代百済の首都・涸批(サビ)を守る扶余羅城(プヨナソン、全長8.4Km)があります。扶余羅城は、北と東の谷や丘陵上に土塁を構築し、西を流れる錦江(白馬江)を取り込んで羅城としています。自然の濠ともいうべき、河川をうまく利用して羅城を築いていることになります。
 日本書紀によれば、660年に滅んだ百済の遺臣達によって、この筑紫の地に664年に水城、665年には大野城と基難城が築造されており、脊振山系や宝満山系などの山並みの自然地形を取り込んだ形で大宰府にも羅城があったのではと長く議論されてきました。前畑遺跡の土塁は丘陵尾根上で発見され、丘陵沿いに北へ下ると、低地から宝満川へ至ります。このことから、当初の大宰府の外郭線は、宝満川を取り込んでいた可能性も想定され、古代の東アジア最大となる全長約51Kmにおよぶ大宰府羅城が存在した可能性がにわかに高まってきました。

4.土塁の評価
 前畑遺跡の土塁は、文献史料に記載はないものの、古代大宰府を防衛する意図を持ったものであると考えられ、百済の城域思想を系譜にもつ大宰府都城(とじょう)の外郭線(がいかくせん)に関わる土塁であると推測され、東アジア古代史上において大きな意味をもち、わが国において類をみない稀有な遺跡です。
 このような巨大な都市が建設されるのを契機に、「日本」の国号や「天皇」といった用語が史料に現れ、「律令(りつりょう)」という法治国家の制度が整備され、現在の日本の原形としての古代国家が成立しました。前畑遺跡から見る景色は日本のあけぼのを感じる特別な眺望といえるのではないでしょう。


第1305話 2016/12/04

太宰府防衛土塁の現地説明会報告

 筑紫野市で発見された太宰府防衛の土塁(羅城)の現地説明会が12月3日に開催されたそうで、参加された犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員、久留米市)から報告メールと写真が送られてきました。写真はわたしのfacebookに掲載していますので是非ご覧ください。犬塚さんのご了解をいただきましたので、メールを転載します。

【以下、メールから転載】
本日筑紫野市で発見された土塁の現地説明会がありました。
天候にも恵まれ多くの見学者や報道機関が集まり関心の高さが窺えます
筑紫野市教委の担当者も、これほど反響があるとは思わなかったとのことです。
さて、説明は別添資料に沿って行われましたので読んでいただければと思いますが、
資料にない説明及び質問に答えた部分については以下のとおりです。
 
●土塁の西側(内側)のテラス状になった部分は兵士が移動する道路として使用されていた。烽火がうまくいかなかった場合兵士がこの道路を走って連絡に行ったと思われる。
 
●大宰府羅城推定図にある外郭線が阿志岐山城と繋がっていないのは、阿志岐山城が西側(大宰府側)に向いて築かれていることから、羅城の外城として築かれた可能性が考えられるためである。
 
●この土塁と阿志岐山城の間を流れる宝満川も外郭線としていたと考えられるが、これは扶余羅城が錦江を外郭線としていたのと同じである。
 
●この土塁からは北に大野城や阿志岐山城、西に基肄城がよく見える位置にある。当時は水城も見えたと思われる。軍事上このようなロケーションは非常に重要である。
 
●このような羅城を造るためには、相当な人員とそれを支える住居、食糧補給等が必要だが、どのような体制で造られたか不明。
 
●この土塁が造られた時期が7世紀とする直接の根拠はないが、7世紀と判断した根拠は三つある。
 一つは、土塁のテラス状の道路が8世紀に使用されていたことと土塁の下にある古墳時代の遺跡が6世紀のものであることがわかっており、その間に当該土塁があること。
次に、この土塁は版築という工法で造られており、7世紀に造られた水城などの工法と同じであること。
 最後に、7世紀の東アジアが、このような防御施設が必要とされるような状況にあったこと。
 これらのことから7世紀と判断した。
 
 このような大規模な「大宰府羅城」が造られたとすれば、守るべき太宰府はいつごろできたのかと質問したのですが、はっきりした答えはありませんでした。「白村江の敗戦後に水城だけでも短期間ででできたとは思えない。」とのことでしたので、羅城全体となるとかなりの期間が必要ですが、その前に太宰府が存在する必要があるとするとどのような説明ができるのでしょうか。
 説明資料に太宰府が描かれていないのはそのためでしょうか。
 
