古田武彦一覧

第1569話 2018/01/09

評制施行時期、古田先生の認識(5)

 古田先生は、「評」という用語の淵源が中国や朝鮮半島諸国の「官職名」に由来するとして、1983年10月の大阪講演会(市民の古代研究会主催)で次のように説明されています。『市民の古代』第6集(1984年、中谷書店)に収録された同講演録「大化改新と九州王朝」から引用します。

 「評制度の淵源
(中略)中国の評という概念は倭の五王のでてきます『宋書』にでてくるわけです。それによりますと、延尉という官職名について述べまして、これは裁判の制度であると同時に軍事の制度である。裁判と軍事を相兼ねたものであるという説明をしてありまして、その長官を延尉正。現代でも検事正といういい方をしています。これと同じ正です。副官は延尉監。第三番目の、一番末端の役目が延尉評なんです。そして
 魏・晋以来、直云評。
延尉評が省略されて、ただ評という言い方で呼ばれるようになった。魏・晋の魏は卑弥呼の行った魏です。南朝劉宋においてもやはり評といわれていた。」(25頁)
 「ここで六国諸軍事大将軍と名乗ることは、又自らの開府儀同三司と名乗ったことは、かって帯方郡の評が行っていた軍事、裁判支配権を私が替ってやるのを認めて欲しい、ということなのです。諸軍事のキーポイントは評なわけです。(中略)言い換えると評というのは朝鮮半島にあるけれど、倭国の称号なのです。官庁名というか軍事名というか術語なのですね。(中略)そうなりますと、筑紫の君の配下の評となってくるわけです。倭国内の評はここに始まっている。こういうふうに考えなければならない。」(26頁)

 このように、中国の延尉評や評が倭国の評の淵源であり、任那などの朝鮮半島にあっても倭国の筑紫の君の配下の評であるとされ,それを明確に称号(官庁名・軍事名)とされています。すなわち、7世紀中頃に施行された日本列島内の行政区画の評制(「国・評・里」制)とは別概念と、古田先生はされているのです。(つづく)


第1568話 2018/01/07

評制施行時期、古田先生の認識(4)

 行政区画としての評制が7世紀中葉に九州王朝で始まったとする古田先生の理解(時期については通説も同様)が妥当であることを、わたしは「文字史料による『評』論 — 『評制』の施行時期について」(『古田史学会報』119号、2013年12月)で具体的な史料を明示して説明しました。更に同論稿を改訂した「『評』を論ず 評制施行時期について」を『多元』に昨年末に投稿しました。そこでは、評制施行が記された古代史料は全てその時期を7世紀中頃としており、それ以外の時期に評制を施行したとする史料は無いことを指摘しました。従って、一元史観であろうと多元史観・九州王朝説であろうと、史料根拠に基づく限り、評制施行時期は古田先生の理解通り、7世紀中頃と考えざるを得ないのです。
 他方、古田先生は九州王朝の行政区画「評制」(「国・評・里」制)における、「評」という用語の淵源が中国や朝鮮半島諸国の「官職名」に由来することも説明されました。通説でも、朝鮮半島諸国にあった「評」という官職名や行政組織名が、倭国の行政区画「評制」の「評」という字の淵源と説明しています。しかし、両者は性格が異なります。中国や朝鮮半島諸国では「官職名」「行政組織」を意味し、日本列島では行政区画として地名とのセット(例:筑前国糟屋評など)で使用されています。従って、日本古代史学において「評制」と言う場合は後者を意味しますし、古田先生もそのように理解されています。(つづく)


第1567話 2018/01/07

評制施行時期、古田先生の認識(3)

 『なかった』創刊号(2006年、ミネルヴァ書房)に収録された「学界批判 九州王朝論 白方勝氏に答える」を紹介し、古田先生が評制施行を「七世紀中葉」と認識されていたことを説明しました。その後、古田先生は更に研究を進展させ、九州王朝は博多湾岸の「難波朝廷」で評制を施行したとする見解を明らかにされました。たとえば、二〇〇八年一月の大阪講演会では次のように述べられています。

 「その中(『皇太神宮儀式帳』『神宮雑例集』、古賀注)に『難波長柄豊碕宮』や『難波朝廷』が出てくる。(中略)これが実は博多の宮殿を指している。この『難波朝廷』は九州博多にある九州王朝の宮殿を指している。その時に『評』が造られた。このように考えます。」(『古代に真実を求めて』十二集、二〇〇九年明石書店刊。五〇頁)

