観世音寺一覧

第1762話 2018/09/29

7世紀の編年基準と方法(10)

 井上信正説により、わたしの太宰府都城編年研究は大きな進展を見せることができました。そこで学問的方法論から見たその編年精度についての解説を最後にしておきたいと思います。太宰府都城の編年はそのまま7世紀における九州王朝史の復元研究に直結しますから、その編年方法と編年精度は重要です。
 太宰府都城を形成する遺構は数多くあり、今回テーマとして取り上げた政庁Ⅱ期・観世音寺・条坊都市の他にも、水城・大野城・基肄城・筑紫土塁(前畑遺跡)などがあります。わたしはそれぞれの編年について仮説を発表してきましたが、比較的安定した編年ができたのが観世音寺でした。創建瓦が老司Ⅰ式瓦でしたので7世紀中頃から後半であろうと推定できましたし、『二中歴』「年代歴」に白鳳年間(661-683)の創建とする記事がありましたので、瓦と文献によるクロスチェックが成立していました。更により具体的に「白鳳10年(670)の創建」とする史料(『勝山記』『日本帝皇年代記』)も新たに発見でき、ピンポイントで創建年を押さえることができました。ここまで具体的年次が文献により押さえられるというのは古代史研究においてとても恵まれたケースです。しかし、寺域からの出土土器が少ないこともあり、土器によるクロスチェックは今のところ成功していません(明確に7世紀後半に遡るような古い土器は確認されていない)。この点がやや弱点と言えるでしょう。なお、観世音寺は近畿天皇家による造営(拡充)が8世紀に至っても続けられており、留意が必要です。
 ところが、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から、観世音寺寺域から7世紀初頭に編年できる百済系素弁瓦が集中して出土していることを教えていただきました。この百済系素弁瓦は観世音寺創建以前に同地にあった建物の瓦と理解されており、その建物を取り壊して観世音寺が創建されたことになり、観世音寺造営が7世紀後半であることを指し示しています。このことも観世音寺創建年の編年に有効な根拠となりました。
 次に観世音寺と同時期と推定した政庁Ⅱ期の宮殿ですが、創建瓦(老司Ⅰ式・Ⅱ式)の他に、同一の尺度で造営(区画整備)されているという根拠で7世紀後半頃と編年したものです。しかし出土土器の編年が8世紀のものとされており、この点が整合していません。こうした未解決の問題があるため、政庁Ⅱ期の編年は不完全と言わざるを得ません。
 条坊都市を7世紀初頭頃とする編年に至っては、多利思北孤の時代に太宰府遷都したとする論証が中世文献を史料根拠として成立しているだけで、出土土器とは今のところ全く対応していません。当地の著名な考古学者の赤司善彦さんにもおたずねしたのですが、条坊からは7世紀前半の土器は出土しておらず、もともと土器の出土そのものが少ないとのことでした。
 以上のように、九州王朝の王都・太宰府都城の編年研究も学問的には不十分と言わざるを得ないのです。土器や瓦の編年、そして当地の発掘調査報告書をもっと深く勉強する必要があります。


第1761話 2018/09/29

7世紀の編年基準と方法(9)

 井上信正さん(太宰府市教育委員会)の政庁Ⅱ期・観世音寺よりも条坊都市が先行して造営されたという新説の根拠は、主に政庁の南北中心軸が条坊(朱雀大路)中心軸とずれていることを正確な測量により明らかにされ、一辺約90mの条坊とその北側部分の政庁・観世音寺の造営尺が異なっていることの発見でした。両者の厳密な比較により、井上さんは政庁Ⅱ期・観世音寺などの北側エリアよりも南に拡がる条坊が先行したとされたのです。
 この井上新説のおかげで、わたしの仮説(太宰府政庁・条坊都市7世紀初頭造営説)の修正が可能となり、不完全な仮説をより安定な仮説へと変更することができました。すなわち、太宰府の編年を次のように改めたのです。

①太宰府条坊都市(倭京)の成立は7世紀初頭。九州王朝の天子・多利思北孤による。倭京元年(618)に筑後から太宰府に遷都。
②白鳳10年(670)に観世音寺が創建される(『二中歴』『勝山記』『日本帝皇年代記』による)。白村江戦の戦没者を弔うためか。
③その同時期に、九州王朝(倭国)は唐に倣って太宰府を北闕型の王都とするため、条坊都市の北側に政庁Ⅱ期の宮殿とそこから南に延びる朱雀大路を造営した。唐から帰国した九州王朝の天子・薩野馬の王宮か。
④政庁Ⅱ期と観世音寺の創建は同時期と推定されるが(共に同時期の老司式瓦を使用)、厳密な先後関係は今のところ不詳。政庁Ⅱ期の創建を記す史料がなく、判断が困難なため。

