考古学一覧

第816話 2014/11/02

後代「九州年号」

  金石文の紹介

 「洛中洛外日記」810話で同時代「九州年号」史料を紹介し、調査協力を要請しましたが、後代作製と思われる「九州年号」金石文についてもご紹介します。
 愛媛県越智郡朝倉村に「樹の本さん」と呼ばれている「樹の本古墳」(円墳と見られています)があります。その墳頂に江戸時代作製と見られている法篋印塔があり、これが白鳳時代開基とされる浄禄寺の尼僧、輝月妙鏡律尼の墓石で、九州年号「白鳳」が記されています。
 数年前に合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人、同・四国の会・事務局長)のご案内で現地を訪問し、この墓石を実見しました。見たところ「白鳳十二年 七月十五日」と没年が彫られていました。年号だけで干支が記されていませんから、古代の金石文とは様式が異なっており、後代成立と見て、問題ないと思いま す。当地の地誌には「白鳳十三年七月十五日」と紹介されていますので、わたしの見間違いかもしれませんので、再確認の必要があります。同古墳は見学可能です。後代製造とはいえ、「九州年号」金石文は希少ですので、みなさんも訪問してみてください。
 もう一つ紹介します。「大化元年」石文として豊国覚堂「多野郡平井村雑記(上)」『上毛及上毛人』61号(大正11年)に掲載されているものです。次のように記されています。

 「大化元年の石文
 又富田家には屯倉の遺址から掘出したと称する石灰岩質の牡丹餅形の極めて不格好の石に『大化元乙巳天、□神王命』と二行に陰刻した石文がある。神王の上に大か天か不明の一字があつて、其左方より上部は少しく缺損して居るが−−見る所随分ふるそうなものである、併し大化の頃、果して斯る石文があつたものか、或は後世の擬刻か、容易には信じられない、又同所附近よりは赤土素焼の瓶をも発掘したと聞いたが未だ實物は一覧しない。」(38頁)

 同誌に掲載されている同石文の拓本を見ると、「大化元巳天 文神王命」と見えます。元年干支が「巳」とありますから、 『日本書紀』にある「大化元年乙巳(645)」と一致しますから、この石文は『日本書紀』成立以後に作成されたと考えられる後代作製「九州年号」金石文となります(本来の九州年号「大化元年」の干支は乙未で695年)。
 ちなみに、下山昌孝さん(多元的古代研究会)による2000年8月の調査によれば「多野郡平井村」は藤岡市とのことで、所蔵者とされる富田家に問い合わされたところ、同家ではこの石文のことはご存じなかったとのことでした。富山家は旧家のようで、藤岡市教育委員会にて同家所有古文書の目録作成をされてい るとのことでした。富田家にご迷惑をおかけしないようご配慮いただき、調査していただければ幸いです。
 以上、後代成立「九州年号」金石文2件をご紹介しました。


第814話 2014/11/01

考古学と文献史学からの太宰府編年(2)

 赤司善彦さん(九州国立博物館展示課長)の論文「筑紫の古代山城と大宰府の成立について −朝倉橘廣庭宮の記憶−」『古代文化』(2010年、VOL.61 4号)に見える考古学的出土事実が、結果として九州王朝説を支持する例を引き続き紹介します。
 大宰府政庁 I 期造営の時代については7世紀初頭(倭京元年・618)として問題ないのですが、 II 期の造営年代については文献史学からは史料根拠が不十分のため、今一つ明確ではありません。考古学的には創建瓦が老司 II 式が主流ということで、老司 I 式の創建瓦を持つ観世音寺創建時期と同時期かやや遅れると考えられますから、観世音寺の創建年(白鳳10年・670)の頃と見なしてよいと考えてきまし た。
 ところが、赤司さんの論文に政庁 II 期の造営時期を示唆する考古学的痕跡について触れられていたのです。次の記載です。

 (3期に時代区分されている大野城大宰府口城門)「 I 期は、堀立柱であることや出土した土器や瓦から7世紀後半代。 II 期は、大宰府政庁 II 期と同笵の大宰府系鬼瓦や鴻臚館系瓦を使用していることから、大宰府政庁 II 期と同じく、8世紀第1四半期を上限と考えられる。(中略)
 大野城の築城年代について、考古学の側から実年代を語ることのできそうな資料が出土している。大野城の大宰府口城門跡で、創建期の城門遺構に伴う木柱が出土した。(中略)
 木柱の年輪年代測定が実施された。計測年数197層の年輪が確定され、最も外側の年輪が648年という結果が出されている。(中略)大野城の築城の準備は、『日本書紀』の664年(665年か。古賀)よりも遡ることを考慮すべきではないかママ思われる。」(80頁)

