史記一覧

第2377話 2021/02/11

『史記』天官書、「中宮」か「中官」か(6)

 本シリーズでは『史記』天官書の原文が「中宮」か「中官」かという問題を扱ってきましたが、このような場合は通常の文献研究では原本調査や原本に近い写本・刊本の調査を真っ先に行うのですが、『史記』に関してはそうした基本的な調査がかなり困難なのです。というのも、今から二千年以上前に竹簡に書かれたものですから、原本はもとより、それに近い写本・刊本の遺存など望むべくもないからです。
 そのため、はるか後世の注釈書に記された『史記』本文部分の記録によらなければなりません。しかもその注釈書は、現存最古のものでも南宋代まで時代が下がるという状況です。それならばその南宋版の現物を見たいと思い、調べたところ、なんとわが国にあることがわかりました。
 それは「南宋慶元黄善夫本」と呼ばれており、国宝に指定されていました。国宝なので現物は無理でしょうから、その影印本だけでもなんとかして見たいと思い、京都府立図書館の館員さんに調査を頼み込んだところ、何と自宅のパソコンからweb上で閲覧可能であることを突き止めていただいたのです。丁重に館員さんにお礼を述べ、急いで自宅に戻り、パソコンで検索しました。それは国立歴史民俗博物館のホームページに収録されており、全巻の閲覧が可能でした。URLは下記の通りです。

https://khirin-a.rekihaku.ac.jp/database/sohanshiki
国立歴史民俗博物館 データベース

 同サイトには「南宋慶元黄善夫本」について次の解説がありましたので転載します。なお、こうしたことは中国古典の研究者・専門家には常識のことと思います。

【以下、転載】
 南宋時代(南宋慶元年間(1195~1201)刊か) 前漢の司馬遷(前135?~)による黄帝から漢代までの歴史書。「三史」と通称される『史記』『漢書』『後漢書』の一つ。全130巻からなり、本紀(帝王の事績)・表(年表)・書(制度沿革)・世家(諸侯の系譜と事績)・列伝(人物伝)の五部に分かれる。中国だけでなく日本でも必読書として重んじられた。これらは当初、竹木などに手書きされていたが、宋時代には書道大家の書風をまね、厳密な校正を加えた印刷出版物となり(宋版)、南宋時代には黄善夫のような民間の出版家も出現した。
 袋綴冊子本 印記「興学亭印」(朱方印) 「水光邱青」(黒印 朱印 青印)
史記集解・索隠・正義の三注合刻本で、全130巻完存した現存最古本。「建安黄善夫刊/于家塾之敬室」の刊記があり、建安(現在福建省)で刊行。石清水八幡宮耀清・月舟寿桂・直江兼続・上杉藩校興譲館伝来。
【転載おわり】

 同サイトで、真っ先に『史記』天官書を閲覧し、「中宮」「東宮」「西宮」「南宮」「北宮」「員官」「五官」の部分を調べたところ、その通りとなっていました。よって、明治書院版の『新釈漢文大系 史記』や大正時代に出版された『国譯漢文太成 経子史部 第十四巻』が正しいことが判明しました。そこで、現存版本による実証的な調査はこの辺で一応の終わりとなります。
 しかし、論証をより重視する学問としては、ここからが真の研究領域となります。それは、なぜ「中宮」「東宮」「西宮」「南宮」「北宮」の総称が「五宮」ではなく、「五官」とされているのかという問題の解明です。しかも現存最古とはいえ、「南宋慶元黄善夫本」は『史記』成立の約千三百年後の版本であり、しかも「宮」と「官」という、よく似た字体の使い分けを問題とするのですから、誤写誤伝の可能性と常に隣り合わせのテーマでもあり、真実解明は容易ではありません。(つづく)


第2372話 2021/02/07

『史記』天官書、「中宮」か「中官」か(5)

 『史記』天官書には、「中宮」「東宮」「西宮」「南宮」「北宮」を総称した「五官」の他に、「官」の字を使った「員官」という用語が二カ所に見えます。その一つは「南宮」の記事中にある次の文です。

