考古学一覧

第1182話 2016/05/05

「鎮護国家の伽藍配置」の明暗(1)

 多元的「国分寺」研究サークルの肥沼孝治さん(古田史学の会・会員)からご紹介いただき、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)からコピーを送っていただいた貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」(『日本考古学』30号(2010)所収)を何度も読み返しました。大和朝廷一元史観に依ってはいますが、なかなかの好論文でした。考古学論文は出土事実という科学的基礎データに基づいていますから、文献史学ほど支離滅裂とはなりにくい(「邪馬台国」畿内説のような史料改竄・無視という「研究不正」がしにくい)ということもあって、勉強になることが多々あります。
 今回の貞清さん高倉さんの論文は二つの考古学的事実に基づいてその意義付けを行うというもので、その二つの考古学事実の紹介と切り口は見事でした。それは古代における観世音寺式伽藍配置の寺院が日本列島に12箇所発見されていること、その古いものは西日本に多くあり、大宰・総領の支配地域や古代山城の分布と多くが重なっていることです。
 まず観世音寺式伽藍配置の特徴とは回廊内の西側に金堂があり、東側に塔があるというもので、しかも金堂は東向きであり、これは仏教信仰形態(阿弥陀信仰)の影響を受けているとされています。その代表的寺院として太宰府の観世音寺があることから、「観世音寺式」と称されています。わたしもこの観世音寺式伽藍配置に注目していたこともあって、蝦夷国の多賀城にあった多賀城廃寺やその南の郡山廃寺、そして近江の崇福寺や飛鳥の川原寺が同様・類似の伽藍配置を持つことから、九州王朝や近畿天皇家、蝦夷国が国家中枢地域に観世音寺式寺院を共通して建立していたことに触れたことがありました(「よみがえる倭京(太宰府) -観世音寺と水城の証言-」(『古田史学会報』50号、2002年)。
 そして同論文において最も光彩を放つ考古学的指摘が、7世紀における大宰や総領がおかれた地域に古代山城と観世音寺式寺院がセットで存在するという視点です。このアイデアは貞清さんが以前から論文発表されてきたもので、今回は『日本考古学』という権威のある学会誌に発表するため、高名な考古学者の高倉さんとの共同執筆(ラストオーサーは高倉さん)という形態をとられたのではないでしょうか。同論文で貞清さんは次のように記されています。

 「(観世音寺式伽藍配置の寺院遺跡)12のなかで創建年代の先行する西日本の9寺院の分布における共通点(図6)として、総領(大宰)のおかれた国ないし地域に多くが分布していること、そして総領(大宰)が管轄したとされる西日本地域に分布する古代山城の分布とも類似していることが挙げられる。その典型が大宰府の付属寺院である観世音寺にみられる。(中略)つまり、国家にとって特に重要とされた地には、総領(大宰)がおかれ、軍事的要衝地でもあるために後に山城が築かれたということである(表3)。そして、そこに観世音寺式をとる寺院(観世音寺)が建立されたということになる。」(p.34)

 このように指摘され、図6にはその分布図が示されています。この観世音寺式寺院・総領(大宰)・古代山城の三点セットに「鎮護国家」という意義付けを見いだされたわけで、この点は素晴らしい視点だと思いました。まさに同論文の「明」にあたります。しかし残念かな、同時に「暗」もくっきりと浮かび上がっているのです。すなわち、その「鎮護国家」の重要な三点セットが畿内(奈良・大阪)には無いという考古学事実です。福岡県(筑紫)と岡山県(吉備)には濃密に分布・プロットされていることとは対照的に、畿内はほぼ「空白」なのです。
 従って、先入観を廃してこの三点セットの論理性により、作成された考古学的分布図を読みとるなら、「鎮護国家」の中枢領域は筑紫であり、次いで吉備ということになり、「鎮護」されるべき最高「国家」権力者は最濃密分布を持つ筑紫(太宰府)にいた、と理解されるべきなのです。せっかくここまで優れた視点と分布図を作成しながら、大和朝廷一元史観の呪縛から考古学者(貞清さんら九州の考古学者でさえも)は逃れられないのです。「残念」というほかありません。(つづく)


