古田史学会報一覧

第3086話 2023/08/01

『東京古田会ニュース』No.211の紹介

 『東京古田会ニュース』211号が届きました。拙稿「伏せられた『埋蔵金』記事 ―「東日流外三郡誌」諸本の異同―」を掲載していただきました。『東日流外三郡誌』には三つの校本があるのですが、北方新社版には欠字が多く、それは「埋蔵金」の隠し場所を記した部分であり、「埋蔵金」探しにより遺跡が荒らされることを懸念した編集者(藤本光幸さん)の判断により、欠字にされたことを拙稿では紹介しました。更に、八幡書店版編纂時には遺跡の地図が描かれた「東日流外三郡誌」五冊が既に紛失しており、それを所持している人が〝宝探し〟をしているという情報を得たことも紹介しました。すなわち、当時(昭和50~60年代)の地元の人々は、「東日流外三郡誌」を偽書とは思っていなかったのでした。このことは偽作説への反証となるため、論文発表を考えていましたが、古田先生に止められた経緯もあり、それから20年以上を経て、今回、ようやく発表に至りました。

《『東日流外三郡誌』3校本》
(ⅰ)『東日流外三郡誌』市浦村史資料編(全三冊) 昭和五〇~五二年(一九七五~一九七七年)。
(ⅱ)『東日流外三郡誌』北方新社版(全六冊) 小舘衷三・藤本光幸編、昭和五八~六〇年(一九八三~一九八五年)。後に「補巻」昭和六一年(一九八六年)が追加発行された。
(ⅲ)『東日流外三郡誌』八幡書店版(全六冊) 平成元年~二年(一九八九~一九九〇年)。

 当号には印象深い論稿がありました。一面に掲載された安彦克己新会長のご挨拶です。会長就任の決意を次のように語られています。

「古田先生が亡くなられて早7年余りが過ぎました。東京古田会に限らず各地には、先生の謦咳を受け、先生の論説に共感し、また研究方法に共鳴した学徒がたくさんおられます。通説を疑う論稿はその後も続々と発表されています。
しかし、諸々の理由で会員数が減少傾向にあるのは、否めない状況です。一方でミネルヴァ書房から出版されている「古田武彦古代史コレクション」に接して、共に学び・研究したいと入会を希望する方も常におられます。この会が、そうした学徒の思いに応えられる場であり、知的空間となりますよう、微力ながらお手伝いできればと思っております。私自身も、今まで以上に史料を読みこみ、新たな発見につながるよう勉強することをお誓いいたします。」

 このご挨拶に接し、わたしたち「古田史学の会」も同じ志を高く高く掲げ、ともに歩んでいきたいと改めて思いました。同号には8月5日の東京講演会の案内を同封していただきました。東京古田会様のご協力に感謝します。


第3070話 2023/07/16

『九州倭国通信』No.211の紹介

友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.211が届きました。同号には拙稿「古代寺院、『九州の空白』」を掲載していただきました。
拙稿は、七世紀初頭の阿毎多利思北孤の時代、九州王朝は仏教を崇敬する国家であったにもかかわらず、肝心の北部九州から当時の仏教寺院の出土が不明瞭で、七世紀後半の白鳳時代に至って観世音寺などの寺院建立が見られるという、九州王朝説にとっては何とも説明し難い考古学的状況であることを指摘し、他方、現地伝承などを記した後代史料(『肥後国誌』『肥前叢書』『豊後国誌』『臼杵小鑑拾遺』)には、聖徳太子や日羅による創建伝承を持つ六世紀から七世紀前半創建の寺院が多数記されていることを紹介したものです。
また、同号に掲載された沖村由香さんの「線刻壁画の植物と『隋書』の檞」は興味深く拝読しました。国内各地の古墳の壁に線刻で描かれた植物について論究されたものです。その研究方法は手堅く、導き出された結論も慎重な筆致の好論でした。各地の古墳に描かれた同じような葉について追究された結果、それは『隋書』俀国伝に記された倭人の風習として、食器の代わりに使用する「檞」に着目され(注)、それはアカガシであるとされました。なかなか優れた着眼点ではないでしょうか。