 「七星は頸(くび)にして、員官と爲し、急事を主(つかさど)る。」『新釈漢文大系 史記 四』(注①)150頁

 同書の通釈では、「七星は朱鳥の頸で員官として天庭の危急事をつかさどる。」(151頁)とあります。

 『史記会注考証』(注②)には次の引用と考証があります。

 「七星、頸爲員官、主急事。〔索隠〕七星頸爲員宮主急事、案宋均云、頸、朱鳥頸也、員宮、喉也、物在喉嚨、終不久留、故主急事也、〔正義〕七星爲頸、一名天都、主衣装文繍、主急事、以明爲吉、暗爲凶、金火守之、國兵大起、〔考證〕梁玉縄曰、案宮字譌作官、索隠本作宮、漢以後志皆然、王先謙曰、辰星下云、七星爲員官、則作官者是、査愼行曰、頸*[口素]羽翮四字、多従鳥義、」『史記会注考証 四』20頁

 ここに引用された〔索隠〕〔正義〕とは、唐の司馬貞の『史記索隠』、唐の張守節による『史記正義』のことです。〔索隠〕には「員宮」とあり、「員官」ではありません。もしこの「員宮」が誤写誤伝でなければ、唐の司馬貞は「員宮」と書かれた『史記』を見たのかもしれません。このことについて〔考證〕では、清代の儒学者梁玉縄の「案宮字譌作官、索隠本作宮、漢以後志皆然、《案ずるに、宮の字を官と作るは譌(あやまり)なり、「索隠」では宮と作る、漢以後の志(ふみ)は皆然(しか)り》」という説を紹介しています。すなわち、「原文」にある「員官」は誤りであり、『史記索隠』のように「員宮」とするのが漢代以後の用語であるとする説です。他方、清代末の儒学者王先謙(注③)の「七星爲員官、則作官者是《七星爲員官、則ち官と作るは是(ぜ)なり》」とする説も紹介しています。
 このように、天官書には「五官」だけではなく、「員官」についても「官」の字を「宮」とする説がありました。そしてそれは唐代にまで遡る可能性があり、清代に至っては諸説論じられていたことがわかりました。(つづく)

(注)
①吉田賢抗著『新釈漢文大系 史記 四』(明治書院、1995年)
②滝川亀太郎著『史記会注考証』東方文化学院、1932年~1934年。
③王先謙について、ウィキペディアに次の解説がある。
 王 先謙(おう せんけん、Wang Xianqian、1842年~1917年)。字は益吾。清末の儒学者・郷紳。葵園先生と呼ばれた。
 湖南省長沙出身。1865年に進士となって、翰林院庶吉士、散館編修を歴任した。古今の書物に通じ、考証学者の阮元のあとを継いで『続皇清経解』を、姚鼐のあとをついで『続古文辞類纂』を編纂した。1889年から官を辞して郷里の長沙に居を定め、嶽麓書院の院長を十年近く務めた。戊戌の変法時には康有為や梁啓超の急進思想に反対した。ただし改革自体には反対しておらず、科挙の廃止と西洋の科学知識の学習を主張した。1902年以降、鉱山の開発や鉄道事業に関わった。
 著作『漢書補注』『水経注合箋』『後漢書集解』『荀子集解』『荘子集解』『詩三家義集疏』。

*[口素]:口偏に旁は「素」の字。


第2370話 2021/02/06

『史記』天官書、「中宮」か「中官」か(4)

 『史記』天官書「原文」には「中宮」「東宮」「西宮」「南宮」「北宮」とあるのですが、それら五つを総称したものが「五官」であるとその末尾に記されています。次の文です。

 「故に紫宮・房・心・権・衡・咸池・虚・危・列宿の部星は、此れ天の五官の坐位なり。」吉田賢抗著『新釈漢文大系 史記 四』(明治書院、1995年)、215頁

 天官書には、紫宮は中宮、房・心は東宮、権・衡は南宮、咸池は西宮、虚・危は北宮とありますから、これらの総称は「五官」ではなく、「五宮」とあるべきところです。そのため、明治書院版『史記』には「五官」は「五宮」の誤りとする次の注があります。

○五官 「五宮」の誤りか(考証)。張宇節は「列宿部内之是也」(正義)という。列宿部内とは、二十八宿の部内の星。(同書、216頁)

