考古学一覧

第873話 2015/02/15

須玖岡本D地点出土

「キ鳳鏡」の証言

 「洛中洛外日記」872話で紹介しました須玖岡本遺跡(福岡県春日市)D地点出土「キ鳳鏡」の重要性について少し詳しく説明したいと思います。
 北部九州の弥生時代の王墓級の遺跡は弥生中期頃までしかなく、「邪馬台国」の卑弥呼の時代である弥生後期の3世紀前半の目立った遺跡は無いとされてきました。そうしたこともあって、「邪馬台国」東遷説などが出されました。
 しかし、古田先生は倭人伝に記載されている文物と須玖岡本遺跡などの弥生王墓の遺物が一致していることを重視され、考古学編年の方が間違っているのでは ないかと考えられたのです。そして、昭和34年(1959)に発表された梅原末治さんの論文に注目されました。「筑前須玖遺跡出土のキ鳳鏡に就いて」(古代学第八巻増刊号、昭和三四年四月・古代学協会刊)という論文です。
 同論文にはキ鳳鏡の伝来や出土地の確かさについて次のように記されています。

 「最初に遺跡を訪れた八木(奘三郎)氏が上記の百乳星雲鏡片(前漢式鏡、同氏の『考古精説』所載)と共にもたらし帰ったものを昵懇(じっこん)の間柄だった野中完一氏の手を経て同館(二条公爵家の銅駝坊陳列館。京都)の有に帰し、その際に須玖出土品であること が伝えられたとすべきであろう。その点からこの鏡が、須玖出土品であることは、殆(ほとん)ど疑をのこさない」
 「いま出土地の所伝から離れて、これを鏡自体に就いて見ても、滑かな漆黒の色沢の青緑銹を点じ、また鮮かな水銀朱の附着していた修補前の工合など、爾後和田千吉氏・中山平次郎博士などが遺跡地で親しく採集した多数の鏡片と全く趣を一にして、それが同一甕棺内に副葬されていたことがそのものからも認められ る。これを大正5年に同じ須玖の甕棺の一つから発見され、もとの朝鮮総督府博物館の有に帰した方格規玖鏡や他の1面の鏡と較べると、同じ須玖の甕棺出土鏡でも、地点の相違に依って銅色を異にすることが判明する。このことはいよいよキ鳳鏡が多くの確実な出土鏡片と共存したことを裏書きするものである」

 更にそのキ鳳鏡の編年についても海外調査をも踏まえた周到な検証を行われています。その結果として須玖岡本遺跡の編年を3世紀前半とされたのです。

 「これを要するに須玖遺跡の実年代は如何に早くても本キ鳳鏡の示す2世紀の後半を遡り得ず、寧(むし)ろ3世紀の前半に上限を置く可きことにもなろう。此の場合鏡の手なれている点がまた顧みられるのである」
 「戦後、所謂(いわゆる)考古学の流行と共に、一般化した観のある須玖遺跡の甕棺の示す所謂『弥生式文化』に於おける須玖期の実年代を、いまから凡(およ) そ二千年前であるとすることは、もと此の須玖遺跡とそれに近い三雲遺跡の副葬鏡が前漢の鏡式とする吾々の既往の所論から導かれたものである。併(しか)し 須玖出土鏡をすべて前漢の鏡式と見たのは事実ではなかった。この一文は云わばそれに就いての自からの補正である」
 「如上の新たなキ鳳鏡に関する所論は7・8年前に到着したもので、その後日本考古学界の総会に於いて講述したことであった。ただ当時にあっては、定説に異を立つるものとして、問題のキ鳳鏡を他よりの混入であろうと疑い、更に古代日本での鏡の伝世に就いてさえそれを問題とする人士をさえ見受けたのである」

 このように梅原氏は自らの弥生編年をキ鳳鏡を根拠に「補正」されたのです。真の歴史学者らしい立派な態度ではないでしょうか。現代の考古学者にはこの梅原論文を真正面から受け止めていただきたいと願っています。
 なお、この梅原論文の詳細な紹介と解説が次の古田先生の論文でなされており、本ホームページにも掲載されていますので、是非お読みください。

 古田武彦『よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』(角川選書 謎の歴史空間をときあかす)所収「第二章 邪馬一国から九州王朝へ III理論考古学の立場から」


第872話 2015/02/14

弥生時代の絶対年代編年の根拠?