 以上現地説明会の報告です。
 
犬塚幹夫


第1301話 2016/11/29

太宰府防衛の「羅城」跡が発見される

 今日は大阪市で開催の繊維応用技術研究会に出席しています。大阪府立産業技術総合研究所の山下怜子さんの講演「ニオイ可視化への検討:色素によるにおいのセンシングとその評価方法」の座長を仰せつかっています。色素の応用技術に関する研究報告ということもあって、楽しみな発表です。

 お昼休みに正木裕さん(古田史学の会・事務局長)のfacebookを見ると、太宰府を防衛する巨大土塁が筑紫野市から発見されたという本日朝刊の記事が紹介されていました。これはすごい遺跡が発見されたとスマホで関連ニュースを検索しています。
 熊本県和水町と福岡市で、太宰府を「日本最古の条坊都市」とする講演をしたばかりですから、このタイミングに不思議な縁を感じました。
 WEBニュースによれば、発見されたのは大宰府政庁の南東約7kmに位置する前畑遺跡で、南北に走る約500mの土塁とのこと。地図で見ると、東からの侵入に対して太宰府を防衛する位置にあり、ニュースでは白村江戦(663年)の敗北後に防衛施設として造営されたと説明されていますが、北の唐や新羅からの防衛施設とするには位置が不自然です。やはり九州王朝の都、太宰府条坊都市を取り囲む羅城の一部と思われます。
 今日は夜遅くまで学会の懇親会が予定されていますが、なるべく早く帰宅して、今回の発見について情報収集したいと思います。


第1299話 2016/11/19

天武朝(天武14年)国分寺創建説

 本日の「古田史学の会」関西例会はいつも以上にエキサイティングな一日となりました。中でも正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の発表で、天武朝(天武14年)国分寺創建説なるものがあったことを初めて知りました。正木さんの見解では『日本書紀』天武14年条に見える「諸国の家ごとに仏舎を造営せよ」という記事は、34年遡った九州王朝の記事とのことでした。国分寺のなかには創建軒丸瓦が複弁蓮華紋のケースもあり、その場合は天武期の創建とすると瓦の編年ではうまく整合するので、天武期(白鳳時代)における九州王朝の国分寺創建の例もあるのではないかと思いました。なお、正木さんの発表を多元的「国分寺」研究サークルのホームページに投稿するよう要請しました。

 茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員)の発表は、水城の軍事上の機能として、単に土塁と堀による受け身的な防衛施設にとどまらないとするものでした。このテーマについては茂山さんとのメールや直接の意見交換を交わしてきたこともあり、水城と交差する御笠川をせき止めることが、当時の土木技術で可能だったのか否かという質疑応答が続きました。来月も後編の発表を予定されているとのことで、わたしとは異なる見解ですが、刺激的で勉強になるものでした。

 なお、このテーマについて茂山説に賛成する服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)とわたしとで例会後の二次会・三次会で「場外乱闘」のような論争が続きました。知らない他人が見たら二人がケンカしているのではと心配されたかもしれませんが、関西例会ではよくあることですので、心配ご無用です。
11月例会の発表は次の通りでした。

〔11月度関西例会の内容〕
①「淡海」から「近江」そして「大津」は何時かわったのか(堺市・国沢)
②倭国・日本国考 八世紀初頭の造作(八尾市・服部静尚)
③「水城は水攻めの攻撃装置である」という作業仮説について(上)(吹田市・茂山憲史)
④藤原京下層瀬田遺跡の円形周溝暮(径30m)の調査報告について(川西市・正木裕)
⑤天武の「国分寺創建詔」はなかった -『書紀』天武十四年の「仏舎造営・礼拝供養」記事について-(川西市・正木裕)
⑥『二中歴』細注の「兵乱海賊始起又安居始行」と「阡陌町収始又方始」(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
大阪府立大学「古田史学コーナー」の移転(二階に)・パリ在住会員奥中清三さん寄贈の絵画(「壹」の字をデザイン)を「古田史学コーナー」に展示・千歳市の「まちライブラリー」(国内最大規模の「まちライブラリー」)で「古田史学コーナー」設置の協力・11/26和水町で古代史講演会の案内・11/27『邪馬壹国の歴史学』出版記念福岡講演会の案内(久留米大学福岡サテライト)・2017.01.22 古田史学の会「新春古代史講演会」の案内・「古代史セッション」(森ノ宮)の報告と案内・会費未納者への督促・『古代に真実を求めて』20集「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」の編集について・藤原京下層瀬田遺跡の円形周溝暮(径30m)の調査報告について・その他


