関西例会一覧

月に一度例会を行っています。豊中倶楽部自治会館(阪急豊中駅北改札口から3分)でおこなうことが多いです。

第3485話 2025/05/17

九州王朝の采女制度

 本日、 「古田史学の会」関西例会が大阪市中央会館で開催されました。6月例会の会場は東成区民センターです。

 例会の司会を担当されている上田武さん(古田史学の会・事務局)から九州王朝の采女制度の痕跡として、『続日本紀』大寶二年四月十五日条の記事「筑紫七国と越後国に命じて、采女・兵衛を選び任命し、貢進させた。ただし、陸奥国は除外した。」を紹介。同テーマは以前にも関西例会で、どなたかが発表された記憶がありますが、今回の発表は『続日本紀』や『養老律令』の采女記事などを根拠に論じたもので、注目されました。

 九州王朝(倭国)の采女制度の確かな史料根拠として『隋書』俀国伝の記事「王妻號雞彌。後宮有女六七百人。」があります。おそらくこの「後宮」は後の「中宮」のことではないかと推測しています。王朝交代後の大和朝廷(日本国)も大宝律令により采女制度を継承し(①)、薩摩・大隅を除く「筑紫七国」と蝦夷国(陸奥国・出羽国)に隣接する越後国からも采女貢進の命令を出すに至ったものと思われます。九州王朝史復元のためにも、当研究の進展が期待されます。

 5月例会では下記の発表がありました。発表希望者は西村さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔5月度関西例会の内容〕
①『記紀』及び『続紀』等の根本史料について (東大阪市・萩野秀公)
②旧・新唐書の倭国・日本国について ―統合・被統合の矛盾を解明― (姫路市・野田利郎)
③百済三書の考察の見直し (茨木市・満田正賢)
④九州にいた卑弥呼が手にした初期三角縁鏡 その2 (大山崎町・大原重雄)
⑤『続日本紀』の兵衛・采女記事について (八尾市・上田武)

◎会務報告 (古賀達也)
❶6/22(日)会員総会・記念講演会の受付協力要請
❷秋の出版記念東京講演会の状況報告
❸福岡市講演会(九州古代史の会主催)で古賀(7/05)・正木(7/26)が講演
❹その他

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
06/21(土) 10:00~17:00 会場 東成区民センター

※6/22(日)は会員総会・記念講演会(会場:I-siteなんば・大阪公立大学なんばサテライト)

(注)『大宝律令』後宮職員令により制度化されたと一元史観の通説では考えられているが、『隋書』俀国伝の「後宮」記事から、大和朝廷に先行する九州王朝律令に定められていたのではあるまいか。


【写真】奈良市采女神社・猿沢池で8/15に行われる采女祭。


第3476話 2025/04/22

文献史学と考古学の〝もたれあい〟

 ―「邪馬台国」畿内説の真相―

 先日、 「古田史学の会」関西例会が東成区民センターで開催されました。5月例会の会場は大阪市立中央会館です。

 今回も活発な討論・意見交換が繰り広げられました。関西例会ならではの光景です。このようにして学問は深化発展するのだと思います。わたしたちは、一元史観や権威(古田先生をも含む)におもねるような発表ではなく、〝師の説にな、なづみそ(本居宣長)〟を実践しています(注①)。もっとも、〝古田説にはなづまず、一元史観になづむ〟ような言動は考えものですが。

 正木さんの発表「邪馬壹国の王都」は、久住猛雄さん(福岡市埋蔵文化財センター)による、列島内最大規模の比恵那珂遺跡(弥生時代~古墳時代前期)の調査報告(注②)を紹介し、邪馬壹国博多湾岸説の考古学的根拠とするもので、わかりやすく印象的な内容でした。特に、同遺跡(環濠を持つ)の規模が吉野ヶ里遺跡の四倍であること、その南方には卑弥呼の墓があったと考えられている須久岡本遺跡群(注③)が広がっていることなど、この地をおいて、日本のどこに邪馬壹国があったとするのかと、改めて確信を深めました。

 質疑応答の際、「畿内説は何を根拠にして小規模な纏向遺跡や時代が異なる箸墓古墳を「邪馬台国」とするのか」という主旨の質問が出されました。とても重要な質問と思い、わたしは次のような学界の実体を説明しました。

〝この二十年ほど、わたしは畿内説の文献史学や考古学の研究者に会えば、次のような質問を繰り返してきました。「邪馬台国を畿内とする根拠を教えて下さい」。そして得られた回答はほぼ次のようなものでした。

〔文献史学者の意見〕「文献(倭人伝)の記述からは邪馬台国の位置は不明だが、考古学ではヤマトの纏向としていることから、畿内説が最有力と考えている」〟(注④)

〔考古学者の意見〕「考古学では邪馬台国の位置はわからないが、文献史学によれば畿内説で決まりとのことなので、纏向遺跡が該当すると考えている」

 この両者の主張からわかったことは、「邪馬台国」畿内説は〝文献史学と考古学のもたれあい〟、自説の根拠を互いに他の分野の見解に基づくとする「根拠なき“有力”説」であったことです。これでは〝学問の癒着構造〟とでも言われそうです。

