考古学一覧

第669話 2014/03/01

前期難波宮「難波長柄豊碕」説の問題点

 今朝は博多に向かう新幹線の車中で書いています。午後は九州国立博物館で古田先生や合田洋一さん(古田史学の会・四国)らと合流し、「国宝大神社展」を見学します。明日はアクロス福岡で古田先生の講演と筑紫舞を拝観します。納音(なっちん)付き九州年号史料をご紹介いただいた菊水史談会の前垣さん ともお会いする予定です。

 さて、第668話で紹介しました直木孝次郎さんの次の説ですが、

 「前期難波宮が首都として造営されたとすると、難波長柄豊碕宮と考えるのがもっとも妥当であろう。孝徳朝に突如このような壮大な都宮の営まれることに疑惑を抱くむきもあるかもしれないが、すでに説いたように長柄豊碕宮は子代離宮小郡宮等の造営の試行をへ、改新政治断行の四、五年のちに着工されたの であろうから、新政施行に見合うような大きな構想をもって企画・設計されたことは十分に考えられる。」

 とされたように、直木さんは白雉改元の宮殿を小郡宮とされ、『日本書紀』白雉元年条(650)に記されたその改元の儀式が可能な規模の宮殿であったとされています。従って、その小郡宮の造営などを背景にして更に大規模な前期難波宮が造営されたとし、「大和朝廷」の宮殿発展史の矛盾を解消されようとしたのです。
 直木さんをはじめ、通説派の論者が前期難波宮を難波長柄豊碕宮に比定したのは、『日本書紀』白雉三年条(652)に見える「たとえようのないほどの立派な宮殿が完成した」という記事にふさわしい大規模な宮殿が、法円坂から出土した前期難波宮しか難波にはなかったことによります。そうすると、今度は『日本 書紀』白雉元年条(650)の白雉改元の儀式を行った宮殿を前期難波宮以外(以前)に求めざるを得なくなったのです。そのため、直木さんはまだ発見もされ ていない「小郡宮」を白雉改元の宮殿と見なし、それは『日本書紀』に記されたような白雉改元の儀式が可能な規模の宮殿であったはずと、考古学的根拠もない まま主張されたのです。この点、他の通説派の論者も似たり寄ったりの立場です。
 この通説派の矛盾と限界の原因は、『日本書紀』の白雉年号が九州年号の白雉を二年ずらして盗用したことよります。『二中歴』などの九州年号「白雉」の元年は652年で、『日本書紀』の白雉元年は650年です。従って、本来は九州年号の白雉元年(652)に行われた大規模な白雉改元の儀式はその年に完成した「たとえようのないほど立派な宮殿」すなわち前期難波宮で行われていたとすればよかったのですが、白雉改元記事がその二年前に『日本書紀』に盗用挿入さ れたため、その記事(内容と年次)を信用する一元史観の通説派は白雉改元の宮殿を未完成の前期難波宮とするわけにはいかなくなったのです。かといって、九 州年号の白雉元年(652)に改元儀式が行われたことを認めれば、とりもなおさず九州年号と九州王朝を認めることになり、これもまた一元史観の通説派には 到底できないことなのです。ここに、通説派による無理・矛盾の根本原因があるのです。


第668話 2014/02/28

直木孝次郎さんの「前期難波宮」首都説

 大阪市中央区法円坂から出土した宮殿遺構「前期難波宮」を九州王朝の副都とする私に対して、西村秀己さん(「古田史学の会」全国世話人)からは、 副都ではなく首都であると度々厳しいご批判をいただいています。西村さんの批判の根拠は、そこに天子がいて白雉改元の儀式をしているのだから、首都とみなすべきだというものです。正木裕さん(「古田史学の会」全国世話人)も一時は首都機能を持っていたという立場の説を発表されています。それは『日本書紀』で 「凡そ都城・宮室、一処に非ず、必ず両参造らむ。故、先づ難波に都造らむと欲す。」というのは、明確に「副都詔」と言えるからです。
 近畿天皇家一元史観では、前期難波宮は『日本書紀』孝徳紀に見える孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」としていますから、前期難波宮は「大和朝廷」の首都と当然のように見なしています。この通説の「前期難波宮」大和朝廷首都説を、直木孝次郎さんはその宮殿の規模・様式を根拠に次のように主張されています。

