古層の神名一覧

第3317話 2024/07/03

『古代に真実を求めて』

     28集の特集テーマ

 「古田史学の会」の会員論集『古代に真実を求めて』28集の特集テーマは「風土記・地誌の九州王朝」です。風土記や地誌を研究対象として、そこに遺された九州王朝や多元史観の痕跡を論じ、論文やフォーラム・コラムとして投稿してください。地誌の場合、その成立が中近世であっても、内容が古代を対象としており、適切な史料批判(古代の真実を反映していることの証明)を経ていれば、古代史研究のエビデンスとして採用できます。

 具体的には、現存する五つの風土記(常陸国・播磨国・出雲国・肥前国・豊後国)と風土記逸文が研究の対象になります。地誌は各地にあり、成立時期や史料性格(公的か私的か。編纂目的)が異なりますから、採用にあたっては当該史料の性格や概要の説明が必要です。これは読者に対しても必要な配慮ですので、ご留意下さい。この点、現存五風土記の場合は著名ですし、学界で古代史料として認められていますから、出典の明示があれば問題はないでしょう。

 ご参考までに、閲覧・入手が比較的可能で著名な九州地方の地誌を管見の範囲で紹介します。会員の皆さんからの、後世に残すべき優れた多元史観の論文、読んで勉強になり、かつ面白い投稿をお待ちしています。

○『太宰管内志』伊藤常足、天保12年(1841)〈歴史図書社、昭和44年(1969)〉
○『筑前国続風土記』貝原益軒、宝永6年(1709)〈文献出版、昭和63年(1988)〉
○『筑前国続風土記付録』加藤一純・鷹取周成、寛政11年(1799)〈文献出版、昭和52年(1977)〉
○『筑前国続風土記拾遺』青柳種信、文化11年(1814)〈文献出版、平成5年(1993)〉
○『筑後志』杉山正仲・小川正格、安永6年(1777)〈久留米郷土研究会編、昭和49年(1974)〉
○『肥前旧事』南里有隣編著・糸山貞幹増訂、江戸後期〈『肥前叢書 第一輯』肥前史談会編、青潮社、昭和48年(1973)〉
○『肥前古跡縁起』大木英鉄、寛文5年(1665)〈『肥前叢書 第一輯』肥前史談会編、青潮社、昭和48年(1973)〉
○『肥後国誌』森本一瑞、明和9年(1772)〈青潮社、昭和46年(1971)〉
○『豊前志』渡辺重春、文久3年(1863)〈雄山閣、昭和46年(1971)〉
○『豊後国誌』唐橋君山・田能村竹田・伊藤猛、享和3年(1803)〈文献出版、昭和50年(1975)〉
○『三国名勝図会』天保14年(1843)〈青潮社、昭和57年(1982)〉※日向・大隅・薩摩の地誌。


第3254話 2024/03/23

鶴岡八幡宮の神社本庁離脱に思う (2)

 鎌倉市の鶴岡八幡宮が神社本庁から離脱するというWEBニュースなどによれば、全国の稲荷神社の総本宮とされる京都の伏見稲荷大社も神社本庁に加盟していないとのこと。そして両神社の名となった「八幡」や「稲荷」は『記紀』には見えない神名(或いはその由来となった地名)です。これは偶然のこととは思いますが、興味深く思いました。稲荷神社については、古田先生から次のような話を聞いたことがありました。

 〝日本人の主食であるお米の神様が『記紀』には登場しない。山河や動植物に神が宿るという日本人の宗教観からすると、これほど大切な食べ物の神様が『記紀』に見えないのは不思議だ。しかし、お米の神様がいなかったはずがない。それを祀らなかったはずがない。そう考えると、全国各地の祀られているお稲荷さんこそ、お米の神様ではないか。〟(注)

 この話を聞いて、なるほどと思いました。しかし、それではなぜ『記紀』に「稲荷」神が記されなかったのかという疑問は残ったままです。九州王朝の行政単位「評」が『日本書紀』では全て「郡」と表記されているという、前王朝の痕跡を消そうとした『日本書紀』編者の政治的意図と同様のことがお稲荷さんにもあったような気もしますが、そう言い切れるほどの史料調査と論証は出来ていません。