(注)『隋書』俀国伝に次の記事が見える。
「俗、盤俎(ばんそ)無く、藉(し)くに檞(かし)の葉を以てし、食するに手を用(も)ってこれを餔(くら)う。」


第3058話 2023/07/01

『多元』No.176の紹介

友好団体「多元的古代研究会」の会誌『多元』No.176が届きました。同号には拙稿「七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―」を掲載していただきました。同稿は、本年11月の八王子セミナーで発表予定の〝律令制都城の絶対条件〟という研究テーマ(注①)を、本年三月の「多元の会」月例会で先行発表した内容を論文化したものです。月例会で出された批判や疑問などを参考にして、八王子セミナーでの発表に活かしたいと考えています。
当号冒頭に掲載された八木橋誠さん(黒石市)の「倭国の漢字 ―音読みを探る―」は、倭人伝や『隋書』俀国伝の国名・地名表記が倭国側で成立したものとされ、その漢字使用の経緯や上古音・中古音について詳述した労作で、刺激を受けました。個別の論点では見解がわかれるケースもあるのですが、倭語(地名・人名など)の漢字による表記を論じる上で貴重な研究と思われました。20年ほど前に、わたしも上古音の復元や倭人伝の音韻について論争したことがあり(注②)、当時の研究を思い起こしました。

(注)
①次の「洛中洛外日記」などで提起した。
古賀達也「洛中洛外日記」2963話(2023/03/13)〝七世紀の九州王朝都城の“絶対条件”〟
同「洛中洛外日記」2964話(2023/03/14)〝七世紀、律令制王都の有資格都市〟
同「洛中洛外日記」2965話(2023/03/15)〝律令制王都の先駆け、倭京(太宰府)〟
同「洛中洛外日記」2966話(2023/03/16)〝律令制王都諸説の比較評価〟
同「洛中洛外日記」2967話(2023/03/17)〝異形の王都、近江大津宮〟
同「洛中洛外日記」2970話(2023/03/20)〝続・異形の王都、近江大津宮〟
②内倉武久「漢音と呉音」『古田史学会報』100号、2010年。
古賀達也「『漢代の音韻』と『日本漢音』―内倉武久氏の「漢音と呉音」に誤謬と誤断―」『古田史学会報』101号、2010年。
内倉武久「魏志倭人伝の読みに関する「古賀反論」について」『古田史学会報』103号、2011年。
古賀達也「再び内倉氏の誤論誤断を質す ―中国古代音韻の理解について―」『古田史学会報』104号、2011年。
内倉武久「反論になっていない古賀氏の『反論』」『古田史学会報』106号、2011年。
古賀達也「倭人伝の音韻は南朝系呉音 ―内倉氏との「論争」を終えて―」『古田史学会報』109号、2012年。


第3055話 2023/06/28

30年ぶりに拙論「二つの日本国」を読む

 最近、『古田史学会報』投稿論文審査の必要性から、30年前に発表した拙論「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」(注①)を読みました。当論文は、1991年に信州白樺湖畔の昭和薬科大学諏訪校舎で開催された古代史徹底論争 「邪馬台国」シンポジウム発表者の研究論文を収録した『古代史徹底論争 「邪馬台国」シンポジウム以後』に掲載されたものです。わたしは同シンポジウムの実行委員会の一員として運営に徹していたのですが、古田先生のご配慮により、特別に論文掲載を許されました。しかも、内容は「邪馬台国」論争と殆ど無関係な『三国史記』の史料批判をテーマとしたものでした。

 同稿の主論点は『三国史記』新羅本紀に見える八~九世紀の日本国記事の日本は大和朝廷ではなく王朝交代後の〝九州王朝〟のことであるとするものです。すなわち、列島の代表王朝の地位を大和朝廷に取って代わられた後も、〝九州王朝〟は完全に滅亡したわけではなく、新羅と〝交流〟〝交戦〟していたとする仮説です。その根拠として、新羅本紀に記された日本国記事の内容が大和朝廷(近畿天皇家)の『続日本紀』の記事とほとんど対応していないことを指摘しました。