 以上の編年修正により、当初の編年が持っていた難点のうち、政庁Ⅱ期と観世音寺の創建年のずれの問題が解決できました。しかし、土器編年との不一致という問題は依然として存在しています。
 この自説修正についても当時の「洛中洛外日記」に記していますので、転載します。(つづく)

【以下、転載】
古賀達也の洛中洛外日記
第219話 2009/08/09
観世音寺創建瓦「老司1式」の論理

 太宰府条坊と政庁・観世音寺の中心軸はずれており、政庁や観世音寺よりも条坊が先行して構築されたという井上信正氏(太宰府市教育委員会)の調査研究を知るまで、わたしは条坊都市太宰府は政庁(九州王朝天子の宮殿)を中心軸として7世紀初頭(九州年号の倭京年間618〜623)に成立したと考えていました。すなわち、条坊と政庁は同時期の建設と見ていたのでした。
 しかし、この仮説には避けがたい難題がありました。それは観世音寺の創建時期との整合性です。観世音寺は、『二中歴』年代歴に白鳳年間(661〜683)とする記述「観世音寺を東院が造る」があること、更に創建瓦の老司1式が藤原宮のものよりも古く、むしろ川原寺と同時期とする考古学的編年から、その創建時期を7世紀中頃としていました。その結果、条坊都市太宰府ができてから、観世音寺が創建されるまで20〜40年の差があり、その間、政庁の東にある観世音寺の寺域が「更地」だったこととなり、ありえないことではないかもしれませんが、何とも気持ちの悪い問題点としてわたしの脳裏に残っていたのです。
 ところが、井上氏の研究のように、条坊が先で政庁と観世音寺が後なら、この問題は生じません。およそ次のような順序で太宰府は成立したことになるからです。
 通古賀地区の宮域を中心とした条坊都市が7世紀初頭に成立。次いで7世紀中頃に条坊の北東部に観世音寺が創建され、その後に政庁(第Ⅱ期)が完成。
 もちろん、これはまだ検討途中の仮説ですが、この場合、条坊の右郭中央部にあった宮域が、後に北部中心部に新設されたことになり、「天子は南面」するという思想に基づいて、宮域の新設移動が行われたのではないでしょうか。
 このように、井上氏の研究は、九州王朝の首都太宰府の建都と変遷を考察する上で大変有益なものなのですが、大和朝廷一元史観側にすると、とんでもない大問題が発生します。それは、藤原宮に先行するとされる老司1式の創建瓦を持つ観世音寺よりも太宰府条坊は古いということになり、日本最初の条坊都市は通説の藤原京ではなく太宰府ということに論理的必然的になってしまうからです。
 九州王朝説からすれば、これは当然の帰結ですが、九州王朝を認めたくない一元史観(日本古代史学界・考古学界)からすれば、とんでもない話しなのです。大和朝廷のお膝元の藤原京よりも早く、九州太宰府に条坊都市ができたことになるのですから。
 このように通説にとって致命的な「毒」を含んでいる井上氏の研究が、これから一元史観の学界の中でどのように遇されるのか興味津々といったところです。(つづく)


第1760話 2018/09/28

7世紀の編年基準と方法(8)

 「よみがえる倭京〈太宰府〉」において、わたしが太宰府条坊都市と一体として造営された北闕型王都の王宮である政庁Ⅱ期も7世紀初頭の造営とした理由は、太宰府条坊研究の先学、鏡山猛さん(九州歴史資料館初代館長)の条坊復元図でした。鏡山さんの復元案によれば条坊と政庁や観世音寺の中心軸などが一致しており、その復元案は太宰府条坊研究において有力説とされてきました。わたしも鏡山説に基づき政庁Ⅱ期と条坊の造営を同時期と見なし、通説の8世紀初頭に対して、九州王朝の天子・多利思北孤による7世紀初頭(倭京元年〈618〉が有力)の造営とする仮説を発表したのです。
 ところがその自説は出土土器の考古学編年と一致せず、観世音寺創建年とのずれという問題もあって、わたし自身も不完全な仮説と感じていました。そうしたとき、「古田史学の会」関西例会で驚くべき報告が伊東義彰(古田史学の会・会員、元会計監査)さんからなされました。2009年7月の関西例会で、伊東さんは井上信正さん(太宰府市教育委員会)の新説を紹介され、それは政庁Ⅱ期や観世音寺よりも条坊都市が先行して造営されていたというものでした。そのときのことを「洛中洛外日記」に紹介していますので転載します。(つづく)

