考古学一覧

第2638話 2021/12/16

大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(3)

 大宰府政庁Ⅱ期の造営尺が、南朝尺(24.5㎝)の1.2倍に相当する「南朝大尺(仮称)」(29.4㎝)とする仮説の根拠として、正殿身舎(もや)部分の全長や柱間距離を挙げました。次に南朝大尺を採用した痕跡が後殿にもあることを紹介します。
 後殿とは正殿の背後(北側)に並列する東西方向(桁行7間×梁行3間)の礎石造りの建物跡SB1370です。礎石は遺っておらず、礎石の据え付け穴とそこに置かれた根石が五ヶ所で確認されています。同じ位置にあったⅡ期後殿も同規模と見られています(注①)。
 後殿は正殿の真後ろに並行してあり、正殿と後殿の梁行柱列は南北一列に並んでいます。その為、後殿桁行(東西方向7間)の柱間距離は各4.4m強であり、正殿とほぼ同じです。従って、この柱間4.4m強も正殿と同様に「南朝大尺」(29.4㎝)の15尺で造営されていることがわかります。ところが後殿梁行(南北方向3間)の柱間距離は、両脇の1間目と3間目が2.7m、中央の二間目が3.9mです。更に後殿基壇の南北幅は12,9mであり、これらは「南朝大尺」(29.4㎝)で割っても整数が得られません。南朝尺(24.5㎝)でも基壇南北幅では整数が得られません。ところが太宰府条坊造営尺(30㎝、注②)では整数が得られます。次の通りです。

      南朝尺  南朝大尺 条坊尺
      (24.5㎝) (29.4㎝) (30㎝)
桁行柱間  17.96  14.97  14.67
梁行柱間脇 11.02   9.18   9.00
梁行柱間中 15.92  13.27  13.00
基壇南北幅 52.65  43.88  43.00

 このように正殿と同距離の桁行柱間は南朝大尺で15尺、南北方向の梁行柱間二種と基壇南北幅は条坊尺で9尺・13尺・43尺と全てに端数がありません。

      南朝尺  南朝大尺 条坊尺
      (24.5㎝) (29.4㎝) (30㎝)
桁行柱間  18尺   15尺   14.7尺
梁行柱間脇 11尺 9.2尺 9尺
梁行柱間中  16尺 13.3尺 13尺
基壇南北幅  52.7尺 43.9尺 43尺

 このことは大宰府政庁Ⅱ期の後殿が南朝大尺(29.4㎝)と条坊尺(30㎝)を併用して造営されたことを示しています。不思議な現象ではありますが、前期難波宮においても同様に宮殿・西北地区条坊が29.2㎝尺、主要条坊が29.49㎝尺で造営されており、大宰府政庁Ⅱ期でも異なる尺が併用されていたと考えざるを得ません。特に太宰府においては、政庁よりも先に条坊が造営されていますから、後で造営された政庁に条坊尺が併用されたことになります。九州王朝(倭国)では南朝尺から南朝大尺という尺の変遷とは別に条坊尺が成立していたわけですが、こうした現象の発生理由を今のところうまく説明することができません。(つづく)

(注)
①『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。
②実測値により、太宰府条坊(一辺90m)の造営尺は29.9~30.0㎝であることが報告されている。井上信正「大宰府条坊論」(『大


第2637話 2021/12/15

大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(2)

 大宰府政庁遺構の調査報告書『大宰府政庁跡』(注①)には「大宰府政庁正殿跡の礎石間距離についての実測調査」(注②)という項目があり、その「調査目的」で次のように説明しています。

 「現在は正殿の建物はない。柱が乗っていたと考えられる礎石があるのみである。
 これらの礎石の位置も最初の礎石の時期から次の立て替え時期における位置を保っているものが多いらしいことが、これまでの発掘調査で判明した。
 立て替え時期においては、動いていないだろうと推測されていた北側の廂(ひさし)部分の側柱礎石も江戸時代において動かされていることが、発掘調査で判明した。
 そうした発掘調査の結果から、立て替え時期において据えられたままと考えられる礎石群は正殿中央部の身舎(もや)部分だろう、ということになる。すなわち、軒行5間梁行2間部分の合計14個の礎石群である。
 そこで、これらの柱間距離を測ることになった。」126頁

 このような判断に基づいて測定されたⅢ期正殿身舎部分の実測値が次のように示されています。

桁行全長 21.999m 梁行全長 6.485m
桁行柱間の平均距離 4.398m  梁行柱間の平均距離 3.241m

 これらの距離を南朝尺(24.5㎝)、前期難波宮造営尺(29.2㎝)、太宰府条坊造営尺(30㎝)などで割ったところ、南朝尺の1.2倍(29.4㎝)が最も整数を得ることがわかりました。当初は前期難波宮造営尺(29.2㎝)での造営ではないかと推測していたのですが、計算すると整数に最も近い値となるのが29.4㎝尺であり、これが偶然にも南朝尺の1.2倍だったのです。次の通りです。

