古代の有名人の御子孫一覧

第1257話 2016/08/17

続・「系図」の史料批判の難しさ

 「洛中洛外日記」635話「『系図』の史料批判の難しさ」で、7世紀中頃よりも早い時代の「評」が記された「系図」があり、評制施行を7世紀中頃とするのは問題ではないかとするご意見に対して、わたしは次のように反論しました。

 「わたしは7世紀中頃より以前の『評』が記された『系図』の存在は知っていたのですが、とても『評制』開始の時期を特定できるような史料とは考えにくく、少なくともそれら『系図』を史料根拠に評制の時期を論じるのは学問的に危険と判断していました。『系図』はその史料性格から、後世にわたり代々書き継がれ、書写されますので、誤写・誤伝以外にも、書き継ぎにあたり、その時点の認識で書き改めたり、書き加えたりされる可能性を多分に含んでいます。」

 そのため、「系図」を史料根拠に使う際の史料批判がとても難しいとして、次の例を示しました。

 「『日本書紀』には700年以前から『郡』表記がありますが、それを根拠に『郡制』が7世紀以前から施行されていたという論者は現在ではいません。また、初代の神武天皇からずっと『天皇』と表記されているからという理由で、『天皇』号は弥生時代から近畿天皇家で使用されていたという論者もまたいません。」

 そして、ある「系図」の7世紀中頃より以前の人物に「○○評督」や「××評」という注記があるという理由だけで、その時代から「評督」や行政単位の「評」が実在したとするのは、あまりに危険なので、それら「系図」がどの程度歴史の真実を反映しているかを確認する「史料批判」が不可欠であると指摘しました。
 この指摘から3年が過ぎましたので、改めて「系図」の史料批判の難しさと、「評」系図の史料批判について、8月20日の「古田史学の会」関西例会にて報告することにしました。「洛中洛外日記」でも、その要点を紹介していきたいと思います。
 私事ではありますが、わたしの実家には畳二畳ほどの大きな「星野氏系図」があります。古賀家の先祖は星野氏で、「天小屋根命」に始まり、初代星野氏からわたしの曾祖父(古賀半助昌氏)までが記されています。その「星野氏系図」の途中から枝分かれした他家の部分を省いた「古賀家系図」を亡くなったわたしの父が三部作り、わたしたち兄弟三人に残してくれました。
 その「古賀家系図」を作成するにあたり、父は江戸時代の浮羽郡西溝尻村庄屋だった先祖の没年を古賀家墓地の墓石から読みとり、傍注として系図に付記しました。ところが、その注記に誤りがあることにわたしは気づきました。その原因は不明ですが、系図作成に於いて、こうした誤記誤伝が発生することを身を以て知ったものでした。
 古代に比べれば史料も豊富な江戸時代のことを平成になって誤り伝えるということが、系図のような「書き継ぎ文書」では発生してしまうのです。ましてや古代の部分に誤記誤伝が発生するのは避けられません。更に言えば、誤記誤伝ではなく大義名分による意図的な改訂、善意による改訂(原本の内容が誤っていると思い、その時代の認識で「訂正」する)さえも起こり得るのです。
 このような誤記誤伝、善意による原文改訂などを、わたしはこれまで何度も見てきました。ですから、「史料批判」抜きで、評価が定まっていない史料を自説の根拠にすることなどは恐くてとてもできないのです。(つづく)