第1181話 2016/05/04

十二弁、十三弁蓮華紋瓦の調査報告

 久留米市の犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)より、新たに十二弁、十三弁蓮華紋軒丸瓦の調査報告メールが届きました。
 筑後国府跡から出土した単弁十三弁蓮華紋軒丸瓦は筑後国府式と呼ばれており、筑後を中心に出土分布しているようです。年代的には8世紀以後の遺跡からの出土とされており、この編年が正しければ九州王朝滅亡後となりますが、依然としてなぜ筑後や九州に多いのかという疑問は残ります。十三弁が九州王朝の伝統(家紋)だったという可能性もありますので、引き続き研究したいと思います。
 それにしても現地の研究者による調査報告はありがたいことです。以下、犬塚さんのご承認を得て、メールを転載させていただきます。

【メール転載】
古賀 様

 筑後国府跡から出土した十三弁の軒丸瓦についてこれまで洛中洛外日記(第24話第992話)で九州王朝との関連に言及されていたところですが、この軒丸瓦について、小澤太郎「筑後国府出土軒瓦の様相」(「福岡考古」第19号 2001年3月)という論文がありました。
 以下、単弁十三弁蓮華文軒丸瓦に関する部分について要点を紹介します。

 軒丸瓦はⅡ期国庁領域を中心として、6形式の軒丸瓦が出土・採集されている。Ⅰ類が単弁十三弁蓮華文軒丸瓦であり、Ⅱ類が陰刻され簡略化された瓦当文様を有する単弁十三弁蓮華文軒丸瓦である。Ⅱ類は筑後国府独自の軒瓦で、それ以外の出土はない。(Ⅲ類〜Ⅵ類は省略)
 軒丸瓦のうちⅠ類について、次の遺跡で同笵瓦が出土している。

筑後国
  筑後国分寺跡(久留米市)
  堂ヶ平遺跡(広川町)
 
筑前国
  太宰府史跡(太宰府市)
  鴻臚館跡(福岡市)
  宝満山遺跡(太宰府市)
  浄妙寺(榎寺)跡(太宰府市)
 
 筑後国府から出土したⅠ類の単弁十三弁蓮華文軒丸瓦と偏行唐草文軒平瓦はセット関係にあり、これを「筑後国府Ⅰ式」とする。筑後国府Ⅰ式は9世紀前半に造瓦・使用され、10世紀前半に廃棄された。
 筑後国Ⅰ式の分布状況は筑後・筑前2カ国で、両者は同笵ではあるが、異なる工人及び工房で製作された可能性が高い。

 小澤論文で取り上げられたこれらの単弁十三弁蓮華文軒丸瓦以外に、九州歴史資料館編「九州古瓦図録」(柏書房 1981年)には次のような遺跡から出土した単弁十三弁蓮華文軒丸瓦が掲載されています。

 上記以外の単弁十三弁蓮華文軒丸瓦出土遺跡
  筑前国分寺跡(福岡県太宰府市)
  菩提廃寺(福岡県京都郡みやこ町)
  豊前国分寺跡(福岡県京都郡みやこ町)

 また同書に掲載されている単弁十二弁蓮華文軒丸瓦出土遺跡を挙げると次のとおりです。
  浜口廃寺(福岡県遠賀郡芦屋町)
  川原谷瓦窯跡(福岡県八女郡広川町)
  弥勒寺跡(大分県宇佐市)
  肥前国分寺跡(佐賀県佐賀市)
  薩摩国分寺跡(鹿児島県薩摩川内市)

 以上、とりあえずの報告とします。
 なお、筑後国府跡の単弁十三弁蓮華文軒丸瓦については、出土時の写真が「筑後国府通信第9号」(久留米市教育委員会 平成24年3月)に掲載されていましたので別添ファイルでお送りします。