 『なかった』五号(ミネルヴァ書房、二〇〇八年六月)の古田武彦「大化改新批判」にも次のように記されています。

 「(補1)博多湾岸の『難波の長柄の豊碕』は、九州王朝の別宮であり、最高の軍事拠点である。ここにおいて『評制』も樹立された可能性がある。もちろん『九州王朝の評制』である。
 『近畿の(分王朝の)軍』を率いた近畿分王朝の面々(皇極天皇・中大兄皇子・中臣鎌足・蘇我入鹿等)は、この『九州王朝の別宮』に集結していた。その近傍において『入鹿刺殺』の惨劇が行われたこととなろう。」(三三頁)

 このように、「七世紀中葉」の施行とされた評制ですが、古田先生はその拠点を従来は太宰府の都督府、あるいは筑紫都督府とされていました。ここでは『皇太神宮儀式帳』(難波朝廷天下立評)などを根拠に、博多湾岸にあった九州王朝の別宮の「難波長柄豊崎宮」「難波朝廷」とする仮説(認識)を発表されました。この仮説の当否は別としても、古田先生がこのように理解されていたことがわかります。なお、「難波朝廷」という呼称は、中国南朝の冊封体制から離脱し、自ら「天子」を自称した7世紀以降の九州王朝にふさわしいものです。
 更に付言しますと、「難波朝廷天下立評」と記されている『皇太神宮儀式帳』は後代史料であり、史料として使用できないとする古田学派の論者もありますが、それは古田先生の学問の方法とは異なることが、この論稿からも明らかでしょう。(つづく)


第1566話 2018/01/07

評制施行時期、古田先生の認識(2)

 日本古代史学界では有名な郡評論争というものが永く続きましたが、最終的には藤原宮などからの出土木簡により、7世紀は「国・評・里」という行政区画「評制」であり、8世紀になって全国一斉に「国・郡・里」の「郡制」に変化したことが明らかになりました。その郡評論争を主導したのが、坂本太郎さんとそのお弟子さんの井上光貞さんでした。7世紀は「評制」とする井上さんの説が論争では勝ったのですが、その師匠の坂本さんを批判した井上論文コピーを古田先生からいただきました。師匠への厚い礼儀を踏まえた批判論文で、師弟間の論争(論文)はかくあるべきとのことで、古田先生からいただいたものです。今から20年近く昔のことだったと思います。
 当時は「大化改新」やそれに関わって「評制」などについても古田先生を中心に勉強会を行っていたのですが、行政区画としての「評制」は九州王朝が施行したもので、その時期は通説と同じで、いわゆる「孝徳朝」時代の7世紀中頃という認識でした。もちろん古田先生も同見解でした。その古田先生の理解(認識)を示した文章がありますので、ご紹介します。『なかった』創刊号(2006年、ミネルヴァ書房)に収録された「学界批判 九州王朝論 白方勝氏に答える」です。

 「七世紀中葉から末まで、日本列島(九州から関東まで)に実在した『評制』としての『評督』の上部単位。これは『筑紫都督府』以外にありえない。」(30頁)

 このように「評制」とその長官『評督』の実在期間を「七世紀中葉から末まで」と記され、評制施行が「七世紀中葉」と認識されています。更に次のような文章もあります。

 「では、その『廃評立郡の詔』は、いずこに消えたか。また、なぜ『隠さなければ』ならなかったか。この一点にこそ、最大の疑問がある。
 また、これに“呼応”すべき、いわゆる『孝徳天皇』による『立評の詔勅』が、なぜ日本書記(ママ)の孝徳紀から“姿を消している”か。これもまた、誰人にも答えることができない。」(31頁)

 ここでも評制施行時期が「孝徳天皇」のとき(七世紀中葉)との認識を前提に「『立評の詔勅』が、なぜ日本書記(ママ)の孝徳紀から“姿を消している”か。」と問題提起されています。これらの記述から、評制施行時期について「七世紀中葉」と古田先生が認識されていることは明らかです。古田先生との30年に及ぶおつきあいでも、古田先生はこうした認識を前提に学問的対話をされていました。そうしたわたしの記憶ともこれらの記述は一致しています。
 なお同書に収録されている講演録「研究発表 『大化改新詔の信憑性』(井上光貞氏)の史料批判」では次のように記されています。