 これらの記述が指し示す考古学的事実は大野城創建期の大宰府口城門と大宰府政庁 II 期の造営が同時期であり、出土した木柱の年輪年代測定から648年頃と考えられるということです。「8世紀第1四半期」というのは大和朝廷一元史観に基づいた「解釈」、すなわち大宰府政庁 II 期を大宝律令制下の役所とする仮説であり、考古学的事実から導き出された絶対年代ではありません。絶対年代を科学的に導き出せるのは出土木柱の年輪年代測定であることは言うまでもありません。従って、大宰府政庁 II 期と同笵の鬼瓦などが出土する大野城城門 II 期の造営は648年よりも遅れ、かつ大宰府政庁 II 期と同時期と見ることができます。
 そうしますと、既に指摘しましたように観世音寺創建年の白鳳10年(670)の頃に、大宰府政庁 II 期の宮殿が大野城築城とともに造営されたと考えて問題ないようです。なお疑問点を指摘しますと、老司 I 式瓦の観世音寺と老司 II 式瓦を主とする政庁 II 期の造営時期を、老司式瓦の先後関係から見れば観世音寺が先となります。他方、地割区画から見ると、政庁の中心軸を起点に観世音寺の中心軸が割り出されています(この結果、観世音寺の中心軸は条坊ラインから大きく外れています)。このように政庁と観世音寺が条坊都市よりも遅れて造営され、条坊とは異なった 「尺」で地割されていることを考えれば、起点とした政庁が先に設計され造営されるというのが常識的な判断のように思われるのです。この政庁と観世音寺の造営年の先後関係については「ほぼ同時期」という程度に現時点では判断しておくのが良いと思います、この点、今後の検討課題とします。
 以上、赤司さんの論文に見える考古学的事実が、『日本書紀』や大和朝廷一元史観よりも、結果として九州王朝説に有利であることをご理解いただけたのではないでしょうか。


第813話 2014/10/31

考古学と文献史学からの太宰府編年(1)

 「洛中洛外日記」812話で山崎信二さんの「変説」の背景にせまりましたが、 その最後に「考古学という「理系」の学問分野において、文献史学に先行して九州王朝説を(結果として)「支持」する研究結果が発表されている」と記しました。その例について紹介したいと思います。
 本年3月に福岡市で開催された講演会『筑紫舞再興三十周年記念「宮地嶽黄金伝説」』(「洛中洛外日記」671話で紹介)で講演された赤司善彦さん(九州国立博物館展示課長)による次の論文に重要な指摘や出土事実がいくつも記されています。

 赤司義彦「筑紫の古代山城と大宰府の成立について -朝倉橘廣庭宮の記憶-」『古代文化』(2010年、VOL.61 4号)

 同論文については「一元史観からの太宰府王都説 -井上信正説と赤司義彦説の運命-」『古田史学会報』 No.121(2014年4月)でも紹介しましたが、太宰府条坊都市を斉明天皇の「都(朝倉橘廣庭宮)」(「遷都」「遷居」と表現)とする新説です。わたしが特に注目したのが大野城と大宰府政庁 I 期の編年についての記載です。

 「(大宰府政庁 I -1期遺構)出土土器は6世紀後半の返りのある須恵器蓋が1点出土している。」(81頁)
 「(政庁 I 期の遺構群)これらの柵や掘立柱建物は周辺を含めて整地が行われた後に造営されている。柵の柱堀形や整地層には6世紀後半~末頃の土器を多く含んでいる。 これらは以前に存在した古墳に伴う副葬・供献品だったと思われる。 I 期での大規模な造成工事に伴って古墳群や丘陵が切り崩されたためにこうした遺物が混入したのであろう。」(83頁)

 大宰府政庁遺構は3層からなり、最も古い I 期はさらに3時期に分けられています。その中で最も古い大宰府政庁 I -1期遺構から6世紀後半の須恵器蓋が出土しているというのですから、 I 期遺構は6世紀後半以後に造営されたことがわかります。更にその整地層から出土した土器が「6世紀後半~末頃の土器を多く含んでいる」という事実は、 I 期の造営は7世紀初頭と考えるのが、まずは真っ当な理解ではないでしょうか。「これらは以前に存在した古墳に伴う副葬・供献品だったと思われる。 I 期での大規模な造成工事に伴って古墳群や丘陵が切り崩されたためにこうした遺物が混入したのであろう。」というのは、遺構をより新しく編年したいための 「解釈」であり、出土事実から導き出される真っ当な理解は、整地層に6世紀後半から末の土器が多く含まれるのであれば、その整地は7世紀初頭のことであるとまずは理解すべきではないでしょうか。
 こうした赤司さんが紹介された大宰府政庁 I 期に関わる出土土器の編年から、それは7世紀初頭の造営と理解できるわけですが、文献史学による九州王朝説の立場からの研究では、太宰府条坊都市の造営を九州年号の倭京元年(618)と考えていますが、この時期が先の政庁 I 期の造営時期(7世紀初頭)と一致します。
 そして、井上信正さんの調査研究によれば、政庁 I 期と太宰府条坊造営が同時期と見られているのです。そうすると、考古学出土事実と九州年号という文字史料の双方が、太宰府条坊都市の造営を7世紀初頭とする理解で一致し、「シュリーマンの法則」すなわち、考古学的事実と文字史料や伝承が一致すれば、より歴史事実と考えられることになるのです。
 このように考古学出土事実を大和朝廷一元史観(『日本書紀』の記述を基本的に正しいとする歴史認識)による「解釈」で強引に「編年」するのではなく、 真っ当な理解で編年した結果が、九州王朝説に立つ文献史学の論証(倭京元年・618)と一致したのですから、まずは九州王朝の都である太宰府条坊都市の造営は7世紀初頭としてよいと思います。正確に言うならば、7世紀初頭から条坊都市太宰府は造営されたということでしょう。あれだけの大規模な条坊ですから、造営開始から完成までは幅を持って考えたいと思います。
 それでは次に大宰府政庁II期の宮殿の造営はいつ頃でしょうか。この問題を解決するヒントも赤司さんの論文にありました。(つづく)