久留米市 犬塚幹夫


第1179話 2016/05/03

観世音寺の創建年と瓦の相対編年

 多元的「国分寺」研究サークルの肥沼孝治さん(古田史学の会・会員)から紹介いただいた貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」(『日本考古学』30号(2010)所収)ですが、京都市立図書館や府立総合資料館になかったため、研究仲間にメールで協力を求めたところ、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から香川県立図書館にあるのでコピーして送りますと、ただちに返事がありました。ありがたいことです。そして本日、速達でその論文コピーが届きました。
 この論文を読みたかった理由の一つが、ネットに掲載された「要旨」によると、観世音寺を天智期の創建としていたことです。観世音寺は天智天皇の発願により造営が開始され、8世紀初頭に完成したとするのが通説でしたから、何か新たな根拠や研究によって創建年を天智期にされたのではないかと思ったからです。わたしは『二中歴』などの複数の史料が観世音寺創建年を白鳳年間あるいは白鳳10年(670)としていることと、創建瓦が老司1式であり、7世紀中頃の創建とされる奈良の川原寺とほぼ同時期、少なくとも藤原宮よりも古く編年できることから、観世音寺白鳳10年創建説は揺るがないと考えてきました。そこでこの論文も天智期創建説に立っているようでしたので興味を持った次第です。
 そこで同論文を一読しましたが、一元史観に立ってはいるものの大変興味深い好論文でした。そのことについては別に詳述しますが、観世音寺の創建年について、天智天皇の発願により670年頃から造営開始され684年にはひととおり完成していたとする高倉洋彰さんの説に依っていることがわかりました。従って、新知見に基づいたものではありませんでした。この高倉さんの説が学界でどのように受け止められているのかは知りませんが、少なくとも通説ではないと思います。
 『本朝世紀』や筑前の地誌によると、観世音寺の本尊は百済から贈られた阿弥陀如来像とされており、戦国時代に島津の軍勢により鋳つぶされたと記されています。観世音寺の金堂は東に向いていることから、阿弥陀信仰(西方浄土思想)に基づいているとする説(菱田哲郎氏の説)ともよく対応しています。ですから、百済から阿弥陀如来像がもたらされたとすれば、その時期は百済滅亡の660年よりも以前となりますから、白鳳10年創建とする史料とよく整合するのです。本尊は百済から660年よりも以前に届いているのに、斉明天皇没後(661年)以降に天智天皇の発願により造営が開始されたとする通説では年代が全くあわないのです。
 九州王朝説に立てば、文献・現地伝承や創建瓦(老司1式)などの編年とも矛盾しない、白村江戦(663)以前に造営が開始され、白村江戦後の白鳳10年(670)に完成したとする理解が可能です。この理解を文献と考古学編年と現地伝承が一致して支持しているのです。そうしますと、九州の瓦編年の基準の一つとなっている老司式瓦の編年は、少なくとも通説よりも20年ほど古くなり、それに基づいて編年された九州の他の寺院や遺跡の編年も軒並み古くなる可能性が高いのです。
 なお、わたしの観世音寺創建年研究については「よみがえる倭京(太宰府) -観世音寺と水城の証言-」(『古田史学会報』50号、2002年6月)か『古代に真実を求めて』12集(2009年)収録の同論文をご参照ください。


第1178話 2016/05/01

観世音寺式寺院の意義に新説か

 多元的「国分寺」研究サークルの肥沼孝治さん(古田史学の会・会員)から、次の論文を御紹介いただきました。貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」(『日本考古学』30号(2010)所収)です。同論文の紹介は多元的「国分寺」研究サークルのホームページに掲載されていますので、ご参照ください。

 日本考古学協会ホームページ掲載の同論文要旨を読むと、観世音寺を天智期の寺院と認識されているような筆致です。通説では観世音寺の造営は7世紀末頃から始まり、8世紀初頭に完成とされてきましたが、わたしは各史料に九州年号「白鳳10年」の造営とする記事があることなどから、670年造営説を唱えてきました(『二中歴』には白鳳年間の造営とある)。高倉さんは太宰府や観世音寺の研究で著名な考古学者ですので、近年ではどのような見解に立たれているのか関心があります。

 同論文が掲載されている『日本考古学』30号が京都市立図書館や府立総合資料館にないようですので、コピー入手の協力要請を研究仲間にお願いしました。読んだら報告します。以下、日本考古学協会ホームページからの一部転載です。

『日本考古学』30号 (2010)
鎮護国家の伽藍配置
貞清 世里・高倉 洋彰
Ⅰ. 観世音寺式伽藍配置の設定
Ⅱ. 観世音寺式伽藍配置をとる寺院
Ⅲ. 分布からみた観世音寺式伽藍記置の特徴
Ⅳ. 東西南北の仏法守護
Ⅴ. 東西南北端に配置された観世音寺式伽藍配置をとる寺院の意義

日本考古学協会の機関紙『日本考古学』30号
貞清世里&高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」
http://archaeology.jp/journal/con30abs.htm


第1162話 2016/04/03

古墳時代の銅鐸祭祀「長瀬高浜遺跡」(2)