第974話 2015/06/08

『古田史学会報』128号のご紹介

今日は昼過ぎからずっと雨です。梅雨入りですから仕方ありませんが、雨の日は自転車通勤できませんので、朝は1時間ほど早起きしなければなりません。生活や仕事のリズムがちょっとくるいますので、やっぱり晴れのほうが好きです。
うっとうしいのは梅雨空だけではなく、仕事中に聞き慣れない会社から変な電話がありました。用件を聞いてみると、どうやらヘッドハンティングの会社で、わたしを誘っているクライアントからの依頼を受けてとのことでした。もちろん、即、断りました。わたしはこれでも愛社精神は強い方で、今の仕事に使命感も持っていますので。
ちなみに、ヘッドハントを受けたのは、今日で2回目です。1回目は40歳くらいのときで、このときも断りました。勤務地が東京でしたので、京女の妻が反対するのは目に見えてもいましたから。30代のときも、ヘッドハントではありませんが、一緒に起業しないかと誘いを受けたことがありました。全て断って正解でした。そのおかげで今の自分や「古田史学の会」があり、たくさんの研究仲間や同志と出会えたのですから。
『古田史学会報』128号が発行されましたので、掲載稿をご紹介します。1面は久しぶりに投稿された森茂夫さんの論稿で、地元の網野銚子山古墳についての報告です。同古墳の規模が、従来の報告よりも大きいというご指摘で、地元ならではの内容でした。ちなみに、森さんは「浦島太郎」の御子孫です。超有名な人物の御子孫が「古田史学の会」に入っていただいているのですから、それはうれしいものです。
札幌市の阿部さんからは二つの原稿を掲載させていただきました。採用決定はずいぶん以前のことですが、字数が多いため、掲載が延び延びになってしまいました。投稿される方は、なるべく短くまとめた原稿とするようご配慮をお願いします。
掲載稿は次の通りです。

『古田史学会報』128号の内容

○網野銚子山古墳の復権  京丹後市 森茂夫
○6月21日 会員総会・記念講演会のお知らせ
○「短里」の成立と漢字の起源  川西市 正木裕
○「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について  札幌市 阿部周一
○長者考  八尾市 服部静尚
○九州王朝の丙子椒林剣  京都市 古賀達也
○「漢音」と「呉音」 皇帝の国の発音  札幌市 阿部周一
○メルマガ「洛洛メール便」配信のお知らせ
○『古田史学会報』原稿募集
○古田史学の会・北海道 2014年度活動報告  「古田史学の会・北海道」代表 今井俊圀
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○編集後記 西村秀己


第799話 2014/10/05

『孔子家語』の一倍年暦

 古代中国における二倍年暦について、主に周代の史料に基づいて論証してきましたが、それは「解釈」の問題であり、一倍年暦による「解釈」でも理解可能とのご批判が服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)から寄せられ、関西例会でも論争を続けています。
 そこで、反対論者をも納得させうる論証方法や史料がないものかと考えてきたのですが、今回注目したのは孔子の生きた年代と孔子の子孫の「系譜」の整合性でした。孔子の12世の子孫(11世説もある)である孔安国による『孔子家語』(現行本は魏の王粛の注本によるとされています)末尾には孔子の子孫の没年齢について次のように記されています。

 「孔安国、字は子国、孔子十二世の孫なり。孔子は伯魚を生む。魚は、子思を生む。(略)年六十二にして卒す。子思は子上を生む。名は白。年四十七にして卒す。(略)子上は子家を生む。名は倣。後の名は永。年四十五にして卒す。子家は子直を生む。(略)年四十六にして卒す。子直は子高を生む。(略)年五十七にして卒す。
 子高は武を生む。字は子順。(略)年五十七にして卒す。(略)
 子産、年五十三にして卒す。(略)子襄(略)年五十七にして卒す。季中を生む。名は員。年五十七にして卒す。武及び子国(孔安国)を生む。」(明治書院。新釈漢文大系『孔子家語』612~614頁)

 ここに記された没年齢は古代人としてリーズナブルなものですから、一倍年暦によることがわかります。この部分は孔安国による「後序」となっている のですが、王粛(195~256)によると考えられています。そうであれば一倍年暦の時代ですから、その認識により没年齢が記されているはずです。これら 没年齢から判断しても、孔子の子孫の一世代は20年程度(20歳の時に次代が誕生する)と思われますから、孔安国の年代から約240年前(20年×12 代)が孔子の誕生年に相当することになるはずです。
 孔安国は漢の武帝の「元封(紀元前110~105年)の時、吾、京師に仕ふ。」(611頁)とありますから、先の240年を引くと紀元前350年頃に孔子が誕生した計算となります。しかし、通説では孔子の生没年は紀元前552年~479年とされており(生年を前551年とする説もあります)、大きく食い 違います。もし通説通り552年の生まれであれば、孔安国の世代までの一世代平均は約37年となり、これは寿命が延び晩婚化が進んだ現代でも、12代の平 均値とするには考えにくい年齢です。
 逆に孔子の生没年が二倍年暦で計算(逆算)されていた場合、より古く編年されることになりますから、先の240年を2倍の480年とすれば、孔子の生年は紀元前590年頃となり、通説の紀元前552年に近くなります。このことから、通説による孔子の生没年は二倍年暦で編年(逆算)された結果である可能性が高く、言い換えれば孔子の時代、少なくとも周代は二倍年暦が使用(編年)されていたとする私の仮説と整合するのです。
 通説ではこの系譜と年代の齟齬をどのように理解しているのか、これから調べたいと思います。


