法隆寺一覧

第1865話 2019/03/29

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(2)

 天平十九年(747)に成立した『法隆寺縁起并流記資財帳』によれば、次のような法隆寺へ献納物が奉納日・奉納者と共に記されています。

 「丈六分銀多羅弐口〔一口重九斤 一口九斤二分〕
 右天平八年歳次丙子二月廿二日納賜平城宮
 皇后宮者」(『寧楽遺文』による。〔〕内は細注)

を筆頭に、「白銅鏡肆面」「香肆種」「白筥二合」「革箱肆号」が施入されています。
 『法隆寺縁起』によれば、光明皇后からの施入が際立って多いのですが、異父姉無漏王も同日に白銅鏡一面を「丈六分」として施入しています。この「丈六」とは丈六の仏像である釈迦三尊像のことと思われますから、ときの大和朝廷の光明皇后らが、九州から発生した伝染病の脅威を沈めるために、九州王朝の天子・多利思北孤の命日「二月廿二日」に、斑鳩に移築した九州王朝の多利思北孤を模した釈迦三尊像を本尊とする「法隆寺」に献納品を施入しているのです。
 この史料事実から、法隆寺を九州王朝の天子・多利思北孤鎮魂のための寺院とする仮説をわたしは発表したことがあります(「九州王朝鎮魂の寺 -法隆寺天平八年二月二二日法会の真実-」、『古代に真実を求めて』第十五集所収、2012.3)。このことを来月十九日開催(奈良県立情報図書館、古代大和史研究会主催・原幸子代表)の講演会で紹介しようと、『法隆寺縁起并流記資財帳』を読み直していたのですが、そこに不思議な記事があることに気づきました。(つづく)


第1864話 2019/03/28

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(1)

 今朝は名古屋に向かう新幹線車中で書いています。早朝から京都駅新幹線ホームには警察犬を連れた京都府警のおまわりさんがものものしく警邏していました。今までにない警備体制でしたので、「何か事件でもあったのですか」とたずねると、「天皇陛下が来られるので」とのこと。そういえば昨日は拙宅近くの京都御所に来られましたので、これから東京に戻られるのでしょう。仕事がなければホームでお見送りできたのですが、残念です。これまでも京都駅や拙宅前で、何度か両陛下やこの5月に新天皇に即位される皇太子殿下を遠くから拝する機会がありましたが、それは京都ならではの光景かもしれません。

 大宝元年(701)に九州王朝(倭国)から王朝交替により列島の代表王朝となった近畿天皇家が今上天皇まで千三百年以上続いているということは世界史的に見ても稀有なことですが、その天皇家も王朝交替直後に何度か危機的状況に遭遇しています。たとえば天平年間には天災が発生し、九州(大宰府官内)から流行した伝染病(天然痘か)により大和朝廷の有力者が次々と病没しています。次のようです。

天平六年(734) 四月 大地震発生
天平七年(735) 五月 流星群出現
        八月 大宰府官内で疫病流行
        九月 新田部親王薨
       十一月 舎人親王薨
       この年、天下に豌痘瘡(天然痘)流行

 こうした国家的災厄に応じて、大和朝廷は天平七年五月に宮中や大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺で大般若経の転読を行ったり、八月には太宰府観世音寺等で金剛般若経を読ませたりしています。しかし、その効果なく親王たちが没したため、天平八年二月二二日に法隆寺で法会が執り行われています。このとき、法隆寺に大量の品々が献納されました。翌天平九年(737)にも、藤原房前(四月)、藤原麻呂(七月)、藤原武智麻呂(七月)、藤原宇合(八月)と政権中枢にあった藤原一族の有力者が次々と没しています。(つづく)


第1780話 2018/11/04

滋賀県蜂屋遺跡出土の法隆寺式瓦(2)

 滋賀県栗東市の蜂屋遺跡からの法隆寺式瓦大量出土について、古田史学・九州王朝説としてどのように考えられるのかについて、わたしの推論を紹介します。報道によれば今回の出土事実の要点は次の通りです。

①創建法隆寺(若草伽藍。天智9年〔670〕焼失)と同笵の「忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦」2点(7世紀後半)が確認された。
②現・法隆寺(西院伽藍。和銅年間に移築)式軒瓦が50点以上確認された。
③創建法隆寺(若草伽藍)の創建時(六世紀末〜七世紀初頭)の創建瓦(素弁瓦)は出土していないようである。