 本来であれば、文献史学なら史料事実(倭人伝)を、考古学なら出土事実(弥生遺跡・遺物)をもって自説の根拠とすべきです。あるいは、自らの学問領域ではわからないのであれば、「邪馬台国の位置は不明」と言うべきです。そのうえで、別々の根拠とそれぞれの方法によって成立した両者の仮説(「邪馬台国」の位置)が一致すれば、その仮説はより有力となり、多くの人々の支持を得て、通説に至るのが真っ当な学問の道筋(道理)です。そうはなっていない日本の古代史学界は何かがおかしい。〟

 この学界の状況に対して、「否」の声を上げ、邪馬壹国博多湾岸説を唱えたのが古田武彦先生でした(注⑤)。そして、その学説(多元史観・九州王朝説)や学問精神をわたしたち「古田史学の会」は受け継いでいます。こうした関西例会での歯に衣を着せぬ論議を聞くたびに、三十年前、「古田史学の会」を創設してよかったと思います。

 今月から上田武さん(古田史学の会・事務局)が司会を担当。永年、司会を担当していただいた西村秀己さん(古田史学の会・会計、高松市)に感謝します。なお、当面の発表申請窓口は引き続き西村さんが担当しますので、お間違えなきようお願いします。

 4月例会では下記の発表がありました。発表希望者は西村さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔4月度関西例会の内容〕
①応神帝 (記・応神帝譜に載る人々) (大阪市・西井健一郎)

②九州にいた卑弥呼が手にした初期三角縁神獣鏡 (大山崎町・大原重雄)
https://youtu.be/EoDQ3CpDKu0

③古代日本の三国時代 ―蝦夷国の基礎的研究― (京都市・古賀達也)
https://youtu.be/EoDQ3CpDKu0

④百済三書の信憑性について (茨木市・満田正賢)
https://youtu.be/KlZsJrX7JKU

⑤邪馬壹国の王都 (川西市・正木 裕)
https://youtu.be/bgxvyw9Ild4

⑥「倭王の東進」と「神武神話」 (東大阪市・萩野秀公)

◎会務報告 (古賀達也)
❶6/22会員総会・記念講演会の案内
❷「列島の古代と風土記」特価販売(2200円、税・送料をサービス)の案内
❸その他。

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
05/17(土) 10:00~17:00 会場 大阪市立中央会館
06/21(土) 10:00~17:00 会場 東成区民センター

(注)
①〝本居宣長の「師の説にな、なづみそ」は学問の金言である〟と古田武彦氏は語っていた。
②久住猛雄「最古の「都市」 ~比恵・那珂遺跡群~」『古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―』資料集、大阪市博物館協会大阪文化財研究所、2018年。他。
③古田武彦「邪馬壹国の原点」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、1978年。
古賀達也「筑前地誌で探る卑弥呼の墓 ―須玖岡本山に眠る女王―」『列島の古代と風土記』(『古代に真実を求めて』28集、明石書店、2025年)
④仁藤敦史氏は『卑弥呼と台与』(山川出版社、2009年)、「倭国の成立と東アジア」(『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年)で、次のように畿内説の根拠を述べている。
「魏志倭人伝」の記載について、そのまま信用すれば日本列島内に位置づけることができない。この点は衆目の一致するところである。(「倭国の成立と東アジア」142頁)
「前方後円墳の成立時期と分布(畿内中心に三世紀中葉から)、三角縁神獣鏡の分布(畿内中心)、有力な集落遺跡の有無(有名な九州の吉野ヶ里遺跡は卑弥呼の時代には盛期をすぎるのに対して、畿内(大和)説では纏向遺跡などが候補とされる)など考古学的見解も考慮するならば、より有利であることは明らかであろう。(『卑弥呼と台与』18~19頁」
⑤邪馬壹国博多湾岸説は、短里説(一里76メートル)による帯方郡から邪馬壹国までの総里程一万二千余里の到着地が博多湾岸であるとする文献史学の仮説、筑前中域が弥生時代の金属器(青銅器・鉄器等)と漢式銅鏡の出土数が国内最多であり、ヤマトよりも圧倒的に多いという考古学の出土事実により成立している。

【写真】比恵那珂遺跡群地図と比恵遺跡


第3451話 2025/03/16

「貞慧伝」の白鳳年号の新解釈

 昨日、 「古田史学の会」関西例会が豊中自治会館で開催されました。4月例会の会場は東成区民センターです。

 今回の報告で意表を突かれたのが、「貞慧伝」に見える「白鳳」に関する谷本さんの新解釈でした。藤原鎌足の長男、定恵(貞慧・定慧・貞恵)の最古の伝記『藤家家伝』(760年頃成立)中の「貞慧伝」に記された「白鳳」年号の実年代に関する考察です。

 これまでの九州年号研究では、「貞慧伝」の「白鳳」は『日本書紀』の「白雉」(650年・庚戌~654年・甲寅)年号を「白鳳」に置き換えた、九州年号「白鳳」(661年・辛酉~683年・癸未)の後代改変型と理解されてきました。その根拠は、「貞慧伝」に見える貞慧の入唐を「白鳳五年歳次甲寅」(654年)、帰国を「白鳳十六年歳次乙丑」(665年)とする記事の干支が『日本書紀』の「白雉」の元年干支「庚戌」と対応していることでした。すなわち、年号は書き変えられているが、干支で示された実年代は信用できるとする立場です。わたしもそのように考えてきました。

