唐詩に見える王朝交代の列島 (7)
―仲麻呂の出身地は太宰府―
阿倍仲麻呂が日本国へ帰国の際に王維が作ったとされる詩の「九州」を古田先生が九州島のこととした理由の一つに、『古今和歌集』の著名な歌「天の原 ふりさけみれば 春日なる みかさの山に いでし月かも」は、仲麻呂が太宰府の三笠山(宝満山)から出た月を詠んだものとする古田説の存在がありました。
「天の原」歌について、『古今和歌集』古写本では流布本とは異なり、「天の原 ふりさけみれば 春日なる みかさの山を いでし月かも」とあります(注①)。すなわち、古写本にはみかさ山から月が出ていることを意味する「みかさの山を」となっており、奈良の御蓋山(標高297m)では低すぎて、その東側の春日山連峰(花山497㍍~高円山461㍍)から月は出ると論じたことがあります(注②)。
この「みかさの山を」とする古写本の存在を杉本直治郎氏の研究(注③)で知り、古田先生にお知らせしたところ、重要な問題へと進展しました。すなわち、仲麻呂が歌った「みかさの山」は奈良の御蓋山ではなく、太宰府の御笠山(宝満山、標高829m)とする古田説(注④)を論証できたのです。
この論証の成立により、太宰府の御笠山から月が出ることを知っていた阿倍仲麻呂は、九州・太宰府の出身とする理解が可能となりました。この理解が王維の詩(注⑤)に見える「九州」を九州王朝の故地、九州島のこととする古田先生の解釈の傍証となったわけです。
ちなみに、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代後(701年~)の平城京の知識人は、低すぎる御蓋山からは月が出ないことを知っていたので、「みかさの山を いでし月」では情景として不自然であるため、〝御蓋山の上方に昇っている月〟の意味にもとれる「みかさの山に いでし月」と、「を」→「に」に改変したと推定されます。このことが『古今和歌集』古写本と流布本の差異発生の原因になったのです。もっとも、「みかさの山に いでし月」と改変してもやはり不自然です。なぜなら平城京からは見える月は、後方(東)の春日山連峰の上にあり、「たかまど山に いでし月」とでも詠まなければならないからです。(つづく)
(注)
①延喜五年(905年)に成立した『古今和歌集』は紀貫之による自筆原本が三本あったが、現存しない。しかし、自筆原本あるいは貫之の妹による自筆本の書写本(新院御本)にて校合した二つの古写本がある。一つは前田家所蔵の『古今和歌集』清輔本(保元二年、1157年の奥書を持つ)であり、もう一つは京都大学所蔵の藤原教長(のりなが)著『古今和歌集註』(治承元年、1177年成立)である。清輔本は通宗本(貫之自筆本を若狭守通宗が書写)を底本とし、新院御本で校合したもので、「みかさの山に」と書いた横に「ヲ」と新院御本による校合を付記している。教長本は「みかさの山を」と書かれており、これも新院御本により校合されている。これら両古写本は「みかさの山に」と記されている流布本(貞応二年、1223年)よりも成立が古く、貫之自筆本の原形を最も良く伝えているとされる
②古賀達也「『三笠山』新考 和歌に見える九州王朝の残影」『古田史学会報』43号、2001年。
同〔再掲載〕「『三笠山』新考 和歌に見える九州王朝の残影」『古田史学会報』98号、2010年。
同「三笠の山をいでし月 ―和歌に見える九州王朝の残映―」『九州倭国通信』193号、2018年。
③杉本直治郎「阿倍仲麻呂の歌についての問題点」『文学』三六・十一所収、1968年。
④古田武彦「浙江大学日本文化研究所訪問記念 講演要旨」『古田史学会報』44号、2001年。
同『真実に悔いなし』ミネルヴァ書房、平成二五年(2013年)、75~79頁。
⑤《秘書晁監の日本國に還るを送る》王維(699?~759?年)
積水不可極 安知滄海東
「九州」何處所 萬里若乘空 →「所」を「遠」「去」とする版本がある。
向國唯看日 歸帆但信風
鼇身映天黑 魚眼射波紅
郷樹扶桑外 主人孤島中
別離方異域 音信若為通
(巻一二七)
【写真】太宰府の三笠山(宝満山)と阿倍仲麻呂画