【以下、転載】
古賀達也の洛中洛外日記
第216話 2009/07/19
太宰府条坊の再考
(前略) 
 伊東さんからも、太宰府条坊研究の最新状況が報告されました。その中でも特に興味をひかれたのが、大宰府政庁遺構や観世音寺遺構の中心軸が条坊とずれているという報告でした。すなわち、大宰府政庁や観世音寺よりも条坊の方が先に造られたという、井上信正氏の研究が紹介されたのですが、この考古学的事実は九州王朝の太宰府建都に関する私の説(「よみがえる倭京(大宰府)」『古田史学会報』No.50、2002年6月)の修正を迫るもののようでした。
 その後、伊東さんの資料をコピーさせていただき、井上論文などを読みましたが、大変重要な問題を発見しました。今後、研究を深めて発表したいと思います。
(後略)


第1759話 2018/09/26

7世紀の編年基準と方法(7)

 拙論「よみがえる倭京〈太宰府〉」(『古田史学会報』50号、2002年6月)では大宰府政庁Ⅱ期や条坊都市の造営を7世紀初頭としたのですが、それは出土土器の考古学編年と一致せず、観世音寺創建年とのずれという問題もありました。今回はこの政庁と観世音寺創建時期のずれについて紹介し、わたしの当初の編年の誤りについて説明します。
 政庁Ⅱ期の造営を条坊と同時期の7世紀初頭頃と推定していたのですが、その東側に位置する観世音寺の創建は『二中歴』「年代歴」の記事から白鳳年間(661-683)と理解していました。創建瓦が7世紀後半頃とされていた老司Ⅰ式であることもこの年代観を支持していましたので、この点については今でも妥当と考えています。その後、『二中歴』以外にも『勝山記』や『日本帝皇年代記』にはより具体的に「白鳳10年(670)の創建」とする記事が見つかり、観世音寺創建年は確かなものとなりました。
 その結果、政庁Ⅱ期と観世音寺の創建年に約50年ほどのずれが発生することになり、政庁Ⅱ期が7世紀初頭頃に造営された後、その東側に位置する観世音寺の場所が半世紀もの間「更地」だった可能性が発生しました。あり得ないことではないかもしれませんが、やはりそのような状態は不自然と感じていました。
 さらにより決定的な矛盾もありました。当時は気がつかなかったのですが、観世音寺創建瓦は老司Ⅰ式でその白鳳10年創建とする史料と対応しているのですが、政庁Ⅱ期の宮殿の創建瓦も老司Ⅰ式・Ⅱ式であり、観世音寺創建瓦と同時期のものだったのです。複弁蓮華文と称される老司式瓦を7世紀初頭頃に編年するのは無理で、両者の創建瓦が共に老司式なのですから、政庁Ⅱ期も7世紀後半頃と編年しなければならなかったのでした。
 しかし、太宰府条坊都市の造営を7世紀初頭頃とする自説に立つ限り、その条坊都市と一体として造営された北闕型王都の王宮である政庁Ⅱ期を7世紀後半に編年することが、当時のわたしにはできなかったのです。(つづく)


第1749話 2018/09/11

飛鳥浄御原宮=太宰府説の登場(2)

 飛鳥浄御原宮を太宰府とする服部新説ですが、もしこの仮説が正しければどのような論理展開が可能となるかについて考察してみました。もちろん、わたしは服部新説を是としているわけではありませんが、有力説となる可能性を秘めていますので、より深く考察を進めることは有益です。
 『日本書紀』では飛鳥浄御原宮を天武と持統の宮殿としていますが、その現れ方は奇妙です。天武二年(672)二月条では、「飛鳥浄御原宮に即帝位す」とあるのですが、朱鳥元年(686)七月条には次のような記事があります。

 「戊午(20日)に、改元し朱鳥元年と曰う。朱鳥、此を阿訶美苔利という。仍りて宮を名づけて飛鳥浄御原宮と曰う。」

 飛鳥浄御原宮で即位したと記しながら、その宮殿名が付けられたのは14年後というのです。それまでは名無しの宮殿だったのでしょうか。また、朱鳥(阿訶美苔利)の改元により飛鳥浄御原宮と名づけたとありますが、「苔利」と「鳥」の訓読みが同じというだけで、両者の因果関係も説得力がありません。年号に阿訶美苔利という訓があるというのも変な話です。このように不審だらけの記事なのです。
 他方、「飛鳥浄御原令」という名称は『日本書紀』には見えません。天武紀や持統紀には単に「令」と記すだけです。例えば次の通りです。