 昨日は正木裕さん(古田史学の会・全国世話人、川西市)と服部静尚さん(古田史学の会・『古代に真実を求めて』編集責任者、八尾市)が京都にみえられ、拙宅近くの喫茶店で3時間以上にわたり古代史鼎談を行いました。主なテーマは弥生時代や古墳時代前期の土器編年の根拠、畿内出土画文帯神獣鏡の位置付けについてでした。さらには「古田史学の会」におけるインターネットの活用についても話題は及びました。
 近年の考古学界の傾向ですが、畿内の古墳時代の編年が古く変更されています。大和の前期古墳を従来は弥生後期とされていた3世紀中頃に古く編年し、「邪馬台国」畿内説を考古学の面から「保証」しようとする動きと思われます。すなわち、卑弥呼が魏からもらった鏡が弥生時代の遺跡から出土しない畿内地方を「邪馬台国」にしたいがために、銅鏡が出土する畿内の前期古墳を3世紀前半に編年しなければならないという「動機」と「意図」が見え隠れするのです。
 その編年は主に土器(庄内式土器など)の相対編年に依っているのですが、それら土器の相対編年が絶対年代とのリンクがどのような根拠に基づいているのか疑問であり、その「本来の根拠」を調査する必要があります。服部さんは関西の考古学者と討論や面談を積極的に行われており、考古学者の見解がかなり不安定な根拠に基づいているらしく、人によって出土事実知識さえも異なることが明らかになりつつあります。考古学界の多数意見となっている「邪馬台国」畿内説の「本来の根拠(土器編年の絶対年代とのリンク)」を、丹念に調べてみたいと思います。「邪馬台国」畿内説という「結論」を先に決めて、それにあうように土器編年を操作するという学問の「禁じ手」が使われていなければ幸いです。
 他方、北部九州の弥生時代の編年も大きな問題があります。その最大の問題の一つが須玖岡本遺跡(福岡県春日市)の編年です。主に弥生中期(紀元0年付近)と編年されてきたのですが、古田先生は梅原末治さんの晩年の研究成果として須玖岡本D地点出土の「き鳳鏡」が魏西晋時代のものであり、従って須玖岡本遺跡は3世紀前半とされたことを繰り返し紹介されています。ところが、梅原さん自らが作成した従来説を梅原さん自身が否定した画期的な報告を古代史学界や梅原さんのお弟子さんたちは「無視」しました。
 この梅原新編年によれば、須玖岡本遺跡は邪馬壹国の卑弥呼の時代に相当します。弥生遺跡の編年が100〜200年近く新しくなる可能性がある梅原新編年こそ、『三国志』倭人伝の内容と考古学的出土事実が一致対応する重要な学説なのです。この点を九州の考古学者は正しく認識すべきです。
 倭人伝の考古学的研究の再構築が大和朝廷一元史観の考古学者にできないのであれば、わたしたち古田学派がやらなければなりません。こうした問題意識に到着した今回の鼎談はとても有意義でした。


第871話 2015/02/14

難波宮遺構から「五十戸」木簡出土

 出張を終え、週末に帰宅したら古谷弘美さん(古田史学の会・全国世話人、枚方市)からお手紙が届いており、2月4日付「日経新聞」のコピーが入っていました。それほど大きな記事ではありませんが、「『五十戸』記す木簡出土」「改新の詔の『幻の単位』」という見出しがあり、木簡の写真と共に次のような記事が記されていました。

 大阪市の難波宮跡近くで、地方の行政単位「五十戸」を記した木簡が出土し、大阪市博物館協会大阪文化財研究所が3日までに明らかにした。
日本書紀には、難波宮に遷都した孝徳天皇が、646年に出した大化改新の詔の一つに「役所に仕える仕丁は五十戸ごとに1人徴発せよ」とある。
しかし、五十戸と記した史料は、現在のところ天智天皇の時代の660年代のものが最古で、改新の詔の内容を疑問視する考えもある。
同研究所の高橋工調査課長は「木簡は書式が古く、孝徳天皇の時代にさかのぼる可能性があり、このころに『五十戸』があった証拠になるかもしれない」としている。(以下略)

 そして、この「玉作」という地名が陸奥や土佐にあったと紹介され、ゴミ捨て場とされる谷からの出土とのことで、そこからは古墳時代から平安時代までの出土品があり、木簡の正確な年代決定は難しいようです。

 写真で見る限り、肉眼による文字の判読は難しく、「作」「戸」「俵」は比較的はっきりと読めますが、他の文字は実物と赤外線写真で判読しなければ読めないように思われました。記事で紹介されていた高橋さんの見解のように、簡単に説明はしにくいのですが、その書式や字体は確かに古いように感じました。

 「洛中洛外日記」552話、553話、554話で紹介しましたように、「五十戸」は後の「里」にあたり、「さと」と訓まれている古代の行政単位です。すなわち、「○○国□□評△△五十戸」のように表記されることが多く、後に「○○国□□評△△里」と変更され、701年以後は「○○国□□郡△△里」となります。

 今回の「五十戸」木簡が注目される理由は、この「五十戸」制が孝徳期まで遡る可能性を指し示すものであることです。わたしは「洛中洛外日記」553話で次のように指摘し、「五十戸」制の開始は評制と同時期で、前期難波宮造営と同年で九州年号の白雉元年(652)ではないかとしました。

 わたしは『日本書紀』白雉三年(652)四月是月条の次の記事に注目しています。

 「是の月に、戸籍造る。凡(おおよ)そ、五十戸を里とす。(略)」

 通説では日本最初の戸籍は「庚午年籍」(670)とされていますから、この652年の造籍記事は史実とは認められていないようですが、わたしはこの記事こそ、九州王朝による造籍に伴う、五十戸編成の「里」の設立を反映した記事ではないかと推測しています。なぜなら、この652年こそ九州年号の白雉元年に相当し、前期難波宮が完成した九州王朝史上画期をなす年だったからです。すなわち、評制と「五十戸」制の施行、そして造籍が副都の前期難波宮で行われた年と思われるのです。(「洛中洛外日記」553話より抜粋)

 この「五十戸」木簡を自分の目で見て、更に論究したいと思います。それにしても難波宮遺跡や上町台地からの近年の出土品や研究は通説を覆すようなものが多く、目が離せません。