     24.5㎝ 29.2㎝ 29.4㎝ 30㎝
桁行全長 89.79 75.34 74.83 73.33
梁行全長 26.47 22.21 22.06 21.62
桁行柱間 17.95 15.06 14.96 14.66
梁行柱間 13.23 11.10 11.02 10.80

 これらの数値はⅢ期正殿の実測値に基づいていますから、ほぼ同位置だったとされるⅡ期正殿の実態とは若干の誤差があることは避けられません。しかしながら「最初の礎石の時期から次の立て替え時期における位置を保っている」との判断を信頼すれば、南朝尺と同1.2倍尺による各距離は次のようになります。

     南朝尺(24.5㎝) 1.2倍尺(29.4㎝)
桁行全長   90尺     75尺
梁行全長   26.5尺    22尺
桁行柱間   18尺     15尺
梁行柱間   13.25尺    11尺

 両者を比べると、0.5や0.25という端数がでる南朝尺よりも、端数がでない1.2倍尺の方が、設計・造営に採用する尺としては穏当なものと思います。
 この〝1.2倍〟という数値は、いわゆる各時代の小尺と大尺の比率であることから、九州王朝(倭国)は南朝尺(24.5㎝)を採用していた時代と七世紀中頃からの同1.2倍尺(29.4㎝)を採用した時代があったのではないでしょうか。あるいは、南朝尺から同1.1倍尺(法隆寺造営尺)、そして1.2倍尺(大宰府政庁Ⅱ期造営尺)へと変遷したのかもしれません。この変遷は、時代と共に長くなるという尺単位の傾向とも整合しています。この点でも、大宰府政庁における南朝尺採用とした川端説よりも有力な仮説と考える理由です。わたしはこの1.2倍尺を「南朝大尺」あるいは「倭国大尺」と仮称したいと思いますが、いかがでしょうか。より適切な名称があればご提案下さい。
 なお、当仮説でも大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺に先行して造営された太宰府条坊の造営尺(29.9~30.0㎝)の尺単位変遷史における適切な位置づけができません。この点も重要な研究課題です。なお、倭国尺についての山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)による研究(注③)があります。特に次の見解はとても参考になりました。

(ⅰ)南朝尺は晋後尺(24.50㎝)以外にも魏尺・正始弩尺(24.30㎝)がある。
(ⅱ)魏尺・正始弩尺(24.30㎝)の1.2倍は29.16㎝であり、前期難波宮造営尺の29.2㎝に近い。このことから前期難波宮造営尺は魏尺・正始弩尺の1.2倍尺「倭大尺」だったのではないか。

 このように、山田さんの見解は基本的視点が拙稿と共通します。貴重な先行説として紹介させていただきます。(つづく)

(注)
①『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。
②山本輝雄「大宰府政庁正殿跡の礎石間距離についての実測調査」『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。

Fig.108 正殿跡の実測基準線と身舎柱間寸法の実測値(1/200)

Fig.108 正殿跡の実測基準線と身舎柱間寸法の実測値(1/200)

③山田春廣氏のブログ「sanmaoの暦歴徒然草」〝度量衡〟https://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/cat24082218/index.html


第2636話 2021/12/14

大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(1)

 川端俊一郎さんは著書『法隆寺のものさし』(注①)で、法隆寺以外に大宰府政庁や観世音寺の造営でも南朝尺(1尺=24.5㎝)が採用されているとされました。そこで、大宰府政庁Ⅱ期について報告書(注②)を精査したところ、南朝尺の1.2倍に相当する「南朝大尺」(仮称)とでも称すべき1尺=29.4㎝の尺が採用されている可能性に気づきました。
 大宰府政庁はⅡ期とⅢ期が礎石を持つ朝堂院様式ですが、Ⅱ期が焼失した跡の上層を整地し、Ⅱ期の礎石を上層に再利用しています。そのため、Ⅱ期遺構の規模(柱間距離など)を復原することが困難な状況です。そこで比較的礎石が遺っており、後世での移動がなされていないⅢ期正殿遺構の中心部分(桁行五間と梁行二間の身舎部分)の現存礎石14個を元に柱間距離の測定がなされています。そのⅢ期の礎石はⅡ期礎石の位置を保っていると判断されています。従って、政庁Ⅱ期の造営尺を確かめるためにはⅢ期正殿の中心部分礎石の計測値に依るほかありません。
 川端さんもⅢ期正殿の実測値を政庁Ⅱ期の造営尺推定の根拠に使用されています。この判断は妥当なものですが、採用された実測値が「昭和四三年(一九六八)から行われた大宰府政庁跡の発掘調査」(前掲書50頁)のものとあり、最新の実測値ではありません。川端さんが採用した正殿身舎の桁行全長は、「鏡山の実測値によれば母屋正面五間は二二〇二㎝である。」(同50頁、注③)とあり、最新(2002年の報告書)の実測値では2,199.9㎝であって、極めてわずかですが異なります。そして川端さんは桁行の1間を「十八材」(18南朝尺)とされました。また、奥行き4間の全長を1,299㎝とされ、1間を「十三材と四分の一」(13.25南朝尺)とされました。これを以て南朝尺により整数が得られたとされるのですが、奥行き(梁行)の1間が13.25尺というのでは、整数とするには細かすぎるように思われるのです。(つづく)