「詔して曰く、『朕、今より更(また)律令を定め、法式を改めむと欲(おも)う。故、倶(とも)に是の事を修めよ。然も頓(にわか)に是のみを就(な)さば、公事闕くこと有らむ。人を分けて行うべし』とのたまう。」天武十年(682)二月条
 「庚戌(29日)に、諸司に令一部二十二巻班(わか)ち賜う。」持統三年(689)六月条
 「四等より以上は、考仕令の依(まま)に、善最・功能、氏姓の大小を以て、量りて冠位授けむ。」持統四年(690)四月条
「諸国司等に詔して曰わく、『凡(おおよ)そ戸籍を造ることは、戸令に依れ』とのたまう。」持統四年(690)九月条

 これらの「令」が飛鳥浄御原令と呼ばれている根拠の一つが『続日本紀』の『大宝律令』制定に関する次の記事です。

 「癸卯、三品刑部親王、正三位藤原朝臣不比等、従四位下下毛野朝臣古麻呂、従五位下伊吉連博徳、伊余部連馬養等をして律令を選びしむること、是を以て始めて成る。大略、浄御原朝庭を以て准正となす。」『続日本紀』大宝元年(701)八月条

 「浄御原朝庭」が制定した律令を「准正」して『大宝律令』を作成したとする記事ですが、この「准正」という言葉を巡って、古代史学界では論争が続いてきました。この問題についてはここでは深入りせず、別の機会に触れることにします。
 服部さんの新説「飛鳥浄御原宮=太宰府」によるならば、飛鳥浄御原令が制定された飛鳥浄御原宮は天武の末年から持統天皇の時代の宮殿となりますから、それに時期的に対応するのは大宰府政庁Ⅱ期の宮殿となります。大宰府政庁Ⅱ期の造営と機能した時期は観世音寺が創建された白鳳10年(670)頃以降と考えられますから、ちょうど天武期から持統期に相当します。
 久冨直子さんが指摘されたように、観世音寺の山号「清水山」の語源が「きよみ」という地名に関係していたとすれば、大宰府政庁Ⅱ期の宮殿も「きよみはら宮」と呼ばれても不思議ではありません。しかし、この地域が「きよみ」「きよみはら」と呼ばれていた痕跡がありませんので、この点こそ服部新説にとって最大の難関ではないかと、わたしは思っています。(つづく)


第1703話 2018/07/01

佐藤弘夫『アマテラスの変貌』を再読

 この数日、佐藤弘夫さんの『アマテラスの変貌 -中世神仏交渉史の視座-』(法蔵館、2000年)を再読しています。著者の佐藤さんは東北大学で日本思想史を学ばれ、特に中世思想史・宗教史の分野では多くの業績をあげられている著名な研究者です。その佐藤先生との出会いについて、「洛中洛外日記」1104話(2015/12/10)で触れていますので再掲します。

「佐藤弘夫先生からの追悼文」
 東北大学の古田先生の後輩にあたる佐藤弘夫さん(東北大学教授)から古田先生の追悼文をいただきました。とても立派な追悼文で、古田先生との出会いから、その学問の影響についても綴られていました。中でも古田先生の『親鸞思想』(冨山房)を大学4年生のとき初めて読まれた感想を次のように記されています。
 「ひとたび読み始めると、まさに驚きの連続でした。飽くなき執念をもって史料を渉猟し、そこに沈潜していく求道の姿勢。一切の先入観を排し、既存の学問の常識を超えた発想にもとづく方法論の追求。精緻な論証を踏まえて提唱される大胆な仮説。そして、それらのすべての作業に命を吹き込む、文章に込められた熱い気迫。--『親鸞思想』は私に、それまで知らなかった研究の魅力を示してくれました。読了したあとの興奮と感動を、私はいまでもありありと思い出すことができます。学問が人を感動させる力を持つことを、その力を持たなければならないことを、私はこの本を通じて知ることができたのです。」
 佐藤先生のこの感動こそ、わたしたち古田学派の多くが『「邪馬台国」はなかった』を初めて読んだときのものと同じではないでしょうか。
 わたしが初めて佐藤先生を知ったのは、京都府立総合資料館で佐藤先生の日蓮遺文に関する研究論文を偶然読んだときのことでした。それは「国主」という言葉を日蓮は「天皇」の意味で使用しているのか、「将軍」の意味で使用しているのかを、膨大な日蓮遺文の中から全ての「国主」の用例を調査して、結論を求めるという論文でした。その学問の方法が古田先生の『三国志』の中の「壹」と「臺」を全て抜き出すという方法と酷似していたため、古田先生にその論文を報告したのです。そうしたら、佐藤先生は東北大学の後輩であり、日本思想史学会などで旧知の間柄だと、古田先生は言われたのです。それでわたしは「なるほど」と納得したのでした。佐藤先生も古田先生の学問の方法論を受け継がれていたのです。
 その後、わたしは古田先生のご紹介で日本思想史学会に入会し、京都大学などで開催された同学会で佐藤先生とお会いすることとなりました。佐藤先生は同学会の会長も歴任され、押しも押されぬ日本思想史学の重鎮となられ、日蓮研究では日本を代表する研究者です。【以下略】