 ここに見える(考証)とは『史記会注考証』(注①)のことで、わが国における『史記』研究の基本文献の地位を占めている優れた注釈書です。そこで、同書を調べることにしました。幸いにも、閲覧できるwebサイト(注②)があり、そこには次の引用と考証が記されていました。

 「列宿部星、此天之五官坐位也。〔正義〕五官列宿部内之星也、〔考証〕猪飼彦博曰、篇中唯此字未訛、方苞云、官當作宮、首所列五宮也、不知五官爲正、五佐爲副、於文義亦不可易官爲宮也、」『史記会注考証 四』93頁

 ここで引用された〔正義〕とは、唐の張守節による注釈書『史記正義』のことで、六朝・宋の裴駰(はいいん)の『史記集解』(しきしっかい)、唐の司馬貞の『史記索隠』の注釈とを合わせて『史記』の三家注と呼ばれている有名な注釈書です。その『史記正義』を引用した後、著者滝川亀太郎氏の考証が続きます。
 その考証冒頭には、江戸時代末期の学者猪飼彦博(注③)の説として「篇中唯此字未訛」(篇の中に唯此の字を未だあやまらず)を引用し、次いで中国清代の儒学者方苞(注④)の説「官當作宮、首所列五宮也、不知五官爲正、五佐爲副、於文義亦不可易官爲宮也」を引用しています。このように滝川氏は「五官」は「五宮」の誤りとする説を考証で紹介しているわけです。
 これら一連の解説から、唐代の『史記正義』には「五官」とあり、清代の儒家方苞は「五官」を誤りとして「五宮」が正しいと認識していたことがわかります。前話で紹介した、清代の儒家孫星衍の『史記天官書補目』(注⑤)では「中官」「東官」「西官」「南官」「北官」と『史記』天官書「原文」を改訂(宮→官)していることから、末尾の「五官」の部分はそのままでよいと判断していたのではないでしょうか。このように、清代でも「官」と「宮」について諸説出されていたわけですから、西村さんやわたしの疑問には先例があったわけです。(つづく)

(注)
①滝川亀太郎著『史記会注考証』東方文化学院、1932~1934年。
②「臺湾華文電子書庫」https://taiwanebook.ncl.edu.tw/zh-tw/book/NTUL-0272410/reader
③猪飼敬所(いかい けいしょ) 宝暦11年(1761年)~ 弘化2年(1845年)は、日本の江戸時代後期の折衷学派の儒学者。名は彦博(よしひろ)、字は文卿、希文。近江国
出身。著作に「論孟考文」「管子補正」などがある。
④方苞(ほう ぼう)1668年~1749年は、中国清代の儒学者・文人・政治家。字は鳳九、号は霊皋、晩年には望渓と号する。著作に『史記注捕正』などがある。
⑤孫星衍撰『史記天官書補目』(王雲五主編『中西経星同異考及其他一編』中華民国二十八年十二月初版、1939年)。


第2369話 2021/02/05

『史記』天官書、「中宮」か「中官」か(3)

 『史記』天官書の「中宮」「中官」問題を調査した結果、現在の流布刊本の「原文(漢文)」はいずれも「中宮」とあるため、投稿原稿に『史記』からの引用として「中宮」と表記することは妥当で有り、そのまま掲載しても差し支えないと西村さんに報告しました。原稿採否審査としてはこれで一件落着なのですが、わたしの中ではなぜこのような史料状況が発生したのかという疑問を払拭できないため、西村さんとも意見交換し、自らの勉強にもなるので、『史記』天官書の調査と史料批判を試みることにしました。
 京都府立図書館での調査時も、同様の疑問により史料批判・版本調査の必要を感じていたところ、いつもお世話になっている図書館員の方が一冊の小冊子を書庫から探し出して、「わたしには読めませんが、何か関係はないでしょうか」と『史記天官書補目』(注)なる本を見せていただきました。
 同書は、『史記』天官書に見える用語がどの星座や星に相当するのかなどを記した説明書のような性格の本でした。そして、その説明の冒頭に「中官」と小見出しがあり、「中官」に位置する星座・星の説明(星の数や位置など)が続いています。更にその後に「東官」「西官」「南官」「北官」の小見出しと共に同様の解説が続きます。従って、同書は『史記』天官書について、平凡社版『史記』と同様の表記になっているのです。すなわち、日本の平凡社版だけではなく、中国清代の解説書にも「中官」を採用するものがあったのです。それでは『史記』の原文は本来はどちらだったのでしょうか。わたしの学問的探究心はますますかき立てられていきました。(つづく)