 今回の谷本さんの発表によれば、書き変えられたのは干支の方で、「白鳳五年」「白鳳十六年」という部分は九州年号「白鳳」の実年代、655年と676年を示しているとするものでした。こちらの方が、これまで疑問視されていた諸問題をうまく説明できるとされました。この新解釈は、わたしには思いも付かなかったもので、驚きました。かなり有力な新説ではないでしょうか。論文発表が待たれます。

 今月の例会の司会進行は、西村さんが所用のため上田さん(古田史学の会・事務局)に先月に引き続いて担当していただきました。新年度の四月からは上田さんが司会を正式に担当しますので、皆さんのご協力をお願いします。なお、発表申請窓口は西村さんが当面は担当しますので、お間違えなきようお願いします。

 3月例会では下記の発表がありました。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔3月度関西例会の内容〕
①百済、馬韓と九州王朝 (茨木市・満田正賢)
②「科野・蕨手文」からの推察 (上田市・吉村八洲男)
③朝日新聞の「磐井の乱」記事と『先代旧事本紀』 (川西市・正木 裕)
④推古紀の裴世清の行程を解読する (姫路市・野田利郎)
⑤定恵の伝記と「倭国年号」 ―天智紀の紀年の再考― (神戸市・谷本 茂)
⑥「郡」記事と「阿蘇ピンク石石棺」 (東大阪市・萩野秀公)
⑦仲哀帝と息長帯比売 (大阪市・西井健一郎)
⑧実は戦後に形成されていた単一民族神話論 (大山崎町・大原重雄)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
04/19(土) 10:00~17:00 会場 東成区民センター
05/17(土) 10:00~17:00 会場 大阪市立中央会館
06/21(土) 10:00~17:00 会場 東成区民センター

______________________________

〔3月度関西例会の内容〕

1,百済、馬韓と九州王朝 (茨木市・満田正賢)
https://youtu.be/3snb42bOZbE
https://youtu.be/qeL2CTBIVXs

2,「科野・蕨手文」からの推察 (上田市・吉村八洲男)
https://youtu.be/E_0LYs84MZY
https://youtu.be/e1H0_Ydo4jA

3,朝日新聞の「磐井の乱」記事と『先代旧事本紀』 (川西市・正木 裕)
https://youtu.be/cgnHru8CAOo
https://youtu.be/m3bIwb2c-uM

4,推古紀の裴世清の行程を解読する (姫路市・野田利郎)
https://youtu.be/zXa8paE8VNo
https://youtu.be/1hnZKCOigAc

5,定恵の伝記と「倭国年号」 ―天智紀の紀年の再考― (神戸市・谷本 茂)
https://youtu.be/hBAKVjDvL70
https://youtu.be/Dh8M-VMsslQ

6,「郡」記事と「阿蘇ピンク石石棺」 (東大阪市・萩野秀公)
https://youtu.be/MR9EdyUFbPs

7,仲哀帝と息長帯比売 (大阪市・西井健一郎)
https://youtu.be/K0IDgbGiZAE
https://youtu.be/5EwO7aXSawE

8,実は戦後に形成されていた単一民族神話論 (大山崎町・大原重雄)
https://youtu.be/_gUwaGs4An0
https://youtu.be/N1yfeFyu_vU


第3440話 2025/03/01

唐詩に見える王朝交代後の列島 (1)

 二月の「古田史学リモート勉強会」(古賀主宰)や多元的古代研究会の「リモート研究会」で、『旧唐書』倭国伝・日本国伝や飛鳥・藤原京出土評制荷札木簡(七世紀後半)などを根拠として、七世紀後半から八世紀にかけての王朝交代期の倭国(九州王朝)と日本国(大和朝廷)の領域について研究発表しました。その結論として、701年の王朝交代によって、直ちに倭国(九州王朝)が滅んだわけではないようだと述べました。発表で使用したパワポより転載します(注①)。

〝【結論】
(1) 『旧唐書』倭国伝・日本国伝に記された両国の記事は、七世紀後半~八世紀の認識(状況)を表している。
(2) 従来、誇大で信用できないとされた倭国の領域「東西五月南北三月」「五十余国」は倭国の公式情報であり、妥当な表現である。
(3) 日本国伝の「日本舊小国、併倭国之地」とは倭国の滅亡(併呑)ではなく、飛鳥・藤原出土荷札木簡が示す領域の律令諸国としての併合。九州島(倭国)は王朝交代後は西海道として大宝律令に組み込まれた。
(4) その為、倭国は大宰府を中心とする西海道として〝半独立〟のような状態がその後もしばらくは続いたようだ。このことを示す史料として、万葉集の筑紫記事(赤尾説)や空海の『御遺告』、『三国史紀』などがある。
(5) この状態を『旧唐書』倭国伝・日本国伝は表しており、倭国伝に倭国の滅亡記事が見えないのはこのことを示唆している。〟

 古田史学の門をたたき、滅亡後の九州王朝研究を続けてきたのですが、当初は、『旧唐書』倭国伝に倭国の滅亡記事が見えないことを不審に思い、空海の遺言に遺された〝唐からの帰国記事「大同二年(807)、わが本国に帰る」の一年差の謎(空海の筑紫への帰国は大同元年)〟に迫った研究(注②)、『三国史記』新羅本紀に記された日本国との国交記事が日本側史料と一致しないことの研究(注③)などを発表し、九州王朝は701年の王朝交代後もしばらくは九州の地で〝半独立〟していたのではないかとしました。