 今回、佐藤さんの『アマテラスの変貌』を改めて読みはじめたのは、中世における「神仏習合」「本地垂迹」思想について詳しく知りたかったからです。というのも、現在、取り組んでいる太宰府観世音寺研究において精査した「観世音寺古図」に描かれた鳥居に強い興味を抱いたためです。この「古図」が創建時の観世音寺の姿を描いたものであれば、九州王朝の時代に仏教寺院の正門前に鳥居が付設されたこととなり、平安時代後期から盛んになる「本地垂迹」思想の淵源が古代の九州王朝にまで遡るかもしれないのです。
 この「観世音寺古図」の書写は室町時代の大永六年(1526)であることが判明しており、平安時代の観世音寺の姿が描かれているとされています。わたしは更に遡り、部分的には8世紀初頭の「養老絵図」を書写したのではいかと考えていますので、もし鳥居部分がそうであれば、九州王朝の宗教思想を探る手がかりとなるかもしれません。
 こうした九州王朝の宗教思想研究に入るに当たり、まず中世の「神仏習合」「本地垂迹」思想について勉強しておく必要を感じ、その分野の専門家である佐藤さんの著書を書棚から探し出し、再読を始めたものです。(つづく)


第1699話 2018/06/27

五重塔「創建基壇」の階段

 「観世音寺古図」と『観世音寺資財帳』や出土遺構の不一致について説明してきましたが、それでも伽藍配置の一致や五重塔の二重基壇など「古図」が創建観世音寺の姿を伝えていると思われる部分があり、わたしは「古図」を重視しています。従って、塔基壇の階段についても創建五重塔には「古図」と同様に四面にそれぞれ階段が付設されていたのではないかと推定しています。
 というのも、東西に階段があったとした発掘調査に基づく見解は有力ですが、それはⅡ期の基壇とされており、創建時のⅠ期基壇については考古学的調査では階段の数は解明されていません。そこで創建時の五重塔基壇の階段の数を推定できるのは、『観世音寺資財帳』に記された五重塔の「戸」の数を四カ所とする記録です。すなわち五重塔には東西南北に「戸」があったと考えられ、そうであれば各「戸」の前にはそれぞれ出入りのための階段があったと考えるのが穏当のように思われるのです。この推定は「古図」に描かれた五重塔の姿と一致しますから、このことは「古図」に描かれた五重塔は創建時の姿を示していることを意味します。
 観世音寺の各伽藍は破損と再建を繰り返した考古学的痕跡やそのことを記した史料があります。しかし五重塔だけは基壇に修復した痕跡(地覆石)が出土していますが、建物は火災で焼失した後に再建されたとする史料や考古学的痕跡はありません。基壇には修復されたⅡ期があることから、恐らくⅠ期基壇の外側部分が何らかの事情で破損し、修復されたものと思われます。そしてその修復時に四つあった階段は1箇所(西辺)か2箇所(東辺と西辺)に減らされたのではないでしょうか。
 五重塔基壇の面積が建物よりも大きく不自然であることを指摘され、広い基壇に対応した大きな五重塔が創建時にあったとする大越説に対して、わたしは「古図」に描かれた二重基壇の五重塔を根拠に、基壇と建物の面積のアンバランスを二重基壇説によって説明できるとしました。いずれの説も仮説として成立(問題点を説明できる)していますから、これからの研究の進展に期待したいと思います。


第1696話 2018/06/23

観世音寺古図の史料性格

 「洛中洛外日記」1694話の「観世音寺古図の五重塔『二重基壇』」で触れた「観世音寺古図」の史料性格については、拙稿「よみがえる倭京(太宰府)─観世音寺と水城の証言─」(『古田史学会報』No.50所収。2002年6月1日)で次のように説明していますので、転載します。