(注)孫星衍撰『史記天官書補目』(王雲五主編『中西経星同異考及其他一編』中華民国二十八年十二月初版、1939年)。冒頭の著者名部分には「清 陽湖孫星衍撰」とあり、同書成立は清代のようである。
 著者の孫星衍について、ウィキペディアでは次のように説明されている。

 孫 星衍(そん せいえん、1753年-1818年)は、中国清の官僚・学者。字は淵如、号は季逑。常州府陽湖県の出身。その著書『尚書今古文注疏』は『尚書』に関する清朝考証学の集大成として知られる。
《生涯》
 曾祖父に明末の礼部代理尚書の孫慎行。孫子の遠い子孫であると自称している。
 1787年に榜眼の成績で進士に及第した。1795年から山東省兗沂曹済道の道員の官についた。1799年に母の喪のために故郷に帰り、浙江巡撫であった阮元の招きにより、杭州の詁経精舎で教えた。三年の喪があけると山東に戻った。1807年に権布政使に昇任し、1811年に病気のため辞任した。
 孫星衍は詩人としても優れ、袁枚は「天下の奇才」と呼んだ。孫星衍は1771年に結婚し、妻の王采薇も詩をよくしたが、わずか24歳で病死した。王采薇の詩集である「長離閣集」は孫星衍の『平津館叢書』に収められている。
《著作》
 孫星衍の代表的な著書は『尚書今古文注疏』30巻で、1794年に作業を開始し、1815年に完成した。閻若璩以来、古文尚書と呼ばれるものが後世の偽作であることが明かになっていたので、古文の部分は『史記』をはじめとする書籍から本来のテキストを復元し、漢代以来の注を集め、さらに疏を加えたもので、現在も『尚書』研究上の重要な文献である。ほかに、『孫氏周易集解』、『孔子集語』、『寰宇訪碑録』などの著書がある。
 孫星衍は蔵書家でもあり、多くの書物を校訂・出版した。孫星衍が編集した叢書に『平津館叢書』・『岱南閣叢書』がある。


第2368話 2021/02/04

『史記』天官書、「中宮」か「中官」か(2)

 『史記』天官書の記述が「中宮」か「中官」かという不思議な史料状況を調査するために、京都府立図書館に行きました。顔なじみになったご年配の図書館員の方に訪問目的を告げると、蔵書やweb掲載書籍調査をしていただきました。その結果、今回の蔵書調査を含めて次のことを確認できました。

○『国譯漢文太成 経子史部 第十四巻』(國民文庫刊行會、1923年)
 「中宮」「東宮」「西宮」「南宮」「北宮」/「五官」

○野口定男訳『中国古典文学大系 史記 上』(平凡社、1968年)
 「中官」「東官」「西官」「南官」「北官」「五官」 ※全て「官」とする。
(注)
 官 天官書では以下、天を中官・東官・西官・南官・北官の五官に分けて星座、また恒星について記す。中官は晋書以後は紫宮、紫微垣と称する部分で、現在では大熊・小熊・竜・ケフェウス・カシオペア・きりんなどのある処である。(同書、263頁)
 五官 紫宮=中官。房・心=東官。権・衡=南官。咸池=西官。虚危=北官官。(同書、266頁)

○吉田賢抗著『新釈漢文大系 史記 四』(明治書院、1995年)
 「中宮」「東宮」「西宮」「南宮」「北宮」/「五官」 ※「五官」は「五宮」の誤りとする注がある。
(注)
 五官 「五宮」の誤りか(考証)。張宇節は「列宿部内之是也」(正義)という。列宿部内とは、二十八宿の部内の星。(同書、216頁)

 以上のように、わたしが確認できた国内の書籍では、平凡社版は全て「官」が使われており、明治書院版は中と東西南北は「宮」としながら、その総称は「五官」としたため、注で「五官」は「五宮」の誤りとしたものと考えられます。大正十二年に刊行された『国譯漢文太成 経子史部 第十四巻』も明治書院版と同様でした。
 この現象はいったい何故なのだろうと考えていると、冒頭紹介したご年配の図書館員の方が、「わたしは読めないのですが、関係ないでしょうか」と国外の本を書庫から見つけていただきました。(つづく)