 鳥取県東伯郡の天神川右岸に位置する長瀬高浜遺跡は、古墳時代におけるこの地域の支配者らの住居跡と見られていますが、その遺跡から銅鐸(弥生中期のもの)が出土していることから、天孫族(倭国)の西日本支配以降もこの地域では銅鐸を用いた祭祀が続けられたと考えられます。
 辰巳和弘著『高殿の古代学』(白水社、1990年)によれば、「倭の五王」の時代に入った5世紀前半にはこの銅鐸が廃棄されていることから、大和朝廷による全国支配の確立による変動がこの地の在地豪族に影響を与えたと考察されています。これを九州王朝説の視点から考えると次のような歴史的変遷が想定可能です。

1.「天孫降臨」や「国譲り」により、出雲や山陰地方の銅鐸勢力は東へ逃亡した。
2.天孫族に降伏した大国主命らは、その後も在地勢力として残ったが、銅鐸祭祀を継続できたか否かは不明。
3.鳥取県の天神川流域の勢力は、古墳時代中期頃まで長瀬高浜地区の高殿で銅鐸を祭祀に使用していた。
4.古墳時代中期以降にはこの銅鐸が廃棄され、長瀬高浜に割拠していた勢力は移動した。

 概ね以上の変遷をたどったと推定できますが、もしこの推定が正しければ、この地域では銅鐸祭祀の継続が許されていたが、古墳時代中期に至り、何らかの事情で銅鐸を廃棄したということになります。
 そうであれば、出雲に残った大国主命たちは銅鐸祭祀を続けたのでしょうか、それともやめたのでしょうか。従来は、荒神谷遺跡。加茂岩倉遺跡などからの銅鐸出土を根拠に、天孫族の侵略により、この地の銅鐸圏の権力者たちは銅鐸を地中に隠して逃亡したと、古田説では考えられてきました。しかし、長瀬高浜遺跡からの銅鐸出土により、山陰地方における古墳時代の銅鐸祭祀が想定されることから、再検討が必要かもしれません。(つづく)


第1161話 2016/04/02

古墳時代の銅鐸祭祀「長瀬高浜遺跡」(1)

 弥生時代の日本列島には銅矛・銅弋などの武器型青銅器圏と銅鐸圏という二大青銅器圏があったことは著名です。この銅矛圏が邪馬壹国を中心とする倭国であり、銅鐸圏は関西にあった狗奴国であると古田先生は指摘されましたが、銅鐸圏は倭国の侵略(天孫降臨や神武東侵など)により、東へ東へと逃げるようにその中心は移動しています。
 中には大和盆地のように、壊された銅鐸の出土もあり、激しい侵略や弾圧の痕跡がうかがえます。銅鐸は時代とともに大型化し、聞く銅鐸から見る銅鐸へと変化し、祭祀のシンボルとして重用されたものと思われますが、天孫族の侵略により、銅鐸祭祀は禁止され、銅鐸は廃棄されたものと考えてきたのですが、鳥取県東伯郡の長瀬高浜遺跡から古墳時代の遺跡から銅鐸(弥生中期のもの)が出土していることを知り、驚きました。
 辰巳和弘著『高殿の古代学』(白水社、1990年)によれば、長瀬高浜遺跡は古墳時代前期後半から中期前半の大集落遺跡を中心とした複合遺跡と説明されています。その中の平面プランが六角形に近い大型竪穴式建築跡(SI-127)が廃絶したあとの竪穴内の埋土中から、高さ8.8cmの小型銅鐸が出土していました。この銅鐸は弥生時代中期に製造されたものと見られており、それが古墳時代中期初頭頃に廃絶した遺構の埋土中に含包されていたことから、弥生中期から古墳時代中期の長期にわたって祭器として使用されていたことが推察されます。その紐の内側部分が吊り下げによる磨耗で大きくすり減っていることからも、その使用が長期間にわたっていたことを証明しています。
 出土した大型竪穴式建築跡(SI-127)に隣接して、高殿と思われる大型祭祀遺構(SB40)が出土しており、この銅鐸はこの高殿で祭祀に使用されていたと推察されています。こうした出土事実から、銅鐸が破壊された大和盆地とは異なり、この地域では弥生時代に銅鐸圏が滅亡した後も、祭祀のシンボルとして銅鐸が古墳時代まで使用されていたことになり、このことはとても興味深い現象と思われます。(つづく)