(注)
①川端俊一郎『法隆寺のものさし ―隠された王朝交代の謎―』ミネルヴァ書房、2004年。
②『大宰府政庁』九州歴史資料館、2002年。
③鏡山猛『大宰府都城の研究』風間書房、1968年。


第2634話 2021/12/12

大宰府政庁Ⅰ期の土器と造営尺(2)

 三期に大別される大宰府政庁遺構のうち最も早く成立した掘立柱建物のⅠ期の造営尺について報告書(注①)を調べました。結論から言えば南朝尺(1尺=24.5㎝)の痕跡は見つけることはできませんでした。というよりも、柱間距離に統一性が無い遺構が多く、造営尺を判断できるケースは少数でした。しかし、柱間距離が一定のケースの造営尺はほぼ1尺=30㎝であり、太宰府条坊の造営尺29.9~30.0㎝と一致しているようでした(注②)。その具体例を紹介します。

〔SB043〕中門調査区の西南部から検出した政庁Ⅰ期の掘立柱遺構SB043(3間×3間、西側へもう1間分伸びる可能性もある)の東西総長は約6.20mで、柱間は2.10mで等間。南北総長は約6.50mで、柱間は中央間は2.40m、両脇間が2.10m。各柱間を1尺30㎝で割ると整数を得られます。
〔SB120〕同じく正殿SB010の基壇下から検出した掘立柱遺構SB120の桁行の柱間は2.70mで等間、梁行3間が約2.40mで等間です。これも1尺30㎝で割ると整数を得られます。
〔SB360〕同じく北面回廊SC340基壇下層から検出した掘立柱遺構SB360(7間×3間)の桁行総長16.80mで、柱間は2.40m等間。梁行総長は6.50mで、柱間は東から2間は2.40m、西側1間の柱間は1.70mとやや変則的です。西側1間以外はいずれも1尺30㎝で割ると整数を得られます。

 以上の柱間距離が等間の三例では1尺=30㎝の基本単位が採用されていると見られます。従って、最も古い政庁Ⅰ期の掘立柱遺構の造営尺に30㎝尺が採用されていると考えることができ、南朝尺の痕跡を発見できませんでした。こうした遺構の出土状況と土器編年に基づいて、井上信正さんは大宰府政庁Ⅰ期や条坊の造営尺を29.9~30.0㎝とされ、政庁Ⅰ期新段階の年代を七世紀末とされています(注③)。政庁Ⅰ期の造営年代はそれよりも四半世紀ほど遡るとわたしは考えていますが、いずれにしても、それよりも新しい政庁Ⅱ期が南朝尺という古い尺で造営されたとは考えにくいのではないでしょうか。

(注)
①『大宰府政庁』九州歴史資料館、2002年。

Fig.40 掘立柱建物SB360実測図

Fig.40 掘立柱建物SB360実測図
『大宰府政庁』九州歴史資料館、2002年。64頁

②井上信正「大宰府条坊論」『大宰府の研究』大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会編、2018年。
③同②。


第2629話 2021/12/06

水城築造年代の考古学エビデンス (7)

 水城第35次調査で、基底部から出土した敷粗朶の炭素年代測定値に200~400年のひらきがあるため、パリノ・サーヴェイ株式会社の報告書(注①)の最後には、「各1点の測定であるため、今後さらに各層の年代に関する資料を増やし、相互に比較を行うことで、各層の年代を検討したい。」とありました。そこで、その後の追加調査報告を探したところ第38次調査報告書(注②)にありました。
 第38次調査で水城から出土した木杭(SX181)の外皮1点を測定する際に、第35次調査で検出した敷粗朶サンプル3点を追加測定したものです。既に測定していたサンプルの測定値も含めて、下記の通りです。

○第35次発掘調査(2001) 東土塁南側下成土塁
 敷粗朶層サンプル中央値 660年(最上層)、430年(坪堀1中層第2層)、240年(坪堀2第2層)
 (第38次調査出土木材測定時に追加測定)
 暦年較正年代(1σ) 粗朶540~600年、葉653~760年、葉658~765年

 このように、追加サンプルの測定値は6世紀から8世紀を示しています。従って、240年や430年を示すサンプルは、「古い時代の流木が積土中に混入した」(注③)と見てよいようです。
 ちなみに、第38次調査で出土した木杭の測定値は8世紀から9世紀を示していることから、水城完成後の修理や補強で使用されたものと思われます(注④)。

○第38次調査(2004) 西門北西平坦面・西土塁丘陵取付部
 暦年較正年代(1σ) 木杭(外皮)777~871年

 更に第40次調査で基底部から出土した木片(敷粗朶)と炭化物の測定も行われており、いずれも7世紀後半から8世紀前半の測定値を示しています(注⑤)。

○第40次調査(2007) 西門木樋吐水部・外濠部
 暦年較正年代(1σ) 敷粗朶木片675~719年(41.7%)・742~769年(26.5%)、炭化物675~718年(42.0%)・743~769年(26.2%)