第867話 2015/02/10

尼崎市武庫之荘の

 大井戸古墳散策

 今日は仕事で尼崎市武庫之荘に来ています。当地は初めての訪問です。約束よりもちょっと早く着いたので、好天にも恵まれたこともあり、阪急武庫之荘駅の近くにある大井戸古墳を散策しました。大井戸公園内にある径13mほどの円墳で、あまり目立たないこともあり、公園内を探し回りました。
 案内版によると、1400年前の古墳時代後期の古墳で、群集墳が主流だった当時としては珍しく平地にある横穴式石室を持つ古墳とのこと。南側に入り口があり、花崗岩の天井石や須恵器が出土しています。
 この古墳以上にわたしが興味をひかれたのが「武庫之荘(むこのそう)」という地名です。「武庫」という地名から、古代律令制による武器庫があったのではないでしょうか。ところが有力説としては難波から見て「むこう」側にある地域なので「むこう」と言われ、「武庫」の字が当てられたとされています。しかし難波からは遠すぎるように思われますし、これほど離れた地域が難波から見て「むこう」と呼ばれたのであれば、大阪湾岸のあちらこちらに「むこう」という地名があってもよさそうですので、この難波の「むこう」という説にはあまり納得できません。もう少し考えてみたいと思います。


第816話 2014/11/02

後代「九州年号」

  金石文の紹介

 「洛中洛外日記」810話で同時代「九州年号」史料を紹介し、調査協力を要請しましたが、後代作製と思われる「九州年号」金石文についてもご紹介します。
 愛媛県越智郡朝倉村に「樹の本さん」と呼ばれている「樹の本古墳」(円墳と見られています)があります。その墳頂に江戸時代作製と見られている法篋印塔があり、これが白鳳時代開基とされる浄禄寺の尼僧、輝月妙鏡律尼の墓石で、九州年号「白鳳」が記されています。
 数年前に合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人、同・四国の会・事務局長)のご案内で現地を訪問し、この墓石を実見しました。見たところ「白鳳十二年 七月十五日」と没年が彫られていました。年号だけで干支が記されていませんから、古代の金石文とは様式が異なっており、後代成立と見て、問題ないと思いま す。当地の地誌には「白鳳十三年七月十五日」と紹介されていますので、わたしの見間違いかもしれませんので、再確認の必要があります。同古墳は見学可能です。後代製造とはいえ、「九州年号」金石文は希少ですので、みなさんも訪問してみてください。
 もう一つ紹介します。「大化元年」石文として豊国覚堂「多野郡平井村雑記(上)」『上毛及上毛人』61号(大正11年)に掲載されているものです。次のように記されています。

 「大化元年の石文
 又富田家には屯倉の遺址から掘出したと称する石灰岩質の牡丹餅形の極めて不格好の石に『大化元乙巳天、□神王命』と二行に陰刻した石文がある。神王の上に大か天か不明の一字があつて、其左方より上部は少しく缺損して居るが−−見る所随分ふるそうなものである、併し大化の頃、果して斯る石文があつたものか、或は後世の擬刻か、容易には信じられない、又同所附近よりは赤土素焼の瓶をも発掘したと聞いたが未だ實物は一覧しない。」(38頁)

 同誌に掲載されている同石文の拓本を見ると、「大化元巳天 文神王命」と見えます。元年干支が「巳」とありますから、 『日本書紀』にある「大化元年乙巳(645)」と一致しますから、この石文は『日本書紀』成立以後に作成されたと考えられる後代作製「九州年号」金石文となります(本来の九州年号「大化元年」の干支は乙未で695年)。
 ちなみに、下山昌孝さん(多元的古代研究会)による2000年8月の調査によれば「多野郡平井村」は藤岡市とのことで、所蔵者とされる富田家に問い合わされたところ、同家ではこの石文のことはご存じなかったとのことでした。富山家は旧家のようで、藤岡市教育委員会にて同家所有古文書の目録作成をされてい るとのことでした。富田家にご迷惑をおかけしないようご配慮いただき、調査していただければ幸いです。
 以上、後代成立「九州年号」金石文2件をご紹介しました。


第814話 2014/11/01

考古学と文献史学からの太宰府編年(2)

 赤司善彦さん(九州国立博物館展示課長)の論文「筑紫の古代山城と大宰府の成立について −朝倉橘廣庭宮の記憶−」『古代文化』(2010年、VOL.61 4号)に見える考古学的出土事実が、結果として九州王朝説を支持する例を引き続き紹介します。
 大宰府政庁 I 期造営の時代については7世紀初頭(倭京元年・618)として問題ないのですが、 II 期の造営年代については文献史学からは史料根拠が不十分のため、今一つ明確ではありません。考古学的には創建瓦が老司 II 式が主流ということで、老司 I 式の創建瓦を持つ観世音寺創建時期と同時期かやや遅れると考えられますから、観世音寺の創建年(白鳳10年・670)の頃と見なしてよいと考えてきまし た。
 ところが、赤司さんの論文に政庁 II 期の造営時期を示唆する考古学的痕跡について触れられていたのです。次の記載です。

 (3期に時代区分されている大野城大宰府口城門)「 I 期は、堀立柱であることや出土した土器や瓦から7世紀後半代。 II 期は、大宰府政庁 II 期と同笵の大宰府系鬼瓦や鴻臚館系瓦を使用していることから、大宰府政庁 II 期と同じく、8世紀第1四半期を上限と考えられる。(中略)
 大野城の築城年代について、考古学の側から実年代を語ることのできそうな資料が出土している。大野城の大宰府口城門跡で、創建期の城門遺構に伴う木柱が出土した。(中略)
 木柱の年輪年代測定が実施された。計測年数197層の年輪が確定され、最も外側の年輪が648年という結果が出されている。(中略)大野城の築城の準備は、『日本書紀』の664年(665年か。古賀)よりも遡ることを考慮すべきではないかママ思われる。」(80頁)