第2367話 2021/02/03

『史記』天官書、「中宮」か「中官」か(1)

  『古田史学会報』投稿原稿の採否審査は、採用・不採用にかかわらず、ほとんどの場合、編集部の意見は一致します。ごくまれに意見が分かれたり、悩む場合があります。この度、面白いテーマへと発展した投稿審査事案がありましたので、紹介することにします。
 ある方の投稿原稿中に司馬遷の『史記』天官書からの引用が有り、その当否について編集担当の西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)からお電話がありました。投稿論文自体は内容が優れていたので、採用することに編集部内で異議は出なかったのですが、論文に引用された『史記』天官書に見える「中宮」という用語について、本当に正しいのか調査してほしいとのことでした。西村さんがお持ちの『史記』には「中官」とあって、「中宮」ではないとのこと。また、天官書という書名やその文脈からも「中官」でなければならないとのことでした。中国古典に詳しい西村さんからの疑義でしたので、わたしは調査を約束しました。
 まず手持ちの平凡社版『史記 上』(注)を調べると、「中官」となっており、「中宮」ではありません。そして、同書「注」には次の説明がありました。

 「中官 天官書では以下、天を中官・東官・西官・南官・北官の五官に分けて星座、また恒星について記す。中官は晋書以後は紫宮、紫微垣と称する部分で、現在では大熊・小熊・竜・ケフェウス・カシオペア・きりんなどのある処である。」同書、263頁

 天官書の終わりの方にも、これら五つの星座・恒星群を「五官」と記しており、「官」が使われています。次の通りです。

 「紫宮・房・心・権・衡・咸池・虚・危の星座は天の五官が位置する処である。正しく並んで移動することはなく、星の大小、また相互の距離も変わらぬのである。」同書、262頁

 そして、この「五官」にも次の「注」がありました。

 「五官 紫宮=中官。房・心=東官。権・衡=南官。咸池=西官。虚危=北官。」同書、266頁

 また、題名からして「天官書」ですから、西村さんが言うように文脈や意味の上から考えても「中官」が妥当で有り、「中宮」では論理整合性(理屈)が通りません。
 他方、web上で『史記』天官書を検索すると、いずれも「中宮」「東宮」「西宮」「南宮」「北宮」となっており、平凡社版『史記』とは異なっていました。ただし、「五官」部分は「官」であり、「五宮」とはなっていません。こうした不思議な史料状況を知り、『史記』の版本や写本間に異同があるのではないかと考え、このことを西村さんに報告し、引き続き図書館で版本調査を行い、再度、報告することにしました。(つづく)

(注)野口定男訳『中国古典文学大系 史記』全三巻。平凡社、1968~1971年。


第2354話 2021/01/18

古田武彦先生の遺訓(28)

―二倍年暦の「以閏月正四時」―

 『史記』「五帝本紀」で、堯(ぎょう)が定めたとする暦について、司馬遷は次のように記しています。

 「歳三百六十六日、以閏月正四時。」『新釈漢文大系 史記1』39頁、明治書院(注①)。

 この前半部分の「歳三百六十六日」が二倍年暦の影響を受けた表記であることを前話で説明しました。続いて、後半の「以閏月正四時(閏月を以て四時を正す」について考察します。平凡社の『史記』(注②)では、この部分を次の通り現代語訳しています。

 「一年は三百六十六日、三年に一回閏月をおいて四時を正した。」『中国古典文学大系 史記』上巻、10頁。(注②)

太陰太陽暦では、月の満ち欠けによる一箇月と太陽周期による一年を整合させるために、閏月を定期的に設ける必要があります。そのため、原文にはない「三年に一回」という閏月の周期を平凡社版『史記』には書き加えられたものと思われます。その〝出典〟は恐らく明治書院版『史記』の解説に見える次の記事ではないでしょうか(注③)。

