東北王朝(蝦夷国)一覧

第3390話 2024/12/10

『旧唐書』倭国伝・日本国伝の

          「蝦夷国」 (2)

 『旧唐書』の倭国伝(注①)に記された倭国の領域「東西五月行」には蝦夷国(後の出羽国・陸奥国)が「附屬」の「五十餘国」の一つとして含まれるとしましたが、日本国伝(注②)に見える「其の国界は東西南北各數千里。西界、南界は大海に至る。東界、北界は大山が有り、限りと為す。山外は卽ち毛人の国」の「国界」とは異なることが気になっていました。と言うのも、東と北にある大山の外の「毛人の国」をわたしは蝦夷国としましたので、701年の倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への王朝交代にともない、日本国は倭国の統治領域をほぼそのまま受け継いだとすれば、「国界」(国境)も大きくは変わらないと考えていたからです。しかし、これはわたしの誤解でした。

 結論を言えば、七世紀以前の九州王朝時代と八世紀以降の大和朝廷時代とでは、両国と蝦夷国との関係は大きく異なっており、その関係性の変化が「国界」にも現れていたのです。従って、倭国伝には七世紀後半頃の倭国の「附屬」の「五十餘国」として「東西五月行」に蝦夷国は含まれ、王朝交代後の姿を記した日本国伝には山外の別国(毛人の国)として蝦夷国が記されたと考えられます。すなわち、七世紀頃には倭国と蝦夷国は主従関係にあり、蝦夷国は倭国の文化(仏教も)を受容し、事実上の朝貢国であったと思われます(注③)。そのこと示す記事が『日本書紀』敏達紀に見えます。

 〝十年の春閏二月に、蝦夷数千、邊境に冦(あたな)ふ。
是に由りて、其の魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)等を召して、〔魁帥は、大毛人なり〕詔して曰はく、「惟(おもひみ)るに、儞(おれ)蝦夷を、大足彦天皇の世に、殺すべき者は斬(ころ)し、原(ゆる)すべき者は赦(ゆる)す。今朕(われ)、彼(そ)の前の例に遵(したが)ひて、元悪を誅(ころ)さむとす」とのたまふ。
是(ここ)に綾糟等、懼然(おぢかしこま)り恐懼(かしこ)みて、乃(すなわ)ち泊瀬の中流に下て、三諸岳に面(むか)ひて、水を歃(すす)りて盟(ちか)ひて曰(もう)さく、「臣等蝦夷、今より以後子子孫孫、〔古語に生兒八十綿連(うみのこのやそつづき)といふ。〕清(いさぎよ)き明(あきらけ)き心を用て、天闕(みかど)に事(つか)へ奉(まつ)らむ。臣等、若(も)し盟に違はば、天地の諸神及び天皇の霊、臣が種(つぎ)を絶滅(た)えむ」とまうす。〟『日本書紀』敏達十年(581)閏二月条

 この記事は三段からなっており、一段目は蝦夷国と倭国との国境で蝦夷の暴動が発生したこと、二段目は倭国王が蝦夷国のリーダーとおぼしき人物、魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)らを呼びつけて、大足彦天皇(景行)の時のように征討軍を派遣するぞと恫喝し、三段目では綾糟らは詫びて、これまで通り臣として服従することを盟約した、という内容です。すなわち、綾糟らは自らを倭国の臣と称し、倭国と蝦夷国は天皇(天子)と臣の関係であることを現しています。これは倭国を中心とする日本版中華思想として、蝦夷国を冊封していた記事ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①『旧唐書』倭国伝冒頭の記事。
「倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。依山島而居、東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木爲柵、以草爲屋。四面小島、五十餘國、皆附屬焉。」
②『旧唐書』日本国伝冒頭の記事。
「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自惡其名不雅、改爲日本。或云、日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云、其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外卽毛人之國。」
③古賀達也「洛中洛外日記」2381~2397話(2021/02/15~03/02)〝「蝦夷国」を考究する(1)~(12)〟
同「洛中洛外日記」2795話(2022/07/23)〝羽黒山開山伝承、「勝照四年」棟札の証言〟
同「洛中洛外日記」2799話(2022/07/31)〝勝照四年(588年)、蝦夷国への仏教東流の痕跡〟
同「洛中洛外日記」2800話(2022/08/01)〝倭国(九州王朝)の天子と蝦夷国の参仏理大臣〟
同「洛中洛外日記」2901~2903話(2022/12/26~30)〝蝦夷国領域「会津・高寺」への仏教伝来 (1)~(3)〟
「蝦夷国への仏教東流伝承 ―羽黒山「勝照四年」棟札の証言―」『古田史学会報』173号、2022年。


第3389話 2024/12/09

『旧唐書』倭国伝・日本国伝の

          「蝦夷国」 (1)

 「洛中洛外日記」〝『旧唐書』倭国伝の「東西五月行、南北三月行」 〟(注①)で、倭国伝冒頭(注②)に見える倭国(九州王朝)に「附屬」している「五十餘国」に蝦夷国が含まれる可能性について論じました。そこでの結論は、倭国伝には「在新羅東南大海中」とあり、本州島が半島ではなく大海中の島国と認識されていることから(津軽海峡の存在を知っている)、このことを重視すれば、倭国に「附屬」する「五十餘国」に、津軽海峡を知悉しているであろう蝦夷国(陸奥国・出羽国)が含まれていたと考えた方がよいとしました。すなわち、「東西五月行」の領域には蝦夷国(後の出羽国・陸奥国)が含まれるとする理解です。

 これは七世紀後半に蝦夷国が倭国(九州王朝)に服属していたか否かというテーマでもあります。わたしの考察によれば、七世紀後半頃の蝦夷国は倭国の影響下にあり、その状況を「附屬」と『旧唐書』編者は表したとするに至りました。このことを示唆する『日本書紀』斉明五年(659)七月条の「伊吉連博德書」の記事があります(注③)。

「天子問いて曰く、蝦夷は幾種ぞ。使人謹しみて答ふ、類(たぐい)三種有り。遠くは都加留(つかる)と名づけ、次は麁蝦夷(あらえみし)、近くは熟蝦夷(にきえみし)と名づく。今、此(これ)は熟蝦夷。毎歳本國の朝に入貢す。」