 報道からは以上のことがわかります。発掘調査報告書が刊行されたら精査したいと思いますが、これらの状況から九州王朝説では次のように考えることが可能です。

④創建法隆寺(若草伽藍)を近畿天皇家による建立とすれば、蜂屋遺跡で同笵の「忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦」(7世紀後半)を製造した近江の勢力は近畿天皇家と関係を持っていたと考えられる。
⑤近年、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は創建法隆寺(若草伽藍)も九州王朝系寺院ではないかとする仮説を表明されている。この正木仮説が正しければ、蜂屋遺跡の近江の勢力は九州王朝と関係を持っていたこととなる。
⑥現・法隆寺(西院伽藍)は九州王朝系寺院を近畿天皇家が和銅年間頃に移築したと古田学派では捉えられており、その法隆寺式瓦が大量に出土した蜂屋遺跡の勢力は八世紀初頭段階で近畿天皇家との関係を持っていたと考えられる。
⑦この④⑤⑥の推論を考慮すれば、蜂屋遺跡の近江の勢力は斑鳩の地を支配した勢力と少なくとも七世紀初頭から八世紀初頭まで関係を継続していたと考えられる。
⑧近江の湖東地域はいわゆる「聖徳太子」伝承が色濃く残っている地域であることから、蜂屋遺跡の勢力も701年以前は九州王朝と関係を有していたのではないかという視点で、斑鳩の寺院との関係を検討すべきである。

 おおよそ以上のような論理展開(推論)が考えられます。もちろんこれ以外の展開もあると思いますので、引き続き用心深く蜂屋遺跡の位置づけについて考察を続けたいと思います。

 なお、近江の湖東地方における九州王朝の影響については「洛中洛外日記」809話「湖国の『聖徳太子』伝説」で触れたことがありますので、ご参照ください。

【以下転載】
古賀達也の洛中洛外日記
第809話 2014/10/25
湖国の「聖徳太子」伝説

 滋賀県、特に湖東には聖徳太子の創建とするお寺が多いのですが、今から27年前に滋賀県の九州年号調査報告「九州年号を求めて 滋賀県の九州年号2(吉貴・法興編)」(『市民の古代研究』第19号、1987年1月)を発表したことがあります。それには『蒲生郡志』などに記された九州年号「吉貴五年」創建とされる「箱石山雲冠寺御縁起」などを紹介しました。そして結論として、それら聖徳太子創建伝承を「後代の人が太子信仰を利用して寺院の格を上げるために縁起等を造作したと考えるのが自然ではあるまいか。」としました。

 わたしが古代史研究を始めたばかりの頃の論稿ですので、考察も浅く未熟な内容です。現在の研究状況から見れば、九州王朝による倭京2年(619)の難波天王寺創建(『二中歴』所収「年代歴」)や前期難波宮九州王朝副都説、白鳳元年(661)の近江遷都説などの九州王朝史研究の進展により、湖東の「聖徳太子」伝承も九州王朝の天子・多利思北孤による「国分寺」創建という視点から再検討する必要があります。

 先日、久しぶりに湖東を訪れ、聖徳太子創建伝承を持つ石馬寺(いしばじ、東近江市)を拝観しました。険しい石段を登り、山奥にある石馬寺に着いて驚きました。国指定重要文化財の仏像(平安時代)が何体も並び、こんな山中のそれほど大きくもないお寺にこれほどの仏像があるとは思いもよりませんでした。

 お寺でいただいたパンフレットには推古二年(594)に聖徳太子が訪れて建立したとあります。この推古二年は九州年号の告貴元年に相当し、九州王朝の多利思北孤が各地に「国分寺」を造営した年です。このことを「洛中洛外日記」718話『「告期の儀」と九州年号「告貴」』に記しました。

 たとえば、九州年号(金光三年、勝照三年・四年、端政五年)を持つ『聖徳太子伝記』(文保2年〔1318〕頃成立)には、告貴元年甲寅(594)に相当する「聖徳太子23歳条」に「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺」(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)という記事がありますし、『日本書紀』の推古2年条の次の記事も実は九州王朝による「国府寺」建立詔の反映ではないかとしました。