 一旦、この理解に立つと、新羅本紀の文武王十年(670年)の記事に見える倭国から日本国への国号変更記事(注②)は、九州王朝が国名を倭国から日本国に変更したと見なさざるを得ないとしました。

 この理解は古田説とは異なるものでしたが、古田先生から咎めらることもなく、『古代史徹底論争 「邪馬台国」シンポジウム以後』に採用していただきました。当時、わたしの関心事は701年の王朝交代後の九州王朝がどうなったのかということでしたので、関連論文を発表し続けていました(注③)。なお、当論文の末尾をわたしは次のように締めくくっています。

 〝「孤立を恐れず。論理に従いて悔いず。一寸の権威化も喜ばす」とは古田武彦氏の言である。思うに、この言葉に導かれて本稿は成立し得た。学恩に深謝しつつ筆を擱くこととする。〟

 37歳の時の未熟な論文ではありますが、今、読み直しても、研究の視点や学問の方法は大きく誤ってはいないようです。(つづく)

(注)
①古賀達也「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」『古代史徹底論争 「邪馬台国」シンポジウム以後』古田武彦編著、駸々堂、1993年。
②「文武十年(670年)十二月、倭国、更(か)えて日本と号す。自ら言う「日の出づる所に近し。」と。以て名と為す。」『三国史記』新羅本紀第六、文武王紀。
③王朝交代後の九州王朝について論じた次の拙稿がある。
「最後の九州王朝 ―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。
 「九州王朝の末裔たち ―『続日本後紀』にいた筑紫の君―」『市民の古代』12集、市民の古代研究会編、1990年。
「空海は九州王朝を知っていた ―多元史観による『御遺告』真贋論争へのアプローチ―」『市民の古代』13集、1991年、新泉社。


第3040話 2023/06/13

『古田史学会報』176号の紹介

 『古田史学会報』176号が発行されました。拙稿「九州王朝戒壇寺院の予察」を掲載して頂きました。「戒壇」とは国家による仏教統制の仕組みの一つであり、僧侶になるためには国家が認証した戒壇寺院で受戒することが必要でした。大和朝廷の場合は東大寺と太宰府の観世音寺、下野国の薬師寺が戒壇寺院と定められ、古代日本の「天下の三戒壇」とも称されています。

 拙稿では、大和朝廷に先立つ九州王朝(倭国)にも国家認証の戒壇寺院があったのではないかとする視点により、共に670年(白鳳十年)の創建伝承を持つ観世音寺と下野薬師寺は九州王朝による戒壇寺院ではないかとしました。更に、高良山(久留米市)にも「戒壇堂」という地名があり、ここにも九州王朝の戒壇があったとする仮説を発表しました(注①)。なお、多元史観による戒壇・受戒などについては日野智貴さん(古田史学の会・会員)の研究、好論があります(注②)。
会報一面に掲載された正木稿は、701年の王朝交代後の九州王朝が大和朝廷により駆逐される様子が〝隼人討伐〟として『続日本紀』に遺されていることを明らかにしようとするもので、その目論見はかなり成功しているように思えました。同テーマは『九州王朝の興亡』出版記念講演会でも発表される予定で、楽しみです。

 176号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』176号の内容】
○消された和銅五年(七一二)の「九州王朝討伐戦」 川西市 正木 裕
○会員総会(6月17日)のお知らせ 会誌26号『九州王朝の興亡』出版記念講演の案内
○『播磨国風土記』宍禾郡・比治里の「奪谷」の場所 神戸市 谷本 茂
○『日本書紀』の対呉関係記事 たつの市 日野智貴
○土佐国香長条里七世紀成立の可能性 高知市 別役政光
○九州王朝戒壇寺院の予察 京都市 古賀達也
○「壹」から始める古田史学・四十二
多利思北孤と「鞠智城」の盛衰 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○書評 待望の復刊、『関東に大王あり』 京都市 古賀達也
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古代に真実を求めて』27集 原稿募集
○『古田史学会報』投稿募集・規定