【以下転載】
養老絵図と大宝四年縁起
 古の観世音寺の姿を伝える大永六年(一五二六)写の観世音寺古図というものがある。法隆寺移築論を発表された米田良三氏はその著書『法隆寺は移築された』において、同古図を紹介され、古図と現法隆寺との伽藍配置等の一致から、法隆寺の移築元として観世音寺説を発表された。これに対して、同古図が創建当時の観世音寺かどうか不明であり、観世音寺移築説の根拠とすることに対して疑義が寄せられていた。
 既に観世音寺移築説が困難であることは述べて来たとおりであるが、同古図について言うならば、これは創建時の観世音寺が描かれたものと考えざるを得ない。何故なら、本稿で紹介したように、観世音寺の五重塔は康平七年に焼亡しており、以後、再建された記録はない。また、考古学的発掘調査でも金堂は新旧の基壇が検出されているが、五重塔は再建の痕跡が発見されていない。従って、五重塔が描かれている同古図は創建時の観世音寺の姿と考えられるのである。
 このことを支持する史料がある。観世音寺は度重なる火災や大風被害のため貧窮し、もはや独力での復興は困難となった。そのため、保安元年(一一二〇)に東大寺の末寺となったのであるが、そのおり、東大寺に提出した観世音寺の文書案文(写し)の目録が存在する。それは「観世音寺注進本寺進上公験等案文目録事」という文書で、その中に「養老繪圖一巻」という記事が見える。その名称から判断すれば、養老年間(七一七〜七二四)に描かれた観世音寺の絵図と見るべきものであり、それが一一二〇年時点で現存していたことを意味する。同目録には「養老繪圖一巻」の右横に「雖入目録不進」と書き込まれていることから、この養老絵図の写しは、この時、東大寺には行かなかったようである。
 こうした養老絵図が十二世紀に現存していたことを考えると、大永六年に写された観世音寺古図はこの養老絵図を写した可能性が高いのである。考古学的発掘調査の結果も、古図と同じ伽藍配置を示しており、この点からも同古図が創建観世音寺の姿を伝えていると見るべきである。
 そうなると、いよいよもって観世音寺を法隆寺の移築元とすることは困難となる。というのも、観世音寺古図と現法隆寺は伽藍配置は類似していても、描かれた建物と法隆寺の特徴的な建築様式とは著しく異なるからである。一例だけあげれば、中門の構造が現法隆寺は二層四間であり、中央に柱が存在するが、観世音寺古図の中門は一層五間であり、一致しない。従って、米田氏の思惑とは真反対に、同古図は法隆寺の移築元は観世音寺ではない証拠だったのである。
 同目録中には今ひとつ注目すべき書名がある。それは「大宝四年縁起」である。大宝四年(七〇四)成立の観世音寺縁起が一一二〇年時点には存在していたことになるのだが、先に紹介した『本朝世紀』康治二年(一一四三)の太宰府解文に記された、百済渡来の阿弥陀如来像の事などがこの「大宝四年縁起」には記されていたのではあるまいか。従って、『本朝世紀』の本尊百済渡来記事は信頼できると思われるのだ。
 なお現在、観世音寺の縁起は伝わっておらず、関連文書として最も古いものでは延喜五年(九〇五)成立の「観世音寺資財帳」がある。九州王朝の中心的寺院であった観世音寺の縁起も近畿天皇家一元史観によって書き直され、あるいは破棄されたのであろう。
【転載終わり】

 観世音寺古図に描かれた五重塔の「二重基壇」と考古学的出土状況による「二重基壇」の可能性との一致は、この古図が創建観世音寺を描いた「養老絵図」を書写したものとする理解を支持しています。
 また、観世音寺の「大宝四年縁起」が存在していたということは、大宝四年(704)以前に観世音寺は創建されていたことになり、一元史観の通説のように観世音寺創建を8世紀前半とする見解よりも、九州年号史料(『勝山記』『日本帝皇年代記』)に見えるように白鳳10年(670)創建説を支持するようです。