「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」

 この告貴元年(594)の「国分寺創建」の一つの事例が湖東の石馬寺ではないかと、今では考えています。拝観した本堂には「石馬寺」と書かれた扁額が保存されており、「傳聖徳太子筆」と説明されていました。小振りですがかなり古い扁額のように思われました。石馬寺には平安時代の仏像が現存していますから、この扁額はそれよりも古いか同時代のものと思われますから、もしかすると6世紀末頃の可能性も感じられました。炭素同位体年代測定により科学的に証明できれば、九州王朝の多利思北孤による「国分寺」の一つとすることもできます。
告貴元年における九州王朝の「国分寺」建立という視点で、各地の古刹や縁起の検討が期待されます。


第1779話 2018/11/03

滋賀県蜂屋遺跡出土の法隆寺式瓦(1)

 先日、滋賀県栗東市の蜂屋遺跡から法隆寺式瓦が大量に出土したとの報道がありました。法隆寺(西院伽藍。和銅年間に当地に移築)の瓦に混じって、創建法隆寺(若草伽藍。天智9年〔670〕に焼失)と同笵の「忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦(にんとうもんたんべんれんげもんのきまるがわら)」2点(7世紀後半)も確認されたとのことです。

 この出土事実から古田史学・九州王朝説ではどのような問題が抽出できるのか、報道以来考え続けてきました。一元史観の通説による解説は単純なもので、蜂屋遺跡には法隆寺と関係が深い勢力があり、法隆寺の瓦、あるいはその笵型を得て当地に寺院を造営したという理解で済ませているようです。
仮に当地に法隆寺と関係が深い勢力があったとしても、報道されている出土事実からは、その同笵瓦がどちらからどちらへもたらされたのかは不明だと思うのですが、専門家の解説では矢印は法隆寺から蜂屋遺跡へとされており、一元史観という「岩盤規制」により、文化は畿内から他地方へというベクトルが無条件に採用されているかのようです。こうした理解で済ませるのは「思考停止」状態だと、わたしは思うのです。

 それでは古田史学・九州王朝説の立場からはどのような推論や論理展開が可能でしょうか。(つづく)

【京都新聞EWEB版より転載】
法隆寺と同じ軒瓦出土、関連寺院造営か
滋賀、飛鳥時代の遺跡

 滋賀県文化財保護協会は1日、縄文時代から中世にかけての集落遺跡「蜂屋遺跡」(栗東市蜂屋)で新たに建物の溝跡が見つかり、法隆寺とその周辺以外では見られない軒瓦が出土した、と発表した。飛鳥時代後半(7世紀後半)の軒瓦で、「法隆寺と強い関連があった寺院がこの土地で造営された有力な手掛かり」といい、専門家は当時では有数の文化拠点があった可能性を指摘している。
河川改修に伴い約6千平方メートルを調査。発見された溝跡は4カ所で、幅約1メートル〜約3.5メートル、深さ約20センチ〜約40センチ。飛鳥時代の築地塀跡とみられる。南北の長さは約10メートル〜約24メートルにわたり、中から大量の瓦が出土。法隆寺や同寺に隣接する中宮寺でしか確認されていない「忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦(にんとうもんたんべんれんげもんのきまるがわら)」が2点確認された。

 軒瓦は「笵(はん)」と呼ばれる木型で作られ、繰り返し使われると笵に傷ができる。そのため、同じ笵で瓦を作ると、文様とともに傷も写し出される。2点の軒瓦はハスの花の文様で、花托(かたく)に小さく膨らんだ傷があった。この傷や文様の細かな配置が、法隆寺創建当時の遺構とされる「若草伽藍(がらん)」の軒瓦と一致するという。

 奈良時代の資料によると、蜂屋遺跡がある栗東市北部は当時、法隆寺の水田や倉があったとされる。今回の軒瓦の発見で、同寺との関係が飛鳥時代にさかのぼれるという。

 出土した瓦からはほかにも県内では数点しか見つかっていない法隆寺式軒瓦が50点以上確認された。

 同協会は「法隆寺から軒瓦が持ち込まれたか、この土地で同じ笵を用いて軒瓦を作ったと考えられる。法隆寺と強いパイプを持った有力者がいた」と説明。滋賀県立大の林博通名誉教授(考古学)は「第一級の仏教文化が培われ、当時では国内有数の文化拠点があった可能性がある」と話す。