 「周知のように藤原宮朝堂院も、平城宮第二次朝堂院も、いずれも十二朝堂をもつ。平城宮第一次朝堂院はやや形態をことにして十二朝堂ではないが、 一般的には十二朝堂をもつのが朝堂院の通常の形態で、長岡京朝堂院が八朝堂であるのは、簡略型・節約型であるとするのが、従来の通説であった。この通説からすると、後期難波宮の八堂というのは、簡略・節約型である。なぜそうしたか。奈良時代の首都である平城京に対し、難波京は副都であったから、十二堂を八 堂に減省したのであろう。(中略)
 首都十二堂に対し副都八堂という考えが存したとすると、前期難波宮が「十二の朝堂をもっていた」すなわち十二堂であったという前記の発掘成果は、前期難波宮が副都として設計されたのではなく、首都として設計・建設されたという推測をみちびく。
 もし前期難波宮が天武朝に、首都である大和の飛鳥浄御原宮に対する副都として造営されたなら、八堂となりそうなものである。浄御原宮の遺跡はまだ明確ではないが、現在有力視されている明日香村岡の飛鳥板蓋宮伝承地の上層宮跡にしても、他の場所にしても、十二朝堂をもっていたとは思われない。そうした浄御原宮に対する副都に十二朝堂が設備されるであろうか。前期難波宮が天武朝に造営されたとする意見について、私はこの点から疑問を抱くのである。
 前期難波宮が首都として造営されたとすると、難波長柄豊碕宮と考えるのがもっとも妥当であろう。孝徳朝に突如このような壮大な都宮の営まれることに疑惑 を抱くむきもあるかもしれないが、すでに説いたように長柄豊碕宮は子代離宮小郡宮等の造営の試行をへ、改新政治断行の四、五年のちに着工されたのであろう から、新政施行に見合うような大きな構想をもって企画・設計されたことは十分に考えられる。(中略)
 〔追記〕本章は一九八七年に執筆・公表したものであるが、一九八九年(平成元年)の発掘の結果、前期難波宮は「従来の東第一堂の北にさらに一堂があるこ とが判明し、現在のところ少なくとも一四堂存在したことがわかった」(中尾芳治「難波宮発掘」〔直木編『古代を考える 難波』吉川弘文館、一九九二年〕) という。そうならば、ますます前期難波宮は副都である天武朝の難波の宮とするよりは、首都である孝徳朝の難波の長柄豊碕宮と考えた方がよいと思われる。」 直木孝次郎『難波宮と難波津の研究』(112ページ。吉川弘文館、1994年)

 この直木さんの文章は近畿天皇家一元史観の限界とともに重要な示唆を含んでいます。十二朝堂を持つ首都に対して、八朝堂の宮殿を副都とみなすという視点は注目されます。このことなどを理由に直木さんは前期難波宮を天武朝ではなく孝徳朝の首都とされているのですが、この問題を九州王朝説の視点から見れば、西村秀己さんや正木裕さんが主張されるように、前期難波宮は九州王朝の首都とする見解も有力と言わざるを得ません。
 近畿天皇家一元史観において、前期難波宮を孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」と理解したときに避け難く発生する問題についても、直木さんは正直に「告白」されています。「孝徳朝に突如このような壮大な都宮の営まれることに疑惑を抱くむきもあるかもしれない」とされた箇所です。この点こそ、わたしが前期難波宮九州王朝副都説に至った理由の一つだったのです。
 近畿天皇家の宮殿の発展史からすると、前期難波宮の存在は説明困難な異常な状況なのです。皇極天皇の比較的小規模な明日香の宮殿から、次代の孝徳天皇がいきなり巨大な朝堂院様式の宮殿を造営し、その次の斉明天皇の時代にはまた小規模で朝堂院様式ではない明日香の宮殿に戻るという変遷が理解不能・説明困難となるのです。そのため直木さんは「長柄豊碕宮は子代離宮小郡宮等の造営の試行をへ、改新政治断行の四、五年のちに着工されたのであろう」と考古学的根拠 が皆無(子代離宮・小郡宮は発見されていない。この点、別に論じます)であるにもかかわらず、このような「言い訳」をせざるを得なくなっているのです。こ の点こそ、一元史観では説明困難な前期難波宮の「謎」なのです。(つづく)