 以上の様に、水城築造時の考古学エビデンスとなる堤体内出土木材・炭化物の測定値の多くが7世紀後半以降を示しており、土器編年とも整合しています。従って、水城を5世紀「倭の五王」時代の築造とする仮説には、安定したサンプリング条件に基づく確かな考古学エビデンスはなく、成立困難と言わざるを得ません。(おわり)

(注)
①『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年、142頁。②『水城跡 下巻』九州歴史資料館、2009年、327~332頁。
③『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年、135頁。④同②。
⑤同②。


第2627話 2021/12/03

水城築造年代の考古学エビデンス (6)

 水城基底部から出土した厚さ約1.5mの補強層(粗朶と約10cmの土層を交互に敷き詰めた全11層の敷粗朶工法)の築造に240年頃から660年頃まで400年もかけたとは到底考えられないのですが、炭素同位体比年代測定した最上層とその下層の敷粗朶測定値(注①)に200~400年のひらきがあるのはなぜでしょうか。もっとも可能性があるのは「古い時代の流木が積土中に混入した可能性も考えられよう。」(注②)とする見解です。
 現代の考古学出土物の科学的年代測定技術は飛躍的に進歩していますが、他方、サンプルの採取方法が不適切であれば、その遺構の年代とは無関係の測定値が出ることがあり、サンプリングの重要性が指摘されています。たとえば太宰府条坊都市を取り囲む土塁(前畑土塁)から出土した炭化物が土塁の築造年代(七世紀後半)とはかけ離れた弥生時代とする数値(紀元前7世紀から紀元4世紀)が出ています(注③)。この炭化物は土塁築造に使用した盛土に含まれていた古い時代の炭化木材片と考えられています。
 こうした事例が各遺構で見られることもあり、古代山城研究者の向井一雄さんは次のように警鐘を鳴らしています(注④)。

 〝内倉武久は、二〇〇二年に『大(ママ)宰府は日本の首都だった』(ミネルヴァ書房)で、観世音寺に保管されていた水城の木樋や対馬金田城の土塁中の炭化材の炭素年代測定値から「水城の築造は五、六世紀」「(最初の金田城は)六世紀末から七世紀初めごろにかけて築造された」とし、神籠石系山城の朝倉宮防御説も「なんの根拠もない憶測にすぎない」と否定する。山城の築造年代が「謎」のままなのは研究者らが理化学的分析を避けているためだという。金田城では、ビングシ山の掘立柱建物内部の炉跡炭化物や南門から出土した加工材など、考古学的イベントに伴う資料(確実に遺構に伴う炭化物――火焚き痕跡、土器付着の煤、人工的な加工材など)の測定値は六七〇年や六五〇年前後と築城年代と整合している。土中にはさまざまな時代の炭化物が混入しており、イベントに伴わない炭化物を年代測定しても意味がない。〟『よみがえる古代山城』54頁

 「イベントに伴わない炭化物を年代測定しても意味がない。」は、ちょっと言い過ぎと思いますが、理屈としては指摘の通りです。しかし、水城基底部から出土した敷粗朶は水城築造時の敷粗朶工法に使用されたものであり、まさに〝考古学的イベント〟に伴った資料です。その測定値がサンプルによって大きく異なっているのですから、やはり測定を担当したパリノ・サーヴェイ株式会社の報告(注⑤)にあるように、「各1点の測定であるため、今後さらに各層の年代に関する資料を増やし、相互に比較を行うことで、各層の年代を検討したい。」とするのが学問的解決方法と思われます。(つづく)

(注)
①GL-2.0m 中央値660年(最上層)、坪堀1中層第2層 中央値430年、坪堀2第2層 中央値240年。
②『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年、135頁。
③小鹿野亮・海出淳平・柳智子「筑紫野市前畑遺跡の土塁遺構について」『第9回 西海道古代官衙研究会資料集』(西海道古代官衙研究会編、2017年)に前畑遺跡筑紫土塁盛土から出土した次の炭片の炭素同位体比年代測定値が報告されている。「試料こ」cal BC0-cal AD89(弥生時代後期)、「試料い」cal AD238-354(弥生時代終末~古墳時代三~四世紀)、「試料き」cal BC695-540(弥生時代前期)。
④向井一雄『よみがえる古代山城 国際戦争と防衛ライン』吉川弘文館、2017年。
⑤『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年。「9 水城第三五次調査(出土粗朶年代測定)」。


第2625話 2021/12/01

水城築造年代の考古学エビデンス (5)

 水城基底部の補強材(11層の敷粗朶工法)として使用された粗朶の炭素同位体比年代測定値が、最上層を中央値660年、中層を中央値430年、最下層を中央値240年とする記事が『古田武彦記念 古代史セミナー2021 研究発表予稿集』(注①)に散見されますが、厚さ約1.5mの補強層(粗朶と約10cmの土層を交互に敷き詰めた全11層の敷粗朶工法)の築造に240年頃から660年頃まで400年もかけたとは到底考えられません。そこで、なぜ最上層と下層の敷粗朶測定値にこれほどのひらきがあるのかを調べるため、調査報告書(注②)を繰り返し精査しました。
 敷粗朶が検出されたのは水城跡第35次調査(2001)のときで、次のようにサンプル名と測定値が報告されています。