 このような問題意識と研究経緯があり、八世紀の九州王朝の残影についての中小路駿逸先生の唐詩研究の著書(注④)を改めて精読することにしました。(つづく)

(注)
①古賀達也「『旧唐書』倭国伝の領域 ―東西五月行と五十餘国―」多元的古代研究会・リモート研究会、令和七年(2025)2月21日(金)
②古賀達也「空海は九州王朝を知っていた」『市民の古代』13集、新泉社、1991年。
③古賀達也「二つの日本国」『古代史徹底論争』駸々堂出版、1993年。
④中小路駿逸『日本文学の構造 ―和歌と海と宮殿と―』桜楓社、1983年。
同『中小路駿逸遺稿集 九州王権と大和王権』海鳥社、2017年。


第3435話 2025/02/23

藤田隆一さんの『先代旧事本紀』講義

―天理図書館本と飯田季治校本の比較―

 昨日開催された東京古田会月例会にリモート参加しました。そこで藤田隆一さんの『先代旧事本紀』講義を拝聴させていただきました。いつもながらの見事な講義で、とても勉強になりました。藤田さんは古文や漢文にめっぽう強く、わたしが毛筆文書(富岡鉄斎の佐佐木信綱宛書簡。注①)の解読に困っていたときにも教えを請いました。

 今回のテーマとなった『先代旧事本紀』は九世紀頃に成立したとする説が有力視されていますが、序文などは偽作とされており、古代史研究の史料としてはあまり論文などに採用されていません。しかし、その中の「国造本紀」には他に見えない情報が採録されており、注目されてきました。

 今回の講義で藤田さんは、鎌倉時代に成立したとされる天理図書館本がテキストとして優れているとされ、「国造本紀」の中の「伊吉島造」(壱岐島)の写本(版本)間の異同を指摘されました。以前、わたしが『先代旧事本紀』の研究(注②)に用いた飯田季治『標註 先代旧事紀校本』(注③)の「伊吉島造」には次のようにありました。

「磐余玉穂朝(継体)。伐石井從者新羅海邊人。天津水凝 後 上毛布直造。」

 ところが、天理図書館本では「伐」が「代」となっていたり、「從者」が「者從」とあり、そのため飯田季治『標註 先代旧事紀校本』とは意味が異なってくるのです。

 同校本は『渡會延佳校本の鼇頭舊事紀』を底本としており、その解題には、「本書は從來最も善本として世に流布する所の『渡會延佳校本の鼇頭舊事紀』を底本となし、更に之に標注を增訂し、且つ亦た上記の諸本を始め飯田武郷校本、栗田寛校本等を參照し、全巻を審かに校定せるものである。」とあります。

 また、国史大系本の底本は「神宮文庫本」(延宝六年写本、1678年)で、『渡會延佳校本の鼇頭舊事紀』などで校合したとあります。両本を比較して『標註 先代旧事紀校本』が優れているように思いましたので、テキストとして採用したのですが、藤田さんの説明によると天理図書館本の成立がはるかに古く、鎌倉時代とのことでしたので、使用テキストの再検討が必要となりました。

 他方、天理図書館本や国史大系本には、「大隅国造」「薩摩国造」の記事中に「仁徳朝」「仁徳帝」とあり、他の国造記事には見えない漢風諡号「仁徳」が使用されています。『標註 先代旧事紀校本』には「難波高津朝」とあり、他の国造記事と同様に宮号表記となっています。こうした表記の異同があることから、どちらが原本の姿をより残しているのか思案しています。

 いずれにしましても、藤田さんの講義のおかげで、『先代旧事本紀』研究における各テキスト表記の異同が持つ重要な問題に気づくことができました。古田学派の中に、藤田さんのような書誌学に精通した研究者がいることはとても心強いことです。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3041話(2023/06/14)〝「富岡鉄斎文書」三編の調査(4) ―藤田隆一さん、佐佐木信綱宛書簡を解読―〟
②同「洛中洛外日記」2866~2872話(2022/10/30~11/05)〝 『先代旧事本紀』研究の予察 (1)~(6)〟
同「『先代旧事本紀』研究の予察 ―筑紫と大和の物部氏―」『多元』174号、2023年。
③飯田季治編『標註 先代旧事紀校本』明文社、昭和22年(1947)の再版本(昭和42年)による。


第3431話 2025/02/16

萩野さん、阿蘇ピンク石の謎に迫る

 昨日、 「古田史学の会」関西例会が豊中自治会館で開催されました。3月例会の会場も豊中自治会館です。

 今回の報告で興味を引かれたのが、萩野秀公さんの「熊本宇土への調査旅行報告Ⅱ」でした。先月に続いての発表です。海を渡って関西にもたらされた熊本県宇土半島の馬門(まかど)から産出する赤い石材「馬門石」(阿蘇溶結凝灰岩)についての現地調査報告です。それは「阿蘇ピンク石」とも呼ばれ、古墳の石棺に使用されています。たしかに赤い石材が当時は好まれたのでしょうが、そうであれば、産地の肥後地方や九州でも古墳の石棺に使用されていても良いはずですが、何故か当地では使用されていないようなのです。石室の壁石としては使用した例はあるとのことですが、石棺に使用した古墳はないとされています。