第667話 2014/02/27

前期難波宮木柱の酸素同位体比測定

 西井健一郎さん(「古田史学の会」全国世話人、大阪市)から郵便物が届きました。表に「朗報・新聞在中」と書いてありましたので、なんだろうと思いながら開けてみますと、「読売新聞」(2014.02.25)が入っていました。『難波宮跡の柱「7世紀前半」・・・新手法で年代特定』という大きな見出しが目に飛び込み、記事を読んで驚きました。ちょうど当日は名古屋出張のため、新聞を見ていなかったので、大変ありがたい「朗報」でした。
 まずわたしが驚いたのは、「年輪セルロース酸素同位体比法」という、樹木の年代を測定する新技術でした。わたしは初めて知った技術です。インターネットでは次のように説明されています。転載します。

 酸素原子には重量の異なる3種類の「安定同位体」がある。木材のセルロース(繊維)中の酸素同位体の比率は樹木が育った時期の気候が好天だと重い原子、雨が多いと軽い原子の比率が高まる。酸素同位体比は樹木の枯死後も変わらず、年輪ごとの比率を調べれば過去の気候変動パターンが分かる。これを、あらかじめ年代が判明している気温の変動パターンと照合し、伐採年代を1年単位で確定できる。

 以上のような新技術ですが、たしかにこの方法なら原理的に1年単位で木材の年代決定が可能です。本当に科学技術の進歩はすごいですね。もちろん、 新技術には予期せぬ問題点の発生という、発展途上技術として避けられない「未完熟性」のリスクがありますので、今後のデータ蓄積や他の年代測定方法とのクロスチェックによる精度と信頼性の向上が待たれます。
 新聞報道によれば、難波宮から出土した柱を酸素同位体比法で測定したところ、7世紀前半のものとわかったとのこと。この柱材は2004年の調査で出土したもので、1点(直径約31センチ、長さ約126センチ)はコウヤマキ製で、もう1点(直径約28センチ、長さ約60センチ)は樹種不明。最も外側の年輪はそれぞれ612年、583年と判明しました。伐採年を示す樹皮は残っていませんが、部材の加工状況から、いずれも600年代前半に伐採され、前期難波宮北限の塀に使用されたとみられるとのことです。
 従来の年輪年代法は年輪幅のデータがそろっている杉、ヒノキにしか使えませんが、酸素同位体比法では樹種に関係なく、同年代なら同じ同位体残存率を示すことが確認されているそうです。
 3月15日午後1時半から、大阪府河南町の府立近つ飛鳥博物館で成果報告会が行われるとのことですが、残念ながら当日は関西例会と重なっているため、わたしは参加できません。どなたか参加されましたら、4月の関西例会で報告していただければありがたいのですが。今回、明らかとなった木柱の年代がどのような意味を持つのか、どのような展開をもたらすのかを、これから深く考えてみます。


664話 2014/02/20

難波京に7世紀中頃の
条坊遺構(方格地割)出土

 大阪文化財研究所が発行している『葦火』166号(2013年10月)によると、難波京に7世紀中頃(孝徳朝)の条坊遺構(方格地割)が出土したことが報告されました(「孝徳朝難波京の方格地割か ~上本町遺跡の発掘から~」高橋工)。
 大阪市中央区法円坂にある宮殿遺構(前期難波宮と後期難波宮の二層からなる遺構)を中心とする難波京に条坊があったのかどうか、あったとすれば孝徳期 (7世紀中頃)の前期難波宮の頃からか、聖武天皇(8世紀初頭)の後期難波宮の頃からなのかという論争が続けられてきましたが、今回の発見で結論が出るかもしれません。
 ちなみに一元史観の通説では前期難波宮を「孝徳紀」に見える孝徳の宮殿「難波長柄豊碕宮」とされていますが、法円坂と長柄・豊碕(豊崎)は場所が異なっていることから、古田先生や西村秀己さんは前期難波宮は「難波長柄豊碕宮」ではないとされています。わたしもこの意見に賛成です(直線距離ではありません が、中央区法円坂と北区豊崎とは地下鉄の駅で5駅も離れています。中央線・谷町四丁目駅~御堂筋線・中津駅)。前期難波宮の上層遺構である後期難波宮は聖武天皇の宮殿で、『続日本紀』では一貫して「難波宮」と記されており、「難波長柄豊碕宮」とは呼ばれていないという史料事実も、このことを支持していま す。
 わたしは、前期難波宮九州王朝副都説の立場から、前期難波宮の頃には部分的であるにせよ、条坊が造られたのではないかと考えてきました。何故なら、九州王朝は条坊都市「太宰府」を7世紀初頭(九州年号「倭京元年」618年)に造営していますから、当然難波副都にも条坊を造るであろうと考えたからです。
 『葦火』166号で紹介された条坊遺構(方格地割)は二層からなっている「溝」の遺構で、条坊(方格地割)と位置が一致していることから条坊道路の側溝と見られています。遺構の概況は、下層の溝が埋められ、その盛土層を掘って上層の溝が造られています。出土土器の検討から、上層の溝からは8世紀の土器 が、盛土層からは7世紀後葉の特徴を持つ土器が出土しています。下層の溝の遺構からは時期を特定できる土器は出なかったそうですが、盛土層の土器より古い時代ですから、「孝徳朝難波京」の頃(7世紀中頃)と判断されました。結論として、「(下層の溝)は天武朝より古く、最初に難波宮が造られた孝徳朝に遡る 可能性が高いと考えられるのです。」とされています。
 詳細な報告書を待ちたいと思いますが、難波京が条坊都市であったとすれば、九州王朝の首都である条坊都市「太宰府」に対応した、副都にふさわしい規模と様式であると思われます。