第1769話 2018/10/07

土器と瓦による遺構編年の難しさ(6)

 創建法隆寺(若草伽藍)出土瓦には異なる年代のものが併存しているにもかかわらず、『昭和資財帳』によればそれら多種類の軒瓦は「前期(592-622年)」「中期(622-643年)」「後期(643-670年)」と分類されています。この分類の当否は別として、これほど暦年にリンクできたのは『日本書紀』という文献史料の存在があったからです。『日本書紀』に記された法隆寺関連記事を根拠に、相対編年した瓦を暦年にリンクできたのですが、その場合は『日本書紀』の法隆寺関連記事が正しいという前提が必要です。特に古田学派にとっては、『日本書紀』は九州王朝の存在を隠し、近畿天皇家に不都合な記事は書き換えられている可能性があるという立場に立っていますから、なおさら慎重な史料批判が必要です。
 この点に関しては、天智19年条の記事「法隆寺に火つけり。一屋余すなし。」の通り、火災の痕跡を示す若草伽藍が発見されたことにより、『日本書紀』の法隆寺関連記事は信頼できるとされました。少なくとも創建年代や焼亡年代について積極的に疑わなければならない理由はありませんから、出土瓦は606年(推古14年)の創建頃から670年(天智19年)の焼失までの期間に編年されたわけです。このように瓦の編年が暦年にリンクできたのはとても恵まれたケースといえます。
 付け加えておきますと、法隆寺西院伽藍から出土した一群の瓦は「法隆寺式瓦」と呼ばれますが、これは創建法隆寺(若草伽藍)が焼亡した後、和銅年間に移築された現法隆寺(西院伽藍)の移築時に使用された瓦と思われます。その文様は複弁蓮華文などで7世紀後半から8世紀に編年されています。西院伽藍そのものは五重塔芯柱の年輪年代測定などから6世紀末頃から7世紀初頭に建立された寺院と見られており、古田学派では九州王朝の寺院を移築したものと理解されています。しかし、移築時に重く割れやすい瓦は持ち込まれず、斑鳩の近くで造られた瓦が使用されたのではないでしょうか。少なくとも「法隆寺式瓦」の編年を7世紀初頭とすることは無理ですから、このように考えざるを得ません。(つづく)


第1768話 2018/10/06

土器と瓦による遺構編年の難しさ(5)

 瓦の編年も土器と同様に軒丸瓦や軒平瓦の文様などにより行うのですが、製法の違いも編年に利用されます。たとえば「紐造り」「板造り」などの製造技術によっても相対編年が可能とされています。ただ土器編年と異なり、瓦が古代建築に使用された歴史は新しく、国内では6世紀末頃からですので編年に利用できるのはそれ以後と限定されます。しかし、6世紀末頃からですと『日本書紀』など文献史料による記事と対応できるケースが増えますので、場合によってはピンポイントで創建年(暦年)と瓦の編年がリンクできるという長所になります。
 国内における瓦の使用は主に寺院とされていますから、文献史料にその創建年の記録が残されていれば、創建瓦の暦年とのリンクが可能となる長所があるのですが、瓦の葺き替えというケースもあって、異なる年代と編年された瓦が同じ場所(層位)から出土するという現象が発生します。このことが瓦による遺構の編年(創建年判定)を難しくする要因となるのです。
 有名な例で説明しますと、法隆寺若草伽藍(7世紀初頭の創建法隆寺)出土瓦の事例が顕著にこの問題を現しています。この「創建法隆寺」は考古学的には若草伽藍と呼ばれており、『日本書紀』によれば606年(推古14年)の創建、670年(天智19年)に焼失したとされています。その若草伽藍跡から異なる時代と編年された瓦が出土しているのですが、その理由として考えられるのが瓦の葺き替え、あるいは部分的取り替えというケースです。
 若草伽藍は創建から焼失まで約60年間存続しており、仮に10年に一度のペースで葺き替えや部分修理が行われた場合では、最大で約50年ほどの時代が異なる瓦が併存することとなります。その結果、大きく編年の異なる瓦が焼失時に同じ場所の同じ層位に埋まるという遺構状況が発生するのです。こうした現象が瓦による遺構編年の難しさの一因としてあげられます。(つづく)