第812話 2014/10/29

山崎信二さんの「変説」(2)

 このところ山崎信二さんの古代瓦に関する論文などを読んでいるのですが、さすがに瓦の専門家らしく、多くの論文を発表されています。中でも老司式瓦(筑前)と藤原宮式瓦(大和)の作製技法の共通性や変化(板作りから紐作りへ)に着目され、両者の「有機的関連」や「突然の一斉変化」を指摘されたことはプロの考古学者として優れた業績だと思いました。
 その山崎さんの優れた着目点であった老司式と藤原宮式の作製技法の変化の方向が、1995年では「筑前→大和」だったのが、2011年では「大和→筑前」へと、そして先後関係も「老司式が若干はやい」から「ほとんど同時期」へと微妙に「変説」していることを、わたしは指摘したのですが、その間に何があったのでしょうか。その「変説」の一つの背景となったのが学界内の趨勢ではなかったかと推測しています。当問題に関する学界の状況を知る上で参考になっ たのが、岩永省三さんの次の論文でした(インターネットで拝見できます)。

 岩永省三「老司式・鴻臚館式軒瓦出現の背景」
『九州大学総合研究博物館研究報告』No.7 2009年

 この論文には山崎説を含めおそらく学界をリードする瓦の研究者の諸説が紹介されており、学界内の動向や趨勢を知ることが できます。わたしの見るところ、当初は老司1式(観世音寺創建瓦)が藤原宮式より先行するとされていた状況から、近年の研究では岩永さんを含め、老司1式 をより新しく編年しようとする論説が多数を占めてきているようです。こうした学界内の趨勢に山崎さんが影響を受けられたのかもしれません。
 しかし、より本質的な背景として、わたしは太宰府現地の考古学者、井上信正さんの画期的で実証的な新説が学界に激震をもたらしたのではないかと考えてい ます。「洛中洛外日記」でも何度も紹介してきましたが、井上さんは精緻な実測調査により、大宰府政庁2期・観世音寺の主軸と、太宰府条坊の中心軸がずれており、大宰府政庁2期・観世音寺創建よりも条坊都市の方が先に成立したことを明らかにされたのです。おそらくその時間差は数十年以上と思われます。数年の差なら、わざわざ条坊の主軸とずらして政庁や観世音寺を造営する必然性も必要もないからです。この画期的な井上説が発表され始めたのが、ちょうど1995 年から2011年の間なのです。管見では次の井上論文があります。

2001年「大宰府の街区割りと街区成立についての予察」『条里制・古代都市の研究17号』
2008年「大宰府条坊について」『都府楼』40号
2009年「大宰府条坊区画の成立」『考古学ジャーナル』588

 この太宰府条坊が政庁・観世音寺よりも古いという新説は大和朝廷一元史観に激震をもたらしたはずです。それは次の理由からです。

(1)従来の瓦の編年では、観世音寺創建瓦(老司1式)が藤原宮創建瓦よりも古いとされていた。
(2)その観世音寺創建よりも太宰府条坊造営が古いことが井上さんの研究により明らかとなった。
(3)そうなると、従来わが国最初の条坊都市とされてきた「藤原京」よりも、太宰府が日本最古の条坊都市となってしまう。
(4)このことは大和朝廷一元史観ではうまく説明できず、古田武彦の九州王朝説にとって決定的に有利な考古学的根拠となる。

 以上の論理的帰結を理性的で勉強熱心な考古学者なら気づかないはずがありませんし、古田先生の九州王朝説を知らないはず もありません。九州王朝説であれば、九州王朝の首都である太宰府が国内最古の条坊都市であることは当然ですが、大和朝廷一元史観では、「地方都市」の太宰 府が大和の「都」よりもはやく「近代的都市設計」の条坊都市であることは、なんとも説明し難いことなのです。
 そこで考え出されたのが、老司1式瓦の編年を藤原宮式よりも新しくする、せめて同時期にするという「手法」です。しかし厳密に言えば、それでも「問題」 は解決しません。何故なら、観世音寺創建瓦(老司1式)を藤原宮と同時期かやや後に編年しても、その結果できることはせいぜい「藤原京」と太宰府条坊都市の造営を同時期とできる程度なのです。このように、観世音寺よりも太宰府条坊の方が古いという井上信正説は旧来の古代都市編年研究に瀕死の一撃を与えるほ どのインパクトを持っているのです。
 ちなみに、JR九州の駅で配られている観光案内パンフレット(九州歴史資料館監修)などには、太宰府や都府楼の案内文に「7世紀後半」と説明されており、大宰府造営を大宝律令制下の8世紀初頭とする通説とは異なっています。このように地元九州では井上説に立った解説や研究論文が公然と出されているので す。
 しかし、仮に「藤原京」と太宰府条坊都市の造営が同時期としても、やはり大和朝廷一元史観にとって「不都合な事実」であることにはかわりありません。というのも、大和の「都」と「地方都市太宰府」の条坊造営がなぜ同時期なのかという説明が困難なのです。さらに言えば『日本書紀』に「藤原京」と並び立つ太宰府条坊都市造営に関する記事がなぜないのかという説明も困難なのです。
 したがって、こうした無理な説明を強いる「変説」よりも、観世音寺創建(老司1式)の方が藤原宮造営よりも早く、瓦の編年も作製技法の移動も筑前が起点でより早い、すなわち九州王朝の影響が7世紀末に大和へ色濃く及ぶ「突然の一斉変化」こそ九州王朝から大和朝廷への王朝交代の反映とする、古田先生の九州王朝説こそ真実とするのが、学問的論理性というものなのです。
 実は先に紹介した岩永さんの論文にも、7世紀末頃の九州王朝から大和朝廷への王朝交代を「示唆」する指摘があります。それは次の部分です。