第659話 2014/02/09

名古屋市博物館「文字のチカラ」展

 「洛中洛外日記」657話で紹介しました名古屋市博物館「文字のチカラ」展で すが、『古事記』真福寺本以外にも、大須観音(真福寺)所蔵の国宝『漢書』食貨志や、「大宝二年御野国加毛郡半布里戸籍断簡」(個人蔵)も出展されており、大きな規模ではないのですが、出色の展示会です。金石文でも「王賜銘鉄剣」(千葉県市原市稲荷台1号墳出土)の他、複製品ではありますが、「七支刀」 「江田船山古墳出土大刀」「『各田部臣』銀象眼大刀」などが展示されています。
 展示以外に感心したのが、会場で販売されている展示解説図録『文字のチカラ』です。カラー写真満載の160頁で価格は1000円。資料としてとても良いものでした。解説の内容は一元史観に基づいていますから、この点は割り引く必要がありますが。
 同展示会は2月16日までです。東海地区の皆さんには特におすすめです。


第656話 2014/02/02

学問に対する恐怖

 最近、中部大学教授の武田邦彦さんがご自身のブログで「学問に対する恐怖」という表現を使用して、地球温暖化説が観測事実に基づいていない、あるいは故意に温暖化説に都合の悪いデータ(この15年間、地球の平均気温は上昇していない、等)を無視しているとして、不勉強な気象予報士や御用学者の「解説」を批判されていました。
 良心的な科学者であれば、地球温暖化説に不利な観測データを無視できないはず。温暖化説など怖くて発表できないはずと述べられているのですが、武田さんはこのことを「学問に対する恐怖」という表現で表しておられました。これは「真実に対する恐怖」と言い換えてもよいかもしれません。
 この「学問に対する恐怖」という表現は、わたしにもよく理解できます。新しい発見に基づいて新説を発表するとき、本当に正しい結論だろうか、論証に欠陥や勘違いはないだろうか、史料調査は十分だろうか、既に同様の先行説があるのではないか、などと不安にかられながら発表した経験が何度もあったからです。 中でも前期難波宮九州王朝副都説の研究の時は、かなり悩みました。『日本書紀』孝徳紀に記されたとおりの宮殿が出土したのですから、その前期難波宮を遠く 離れた九州王朝の副都とする新説を発表することが、いかに「学問的恐怖」であったかはご理解いただけるのではないでしょうか。
 当初、怖くてたまらなかった前期難波宮九州王朝副都説でしたが、その後の論証や史料根拠の増加により、今では確信を持つに至っています。何よりも、未だに「なるほど」と思えるような有効な反論が提示されていないことからも、今では有力な仮説と自信を深めています。
 前期難波宮九州王朝副都説への批判や反論は歓迎しますが、その場合は次の2点について明確な回答を求めたいと思います。

 1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
 2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。