 「なぜかというと、『評督』の方は、出現が大体日本列島にほぼ限られている。そして、時期が、出現の時期が、七世紀半ばから七世紀末までに限られている。」(38頁)

 わたしはこの文章も、評制施行時期を「七世紀半ばから」とする古田先生の認識に基づいていると理解しているのですが、これを「評督」だけの開始時期のことで、「評制」開始時期ではないとする論者もあります。しかし、「評制」とその長官「評督」の成立は別時期とする理解は無理筋というものです。
 この文章は日本思想史学会(東京大学)での「講演録」ですから、「評制」と「評督」は「七世紀半ばから」との通説の理解を持つ研究者を対象にしたものです。従って、「評制」と「評督」の成立時期が同時か別かなどはそもそも発表の論点に含まれていません。この講演の主論点は、「評制」「評督」は九州王朝の「筑紫都督」下の制度とするものです。
 その点、先に紹介した「学界批判 九州王朝論 白方勝氏に答える」は論文ですから、不特定多数の読者を想定して、より正確な表記となっています。論文と講演録は同じ認識で古田先生は著し、口頭発表されているはずですから、「評制」とその長官「評督」の施行時期は「七世紀中葉」とするのが古田先生の理解(認識)と考えなければなりません。(つづく)


第1565話 2018/01/06

評制施行時期、古田先生の認識(1)

 古田先生が亡くなられてから、古田学派内でちょっと不思議な現象が起こりました。それは古田先生の発言や認識について、わたしが30年にわたって先生から直接お聞きしてきたことと、古田先生の見解(認識)は異なるとする、わたしへのご批判の声が聞こえ始めたのです。学問研究ですから、ご批判は全くかまわないし、むしろ学問の発展に批判や論争は不可欠とわたしは考えています。しかし、先生のご意見が不正確に他の人には伝わっているとしたら、後世の研究者や読者のためにも、正しく伝えておかなければならないと考えています。
 そこで今回は九州王朝(倭国)における「評制」開始時期についての古田先生の見解(認識)について、わたしが直接に見聞きしたことをご紹介します。わたしがこのように聞いた、という説明では納得していただけないでしょうから、先生の著書や講演録を引用し、解説したいと思います。
 なお、ここでいう「評制」とは日本古代史学の一般的な定義である、行政区画としての「国・評・里(五十戸)」制のことであり、評の長官「評督」などの行政制度のことを意味します。もちろん、古田先生も「評制」について基本的にこうした意味で使用されてきました。(つづく)


第1551話 2017/12/09

古田先生との論争的対話「都城論」(8)

 一元史観における「前期難波宮=難波長柄豊碕宮」に次いで、わたしの前期難波宮九州王朝副都説の論理構造について解説します。
 まず、一元史観による「前期難波宮=難波長柄豊碕宮」の論理構造と下記の①〜④までは同じです。

 ①律令による全国統治に必要な王宮の規模として、大規模な朝堂院様式の平城宮や藤原宮という出土例(考古学的事実)がある。
 ②その例に匹敵する巨大宮殿遺構が大阪市法円坂から出土(考古学的事実)し、「前期難波宮」と命名された。
 ③前期難波宮の創建年代について、孝徳期か天武期かで永く論争が続いた。
 ④「戊申年」(648年)木簡や整地層から7世紀中頃の土器の大量出土(考古学的事実)、水利施設木枠等の年輪年代測定(測定事実)により、孝徳期創建説が通説となった。

 ここまでは考古学的事実に基づいており、一元史観であれ多元史観であれ、考古学的事実を認める限り、それほど大きな意見の差はありません。④の後に一元史観では次のような実証が展開されます。
 「⑤そうした考古学的事実に対応する『日本書紀』孝徳紀に見える『難波長柄豊碕宮』(史料事実)が前期難波宮であるとした。」
 わたしは古田史学・九州王朝説に立っていますから、『日本書紀』の記述を無批判に採用することはできません。そこで①〜④の考古学的事実に対して、九州王朝説を是とする立場から次のように論理展開しました。

 ⑤7世紀中頃に九州王朝(倭国)が施行した評制により全国統治が可能な宮殿・官衙は国内最大規模の前期難波宮だけであることから、前期難波宮は九州王朝の宮殿と見なさざるを得ない。その際、九州王朝(倭国)は当時としては最新の中国風王宮の様式「朝堂院様式」を採用した。
 ⑥九州王朝はその前期難波宮にて、九州年号「白雉」改元の大規模な儀式を行った。そのことが『日本書紀』孝徳紀白雉元年条に記載(盗用)された。