 ちなみに東日流外三郡誌には、日向の賊に追われたナガスネ彦が稲穂を持って東日流(津軽)に逃げたという伝承が採録されており、津軽からは筑紫の土器や板付水田と同じ工法を採用した水田跡(砂沢遺跡)が出土していることも注目されます。

 もしそうであれば、弥生時代の豊かな稲作地帯に金属器を武器として軍事侵攻(天孫降臨)した九州王朝の始原の勢力(天孫族)にとって、お稲荷さんを祀っていた側は敵対勢力ですから、その神様(「稲荷(イナリ)」という神名・地名)を神話や伝承から消し去ったのは、『記紀』を編纂した近畿天皇家というよりも、『記紀』神話の元史料を編纂した九州王朝だったことになりそうです。稲荷信仰や稲荷(イナリ)神名・地名の史料調査と多元史観による研究が必要です。

 余談ですが、神社本庁から離脱した金刀比羅宮や鶴岡八幡宮、そして元々加盟していなかった伏見稲荷大社は、いずれも国内有数の観光神社として著名です。これも偶然なのでしょうか。(つづく)

(注)伏見稲荷大社の主祭神(中央の下社)の「宇迦之御魂大神」(古事記)は『日本書紀』では「倉稲魂神」とされており、これは米の神であると、西村秀己氏(古田史学の会・全国世話人、高松市)よりご教示いただいた。


第3126話 2023/09/29

全国の「天皇」地名

 「洛中洛外日記」連載中の〝『朝倉村誌』の「天皇」地名を考える〟をFaceBookで紹介したところ、Yoshio Kojimaさん(宝塚市)から、国内に現存する「天皇」地名について、次のコメントをいただきました。

〝古賀様 富山県にも有ります。「砺波市 安川 字天皇」です。徳島県にもあるようです。「美馬郡 つるぎ町 半田 天皇」〟

 わたしは両「天皇」地名のことを知りませんでしたので、この情報に驚きました。そして、もしかすると他にも「天皇」地名が在るのでないかと思い、webなどで調査したところ、本日時点で、次の「天皇」地名が見つかりました。この中には、市町村合併や地名変更により、現在の地図では確認できないものもありますが、明治期には存在していたと思われます。

【国内の「天皇」地名】
※〔未確認〕とあるものは、web上の地図では確認できなったもので、存在しないということでは無い。

《四国以外》
宮城県仙台市泉区実沢細椚天皇 ※当地に須賀神社がある。
宮城県仙台市泉区野村天皇  ※当地に須賀神社がある。
福島県喜多方市塩川町小府根午頭天皇 ※当地に牛頭天皇神社がある。
愛知県安城市古井町天皇
京都府綴喜郡宇治田原町荒木天皇 ※当地に大宮神社がある。

《四国》
徳島県美馬郡つるぎ町半田天皇 ※近隣に式内建神社がある。

香川県高松市林町天皇
香川県仲多度郡まんのう町四條天皇

愛媛県西条市福武甲天皇 ※当地に天皇神社(スサノオと崇徳上皇を祭神とする)がある。崇徳上皇来訪伝承があり、それにより「天皇」地名が付けられたとされているようである。
愛媛県西条市明理川(天皇) ※〔未確認〕
愛媛県西条市丹原町長野天皇 ※近隣に無量寺がある。
愛媛県今治市朝倉天皇

高知県高知市春野町弘岡上天皇 ※当地に天皇神社がある。
高知県香南市香我美町徳王子天皇 ※〔未確認〕
高知県香南市夜須町国光天皇

 それぞれに由来があり、その是非や、「天皇」地名成立がどの時代なのかは検証が必要ですが、四国に濃密分布していることは注目されます。また、仙台市の二つの「天皇」の地に須賀神社があることは、愛媛県今治市朝倉の「天皇」に須賀神社があるここと関係があるのかもしれません(注)。以上、現時点での調査結果を紹介しました。引き続き、調査します。Yoshio Kojimaさんのご教示に感謝いたします。

(注)各地の須賀神社は牛頭天皇やスサノオを祭神としており、この牛頭天皇により「天皇」地名が成立したとするのが一般的な見解と思われる。この解釈は有力とは思われるが、それだけでは、なぜ四国に「天皇」地名が濃密分布するのかの説明が困難である。なお、ウィキペディアの「須賀神社」の項によれば、四国地方は高知県のみ須賀神社が集中(13社)している。