 「○以閏月正四時 太陰暦では三年に一度一回閏月をおいて四時の季節の調和を計った。中国の古代天文学では、周天の度は三百六十五度と四分の一。日は一日に一度ずつ進む。一年で一たび天を一周する。月は一日に十三度十九分の七進む。二十九日半強で天を一周する。故に月が日を逐うて日と会すること一年で十二回となるから、これを十二箇月とした。しかし、月の進むことが早いから、この十二月中に十一日弱の差を生ずる。故に三年に満たずして一箇月のあまりが出る。よって三年に一回の閏月を置かないと、だんだん差が大きくなって四時の季節が乱れることになる。」『新釈漢文大系 史記1』41頁。

この閏月について、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)より、二倍年暦の閏月のことと思われる『周易本義』の次の記事が紹介されています。

 「閏とは、月の餘日を積んで月を成す者なり。五歳の間、再び日を積んで再び月を成す。故に五歳の中、凡そ再閏有り、然して後に別に積分を起こす。」朱熹『周易本義』

 同書は南宋の朱熹が『周易』に注を付したもので、この五年経つごとに再び閏月が来るという暦法は、三十日を一月として、その六ヶ月を1年とする二倍年暦にのみ適合することを西村さんは論証されました(注④)。司馬遷が『史記』に記した堯の暦法記事の分析結果とこの西村説を総合すると、古代中国における二倍年暦の暦法が復原できるのではないでしょうか。以上、推論的作業仮説として提起します。(つづく)

(注)
①吉田賢抗・他著『新釈漢文大系 史記』全十五巻。明治書院、1973~2014年。
②野口定男訳『中国古典文学大系 史記』全三巻。平凡社、1968~1971年。
③出版年次は平凡社版が五年ほど先だが、漢文学の泰斗とされる吉田賢抗氏(1900~1995年)の見解を野口定男氏(1917~1979年)が採用したのではあるまいか。
④西村秀己「五歳再閏」『古田史学会報』151号(2019年4月)


第2353話 2021/01/17

古田武彦先生の遺訓(27)

―司馬遷の認識「歳三百六十六日」のフィロロギー

 『史記』冒頭の「五帝本紀」で、堯(ぎょう)が定めたとする暦について、司馬遷は「歳三百六十六日」と紹介しています。『史記』原文は次の通りです。

 「歳三百六十六日、以閏月正四時。」『新釈漢文大系 史記1』39頁、明治書院(注)。

 この記事から、聖帝堯の暦法は一年が三百六十六日と伝えられていると、司馬遷は認識していたことがわかります。もちろん、司馬遷の時代(前漢代)の暦法では、一年が三百六十五日と四分の一日であることは司馬遷も知っています。それにもかかわらず、「五帝本紀」には「歳三百六十六日」と書いたのですから、これは誤記誤伝の類いではなく、何らかの古い伝承や史料に基づいて、司馬遷はそのように記したと考えざるを得ません。しかしながら、通常の暦法からは一年を三百六十六日とすることを導き出すことはできません。そこで、わたしは一見不思議なこの「歳三百六十六日」の記事に、二倍年暦の暦法を推定復原するヒントがあるのではないかと考えたのです。
 このアイデアを共同研究者の西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)に伝え、二人で検討協議を続けました。その結果、こうした司馬遷の認識に至る経過を次のように推定しました。

(1)二倍年暦では一年(365日)を二分割するわけだが、春分点と秋分点で日数を分割するのが観測方法からも簡単である。〔荻上紘一さんの見解〕
(2)そうすると、183日と182日に分割することになる。これを仮に「春年」「秋年」と称する。
(3)このような理解に基づいて、一年(365日)のことを「春秋」と称したのではないか。〔西村秀己説〕
(4)二倍年暦表記で「春年183日」と記された史料を司馬遷が見たとき、一年(春秋)の日数を183×2と計算し、366日と理解した。あるいは、このように計算された史料を司馬遷は見た。
(5)一年を366日とする暦を堯が制定したと理解した司馬遷は、『史記』「五帝本紀」に「歳三百六十六日」と記した。

 以上のように、司馬遷の認識経緯をフィロロギーの対象として検討し、推定しました。この推定が正しければ、後半の「以閏月正四時」についても、同様に二倍年暦の暦法にも「閏月」が存在していたとする史料を司馬遷は見たことになります。(つづく)

(注)吉田賢抗著『新釈漢文大系 史記1』明治書院、1973年。


第2350話 2021/01/15

古田武彦先生の遺訓(26)