 これらの記述が指し示す考古学的事実は大野城創建期の大宰府口城門と大宰府政庁 II 期の造営が同時期であり、出土した木柱の年輪年代測定から648年頃と考えられるということです。「8世紀第1四半期」というのは大和朝廷一元史観に基づいた「解釈」、すなわち大宰府政庁 II 期を大宝律令制下の役所とする仮説であり、考古学的事実から導き出された絶対年代ではありません。絶対年代を科学的に導き出せるのは出土木柱の年輪年代測定であることは言うまでもありません。従って、大宰府政庁 II 期と同笵の鬼瓦などが出土する大野城城門 II 期の造営は648年よりも遅れ、かつ大宰府政庁 II 期と同時期と見ることができます。
 そうしますと、既に指摘しましたように観世音寺創建年の白鳳10年(670)の頃に、大宰府政庁 II 期の宮殿が大野城築城とともに造営されたと考えて問題ないようです。なお疑問点を指摘しますと、老司 I 式瓦の観世音寺と老司 II 式瓦を主とする政庁 II 期の造営時期を、老司式瓦の先後関係から見れば観世音寺が先となります。他方、地割区画から見ると、政庁の中心軸を起点に観世音寺の中心軸が割り出されています(この結果、観世音寺の中心軸は条坊ラインから大きく外れています)。このように政庁と観世音寺が条坊都市よりも遅れて造営され、条坊とは異なった 「尺」で地割されていることを考えれば、起点とした政庁が先に設計され造営されるというのが常識的な判断のように思われるのです。この政庁と観世音寺の造営年の先後関係については「ほぼ同時期」という程度に現時点では判断しておくのが良いと思います、この点、今後の検討課題とします。
 以上、赤司さんの論文に見える考古学的事実が、『日本書紀』や大和朝廷一元史観よりも、結果として九州王朝説に有利であることをご理解いただけたのではないでしょうか。


第813話 2014/10/31

考古学と文献史学からの太宰府編年(1)

 「洛中洛外日記」812話で山崎信二さんの「変説」の背景にせまりましたが、 その最後に「考古学という「理系」の学問分野において、文献史学に先行して九州王朝説を(結果として)「支持」する研究結果が発表されている」と記しました。その例について紹介したいと思います。
 本年3月に福岡市で開催された講演会『筑紫舞再興三十周年記念「宮地嶽黄金伝説」』(「洛中洛外日記」671話で紹介)で講演された赤司善彦さん(九州国立博物館展示課長)による次の論文に重要な指摘や出土事実がいくつも記されています。

 赤司義彦「筑紫の古代山城と大宰府の成立について -朝倉橘廣庭宮の記憶-」『古代文化』(2010年、VOL.61 4号)

 同論文については「一元史観からの太宰府王都説 -井上信正説と赤司義彦説の運命-」『古田史学会報』 No.121(2014年4月)でも紹介しましたが、太宰府条坊都市を斉明天皇の「都(朝倉橘廣庭宮)」(「遷都」「遷居」と表現)とする新説です。わたしが特に注目したのが大野城と大宰府政庁 I 期の編年についての記載です。

 「(大宰府政庁 I -1期遺構)出土土器は6世紀後半の返りのある須恵器蓋が1点出土している。」(81頁)
 「(政庁 I 期の遺構群)これらの柵や掘立柱建物は周辺を含めて整地が行われた後に造営されている。柵の柱堀形や整地層には6世紀後半~末頃の土器を多く含んでいる。 これらは以前に存在した古墳に伴う副葬・供献品だったと思われる。 I 期での大規模な造成工事に伴って古墳群や丘陵が切り崩されたためにこうした遺物が混入したのであろう。」(83頁)

 大宰府政庁遺構は3層からなり、最も古い I 期はさらに3時期に分けられています。その中で最も古い大宰府政庁 I -1期遺構から6世紀後半の須恵器蓋が出土しているというのですから、 I 期遺構は6世紀後半以後に造営されたことがわかります。更にその整地層から出土した土器が「6世紀後半~末頃の土器を多く含んでいる」という事実は、 I 期の造営は7世紀初頭と考えるのが、まずは真っ当な理解ではないでしょうか。「これらは以前に存在した古墳に伴う副葬・供献品だったと思われる。 I 期での大規模な造成工事に伴って古墳群や丘陵が切り崩されたためにこうした遺物が混入したのであろう。」というのは、遺構をより新しく編年したいための 「解釈」であり、出土事実から導き出される真っ当な理解は、整地層に6世紀後半から末の土器が多く含まれるのであれば、その整地は7世紀初頭のことであるとまずは理解すべきではないでしょうか。
 こうした赤司さんが紹介された大宰府政庁 I 期に関わる出土土器の編年から、それは7世紀初頭の造営と理解できるわけですが、文献史学による九州王朝説の立場からの研究では、太宰府条坊都市の造営を九州年号の倭京元年(618)と考えていますが、この時期が先の政庁 I 期の造営時期(7世紀初頭)と一致します。
 そして、井上信正さんの調査研究によれば、政庁 I 期と太宰府条坊造営が同時期と見られているのです。そうすると、考古学出土事実と九州年号という文字史料の双方が、太宰府条坊都市の造営を7世紀初頭とする理解で一致し、「シュリーマンの法則」すなわち、考古学的事実と文字史料や伝承が一致すれば、より歴史事実と考えられることになるのです。
 このように考古学出土事実を大和朝廷一元史観(『日本書紀』の記述を基本的に正しいとする歴史認識)による「解釈」で強引に「編年」するのではなく、 真っ当な理解で編年した結果が、九州王朝説に立つ文献史学の論証(倭京元年・618)と一致したのですから、まずは九州王朝の都である太宰府条坊都市の造営は7世紀初頭としてよいと思います。正確に言うならば、7世紀初頭から条坊都市太宰府は造営されたということでしょう。あれだけの大規模な条坊ですから、造営開始から完成までは幅を持って考えたいと思います。
 それでは次に大宰府政庁II期の宮殿の造営はいつ頃でしょうか。この問題を解決するヒントも赤司さんの論文にありました。(つづく)