第3046話 2023/06/19

東北地方の罵倒語「ツボケ」の歴史背景

 松本修『全国アホ・バカ分布考』(注①)には、不思議な罵倒語として、「田蔵田(タクラダ)」の他に東北地方の「ツボケ」があります。これを言素論で解析すると、語幹は「ツボ」で、「ケ」は古層の神名と理解できます(注②)。すなわち「ツボ」の神様となります。「ツボ」は文字通り「坪」「壺」のことか、あるいは地名の可能性もありそうです。たとえば「つぼの碑(いしぶみ)」という石碑のことが諸史料に見え、これを青森県東北町坪(つぼ)の集落近くで発見された「日本中央」碑のこととする説があります(注③)。そうすると、「ツボ」は地名のこととなります。

 いずれにしても、「ツボ」の「ケ」(神)が罵倒語として使用されていることから、対立し罵倒された「ツボケ」の民がある時代に存在していたと考えられます。恐らく、この対立は古代に遡るものであり、「ツボケ」の民とは蝦夷国の民であり、蝦夷国が祀った神様に「ツボ」の「ケ」様がいたのではないでしょうか。この推測を支持する史料があります。和田家文書『東日流外三郡誌』です。同書には古代東北(津軽)にいた「津保化族」の説話が多数収録されています。津軽には「津保化族」と「阿蘇部族」が住んでいたが、大和あるいは筑紫から逃げてきた安日彦・長脛彦兄弟に征服されたとする説話です。

 このような先住民の名前が罵倒語として使用された例を、古田先生が上岡龍太郎さんとの対談で次のように紹介しています(注④)。

上岡 これボクは松本修に聞いたんです。「『ツボケ』というのがあるそうやけど、どうなっている」というたら、「すいません、ボケの系譜に関しては非常に複雑なんで、この際ははずしました」と。「『アホ』と『バカ』に関しては全部分布できたんですけど、ボケは分布がおかしいんです」と。だから、東北では「ツボケ」なんですが、これがものすごう「アホ・バカ」の分布と違う分布をしているのです。で、「ツボケ」というのが北海道へ渡らないんですって、かたくなに本州で止まるんです。
古田 そうなんですよ。
上岡 他のは、離れ小島まで、南西諸島やろが八丈島やろがいくのに、「ボケ」だけはかたくなに止まるんですわ。ずっと分析した人が「これは何かある」っていうんですよ。これをやりたいんですけど、「アホ・バカ」に一生懸命でちょっと「ボケ」はやめてるんですけど、「頼むからいっぺんこれをやってくれ、何かそれから出るかもわからん」といってるんですが。
古田 いや、面白いですね。イギリスのほうで「このドルイド!」というそうですよ。つまり「ドルイド」というのが先住民で、これが罵り言葉で「ドルイド」というそうです。
上岡 ほう、やっぱり先住民。
古田 ええ「唐人」とか「ツボケ」とかあるんですねえ。「ドルイド」の話みたいに、世界的にそのノウハウが。人間がいるところ、日本だけじゃないんですね。

(注)
①松本修『全国アホ・バカ分布考 ―はるかなる言葉の旅路』太田出版、平成五年(1993)。平成八年(1996)に新潮文庫から発刊。
②古賀達也「洛中洛外日記」41話(2005/10/30)〝古層の神名「け」〟
同「古層の神名」『古田史学会報』71号、2005年。
③ウィキペディアには次の解説がある。
〝12世紀末に編纂された顕昭作の『袖中抄』19巻に「顕昭云(いわく)。いしぶみとはみちのくの奥につものいしぶみあり、日本のはてといへり。但し、田村将軍征夷の時、弓のはずにて、石の面に日本の中央のよしをかきつけたれば、石文といふといへり。信家の侍従の申ししは、石面ながさ四、五丈ばかりなるに文をゑり付けたり。其所をつぼと云也(それをつぼとはいふなり)。私いはく。みちの国は東のはてとおもへど、えぞの嶋は多くて千嶋とも云えば、陸地をいはんに日本の中央にても侍るにこそ。」とある。〟
〝青森県東北町の坪(つぼ)という集落の近くに、千曳神社(ちびきじんじゃ)があり、この神社の伝説に1000人の人間で石碑を引っぱり、神社の地下に埋めたとするものがあった。
明治天皇が東北地方を巡幸する1876年(明治9年)に、この神社の地下を発掘するように命令が政府から下った。神社の周囲はすっかり地面が掘られてしまったが、石を発掘することはできなかった。
1949年(昭和24年)6月、東北町の千曳神社の近くにある千曳集落の川村種吉は、千曳集落と石文(いしぶみ)集落の間の谷底に落ちていた巨石を、伝説を確かめてみようと大人数でひっくり返してみると、石の地面に埋まっていたところの面には「日本中央」という文面が彫られていたという。〟
④「上岡龍太郎が見た古代史」『新・古代学』第1集、新泉社、1995年。