第1694話 2018/06/19

観世音寺古図の五重塔「二重基壇」

 5月25日に開催された東京古田会の講演会で、大越邦生さんが「よみがえる創建観世音寺」というテーマで、いくつかの重要な仮説を発表されました。その中でわたしが最も注目したのが、観世音寺の五重塔にはⅠ期とⅡ期の二つがあり、発掘調査で発見された礎石はⅠ期の上に再建されたⅡ期のものであり、Ⅰ期は更に大きな規模であったとされました。
 これは基壇の一辺が15mもあるのに、建物は一辺6mであり、両者のバランスがとれていないという構造上の問題点を根拠とした仮説で、考古学的出土事実に基づいた合理的な推定と思われました。他方、観世音寺の五重塔が再建されたとする史料はなく、発掘調査からも礎石などに再建の痕跡は発見されていません。すなわち、大越さんが提起された仮説を積極的に実証できる史料や出土遺構が見あたらないという問題がありました。
 ところがこの問題を解決できるかもしれない発見を山田春廣さん(古田史学の会・会員)が同氏のブログ(sanmaoの暦歴徒然草)で発表されました。山田さんは、有名な「観世音寺古図」に描かれた五重塔を拡大して見ると、塔の基壇が「二重基壇」として描かれていると指摘されたのです。
 わたしもこの「観世音寺古図」を幾度となく凝視し、論文でも取り上げた経験があるのですが、この塔の「二重基壇」には気づきませんでした。正確に言えば、気づいていてもその持つ意味を理解していなかったのです。ところが、基壇と建物の規模のアンバランスという大越さんの指摘を講演会で詳しく知ることになり、「二重基壇」の持つ意味に気づいたのでした。
 塔の基壇が二重であれば、下部の一辺15.0mの基壇の上に一回り小さな基壇があり、塔の建物はその上部の小さな基壇の上に建てられたことになり、面積規模のアンバランスは発生しません。従って、大越さんが指摘された疑問はこの「二重基壇」構造により説明可能となるのです。そうであれば、出土事実や文献との整合性も問題ありません。
 そこで、近年の観世音寺研究の成果をまとめた九州歴史資料館発行の『観世音寺 考察編』を読み直してみると、なんとこの「二重基壇」の可能性について記されていました。

 「(前略)基壇外縁から建物までの距離が4.5mと想定されることから基壇一辺の長さが15.0mという数値は、一重基壇にしては大きすぎるきらいがあり、二重基壇であった可能性を指摘しておきたい。」(小田和利「観世音寺の伽藍と創建年代について」1頁。『観世音寺 考察編』九州歴史資料館編。2007年)

 小田さんのこの論文は何度も読んでいたのですが、「二重基壇」の可能性に触れたこの記事の持つ意味に気づいていませんでした。ですから、大越説との出会いにより、多くの知見を得るとともに認識を深めることができたのです。大越さん、山田さんに感謝したいと思います。
 古代寺院における「二重基壇」は、現存するものでは法隆寺の五重塔・金堂に採用されています。従って、九州王朝は法隆寺や観世音寺に「二重基壇」を採用したことになるのですが、「観世音寺古図」の金堂も塔ほど明確ではありませんが、「二重基壇」として描かれているように見えます。この点、引き続き調査したいと思います。
 なお本稿の当否にかかわらず、大越説は仮説として成立(基壇と建物の規模の不対応を説明できる)しており、今後の研究の進展(新史料や考古学的新知見の発見など)によっては最有力説となる可能性も有していることを付言しておきます。


第1675話 2018/05/23

太宰府と藤原宮・平城宮の鬼瓦(鬼瓦の論証)

 「洛中洛外日記」1673話「太宰府出土『鬼瓦』の使用尺」で紹介した『大宰府史跡発掘50年記念特別展 大宰府への道 -古代都市と交通-』(九州歴史資料館発行)に掲載された太宰府出土鬼瓦ですが、鬼気迫る形相の芸術性の高さが以前から注目されてきました。そこでその芸術性という側面から多元史観・九州王朝説との関わりを指摘したいと思います。
 大宰府政庁や大野城から出土した古いタイプの鬼瓦は立体的で見事な鬼の顔ですが、大和朝廷の宮殿の鬼瓦は藤原宮のものは「弧文」だけで鬼は描かれていませんし、平城宮のものも何種類かありますが古いタイプは平面的な鬼の裸体があるだけで、太宰府のものとは雲泥の差です。すなわち、王宮の規模は大きいものの、鬼瓦の意匠性においては規模が小さい大宰府政庁のものが圧倒的に芸術的なのです。このことは次のようなことを意味するのではないでしょうか。