平凡社『史記』の原文にない記事「三年に一回」

 「洛中洛外日記」2344話(2021/01/09)〝古田武彦先生の遺訓(22)―司馬遷の暦法認識は「一倍年暦」―〟において、司馬遷の暦法認識が一倍年暦であり、『史記』も基本的にはその認識で編纂されているとしました。その根拠として、『史記』冒頭の「五帝本紀」に堯(ぎょう)が定めたとする暦について、次のように記されてることを紹介しました。

 「一年は三百六十六日、三年に一回閏月をおいて四時を正した。」『中国古典文学大系 史記』上巻、10頁。(注①)

 この記事から、司馬遷が伝説の聖帝堯の時代から一年を三百六十六日とする一倍年暦であったと理解していることがわかるのですが、なぜ一年を三百六十六日としたのかが謎のままでした。「洛中洛外日記」2344話では司馬遷の暦法認識についての考察がテーマでしたので、この疑問については深入りしませんでした。
 そうしたモヤモヤした気持ちを抱いていたところ、周代暦年復原の共同研究者の山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)がご自身のブログ〝sanmaoの暦歴徒然草〟「帝堯の〝三分暦〟―昔の人だって理性はあった―」(2021/01/13)において、「洛中洛外日記」2344話を紹介され、わたしが引用した平凡社版の『史記』に原文にはない記事「三年に一回」があると指摘されました。わたしも気になっていたのですが、『史記』の原文には「三年に一回」という文はありません。これは平凡社版『史記』の編者の判断により書き加えられた「解説」であり、原文の直訳ではなかったのです。明治書院版の『史記』原文は次の通りです。

 「歳三百六十六日、以閏月正四時」『新釈漢文大系 史記1』39頁、明治書院(注②)。

 当該文について、同書には次の解説があります。

 「○以閏月正四時 太陰暦では三年に一度一回閏月をおいて四時の季節の調和を計った。中国の古代天文学では、周天の度は三百六十五度と四分の一。日は一日に一度ずつ進む。一年で一たび天を一周する。月は一日に十三度十九分の七進む。二十九日半強で天を一周する。故に月が日を逐うて日と会すること一年で十二回となるから、これを十二箇月とした。しかし、月の進むことが早いから、この十二月中に十一日弱の差を生ずる。故に三年に満たずして一箇月のあまりが出る。よって三年に一回の閏月を置かないと、だんだん差が大きくなって四時の季節が乱れることになる。」同、41頁。

 この解説によれば、太陰暦では三年に一度の閏月を置かなければならないということであり、そのため、原文にない「三年に一度」という解説を平凡社版『史記』では釈文中に入れてしまったということのようです。太陰暦の閏月の説明としては一応の理解はできますが、司馬遷が「歳三百六十五日」ではなく、「歳三百六十六日」とした理由はやはりわかりません。(つづく)

(注)
①野口定男訳『中国古典文学大系 史記』全三巻。平凡社、1968~1971年。
②吉田賢抗著『新釈漢文大系 史記1』明治書院、1973年。


第2347話 2021/01/12

古田武彦先生の遺訓(25)

―周代主要諸侯の暦法推定―

 西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)とは、〝周王朝は二倍年暦を一倍年暦にいつ変更したのか〟という改暦年代の他に〝周代の主要諸侯が採用していた暦法〟についても意見交換を続けています。周代における主要諸侯国には、初代武王の同母弟の周公旦を開祖とする魯をはじめ、次の諸侯が知られています。ウィキペディアより転載します。