第3045話 2023/06/18

肥後と信州に分布する罵倒語「田蔵田」

松本修『全国アホ・バカ分布考』(注①)に不思議な罵倒語とその分布図がありました。それは「田蔵田(タクラダ)」系というもので、熊本県と長野県に濃密分布しています。このような罵倒語があることをこの本を読むまで知りませんでしたし、聞いたこともありませんでした。類語として東北地方に「タクランケ」が散見しますが、熊本県(タクラ)と長野県(タークラター)に濃密分布しており、これは古代に遡って両地方に交流があった名残ではないでしょうか。
というのも、九州と信州の両地方における歴史的交流の痕跡について、「洛中洛外日記」などで何度も取り上げてきたところです(注②)。それは次のようなものです。

【「洛中洛外日記」九州と信州関連記事】
422話(2012/06/10) 「十五社神社」と「十六天神社」
483話(2012/10/16) 岡谷市の「十五社神社」
484話(2012/10/17) 「十五社神社」の分布
1065話(2015/09/30) 長野県内の「高良社」の考察
1240話(2016/07/31) 長野県内の「高良社」の考察(2)
1246話(2016/08/05) 長野県南部の「筑紫神社」
1248話(2016/08/08) 信州と九州を繋ぐ「異本阿蘇氏系図」
1260話(2016/08/21) 神稲(くましろ)と高良神社
1720話(2018/08/12) 肥後と信州の共通遺伝性疾患分布

今回、罵倒語の「田蔵田(タクラダ)」を上記に加えることにします。なお、九州内では熊本県のみに分布が紹介されていますが、それは昭和六年に熊本県内の小学校を対象としたアンケート調査資料(注③)に基づくためとのことですので、昭和六年時点では福岡県や鹿児島県にも「田蔵田(タクラダ)」が分布していた可能性が高いように思います。この言葉の意味には諸説あるようですが、今のところ納得できるものはありません。それにしても、不思議な分布の罵倒語です。

(注)
①松本修『全国アホ・バカ分布考 ―はるかなる言葉の旅路』太田出版、平成五年(1993)。平成八年(1996)に新潮文庫から発刊。
②古賀達也「古代の九州と信州の接点」『東京古田会ニュース』190号、2020年。
③田中正行『肥後方言由来記』昭和六年(1931)。