第812話 2014/10/29

山崎信二さんの「変説」(2)

 このところ山崎信二さんの古代瓦に関する論文などを読んでいるのですが、さすがに瓦の専門家らしく、多くの論文を発表されています。中でも老司式瓦(筑前)と藤原宮式瓦(大和)の作製技法の共通性や変化(板作りから紐作りへ)に着目され、両者の「有機的関連」や「突然の一斉変化」を指摘されたことはプロの考古学者として優れた業績だと思いました。
 その山崎さんの優れた着目点であった老司式と藤原宮式の作製技法の変化の方向が、1995年では「筑前→大和」だったのが、2011年では「大和→筑前」へと、そして先後関係も「老司式が若干はやい」から「ほとんど同時期」へと微妙に「変説」していることを、わたしは指摘したのですが、その間に何があったのでしょうか。その「変説」の一つの背景となったのが学界内の趨勢ではなかったかと推測しています。当問題に関する学界の状況を知る上で参考になっ たのが、岩永省三さんの次の論文でした(インターネットで拝見できます)。

 岩永省三「老司式・鴻臚館式軒瓦出現の背景」
『九州大学総合研究博物館研究報告』No.7 2009年

 この論文には山崎説を含めおそらく学界をリードする瓦の研究者の諸説が紹介されており、学界内の動向や趨勢を知ることが できます。わたしの見るところ、当初は老司1式(観世音寺創建瓦)が藤原宮式より先行するとされていた状況から、近年の研究では岩永さんを含め、老司1式 をより新しく編年しようとする論説が多数を占めてきているようです。こうした学界内の趨勢に山崎さんが影響を受けられたのかもしれません。
 しかし、より本質的な背景として、わたしは太宰府現地の考古学者、井上信正さんの画期的で実証的な新説が学界に激震をもたらしたのではないかと考えてい ます。「洛中洛外日記」でも何度も紹介してきましたが、井上さんは精緻な実測調査により、大宰府政庁2期・観世音寺の主軸と、太宰府条坊の中心軸がずれており、大宰府政庁2期・観世音寺創建よりも条坊都市の方が先に成立したことを明らかにされたのです。おそらくその時間差は数十年以上と思われます。数年の差なら、わざわざ条坊の主軸とずらして政庁や観世音寺を造営する必然性も必要もないからです。この画期的な井上説が発表され始めたのが、ちょうど1995 年から2011年の間なのです。管見では次の井上論文があります。

2001年「大宰府の街区割りと街区成立についての予察」『条里制・古代都市の研究17号』
2008年「大宰府条坊について」『都府楼』40号
2009年「大宰府条坊区画の成立」『考古学ジャーナル』588

 この太宰府条坊が政庁・観世音寺よりも古いという新説は大和朝廷一元史観に激震をもたらしたはずです。それは次の理由からです。

(1)従来の瓦の編年では、観世音寺創建瓦(老司1式)が藤原宮創建瓦よりも古いとされていた。
(2)その観世音寺創建よりも太宰府条坊造営が古いことが井上さんの研究により明らかとなった。
(3)そうなると、従来わが国最初の条坊都市とされてきた「藤原京」よりも、太宰府が日本最古の条坊都市となってしまう。
(4)このことは大和朝廷一元史観ではうまく説明できず、古田武彦の九州王朝説にとって決定的に有利な考古学的根拠となる。

 以上の論理的帰結を理性的で勉強熱心な考古学者なら気づかないはずがありませんし、古田先生の九州王朝説を知らないはず もありません。九州王朝説であれば、九州王朝の首都である太宰府が国内最古の条坊都市であることは当然ですが、大和朝廷一元史観では、「地方都市」の太宰 府が大和の「都」よりもはやく「近代的都市設計」の条坊都市であることは、なんとも説明し難いことなのです。
 そこで考え出されたのが、老司1式瓦の編年を藤原宮式よりも新しくする、せめて同時期にするという「手法」です。しかし厳密に言えば、それでも「問題」 は解決しません。何故なら、観世音寺創建瓦(老司1式)を藤原宮と同時期かやや後に編年しても、その結果できることはせいぜい「藤原京」と太宰府条坊都市の造営を同時期とできる程度なのです。このように、観世音寺よりも太宰府条坊の方が古いという井上信正説は旧来の古代都市編年研究に瀕死の一撃を与えるほ どのインパクトを持っているのです。
 ちなみに、JR九州の駅で配られている観光案内パンフレット(九州歴史資料館監修)などには、太宰府や都府楼の案内文に「7世紀後半」と説明されており、大宰府造営を大宝律令制下の8世紀初頭とする通説とは異なっています。このように地元九州では井上説に立った解説や研究論文が公然と出されているので す。
 しかし、仮に「藤原京」と太宰府条坊都市の造営が同時期としても、やはり大和朝廷一元史観にとって「不都合な事実」であることにはかわりありません。というのも、大和の「都」と「地方都市太宰府」の条坊造営がなぜ同時期なのかという説明が困難なのです。さらに言えば『日本書紀』に「藤原京」と並び立つ太宰府条坊都市造営に関する記事がなぜないのかという説明も困難なのです。
 したがって、こうした無理な説明を強いる「変説」よりも、観世音寺創建(老司1式)の方が藤原宮造営よりも早く、瓦の編年も作製技法の移動も筑前が起点でより早い、すなわち九州王朝の影響が7世紀末に大和へ色濃く及ぶ「突然の一斉変化」こそ九州王朝から大和朝廷への王朝交代の反映とする、古田先生の九州王朝説こそ真実とするのが、学問的論理性というものなのです。
 実は先に紹介した岩永さんの論文にも、7世紀末頃の九州王朝から大和朝廷への王朝交代を「示唆」する指摘があります。それは次の部分です。