①王宮の規模の比較からは、藤原宮や平城宮の方が日本列島を代表する王朝のものにふさわしい。
②鬼瓦の比較からは、王朝文化の高い芸術性を引き継いでいるのは太宰府である。
③この現象は九州王朝から大和朝廷への王朝交替の反映と考えることができる。
④ということは、太宰府では王朝文化を継承した瓦職人がいたことを意味する。
⑤太宰府にいた高い芸術性と技術を持つ瓦職人により、優れた意匠性の軒丸瓦が造られたと考えるのが自然な理解である。
⑥従って、7世紀末頃に大和・筑前・肥後の三地域で同時発生したとされる「複弁蓮華文軒丸瓦」の成立と伝播の矢印は「北部九州から大和へ」と考えるべきである。
⑦観世音寺や大宰府政庁Ⅱ期に使用された「複弁蓮華文軒丸瓦」(老司式瓦)の発生は、大和の藤原宮に先行したと考えざるをえない。
⑧この論理帰結は、観世音寺や大宰府政庁Ⅱ期の造営を、藤原宮(694年遷都)よりもはやい670年(白鳳十年)頃とするわたしの理解と整合する。

 九州王朝説を支持する「鬼瓦の論証」として、以上を提起したいと思いますが、いかがでしょうか。


第1671話 2018/05/13

九州王朝の「東大寺」問題(3)

 九州王朝の「東大寺」、すなわち「国府寺」の総本山にふさわしい寺院遺跡が筑後から見つかっていないことから、次に7世紀初頭から太宰府遷都した倭京元年(618)頃の筑前を検討してみました。

 九州王朝を代表する寺院である観世音寺は創建が白鳳10年(670)と考えられますから、全国国府寺の「総本山」とすることができません。この他には太宰府条坊都市内に「般若寺」が出土していますが、これも創建瓦として観世音寺と同じ老司Ⅰ式が出土しているため、7世紀後半頃となり、「総本山」とするには時代が新しく対象から外れます。

 そこでわたしが注目しているのが観世音寺寺域から出土した百済系素弁軒丸瓦です。「洛中洛外日記」1638〜1644話「百済伝来阿弥陀如来像の流転(1)〜(6)」で論じましたが、白鳳10年創建の観世音寺に先行する寺院がこの地に存在していたことはまず間違いないと思われます。ただ、礎石などの遺構は不明です。太宰府条坊の右郭中心部の「通古賀」の北東ですから、条坊都市造営に当たり、全国国府寺の「総本山」が置かれていても妥当な位置ではないでしょうか。しかもご本尊は百済伝来の阿弥陀如来像ですから、格式からしても問題ないと思いますがいかがでしょうか。

 この他の有力候補遺跡としては筑前ではありませんが、小郡市の井上廃寺があります。出土瓦編年の再検討が必要ですが、候補としてあげておきたいと思います。


第1644話 2018/04/08

百済伝来阿弥陀如来像の流転(6)

 観世音寺寺域から出土した百済系単弁軒丸瓦を根拠に、観世音寺に先だって建立された「仮設寺院」に観世音寺の本尊となる百済伝来阿弥陀如来像が安置されていたとする作業仮説(思いつき)に至りましたが、それではその「仮設寺院」は何と呼ばれていたのでしょうか。また、百済系単弁瓦の編年において、一元史観の通説では7世紀後半から7世紀末とされているのですが、この問題について更に深く考えてみました。
 まず寺院名ですが、素人判断では阿弥陀如来像を本尊とするのであれば観世音寺では不自然な気がします。観世音寺であれば観世音菩薩像を本尊にしてほしいところです。しかしながら観世音寺の本尊が阿弥陀如来像であったことは文献に見えており、疑えません。したがって、現時点では「仮設寺院」の名称は不詳とせざるをえません。
 次に「仮設寺院」の創建年代ですが、わたしの説に対応させるのであれば、創建観世音寺が白鳳10年(670)ですから、「仮設寺院」は百済系単弁瓦の編年から7世紀前半頃となるのですが、実は本テーマを執筆していてもう一つの可能性にも言及する必要があることに気づきました。それは通説の編年観に立った場合、観世音寺寺域に先在した百済系単弁瓦の「仮設寺院」が、『二中歴』や『勝山記』などに白鳳10年に創建されたとある「観世音寺」ではなかったかという可能性です。もしそうであれば、いわゆる天智により発願された観世音寺はその「仮設寺院」を取り壊して、同じ場所に造営された創建観世音寺(完成は8世紀前半とする)ということになります。これですと、通説の編年と矛盾無く整合します。
 この問題の鍵は百済系単弁瓦が九州王朝(倭国)で7世紀後半まで採用されたのか否かというテーマとも関連しており、引き続き検討を続けたいと思います。