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2706話(2022/03/24)〝下野薬師寺と観世音寺の創建年〟
同「洛中洛外日記」2723話(2022/04/19)〝高良山中にもあった九州王朝の戒壇〟
②日野智貴「九州王朝の戒壇と僧伽(サンガ)」古田史学の会・関西例会(2021年1月)で発表。
古賀達也「洛中洛外日記」2351話(2021/01/16)〝仏法僧の受戒・得度制度の多元史観〟
日野智貴「菩薩天子と言うイデオロギー」『古田史学会報』174号、2023年


第3028話 2023/06/01

『東京古田会ニュース』No.210の紹介

 『東京古田会ニュース』210号が届きました。拙稿「『東日流外三郡誌』の考古学」を掲載していただきました。拙稿は福島城跡(旧・市浦村)の創建年次などについて論じたものです。東北地方北部最大の城館遺跡とされている福島城(旧・市浦村)は東京大学による調査(注①)により、14~15世紀の中世の城址と見なされてきましたが、他方、東日流外三郡誌には福島城の築城を承保元年(1074)とされていました(注②)。ところが、その後行われた発掘調査(注③)により、福島城は古代に遡ることがわかり、出土土器の編年により10~11世紀の築城とされ、東日流外三郡誌に記された「承保元年(1074)築城」が正しかったことがわかりました。この事実は東日流外三郡誌偽作説を否定するものとなりました。
当号には注目すべき論稿がありました。橘高修さん(東京古田会・副会長、日野市)による「古代史エッセー73 マクロ的に見た史観の推移」です。【皇国史観】【津田史学の登場】【皇国史観に対する津田の立場】【古田武彦の津田史学批判】【津田説から古田説へ】という小見出しからもわかるように、戦前から戦後、そして現在に至る日本古代史学の思潮を概説した好論です。特に津田史学の解説は興味深く拝読しました。
津田史学の特筆すべき業績に、皇国史観による『日本書紀』の解釈を否定したことがあります。戦前戦中は非難の対象となった津田史学でしたが、戦後は一転して評価されます。しかし、神話などを学問(史料批判)の対象から除外するという、行き過ぎた古代史学や戦後教育を生み出す一因にもなりました。こうした津田史学の影響を学問的に乗り越えたのが古田史学であり、フィロロギー(注④)という学問でした。
古田史学の歴史的意義を論じた橘高稿を読み、古田先生亡き後、改めて先生の学問やその方法、歴史的位置づけを確認することが、今日の古田学派にとって重要ではないかと考えさせられました。

(注)
①昭和30年(1955)に行われた東京大学東洋文化研究所(江上波夫氏)による発掘調査。
②『東日流外三郡誌』北方新社版第三巻、119頁、「四城之覚書」。
③1991年より三ヶ年計画で富山大学考古学研究所と国立歴史民俗博物館により同城跡の発掘調査がなされ、福島城遺跡は平安後期十一世紀まで遡ることが明らかとなった(小島道祐氏「十三湊と福島城について」『地方史研究二四四号』1993年)。
④古田武彦「アウグスト・ベエクのフィロロギィの方法論について〈序論〉」『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)古田史学の会編、明石書店、2016年。初出は『古代に真実を求めて』第二集、1998年。
古賀達也「洛中洛外日記」1370話(2017/04/15)〝フィロロギーと古田史学〟
茂山憲史「『実証』と『論証』について」『古代に真実を求めて』22集、2019年。初出は『古田史学会報』147号、2018年。