 唐の天子の質問に対して、蝦夷国には都加留と麁蝦夷と熟蝦夷の三種類があると、倭国の使者は答えています。遠くの都加留とは津軽地方(現・青森県)のことと思われ、その地の蝦夷が津軽海峡の存在を知らないはずがありません。従って、倭国伝には倭国の位置を「在新羅東南大海中」の島国と記されたわけです。また、熟蝦夷が毎歳「本國之朝」に入貢しているという記述も、倭国に「附屬」している「五十餘国」に蝦夷国が含まれているとする、わたしの見解を支持しているのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3385話(2024/12/03)〝『旧唐書』倭国伝の「東西五月行、南北三月行」 (1)〟
②『旧唐書』倭国伝冒頭の記事。
「倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。依山島而居、東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木爲柵、以草爲屋。四面小島、五十餘國、皆附屬焉。」
③『日本書紀』斉明五年(659)七月条に次の蝦夷関連記事がある。
秋七月丙子朔戊寅、遣小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥、使於唐國。仍以道奧蝦夷男女二人示唐天子。
伊吉連博德書曰「(前略)天子問曰、此等蝦夷國有何方。使人謹答、國有東北。天子問曰、蝦夷幾種。使人謹答、類有三種。遠者名都加留、次者麁蝦夷、近者名熟蝦夷。今此熟蝦夷毎歳入貢本國之朝。天子問曰、其國有五穀。使人謹答、無之。食肉存活。天子問曰、國有屋舍。使人謹答、無之。深山之中、止住樹本。天子重曰、朕見蝦夷身面之異極理喜怪、使人遠來辛苦、退在館裏、後更相見。(後略)」
難波吉士男人書曰「向大唐大使觸嶋而覆、副使親覲天子奉示蝦夷。於是、蝦夷以白鹿皮一・弓三・箭八十獻于天子。」


第3046話 2023/06/19

東北地方の罵倒語「ツボケ」の歴史背景

 松本修『全国アホ・バカ分布考』(注①)には、不思議な罵倒語として、「田蔵田(タクラダ)」の他に東北地方の「ツボケ」があります。これを言素論で解析すると、語幹は「ツボ」で、「ケ」は古層の神名と理解できます(注②)。すなわち「ツボ」の神様となります。「ツボ」は文字通り「坪」「壺」のことか、あるいは地名の可能性もありそうです。たとえば「つぼの碑(いしぶみ)」という石碑のことが諸史料に見え、これを青森県東北町坪(つぼ)の集落近くで発見された「日本中央」碑のこととする説があります(注③)。そうすると、「ツボ」は地名のこととなります。

 いずれにしても、「ツボ」の「ケ」(神)が罵倒語として使用されていることから、対立し罵倒された「ツボケ」の民がある時代に存在していたと考えられます。恐らく、この対立は古代に遡るものであり、「ツボケ」の民とは蝦夷国の民であり、蝦夷国が祀った神様に「ツボ」の「ケ」様がいたのではないでしょうか。この推測を支持する史料があります。和田家文書『東日流外三郡誌』です。同書には古代東北(津軽)にいた「津保化族」の説話が多数収録されています。津軽には「津保化族」と「阿蘇部族」が住んでいたが、大和あるいは筑紫から逃げてきた安日彦・長脛彦兄弟に征服されたとする説話です。

 このような先住民の名前が罵倒語として使用された例を、古田先生が上岡龍太郎さんとの対談で次のように紹介しています(注④)。

上岡 これボクは松本修に聞いたんです。「『ツボケ』というのがあるそうやけど、どうなっている」というたら、「すいません、ボケの系譜に関しては非常に複雑なんで、この際ははずしました」と。「『アホ』と『バカ』に関しては全部分布できたんですけど、ボケは分布がおかしいんです」と。だから、東北では「ツボケ」なんですが、これがものすごう「アホ・バカ」の分布と違う分布をしているのです。で、「ツボケ」というのが北海道へ渡らないんですって、かたくなに本州で止まるんです。
古田 そうなんですよ。
上岡 他のは、離れ小島まで、南西諸島やろが八丈島やろがいくのに、「ボケ」だけはかたくなに止まるんですわ。ずっと分析した人が「これは何かある」っていうんですよ。これをやりたいんですけど、「アホ・バカ」に一生懸命でちょっと「ボケ」はやめてるんですけど、「頼むからいっぺんこれをやってくれ、何かそれから出るかもわからん」といってるんですが。
古田 いや、面白いですね。イギリスのほうで「このドルイド!」というそうですよ。つまり「ドルイド」というのが先住民で、これが罵り言葉で「ドルイド」というそうです。
上岡 ほう、やっぱり先住民。
古田 ええ「唐人」とか「ツボケ」とかあるんですねえ。「ドルイド」の話みたいに、世界的にそのノウハウが。人間がいるところ、日本だけじゃないんですね。

(注)
①松本修『全国アホ・バカ分布考 ―はるかなる言葉の旅路』太田出版、平成五年(1993)。平成八年(1996)に新潮文庫から発刊。
②古賀達也「洛中洛外日記」41話(2005/10/30)〝古層の神名「け」〟
同「古層の神名」『古田史学会報』71号、2005年。
③ウィキペディアには次の解説がある。
〝12世紀末に編纂された顕昭作の『袖中抄』19巻に「顕昭云(いわく)。いしぶみとはみちのくの奥につものいしぶみあり、日本のはてといへり。但し、田村将軍征夷の時、弓のはずにて、石の面に日本の中央のよしをかきつけたれば、石文といふといへり。信家の侍従の申ししは、石面ながさ四、五丈ばかりなるに文をゑり付けたり。其所をつぼと云也(それをつぼとはいふなり)。私いはく。みちの国は東のはてとおもへど、えぞの嶋は多くて千嶋とも云えば、陸地をいはんに日本の中央にても侍るにこそ。」とある。〟
〝青森県東北町の坪(つぼ)という集落の近くに、千曳神社(ちびきじんじゃ)があり、この神社の伝説に1000人の人間で石碑を引っぱり、神社の地下に埋めたとするものがあった。
明治天皇が東北地方を巡幸する1876年(明治9年)に、この神社の地下を発掘するように命令が政府から下った。神社の周囲はすっかり地面が掘られてしまったが、石を発掘することはできなかった。
1949年(昭和24年)6月、東北町の千曳神社の近くにある千曳集落の川村種吉は、千曳集落と石文(いしぶみ)集落の間の谷底に落ちていた巨石を、伝説を確かめてみようと大人数でひっくり返してみると、石の地面に埋まっていたところの面には「日本中央」という文面が彫られていたという。〟
④「上岡龍太郎が見た古代史」『新・古代学』第1集、新泉社、1995年。