 「西海道と畿内との造瓦上の関わりは、7世紀末~8世紀初頭に単発的に生じたもので、ひとたび技術移転が果たされ在地の造営組織が創設され稼動し始めると、観世音寺においても大宰府政庁においても中央からの関与はなくなる。」(p.31)
 岩永省三「老司式・鴻臚館式軒瓦出現の背景」『九州大学総合研究博物館研究報告』No.7 2009年

 西海道(九州王朝)と機内(大和)の造瓦上(作製技法・文様)の関わりが「7世紀末~8世紀初頭に単発的に生じた」というややわかりにくい表現ですが、何度も徐々に筑紫と大和の関わりが生じたのではなく、7世紀末頃に一気に(単発的)起こったとされているのです。これこそ 701年に起こった王朝交代の考古学的痕跡であり、大和朝廷一元史観に立つ考古学者でも、このような痕跡を認めておられ、ややわかりにくい表現で筑紫と大和の7世紀末に発生した「事件」を説明されているのです。
 以上のように、考古学という「理系」の学問分野において、文献史学に先行して九州王朝説を(結果として)「支持」する研究結果が発表されていることに、時代の変化が感じとれるのです。


第811話 2014/10/26

山崎信二さんの「変説」(1)

 学問研究において自説を変更することは悪いことではありません。ただしその場合、何故「変説」したのかという説明責任と、「変説」の結果、より真実に近づくということが不可欠です。
 いきなりなぜこんなことを言い出すのかというと、「洛中洛外日記」808話の『「老司式瓦」から「藤原宮式瓦」へ』で山崎信二さんの『古代造瓦史 −東アジアと日本−』(2011年、雄山閣)で、次のように主張されていることを紹介しました。

 「このように筑前・肥後・大和の各地域において「老司式」「藤原宮式」軒瓦の出現とともに、従来の板作りから紐作りへ突 然一斉に変化するのである。これは各地域において別々の原因で偶然に同じ変化が生じたとは考え難い。この3地域では製作技法を含む有機的な関連が相互に生 じたことは間違いないところである。」
 「そこで、まず大和から筑前に影響を及ぼしたとして(中略)老司式軒瓦の製作開始は692~700年の間となるのである。(中略)このように、老司式軒瓦の製作開始と藤原宮大極殿瓦の製作開始とは、ほぼ同時期のものとみてよいのである。」

 このように山崎さんは瓦の製作技法の突然の一斉変化の方向が「大和から筑前へ」と、根拠を示さずに断定されていました。 ところが、昨日、岡下英男さん(古田史学の会・会員、京都市)からメールが届き、山崎さんは本来「筑前から大和へ」説だったはずで、九州王朝説に有利なこのような説を発表して差し支えないのだろうかと思っていた、という趣旨が記されていました。添付されていた資料によると、たしかに以前は山崎さんは次のように発表されていました。

「藤原宮軒瓦と老司式軒瓦の年代
 それでは、藤原宮軒瓦と筑前・肥後の老司式軒瓦のどちらが古く遡るのであろうか。(中略)
 決定的な資料はないが、以上のように、一般的には老司式が藤原宮の軒瓦のうち古い様相をもつものと共通点が多いことが指摘できる。これは老司式軒瓦の最も初期のものが、藤原宮軒瓦の最も初期のものと同時期か、それより若干遡る可能性を考えさせる。
 老司式軒瓦のうち最古のものは筑前観世音寺出土のものであろうが、(中略)
 このようにみると、九州の老司式軒平瓦と藤原宮軒平瓦の文様の使い分けは、九州の老司式軒平瓦の文様(6640)がすでに存在していたので、その文様を避けて藤原宮軒平瓦の文様(6641・6642・6643)を選択したと考えた方がよいだろう。観世音寺と藤原宮の造瓦において、文様・作製技法を含む技術的な交流がなければ、以上のような相互関係は成り立ち得ないだろう。(中略)
 即ち、老司式と藤原宮の瓦の相互関係については、まず観世音寺造瓦にたずさわった工人の一部(この工人は大和を経由して招来された可能性がある)が、藤原宮の造瓦開始に伴って大和へ移動した場合が想定できる。」(p.265-267)
 山崎信二「藤原宮造瓦と藤原宮の時期の各地の造瓦」『奈良国立文化財研究所創立40周年記念論集 文化財論叢II』所収(同朋舎出版、平成7年・1995年)