 わたしは、生産地や九州ではピンク石石棺が使用されていないという現象を不思議に思ってきました。たとえば、大和朝廷が九州での使用を禁止したとする説もあるそうですが、これが九州王朝による禁止命令であったとしても納得できませんでした。それほど貴重な石材であり、王家以外の豪族らに使用を禁止したのであれば、王家自らの〝独占使用〟の痕跡がなければなりません。しかし、八女古墳群にある九州王朝王家の古墳と思われる石人山古墳(五世紀前半~中頃)の石棺もピンク石ではなかったと記憶しています。

 このような疑問を抱いていたわたしは、例会後の懇親会で萩野さんに、本当に肥後や九州の古墳からピンク石石棺は発見されていないのですかと質問しました。萩野さんの返答は、石室の一部に使用されている例はあるが、石棺には使用されていないとのことでした。しかし、話を進めていると、地元の某博物館ではピンク石石棺が、とある古墳から出土しているとする掲示があることを教えていただきました。

 萩野さんのご意見ではその掲示は誤りとのことでしたが、博物館で掲示されているのであれば、それは現地の考古学の専門家の意見ですから、当該石棺の実物を見ないで否定するのはいかがなものかと思い、萩野さんに再度の調査を要請しました。来月の例会でも阿蘇ピンク石について発表されるとのことですので、改めてこの点をお聞きしたいと思っています。もし、九州の古墳にもピンク石石棺があったのであれば、従来の見解を覆す発見となるのではないでしょうか。とても楽しみなテーマです。

 2月例会では下記の発表がありました。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔2月度関西例会の内容〕
①「四人の倭建」の概略 (大阪市・西井健一郎)
②倭王武の上表文の東西海北216国は制覇は史実なのか? (大山崎町・大原重雄)
③『古代日本の渡来勢力』批判 (茨木市・満田正賢)
④熊本宇土への調査旅行報告Ⅱ (東大阪市・萩野秀公)
⑤「呉」と銅鐸圏と画文帯神獣鏡・拘奴国 (川西市・正木 裕)

◎八王子セミナー実行委員会の報告・他 (代表 古賀達也)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
03/15(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館


第3410話 2025/01/18

『旧唐書』倭国伝の「五十餘国」

         と「東西五月行」

 本日、 「古田史学の会」関西例会が豊中自治会館で開催されました。2月例会の会場も豊中自治会館です。

 今回、わたしは「『旧唐書』倭国伝の領域 ―東西五月行と五十餘国―」についての研究結果を発表しました。『旧唐書』倭国伝冒頭に記された倭国の領域記事の東西五月行や附属する五十餘国の数値は、従来言われてきた誇大なものではなく、七世紀当時の倭国(九州王朝)律令に基づく〝公的な数値〟とする仮説です。

 「五十餘国」とは律令で規定された66国から九州王朝直轄の九州(九国)を引いた57国(蝦夷国領域〈陸奥・出羽〉も含む)のことで、「東西五月行」も従来言われてきたような誇大値ではなく、律令で定められた「車」による一日の行程が官道の駅間距離の「卅里」に対応しており、東西の駅数を29.5日で割ると約五ヶ月となることから、正確な情報に基づいた記事と考えることができるとしました。
この点について、正木裕さんによる先行研究がありました。正木さんからのメールを紹介します。

《以下、メールから転載》
東西5月行の計算と根拠は以下のとおりです。
『後漢書』卷八十六。南蠻西南夷列傳第七十六「軍行三十里を程(*1日に進む距離)とす。」
(軍行三十里為程,而去日南九千餘里,三百日乃到,計人稟五升,用米六十萬斛,不計將吏驢馬之食,但負甲自致,費便若此。)
倭国:【東西5月行】軍行1日30里(14㌔)5月で150日≒1900㎞、5日1休(「每五日洗沐制」)で125日×14㌔≒1700㌔。五島列島から津軽海峡までの距離。
【南北3月行】3月で90日約1200㎞。5日1休で75日×14㌔≒1000㌔。ただし大半が「水行」なので軍行1日30里は当てはまらない。
『魏志倭人伝』で半島から邪馬壹国まで水行10日、邪馬壹国から投馬国まで20日、半島から投馬国まで計1月。地図で測ると600㎞、3月なら約1800㎞で台湾に届く。
《転載終わり》

 1月例会では下記の発表がありました。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔1月度関西例会の内容〕
①『古事記』定型句の例外について (姫路市・野田利郎)
②百済・倭王同一人物説や付随する諸問題に関して (大山崎町・大原重雄)
③扶桑国についての考察 (たつの市・日野智貴)
④縄文語で解く記紀の神々 景行帝西征譚 (大阪市・西井健一郎)
⑤熊本宇土への調査旅行報告 (東大阪市・萩野秀公)
⑥「磐井の崩御」と「磐井王朝(九州王朝)」の継承について (川西市・正木 裕)
⑦『旧唐書』倭国伝の領域 ―東西五月行と五十餘国― (京都市・古賀達也)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
02/15(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館
03/15(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館


第3399話 2024/12/22

「風土記」研究の難しさ

 昨日、 「古田史学の会」関西例会が都島区民センターで開催されました。1月例会の会場は豊中自治会館です。翌日(1/19)は京都市(キャンパスプラザ京都)で新春古代史講演会を開催します。今回の講演テーマは人気が高いようで、連日、問い合わせ電話があり、南は佐賀県・福岡県、北は福島県の方からも、参加したいとの声が届いています。