(1)GL-2.0m 中央値660年 (最上層)
(2)坪堀1中層第2層 中央値430年
(3)坪堀2第2層 中央値240年

 発見された敷粗朶層はSX172と命名されています。(1)のGL-2.0mとは地表の2m下から出土したことを意味し、11層からなる敷粗朶層の最上層と説明されています。(2)(3)の「坪堀」とは遺跡発掘面の一部分を更に坪のように掘ったもので、(1)とはサンプリング条件が異なります。最上層は発掘地区の広い範囲から検出しており、サンプリング条件としては最も安定しています。しかも最上層ですから、その測定値(中央値660年)は水城基底部の完成時期を表します。
 採取された敷粗朶などのサンプル数は32点とされ、その内の3点が測定されたのですが、その他のサンプル名に「坪堀2粗朶4層」もあることから、(3)の坪堀2第2層は敷粗朶層の最下層ではないようです。従って、(3)を「最下層」とする表記は適切ではありません。
 これら3点の測定値がかけ離れていることについて、報告書でも次の見解が示されており、戸惑っていることがうかがえます。

 「GL-2mの試料は敷粗朶最上層であり、664年の水城築堤記事に最も近い。他の2点は築堤記事から200~400年も遡った数値であり、にわかに信じがたい。この2点は、粗朶層を部分的に掘り下げた坪堀りからの抽出試料であり、A区付近が溜まり地形の上に積土を施している点を考慮すると古い時代の流木が積土中に混入した可能性も考えられよう。」『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』135頁

 他方、測定を担当したパリノ・サーヴェイ株式会社による報告部分には次の見解がみえます。

 「記録では、水城が構築されたのがAD664である。GL-2.0mの暦年代は、構築年代とほぼ一致する。このことから、最上位の粗朶層が水城構築とほぼ同時期であることが推定される。土塁の直下から検出されていることを考慮すると、水城構築直前に使用された可能性がある。一方、坪堀1中層第2層と坪堀2第2層は、水城構築年代よりも300~400年程古い年代を示している。このことから、水城構築以前の300~400年間に粗朶層が作られてことが推定される。しかし、各1点の測定であるため、今後さらに各層の年代に関する資料を増やし、相互に比較を行うことで、各層の年代を検討したい。」同142頁

 発掘に携わった考古学者と科学的年代測定の担当者とで認識の違いがありますが、後者も「今後さらに各層の年代に関する資料を増やし、相互に比較を行うことで、各層の年代を検討したい。」と慎重な姿勢を見せています。そして、後に追加測定が実施されます。(つづく)

(注)
①内倉武久「『倭(ヰ)の五王』は太宰府に都していた」『古田武彦記念 古代史セミナー2021 研究発表予稿集』2021年。
 なお、大下隆司「考古出土物から見た「倭の五王」の活躍領域と中枢部」も同様の測定値を記すが、「最下層」ではなく「下の層」という適切な表記となっている。
②『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年。「7 水城第三五次調査(東土塁基底面の調査)」「9 水城第三五次調査(出土粗朶年代測定)」。
 『水城跡 上巻・下巻』九州歴史資料館、2009年。


第2623話 2021/11/28

水城築造年代の考古学エビデンス (4)

 本シリーズでは、水城の築造年代に関する考古学エビデンスとして木樋(観世音寺所蔵)や堤体内からの出土土器について説明してきました。いずれも7世紀以降の水城築造を指示しており、5世紀の「倭の五王」時代の築造とするものではありませんでした。
 八王子セミナーで「倭の五王」築造説の根拠とされたのが、水城基底部の補強材(11層の敷粗朶工法)として使用された粗朶の炭素同位体比年代測定でした。敷粗朶には小枝が使用されるため、年輪幅は多くても数年と考えられ、樹齢数百年から千年に及ぶであろう巨木を使用した木樋と比較して、サンプリングした年輪位置による誤差が小さく、炭素同位体比年代測定のサンプルとしては適しています。
 ところが、内倉武久さんが「『倭(ヰ)の五王』は太宰府に都していた」(注①)などで紹介された測定値は、最上層出土を中央値660年、中層出土を中央値430年、最下層出土を中央値240年であり、「太宰府都城は五世紀中ごろには完成」の根拠とされています。そして、「このことはまず、太宰府は元来卑弥呼が拠点のひとつとして築造を始めた都城だろうということだ。水城と太宰府が最初に造られたのは240年±で、卑弥呼が死んだという247年前後のことだからである。」と内倉さんは八王子セミナーで発表されました。
 水城基底部中の厚さ約1.5mの補強層(粗朶と約10cmの土層を交互に敷き詰めた全11層の敷粗朶工法)の築造に240年頃から660年頃まで400年もかけたとは到底考えられません。そのため、出土状況の詳細を確認するためにその発掘調査報告書を探しました。
 水城は基底部と版築による上層部からなり、敷粗朶工法は軟弱な地盤を強化するために採用されており、水城からは複数の敷粗朶工法遺構が検出されています。内倉さんが紹介した11層の敷粗朶工法遺構は『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』(注②)で報告されていました。同報告書によれば、粗朶を水城土塁と直角方向に敷く工法が採用されています。400年もかけて、台風や梅雨の風雨と夏の日射しに曝されながら、11層の敷粗朶層(厚さ約1.5m)が構築されたとはおよそ考えられないのです。それではなぜ最上層と下層の敷粗朶測定値に400年ものひらきがあるのでしょうか。(つづく)