第2881話 2022/11/22

「イシカ・ホノリ・ガコ」の語源試案

 11月18日(金)に開催された「多元の会」主催の「古代史の会」にリモート参加させていただき、淀川洋子さんの研究発表「三つ鳥居巡り 和田家文書をしるべに」を拝聴しました。そのなかで、『東日流外三郡誌』など和田家文書に見える「イシカ・ホノリ・ガコ」という神像(土偶)の紹介がありました。この「イシカ・ホノリ・ガコ」は「イシカ・ホノリ・ガコ・カムイ」と記される場合もあり、古代からの東北地方の神様のようです。和田家文書ではイシカを天の神、ホノリを地の神、ガコを水の神と説明されており、この名称が中近世のアイヌ語なのか、古代縄文語まで遡るのかについて関心がありました。今回の淀川さんの発表を聞き、この語源について改めて考察する契機となりました。
 全くの思いつきに過ぎませんが、「イシカ」「ホノリ」「ガコ」がアイヌ語に見当たらないらしく、もしかすると倭語ではないかと考えたのです。まず、イシカは石狩(イシカリ)由来の地名で、たとえば佐賀県の吉野ヶ里(よしのがり)・碇(イカリ)のように、地名接尾語の「ガリ」「カリ」が付いたとすれば、本来はイシカ里であり、語幹はイシあるいはイシカとなります。同様にホノリもホノ里ではないかと考えたわけです。
 ガコはちょっと難解ですが、和田家文書では「水の神」とされていることから、川(カワ)の古語ではないかと推定しました。すなわち、黄河の河(ガ)と揚子江の江(コウ)です。たとえば久留米市には相川(アイゴウ)という地名があります。島根県にも江の川(ゴウノカワ)・江津(ゴウツ)があり、いずれも江・川のことを古語でゴウと呼んでいたことの名残です。このように川のことを「ガ」「コウ」と呼ぶのは倭語であるとされたのは古田先生でした。こうした例から、水の神「ガコ」とは河江(ガコウ・ガコ)のことではないかと考えたのです。
 以上の推定(思いつき)が当たっていれば、「イシカ・ホノリ・ガコ」とはイシカという地域のホノ里を流れる河と考えることができそうです。残念ながらイシカやホノの意味はまだわかりませんが、アイヌ語というよりも、倭語あるいはより古い縄文語ではないでしょうか。
 なお、ウィキペディアでは、「石狩」地名の由来は諸説あり、未詳とされているようで、「アイヌ語に由来する。蛇行する石狩川を表現したものとする考え方が大勢だが、解釈は以下のように諸説ある。」として次の説が紹介されています。

イ・シカラ・ペッ i-sikar-pet – 回流(曲がりくねった)川(中流のアイヌによる説、永田方正『北海道蝦夷語地名解』より)
イシ・カラ isi-kar – 美しく・作る(コタンカラカムイ(国作神)が親指で大地に川筋を描いた)(上流のアイヌによる説、同書より)
イシ・カラ・ペッ isi-kar-pet – 鳥尾で矢羽を作る処(和人某の説だがアイヌの古老はこれを否定、同書より)
イシカリ isikari – 閉塞(川が屈曲していて上流の先が見えない)〟

 わたしの「イシカ・ホノリ・ガコ」倭語説は、淀川さんの研究発表を聞いていて思いついたものであり、たぶん間違っている可能性が大ですが、いかがでしょうか。


第2750話 2022/05/30

「宇曽利(ウソリ)」地名の古さについて

 和田家文書に見える「宇曽利」地名が沿海州のウスリー川(中国語表記は「烏蘇里江」)と語源が共通するのではないかと、「洛中洛外日記」(注①)で推測しました。WEB辞書などにはウソリをアイヌ語とする説(注②)が紹介されていますが、わたしはもっと古く、縄文語かそれ以前の言葉に由来するのではないかと考えています。
 古田先生が提唱された言素論で「ウソリ」を分析すると、語幹の「ウ」+古い神名の「ソ」、そして一定領域を示す「リ」から成っているように思われます。語幹の「ウ」の意味については未詳ですが、「ソ」が古層の神名であることについて「洛中洛外日記」などで論じてきました(注③)。「リ」は現代でも「里」という字で使用されています。弥生の環濠集落で有名な「吉野ヶ里」はもとより、「石狩」「香取」「白鳥」「光」などの地名末尾の「リ」もたぶんそうでしょう。
 これらのことから、神様を「ソ」と呼んだ古い時代にウソリという地名が成立したと考えられます。他方、宇曽利の類似地名「加曽利(カソリ)」が現存しています(千葉県千葉市)。縄文貝塚で有名な加曽利貝塚があるところです。現時点の考察では断定できませんが、初歩的な仮説としては成立しているように思いますが、いかがでしょうか。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2738話(2022/05/09)〝ウスリー川と和田家文書の宇曽利〟
 同「洛中洛外日記」2748話(2022/05/28)〝菊地栄吾さん(古田史学の会・仙台)から「ウスリー湾」の紹介〟
②ウソリはアイヌ語ウショロ(窪地・入り江・湾)に由来するとする。
③古賀達也「洛中洛外日記」40~45話(2005/10/29~11/09)〝古層の神名〟
 同「『言素論』研究のすすめ」『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)古田史学の会編、明石書店、2016年。