 「西海道と畿内との造瓦上の関わりは、7世紀末~8世紀初頭に単発的に生じたもので、ひとたび技術移転が果たされ在地の造営組織が創設され稼動し始めると、観世音寺においても大宰府政庁においても中央からの関与はなくなる。」(p.31)
 岩永省三「老司式・鴻臚館式軒瓦出現の背景」『九州大学総合研究博物館研究報告』No.7 2009年

 西海道(九州王朝)と機内(大和)の造瓦上(作製技法・文様)の関わりが「7世紀末~8世紀初頭に単発的に生じた」というややわかりにくい表現ですが、何度も徐々に筑紫と大和の関わりが生じたのではなく、7世紀末頃に一気に(単発的)起こったとされているのです。これこそ 701年に起こった王朝交代の考古学的痕跡であり、大和朝廷一元史観に立つ考古学者でも、このような痕跡を認めておられ、ややわかりにくい表現で筑紫と大和の7世紀末に発生した「事件」を説明されているのです。
 以上のように、考古学という「理系」の学問分野において、文献史学に先行して九州王朝説を(結果として)「支持」する研究結果が発表されていることに、時代の変化が感じとれるのです。


第811話 2014/10/26

山崎信二さんの「変説」(1)

 学問研究において自説を変更することは悪いことではありません。ただしその場合、何故「変説」したのかという説明責任と、「変説」の結果、より真実に近づくということが不可欠です。
 いきなりなぜこんなことを言い出すのかというと、「洛中洛外日記」808話の『「老司式瓦」から「藤原宮式瓦」へ』で山崎信二さんの『古代造瓦史 −東アジアと日本−』(2011年、雄山閣)で、次のように主張されていることを紹介しました。

 「このように筑前・肥後・大和の各地域において「老司式」「藤原宮式」軒瓦の出現とともに、従来の板作りから紐作りへ突 然一斉に変化するのである。これは各地域において別々の原因で偶然に同じ変化が生じたとは考え難い。この3地域では製作技法を含む有機的な関連が相互に生 じたことは間違いないところである。」
 「そこで、まず大和から筑前に影響を及ぼしたとして(中略)老司式軒瓦の製作開始は692~700年の間となるのである。(中略)このように、老司式軒瓦の製作開始と藤原宮大極殿瓦の製作開始とは、ほぼ同時期のものとみてよいのである。」

 このように山崎さんは瓦の製作技法の突然の一斉変化の方向が「大和から筑前へ」と、根拠を示さずに断定されていました。 ところが、昨日、岡下英男さん(古田史学の会・会員、京都市)からメールが届き、山崎さんは本来「筑前から大和へ」説だったはずで、九州王朝説に有利なこのような説を発表して差し支えないのだろうかと思っていた、という趣旨が記されていました。添付されていた資料によると、たしかに以前は山崎さんは次のように発表されていました。

「藤原宮軒瓦と老司式軒瓦の年代
 それでは、藤原宮軒瓦と筑前・肥後の老司式軒瓦のどちらが古く遡るのであろうか。(中略)
 決定的な資料はないが、以上のように、一般的には老司式が藤原宮の軒瓦のうち古い様相をもつものと共通点が多いことが指摘できる。これは老司式軒瓦の最も初期のものが、藤原宮軒瓦の最も初期のものと同時期か、それより若干遡る可能性を考えさせる。
 老司式軒瓦のうち最古のものは筑前観世音寺出土のものであろうが、(中略)
 このようにみると、九州の老司式軒平瓦と藤原宮軒平瓦の文様の使い分けは、九州の老司式軒平瓦の文様(6640)がすでに存在していたので、その文様を避けて藤原宮軒平瓦の文様(6641・6642・6643)を選択したと考えた方がよいだろう。観世音寺と藤原宮の造瓦において、文様・作製技法を含む技術的な交流がなければ、以上のような相互関係は成り立ち得ないだろう。(中略)
 即ち、老司式と藤原宮の瓦の相互関係については、まず観世音寺造瓦にたずさわった工人の一部(この工人は大和を経由して招来された可能性がある)が、藤原宮の造瓦開始に伴って大和へ移動した場合が想定できる。」(p.265-267)
 山崎信二「藤原宮造瓦と藤原宮の時期の各地の造瓦」『奈良国立文化財研究所創立40周年記念論集 文化財論叢II』所収(同朋舎出版、平成7年・1995年)

 このように1995年時点の論文では「藤原宮の造瓦開始に伴って大和へ」と工人の移動を「筑前から大和へ」とされており、藤原宮式よりも観世音寺創建瓦(老司1式)のほうが若干古いとされていたのです。ところが2011年発刊の『古代造瓦史 −東アジアと日本−』では「大和から筑前へ」に「変説」され、「老司式軒瓦の製作開始と藤原宮大極殿瓦の製作開始とは、ほぼ同時期」と微妙に表現が変化していたのです。1995年から 2011年の間になにがあったのでしょうか。山崎さんの論文等をすべて読んだわけではありませんが、わたしには思い当たることがありました。(つづく)