第3007話 2023/05/05

『多元』No.175の紹介

友好団体「多元的古代研究会」の会誌『多元』No.175が届きました。同号には拙稿「古代貨幣の多元史観 ―和同開珎・富夲銭・無文銀銭―」を掲載していただきました。同稿は、本年一月の「多元の会」主催リモート研究会で清水淹さんが発表された「謎の銀銭」に啓発されて、投稿したものです。そのなかで、藤原宮から出土した地鎮具に9本の水晶と9枚の富夲銭が使用されていたのは、九州王朝(9本の水晶)を同じく9枚の富夲銭で封印するという、新王朝(日本国)の国家意思を表現したものとする仮説を発表しました。
当号冒頭に掲載された黒澤正延さん(日立市)の「推古朝における遣唐使(一) ―小野妹子と裴世清―」は、推古紀に見える遣唐使の小野妹子は九州王朝が派遣したとする研究です。意表を突く仮説であり、その当否はまだ判断できませんが、わたしは注目しています。今後の検証と論争が期待されます。


第2994話 2023/04/23

『九州倭国通信』No.210の紹介

友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.210が届きました。同号には拙稿「巨勢楲田朝臣の灌漑伝承 ―新撰姓氏録の中の九州王朝―」を掲載していただきました。拙稿は、『新撰姓氏録』「右京皇別 上」に見える、巨勢楲田朝臣(こせのひたのあそん)による七世紀中頃の灌漑事業記事(注①)を、浮羽郡における九州王朝系伝承としたものです。「九州古代史の会」は福岡県を中心として活動する団体ですので、わたしはなるべく九州地方に関係した論稿の投稿を心がけています。
当号には兼川晋さんのご逝去(本年二月五日没)を悼む記事が掲載されており、同氏が亡くなられたことを知りました。兼川さんは福岡市のテレビ局(テレビ西日本)で活躍され、「九州古代史の会」の前身「市民の古代研究会・九州支部」創設者のお一人です。古くからの古田先生の支持者で、古代史の本の編訳(注②)もされています。「市民の古代研究会・九州支部」はわたしが「市民の古代研究会」事務局長時代に創設されたこともあり、古田先生をお招きして創立記念講演会を福岡市で開催したことは懐かしい思い出です。
古くからの古田史学支持者や古田ファンが次々と物故され、寂しい限りです。残された者の使命として、古田先生の学問・学説、そしてその学問精神を過たず後世に伝えなければと、改めて決意しました。兼川さんのご冥福をお祈り申し上げます。

(注)
①『新撰姓氏録』右京皇別上に次の記事が見える。
「巨勢楲田朝臣
雄柄宿禰四世孫稻茂臣之後也。男荒人。天豊財重日足姫天皇〔諡皇極〕御世。遣佃葛城長田。其地野上。漑水難至。荒人能解機術。始造長楲。川水灌田。天皇大悦。賜楲田臣姓也。日本紀漏。」
②李鍾恒著・兼川晋訳『韓半島からきた倭国』新泉社、1990年。


第2984話 2023/04/12

『古田史学会報』175号の紹介

 『古田史学会報』175号が発行されました。一面には拙稿「唐代里単位の考察 ―「小里」「大里」の混在―」を掲載して頂きました。『旧唐書』倭国伝の「去京師一萬四千里」や同地理志に見える里程記事は実際距離との整合が難しく、実測値から換算した一里の長さもバラバラです。この「一萬四千里」が短里なのか唐代の長里なのかなど、京師(長安)から倭国までの距離について諸説が出されています。本稿では、諸説ある唐代の里単位について考察し、『旧唐書』に「小里」(約430m)と「大里」(約540m)が混在していることを論じました。

 谷本稿は、『古田史学会報』173号の大原稿「田道間守の持ち帰った橘のナツメヤシの実のデーツとしての考察」への批判論文で、史料の解釈上の問題点と田道間守の持ち帰った橘をバナナとする西江碓児説の有効性についての指摘です。谷本さんらしい、厳密な史料読解と諸仮説への慎重な姿勢を促す論稿と思われました。