 この二つの質問に答えていただきたいと思います。近畿天皇家一元史観の論者であれば、答えは簡単です。すなわち、孝徳天皇が評制により全国支配した宮殿である、と答えられるのです。しかし、九州王朝説論者はどのように答えられるのでしょうか。わたしの知るところでは、上記二つの質問に明確に答えら れた九州王朝説論者を知りません。
 7世紀中頃としては最大規模の宮殿である前期難波宮は、後の藤原宮や平城宮の規模と遜色ありません。藤原宮や平城宮が「全国」支配のための規模と様式を持った近畿天皇家の宮殿であるなら、それとほぼ同規模で同じ朝堂院様式の前期難波宮も、同様に「全国」支配のための宮殿と考えるべきというのが、避けられない考古学的事実なのです。
 この考古学的事実に九州王朝説の立場から答えられる仮説が、わたしの前期難波宮九州王朝副都説なのです。自説に不利な考古学的事実から逃げることなく、 学問への恐怖に打ち震えながらも、学問的良心に従って、反論していただければ幸いです。真摯な論争は学問を発展させますから。


第646話 2014/01/21

須恵器の飛鳥編年と難波編年

 1月18日、新年最初の関西例会が開催されました。初参加の方もあり、関西例会らしい活発な論議が交わされました。
 中国曲阜市から一時帰国されている青木さんからは、孔子の弟子に倭人がいたとする報告がなされ、曲阜地域から出土している「縄文土器」が日本の縄文式土器ではないかと指摘されました。縄文式土器は中南米からも出土していますから、隣国の中国から出土しても不思議ではありません。同「縄文土器」と日本の縄文式土器との様式比較や編年など、これからの調査研究が楽しみなテーマです。
 服部さんからは、前期難波宮造営を孝徳期ではなく天智期頃とする白石さんの論文「須恵器編年と前期難波宮」の分析と解説がなされ、『日本書紀』などを根拠に5~10年単位での須恵器編年が可能とする白石さんの「飛鳥編年」の根拠が脆弱なこと、出土須恵器の取り扱いが恣意的であることなどをわかりやすく説明されました。
 「飛鳥編年」に対しては、わたしも同様の疑問を感じていましたが、服部さんの報告はそのことが大変わかりやい資料やデータで示されており、参考になりました。やはり「飛鳥編年」よりも、大阪歴博の研究者たちが提起している「難波編年」の方がより科学的(年輪年代測定や干支木簡なども根拠として成立)で論理的(考古学と文献の一致など)と思われました。前期難波宮造営が7世紀中頃とする説は最有力と思います(そもそも『日本書紀』にもそう書いてありますし、その件に関して『日本書紀』編者が嘘をつく必要もありません)。
 1月例会の報告は次の通りでした。

〔1月度関西例会の内容〕
1). 孔子の弟子の中に、倭人が在り(中国曲阜市・青木英利)
2). 後漢書のイ妥国伝(木津川市・竹村順弘)
3). 「須恵器編年と前期難波宮」白石太一郎氏の提起を考える(八尾市・服部静尚)
4). 大宰府政庁2期整地層の須恵器杯Bの編年(京都市・古賀達也)
5). 徳川道(明石市・不二井伸平)
6). 明石二見港の歴史と工楽松右衛門(明石市・不二井伸平)
7). 「筑紫なる日向」を前提としたウガヤフキアエズの陵墓と神武の妻(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況・会務報告・新年賀詞交換会の報告・初詣(比売神社・春日大社・東大寺)・芭蕉句碑の確認「水取りや 籠り(「氷」?)の僧の 沓の音・東 大寺二月堂のお水取り「2月12日」は長屋王が殺された日(殺した側の「懺悔の日」の行事ではないか。長屋王は九州王朝系の人物ではなかったか。)・東大寺ミュージアム訪問・阿武山古墳シンポジウム・『藤氏家伝』(伏見宮家本)では藤原鎌足は火葬・その他


第633話 2013/12/12

「はるくさ」木簡の出土層

 「洛中洛外日記」第420話で、難波宮南西地点から出土した「はるくさ」木簡、すなわち万葉仮名で「はるくさのはじめのとし」と読める歌の一部と思われる文字が記された木簡が、前期難波宮整地層(谷を埋め立てた層)から出土していたと述べました。