第810話 2014/10/25

同時代「九州年号」史料の行方

 今日は正木裕さん(古田史学の会・全国世話人)が見えられ、拙宅近くの喫茶店で2時間以上にわたって意見交換を行いました。主なテーマは『古代に真実を求めて』18集で特集する「盗まれた『聖徳太子』伝承」についてでしたが、19 集のテーマ「九州年号」についても最新の発見や仮説について論議しました。お互いに取り組まなければならない研究課題が次から次に出てくるという状況で、 もっと多くの研究者が古田学派には必要と感じました。
 わたし自身もやりたいけれども忙しくて手が回らない調査などがあり、今回、読者のみなさんのご協力を得るためにも、行方不明になったり未調査の同時代 「九州年号」史料を紹介し、手伝っていただける方があれば是非お願いしたいと思います。それは次のような史料です。

(1)「白鳳壬申」骨蔵器。『筑前国続風土記附録』(巻之六 博多 下)の「官内町・海元寺」に次のように記されており、現在では行方不明になっています。是非、さがして下さい。
 「近年濡衣の塔の邊より石龕(かん)一箇掘出せり。白鳳壬申と云文字あり。龕中に骨あり。いかなる人を葬りしにや知れず。此石龕を當寺に蔵め置る由縁をつまびらかにせず。」

(2)「大化元年」獣像。『太宰管内志』(豊後之四・大野郡)の「大行事八幡社」に次の記事があります。今も現存している可能性があります。
 「大行事八幡社ノ社に木にて造れる獣三雙あり其一つの背面に年號を記せり大化元年と云までは見えたれど其下は消て見えず」

(3)「白雉二年」棟札・木材。『太宰管内志』(豊後之四・直入郡)の「建男霜凝日子神社」に次の記事があります。今も現存している可能性があります。
 「此社白雉二年創造の由、棟札に明らかなり。又白雉の舊材、今も尚残れり」「又其初の社を解く時、臍の合口に白雉二年ら造営する由、書付けてありしと云」

 この他にも、江戸時代の諸史料に紹介された「同時代九州年号史料」が見えますが、別の機会に紹介したいと思います。ぜひ、上記の三件について九州の方に調査していただければ幸いです。何らかの発見があれば、『古代に真実を求めて』19集の「九州年号」特集で紹介したいと思いま す。


第808話 2014/10/23

「老司式瓦」から

 「藤原宮式瓦」へ

 図書館で山崎信二著『古代造瓦史 -東アジアと日本-』(2011年、雄山閣)を閲覧しました。山崎さんは国立奈良文化財研究所の副所長などを歴任された瓦の専門家です。同書は瓦の製造技術なども丁寧に解説してあり、良い勉強になりました。
 同書は論述が多岐にわたり、理解するためには何度も読む必要がある本ですが、その中でわたしの目にとまった興味深い問題提起がありました。それは次の一節です。

 「このように筑前・肥後・大和の各地域において「老司式」「藤原宮式」軒瓦の出現とともに、従来の板作りから紐作りへ突然一斉に変化するのであ る。これは各地域において別々の原因で偶然に同じ変化が生じたとは考え難い。この3地域では製作技法を含む有機的な関連が相互に生じたことは間違いないと ころである。」(258頁)

 このように断言され、「そこで、まず大和から筑前に影響を及ぼしたとして(中略)老司式軒瓦の製作開始は692~700年の間となるのである。 (中略)このように、老司式軒瓦の製作開始と藤原宮大極殿瓦の製作開始とは、ほぼ同時期のものとみてよいのである。」とされたのです。ここに大和朝廷一元史観に立つ山崎さんの学問的限界を見て取ることができます。すなわち、逆に「筑前から大和に影響を及ぼした」とする可能性やその検討がスッポリと抜け落ちているのです。
 九州の考古学者からは観世音寺の「老司1式」瓦が「藤原宮式」よりも先行するという見解が従来から示されているのですが、奈良文化財研究所の考古学者には「都合の悪い指摘」であり、見えていないのかもしれません。ちなみに、山崎さんが筑前・肥後・大和の3地域の「有機的関連」と指摘されたのは軒瓦の製作 技法に関することで、次のように説明されています。

 「筑前では、「老司式」軒瓦に先行する福岡市井尻B遺跡の単弁8弁蓮華文軒丸瓦・丸瓦・平瓦では板作りであるが、観世音寺の老司式瓦では紐作りとなり、筑前国分寺創建期の軒平瓦では板作りとなる。
 肥後では、陣内廃寺出土例をみると、創建瓦である単弁8弁蓮華文軒丸瓦、重弧文軒平瓦では板作りであり、老司式瓦では紐作りとなり、その後の均整唐草文軒平瓦の段階でも紐作りが存続している。
 大和では、飛鳥寺創建以来の瓦作りにおいて板作りを行っており、藤原宮の段階において、初めて偏行唐草文軒平瓦の紐作りの瓦が多量に生産される。また、藤原宮と時期的に併行する大官大寺塔・回廊所用の軒平瓦6661Bが紐作りによっている。」(258頁)