第2743話 2022/05/18

京都地名研究会誌『地名探究』20号の紹介

 本年1月に入会させていただいた京都地名研究会の会誌『地名探究』20号が届きましたので紹介します。同研究会の講演会については「洛中洛外日記」(注①)で紹介しましたが、『地名探究』20号は同会創立20周年記念特別号とのことで、A4版246頁の立派な装丁です。もちろん掲載論文も多種多様で、興味深く拝読しました。
 なかでも糸井通浩さんの論稿「『福知山』地名考 ―『国阿上人絵伝』の『福知山』をどうみる―」と「地名研究と枕詞 ―あるいは、地名『宇治』『木幡』考」は古田先生の言素論と共通するテーマも扱っており、すぐれた研究です。たとえば、糸井さんは「ち」について次のように解説されています。

〝「ちはやぶる(千早振る)」は、「ち」が霊力の意の語で「霊力のある、勢いの強い、勇猛な」を意味して、神や神に関わる言葉に掛かる枕詞としてよく知られているが(後略)〟「地名研究と枕詞 ―あるいは、地名『宇治』『木幡』考」、157頁

 「ち」が神を表す古い言葉であることは古田先生から教えていただいたことですが、それと共通する見解で、わたしも「古層の神名」などで論じたことがあります(注②)。
 言素論研究では文献史料の他に地名も有益な史料となりますので、地名研究は古代史研究とも密接に関わっています。この分野の知見を広めることができ、同研究会に入会してよかったと思います。なお、同会には他府県からも多くの方が入会されており、皆さんにもお勧めの研究会です。年会費は3,000円で、会誌(年刊)の他に会報『都藝泥布』(つぎふね。季刊)が発行されています。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2670話(2022/01/30)〝格助詞に着目した言素論の新展開〟
 同「洛中洛外日記」2673話(2022/02/02)〝言素論による富士山名考〟
②同「洛中洛外日記」40話(2005/10/29)〝古層の神名「ち」〟
 同「古層の神名」『古田史学会報』71号、2005年。
 同「洛中洛外日記」139話(2007/08/19)〝須知・和知・福知山〟
 同「『言素論』研究のすすめ」『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)古田史学の会編、明石書店、2016年。


第2640話 2021/12/19

「しな」の言素論的考察

 テレビ番組でベートーベン第九演奏会「サントリー1万人の第九」の放送があり、芸人の粗品さん(霜降り明星)が司会をしておられました。珍しいお名前ですので、以前から気になっていました。言素論により考察すると、粗品という漢字は当て字ですから、「そしな」という音の意味が重要です。
 恐らく「しな」は地名接尾語、たとえば山科・宇品・阿品・温品・蓼科などの「しな」です。ですから「そしな」の語幹は「そ」です。今のところ、「そ」や「しな」の原義は確定できていませんが(諸説あります)、「そ」は古層の神名(注①)の一つ「そ」(神の意)かもしれません。更に言素論を徹底すれば、「しな」は「し」「な」に分割でき、「な」も接尾語と思われます。地名では榛名・志那・桑名・海老名・伊那・更科・更級・伊奈・朝比奈・安比奈・恵那・久那・楠那・多那・矢那・山那・帯那・丹那・知名・伊是名・阿須那・与那・漢那・高那・高奈など、普通名詞としては翁・女の「な」などです。その場合、残念ながら「し」と「な」の原義も確定できていません。
 なお、「しな」を語幹に持つ地名があります。品川・信濃などです。この場合、地名接尾語としての「しな」と同義か別義なのかはよくわかりませんが、信濃は「しな」と「の」に分割できますから、当地に蓼科・明科・倉科・仁科・埴科・更科・など「科(しな)」地名が多数あることを考えれば、「○○しな」が分布する領域が「しな」「の」と呼ばれるようになり、後に科野や信濃の字が当てられたと考えることができそうです。
 最後に「しな」の意味について推察します。そのヒントになるのが、地名に当てられる漢字「科」の字義です。古代に於いて「しな」の意味がわかっているときに漢字を当てるわけですから、一字一音の万葉仮名か、意味が対応する漢字を当てたと思われます。そうすると「科」は音を当てたのではなく、字義の対応があって採用したと考えざるを得ません。webの漢和辞典(注②)によれば、「科」には「あな。まるいくぼみ」という意味があり、地形と関係しそうです。この他にも諸説ありますので、引き続き研究したいと思います。
 ここまで書いて粗品さんのことを調べたら、粗品は芸名で、本名は佐々木さんとのこと。従って、本稿は粗品さんの名前(芸名)ではなく、「しな」という倭語の素論的考察ということでご容赦下さい。お後がよろしいようで。