第1146話 2016/03/09

三雲・井原遺跡出土「硯」の使用者

 久留米市の歴史研究者、犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)からメールをいただきました。3月5日に開催された「三雲・井原遺跡番上地区330番地現地説明会」の報告とともに説明会資料(糸島市教育委員会文化課)が添付されていました。弥生後期の硯が出土した遺跡で、貴重な説明会資料です。現地説明会などにはなかなか参加できませんから、こうして資料を送っていただき、ありがたいことです。
 資料によれば、この硯が出土した番上地区は50点以上の「楽浪系土器」が集中して出土するという、他の遺跡には見られない特徴を有していることから、「渡来した楽浪人の集団的な居住(滞在)を示す。」とされています。すなわち、出土した硯は楽浪からの渡来人が使用したとされて、次のように解説されています。

【硯出土の意義】
①これまでも三雲・井原遺跡番上地区には楽浪郡から来た人々が滞在したことが想定されていたが、硯の出土により楽浪郡(中国)との正式な文書のやり取りや、銅鏡など下賜品に対する受領書・返礼書などが作製された可能性が高まった。つまり、楽浪郡からの使者が渡海する目的の一つが伊都国の王都とされる三雲・井原遺跡の訪問にあることが想定される。
②『魏志倭人伝』には伊都国で文書(木簡)を取り扱った記事があるが、今回の硯の出土で記述の信頼性が高まった。
③朝鮮半島南部でも茶戸里遺跡で筆が出土し、半島南岸まで文書(木簡)が使用されていることは出土品から確認されていたが、筆は有機質であるため環境によっては残らないことが多い。今回の硯の出土は日本における文字文化の需要が弥生時代に伊都国で始まった可能性が高いことを示す。

 倭国王都の三雲・井原遺跡を伊都国王都としており、問題のある解説ではありますが、同地で文書行政が行われていたこと、同地から文字受容が始まったとする理解は穏当なものです。すなわち倭国の中心領域が古田説の糸島・博多湾岸であることを支持する解説なのです。「銅鏡など下賜品に対する受領書・返礼書などが作製された」とありますから、受領書や返礼書は受け取った当事者が書くものですから、同遺跡からはるかに離れた邪馬台国畿内説などでは説明不可能です。
 さらに考えれば、楽浪人(中国人)が当地に常駐していたとされていますから、女王国(邪馬壹国)の情報がかなり正確に中国に報告されており、その報告に基づいて記された「倭人伝」の記述も正確であったと言えます。


第1144話 2016/03/06

糸島市出土「硯」の学問的意義

 糸島市から出土した弥生時代の硯は、同地が文字文化受容の先進地域に属していたことを示しています。このことに関する論稿を「洛中洛外日記」744話『「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(7)』で記しました。この『「邪馬台国」畿内説は学説に非ず』はもうすぐ発行予定の『邪馬壹国の歴史学 「邪馬台国」論争を超えて』(古田史学の会編)に収録されます。
 こうした出土物が報告されるたびに、古田先生や古田史学の素晴らしさを何度も実感させられます。古田先生が生きておられれば、この硯の出土をどれほど喜ばれたことでしょう。
 『三国志』倭人伝には次のような記事が見え、この時代既に倭国は文字による外交や政治を行っていたことがうかがえます。

 「文書・賜遣の物を伝送して女王に詣らしめ」
 「詔書して倭の女王に報じていわく、親魏倭王卑弥呼に制詔す。」
 「今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し」
 「銀印青綬を仮し」
 「詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔をもたらし」
 「倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す。」
 「因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄を為(つく)りてこれを告喩す。」
 「檄を以て壹与を告喩す。」

 倭人伝には繰り返し中国から「詔・詔書」が出され、「印綬」が下賜されたことが記され、それに対して倭国からは「上表」文が出されてます。ですから日本列島内で弥生時代の遺跡や遺物から最も「文字」の痕跡が出現する地域が女王国(邪馬壹国)の最有力候補です。そうした地域が北部九州・糸島博多湾岸(筑前中域)で、次のような遺物が出土しています。

 志賀島の金印「漢委奴国王」(57年)
 室見川の銘版「高暘左 王作永宮齊鬲 延光四年五」(125年)
 井原・平原出土の銘文を持つ漢式鏡多数

 これらに加えて、今回の「硯」が出土したのですから、だめ押しともいえる画期的な出土といえます。日本列島内の弥生遺跡中、最も濃厚な「文字」の痕跡を有す糸島博多湾岸(筑前中域)を邪馬壹国に比定せずに、他のどこに文字による外交・政治を行った中心王国があったというのでしょうか。