 ここでいわれている「板作り」「紐作り」というのは瓦の製作技法のことで、紐状の粘土を木型に張り付けて成形するのが「紐作り」で、板状の粘土を木型に張り付けて成形するのが「板作り」と呼ばれています。山崎さんの指摘によれば、初期は「板作り」技法で、その後に「紐作り」技法へと変化するのですが、その現象が筑前・肥後・大和で「突然一斉に変化する」という事実に着目され、この3地域は有機的な関連を持って生じたと断定されたのです。
 この事実は九州王朝説にとっても重要であり、九州王朝説でなければ説明できない事象と思われるのです。列島の中心権力が筑紫から大和へ交代したとする九州王朝説であれば、うまく説明できますが、山崎さんらのような大和朝廷一元史観では、なぜ筑前・肥後と大和にこの現象が発生したのかが説明できませんし、 現に山崎さんも説明されていません。
 影響の方向性もおかしなもので、なぜ大和から筑前・肥後への影響なのかという説明もなされていません。わたしの研究によれば影響の方向は筑紫から大和です。なぜなら観世音寺の創建が670年(白鳳10年)であることが史料(『勝山記』他)から明らかになっていますし、これは観世音寺の創建瓦「老司1式」 が「藤原宮式」よりも古いという従来の考古学編年にも一致しています。
 したがって、筑前・肥後・大和の瓦製作技法の「有機的相互関連」を示す「突然の一斉変化」こそ、王朝交代に伴い九州王朝の瓦製作技法が大和に伝播し、藤原宮大極殿造営(遷都は694年)のさいに採用されたということになるのです。このように、山崎さんが注目された事実こそ、九州王朝説を支持する考古学的史料事実だったのです。


第803話 2014/10/16

日本古代史学界の「反知性主義」

  佐藤優さんの『「知」の読書術』(集英社、2014年8月)を読みました。現代社会や世界で発生している諸問題を近代史の視点から読み解き、警鐘を打ち鳴らす好著でした。皆さんへもご一読をお勧めします。同書の第四章「『反知性主義』を超克せよ」の「反知性主義は『無知』 とは異なります。」とする次の指摘には深く考えさせられました。

 「誤解のないように言っておくと、反知性主義は「無知」とは異なります。たとえ高等教育を受けていても、自己の権力基盤を強化するために「恣意的な物語」を展開すれば反知性主義者となりうるのです。
反知性主義者に実証的批判を突きつけても、有効な批判にはなりません。なぜなら、彼らにはみずからにとって都合がよいことは大きく見え、都合の悪いことは視界から消えてしまうからです。だから反知性主義者は、実証性や客観性にもとづく反証をいくらされても、痛くも痒くもありません。」(82頁)

 わたしたち古田学派にとって、彼ら(大和朝廷一元史観の古代史学界)が「実証性や客観性にもとづく反証をいくらされても、痛くも痒くも」ない「反知性主義者」であれば、古田先生やわたしたちが提示し続けてきた実証や論証は「都合の悪いこと」であり、「視界から消えてしまう」のです。このような佐藤さんの指摘には思い当たることが多々あります。

 たとえば、『二中歴』に記された九州年号と一致する「元壬子年」木簡(芦屋市出土。白雉元年壬子652年に一致。『日本書紀』の白雉元年は庚戌の年で650年。『日本書紀』よりも『二中歴』等の九州年号に干支が一致しています。)について何度も指摘してきましたが、一切無視されており、近年の木簡関連 の書籍・論文ではこの木簡の存在自体にも触れなくなったり、「元」の字を省いて「壬子年」木簡と恣意的な紹介に変質したりしています。

 あるいは『旧唐書』では、「倭国伝」(九州王朝)と「日本国伝」(大和朝廷)の書き分け(地勢や歴史、人名等あきらかな別国表記)がなされているという古田先生の指摘に対しても、真正面から反論せず、「古代中国人が間違った」などという恣意的な解釈(物語)で済ませています。

 『隋書』イ妥国伝(「イ妥」は「大委」の当て字か)の阿蘇山の噴火記事や、天子の名前が阿毎多利思北孤(男性)であり、大和の推古天皇(女性)とは全く異なり、両者は別の国であるという古田先生の指摘を40年以上も彼らは無視しています。

 考古学の立場から、太宰府の条坊造営が国内最古であることを精緻な調査から示唆された井上信正説が、九州王朝説(太宰府は九州王朝の首都)と整合するというわたしからの主張に対しても沈黙したままです。(注)

 こうした実証性や客観性に基づく反証が、「反知性主義者」には「無効」という佐藤さんの指摘に改めて衝撃を受けたのですが、それならばわたしたち古田学派はなにをなすべきでしょうか。そのヒントも佐藤さんの『「知」の読書術』にありました。(つづく)

(注記)わたしは列島内の条坊都市の歴史として、九州王朝の首都・太宰府条坊都市が7世紀初頭(九州年号の倭京元年・618 年)の造営、次いで九州王朝の副都・難波京(前期難波宮)条坊が7世紀中頃以降の造営、そして7世紀末に大和朝廷の「藤原京」条坊が造営されたと考えています。井上信正説では太宰府条坊と「藤原京」条坊が共に7世紀末頃の造営と理解されているようです。