 今月、わたしは「王朝交代前夜の天武天皇 ―飛鳥・藤原木簡の証言―」を発表しました。これは先月発表した「九州王朝研究のエビデンス ―「天皇」木簡と金石文―」の続編です。飛鳥池から出土した「天皇」「○○皇子」木簡は天武とその子どもとされていますが、その天武が「壬申の乱」の勝者になった後、九州王朝から天皇号を認められたのはいつ頃からかについて論じました。

 谷本さんの発表も感慨深いものでした。その内容はもとより、風土記研究の難しさ、なかでも風土記に見える未詳地名の研究が進んでいないことの言及には考えさせられました。谷本さんが所属している風土記学会も会員数が少なく、風土記研究はマイナーな分野のようでした。

 来春発行する『列島の古代と風土記』(『古代に真実を求めて』28集、明石書店)の初校ゲラ校正作業を続けていますが、古田「風土記」論の概要を紹介した同書巻頭論文〝「多元史観」からみた風土記論 ―その論点の概要―」〟は谷本さんに執筆していただいたものです。確かに古田学派内でも「風土記」研究はあまり活発とは言えません。同書発行を期に、多元史観・九州王朝説に基づく多元的「風土記」研究が進むことを期待しています。

 12月例会では下記の発表がありました。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔12月度関西例会の内容〕
①『播磨国風土記』地名考(3)
―宍禾(シサハ)郡・柏野(カシハノ)里の地名(その2)― (神戸市・谷本 茂)
②船王後墓誌に出てくる三人の天皇について (茨木市・満田正賢)
③2024年古田学派YouTube動画について(報告) (東大阪市・横田幸男)
④王朝交代前夜の天武天皇 ―飛鳥・藤原木簡の証言― (京都市・古賀達也)
⑤もう一人の倭王と純陀太子 (大山崎町・大原重雄)
⑥「倭京」とタリシホコ 最終章 (東大阪市・萩野秀公)
⑦縄文語で解く記紀の神々 景行帝と倭健 (大阪市・西井健一郎)
⑧『法華義疏』の「大委」は国名ではなかった (姫路市・野田利郎)

○1/19新春古代史京都講演会と懇親会の案内 (代表・古賀達也)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
01/18(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館 ※翌日1/19(日)は新春古代史講演会(京都)です。
02/15(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館
03/15(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館


第3379話 2024/11/16

1/19新春古代史講演会(京都市)

     案内チラシ作成中

 本日、 「古田史学の会」関西例会が東成区民センターで開催されました。次回、12月例会の会場は都島区民センターです。

 今回、わたしは「九州王朝研究のエビデンス ―「天皇」木簡と金石文―」を発表しました。飛鳥池出土の「天皇」「皇子」「詔」木簡などを根拠に、天武は九州王朝の天子の下でナンバーツーとしての天皇号を名のっていたことを解説しました。概ね、参加者からはご理解いただけたようで、引き続き木簡研究を進め、藤原宮出土木簡についても報告したいと締めくくりました。

 例会の冒頭に、10/28東京講演会と11/10福岡講演会について報告し、来年1/19の新春古代史講演会(京都市)の案内も行いました。同案内チラシのゲラが竹村事務局次長より配られました。なかなかの出来映えで、明るく新春講演会にふさわしいチラシとなりました。近日中には印刷を終え、広く宣伝したいと思います。各地の博物館や公共施設などに置かせて頂ければ有り難いです。皆さんのご協力をお願いいたします。

 11月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔11月度関西例会の内容〕
①消された百済毗有王と武寧王が送った女性の斯我君 (大山崎町・大原重雄)
②九州王朝研究のエビデンス ―「天皇」木簡と金石文― (京都市・古賀達也)
③縄文語で解く記紀の神々 垂仁帝 (大阪市・西井健一郎)
④「法興」はタリシホコの建元年号 (東大阪市・萩野秀公)
⑤白鳳・朱雀・朱鳥・大化期の天子は誰か (茨木市・満田正賢)

○東京講演会・福岡講演会の報告と新春古代史京都講演会の案内 (代表・古賀達也)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
12/21(土) 10:00~17:00 会場 都島区民センター
01/18(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館
02/15(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館
03/15(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館

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古田史学の会 東成区民センター 2024.11.21

2024年11月度関西例会発表一覧
(YouTube動画)

①消された百済毗有王と武寧王が送った女性の斯我君 (大山崎町・大原重雄)

1,大原重雄@消された百済毗有王と武寧王が送った女性の斯我

https://youtu.be/78FDKycjZ30
https://youtu.be/TfF9Dw7xUL0
https://youtu.be/Rmn7Gm3Ia0s

冨川ケイ子@武烈天皇紀における「倭君」@古田史学会報78号

2,九州王朝研究のエビデンス ―「天皇」木簡と金石文― (京都市・古賀達也)

https://youtu.be/5-bUlvSsDiA

https://youtu.be/Y-QeZMM_3Ok

https://youtu.be/A2h_IS0SuhE

https://youtu.be/u0wK3j8PGF0

参考

九州王朝研究のエビデンス⑸ 「天皇」「皇子」木簡 (付)金石文 古賀達也
https://www.youtube.com/watch?v=C_aCz0pAlPU
令和6年(2024) 10月18日(金) 多元の会リモート古代史研究会