(注)
①「洛中洛外日記」40~45話(2005/10/29~11/09)〝古層の神名〟。『古田史学会報』71号(2005/12)に編集して転載。
②学研漢和大字典 https://sakura-paris.org/dict/%E5%AD%A6%E7%A0%94%E6%BC%A2%E5%92%8C%E5%A4%A7%E5%AD%97%E5%85%B8/prefix/%E7%A7%91
{名詞}あな。まるいくぼみ。《類義語》⇒窩(カ)(あな)。「盈科而後進=科を盈たして後に進む」〔孟子・離下〕


第1877話 2019/04/17

米沢の古代史

 昨晩、山形新幹線で米沢市に到着しました。米沢は初めてでしたので、駅の観光案内所で観光マップをいただき、米沢で最も古い寺社はどこかとたずねたところ、上杉神社と白子(しろこ)神社とのことでした。スマホで調べてみると、白子神社の創建は和銅5年(712)、ご祭神は火産霊命と埴山姫命とありました。
 山形市まで北上すれば羽黒山修験道関連の伝承(「洛中洛外日記」266話「東北の九州年号」を参照)に九州年号「端政」(589〜593年)が見えるのですが、米沢市には九州年号は未発見です。本格的調査ではありませんから断定はできませんが、山形県地方への九州王朝の影響や九州年号の伝播は日本海側ルートだったのかもしれません。そのため、米沢市を経由せずに越後から日本海沿いに山形方面に伝わった可能性があるようです。
 ただ、米沢市内には前方後円墳が散見されますので、遅くとも古墳時代には前方後円墳を築造する勢力や文明が伝わっていたわけですから、この勢力と九州王朝との関係などがこれからの多元的米沢市(置賜地方)古代史研究の課題です。


第1260話 2016/08/21

神稲(くましろ)と高良神社

 多元的「信州」研究の全国的な研究者ネットワークの形成を進めていますが、久留米市の研究者、犬塚幹夫さんから貴重な調査報告メールをいただきました。淡路島にも高良神社があったというもので、信州以外にもこうした分布があったことを、わたしは初めて知りました。犬塚さんのご了解を得て、転載します。

〔犬塚さんからのメール〕

古賀様
 
 洛洛メール便第438号で長野県下伊那郡豊丘村の「神稲(くましろ)」という地名が紹介されていました。
 わが久留米市でも「神代(くましろ)」の地名は「山川神代(やまかわくましろ)」や「神代橋(くましろばし)」として残っています。そこで久留米の「神代(くましろ)」について、「大日本地名辞書」と「太宰管内志」で調べてみたところ次のことがわかりました。

1.和名抄に御井郡「神氏」とあるのは「神代」の誤りである。
2.「神代」は「神稲」であり、高良神へ稲を供える里の意味である。
3.神代は久麻志呂(くましろ)と読む。
4.淡路国三原郡の「神稲」は久萬之呂(くましろ)と読む。
 
 淡路国にも「神稲」があることがわかりましたので、「大日本地名辞書」で「淡路国三原郡神稲郷」を見ると次のことがわかりました。

1.「神稲」は久萬之呂(くましろ)と読む。
2.「神稲」は久萬之禰(くましね)と読むべきであるが久萬之呂に転じたものであろう。
3.神稲は、神に供える稲を作る田の意味である。

 淡路国三原郡神稲郷は、現在南あわじ市となり神代社家、神代地頭方、神代国衙などの地名として残っているようですが、神代の読みは(じんだい)に変わっています。
 神稲が神に供える田であれば、神社が周囲にあるはずです。ネットで調べたところ南あわじ市に次のような高良系神社が見つかりました。