第1540話 2017/11/16

天寿国繍帳のグリーン色の謎

 今日は終日大阪での学会発表(繊維応用技術研究会)を聴講しました。信州大学でエレクトロスピニングによるナノファイバー量産化技術を開発し、自らベンチャーを起業された渡邊圭さん(株式会社ナフィアス社長、30歳)の発表の座長を務めさせていただきました。また、天然染料を研究されている武庫川女子大学の古濱裕樹先生とは懇親会で古代の天然染料について意見交換しました。
 古濱先生によれば、天然色素は緑色で良いものがないとのことなので、クロロフィル(葉緑素。テトラピロール環の中心にマグネシウムを配位した分子骨格)は利用できないかと質問したところ、葉っぱをすりつぶしてそのまま着色するという技術はあるが、すぐに退色するとのこと。そこで、奈良の中宮寺にある国宝「天寿国繍帳」は飛鳥時代の作品だが、緑色の亀の部分の色素は現代まで退色しておらず、どのような色素が使用されたのかを懇親会で論議しました。
 古濱先生の見解では、藍の青色と黄色の染料の重ね染めと思うが、黄色の染料は退色が早いので、飛鳥時代の黄色が現在まで残るとは考えられないとのことでした。わたしは鎌倉時代に補修した部分は緑色の部分が黄色に変色しており、むしろ青色の染料の退色が早いことを示しているのではないかと思いました。結論は出ませんでしたが、久しぶりの古代染色論議で楽しい時間を持てました。現代化学の技術や知見でも古代染色技法を解明できないことに、古代人の英知を感じました。
 渡邊社長のご講演では、ナノファイバーでのプルシアンブルー(青色顔料)担持により、ゼオライトよりも効果的なセシウムの吸収が可能との報告がありました。福島原発から放出した放射性セシウムの防護・回収フィルターへの利用を想定されているのですかと質問したところ、その通りですとのこと。渡邊さんは福島市ご出身で、同技術が故郷の除染に貢献できればよいなと思いました。
 若い研究者との対話はいつも新鮮でエキサイティングです。わたしは定年まで残すところ3年を切りましたが、この夏に開発に成功した、太陽光発熱色素と同染色技術を世に送り出すことが勤務先や業界への最後のご奉公になりそうです。


第1399話 2017/05/17

塔心柱による古代寺院編年方法

  今日、出張先の書店で別冊宝島『古代日本の伝統技術』を購入しました。わたし自身も業界誌『月刊加工技術』に「古代のジャパンクオリティー」という古代日本の各種技術を紹介するコラムを連載したこともあって、同書の内容に興味をそそられました。

 中でも「古代からの建築技術に隠された制振システム」に記された古代寺院の塔の制振構造の図に注目しました。ご存じのように寺院建築において五重塔などの優れた制振構造により、日本のような地震国にあっても寺院の塔が地震で倒れたという例はほとんどありません。その基本技術は中心の心柱とそれを囲む四天柱(してんばしら)と外側の側柱(がわばしら)の組み合わせにあるとされています。とりわけ、心柱の構造は制振技術のキーテクノロジーと見なされています。

 わたしは古代寺院の編年基準として瓦の様式編年の他に、この心柱の構造も編年基準の参考になると考えています。それは、7世紀頃(飛鳥時代)の心柱は基壇の地中に埋め込まれている「堀立型」であり、8世紀頃(白鳳時代〜奈良時代)になると基壇上の礎石の上に心柱が乗る形式(心礎上型)が主流となります。このことを大阪歴博の考古学者で古代建築の専門家、李陽浩さんから教えていただきました。

 わたしがこのことに興味を持った理由は、多元的「国分寺」研究において、7世紀に九州王朝の命により建立された寺院(国府寺)と、8世紀中頃に聖武天皇の命により建立された国分寺の遺構を区別する判断基準として、瓦の編年以外にも何かないものかと考えていたからでした。