 以上のようにわたしの副都説は、考古学的事実に基づく実証と、九州王朝説を根拠(前提)とする論証との逢着により成立しています。従って、古田先生による九州王朝実在の論証が成立していなければ、わたしの副都説も成立しないという論理構造を有しています。(つづく)


第1546話 2017/12/01

古田先生との論争的対話「都城論」(7)

 一元史観における「前期難波宮=難波長柄豊碕宮」説成立の基本的な論理構造が、考古学的出土事実と『日本書紀』や『続日本紀』の史料事実の対応という、いわば「シュリーマンの法則」に合致した強固なものであることにわたしが気づいたのは約20年ほど前のことでした。以来、九州王朝説に立つわたしはこの問題に悩まされてきました。それは次のような点でした。

 ①前期難波宮の巨大な規模(国内最大)は、7世紀中頃から後半の律令時代にふさわしい全国支配のための王宮と見なさざるを得ない。
 ②7世紀中頃に評制が全国に施行された。その主体は九州王朝(倭国)とするのが古田説だが、その評制支配された側の近畿天皇家の孝徳天皇の宮殿(前期難波宮)の方が、九州王朝の王宮と考えられていた大宰府政庁Ⅱ期宮殿遺構よりも10倍近く巨大というのは、九州王朝説にとって不都合な考古学的事実である。
 ③前期難波宮の特徴はその規模だけではなく、当時としては最新の中国風王宮の様式「朝堂院様式」である。この最新の様式が九州王朝の中枢領域ではなく、近畿(摂津難波)に最初に取り入れられたことも、九州王朝説にとって不都合な考古学的事実である。
 ④「天子」を自称した7世紀初頭の多利思北孤の時代から白村江戦以前の7世紀中頃までは九州王朝(倭国)が最も興隆した時代と思われる(唐と一戦を交えられる国力を有していた)。しかし、その宮殿は配下の近畿天皇家(前期難波宮)の方がはるかに巨大であることは、九州王朝説では合理的な説明ができない。

 こうしたことが九州王朝説にとって深刻な問題であることに気づいたわたしは何年も悩み続けました。
 一元史観との論争(他流試合)を経験された方であれば理解していただけると思いますが、わたしがある著名な理系の研究者に古田説・九州王朝説を説明したところ、邪馬壹国が博多湾岸にあったことには賛意を示してくれたのですが、6〜7世紀時点では大和朝廷が列島の代表者と考える方が考古学的諸事実や『日本書紀』の記事と整合しているとの実証的反論を受け、約2時間論争しましたが、ついにその研究者を説得できませんでした。
 彼は理系の研究者らしく、「あなた(古賀)も理系の人間なら、解釈ではなく、近畿よりも九州に権力中心があったとするエビデンスを示せ」と、わたしに迫ったのです。すなわち、中国史書の倭国伝などを史料根拠としての論理的帰結(論証)による九州王朝説を、彼は「一つの解釈にすぎない」として認めず、具体的なエビデンス(考古学的証拠)に基づく「実証」を求めたのでした。この論法は「戦後実証史学」に見られる古田説・九州王朝説批判の典型的なものでもあります。なお付言しますと、彼は真摯な研究者であり、一元史観にこだわるという頑固な姿勢ではなく、九州王朝説にも深い関心を持たれていました。
 今回の問題についても、前期難波宮を近畿天皇家の宮殿と理解する限り、それは“7世紀中頃には既に九州王朝はなかった”という新たな一元史観(修正一元史観)を支持するエビデンス(証拠)として「戦後実証史学」にからめ取られてしまうのです。(つづく)


第1545話 2017/11/26

古田先生との論争的対話「都城論」(6)