 日野稿は倭国における名字の発生や変遷について論じたもので、古田先生も古田学派内でもあまり論じられてこなかったテーマです。日本史上で使用されてきた「姓(かばね)」「本姓」「氏」「名字」などの定義(注①)とその変遷の煩雑さ・重要さを改めて考えさせる論稿でした。

 大原稿は関西例会でも発表されたもので、三内丸山遺跡の六本柱〝高層建築物(高さ20m)〟の復元が誤っているとするものです。同復元作業における様々な疑問点を指摘し、実際はもっと低い建物と考えざるを得ないとされました。吉野ヶ里遺跡の楼観についても疑義を示されており(注②)、今後の検証が期待されます。

 今号には2023年度の会費振込用紙が同封されています。「古田史学の会」の各種事業は皆様の会費・ご寄付に支えられていますので、納入をよろしくお願い申し上げます。

175号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。
【『古田史学会報』175号の内容】
○唐代里単位の考察 ―「小里」「大里」の混在― 京都市 古賀達也
○常世国と非時香菓について 神戸市 谷本 茂
○上代倭国の名字について たつの市 日野智貴
○三内丸山遺跡の虚構の六本柱 大山崎町 大原重雄
○「壹」から始める古田史学・四十一
「太宰府」と白鳳年号の謎Ⅲ 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○関西例会の報告と案内
○『古田史学会報』投稿募集・規定
○古田史学の会・関西例会のご案内
○2023年度会費納入のお願い
○編集後記

(注)
①ウィキペディアでは「姓氏」「名字」について、次の説明がなされている。(以下、転載)
姓氏(せいし)とは、「かばね(姓)」と「うじ(氏)」、転じて姓や名字(苗字)のこと。
名字または苗字(みょうじ、英語:surname)は、日本の家(家系、家族)の名のこと。法律上は氏(民法750条、790条など)、通俗的には姓(せい)ともいう。
日本の名字は、元来「名字(なあざな)」と呼ばれ、中国から日本に入ってきた「字(あざな)」の一種であったと思われる。公卿などは早くから邸宅のある地名を称号としていたが、これが公家・武家における名字として発展していった。近世以降、「苗字」と書くようになったが、戦後は当用漢字で「苗」の読みに「ミョウ」が加えられなかったため再び「名字」と書くのが一般になった。以下の文では表記を統一するため固有名、法令名、書籍名を除き「名字」と記載する。
「名字」と「姓」又は「氏」はかつては異なるものであった。たとえば清和源氏新田氏流を自称した徳川家康の場合は、「徳川次郎三郎源朝臣家康」あるいは「源朝臣徳川次郎三郎家康」となり、「徳川」が「名字」、「次郎三郎」が「通称」、「源」が「氏(うじ)」ないし「姓(本姓)」、「朝臣」が「姓(カバネ)」(古代に存在した家の家格)、「家康」が「諱(いみな)」(本名、実名)となる。
②吉野ヶ里遺跡の「環濠」や「土塁・柵」の疑義について、大原氏の次の論稿がある。
大原重雄「弥生環濠施設を防衛的側面で見ることへの疑問点」『古田史学会報』149号、2018年。