 たとえば法隆寺は心柱の下に礎石はなく、地下空洞があり、今では地下部分の心柱は朽ち果てていますが、元々は心柱が地中に埋まっていたと見られています。他方、太宰府の観世音寺は心柱や側柱の礎石が残っており、基壇上の礎石に心柱などが乗せられていたことがわかっています。しかも、観世音寺の場合、心柱の礎石上面が他の側柱礎石上面よりもやや高い位置にあったようです。ちなみに、鎌倉時代以降になりますと、心柱の位置は更に上昇することが知られています。それは「梁上型」とか「宙づり型」と呼ばれているようです。

 わたしの研究では観世音寺の創建年は白鳳十年(670)ですから、九州王朝でも7世紀後半の白鳳時代には、塔の心柱は「堀立柱」方式から「礎石」方式に変わっていたと思われます。こうした塔の心柱の時代変遷が『古代日本の伝統技術』には描かれており、改めて多元的「国分寺」の編年研究に役立つことを確認できました。

 なお、現・法隆寺の移築元を創建・観世音寺とする説がありましたが、塔心柱の様式(礎石の有無)や柱間の距離が両者では全く異なっており、時代も規模も別物であることは一目瞭然です。学問研究の自由、学説発表の自由は尊重されなければなりません。ですから、このように「実証」とは大きくくい違う説が出てくることもあるものです。


第1223話 2016/07/07

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(3)

 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の《二の矢》について解説します。

《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。

 6〜7世紀における九州王朝で仏教が崇敬されていたことは、『隋書』に記された多利思北孤の記事や、九州年号に仏教色の強い漢字(僧要・僧聴・和僧・法清・仁王、他)が用いられていることからもうかがえます。このことはほとんどの九州王朝説論者が賛成するところでしょう。したがって、九州王朝説が正しければ、日本列島を代表する九州王朝の中心領域である北部九州に仏教寺院などの痕跡が日本列島中最多であるはずです。ところが考古学的出土事実は「6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿」なのです。これが九州王朝説に突き刺さった《二の矢》です。

 わたしがこの問題の深刻性にはっきりと気づいたのは、ある聖徳太子研究者のブログ中のやりとりで、九州王朝説支持者からの批判に対して、この《二の矢》の考古学的事実をもって九州王朝説に反論されている記事を読んだときでした。この九州王朝説反対論に対する九州王朝説側からの有効な再反論をわたしはまだ知りません。すなわち、この問題に関して九州王朝説側は大和朝廷一元史観との論争において「敗北」しているというよりも、まともな論争にさえなっていない「不戦敗」を喫しているとしても過言ではないのです。

 この《二の矢》については古田先生も問題意識を持っておられましたし、少数ですが検討を試みた研究者もありました。わたしの見るところ、それは次のようなアプローチでした。

1.北部九州の寺院遺跡の編年を50年ほど古く編年する。たとえば太宰府の観世音寺を7世紀初頭の創建と見なす。

2.近畿の古い寺院を北部九州から移築されたものと見なし、それにより、北部九州に古い寺院遺跡がないことの理由とする。

 主にこの二点を主張する論者がありました。しかし、この主張の前提には「北部九州には6世紀末から7世紀前半にかけての寺院の痕跡が無い」という考古学的事実を認めざるを得ないという「事実」認識があります。そして結論から言えば、これら二点のアプローチは成功していません。それは次の理由からも明らかです。

1.観世音寺の創建が白鳳時代(7世紀後半)であることは、史料事実(『二中歴』『勝山記』『日本帝皇年代記』に白鳳期あるいは白鳳10年〔670〕の創建とある)と考古学的出土事実(創建瓦が老司1式)からみても動きません。7世紀初頭創建説の論者からはこのような史料根拠や論証の明示がなく、「自分がこう思うからこうだ」あるいは「九州王朝説にとって不都合な事実は間違っているはずだから解釈変更によって否定してもよい」とする「思いつきや願望の強要」の域を出ていません。

2.現・法隆寺は別の寺院を移築したものとする見解にはわたしも賛成なのですが、それが北部九州から移築されたとする考古学的・文献史学的根拠が示されていません。その説明は史料事実の誤認・曲解や、論証を経ていない「どうとでも言える」程度の「思いつき」の域を出ていません。