(注)
①内倉武久「『倭(ヰ)の五王』は太宰府に都していた」『古田武彦記念 古代史セミナー2021 研究発表予稿集』2021年。
②『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年。「7 水城第三五次調査(東土塁基底面の調査)」「9 水城第三五次調査(出土粗朶年代測定)」。


第2620話 2021/11/24

水城築造年代の考古学エビデンス (3)

 水城の築造年代に関する考古学エビデンスに土器があります。なかでも7世紀は須恵器が杯H(古墳時代からの古い様式)から杯G(中葉頃に発生)、杯B(後半から出現し、第4四半期には主流となる)へと変化を続けているため、須恵器による相対編年が比較的容易な時代です。
 ここで大切なことは土器のサンプリング条件(出土場所・主土層位・出土状況)です。発掘調査報告書(注①)には水城からの出土土器が多数掲載されていますが、水城の築造後、その周辺に廃棄された土器や水城城内で使用・廃棄された土器は築造時期を示さず、築造後にそれら土器が使用・廃棄された年代を示すと言うに留まります。このことは「洛中洛外日記」でも説明してきたところです(注②)。
 従って、水城築造年代のエビデンスとできるのは、堤体内から出土した土器です。水城築造時に堤体内に取り込まれた土器であれば、築造時に使用・廃棄されたものだからです。堤体内からの出土土器は少数ですが、水城の基底部に埋設した木樋の抜き取り跡から須恵器杯Gが出土しています(注③)。他方、水城の上や周囲から出土した主流須恵器が杯Bであることを併せ考えると、水城の築造年代は杯Gが発生した7世紀中葉以降かつ杯B発生よりも前ということができます。具体的年代を推定すれば640~660年頃となり、「7世紀中葉頃」という表現が良いように思います。ですから、水城の築造を5世紀とすることは考古学エビデンス(土器編年)を無視したものと言わざるを得ません。(つづく)

(注)
①『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅰ』九州歴史資料館、2001年。
 『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』九州歴史資料館、2003年。
 『水城跡 ―上巻―』九州歴史資料館、2009年。
 『水城跡 ―下巻―』九州歴史資料館、2009年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2530~2532話(2021/08/03~05)〝土器編年による水城造営時期の考察(1)~(3)〟
③『水城跡 ―下巻―』192頁に掲載されたSX050 SX051 SX135の土器(須恵器坏H、坏G、他)。


第2618話 2021/11/21

水城築造年代の考古学エビデンス (2)

八王子セミナー(注①)では水城の築造年代でも通説(七世紀中葉)とは異なる見解が発表されました(注②)。その考古学エビデンスとして提示されたのが、観世音寺に保管されている木樋や水城基底部に敷かれた粗朶の炭素同位体比年代測定値でした。それら測定の〝数値〟に異議はありませんが、資料としての取り扱いや位置づけに対する理解がわたしの見解とは異なっていましたので、その点について説明します。
 最初に観世音寺にある木樋ですが、水城基底部から出土したものとされており、その伐採年がわかれば、水城築造年代を特定するうえで有力根拠となります。その測定値について、内倉武久さんの『太宰府は日本の首都だった』(注③)によれば、観世音寺に保管されていた水城の木樋の炭素同位体比年代測定が九州大学の故坂田武彦氏によりなされており、430年±30年とのこと。この測定は1974年にまとめられたものなので、「最新データで測定値を補正してみると540年ごろになりそうだ。」(193頁)と内倉さんは記されています。わたしも年輪年代値による補正表(注④)で補正したところ約545年頃となり、内倉さんの補正とほぼ同じ年代を示しました。
 この補正により、木樋のサンプリングした部分の年輪の年代は540±30年頃ということがわかります。この木樋はかなり大きなものですから、年輪のどの位置からのサンプリングなのか不明ですし、伐採年は最外層より更に数十年新しいと考えざるを得ません。従って、この木樋に使用した木材の伐採年は6世紀後半以降となります。そうすると6世紀後半以降に伐採した木材を使用した木樋を基底部に埋設し、その上に版築工法による土塁や門を築造するわけですから、水城の完成は7世紀初頭以降と推定できます。
 なお、八王子セミナーの予稿集では年代補正をしていない「430年(中央値)」を内倉さんは採用され、「五世紀が中心の『倭の五王』と年代的にぴったりだ。」とされました。しかし、科学的には補正値の方を採用すべきであり、そうであれば木樋の測定値をエビデンスとして水城の築造年代を5世紀とすることはできません(注⑤)。(つづく)