第1127話 2016/01/23

百済王亡命地が南郷村の理由

 1126話で韓国南部と宮崎県に前「三角錐」後円墳が存在していることを述べましたが、これが偶然ではなく両地域の被葬者に深い関係があるのではないかと考えています。
 宮崎県の前「三角錐」後円墳が分布する西都市の近隣に百済王伝説で有名な南郷村があります。白村江戦などで滅亡した百済王族が南郷村まで漂着逃亡したという伝承ですが、なぜ亡命地に宮崎県が選ばれた理由がわたしにはわかりませんでした。唐軍による追跡から逃れるのであれば、多くの百済亡命人が逃げた摂津難波や近江などの遠隔地こそ相応しいと思われるのですが、ところが宮崎県南郷村を百済王族が亡命地に選んだ理由が不明だったのです。
 この疑問を解く鍵が両地域(韓国南部と宮崎県)に共通して存在する前「三角錐」後円墳ではないでしょうか。すなわち、韓国南部(百済)で前「三角錐」後円墳を造営した倭国の豪族と宮崎県西都市に前「三角錐」後円墳を造営した勢力は深い関係を持っていたと考えると、亡命百済王族はその勢力の庇護のもとに南郷村に亡命したとする仮説が成立すると思われるのです。


第1126話 2016/01/22

韓国と南九州の前「三角錐」後円墳

 昨日から仕事で東京に来ています。東京駅に着いてちょっと時間があったので八重洲ブックセンターに寄り、吉村靖徳著『九州の古墳』(海鳥社。2015年12月発行)を購入しました。同書の解説は典型的な大和朝廷一元史観によっており、あまり学問的に有益ではありませんが、九州の代表的な古墳約120カ所がカラー写真で紹介されていることが気に入りました。
 その中で興味深い古墳がありました。近年、韓国で発見が続いている「前方後円」墳によく似たものがあったのです。韓国の「前方後円」墳は正確に表現すると、前方部の形状が三角錐に近く、それを「前」から見ると、前方部の形が「台形」ではなく、上部が尖った「三角形」なのです。ですから立体的には「三角錐」が後円部に繋がっているような形状をしています。いわば前「三角錐」後円墳とでも言うべき形状です。これは日本列島の前方後円墳には見られない珍しい形状ですので、韓国内で独自に発展した形状かと思っていました。ところがその韓国の前「三角錐」後円墳によく似た古墳の写真が『九州の古墳』に掲載されていたのです。
 最終的には正式な調査報告書を見てからでなければ断定はできませんが、次の三つの古墳の形状が写真では前「三角錐」後円墳に似ているように見えました。一つは宮崎県西都市の松本塚古墳で墳長104mで5世紀末から6世紀初頭の頃の前方後円墳と説明されています。
 二つ目は熊本県山鹿市岩原古墳群の双子塚古墳で、墳長102mの前方後円墳で5世紀中頃の築造と説明されています。
 三つ目は写真からはやや不確かですが、宮崎県児湯郡新富町祇園原古墳群の弥吾郎塚古墳で、墳長94mの6世紀代の前方後円墳とされています。
 『祇園原古墳群1』(1998年、新富町教育委員会)掲載の測量図によれば、弥吾郎塚古墳以外にも次の古墳が前「三角錐」後円墳に似ています。

 ○百足塚古墳 墳長76.4m
 ○機織塚古墳 墳長49.6m
 ○新田原52号墳 墳長54.8m
 ○水神塚古墳 墳長49.4m
 ○新田原68号墳 墳長60.4m
 ○大久保塚古墳 墳長84.0m

 韓国独特の前「三角錐」後円墳に似た古墳が宮崎に多数あることは九州王朝(南九州)と古代韓国の関係を考えるうえで興味深い現象です。もちろん、九州以外にもこの前「三角錐」後円墳があるかもしれませんので、引き続き慎重に調査したいと思います。この他の前「三角錐」後円墳についてご存じの方がおられればご教示ください。