高良神社(南あわじ市八木国分)
高良神社(南あわじ市広田広田)
高良神社(南あわじ市賀集八幡南)
上田八幡神社境内社高良神社(南あわじ市神代社家)
神代八幡神社境内社高良神社(南あわじ市神代地頭方)
亀岡八幡神社境内社松浦高良神社(南あわじ市阿万上町)

 この神稲郷という地域の周辺になぜ高良神社が集中しているのか、神代国衙にあったと推測される淡路国府は関連があるのか、なかなか興味があるところです。
 南あわじ市の「神稲」の周辺に高良系神社があるということは、長野県下伊那郡豊丘村の「神稲」の周辺にも高良系神社がある可能性があります。洛中洛外日記第1246話で明らかにされた下伊那郡泰阜村の筑紫神社以外にも高良系神社が存在するかもしれません。これらのことも九州とどのように関係するのか興味あるところです。

久留米市 犬塚幹夫


第1248話 2016/08/08

信州と九州を繋ぐ「異本阿蘇氏系図」

 信州に多数分布する「高良社」や、熊本県天草市と長野県岡谷市に分布する「十五社神社」など、信州と九州に密接な関係があることに強い関心を持ってきました。たとえば「十五社神社」に関しては「洛中洛外日記」でも取り上げてきました。下記の通りです。

第422話 2012/06/10 「十五社神社」と「十六天神社」

第483話 2012/10/16 岡谷市の「十五社神社」

第484話 2012/10/17 「十五社神社」の分布

 この両地方の関係について、その淵源が古代にまで遡るのか、九州王朝によるものかなどわからないことばかりでしたが、「評」系図としても有名な「異本阿蘇氏系図」を精査再検討していたところ、両者の関係が古代に遡るとする痕跡を見いだしましたので、概要のみご紹介します。
 『田中卓著作集』に収録されている「異本阿蘇氏系図」によると、「神武天皇」から始まる同系図は、その子孫の阿蘇氏(阿蘇国造・阿蘇評督など)の系譜を中心にして、途中から枝分かれした「金刺氏」(科野国造・諏訪評督など)や「多氏」などの系譜が付記(途中で接ぎ木)された様相を示しています。従って、阿蘇氏内に伝来した阿蘇氏系譜部分は比較的「精緻」と思われることに対して、「金刺氏」系譜部分は遠く離れた「信州の分家」からもたらされた系図を、後世になって阿蘇氏自らの系図に付記したものと考えられ、史料的な信頼性は劣ると考えざるを得ません。この点については、「系図の史料批判の方法」として別の機会に詳述する予定です。
 阿蘇氏や金刺氏・諏訪氏の系図は各種あるようで、どれが最も古代の真実を伝えているのかは慎重に検討しなればなりませんが、「異本阿蘇氏系図」の編者にとっては、信州の金刺氏(後の諏訪氏)は継躰天皇の時代以前に阿蘇氏から分かれて信州に至ったと主張、あるいは理解していることとなります。もちろんこうした「理解」が真実かどうかは他の史料や考古学的事実を検討しなければなりませんが、信州と九州の関係が古代に遡ることの傍証になるかもしれません。
 「異本阿蘇氏系図」の「金刺氏系譜」部分でもう一つ注目されたのが、「諏訪評督」の注を持つ「倉足」の兄弟とされる「乙穎」の細注に見える次の記事です。

「一名神子、又云、熊古」

 「神子」の別称を「熊古」(「くまこ」か)とするものですが、「神」を「くま」と訓むことは筑後地方に見られます。たとえば「神代」と書いて「くましろ」と当地では読みます。ちなみに「神代家」は高良玉垂命の後裔氏族の一つです。この「神(くま)」という訓みは九州王朝の地(筑後地方・他)に淵源を持っているようですので、「異本阿蘇氏系図」に見えるこの「熊古」記事は諏訪氏と九州との関係をうかがわせるのです。
 この信州と九州とを繋ぐ「異本阿蘇氏系図」の史料批判や研究はこれからの課題ですが、多元史観・九州王朝説により新たな展開が期待されます。

〔後注〕信州と九州の関係について研究されている長野県上田市の吉村八洲男さんと、最近、知り合いになりました。共同研究により、更に研究が進展するものと楽しみにしています。