第2976話 2023/03/29

『東京古田会ニュース』No.209の紹介

 『東京古田会ニュース』209号が届きました。拙稿「『東日流外三郡誌』真実の語り部 ―古田先生との津軽行脚―」を掲載していただきました。同稿は3月11日(土)に開催された「和田家文書」研究会(東京古田会主催)で発表したテーマで、30年ほど前に行った『東日流外三郡誌』の存在を昭和三十年代頃から知っていた人々への聞き取り調査の報告です。当時、証言して頂いた方のほとんどは鬼籍に入っておられるので、改めて記録として遺しておくため、同紙に掲載していただいています。次号には「『東日流外三郡誌』の考古学」を投稿予定です。
当号には特に注目すべき論稿二編が掲載されていました。一つは、同会の田中会長による「会長独言」です。今年五月の定期総会で会長職を辞されるとのこと。藤澤前会長が平成28年(2016)に物故され、その後を継がれて、今日まで会長としてご尽力してこられました。
当稿では、「高齢化の波は当会にも及んでおり、会員の減少だけでなく、月例学習会への結集も低迷が続いています。」と、高齢化やコロナ過による例会参加者数の低迷を吐露されています。これは「古田史学の会」でも懸念されている課題です。日々の生活や目前の関心事に追われるため、わが国の社会全体で〝世界や日本の歴史〟を顧みる国民が減少し続けていることの反映ではないでしょうか。そうした情況にあって、例会へのリモート参加が高齢化の課題解決に役立っているのではないかと、田中会長は期待を寄せられています。わたしも同感です。この方面での取り組みを、わたし自身も始めましたし(古田史学リモート勉強会)、「古田史学の会」としても同体制強化を進めてきました。関係者のご理解とご協力を得ながら、更に前進させたいと願っています。
注目したもう一つの論稿は新庄宗昭さん(杉並区)の「小論・酸素同位体比年輪年代法と法隆寺五重塔心柱594年の行方」です。奈文研による年輪年代法が、西暦640年以前では実際よりも百年古くなるとする批判が出され、基礎データ公開を求める訴訟まで起きたことは古代史学界では有名でした。そうした批判に対して、奈文研の測定値は間違っていないのではないかとする論稿〝年輪年代測定「百年の誤り」説 ―鷲崎弘朋説への異論―〟をわたしは『東京古田会ニュース』200号で発表しました。今回の新庄稿ではその後の動向が紹介されました。
奈文研の年輪年代のデータベース木材をセルロース酸素同位体比年輪年代法で測定したところ、整合していたようです。その作業を行ったのは、「古田史学の会」で講演(2017年、注①)していただいた中塚武さんとのこと。中塚さんはとてもシャープな理化学的論理力を持っておられる優れた研究者で(注②)、当時は京都市北区の〝地球研(注③)〟で研究しておられました。氏の開発された最新技術による出土木材の年代測定に基づいた、各遺構の正確な編年が進むことを期待しています。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1308話(2016/12/10)〝「古田史学の会」新春講演会のご案内〟
②同「洛中洛外日記」2842話(2022/09/23)〝九州王朝説に三本の矢を放った人々(2)〟で、中塚氏との対話を次のように紹介した。
「中塚さんは、考古学的実証力(金属器などの出土事実)を持つ邪馬壹国・博多湾岸説には理解を示されたのですが、九州王朝説の説明には納得されなかったのです。
巨大前方後円墳分布などの考古学事実(実証)を重視するその中塚さんからは、繰り返しエビデンス(実証データ)の提示を求められました。そして、わたしからの文献史学による九州王朝実在の説明(論証)に対して、中塚さんが放たれた次の言葉は衝撃的でした。
「それは主観的な文献解釈に過ぎず、根拠にはならない。古賀さんも理系の人間なら客観的エビデンスを示せ。」
中塚さんは理由もなく一元史観に固執する人ではなく、むしろ論理的でシャープなタイプの世界的業績を持つ科学者です。その彼を理詰めで説得するためにも、戦後実証史学で武装した大和朝廷一元史観との「他流試合」に勝てる、史料根拠に基づく強力な論証を構築しなければならないと、このとき強く思いました。」
③総合地球環境学研究所。地球研は略称。