 このように1995年時点の論文では「藤原宮の造瓦開始に伴って大和へ」と工人の移動を「筑前から大和へ」とされており、藤原宮式よりも観世音寺創建瓦(老司1式)のほうが若干古いとされていたのです。ところが2011年発刊の『古代造瓦史 −東アジアと日本−』では「大和から筑前へ」に「変説」され、「老司式軒瓦の製作開始と藤原宮大極殿瓦の製作開始とは、ほぼ同時期」と微妙に表現が変化していたのです。1995年から 2011年の間になにがあったのでしょうか。山崎さんの論文等をすべて読んだわけではありませんが、わたしには思い当たることがありました。(つづく)


第810話 2014/10/25

同時代「九州年号」史料の行方

 今日は正木裕さん(古田史学の会・全国世話人)が見えられ、拙宅近くの喫茶店で2時間以上にわたって意見交換を行いました。主なテーマは『古代に真実を求めて』18集で特集する「盗まれた『聖徳太子』伝承」についてでしたが、19 集のテーマ「九州年号」についても最新の発見や仮説について論議しました。お互いに取り組まなければならない研究課題が次から次に出てくるという状況で、 もっと多くの研究者が古田学派には必要と感じました。
 わたし自身もやりたいけれども忙しくて手が回らない調査などがあり、今回、読者のみなさんのご協力を得るためにも、行方不明になったり未調査の同時代 「九州年号」史料を紹介し、手伝っていただける方があれば是非お願いしたいと思います。それは次のような史料です。

(1)「白鳳壬申」骨蔵器。『筑前国続風土記附録』(巻之六 博多 下)の「官内町・海元寺」に次のように記されており、現在では行方不明になっています。是非、さがして下さい。
 「近年濡衣の塔の邊より石龕(かん)一箇掘出せり。白鳳壬申と云文字あり。龕中に骨あり。いかなる人を葬りしにや知れず。此石龕を當寺に蔵め置る由縁をつまびらかにせず。」

(2)「大化元年」獣像。『太宰管内志』(豊後之四・大野郡)の「大行事八幡社」に次の記事があります。今も現存している可能性があります。
 「大行事八幡社ノ社に木にて造れる獣三雙あり其一つの背面に年號を記せり大化元年と云までは見えたれど其下は消て見えず」

(3)「白雉二年」棟札・木材。『太宰管内志』(豊後之四・直入郡)の「建男霜凝日子神社」に次の記事があります。今も現存している可能性があります。
 「此社白雉二年創造の由、棟札に明らかなり。又白雉の舊材、今も尚残れり」「又其初の社を解く時、臍の合口に白雉二年ら造営する由、書付けてありしと云」

 この他にも、江戸時代の諸史料に紹介された「同時代九州年号史料」が見えますが、別の機会に紹介したいと思います。ぜひ、上記の三件について九州の方に調査していただければ幸いです。何らかの発見があれば、『古代に真実を求めて』19集の「九州年号」特集で紹介したいと思いま す。


第808話 2014/10/23

「老司式瓦」から

 「藤原宮式瓦」へ

 図書館で山崎信二著『古代造瓦史 -東アジアと日本-』(2011年、雄山閣)を閲覧しました。山崎さんは国立奈良文化財研究所の副所長などを歴任された瓦の専門家です。同書は瓦の製造技術なども丁寧に解説してあり、良い勉強になりました。
 同書は論述が多岐にわたり、理解するためには何度も読む必要がある本ですが、その中でわたしの目にとまった興味深い問題提起がありました。それは次の一節です。

 「このように筑前・肥後・大和の各地域において「老司式」「藤原宮式」軒瓦の出現とともに、従来の板作りから紐作りへ突然一斉に変化するのであ る。これは各地域において別々の原因で偶然に同じ変化が生じたとは考え難い。この3地域では製作技法を含む有機的な関連が相互に生じたことは間違いないと ころである。」(258頁)

 このように断言され、「そこで、まず大和から筑前に影響を及ぼしたとして(中略)老司式軒瓦の製作開始は692~700年の間となるのである。 (中略)このように、老司式軒瓦の製作開始と藤原宮大極殿瓦の製作開始とは、ほぼ同時期のものとみてよいのである。」とされたのです。ここに大和朝廷一元史観に立つ山崎さんの学問的限界を見て取ることができます。すなわち、逆に「筑前から大和に影響を及ぼした」とする可能性やその検討がスッポリと抜け落ちているのです。
 九州の考古学者からは観世音寺の「老司1式」瓦が「藤原宮式」よりも先行するという見解が従来から示されているのですが、奈良文化財研究所の考古学者には「都合の悪い指摘」であり、見えていないのかもしれません。ちなみに、山崎さんが筑前・肥後・大和の3地域の「有機的関連」と指摘されたのは軒瓦の製作 技法に関することで、次のように説明されています。

 「筑前では、「老司式」軒瓦に先行する福岡市井尻B遺跡の単弁8弁蓮華文軒丸瓦・丸瓦・平瓦では板作りであるが、観世音寺の老司式瓦では紐作りとなり、筑前国分寺創建期の軒平瓦では板作りとなる。
 肥後では、陣内廃寺出土例をみると、創建瓦である単弁8弁蓮華文軒丸瓦、重弧文軒平瓦では板作りであり、老司式瓦では紐作りとなり、その後の均整唐草文軒平瓦の段階でも紐作りが存続している。
 大和では、飛鳥寺創建以来の瓦作りにおいて板作りを行っており、藤原宮の段階において、初めて偏行唐草文軒平瓦の紐作りの瓦が多量に生産される。また、藤原宮と時期的に併行する大官大寺塔・回廊所用の軒平瓦6661Bが紐作りによっている。」(258頁)