第635話 2013/12/18

「系図」の史料批判の難しさ

 先日、久しぶりに岡崎の平安神宮そばにある京都府立図書館に行ってきました。そして『古代に真実を求めて』16集を寄贈しました。寒い日でしたが、岡崎公園は観光客や各種イベント参加者で溢れていました。
 今回、図書館に行った目的は、『兵庫県史』に掲載されている「粟鹿大神元記」と『田中卓著作集』に掲載されている評制に関する論文のコピーでした。
 今月、発行された『古田史学会報』119号に拙稿「文字史料による「評」論 — 「評制」の施行時期について」が掲載されましたが、その要旨は評制開始は7世紀中頃とするものでした。ところが、その結論に対して何人かの読者の方から、7世紀中頃よりも早い時代の「評」が記された「系図」があり、評制施行を7世紀中頃とするのは問題ではないかとするご意見が寄せられました。そのために関連論文のコピーをしに図書館に行ったのでした。拙論へのご批判や問題点の指摘はありがたいことで、学問の進歩をもたらします。
 わたしは7世紀中頃より以前の「評」が記された「系図」の存在は知っていたのですが、とても「評制」開始の時期を特定できるような史料とは考えにくく、 少なくともそれら「系図」を史料根拠に評制の時期を論じるのは学問的に危険と判断していました。「系図」はその史料性格から、後世にわたり代々書き継がれ、書写されますので、誤写・誤伝以外にも、書き継ぎにあたり、その時点の認識で書き改めたり、書き加えたりされる可能性を多分に含んでいます。そのため、「系図」を史料根拠に使う際の史料批判がとても難しいのです。各「系図」の史料批判や問題点については別途説明したいと思いますが、わかりやすい例で説明するならば、次のようにとらえていただければよいかと思います。
 『日本書紀』には700年以前から「郡」表記がありますが、それを根拠に「郡制」が7世紀以前から施行されていたという論者は現在ではいません。また、 初代の神武天皇からずっと「天皇」と表記されているからという理由で、「天皇」号は弥生時代から近畿天皇家で使用されていたという論者もまたいません。 『日本書紀』を根拠にそうした断定ができないことはご理解いただけることと思います。
 これと同様に、ある「系図」の7世紀中頃より以前の人物に「○○評督」や「××評」という注記があるという理由だけで、その時代から「評督」や行政単位 の「評」が実在したとするのは、あまりに危険なのです。少なくとも、それら「系図」のどの部分がどの程度歴史の真実を反映しているかを確認する「史料批判」が不可欠です。「史料批判」をしなかったり、不確実であれば、文献史学という学問にとってそれは致命的ともいえる「方法」と言わざるを得ません。もち ろんこれは一般的な学問の方法に関することであり、各「系図」が史料批判に耐え得るような史料であるかどうかは、個別に検証しなければなりません。それら の「系図」を史料根拠として、「評制」施行時期について新たな仮説を提起したり、論じるのは自由ですが、その場合は誰もが納得できるような「史料批判」が必要なのです。機会があれば、「系図」の史料批判の方法について述べてみたいと思います。