 九州王朝説論者からはこの程度の「解釈」しか提示できていなかったため、大和朝廷一元史観論者を説得することもできず、彼らの「6〜7世紀を通じて日本列島内で最も仏教文化の痕跡が濃密に残っているのは近畿であり、その事実は当時の倭国の代表者は大和朝廷であることを示しており、九州王朝など存在しない」という頑固で強力な反論が「成立」しているのです。わたしたち古田学派が大和朝廷一元史観論者との「他流試合」で勝つためにはこの頑固で強力な《二の矢》から逃げることはできません。

 この《二の矢》に対する学問的反論の検討は主に「古田史学の会」関西例会の研究者により続けられてきました。たとえば難波天王寺(四天王寺)を九州王朝による創建とする見解を、わたしや服部静尚さん正木裕さんが発表してきましたし、難波や河内が6世紀末頃から九州王朝の直轄支配領域になったとする研究も報告されてきました。

 また別の角度からの研究として、従来は8世紀中頃に聖武天皇の命令により造営されたとする各地の国分寺ですが、その中に九州王朝により7世紀に創建された「国府寺」があるとする多元的「国分寺」研究が関東の肥沼孝治さんらにより精力的に進められています。多元的「国分寺」研究サークルのホームページにはこの調査報告が大量に記されています。

 こうした研究は、ようやくその研究成果が現れ始めた段階です。このテーマは7世紀における土器編年の再検討という問題にも発展しており、古田学派にとって考古学も避けては通れない重要な研究テーマとなっているのです。(つづく)


第479話 2012/10/07

皇室御物『法華義疏』の史料性格

 九州年号「定居元年」が記された『維摩経義疏』断簡の存在を服部和夫さん(古田史学
の会々員・名古屋市)から教えていただいたことを契機に「三経義疏」の勉強を始めたのですが、ますますわからないことが増えています。わたしの勉強の「成
果」でもある、その増えた問題について、ちょっとだけご紹介します。
 それは古田先生が実地調査された皇室御物『法華義疏』の史料性格についてです。聖徳太子や「三経義疏」関連の著作を購入し読んでいるのですが、『法華義疏』の史料状況や史料性格について更に深く検討する必要を感じるようになりました。
 たとえば、中公クラシックス『聖徳太子 勝鬘経義疏・維摩経義疏(抄)』の解説(田村晃祐「『三経義疏』の世界」)によれば、『法華義疏』には訂正や誤
字が多く、その頻度は「2.5行に一カ所ぐらいの割合で訂正が行われている」とのことです。具体的には、「釈迦」と書くべきところが「迦釈」と文字がひっ
くり返っている例もあります。この他にも仏教のことを知っていれば間違うはずのない基礎的な誤字・誤写が少なくなく、このような史料状況から、『法華義
疏』は達筆だが仏教のことに詳しくない人物により慌てて書写されたということがうかがえるのです。
 これほどの誤写や訂正が多い『法華義疏』が九州王朝の天子・多利思北弧への献上物(収集物)にふさわしいと言えるでしょうか。天子に献上する前に、書写
者や王朝内部で浄書すればよいのにと思うのですがいかがでしょうか。大和朝廷と同様に九州王朝にも「写経所」や写経専門家がいたはずです。なぜそうした
「専門機関」を多利思北弧は利用しなかったのでしょうか。わたしはこの難問を解くべく連日考え続けています。(つづく)


第471話 2012/09/23

韓昇「聖徳太子写経真偽考」を拝読

 昨日は久しぶりに岡崎公園にある京都府立図書館に行ってきました。平安神宮前の大通りでは龍谷大学ブラスバンドの演奏などいろんなイベントが行われており、大勢の見物客や観光客でごったがえす中、図書館に着くまで大変でした。
 図書館に行った目的は『東と西の文化交流(関西大学東西学術研究所創立50周年記念国際シンポジウム’01報告書)』に収録されている韓昇さんの中国語 論文「聖徳太子写経真偽考」の閲覧とコピーです。同論文によれば、『維摩詰経』巻下残巻末尾の2行を次のように紹介されています。