3,縄文語で解く記紀の神々 垂仁帝 (大阪市・西井健一郎)

①https://www.youtube.com/watch?v=LsoAn5x0l_M

 

4,「法興」はタリシホコの建元年号 (東大阪市・萩野秀公)

①https://www.youtube.com/watch?v=qsqe47SUUFE

 

5,白鳳・朱雀・朱鳥・大化期の天子は誰か (茨木市・満田正賢)

①https://www.youtube.com/watch?v=ZV-90Jl-EgY


第3371話 2024/10/20

平安時代(簾中抄)にあった2進法手品

 昨日、 「古田史学の会」関西例会が豊中自治会館で開催されました。次回、11月例会の会場は東成区民センターです。

 今回、わたしは「道君首名(みちのきみおびとな)卒伝の「和銅末」の考察(前編)」を発表しました。古代史料中の「末」の字義について確認するために、『続日本紀』で使用されている「末」や「○○末」(○○は年号)の用例を検索し、この「末」がどのような意味で使用されているのかを報告しました。

 今回の調査範囲では、現代と同様に〝ものごとの終わり、最後〟の意味で使用されていました。もちろん例外的な「末」の応用例もありますが、特に説明がなければこの理解(第一義)〝ものごとの終わり、最後」で読んでよいようです。というよりも、説明がなければ読者は第一義で読んでしまうことでしょう。『続日本紀』道君首名卒伝に見える「和銅末」の場合は、和銅年間の最後の年、和銅八年(715年)の意味になります。後編では応用例(主に慣用句)についても紹介できればと考えています。

 久しぶりに不二井伸平さん(本会・全国世話人、明石市)が参加され、古代日本に2進法の概念があったとする研究を報告されました。そして平安時代の『簾中抄』に記された2進法の原理を用いた手品を披露されました。恥ずかしながら、2進法が採用されていたとする説明については半分ほどしか理解できませんでしたが、弥生時代の分銅計りの重りが2進法で設計されており、その伝統が江戸時代まで遺っていたということには驚きました。不二井さんの教え子(小学生時代)の榎原さんが例会に参加されました。聞けば、榎原さんのお父上が古田先生のファンだったとのことで、その御縁で例会での不二井さんの発表を聞きに来られたとのことでした。

 亡くなられた水野顧問の研究年譜と、古田史学の会創立時の思い出なども、わたしから報告させていただきました。

 10月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔10月度関西例会の内容〕
①2進法手品 (明石市・不二井伸平)
②推古紀の小野妹子と蘇因高 (姫路市・野田利郎)
③縄文語で解く記紀の神話 崇神帝 (大阪市・西井健一郎)
④水野孝夫顧問との出会いと研究年譜の紹介 (京都市・古賀達也)
⑤道君首名卒伝の「和銅末」の考察(前編) (京都市・古賀達也)
⑥記紀の記述から天皇の二倍年齢と万世一系を疑う (大山崎町・大原重雄)
⑦九州王朝は「日本国」を名のったのか? (神戸市・谷本 茂)
⑧『日本書紀』のルーツとタリシホコ (東大阪市・萩野秀公)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
11/16(土) 10:00~17:00 会場 東成区民センター
12/21(土) 10:00~17:00 会場 都島区民センター


第3349話 2024/09/22

「中原高句麗碑」碑文にあった「高麗」

 一昨日、 「古田史学の会」関西例会が豊中自治会館で開催されました。次回、10月例会の会場も豊中自治会館です。お昼休みには「古田史学の会」役員会を開催し、来年1月19日(日)に京都市(キャンパスプラザ京都を予定)で新春古代史講演会を開催することなどを決定しました。

 8月例会で発表予定だった「多元的天皇号の成立」を、今回、わたしは発表しました(体調不良で8月例会を欠席)。発表者が多く、時間制限(40分)のため、船王後墓誌銘文の「天皇」を九州王朝の天子の別称とする古田新説が成立困難であることについて、テーマを絞って説明しました。このテーマについては引き続き「洛中洛外日記」でも解説する予定です。

 正木さんからは「中原高句麗碑」の紹介がありました。「高句麗好太王碑」は有名ですが、1987年に韓国忠州市から発見された「中原高句麗碑」は、高句麗長寿王(413~491年)の事績を刻むとされる石碑で貴重です。正面の碑文だけが遺っており、他の三面はほとんど文字は見えないとのことです。発見の翌年、ソウル出張したときに同碑発見のニュースを聞いた記憶がありますが、正木さんの発表で内容について初めて知りました。碑文には高句麗のことを「高麗」とあり、高句麗自身は自国の正式名称を「高麗」と呼んでいたことがわかり、とても興味深いものでした。

 9月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔9月度関西例会の内容〕
①倭国に滅ぼされた多婆那国(改定) (姫路市・野田利郎)
②大国主が落ちた穴と宇陀の血原の本当の意味 (大山崎町・大原重雄)
③韓半島の倭人の運命 (高槻市・池上正道)
④多元的天皇号の成立 (京都市・古賀達也)
⑤縄文語で解く記紀の神々 孝元・開化帝と日子坐 (大阪市・西井健一郎)
⑥「倭国」の動向と多利思北孤 (東大阪市・萩野秀公)
⑦欽明紀の分析 (茨木市・満田正賢)
⑧『中原高句麗碑』が明らかにした5世紀の高句麗の攻勢 (川西市・正木 裕)
◎役員会の報告(古賀)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
10/19(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館
11/16(土) 10:00~17:00 会場 東成区民センター
12/21(土) 10:00~17:00 会場 都島区民センター