第2957話 2023/03/03

『多元』No.174の紹介

友好団体「多元的古代研究会」の会誌『多元』No.174が届きました。同号には拙稿「『先代旧事本紀』研究の予察 ―筑紫と大和の物部氏―」を掲載していただきました。同稿は〝物部氏は九州王朝の王族ではなかったか〟とする作業仮説に基づき、物部氏系の代表的古典である『先代旧事本紀』の史料批判を試みたものです。とりわけ、『記紀』に記された〝磐井の乱〟での物部麁鹿火の活躍が、なぜ『先代旧事本紀』には記されていないのかに焦点を絞って論じました。まだ初歩的な「予察」レベルの論稿ですが、筑紫物部と大和物部という多元的物部氏の視点が物部氏研究には不可欠であるとしました。本テーマについて引き続き考察を深めたいと考えています。
当号に掲載された新庄宗昭さん(杉並区)の「随想 古代史のサステナビリティ」は、法隆寺五重塔心柱などの年輪年代測定値が間違っているとして訴訟にまで至った事件を紹介し、これをセルロース酸素同位体比年輪年代測定で検証すべきとされており、我が意を得たりと興味深く拝読しました。
というのも、セルロース酸素同位体比年輪年代測定の研究者、中塚武さん(当時、総合地球環境学研究所教授)とは、九州王朝説の是非を巡って論争したことがあり(注①)、「古田史学の会」講演会で同測定法について講演して頂いたこともあったからです(注②)。
更には、奈文研の年輪年代測定値が間違っており、年代によっては史料記載年代よりも百年古く出ているとする鷲崎弘朋説に対して、前期難波宮水利施設出土木材や法隆寺五重塔心柱の年輪年代測定値は妥当とする異論を唱えたこともありました(注③)。
「洛中洛外日記」(注④)でも紹介したことがありますが、セルロース酸素同位体比年輪年代測定とは、次のようなものです。

〝酸素原子には重量の異なる3種類の「安定同位体」がある。木材のセルロース(繊維)中の酸素同位体の比率は樹木が育った時期の気候が好天だと重い原子、雨が多いと軽い原子の比率が高まる。酸素同位体比は樹木の枯死後も変わらず、年輪ごとの比率を調べれば過去の気候変動パターンが分かる。これを、あらかじめ年代が判明している気温の変動パターンと照合し、伐採年代を1年単位で確定できる。〟

この方法なら原理的に1年単位で木材の年代決定が可能です。新庄さんが言われるように、同測定方法で年輪年代測定値をクロスチェックすべきだと、わたしも思います。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2842話(2022/09/23)〝九州王朝説に三本の矢を放った人々(2)〟
②同「洛中洛外日記」1322話(2017/01/14)〝新春講演会(1/22)で「酸素同位体比測定」解説〟
③同「年輪年代測定「百年の誤り」説 ―鷲崎弘朋説への異論―」『東京古田会ニュース』200号、2021年。
④同「洛中洛外日記」667話(2014/02/27)〝前期難波宮木柱の酸素同位体比測定〟
同「洛中洛外日記」672話(2014/03/05)〝酸素同位体比測定法の検討〟


第2952話 2023/02/26

『東日流外三郡誌』真実の語り部たち

昨日、安彦克己さん(東京古田会・副会長)からお電話をいただき、1月、3月に続いて5月も和田家文書研究会での発表の要請を受けました。三十年前に古田先生と行った和田家文書調査の記録を『東京古田会ニュース』に掲載していただいており、それと併行してリモートでも発表させていただくことにしたものです。
1月は「和田家文書調査の思い出」(注)、3月11日(土)のテーマは「『東日流外三郡誌』真実の語り部たち」で、早くから和田家文書や『東日流外三郡誌』の存在を知る次の方々の証言を紹介します。

佐藤堅瑞氏(泊村浄円寺住職・青森県仏教会々長)
松橋徳夫氏(山王日吉神社宮司・洗磯崎神社宮司)
白川治三郎(元市浦村々長)
藤本光幸氏(北方新社版『東日流外三郡誌』編集者)
和田喜八郎氏(和田家文書所蔵者)
和田章子氏(喜八郎氏の長女)
※肩書きは当時のもの。和田章子さん以外は故人。

5月の和田家文書研究会では、考古学的出土事実と『東日流外三郡誌』の整合について報告をします。青森県弘前市の「秋田孝季集史研究会」(竹田侑子会長)の皆さんもリモートで聴講されており、同会との交流を深めるため、久しぶりに津軽を訪問できればと願っています。

(注)古賀達也「洛中洛外日記」2917話(2023/01/15)〝「和田家文書調査の思い出」を発表〟