第3043話 2023/06/16

『全国アホ・バカ分布考』の多元史観

 ―「タワケ」「ツボケ」の分布考―

 上岡龍太郎さんが司会をしていた人気番組「探偵!ナイトスクープ」で調査した「アホ・バカ分布図」(注①)に基づき、番組プロデューサーの松本修さんが『全国アホ・バカ分布考』(注②)を上梓しました。同書の結論として、「アホ」と「バカ」の分布は柳田国男の方言周圏論で説明できるとされました。

 最初に都(京都)で成立した罵倒語の「バカ」が全国に広がり、その後、同じく京都で発生した「アホ」が周囲に広がるのですが、先に進出した「バカ」により、西は岡山県くらいで止まります。東は関ヶ原まで進むと、なぜか中部地方の「タワケ」圏に阻まれます。この「タワケ」も静岡県で止まり、それ以東の「バカ」圏に阻まれます。更に東北地方には「ツボケ」圏があり、「バカ」と混在します。しかし、この「ツボケ」は北海道には渡らないという不思議な分布を示します。このことを上岡さんは古田先生との対談で、次のように語られています。

〝これボクは松本修に聞いたんです。「『ツボケ』というのがあるそうやけど、どうなっている」というたら、「すいません、ボケの系譜に関しては非常に複雑なんで、この際ははずしました」と。「『アホ』と『バカ』に関しては全部分布できたんですけど、ボケは分布がおかしいんです」と。だから、東北では「ツボケ」なんですが、これがものすごう「アホ・バカ」の分布と違う分布をしているのです。で、「ツボケ」というのが北海道へ渡らないんですって、かたくなに本州で止まるんです。〟(注③)

 このように、「アホ」と「バカ」は方言周圏論で説明できそうですが、「タワケ」が「バカ」発生後「アホ」発生以前に、なぜ都ではない中部地方で発生したのかの説明は困難です。東北地方の「ツボケ」に至っては全く説明不可能です。「ツボケ」の分布も同書の調査結果によれば、岩手県は県下に広く分布しますが、青森県と秋田県は県内の一部地域の分布とされており、「ツボケ」圏の中心地は岩手県となりそうです。ですから、「タワケ」「ツボケ」は方言周圏論では説明できず、異なる歴史経緯があったと考えざるを得ません。この点、上岡さんは次のするどい見方をしています。

〝その中の地図を見てみますとですね、古代王朝があったとされるところはやっぱり特色があるんですよ。北九州、出雲、吉備、それからもちろん近畿、そいから越、これらだけは際だって言葉が違うんですよ。で、その中に東北で人をののしる時に「ツボケ」。〟(注同上)

 すなわち、この視点は「古代日本の多元的王朝論」に他なりません。罵倒語の成立や分布の研究にも、古田先生が提唱された多元史観が必要です。(つづく)

(注)
①「全国アホ・バカ分布図の完成」編(平成3年、1991年)で放送。
②松本修『全国アホ・バカ分布考 ―はるかなる言葉の旅路』太田出版、平成五年(1993)。平成八年(1996)に新潮文庫から発刊。
③「上岡龍太郎が見た古代史」『新・古代学』第1集、新泉社、1995年。


第2903話 2022/12/30

蝦夷国領域「会津・高寺」への仏教伝来 (3)

「一つ不思議に思うのが、この伝承内容が九州王朝(倭国)時代のことであるにもかかわらず、そこに九州年号(継体元年・517年~大長九年・712年)が使用されていないことです。」と前話で述べたのには理由がありました。全国的な九州年号調査が古田学派研究者により続けられてきましたが、東北地方では福島県での九州年号史料の存在が際立っていました。管見でも次の九州年号史料と記事が知られています(注①)。