 わたしの前期難波宮九州王朝副都説の本質は前期難波宮を九州王朝説ではどのように理解し、位置づけるのかにありますが、その対極にある一元史観の通説「前期難波宮=難波長柄豊碕宮」がどのような論理構造に基づいて成立しているのかについて解説したいと思います。
 一元史観の都城論において、基本的な論理構造は考古学的出土事実と『日本書紀』や『続日本紀』の史料事実の対応です。特に8世紀初頭と7世紀後半における律令時代にふさわしい全国支配のための王宮として、平城宮と藤原宮という巨大朝堂院を有する宮殿が出土し、その年代なども『続日本紀』『日本書紀』の記述とほぼ矛盾なく整合しています。
 藤原宮(京)の創建により、701年以降の近畿天皇家は朝堂院と朝庭を有する宮殿において律令による全国統治を行ったことに由来する「大和朝廷」という呼称が妥当な列島の代表王朝となりました。藤原宮に比べて、各地の国府の規模は律令体制下の各国を統治するのに必要な小規模な宮殿(大宰府政庁Ⅱ・Ⅲ期の宮殿もこの規模)で出土しています。各国府遺構と比較してもはるかに巨大な平城宮や藤原宮が全国支配に対応した規模であることは明らかです。
 このような考古学的事実による実証と、『日本書紀』『続日本紀』の史料事実による実証が整合していることが一元史観成立の基本的な根拠の一つになっているのです。この論理構造の延長線上に、前期難波宮の一元史観による理解と位置づけがなされています。
 わかりやすく箇条書きで一元史観による「前期難波宮=難波長柄豊碕宮」説成立に至った論理構造を説明します。

 ①律令による全国統治に必要な王宮の規模として、大規模な朝堂院様式の出土遺構として平城宮や藤原宮という先例がある。
 ②その先例に匹敵する巨大宮殿遺構が大阪市法円坂から出土し、「前期難波宮」と命名された。
 ③前期難波宮の創建年代について、孝徳期か天武期かで永く論争が続いた。
 ④「戊申年」木簡や7世紀中頃の土器などの考古学的出土事実により、孝徳期創建説が通説となった。
 ⑤そうした考古学的事実に対応する『日本書紀』孝徳紀に見える「難波長柄豊碕宮」が前期難波宮であるとした。
 ⑥その結果、『日本書紀』孝徳紀にある「大化改新詔」を実施した宮殿は前期難波宮(難波長柄豊碕宮)とする理解が可能となり、文献史学で論争されていた「大化改新」の是非について、「大化改新」は歴史事実とする説が有力となった。

 以上のように、『日本書紀』孝徳紀の「論じることができないような宮殿」創建記事(白雉三年条)と、法円坂から出土した前期難波宮は、古田先生のいう「シュリーマンの法則」、すなわち伝承(史料)と考古学的出土事実が一致すれば、その伝承は真実である可能性が高いという好例となります。こうした強固な論理構造により、一元史観による通説(前期難波宮=難波長柄豊碕宮)は成立しているのです。考古学事実に基づく実証と『日本書紀』の史料事実に基づく実証の相互補完により成立している「戦後実証史学」は決して侮ることはできません。(つづく)


第1539話 2017/11/15

深志の三悪筆

 昨日は松本市での古代史講演会で正木裕さん(古田史学の会・事務局長)と共に講演しました。平日にもかわらず、「邪馬壹国研究会・まつもと」(事務局:鈴岡さん)の会員や古田先生の教え子さんをはじめ長野県内各地から30名以上の参加がありました。質疑応答で出された質問はとてもレベルが高く、「学都松本」と言われるだけはありました。会場は松本城(国宝)に近い中央図書館ですが、大勢の中高生が館内で勉強している姿にも感銘を受けました。催し物がない日は講演会場も開放し、子供たちの自習に使用させるとのこと。他の図書館にも見習ってほしい姿勢です。
 夜の懇親会では「邪馬壹国研究会・まつもと」の丸山さんから松本深志高校時代の古田先生の思い出話をたくさん聞かせていただきました。中でも国文学の担当をされていた古田先生の授業は休講が多かったが内容は素晴らしかったこと、深志高校の先生の中では古田先生は字が下手で、「深志の三悪筆」と生徒から呼ばれていたことなどを教えていただきました。ただし、「三悪筆」の中では、古田先生の字はまだ読める方だったとのこと。
 「深志の三悪筆」とは言い得て妙の表現です。たしかに古田先生の字は達筆とは言えませんでしたが、独特の「味のある」字体でした。ちなみに、一緒に「古田史学の会」を立ち上げた藤田友治さん(故人)とわたしも悪筆で、古田先生の「弟子」の中では「超悪筆」の二人かもしれません。他方、水野孝夫顧問(前代表)は達筆です。
 更に丸山さんは古田先生のお父上もご存じで、広島大学に進学されるとき、保証人になっていただいたそうです。古田先生の教え子さんたちも物故され、当時の古田先生のことを知る方々も少なくなっていますが、古田先生のお父上をご存じの方がおられることに驚きました。
 懇親会は夜遅くまで続き、遠方からお越しの方が徐々に退席される中、先生の思い出や学問の話、今後の活動方針などを話題に歓談が続きました。信州の皆様、ありがとうございました。