 ここでいわれている「板作り」「紐作り」というのは瓦の製作技法のことで、紐状の粘土を木型に張り付けて成形するのが「紐作り」で、板状の粘土を木型に張り付けて成形するのが「板作り」と呼ばれています。山崎さんの指摘によれば、初期は「板作り」技法で、その後に「紐作り」技法へと変化するのですが、その現象が筑前・肥後・大和で「突然一斉に変化する」という事実に着目され、この3地域は有機的な関連を持って生じたと断定されたのです。
 この事実は九州王朝説にとっても重要であり、九州王朝説でなければ説明できない事象と思われるのです。列島の中心権力が筑紫から大和へ交代したとする九州王朝説であれば、うまく説明できますが、山崎さんらのような大和朝廷一元史観では、なぜ筑前・肥後と大和にこの現象が発生したのかが説明できませんし、 現に山崎さんも説明されていません。
 影響の方向性もおかしなもので、なぜ大和から筑前・肥後への影響なのかという説明もなされていません。わたしの研究によれば影響の方向は筑紫から大和です。なぜなら観世音寺の創建が670年(白鳳10年)であることが史料(『勝山記』他)から明らかになっていますし、これは観世音寺の創建瓦「老司1式」 が「藤原宮式」よりも古いという従来の考古学編年にも一致しています。
 したがって、筑前・肥後・大和の瓦製作技法の「有機的相互関連」を示す「突然の一斉変化」こそ、王朝交代に伴い九州王朝の瓦製作技法が大和に伝播し、藤原宮大極殿造営(遷都は694年)のさいに採用されたということになるのです。このように、山崎さんが注目された事実こそ、九州王朝説を支持する考古学的史料事実だったのです。


第803話 2014/10/16

日本古代史学界の「反知性主義」

  佐藤優さんの『「知」の読書術』(集英社、2014年8月)を読みました。現代社会や世界で発生している諸問題を近代史の視点から読み解き、警鐘を打ち鳴らす好著でした。皆さんへもご一読をお勧めします。同書の第四章「『反知性主義』を超克せよ」の「反知性主義は『無知』 とは異なります。」とする次の指摘には深く考えさせられました。

 「誤解のないように言っておくと、反知性主義は「無知」とは異なります。たとえ高等教育を受けていても、自己の権力基盤を強化するために「恣意的な物語」を展開すれば反知性主義者となりうるのです。
反知性主義者に実証的批判を突きつけても、有効な批判にはなりません。なぜなら、彼らにはみずからにとって都合がよいことは大きく見え、都合の悪いことは視界から消えてしまうからです。だから反知性主義者は、実証性や客観性にもとづく反証をいくらされても、痛くも痒くもありません。」(82頁)

 わたしたち古田学派にとって、彼ら(大和朝廷一元史観の古代史学界)が「実証性や客観性にもとづく反証をいくらされても、痛くも痒くも」ない「反知性主義者」であれば、古田先生やわたしたちが提示し続けてきた実証や論証は「都合の悪いこと」であり、「視界から消えてしまう」のです。このような佐藤さんの指摘には思い当たることが多々あります。

 たとえば、『二中歴』に記された九州年号と一致する「元壬子年」木簡(芦屋市出土。白雉元年壬子652年に一致。『日本書紀』の白雉元年は庚戌の年で650年。『日本書紀』よりも『二中歴』等の九州年号に干支が一致しています。)について何度も指摘してきましたが、一切無視されており、近年の木簡関連 の書籍・論文ではこの木簡の存在自体にも触れなくなったり、「元」の字を省いて「壬子年」木簡と恣意的な紹介に変質したりしています。

 あるいは『旧唐書』では、「倭国伝」(九州王朝)と「日本国伝」(大和朝廷)の書き分け(地勢や歴史、人名等あきらかな別国表記)がなされているという古田先生の指摘に対しても、真正面から反論せず、「古代中国人が間違った」などという恣意的な解釈(物語)で済ませています。

 『隋書』イ妥国伝(「イ妥」は「大委」の当て字か)の阿蘇山の噴火記事や、天子の名前が阿毎多利思北孤(男性)であり、大和の推古天皇(女性)とは全く異なり、両者は別の国であるという古田先生の指摘を40年以上も彼らは無視しています。

 考古学の立場から、太宰府の条坊造営が国内最古であることを精緻な調査から示唆された井上信正説が、九州王朝説(太宰府は九州王朝の首都)と整合するというわたしからの主張に対しても沈黙したままです。(注)

 こうした実証性や客観性に基づく反証が、「反知性主義者」には「無効」という佐藤さんの指摘に改めて衝撃を受けたのですが、それならばわたしたち古田学派はなにをなすべきでしょうか。そのヒントも佐藤さんの『「知」の読書術』にありました。(つづく)

(注記)わたしは列島内の条坊都市の歴史として、九州王朝の首都・太宰府条坊都市が7世紀初頭(九州年号の倭京元年・618 年)の造営、次いで九州王朝の副都・難波京(前期難波宮)条坊が7世紀中頃以降の造営、そして7世紀末に大和朝廷の「藤原京」条坊が造営されたと考えています。井上信正説では太宰府条坊と「藤原京」条坊が共に7世紀末頃の造営と理解されているようです。