「始興中慧師聰信奉震旦善本観勤深就篤敬三宝」
   「経蔵法興寺 定居元年歳在辛未上宮厩戸写」

 同論文は簡体字による現代中国文で書かれていますので、文字や文意が不正確かもしれませんが紹介します。論文では最末尾 の1行が「定居元年歳在辛未上宮厩戸写」となっており、石井公成さんのホームページ「聖徳太子研究の最前線」には無かった「在」の字があります。また、 「経蔵法興寺」と「定居元年歳在辛未上宮厩戸写」が同一行とされています。
 韓昇さんによれば、この2行は本文とは筆跡が異なっており、「経蔵法興寺」は拙劣な字体で、「始興中慧師聰信奉震旦善本観勤深就篤敬三宝」と「定居元年 歳在辛未上宮厩戸写」は本文と字体は似せているが異なる筆跡とされています。これらの当否は実物を見ないことには判断できませんが、もし正しいとすれば、 「経蔵法興寺」は所蔵寺院による署名とも考えられることから、筆跡が異なることはあり得ます。
 やはり問題は、「始興中慧師聰信奉震旦善本観勤深就篤敬三宝」「定居元年歳在辛未上宮厩戸写」をどのように考えるのかという史料性格の分析です。この部 分の前半は『維摩経疏』選述の経緯を記したものと思われ、後半はこの『維摩経疏』を上宮厩戸が定居元年(611)に書写したということが記されています。 従って厳密には、この2行部分を上宮厩戸自身が記したものか、他者が上宮厩戸による書写であることを主張するために記したものかは今のところ不明です。や はり『維摩経疏』が掲載されている『北京大学図書館蔵敦煌文献』第二冊を実見したいものです。(つづく)


第470話 2012/09/22

坂本太郎さんと古田先生

 第469話で古田先生が皇室御物の『法華義疏』を電子顕微鏡などで調査されていたことに触れました。この「国宝以上」の超貴重文書を古田先生が調査されるに至った経緯をご紹介したいと思います。
 古田先生が『法華義疏』の研究を始められたとき、自らの仮説を証明するためにどうしても『法華義疏』を実見する必要があったのですが、同書は皇室御物本です。そこで古田先生は古代史学界の重鎮、坂本太郎さんのご自宅を訪問し自説を説明され、どうしても『法華義疏』を見たいと訴えられました(昭和61年7 月28日)。いわば、坂本太郎さんの説とは異なる新説を証明するために、『法華義疏』実見のための紹介状を書いてほしいと坂本太郎さんにお願いされたのです。
 このとき、坂本太郎さんは不治の病にかかられていたそうですが、快く紹介状を書かれました。「『法華義疏』は貴重なもので、見せ難いものではあるが、古田氏には是非とも見せていただきたい。」という趣旨の紹介状だったと古田先生からはお聞きしています。
 多元史観の古田先生に対して、近畿天皇家一元史観に立つ坂本太郎さんが、こともあろうに自らの説が誤りであることを証明する目的のための紹介状を書かれたのです。わたしは古田先生からこの坂本太郎さんとのエピソードをうかがったとき、深く感銘しました。学問的立場は異なっていても、真の歴史学者同士の魂の触れ合いをそこに見たのです。御用学者や曲学阿世 の徒が少なくない現代日本にあって、何とも感動的な話ではないでしょうか。
 紹介状を書かれた後、坂本太郎さんは古田先生に対して、「これは大変時間がかかることです。あせらずに待ってください。」と言われたそうです。その後、 宮内庁から『法華義疏』閲覧の許可がおり、古田先生は昭和薬科大学の同僚で電子顕微鏡の専門家である中村卓造先生と共に、京都御所で『法華義疏』を調査されたとのことです(昭和61年10月17日)。宮内庁が電子顕微鏡撮影までよく認めたものだと思いますが、それだけ坂本太郎さんの紹介状の力が大きかったのでしょう。
 この『法華義疏』に関する論文(「『法華義疏』の史料批判」昭和62年11月30日稿了)が完成する前に坂本太郎さんは亡くなられました。坂本太郎さんの学問的寛容と古田先生の学問的情熱を、わたしたち古田学派の研究者はこのエピソードから学ばなければなりません。
 なお、来年発行予定の『九州王朝の「聖徳太子」伝承』(仮称。ミネルヴァ書房)にこの古田先生の論文を再録させていただくことになりましたのでお知らせします。