1.【喜楽(貴楽)】『會津舊事雑考(1672年)』福島県河沼郡会津坂下町 恵隆寺
「邑山上且有塚昔經納經蔵云或為 喜楽元年 欽明天皇十三年壬申」
2.【喜楽(貴楽)】『新編會津風土記(1806年)』福島県大沼郡会津高田町 伊佐須美神社
「欽明帝 喜樂元年壬申 此地に遷祭れりと云」
「年代記掛幅…其中に 喜樂、弥勒 なと云」
3.【喜楽(貴楽)】『伊佐須美神社編年史(1900年・明治33年)』「須美神社年代記(1520年?)」 福島県大沼郡会津高田町 伊佐須美神社
「欽明天皇 喜樂元年 御宇十三年壬申也此時未建年号 所伝当社之古年代記載此年号故随記」
「欽明天皇 喜樂元壬申 同郡天降高田邑給也」
4.【喜楽(貴楽)】『會津鑑(1781年)』「須美神社年代記(1520年?)」
「伊佐須美記曰欽明天皇御宇 喜樂元年 也」
「欽明天皇三十代元年或作 喜樂元年」
5.【喜楽(貴楽)】『會津四家合考』「須美神社年代記(1520年?)」
「欽明天皇 喜樂元年丙申」
6.【法清】『伊佐須美神社年代記(1520年?)』福島県大沼郡会津高田町 伊佐須美神社
「欽明天皇 法清元年 御宇十五年也随当宮古年代記」
7.【蔵和】『伊佐須美神社編年史(1900年・明治33年)』「伊佐須美神社年代記(1520年?)」 福島県大沼郡 伊佐須美神社
「欽明天皇 蔵和元年 御宇二十一年也随古年代記」
8.【勝照】「黒沼大明神縁起異本」 福島県福島市森会 信夫山 信夫山黒沼神社
「崇峻天皇ノ御時 勝照三年 石比賣皇后ヲ黒沼大明神トシテ祭ル」
9.【端正(端政)】『信達二郡村誌(1977年・明治10年)』「黒沼大明神縁起」 福島県福島市森合 信夫山
「崇峻天皇御時 端正二庚戌年 六月十五日黒沼大明神ト申」
10.【端正(端政)】『信夫山(1937年・昭和12年)』「羽黒神社縁起異本」 福島県福島市森合 信夫山
「崇峻天皇三年 端正 …羽黒山大権現ト申奉」
11.【端正(端政)】『信達二郡村誌(1977年・明治10年)』「黒沼大明神縁起」 福島県福島市森合 信夫山
「崇峻天皇御時 端正二庚戌年 六月十五日黒沼大明神ト申」
12.【端正(端政)】『信夫山(1937年・昭和12年)』「羽黒神社縁起異本」 福島県福島市森合 信夫山
「崇峻天皇三年 端正 …羽黒山大権現ト申奉」
13.【貴楽・僧用(僧要)】『伊佐須美神社編年史(1900年・明治33年)』「伊佐須美神社年代記」 福島県大沼郡会津高田町
「掛幅…大事ヲ記ス其中ニ 貴楽、僧用 ナトノ年号有リ」
14.【命長】『會津正統記(1688年)~』「本朝之大祖之巻」 福島県会津 「(役小角)七歳時 命長元年庚子 母寂時」
15.【白雉】『會津鑑(1781)』『會津正統記((1688年~)』「飯豊山開基緑起」 福島県耶麻都飯豊山
「孝徳天皇 白雉三年壬子 右神霊出現有」
16.【白雉】『會津正統記((1688年~)』「本朝之大祖」
「孝徳天皇 白雉三年壬子 小角十九歳」
17.【白雉】『會津正統記(1688年~)』「金塔山恵隆寺縁起」 福島県河沼郡会津坂下町 勝常寺
「斉明天皇 白雉九年戊午 性空上人弟子」
18.【白雉】『石都々古和気神社由緒記(1895年・明治28年写本)』福島県石川郡石川町
「孝徳帝 白雉年中 中臣鋼子…当社に詣」
19.【白鳳】『會津正統記(1688年~)』「赤城大明神縁起」「法光院地臓菩薩緑起」 福島県会津若松市
「行基親王天智御字 白鳳八年戊反 …誕生九歳時 白鳳一六年丙子 二月…則號行基興照菩薩 白鳳一八年戊寅 …都尊来行基親王申 白鳳十年庚午 御誕生」
20.【白鳳】『會津正統記(1688年~)』「龍造寺薬師如米緑起」 福鳥県河沼郡 龍造寺
「天武天皇 白鳳一四年甲戌 義円僧正白智鳳法師伝授法」
「白鳳一八年戊寅 天竺仏生国奥照菩薩」
21.【白鳳】『會津鑑(1781年)』「金光山薬師寺緑起」 福島県会津
「白鳳一八年寅 天竺国より興照菩薩来朝」
22.【大化】『全国神社名鑑(1977年)』「白和瀬神社社伝」 福島県福島市大笹生折戸
「大化元年 鳥帽子嶽に鎮座」
23.【大化】『棚倉沿革私考(1987年・明治30年)』福島県東白川郡柵倉町
「孝徳帝 大化二年丙午 国造を廃し」

一見してわかるように、会津地方に分布が集中しており、同地域で成立した地誌・縁起類(注②)が九州年号を採録しています。おそらく、九州年号が古代に実用されていたと編者たちは理解していたようですが、それが近畿天皇家以外の王朝によるものとの認識はうかがえません。
他方、同じ会津地方にある高寺(恵隆寺)の「創建伝承」記事(注③)には「欽明天皇即位元年庚申(540年)」とあるだけで、九州年号(僧聴五年に当たる)が使用されていない理由は不明です。後代の地誌・縁起編纂時において、九州年号が忌避され(注④)、意図的に削除されたとも考えにくく、不思議な史料情況です。(つづく)

(注)
①「古田史学の会」HP『新・古代学の扉』「九州年号総覧」による。
②『伊佐須美神社年代記(1520年?)』『會津舊事雑考(1672年)』『會津正統記(1688年~)』『會津鑑(1781年)』『新編會津風土記(1806年)』『会津温故拾要抄(1889年・明治22年)』『棚倉沿革私考(1987年・明治30年)』『伊佐須美神社編年史(1900年・明治33年)』。
③国会図書館デジタルコレクション『会津温故拾要抄 四、五』(454~455頁)に次の記事が見える。
「高寺恵隆寺千手観音縁起
一 茲ニ奥州大會津郡〔今、川沼ト云〕蜷河荘〔今、稲川ト云〕根岸村ト〔今、宇内ト云〕山ノ上草庵結〔昔、高寺、今、恵隆寺〕。人皇三十代欽明天皇即位元年庚申、唐梁國青岩ト云僧結庵。其頃日本ニテ寺ト云事ヲ不知、唯高處有故名高寺。自是百二十餘年過、人皇三十八代齊明天皇四年戊午、性空上人弟子蓮空上人、爰來、舊庵改大伽藍草創、號石塔山恵隆寺。本尊観音像(後略)」※〔 〕内は割注。句読点は古賀による。
④九州年号僧侶偽作説に立つ貝原益軒は、筑前の地誌や縁起から九州年号を意図的に削除したと思われる。『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年)の拙稿「『九州年号』真偽論の系譜」を参照されたい。


第2902話 2022/12/27

蝦夷国領域「会津・高寺」への仏教伝来 (2)

 和田家文書コレクション『奥州隠史大要 一』に収録されている「奥州佛法之事」には、六~七世紀頃の蝦夷国領域への仏教伝来記事があります。その中で、わたしが注目したのが次の福島県会津の高寺でした。