第802話 2014/10/15

「川原寺」銘土器

の思想史的考察

 明日香村の「飛鳥京」苑地遺構から出土した土器(坏・つき)に記された銘文が話題になっています。新聞記事などによると次のような文が記されています。

 「川原寺坏莫取若取事有者??相而和豆良皮牟毛乃叙(以下略)」

 和風漢文と万葉仮名を併用した文章で、インターネット掲載写真を見たところ、杯の外側にぐるりと廻るように彫られています。文意は「川原寺の杯を取るなかれ、もし取ることあれば、患(わずら)はんものぞ(和豆良皮牟毛乃叙)~」という趣旨で、墨書ではなく、土器が焼かれる前に彫り込まれたようですから、土器職人かその関係者により記されたものと思われます。ということは、当時(7世紀後半頃か)の土器職人は「漢文」と万葉仮名による読み書きができたわけですから、かなりの教養人であることがうかがわれます。
 川原寺の杯を盗るなという警告文ですから、当時も土器を盗む者がいたこと、そして盗む者も「漢文」と万葉仮名の警告文を理解できる程度の教養の持ち主であったことになります。
 恐らくこの「警告文」はこの土器1個だけのためではなく、川原寺に納品する多数の土器を代表して記されたのではないでしょうか。盗難抑止用に全ての土器にこうした不吉な「警告文」を記したら、それら全ての土器がお寺での実用に耐えられませんから、納品に当たり、一番見えやすい場所に梱包された「警告文付き土器」という性格のように思われます。従って、この1個はお寺での実用品とはならず、どういうわけか苑地で使用され、廃棄されたのではないかと推測しています。
 この土器の銘文は当時の土器職人や泥棒の識字力がうかがえるという意味において貴重ですが、わたしが最も注目したのが当時の飛鳥の人々の思想性についてでした。盗難抑止の「警告」として、飛鳥の権力者による「律令」などに基づく法的罰則ではなく、川原寺の宗教的権威や「わずらい」という精神的「脅迫」に頼っているという事実です。当時の飛鳥の人々にとっては「国家権力」よりも宗教的権威・畏れの方が影響力が強かったこと(効果的)を前提とする「警告文」ではないでしょうか。この点、日本思想史学の観点からも貴重な土器なのです。
 さて、そうなると「飛鳥京」苑地で川原寺から持ち出されたこの土器を使用した人は、川原寺の宗教的権威を畏れなかったのでしょうか。わたしの想像では、川原寺での使用をもともと前提としていない「警告」用のこの土器を川原寺からもらい受けたのではないでしょうか。そうでなければ、「警告文」付きの「わず らう」かもしれないこの土器を、他者の目をはばからずに使用することなどできなかったと思うのです。貴族の集う苑地に不吉な「警告文」付きの杯を使用するのですから、川原寺から盗んだのではなく、正式にもらい受けたと自他共に認められていたのではないかと思います。
 以上、「川原寺」銘土器について考察してきましたが、わたしはまだ実物を見ていませんから、この目で見たうえで改めて見解を述べたいと思います。現時点ではわたしの作業仮説(思いつき)にすぎないと、ご理解ください。実物を見ることができれば、更に多くの知見や理解が得られると思います。楽しみです。


第798話 2014/10/04

火山列島の歴史と悲劇

 御嶽山噴火により大勢の犠牲者が出ました。心よりご冥福をお祈りします。火山列島に住むわたしたち日本人の悲劇と言わざるを得ませんが、噴火予知連絡会々長の東大教授のテレビでの発言と態度には驚きを通り越し、怒りさえ覚えました。
 マスコミは噴火を「予知できない」ということを問題にしているようですが、それはおかしいと思います。今回の悲劇は「予知できない」ことが問題ではなく、「予知した」ことが問題の本質です。当時、御嶽山は「レベル1」(安全に登山できる)と「予知」されていたのです。しかし、事実は連絡会々長の東大教授がテレビで開き直っていたように、御嶽山の噴火は「予知できない」ということだったのですから、予知できないのにレベル1と「予知した」ことが問題の本質なのです。レベル1という「予知」を信じて登山した多くの方々が犠牲となれらたのですから。(日本の火山で比較的「予知できる」のは北海道の有珠山など わずかのようです)
 学者はできないことをできると言ってはなりません。わからないことをわかると言ってはなりません。安全ではないものを安全と言って福島原発は爆発したのですから、御用学者がどれほど社会に悲劇をもたらすのかを日本人は知ったはずです。噴火を予知できないのなら、「レベル1」などと言ってはならず、「レベ ル」付けすることをも、真の学者なら「予知できないのだから、してはならない」と言うべきなのです。
 その東大教授が国からどのくらい「お金」をもらっているのかは知りませんが、あまりにも不誠実です。学者としての倫理観を疑わざるを得ません。少なくともわたしが見たテレビ放映では一言も謝罪していませんでした。「予知できないのだから登山した者の自己責任」と言わんばかりの口調でした。
 さらに不可解なのがマスコミの姿勢です。何の犯罪も犯しておらず、誰一人として被害にあっていないにもかかわらず、小保方さんや笹井さんに対しては叩きに叩き、小保方さんを女子トイレまで追いかけ回し全治二週間の怪我を負わせ、笹井さんを自殺に追い込みました。NHKや関西民放、毎日新聞を筆頭とするそのマスコミは、御嶽山噴火で大勢の犠牲者を出したのに相手が東大教授だと、見て見ぬふりです。「理研を解体しろ」と言ったのなら「予知連絡会を解体しろ」と言うべきです。NHK・マスコミの見識を疑います。
 日本列島の歴史が火山噴火と深くかかわってきたことを古田先生はたびたび指摘されてきました。たとえば、世界最古の土器「縄文式土器」が日本列島で誕生したことは偶然ではなく、火山の影響によるとの論理的仮説を発表されました。すなわち、火山の熱が土を堅くするという「天然の窯」の現象を見る機会があった日本列島の人々だからこそ、火山をお手本にして他の地域に先駆けて土器を造ることができたのではないかと古田先生は考えられたのです。
 そしてその縄文式土器が中南米(ペルー・エクアドル・他から出土しています)まで伝播したのも、火山噴火により日本列島から船で中南米まで脱出した縄文人がいたことが発端になったのではないかと考えられました。
 また、古代文明が筑紫や出雲で花開いた理由の一つが、南九州での火山噴火により西日本の広い地域に火山灰(アカホヤなど)が降り注いだことではないかとされました。その火山灰の被害をまぬがれたのが西日本では北部九州(筑紫)と出雲地方だったからです。
 古代史で火山といえば『隋書』イ妥国伝の「阿蘇山あり。その石、故なくして火起こり天に接す」の一文が有名でしょう。火山噴火の様子がリアルに表現されています。このように九州王朝は火山と「共存」してきたのです。歴史学でも火山学でも、真実を語る真の研究者・学者が御用学者に取って代わり、日本の学問 の主流となる日を目指して、わたしたち古田学派は歩んでいきたいと思います。