 このことについて、するどい研究を次々と発表されている阿部周一さん(「古田史学の会」会員、札幌市)からメールをいただきました。その趣旨は「はるくさ」木簡は前期難波宮整地層からではなく、その整地層の下の層から出土したのではないかというご指摘でした。私の記憶では、大阪歴史博物館の学芸員の方から、「前期難波宮整地層(谷を埋め立てた層)から出土」とお聞きしていましたので、もう一度、大阪歴博の積山洋さんにおうかがいしてきました。

 積山さんの説明でも、同木簡は前期難波宮造営のために谷を埋め立てた整地層からの出土とのことでしたが、念のために発掘を担当した大阪市文化財協会の方をご紹介していただきました。大阪歴博の近くにある大阪市文化財協会を訪れ、ご紹介いただいた松本さんから詳しく同木簡の出土状況をお聞きすることができ ました。

 松本さんのお話しによると、同木簡が出土したのは第7層で、その下の第8層は谷を埋め立てた層で、埋め立て途中で水が流出したようで、その水により湿地層となったのが第7層とのことでした。水の流出により一時休止した後、続いて埋め立てられたのが第6層で、通常この層が前期難波宮「整地層」と表記されて いるようでした。しかし、第6層、第7層、第8層からは同時期(640~660年)の土師器・須恵器が出土していることから、いずれも前期難波宮造営時代 の地層とのことでした(埋め立てに何ヶ月、あるいは何年かかったかは遺構からは不明)。
松本さんからいただいた当該報告書『難波宮跡・大阪城跡発掘調査(NW06-2)報告書』にも、第6層を「整地層」、第7層を「湿地の堆積層」、第8層を「谷の埋め立て層」と表記されており、いずれも七世紀中頃の須恵器・土師器の出土が記されています。

 以上のことから、結論としては「はるくさ」木簡の出土は、前期難波宮造営の為に谷を埋め立てた整地層からとしても必ずしも間違いではなさそうですが、正確には「整地の途中に発生した湿地層からの出土」とすべきようです。この湿地層にあったおかげで同木簡は腐らずに保存されたのでした。

 阿部さんのするどいご指摘により、今回よい勉強ができました。感謝申し上げます。学術用語はもっと用心して正確に使用しなければならないと、改めて思いました。


第626話 2013/11/30

「学問は実証よりも論証を重んじる」(5)

 観察の結果、確認した「大化五子年」という直接証拠(一次史料)に基づく「実証」結果と、『二中歴』などの後代史料(二~三次史料)を史料根拠として成立したそれまでの九州年号論の「論証」結果が一致しない今回の場合、とるべき学問的態度として、わたしは次の三つのケースを検討しました。
 第一は、これまでの九州年号論(主に史料批判や論証に基づく仮説体系)を見直し、「大化五子年」土器に基づいて九州年号原型論を再構築する。第二は、「大化五子年」土器が誤りであることを論証する。第三は、これまでの九州年号論と「大化五子年」土器の双方が矛盾なく成立する新たな仮説をたて論証する。 この三つでした。
 一緒に「大化五子年」土器を調査した安田陽介さんが主張されたのが第一の立場で、後代史料よりも同時代金石文や同時代史料に立脚して九州年号原型論を構築すべきというものでした。これは歴史学の方法論として真っ当な考えですが、わたしはこの立場をとりませんでした。何故なら、他の九州年号金石文(鬼室集 斯墓碑銘「朱鳥三年戊子」など)や『二中歴』を中心とする九州年号群史料の史料批判の結果、成立し体系化されてきた、それまでの九州年号論の優位性は簡単には崩れない、覆せないと判断していたからでした。
 第二の立場もまた取り得ませんでした。同土器が地元の考古学者により7世紀末から8世紀初頭のものと編年されており、同時代金石文であることを疑えなかったからです。また、「同時代の誤刻」(古代人が干支を一年間違って記した)とする、必要にして十分な論証も不可能と思ったからです。
 その結果、わたしがとった立場は第三のケースを史料根拠に基づいて論証することでした。そして結論として、「大化五子年」土器が出土した地域では、九州王朝中枢で使用されていた暦とは干支が一年ずれた別の暦が使用されていたとする史料根拠に基づいた仮説を提起、論証したのでした。詳しくは『「九州年号」 の研究』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房刊)所収の拙論「二つの試金石 — 九州年号金石文の再検討」をご参照ください。
 この「大化五子年」土器のケースのように、同時代金石文という直接証拠を検証したうえでの「実証」と、それまでの「論証」がたとえ対立していたとしても、「学問は実証よりも論証を重んじる」という村岡先生の言葉を貫くことが、いかに大切かをご理解いただけるのではないでしょうか。「論証」を重視したからこそ、古代日本における「干支が一年ずれた暦の存在」という新たな学問的視点(成果)を得ることもできたのですから。(つづく)