 「欽明天皇元年、梁僧青巌、来奥州會津蜷川根岸邑、高寺建立。」

 欽明天皇元年は西暦540年で、九州年号の僧聴五年に相当します。これが史実であれば近畿天皇家の受容(「仏法の初め」『日本書紀』敏達十三年条、584年)よりも早いことになり、わたしも研究を続けていました(注①)。同伝承の最古の出典を調査中ですが、『会津温故拾要抄』(宮城三平著、明治22年)に次の記事が見えます。

 「高寺恵隆寺千手観音縁起
一 茲ニ奥州大會津郡〔今、川沼ト云〕蜷河荘〔今、稲川ト云〕根岸村ト〔今、宇内ト云〕山ノ上草庵結〔昔、高寺、今、恵隆寺〕。人皇三十代欽明天皇即位元年庚申、唐梁國青岩ト云僧結庵。其頃日本ニテ寺ト云事ヲ不知、唯高處有故名高寺。自是百二十餘年過、人皇三十八代齊明天皇四年戊午、性空上人弟子蓮空上人、爰來、舊庵改大伽藍草創、號石塔山恵隆寺。本尊観音像(後略)」(注②)454~455頁。※〔 〕内は割注。句読点は古賀による。

 『会津温故拾要抄』に掲載されたこの「高寺恵隆寺千手観音縁起」の出典は未調査ですが、和田家文書「奥州佛法之事」と同内容が伝えられており、中国の梁から来た僧、青岩による高寺建立は、会津地方では古くから知られてきた伝承のようです。
 一つ不思議に思うのが、この伝承内容が九州王朝(倭国)時代のことであるにもかかわらず、そこに九州年号(継体元年・517年~大長九年・712年)が使用されていないことです。拙稿「蝦夷国への仏教東流伝承 ―羽黒山「勝照四年」棟札の証言―」(注③)で紹介した羽黒山への仏教伝来伝承では九州年号「勝照四年」(588年)のこととして伝えられており、同様に高寺への伝来記事も「欽明天皇元年」だけではなく、「僧聴五年」と九州年号もあってほしいところですが、管見では高寺伝承に「僧聴五年」は見えません。(つづく)

(注)
①北篤『謎の高寺文化 古代東北を推理する』(1978年)は、高寺への仏教伝来を「欽明天皇の元年(五四〇)のこと、と記録に出ている。梁国の僧で、青磐という人物である。『奥州会津蜷川荘の根岸村に来たり手』と続いている。」(29頁)と紹介する。
②国会図書館デジタルコレクション『会津温故拾要抄 四、五』による。
③古賀達也「蝦夷国への仏教東流伝承 ―羽黒山「勝照四年」棟札の証言―」『古田史学会報』173号、2022年。


第2901話 2022/12/26

蝦夷国領域「会津・高寺」への仏教伝来 (1)

『古田史学会報』173号で発表した拙稿「蝦夷国への仏教東流伝承 ―羽黒山「勝照四年」棟札の証言―」を読まれた菊地栄吾さん(古田史学の会・仙台)から、東北地方への仏教伝来を記した和田家文書紹介のメールが届きました。以下、メールを要約して転載します。

「古賀達也様
論文「蝦夷国への仏教東流伝承」拝見しました。これに関連する報告を、「和田家文書」研究会で小生の提案により、安彦さんが報告しております。
その概要は〝「和田家文書」コレクション「奥州隠史大要1」に「奥州佛法之事」に会津の「高寺」のことがあり、519年に最初の寺が造られていることが記されている。会津では「高寺山遺跡」が発掘されている。〟と言うものです。
コレクションもアクセスできます。羽黒山の事も記されておりますので参考にして下さい。
菊地栄吾」

こうした情報が会員や読者から毎日のように寄せられます。ありがたいことと感謝していますが、返信が遅れることも多々あり、申しわけありません。ご紹介いただいた「和田家文書」コレクションの「奥州佛法之事」を下記に転載します。七世紀の東北地方(蝦夷国領域)への複数の仏教伝来が記されており、興味深いものです。(つづく)

奥州佛法之事

欽明天皇元年、梁僧青巌、来奥州會津蜷川根岸邑、高寺建立。在佛弟子稱惠隆、梁惠志之師弟也。梁國號天監己亥年、高寺攺惠隆寺三十六坊也。
寛永六年九月一日 龍斉

奥州に佛法の傳来せるは、倭國より先代なり。梁僧・青巌坊が越州加志波浜に漂着し、人住多き會津に至り、持佛像薬師如来を草堂に安置し、日本將軍安倍國治に歸化を請ふて、高寺を建立せり。倭にては十二年後、百済の聖明王が阿弥陀佛を献ぜし前にして、梁國直通に渡れり。
安倍國治、荒覇吐王の南王たれば、是を入れたるも、吾が國に馴信なるは三十年後にして、惠隆坊が是を衆生に化渡を得たり。
此の時より、和賀の極樂寺、衣川の佛頂寺、閉伊の淨法寺及び西法寺、東日流の大光寺及び三世寺、中山大光院、秋田の日積寺及び山王寺、出羽の羽黒三山寺、相継ぎぬ。
倭僧圓仁や行基、葛城行者役小角来るは、此の古寺に求道せし故なると曰ふなり。
寛政六年八月五日 秋田孝季

http://wadakemonjo.seisaku.bz/oushu_inshi_taiyou1.html


第2800話 2022/08/01

倭国(九州王朝)の天子と蝦夷国の参仏理大臣

 羽黒山を開山したと「勝照四年」棟札(注①)に記された「能除大師」は「参仏理大臣(みふりのおとど)」という名前でも伝承されています(注②)。わたしはこの能除の別称に「大臣」という官職名が付いていることが気になっていました。「勝照四年」(588年)の頃ですから、羽黒山は蝦夷国内と思われ、それであれば能除は蝦夷国の大臣だったのだろうか、あるいは倭国(九州王朝)の大臣が布教のために蝦夷国内の出羽に派遣されたのだろうかと考えあぐねていたのです。ところが意外なことから決着が付きました。
 「洛中洛外日記」で連載した蝦夷関連の拙稿を読み返していたら、次のことを既にわたしは書いていました。それは「洛中洛外日記」2391話(2021/02/25)〝「蝦夷国」を考究する(8) ―多利思北孤の時代の蝦夷国―〟で紹介した次の『日本書紀』の記事でした。