第795話 2014/09/29

沖ノ島の三角縁魚文帯神獣鏡

 内閣文庫本『伊予三島縁起』の写真や『通典』のコピーを送っていただいた齊藤政利さん(古田史学の会・会員、多摩市)から、今年8月に東京の出光美術館で開催された「宗像大社国宝展」の展示品図録が送られてきました。9月の関西例会後の懇親会で同展示会についてお聞きしていましたが、その図録を早速送っていただきました。有り難いことです。
 「海の正倉院」と呼ばれる沖ノ島ですが、古田先生も早くから注目され、『ここに古代王朝ありき — 邪馬一国の考古学』(朝日新聞社・1979年)の「第四部第二章 隠された島」で取り上げられています。
 同図録で注目したのが沖ノ島出土と旧個人蔵(伝沖ノ島出土)の2面の三角縁魚文帯神獣鏡でした。解説では古墳時代(四世紀)の国産鏡とされています。 「魚文帯」という鏡をわたしは初めて知ったのですが、今まで見た記憶がありませんから、珍しい文様ではないでしようか。インターネットで検索したところ、 佐賀県伊万里市の杢路寺(むくろじ)古墳から出土した三角縁神獣鏡の外帯に「双魚」と「走獣」が配置されており、これも三角縁魚文帯神獣鏡の一種といえるのかもしれません。杢路寺古墳は4世紀末頃の前方後円墳とされていますから、沖ノ島の三角縁魚文帯神獣鏡とほぼ同時代のようです。
 魚の文様がある三角縁神獣鏡は、古田先生が『ここに古代王朝ありき』で取り上げられた「海東鏡」があります(大阪府柏原市・国分神社蔵)。しかし、魚は一匹だけでその位置も外帯ではありませんから三角縁魚文帯神獣鏡とはいえません。
 もしこの珍しい三角縁魚文帯神獣鏡が沖ノ島や伊万里市など北部九州に特有のものであれば、それは九州王朝との関係を考えなければなりません。魚の銀象嵌で有名な江田船山古墳の鉄刀も、共通の意匠としてとらえることが可能かもしれません。おそらく海洋や漁労に関わる王者のために作られた鏡ではないでしょう か。三角縁魚文帯神獣鏡については引き続き調査したいと思います。


第794話 2014/09/28

東海道新幹線開業50周年雑感

 今年の10月で東海道新幹線は開業50周年を迎えます。わたしが小学生のときの開業で「夢の超特急ひかり号」のテレビ映像は今でもよく覚えています。今は出張で年間100回以上は新幹線を利用していますが、早いし安全で快適ですから、新幹線はとても重宝しています。
 お聞きしたところでは、古田史学の会の水野代表は現役時代(日本ペイント)に新幹線の塗料の開発に関わられ、試作車両の塗装に立ち合い、開業初日に乗車されたとのこと。時速200kmで走る車体の塗装ですから、衝撃に耐える厚みや、日光(紫外線)に耐える耐光堅牢度、そして風雨にさらされても錆びない、 汚れにくい、洗浄で汚れが落ちやすいなどという、かなり困難な諸条件をクリアさせなければなりませんから、とても困難な塗料開発と塗装技術開発だったことがうかがわれます。わたしも仕事で染料や機能性色素開発に関わっていますから、50年前の化学技術水準を考えると、そのご苦労が忍ばれます。
 東海道新幹線の「東海道」という名称は古代の官道に由来しているのですが、その出発点が近畿ですので、九州王朝滅亡後に近畿天皇家による命名と考え来ました。しかし、前期難波宮九州王朝副都説により、7世紀中頃(評制施行時期)であれば九州王朝による命名とできるかもしれません。肥沼孝治さん(古田史学 の会・会員、所沢市)が九州王朝による古代官道造営説を研究されています。この命名主体について、古田学派内での研究の進展が期待されます。