第625話 2013/11/26

「学問は実証よりも論証を重んじる」(4)

 「洛中洛外日記」第624話で紹介した「元壬子年」木簡(九州年号の「白雉元年壬子」、652年)の事例は、実証(文字判読結果)そのものの不備・誤りを、学問的論証結果を重視したために実施した再調査により発見できたという、比較的わかりやすいケースでした。その意味では「足利事件」も、論理的に考えて冤罪であるとする弁護団の主張が受け入れられ、科学技術が進歩した時点でDNA再鑑定したことにより、当初の鑑定の誤りを発見できたのであり、よく似たケースといえます。
 しかし、「学問は実証よりも論証を重んじる」という村岡先生の言葉を理解するうえで、わたしはもっと複雑な学問的試練に遭遇したことがありました。今回はそのことについて紹介します。
 それは「大化五子年」土器の調査研究の経験です。茨城県岩井市から江戸時代(天保九年、1838年)に出土した土器に「大化五子年二月十日」という線刻文字があり、地元の研究者から専門誌に発表されていました。学界からは無視されてきた土器ですが、古田先生は九州年号「大化」が記された本物の同時代金石文ではないかと指摘されていました(『日本書紀』の大化五年(649)の干支は「己酉」で、その大化年間(645~649)に「子」の年はない)。
 ところが、九州年号史料として最も原型に近いと考えていた『二中歴』によれば、大化五年(699)の干支は「己亥」で、「子」ではありません。翌年の700年の干支が「庚子」であり、干支が1年ずれていたのです。もし、この土器が同時代金石文であり、「大化五子年」と間違いなく記されていたら、『二中歴』の九州年号を原型としてきたこれまでの九州年号研究の仮説体系や論証が誤っていたということになりかねません。そこでわたしは1993年の春、古田先生・安田陽介さんと共に茨城県岩井市矢作の冨山家を訪問し、その土器を見せていただき、手にとって観察しました。
 観察の結果、「子」の字が意図的な磨耗によりほとんど見えなくなっていることがわかりました。おそらく、『日本書紀』の大化五年の干支「己酉」とは異なるため、出土後に削られたものと思われました。しかしよく見ると、かすかではありましたが、「子」の字の横棒が残っており、やはり「子」であったことが確認できました。この土器は同地域の土器編年により、7世紀末頃のものとされていることから、まさに同時代金石文なのです。そうした第一級史料が『二中歴』 などの後代史料と異なっているため、同時代史料を優先するという歴史学の方法論からすれば、従来の九州年号研究による諸仮説や論証が間違っていたことにな るのです。すなわち、ここでも「大化五子年」土器という「実証」結果が、それまでの九州年号論という「論証」結果と対立したのです。(つづく)


第624話 2013/11/24

「学問は実証よりも論証を重んじる」(3)

 村岡典嗣先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んじる」の意味を深く実感できた学問的経験が、わたしにはありました。それは「元壬子年」木簡(九州年号の「白雉元年壬子」、652年)の発見のときです。
 長期間にわたる九州年号研究の成果として、『二中歴』(鎌倉時代初期成立)に見える「年代歴」の九州年号群が最も真実に近いとする原型論が史料批判や論証の結果、成立したのですが、その「白雉」年号の元年は壬子の年(652)で、『日本書紀』孝徳紀の白雉元年(650)とは二年の差がありました。従って、『日本書紀』孝徳紀の「白雉」は本来の九州年号「白雉」を2年ずらして盗用したものとする結論に至りました。
 ところが、芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した木簡に「三壬子年」という紀年銘があり、奈良文化財研究所の「木簡データベース」では『日本書紀』孝徳紀の白雉三年壬子(652)の木簡とされ、『木簡研究』に掲載された「報告書」でも「白雉三年壬子(652)」とされていました。この発掘調査報告書(実証) を読んだわたしは驚きました。これまでの九州年号研究の成果(論証)を否定し、『日本書紀』孝徳紀の「白雉」が正しいとする内容だったからです。しかも、 同時代の木簡という第一級史料だけに、鎌倉時代初期成立の『二中歴』よりもはるかに有力な「実証力」を有する「直接証拠」なのです。
 永年の九州年号研究の結果、成立した仮説(論証)と、同時代史料の木簡の記述(実証)とが対立したのですから、わたしがいかに驚き悩んだかはご理解いただけることと思います。そこで、わたしが行ったのは、「論証」結果を重んじ、「実証(木簡)」の方の再検証でした。兵庫県教育委員会に同木簡の実見・調査の許可申請を行い、調査団を組織し光学顕微鏡や赤外線カメラを持ち込み、2時間にわたり調査しました。その結果、それまで「三」と判読されていた字が、実は「元」であったことを確認できたのでした。
 このときの経験により、わたしは村岡典嗣先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んじる」の意味を心から実感できたのでした。(つづく)