○『日本書紀』敏達十年(581年)閏二月条
 十年の春閏二月に、蝦夷数千、邊境に冦(あたな)ふ。
 是に由りて、其の魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)等を召して、〔魁帥は、大毛人なり。〕詔(みことのり)して曰はく、「惟(おもひみ)るに、儞(おれ)蝦夷を、大足彦天皇の世に、殺すべき者は斬(ころ)し、原(ゆる)すべき者は赦(ゆる)す。今朕(われ)、彼(そ)の前の例に遵(したが)ひて、元悪を誅(ころ)さむとす」とのたまふ。
 是(ここ)に綾糟等、懼然(おぢかしこま)り恐懼(かしこ)みて、乃(すなわ)ち泊瀬の中流に下て、三諸岳に面(むか)ひて、水を歃(すす)りて盟(ちか)ひて曰(もう)さく、「臣等蝦夷、今より以後子子孫孫、〔古語に生兒八十綿連(うみのこのやそつづき)といふ。〕清(いさぎよ)き明(あきらけ)き心を用て、天闕(みかど)に事(つか)へ奉(まつ)らむ。臣等、若(も)し盟に違はば、天地の諸神及び天皇の霊、臣が種(つぎ)を絶滅(た)えむ」とまうす。

 この記事は三段からなっており、一段目は蝦夷国と倭国との国境付近で蝦夷の暴動が発生したこと、二段目は、倭国の天子が蝦夷国のリーダーとおぼしき人物、魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)等を呼びつけて、「大足彦天皇(景行)」の時のように征討軍を派遣するぞと恫喝し、三段目では、綾糟等は詫びて、これまで通り「臣」として服従することを盟約した、という内容です。
 すなわち、綾糟らは自らを倭国(九州王朝)の「臣」と称し、倭国(九州王朝)と蝦夷国は、「天子」とその「臣」という形式をとっていることを現しています。これは倭国(九州王朝)を中心とする日本版中華思想として、蝦夷国を冊封していたのかもしれません。従って、能除の別称が「参仏理大臣」であることは、この『日本書紀』の記述通りであり、倭国の臣下として蝦夷国の有力者であろう能除の別称としてふさわしいのです。
 敏達十年(581年、九州年号の鏡當元年)は能除による羽黒山開山「勝照四年」(588年)の七年前であり、時期的にも対応しています。こうして、倭国(九州王朝)と蝦夷国との歴史が一つ明らかになったと思われます。ちなみに、『拾塊集』(注③)には「能除太子者崇峻天皇之子也」とあり、没年月日を「舒明天皇十三年(641年)八月二十日」(九州年号の命長二年)としています。

(注)
①『社寺の国宝・重文建造物等 棟札銘文集成 ―東北編―』国立歴史民俗博物館、平成九年(1997)。表面に次の記載がある。
「出羽大泉荘羽黒寂光寺
 (中略)
 羽黒開山能除大師勝照四年戊申
  慶長十一稔丙午迄千十九年」
②「出羽三山史年表(戸川安章編)」(『山岳宗教史研究叢書5 出羽三山と東北修験の研究』昭和50年(1975)、名著出版)によれば、能除の別称を「参弗理大臣」とする。
 『出羽国羽黒山建立之次第』(同)には「崇峻天皇の第三の御子、(中略)名を参弗梨の大臣と号し上(たてまつ)る。」とある。
③『拾塊集』(著者・成立年代ともに不明)『山岳宗教史研究叢書5 出羽三山と東北修験の研究』昭和50年(1975)、名著出版。


第2799話 2022/07/31

勝照四年(588年)、蝦夷国への仏教東流の痕跡

 「洛中洛外日記」2795話(2022/07/23)〝羽黒山開山伝承、「勝照四年」棟札の証言〟において、「勝照四年」(588年)銘を持つ羽黒三山寺の棟札(慶長十一年・1606年成立。亡失。注①)に記された「羽黒開山能除大師勝照四年戊申」記事を六世紀末頃の倭国(九州王朝)から蝦夷国領域(出羽地方)への仏教東流伝承の痕跡ではないかと指摘しました。この推定が妥当かどうかを判断するために、『日本書紀』の関連記事を調べてみました。
 九州年号の「勝照四年」(588年)は崇峻天皇元年にあたり、その付近の蝦夷や仏教関連記事を精査したところ、次の記事が注目されました。

  九州年号   天皇 年 『日本書紀』の記事要旨
584 鏡当 4 甲辰 敏達 13 播磨の恵便から大和に仏法が伝わる。
585 勝照 1 乙巳 敏達 14 蘇我馬子、仏塔を立て大會を行う。
586 勝照 2 丙午 用明 1
587 勝照 3 丁未 用明 2 皇弟皇子、豊国法師を内裏に入れる。
588 勝照 4 戊申 崇峻 1 大伴糠手連の女、小手子を妃とする。妃は蜂子皇子を生む。是年、百済国より仏舎利が送られる。法興寺を造る。
589 端政 1 己酉 崇峻 2 東山道使を使わし、蝦夷国境を観る。(略)阿倍臣を北陸道に派遣し、越等の諸国の境を観る。
590 端政 2 庚戌 崇峻 3 学問尼善信ら、百済より還り、桜井寺に住む。
591 端政 3 辛亥 崇峻 4
592 端政 4 壬子 崇峻 5 大法興寺の仏堂と歩廊を建てる。
593 端政 5 癸丑 推古 1 仏舎利を法興寺の柱礎の中に置く。是年、初めて四天王寺を難波の荒陵に造る。
594 告貴 1 甲寅 推古 2 諸臣ら競って仏舎を造る。これを寺という。
595 告貴 2 乙卯 推古 3 高麗僧慧慈、帰化する。是歳、百済僧慧聰が来て二人は仏法を弘めた。