(注)
①古田武彦記念 古代史セミナー2021 ―「倭の五王」の時代― 。公益財団法人大学セミナーハウス主催、2021年11月13~14日。
②内倉武久「『倭(ヰ)の五王』は太宰府に都していた」『古田武彦記念 古代史セミナー2021 研究発表予稿集』2021年。
 大下隆司「考古出土物から見た『倭の五王』の活躍領域と中枢部」同上。
③内倉武久『太宰府は日本の首都だった ─理化学と「証言」が明かす古代史─』ミネルヴァ書房、2000年。
④『鞠智城 第13次発掘調査報告』熊本県教育委員会、1992年、所収「二一表」。
⑤同様の指摘をわたしは次の論稿で行った。
 古賀達也「理化学的年代測定の可能性と限界 ―水城築造年代を考察する―」『九州倭国通信』186号、2017年5月。
 古賀達也「太宰府条坊と水城の造営時期」『多元』139号、2017年5月。


第2614話 2021/11/13

古代山城の廃絶と王朝交替

 鬼ノ城の廃絶・縮小が九州王朝から大和朝廷への王朝交替を契機として発生したことを前話(注①)で説明しましたが、熊本県の鞠智城でも同様の大変化がこの時期に発生したことがわかっています。向井一雄さんの「鞠智城の変遷」(注②)には次の説明があります。

〝少なくとも8世紀初頭以降、鞠智城は新規の建築はなく、停滞期というよりも一旦廃城となっている可能性が高い。貯水池の維持停止もそれを裏付けよう。最前線の金田城が廃城になり、対大陸防衛の北部九州~瀬戸内~畿内という縦深シフトからも外れ、九州島内でも防衛正面から最も遠い鞠智城が8世紀初頭以降も大野城と同じように維持されたというのは、これまで大きな疑問であったが、『8世紀代一時廃城』説が認められるのならば、疑問は解消される。〟89頁

 鞠智城「8世紀代一時廃城」説を裏付ける出土土器量の変化について、木村龍生さん(熊本県立装飾古墳館分館歴史公園鞠智城温故創生館)からいただいた報告集(注③)によれば、鞠智城は築城から廃城まで5期に分けて編年されています。次の通りです。

【Ⅰ期】7世紀第3四半期~7世紀第4四半期
【Ⅱ期】7世紀末~8世紀第1四半期前半
【Ⅲ期】8世紀第1四半期後半~8世紀第3四半期
【Ⅳ期】8世紀第3四半期~9世紀第3四半期
【Ⅴ期】9世紀第4四半期~10世紀第3四半期

 Ⅰ期は鞠智城草創期にあたり、663年の白村江の敗戦を契機に築城されたと考えられています。城内には堀立柱建物の倉庫・兵舎を配置していたが、主に外郭線を急速に整備した時期とされています。
 Ⅱ期は隆盛期であり、コの字に配置された「管理棟的建物群」、八角形の堂宇的構造物が建てられ、『続日本紀』文武二年(698年)条に見える「繕治」(大宰府に大野城・基肄城・鞠智城の修繕を命じた。「鞠智城」の初出記事)の時期とされています。
 Ⅲ期は転換期とされており、堀立柱建物が礎石建物に建て替えられます。しかしこの時期の土器などの出土が皆無に等しいとのことです。次のようです。

〔参考資料〕鞠智城出土土器数の変化(注④)
年代          出土土器個体数
7世紀第2四半期    10
7世紀第3四半期    23(鞠智城の築城)
7世紀第4四半期~8世紀第1四半期 181
8世紀第2四半期     0
8世紀第3四半期     0
8世紀第4四半期    40
9世紀第1四半期     5
9世紀第2四半期     4
9世紀第3四半期    88
9世紀第4四半期    30
10世紀第1四半期     0
10世紀第2四半期     0
10世紀第3四半期     8(鞠智城の終焉)

 Ⅱ期に相当する7世紀第4四半期~8世紀第1四半期には181個の土器が出土していますが、次のⅢ期の50年間(8世紀第2四半期~8世紀第3四半期)は0となり、鞠智城は〝無土器化・無人化〟の様相を呈します。この現象から、鞠智城も鬼ノ城と同様に701年(ONライン)の王朝交替による激変を迎えたことがわかります(注⑤)。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2613話(2021/11/12)〝鬼ノ城、廃絶時期の真実〟
②向井一雄『鞠智城跡Ⅱ ―論考編2―』熊本県教育委員会編、2014年11月。
③貞清世里「肥後地域における鞠智城と古代寺院について」『鞠智城と古代社会 第1号』熊本県教育委員会、2013年。
④柿沼亮介「朝鮮式山城の外交・防衛上の機能の比較研究からみた鞠智城」『鞠智城と古代社会 第2号』熊本県教育委員会、2014年。