第1096話 2015/11/24

正倉院の毛製宝物の材質

 本日、大阪市天王寺区のホテルアウィーナ大阪で開催された繊維応用技術研究会に出席し、奥村章(おくむら・あきら)さん(消費科学研究所・技術顧問)の講演「正倉院の毛製宝物の材質を調べる」の座長をさせていただきました。
 講師の奥村さんは北海道大学農学部を卒業後、大阪府立産業技術総合研究所に勤務され、平成21〜24年の秋の正倉院開封期間中に特別材質調査の調査員として、毛製宝物の筆、伎楽面、伎楽衣装、毛氈(もうせん)、鞆、馬具など117点の材質を調査されました。ちなみに、正倉院は校倉造りとされていますが、「北倉」と「南倉」のみが校倉作りで、「中倉」は板倉造りで、内部は二階建てだそうです。現在、正倉院内部は空で、宝物は「西宝庫」に保管されているとのこと。
 その調査結果や調査方法などの体験談をお聞かせいただいたのですが、走査電子顕微鏡(SEM)やソフトX線透視画像により明らかとなった新知見など、とても興味深いものでした。とりわけ、従来はカシミアに似た故品種の山羊やアンゴラ山羊(モヘア)とされていた毛氈(フェルト生地)の材質が、実は羊毛であったという素材判定結果は新聞でも報道され、今年の正倉院展でも展示され注目されたところです。
 奥村さんの調査成果は画期的なものとされ、「正倉院の毛製品宝物の調査は、今後50年はしなくてもよい」との高い評価がなされたそうです。「古田史学の会」講演会の講師としてお呼びする機会があればと思います。
 歴史研究における最新の科学分析技術の進化発展に比べると、旧来の大和朝廷一元史観から未だ抜け出すことができない日本古代史学界の後進性には絶望感を覚えました。


第1058話 2015/09/21

鞠智城7世紀中葉造営の理由

 鞠智城造営を白村江戦以後の665年としてきた従来説に対して、岡田茂弘さん(国立歴史民俗博物館名誉教授)が大化改新後の7世紀中葉造営説を発表されました。わたしも鞠智城の従来編年が不適切であり、造営時期を少なくとも20〜30年遡らせるべきと指摘していました。ですから、岡田さんの新説には基本的に賛成なのですが、その造営理由を南九州の対隼人経営のためとされたことには賛成できません。
 岡田さんは7世紀中葉において、『日本書紀』などに対隼人経営に関する史料根拠が皆無であることを認められており、記事が無い理由を「鞠智城創建は白村江敗戦後の防衛対策のために史書の記載から漏れた故と考えたい。」とされているのですが、いかにも苦しい言い訳としか聞こえません。ここに大和朝廷一元史観の宿痾と限界を見るのです。
 それでは鞠智城7世紀中葉造営の理由を古田史学(多元史観・九州王朝説)の立場からはどのような理解が可能となるでしょうか。まず7世紀中頃の九州王朝の大事業として「評制」の開始と難波副都(前期難波宮)の造営があげられます。唐や新羅の軍事的圧力に対抗するため、全国に中央集権的行政組織「評制」を施行し、その長官の「評督」や「助督」を任命しました。それと「副都詔」を発布し、まず難波に副都を造営しました。宮殿(前期難波宮)の完成は九州年号の白雉元年(652)です。
 またこの時期に北方の蝦夷国との戦いやその準備(柵の造営)も同時に行っています。その記録として『赤淵神社縁起』(兵庫県朝来市)も発見されました(「洛中洛外日記」604話・606話・608話・610話・611話・613話・614話・615話・618話・690話を参照、「赤淵神社」として一括掲載)。こうした九州王朝の状況から推測しますと、鞠智城造営の目的として次のことが考えられます。

1.唐・新羅の軍事的脅威に対応した太宰府の後方拠点(首都陥落に備えた臨時副都的性格)の確立。
2.九州中南部の評制施行の一環としての行政拠点の確立。

 これ以外にも目的があったかもしれませんが、多元史観・九州王朝説に立てばこのような仮説が考えられます。従って、こうした九州王朝の大事業が『日本書紀』に記されていないのも当然かもしれません。
 ちなみに、「隼人」は親九州王朝勢力ですから、対隼人経営のための鞠智城築城説は成立しません。『続日本紀』に見えるような、九州王朝末期(701年前後頃)に「隼人」が大和朝廷と激しく戦っていることも、九州王朝残存勢力が南九州で抵抗した痕跡であり、南九州が九州王朝にとって安定した支持勢力領域であったことの証拠に他ならないのです。ですから、鞠智城には「隼人」との戦闘に備えるような巨大防御施設(神籠石山城・水城など)が併設されていないのです。この点、大野城や水城・神籠石山城などの巨大防御施設で守られている太宰府とは地理的政治的条件が異なっていると言えるでしょう。