 以上のように、「勝照四年」(588年)頃の『日本書紀』記事によれば、この時期は近畿天皇家や大和の豪族らにとっての仏教伝来時期に相当し、新羅や百済からの僧や仏舎利の受容開始期であることがわかります。おそらくは九州王朝を介しての受容であることは、九州王朝説の視点からは疑うことができません(九州王朝記事の転用も含む)。
 同様に、更に東の蝦夷国も九州王朝を介して仏教を受容したのではないでしょうか。その点、注目されるのが589年(端政元年己酉)に相当する『日本書紀』崇峻二年条の、「東山道使を使わし、蝦夷国境を観る。(略)阿倍臣を北陸道に派遣し、越等の諸国の境を観る。」という記事(要旨)です。六世紀の九州王朝の時代での東山道や北陸道からの国境視察記事ですから、視察の対象は蝦夷国領域であり、それは九州王朝(倭国)によるものと考えざるを得ません。従って、これと同時期に能除による羽黒山開山がなされたという「勝照四年」(588年)棟札の記事は、九州王朝(倭国)から蝦夷国への仏教東流の痕跡と見なしてもよいと思われるのです。
 そうであれば、日本列島内の仏教初伝と東流の経緯は次のように捉えて大過ないと思いますが、いかがでしょうか。

【日本列島での仏教東流伝承】
(1)418年 九州王朝(倭国)の地(糸島半島)へ清賀が仏教を伝える(雷山千如寺開基)。(『雷山千如寺縁起』、注②)
(2)488~498年 仁賢帝の御宇、檜原山正平寺(大分県下毛郡耶馬渓村)を百済僧正覚が開山。(『豊前国志』)
(3)531年(継体25年) 教到元年、北魏僧善正が英彦山霊山寺を開基。(『彦山流記』)
(4)584年 播磨の還俗僧恵便から得度し、大和でも出家者(善信尼ら女子三名)が出たことをもって「仏法の初め」とする。(『日本書紀』敏達十三年条)
(5)588年 蝦夷国内の羽黒山(寂光寺)を能除が開山。(羽黒寂光寺「勝照四年」棟札)

(注)
①『社寺の国宝・重文建造物等 棟札銘文集成 ―東北編―』国立歴史民俗博物館、平成九年(1997)。表面に次の記載がある。
「出羽大泉荘羽黒寂光寺
 (中略)
 羽黒開山能除大師勝照四年戊申
  慶長十一稔丙午迄千十九年」
②『雷山千如寺縁起』による。倭国への仏教初伝について、次の拙稿で論じた。
○古賀達也「四一八年(戊午)年、仏教は九州王朝に伝来した ―糸島郡『雷山縁起』の証言―」39号、市民の古代研究会編、1990年5月。
○同「倭国に仏教を伝えたのは誰か ―「仏教伝来」戊午年伝承の研究―」『古代に真実を求めて』1集、古田史学の会、1996年。1999年に明石書店から復刻。同稿の最新改訂版は未発表。


第2655話 2022/01/05

蝦夷国から出土した銅鏡

 この正月三が日、わたしは自らの講演YouTube動画(注①)を見ました。自分の動画は恥ずかしいので今までほとんど見ることはありませんでしたが、「古田史学の会」ホームページ担当の横田幸男さん(古田史学の会・全国世話人)が「新・古代学の扉」トップ画面をリニューアルされたので、この機会にチェックすることにしたものです。
 その動画は「古代官道の不思議発見」というテーマの講演で、こうやの宮(注②)の御神像の一つが蝦夷国からの使者であり、その使者が鏡を持っていることから、蝦夷国は未開の蛮族などではないと説明しました(注③)。古代日本では鏡は太陽信仰のシンボルですから、蝦夷国は倭国の文化や技術を積極的に受容したのではないでしょうか。九州王朝(倭国)が中国や朝鮮半島の先進技術・文明を受け入れたようにです。この仮説を証明するような遺構・遺物が出土しています。
 2015年、宮城県栗原市の入の沢遺跡で驚きの発見がありました。同遺跡は深い溝を巡らせた四世紀の大集落跡で、その住居跡から銅鏡4枚が出土しました。自然の傾斜などを利用した北東―南西約125m、北西―南東約70mの集落域を柵のような塀跡と大溝跡が並行して取り囲んでおり、塀は溝状に掘った穴に材木を10~30cmの間隔でびっしりと立ち並べていたとみられています。見つかった銅鏡4枚はすべて小型の国内製で、珠文鏡2枚、内行花文鏡(破鏡)と重圏文鏡が1枚ずつ。古墳時代前期としては最北の発見です。鏡以外にも鉄製品が30点、勾玉や管玉、ガラス玉も出土しています。
 この入の沢遺跡は大和朝廷の勢力が居住した防御施設とされており、蝦夷国のものとはされていません。確かに出土品を見るかぎり、倭国の文化と思わざるを得ませんが、四世紀の宮城県北部の住居跡から銅鏡が出土したことは、蝦夷国の地に銅鏡などの倭国の文物が入っていたことを示し、蝦夷国からの九州王朝への使者が鏡を持っていたとしても不思議ではないように思います。従って、こうやの宮の鏡を持つ御神像を蝦夷国からの使者とした拙論は穏当な解釈であり、御神像は歴史事実を反映していたことになるわけです。蝦夷国の実像や九州王朝との関係についての再検討が必要です(注④)。

(注)
①市民古代史の会・京都(代表:山口哲也氏)主催講演会(2021年11月23日、キャンパスプラザ京都)での講演「古代官道の不思議発見」。
https://youtu.be/rWYLT9Rvq4g
https://youtu.be/Hoo-zMsWXMU
https://youtu.be/kFagnmfvpCg
https://youtu.be/N1QG9dGjRP4
https://youtu.be/GVK2njzIRqA
②福岡県みやま市瀬高町太神にある小祠。五体の御神像があり、中央の一回り大きい主神は高良玉垂命。
③古賀達也「九州王朝官道の終着点 ―山道と海道の論理―」『卑彌呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)明石書店、2021年。
④「洛中洛外日記」1011話(2015/08/01)〝宮城県栗原市・入の沢遺跡と九州王朝〟では「この時代の九州王朝系勢力の北上が新潟県や宮城県付近にまで及んでいたと考えざるを得ないようです」と捉えていた。その後、「洛中洛外日記」2381~2397話(2021/02/15~03/02)〝「蝦夷国」を考究する(1~12)〟で蝦夷国について考察した。

 