第3327話 2024/07/21

追悼、山田宗睦さん

     (6月17日御逝去、99歳)

 昨日、 「古田史学の会」関西例会が都島区民センターで開催されました。次回、七月例会の会場は北区民センターです。今回も関東から冨川ケイ子さん(全国世話人、相模原市)が参加されました。宇治市在住の会員、池上さんが例会に初参加されました。

 お昼休みには役員会を開催し、八王子セミナー実行委員に「古田史学の会」として冨川ケイ子さんに加えて、古賀の追加を主催者(大学セミナーハウス)に申請することなどを決定しました。

 今回は、6月17日に御逝去された山田宗睦さん(注①)の追悼として、正木さんが山田さんの初期の研究「日本書紀の地名二つ」(注②)を紹介しました。山田さんは古田史学・九州王朝説の熱心な支持者で、自らも日本古代史の研究を深め、『日本書紀』に盗用された九州王朝の天孫降臨説話についての新仮説を発表されました。そうした山田さんの仮説に三十数年ぶりに触れて、当時充分に理解できなかったのですが、正木さんの解説により、有力な仮説であることに気づくことができました。

 わたしが山田さんと初めてお会いしたのは、信州白樺湖畔にある昭和薬科大学諏訪校舎で、平成三年(1991)八月一日のことでした。古田先生の提唱により開催された「古代史討論シンポジウム 『邪馬台国』徹底論争 ―邪馬壹国問題を起点として―」(8月1日~6日、東方史学会主催)の実行委員会にわたしは「市民の古代研究会」事務局長として参画しました。山田さんは同シンポジウムの総合司会でした。運営上で不手際があり、山田さんにはご迷惑をおかけしましたが、山田さんや実行委員会メンバーのご協力により、乗り切ることができました。わたしが36歳のときのことで、懐かしい思い出です。当時のことを主催者側として詳しく知るのは恐らくわたしだけですから、機会があればそのときの逸話を紹介したいと思います。

 その次に山田さんとお会いしたのは、2018年に開催された第一回八王子セミナー2018でした。山田さんは90歳を越え、わたしも還暦を過ぎ、二十数年ぶり再会でした。そのときは感激のあまり、二人は抱き合ってその再会を喜びあいました。なお、山田さんは初めての「古田武彦記念古代史セミナー」を記念して特別講演「ユーラシア世界史と倭人」をされました。

 7月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔7月度関西例会の内容〕
①金印の疑義を解明する (姫路市・野田利郎)
②伊勢遺跡の注穴が示す山内丸山6本柱の虚偽説明 (大山崎町・大原重雄)
③室見川銘板問題に関して (大山崎町・大原重雄)
④追悼:山田宗睦さん(6月17日逝去) (川西市・正木 裕)
⑤太子と、皇太子の還った倭京 (東大阪市・萩野秀公)
⑥日本書紀に記された前期九州王朝の残影 (茨木市・満田正賢)
⑦久留米大学紀要論文の解説 (川西市・正木 裕)
⑧久留米大学紀要論文の解説と同公開講座の報告 (京都市・古賀達也)
◎役員会の報告(古賀)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
8/17(土) 10:00~17:00 会場 北区民センター
9/21(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館
10/19(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館

(注)
①山田宗睦(やまだ むねむつ、哲学者、1925~2024年)。山口県下関市生まれ。京都大学哲学科卒、東大出版会企画部長、「思想の科学」編集長、桃山学院大学教授、関東学院大学教授などを歴任。著書に『山田宗睦著作集』(三一書房)、『日本書紀史注』『日本書紀の研究のひとつ』(風人社)、『現代語訳日本書紀上中下』『古代と日本書紀』(ニュートンプレス社)など。古田武彦『古代は輝いていたⅢ 法隆寺の中の九州王朝』(朝日新聞社)解説執筆。多元的古代研究会の日本書紀講座の講師(1994年から約6年半)。
②山田宗睦「日本書紀の地名二つ」『季節』第11号(特集「古田史学の諸相」)、鹿砦社、1988年。

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〔7月度関西例会〕

①金印の疑義を解明する (姫路市・野田利郎)

金印の疑義を解明する①

 

②伊勢遺跡の注穴が示す山内丸山6本柱の虚偽説明 (大山崎町・大原重雄)

伊勢遺跡の柱穴が示す三内丸山6本柱の虚偽説明①

③室見川銘板問題に関して (大山崎町・大原重雄)

室見川銘板問題に関して①

 

④追悼:山田宗睦さん(6月17日逝去) (川西市・正木 裕)

追悼:山田宗睦さん①
山田宗睦さん②
山田宗睦さん③

 

⑤太子と、皇太子の還った倭京 (東大阪市・萩野秀公)

太子と皇太子の遷った倭京①

 

⑥日本書紀に記された前期九州王朝の残影 (茨木市・満田正賢)

日本書紀に記された前期九州王朝の残影①

 

⑦久留米大学紀要論文の解説 (川西市・正木 裕)

俾弥呼の宮都の考察

⑧久留米大学紀要論文の解説と同公開講座の報告 (京都市・古賀達也)

筑紫なる遠の朝廷~倭国の両京制の考察