第30話 2005/09/22

浦島太郎の系図
 第27話で紹介しました浦島太郎の御子孫の森茂夫さん(会員・京都府網野町)から、『エプタ』(vol.23、2005/09)というきれいな雑誌が送られてきました。それには「日本昔話の世界」が特集されており、その冒頭に浦島太郎の系図がカラーで掲載されていました。
 説明によれば、森総本家に伝えられた系図で、家宝として「他見に及ばず」と未公開だったそうです。同誌への掲載が本邦初公開とのこと。その系図によれば、浦島太郎は日下部の姓を名乗っており、開化天皇の皇子、彦坐命の後胤と記されています。
 ただ、ややこしいことに、「日下部曽却善次」の下注に「亦の名を浦島太郎」とあり、その長男の「嶋児」が、いわゆる竜宮城へ行った有名な「浦島太郎」のこととなっています。ですから、系図によれば浦島太郎の長男の嶋児が竜宮城に行ったことになります。
 おそらく、後世に伝説が脚色されたりしながら、現在の説話へと変化したものと考えられます。したがって、逆にこの系図の信憑性が増すのではないでしょうか。もし、後世にでっちあげるのなら、有名な伝説と異なった系図を作ったりしないと思われるからです。
 『エプタ』にはこの他に桃太郎伝説やかぐや姫伝説などが取り上げられ、美しいカラーグラビアと共に、丁寧な取材記事が好印象を与えています。同誌は化粧品関連企業が発行している雑誌のようですが、企業広告は最小限に抑えられており、内容も充実した良い雑誌でした


第28話 2005/09/16

卑弥呼(ひみか)の子孫は?

 古代の有名人と言えば、邪馬壹国(「邪馬台国」とするのは誤り。三国志原文は「邪馬壹国」やまいちこく)の女王卑弥呼(ひみか)でしょう。その卑弥呼の御子孫は続いているのでしょうか。結論から言うと、魏志倭人伝には卑弥呼は独身だったと記されていることから、直系の子孫はいないと思われます。しかし、後を継いだ同族の娘、壹與(「台與」とするのも誤り。原文は「壹與」)の子孫はいる可能性があります。
というのも、筑後国風土記逸文に次のような記事があるからです。

 「昔、此の堺の上に麁猛神あり、往来の人、半ば生き、半ば死にき。其の数極(いた)く多なりき。因りて人の命尽(つくし)の神と曰ひき。時に、筑紫君・肥君等占へて、今の筑紫君等が祖甕依姫(みかよりひめ)を祝と為して祭る。爾より以降、路行く人、神に害はれず。是を以ちて、筑紫の神と曰ふ。」

 この甕依姫(みかよりひめ)が卑弥呼のことである可能性が極めて高いことを古田先生は論証されましたが、そうすると甕依姫が「今の筑紫君等が祖」と呼ばれているように、風土記成立時点の「今」、おそらく6〜7世紀、あるいは8世紀時点の筑紫の君の祖先が卑弥呼であったことになります。すなわち、筑紫の君磐井や薩夜麻らが卑弥呼や壹與の一族の出であることになります(直接には壹與の子孫)。九州王朝の王であった筑紫の君の御子孫が現存されていることは、以前に述べましたが、この御子孫達が壹與直系の可能性を有しているのではないでしょうか。もちろん、九州王朝王家の血統も複雑のようですから、断定は控えますが、興味有る「可能性」だと思います。


第27話 2005/09/09

古代の有名人の御子孫
 このコーナーで九州王朝の御子孫の存在を紹介しました。にわかには信じられない方も少なくないかとは思いますが、私の知っているだけでも結構、古代の有名人の御子孫(と称する人)はおられます。
 たとえば本会代表の水野さんは神武天皇東征時に活躍した八咫烏の御子孫です。また、本会会員の森さん(京都府網野町)は浦島太郎の御子孫です。わたしも、古賀家の系図を遡ると、天児屋根命に行き着きます。ただこれが事実かどうかはわかりませんが、少なくとも10世紀までの御先祖は確かとされています。
 このように、意外と先祖代々の系図や伝承が古代まで遡る人は少なくないのです。著名なところでも、信州の守矢の御子孫や出雲の国造家などがあります。もちろん、現天皇家もそうです。柿本人麿の御子孫も佐賀県におられます。その系図のコピーを古田先生から見せていただいたこともあります。系図によると、人麿は九州王朝時代に遣唐使として唐に渡ったことがあるようです。大変面白い内容ですが、御子孫の話では、お祖母さんから、何があってもこの系図だけは必ず持って逃げろと教えられたそうです。
 それから、大汝命を始祖とする『伊福部氏系図』というものがあります。未確認ですが、この御子孫が札幌市に御健在だそうです。事実とすれば、弥生時代から続いている家系となります。これも、すごいですね。
 おそらく、全国にはまだ多くの古代の有名人の家系が、名乗りを上げずにひっそりと続いているのではないでしょうか