第598話 2013/09/21

「二年」銘刻字須恵器を考える

 本日、ミネルヴァ書房主催の古田先生の自伝刊行記念講演会に行ってきました。遠くから見えられた懐かしい方々ともお会いでき、楽しい一日となりました。東京古田会の藤沢会長や多元的古代研究会の和田さん、福岡からは上城さん、埼玉からは肥沼さんも見えられ、挨拶を交わしました。
 古田先生も三角縁神獣鏡の三角縁に関する新説の発表など、お元気に講演されました。ミネルヴァ書房の杉田社長と席が隣だったこともあり、二倍年暦に関する本を早く出すようご助言をいただきました。

 中国出張から帰国した19日のテレビニュースなどで、石川県能美市の和田山・末寺山古墳群から出土した5世紀末の須恵器2点に、「未」と「二年」の文字が刻まれていることが確認されたとの報道がありました。当初、わたしは「未」と「二年」が本体と蓋のセットとなった須恵器 に刻字されていたと勘違いしていました。もしセットとしての「未」と「二年」であれば、二年が未の年である九州年号の正和二年丁未(527)ではないかと考えたのですが、報道では5世紀末の須恵器とありますから、ちょっと年代が離れています。
 その後、インターネットで詳細記事を読みますと、「未」と「二年」の刻字須恵器は別々であることがわかりましたので、正和二年丁未とするアイデアは根拠を失いました。それから、今日までずっとこの「二年」の意味付けに悩んでいたのですが、古田先生の講演を聞きながら突然あるアイデアが浮かんだのです。
 もし、ある年号の「二年」ということであれば、暦年を特定するためにその年号を記すか、干支を記す必要があります。そうでなければ「二年」だけでは暦年を特定できず、「二年」と記しても、それを見た人にはどの年号の二年か判断がつかず、意味がないからです。たとえば、芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した 「元壬子年」木簡の場合は、元年が壬子の年ですから、九州年号の白雉元年壬子(652)と特定でき、「元壬子年」と記す意味があるのです。ところが今回確認された須恵器には「二年」とあるだけですので、刻字した人が何を知らせたかったのか、その人の「認識」を考え続けました。
 そして、「二年」だけでも暦年を特定でき、刻字した人も、それを見た人にも共通の暦年を認識できるケースがあることに気づいたのです。それは最初の九州年号の二年に刻字されたケースです。具体的には、『二中歴』によれば「継体二年」(518)のケースです。その他の九州年号群史料によれば「善記二年」(523)となります。すなわち、倭国で初めての年号の時代であれば、「二年」の年は一つしか無く、刻字した人にも、それを読んだ人も、倭国(九州王朝) が建元した最初で唯一の年号の「二年」と理解せざるを得ないのです。
 おそらく、倭国(九州王朝)が初めて年号を制定・建元したことは国中に伝わっていたでしょうから、この須恵器に「二年」と刻字した人も建元されたばかりの九州年号を強烈に意識していたと思われます。こうしたケースにのみ、「二年」という表記だけで具体的な暦年特定が可能となり、意味を持つのです。
 編年上でも継体二年(518)であれば、6世紀初頭であり、須恵器の編年の5世紀末とそれほど離れていません。もちろん、これは九州王朝説多元史観に立った理解と仮説であり、他に適当な仮説が無ければ有力説となる可能性があるのではないでしょうか。まだ当該須恵器を実見していませんし、遺構の状況や性格も報道以上のことはわかりませんので、現時点では一つの作業仮説として提起したいと思いますが、いかがでしょうか。