繕治された大野城・基肄城・鞠智城とその他の古代山城 P291 第3図 肥後跡の遺構と遺物

繕治された大野城・基肄城・鞠智城とその他の古代山城 P291 第3図 肥後跡の遺構と遺物
柿沼亮介「朝鮮式山城の外交・防衛上の機能の比較研究からみた鞠智城」『鞠智城と古代社会 第2号』熊本県教育委員会、2014年。

⑤古賀達也「洛中洛外日記」981話(2015/06/14)〝鞠智城のONライン(701年)〟


第2613話 2021/11/12

鬼ノ城、廃絶時期の真実

 造営尺に前期難波宮と同じ1尺29.2cmが採用されている鬼ノ城の礎石建物群(7棟を検出)ですが、その縮小・廃絶時期にも興味深い現象がありました。『史跡鬼城山2』(注①)によれば、鬼ノ城礎石建物群の造営から廃絶までを次のように説明しています。

〝出土した土器の様相から礎石建物群が機能していた時期の中心は8世紀前半と考えられるが、今回の調査で柱痕跡から柱間を計測した建物6や建物7は、造営尺が29.2~29.5㎝付近と古い傾向を示しており、礎石建物群の建設は7世紀後半代にさかのぼる可能性も十分ある。〟144頁
〝建物群は7世紀末の飛鳥時代に整備され、8世紀前半を中心に機能し、8世紀後半まで存続していたと考えられる。〟145頁

 土器編年では7世紀末から8世紀前半が中心とされた礎石建物群ですが、造営尺(29.2~29.5㎝付近)は前期難波宮造営尺と近似していることから、7世紀後半代の可能性が十分にあるとの指摘です。すなわち、飛鳥編年を基準とした既存土器編年が、鬼ノ城では25年(四半世紀)ほどずれている可能性を示唆しています。この傾向は太宰府や鞠智城出土須恵器(杯G、杯B)でもうかがえました(注②)。
 『史跡鬼城山2』に掲載された鬼ノ城の活動時期を示す「第185図 鬼城山城内各地区の消長」(注③)によれば、鬼ノ城内はⅠ~Ⅴの5地区に分けられ、礎石建物群はⅡ区にあります。このⅡ区以外は「8世紀初頭」に一斉に活動を停止しており、Ⅱ区の礎石建物群も同時期に活動の痕跡が激減し、9世紀になると再び〝備蓄倉庫〟としての再利用が始まるとされています。実年代と土器編年にぶれ(土器編年では25年ほど新しく編年される)があることを考慮すると、7世紀中葉頃から同末期まで活発な活動を示していた鬼ノ城がその直後に廃絶、あるいは縮小していることになり、これは九州王朝から大和朝廷への王朝交替が背景にあったと考えられます。すなわち、王朝交替した701年(大宝元年)のONラインの時期に鬼ノ城の廃絶・縮小が起こっているのです。
 他方、『史跡鬼城山2』では通説(大和朝廷一元史観)に基づき、次のように説明しています。

〝Ⅰ区では片付けによる土器の廃棄行為により土器溜まり1が形成されたと考えられている。以後、Ⅰ区では顕著な遺構が見られなくなることから、この時期に鬼城山の運営に何らかの変化を読み取ることができる。この土器の廃棄時期は8世紀初頭ごろと考えられ、これに関して想起されることは、この時期の文献記事に古代山城の廃城記事が見られることである(701年高安城廃城、719年茨城・常城廃城)。鬼城山もこのような古代山城をめぐる情勢と無関係ではなかったと考えられ、Ⅰ区の廃絶は、まさにそのような時代の情勢を反映している可能性が高い。
 その後、鬼城山は礎石建物群を中心に機能したと考えるが、その役割は、山城としての軍事施設から、倉庫としての備蓄施設へと変化したものと推測される。礎石建物群は8世紀後半ごろまで存続したものと思われるが、礎石建物群の廃絶をもって、築城以来続いてきた鬼城山の役割はここで終焉を迎えたものと考えられる。〟175頁

 ここにいう「古代山城をめぐる情勢」とは具体的に何なのか、「701年高安城廃城、719年茨城・常城廃城」がなぜこの時期に発生したのかについては説明されていません。しかし、考古学報告書にこの説明を求めるのは〝酷〟というもので、文献史料の説明責任は文献史学側にあります。そして、この事象を最も合理的に説明できる仮説が、古田説(多元史観・九州王朝説)に基づいた九州王朝から大和朝廷への王朝交替であることはわたしたち古田学派にとっては自明のことです。
 以上のように、古代山城研究においても多元史観・九州王朝説の視点は不可欠であると思われます。

(注)
①『岡山県埋蔵文化財発掘調査報告書236 史跡鬼城山2』岡山県教育委員会、2013年。
②古賀達也「鞠智城と神籠石山城の考察」『古田史学会報』129号、2015年8月。
③「第185図 鬼城山城内各地区の消長」、①の174頁。

史跡 鬼城山2 2013 岡山縣教育委員会

史跡 鬼城山2 2013 岡山縣教育委員会

第185図鬼城山各地区の消長 第186図鬼城山における時期別変遷

『史跡鬼城山2』P174
鬼城山における時期別変遷、各地区の消長