第1538話 2017/11/14

邪馬壹国説博多湾岸説の論理構造

 今朝は名古屋に向かう新幹線車中で執筆しています。名古屋駅で長野行きの特急しなのに乗り換え、松本市に行きます。午後、松本市中央図書館で開催される講演会で正木裕さんと二人で講演します。主催は「古田史学の会」と「邪馬壹国研究会・まつもと」です。そこで、今回の「洛中洛外日記」は古田先生の邪馬壹国博多湾岸説に関連したテーマとしました。

 学問研究において仮説の優劣は、発表者の地位や肩書きではなく、その論証により決まると古田先生から教わりましたが、その論証がよって立つ基礎・基盤とも言える論理構造というものがあります。ともすればその論理構造とは無縁の、あるいは反する「思いつき」を論証として発表されるケースも散見されますので、この論理構造というものについて、古田先生の邪馬壹国博多湾岸説を題材として説明したいと思います。なお、この「論理構造」という名称はわたしがとりあえず採用したもので、もっとふさわしい名称があることと思いますので、ご提案いただければ幸いです。
 古田古代史学衝撃のデビュー作『「邪馬台国」はなかった』では、その『三国志』中の「壹」と「臺」の全数調査という方法が注目されがちなのですが、そのテーマは文献(『三国志』)の史料批判に属します。他方、「邪馬台国」論争の花形テーマであるその所在地論争において、古田先生は邪馬壹国博多湾岸説を提唱され、その根拠や論証を圧倒的な説得力で詳述されました。同書の出現により、それまでの諸説は完全に論破され、「邪馬台国」論争を異次元の高みへと引き上げました。
 この博多湾岸説の基礎となり、その論証・仮説群の成立を支えた論理構造は「部分の総和は全体になる」という自明の公理との整合でした。すなわち、邪馬壹国への行程記事に見える「部分里程」の合計は「総里程=12000余里」にならなければならないという論理構造です。そして、苦心惨憺された結果、対海国と一大国の半周行程の和(1400里)を発見され、部分里程の総和が総里程(12000余里)となる読解に成功されたのです。博多湾岸説誕生の瞬間でした。
 こうして「部分里程」の合計が「総里程=12000余里」になるという古田説が成立し、そうならない他の説を圧倒する説得力を持ったのです。この論理構造、「部分の総和は全体になる」という自明の公理との整合こそ古田説が際だつ決定的論点だったのです。このように、優れた仮説にはその根幹に強固な論理構造が存在しています。このことを意識し、強固な論理構造(万人が了承する理屈)に依拠した学問研究は優れた仮説を生み出すことができます。
 なお付言すれば、古田先生は博多湾岸説に至るもう一つの仮説「短里説」を成立させています。先の論理構造と短里説が逢着して博多湾岸説は盤石な仮説となりました。短里説の成立だけでも邪馬壹国は北部九州にあったことがわかるのですが、里程記事の新解釈によって博多湾岸説を確固としたものにされたのです。
 また、古田先生と同様の論理構造に立たれて、古田説とはやや異なる有力説を発表されたのが野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)です。倭人伝に見える「倭地を参問するに、(中略)周旋五千余里」の新解釈として、狗邪韓国から侏儒国に至る陸地行程の合計が5000里となることを発見されました。詳細は『邪馬壹国の歴史学』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房)の野田利郎「『倭地、周旋五千余里』の解明」をご参照ください。
 最後に、この論理構造を採用された背景には、古田先生の学問精神、すなわち深い思想性があるのですが、そのことは別の機会に論述したいと思います。


第1535話 2017/11/05

古田先生との論争的対話「都城論」(5)

 「難波長柄豊碕宮」についての古田説を説明してきましたが、わたしの副都説の本質は前期難波宮を九州王朝説ではどのように理解し、位置づけるのかにあります。すなわち、7世紀中頃の宮殿としてはけた違いに大規模で(7世紀末に近畿天皇家の藤原宮が完成するまでは日本最大)、日本初の中国風の朝堂院様式の前期難波宮を倭国(九州王朝)の天子の宮殿とするのか、その配下の近畿天皇家(孝徳天皇)の宮殿とするのかという問題です。この問題を明確にするために次の四つの問いを示し、それを最もよく説明できる答えを反対される方々に求めてきました。