第1295話 2016/11/04

井上信正説と観世音寺創建年の齟齬

 今朝は新幹線で豊橋市方面に向かっています。今日は蒲郡地区の顧客訪問を行い、明日は豊橋技術科学大学で開催される中部地区の化学関連学会で招待講演を行います。講演テーマは機能性色素の概要と金属錯体化学の歴史と展望(用途開発)などについてです。化学系学会等の講演はこれが年内最後となり、その後は今月26〜27日の熊本県和水町と福岡市での古代史講演に向けて準備を始めます。一昨日も京都市産業技術研究所で講演したのですが、今年は講演回数がちょっと多すぎたように感じますので、来年はもう少し落ち着いたペースに戻したいと思っています。

 拙稿「多元的『信州』研究の新展開」を掲載していただいた『多元』136号(多元的古代研究会)を新幹線車内で精読していますが、大墨伸明さん(鎌倉市)の「大宰府の政治思想」に太宰府条坊に関する井上信正説が紹介され、自説に援用されていることに注目しました。わたしも以前から井上信正さんの太宰府条坊の編年研究に関心を寄せてきましたので、古田学派の研究者に井上説が注目されだしたことは喜ぶべきことです。
 井上説の核心は太宰府条坊の北側にある政庁や観世音寺の区画と条坊都市の規格(小尺と大尺)が異なっており(そのため観世音寺の南北中心軸は条坊道路と大きくずれている)、政庁・観世音寺よりも条坊都市の方が先に造営されていることを考古学的に明らかにされたことです。その上で、井上さんは政庁2期の成立時期を通説通り8世紀初頭(和銅年間頃)、条坊都市の成立はそれよりも早い7世紀末とされました。その結果、太宰府条坊都市と藤原京(新益京)とは同時期の造営とされました。
 この井上説は大和朝廷一元史観にとっては「致命傷」になりかねないもので、わが国初の大和朝廷による条坊都市とされている藤原京と地方都市に過ぎない太宰府条坊都市が同時期に造営された理由を説明しにくいのです。ですから井上説は多元史観・九州王朝説にとって刮目すべきものです。
 政庁や観世音寺よりも条坊都市の成立が早いとする井上説に賛成ですが、その年代については井上説では説明困難な問題があります。それは観世音寺の創建年についてです。『続日本紀』などにも観世音寺は天智天皇が亡くなった斉明天皇のために造営させたという記事があり、どんなに遅くても670年頃には大宰府政庁2期宮殿の位置と共に方格地割を決め、造営を開始していなければなりません。そうすると観世音寺以前に太宰府条坊都市が造営されたとする井上説により、条坊都市造営の年代は更に遡って、遅くても7世紀前半頃となります。その結果、太宰府条坊都市は藤原京よりも早く、わが国最古の条坊都市ということになるのです。この論理的帰結は九州王朝説にとっては当然のことですが、大和朝廷一元史観の学界にとって受け入れ難いものなのです。このような大和朝廷一元史観にとって「致命傷」となる論理性を持つ井上説は学界に受け入れられないのではと、わたしは危惧しています。
 他方、文献史学から観世音寺創建年を見ますと、九州年号の白鳳年間とする『二中歴』や、白鳳10年(670)とする『日本帝皇年代記』『勝山記』があります。観世音寺創建瓦の老司1式瓦の編年も藤原京に先行するとされてきましたから、文献史学と考古学の双方が観世音寺創建年を670年頃と、一致した結論を示しています。その上で井上説の登場により、太宰府条坊都市の造営は7世紀前半頃となり、わが国最古の条坊都市は九州王朝の都、太宰府ということになるのです。井上説が一元史観の学界に受けいれられることを願ってやみません。