第2586話 2021/10/02

『古事記』の中の「悪人」

 今朝は、久留米大学公開講座(注①)での講演のため、博多に向かう新幹線のぞみの車中でこの「洛中洛外日記」を書いています。

 昨日、四半世紀ぶりに読んだ河田光夫氏の『親鸞と被差別民衆』(注②)に面白いことが紹介されていました。氏は『歎異抄』に見える「悪人」という用語の意味を実証的に調査され、親鸞の時代の「悪人」とは主に被差別民のこととする説を発表されたのですが、同書の「史料」(98頁、113頁)によれば、『古事記』に「悪人」という用語が使われており、それは「蝦夷」を指しているとのこと。そこで、新幹線車中で『古事記』を調べてみると、景行記の倭健命の言葉として次の「悪人」記事がありました。

〝「天皇既に吾死ねと思ほす所以か、何しかも西の方の悪しき人等を撃ちに遣はして、返り参上り来し間、未だ幾時も経(あ)らねば、軍衆を賜はずて、今更に東の方十二道の悪しき人等を平(ことむ)けに遣はすらむ。これによりて思惟(おも)へば、なほ吾既に死ねと思ほしめすなり。」とまをしたまひて、患(うれ)ひ泣きて罷ります時に、倭比賣命、草薙剣を賜ひ、また御嚢を賜ひて、「もし急の事あらば、この嚢口を解きたまへ。」と詔りたまひき。〟『古事記』ワイド版岩波文庫、1991年。121~122頁

 この後に「荒ぶる蝦夷等を言(こと)向け」とありますから、確かに『古事記』では蝦夷を「悪しき人」(原文は「悪人」)としていますが、蝦夷の他にも「東の国に幸(い)でまして、悉に山河の荒ぶる神、また伏(まつろ)はぬ人等を言向け和平(やは)したまひき。」とあり、東国の「伏はぬ人」も「悪人」に含まれると見るべきでしょう。更には、冒頭の倭建命の言葉に「西の方の悪しき人」とあるように、「天皇」に「伏はぬ人」は「悪人」と表現されていると思われます。
 以上の史料状況と考察から、少なくとも『古事記』編纂頃の大和朝廷では、自らに従わない抵抗勢力、恐らくは九州王朝の徹底交戦派も「悪人」と呼んでいたのではないでしょうか。従って、古代に於ける「悪人」は主には政治的敵対勢力を指していたと考えてよいようです。河田氏による『歎異抄』などの研究によれば、被差別民が「悪人」と呼ばれていたとのことですから、古代の「悪人」と近現代に至るいわゆる被差別部落と古墳の分布が相似する傾向は(注③)、両者に何らかの関係があることを示しているのかも知れません。

(注)
①久留米大学御井校舎での公開講座(10月3日午後)。テーマは「古代戸籍に記された超・長寿の謎 ―古今東西の超高齢者―」。「洛中洛外日記」2551話(2021/08/28)〝10月3日、久留米大学公開講座のレジュメ〟を参照されたい。
②河田光夫氏『親鸞と被差別民衆』明石書店、1994年。
③古田武彦『真実に悔いなし』ミネルヴァ書房、平成二五年(2013)。134頁「被差別部落と古墳分布の相似」。


第2387話 2021/03/02

「蝦夷国」を考究する(12)

 ―蝦夷国の仏教―

 郡山遺跡廃寺や多賀城廃寺についての考察を続け、その一応の結論として、両寺が蝦夷国の「鎮護国家」のための寺院とする仮説へと至りました。まだまだ初歩的な仮説ですので、先行研究との整合性、特に考古学的事実との整合性を精査しています。
 今回は視点を変えて、廃寺と関連する蝦夷国の仏教について考察します。実は以前から気になっていたことですが、『日本書紀』持統紀に蝦夷国の僧侶に関する次の記事があります。

○『日本書紀』持統三年(689年)正月条
 丙辰(三日)に、務大肆陸奥國の優嗜曇郡の城養(きこう)の蝦夷脂利古が男(こ)、麻呂と鐵折と、鬢(ひげ)髪剔(そ)りて沙門と爲(な)らむと請(もう)す。詔して曰はく、「麻呂等、少(わか)くとも閑雅(みやび)ありて欲(ものほりす)ること寡(すくな)し。遂に此(ここ)に至りて、蔬(くさびら)食ひて戒(いむこと)を持(たも)つ。所請(もう)すままに、出家し修道すべし」とのたまふ。……
 壬戌(九日)、……越の蝦夷沙門道信に、佛像一軀(はしら)、潅頂幡・鐘・鉢各一口、五色綵(しみのきぬ)各五尺、綿五屯(もち)、布一十端、鍬(すき)一十枚、鞍一具賜う。

 このように持統紀になると、蝦夷の僧侶・出家記事が現れます。この蝦夷と持統との関係が史実なのか、九州王朝と蝦夷との関係記事の転用なのかを検討しなければなりませんが、王朝交替(701年)直前の時期ですから、近畿天皇家と蝦夷国との関係性を現した可能性が大きいように思います。
 いずれにしても、この頃から八世紀初頭に至り、観世音寺式伽藍配置の郡山廃寺や多賀城廃寺などをはじめ東北地方の寺院創建がみられ、時期的に対応しているようです。ちなみに、「陸奥の蝦夷沙門自得」が観世音菩薩像をもらっていることも、多賀城廃寺が「観音寺(観世音寺)」(注①)と呼ばれていた可能性が高いことと関係しているかもしれません。
 更に時代が百年ほど下がると、東北地方(福島県会津)に徳一(注②)が現れ、東北仏教が花開きますが、これは蝦夷国の仏教文化の伝統が底流にあったからではないでしょうか。(つづく)

(注)
①多賀城廃寺西側の山王遺跡から「観音寺」と墨書された土器が出土しており、同寺は「観音寺」あるいは「観世音寺」と呼ばれていたと考えられている。
②徳一(749~824年、異説あり)は法相宗の僧侶で、藤原仲麻呂(恵美押勝)の子と伝えられている。都(平城京)での僧侶の奢侈を嫌い、奥州(会津恵日寺等)で布教した。最澄との論争(三一権実論争)は有名。