1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

 通説と古賀説の「解答例」を記し、難波朝廷博多湾岸説による「解答」も考察してみます。

〔解答例1・通説〕
1.孝徳天皇の難波長柄豊碕宮。
2,大和朝廷が全国を評制統治するための宮殿。
3,前期難波宮と周囲の官衙群、あるいは飛鳥宮。
4.諸説あるが未定。

〔解答例2・古賀説〕
1.九州王朝の天子の宮殿。
2.九州王朝が全国を評制統治するための宮殿(副都)。
3.前期難波宮と周囲の官衙群。前期難波宮焼失後は太宰府(首都)か。
4.前期難波宮。

 難波朝廷博多湾岸説の解答例は次のようになると考えられます。

〔解答例3・難波朝廷博多湾岸説〕
1.『日本書紀』に記されていない近畿天皇家の宮殿。
2.不明。
3.博多湾岸の愛宕神社にあった難波朝廷(別宮)で評制樹立。「奥宮」は太宰府。
4.不明。(古田先生から直接お聞きしたご意見は別に詳述します)

 このような「解答」が難波朝廷博多湾岸説では想定できます。わたしから見ると、それぞれの説に一長一短があり、通説では4が、難波朝廷博多湾岸説では2と4の答えが導き出せないように思われます。わたしの副都説にも説明しにくい弱点があります。その理由は各説の持つ論理構造にあります。(つづく)

 


第1534話 2017/11/04

古田先生との論争的対話「都城論」(4)

 『日本書紀』に孝徳の宮殿と記された「難波長柄豊碕宮」を、古田先生は博多湾岸にある類似地名(名柄川、豊浜)の存在を根拠に、福岡市西区の愛宕神社にあったとする仮説を発表されたのですが、その仮説はそれだけにとどまることなく、その地が九州王朝の「難波朝廷」であり、評制を施行した宮殿とされました。2008年1月の大阪講演会では次のように述べられています。

 「その中(『皇太神宮儀式帳』『神宮雑例集』、古賀注)に『難波長柄豊碕宮』や『難波朝廷』が出てくる。(中略)これが実は博多の宮殿を指している。この『難波朝廷』は九州博多にある九州王朝の宮殿を指している。その時に『評』が造られた。このように考えます。」(『古代に真実を求めて』12集、2009年明石書店刊。50頁)

 『なかった』五号(ミネルヴァ書房、2008年6月)の古田武彦「大化改新批判」にも次のように記されています。

 「(補1)博多湾岸の『難波の長柄の豊碕』は、九州王朝の別宮であり、最高の軍事拠点である。ここにおいて『評制』も樹立された可能性がある。もちろん『九州王朝の評制』である。
 『近畿の(分王朝の)軍』を率いた近畿分王朝の面々(皇極天皇・中大兄皇子・中臣鎌足・蘇我入鹿等)は、この『九州王朝の別宮』に集結していた。その近傍において『入鹿刺殺』の惨劇が行われたこととなろう。」(33頁)

 このように、古田先生は博多湾岸の愛宕神社に「難波朝廷」があり、ここで九州王朝の評制を樹立したとする仮説を発表されたのです。この場合、九州王朝の「難波朝廷」がそこにあったとする史料根拠は『皇太神宮儀式帳』です。それ以外に「難波朝廷で天下立評した」と記した史料はありません。ちなみに『皇太神宮儀式帳』は『日本書紀』の影響を受けた後代史料だから歴史史料として使えないとする論者もあるようですが、史料批判の上で使用された古田先生の学問の方法と異なることは明らかです。わたしも古田先生と同意見で、史料批判により『皇太神宮儀式帳』は歴史史料として使用できると考えています。
 前期難波宮を孝徳の難波長柄豊碕宮とする一元史観の通説に対して、わたしは前期難波宮九州王朝副都説を発表していたのですが、新たに古田先生は「難波長柄豊碕宮=難波朝廷」博多湾岸説とそこでの評制樹立説を提起されたのです。こうして、三つの説が出そろって、わたしと古田先生の長期にわたる「論争」が本格的に始まったのでした。(つづく)