【主要諸侯】
 『史記』「三代世表」には、周建国当時の有力な諸侯として以下の11国が記される(記載順)。

○魯 姫姓侯爵 開祖:周公旦(武王の同母弟)
 現在の山東省南部を領す。都城は曲阜(現在の山東省済寧市曲阜市)。
○斉 姜姓呂氏侯爵 開祖:呂尚
 現在の山東省北部を領す。都城は営丘(現在の山東省淄博市臨淄区)。
○晋 姫姓侯爵 開祖:唐叔虞(成王の同母弟)
 現在の山西省一帯、黄土高原東部の汾水河谷周辺を領す。都城は唐(後に「晋」に改称、現在の山西省太原市晋源区)。
○秦 嬴姓趙氏伯爵 西周代では大夫・東周にいたり侯爵 開祖:非子
 現在の甘粛省西部、東に周の根拠地である陝西省の渭水盆地を望む高地を領す。周王室の東遷に伴い政治権力の空白となった渭水盆地に勢力を伸ばし、やがてこの盆地の政治的中枢部である関中に重心を移す。当初の都城は秦邑(現在の甘粛省天水市張家川回族自治県)。
○楚 羋姓熊氏子爵 開祖:熊繹
 現在の河南省西部から湖北省・湖南省一帯、概ね漢江以南の長江中流域を領す。都城は丹陽(現在の河南省南陽市淅川県)。
○宋 子姓公爵 開祖:微子啓(殷の帝辛(紂王)の異母兄)
 現在の河南省東部一帯を領す。都城は商邱(現在の河南省商丘市睢陽区)。
○衛 姫姓伯爵(後に侯爵、さらに公爵へと陞爵) 開祖:康叔(武王の同母弟)
 現在の河南省北部黄河北岸部を領す。都城は朝歌(現在の河南省鶴壁市淇県)。
○陳 嬀姓侯爵 開祖:胡公(五帝の一人である舜の末裔と伝えられる)
 現在の河南省中部一帯を領す。都城は宛丘(現在の河南省周口市淮陽区)。
○蔡 姫姓侯爵 開祖:蔡叔度(武王の同母弟)
 現在の河南省南部を領す、都城は当初上蔡(現在の河南省駐馬店市上蔡県)、新蔡(現在の駐馬店市新蔡県)に遷都後、下蔡(現在の安徽省淮南市鳳台県)に遷る。
○曹 姫姓伯爵 開祖:曹叔振鐸(武王の同母弟)
 現在の山東省西部を領す、都城は陶丘(現在の山東省菏沢市定陶区)。
○燕 姞姓伯爵 開祖:召公奭(周王朝姫氏の同族)
 現在の河北省北部を領す、都城は薊(現在の北京市房山区)。

 これら諸侯は西周時代は周と同じ二倍年暦を採用していたと推定していますが、西周末あるいは東周に至り、周が一倍年暦に改暦すると、それに従ってほぼ同時期に一倍年暦を採用した諸侯と、二倍年暦を継続使用した諸侯があったと、現時点では考えています。
 西村さんとの検討の結果、孔子の出身地の魯は春秋期には二倍年暦(二倍年齢)を継続したとする理解で合意できました。その根拠は、孔子や弟子の曾参が『論語』『曾子』で二倍年齢を採用していたことが明らかなことによります(注①)。他方、秦は周に従って一倍年暦を採用し、その経緯から始皇帝が中国を統一したとき、暦法は自ら採用していた一倍年暦で統一したと思われます。この点も、西村さんと合意できたところです。
 この他、魏王墓(戦国期)から出土した『竹書紀年』が一倍年暦によることから、それが出土時のままであれば戦国期の魏は一倍年暦と理解することが可能です。同じく、戦国期の楚の竹簡と見られている精華簡『繋年』(注②)も一倍年暦表記ですから、楚も戦国期には一倍年暦を採用していたと思われます。
 以上のように考えていますが、関連諸史料との整合性調査が必要ですから、現時点では作業仮説的推論にとどめたいと思います。(つづく)

(注)
①古賀達也「新・古典批判 二倍年暦の世界」、『新・古代学』7集(2004年、新泉社)。
 古賀達也「新・古典批判 続・二倍年暦の世界」、『新・古代学』8集(2005年、新泉社)。
②「洛中洛外日記」2308話(2020/12/03)「古田武彦先生の遺訓(18) ―周代史料の史料批判(優劣)について〈後篇〉―」で紹介した。

 


第2346話 2021/01/11

古田武彦先生の遺訓(24)

―周王朝の一倍年暦への変更時期―

 『史記』の採用暦については山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)がブログ上(注)で精力的に仮説を展開し、検討を続けています。古代暦法や暦日計算に疎いわたしは、山田さんの研究の行方を見守っている段階です。
 他方、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)とは〝周王朝は二倍年暦を一倍年暦にいつ変更したのか〟という改暦の年代について、文献史学の分野から意見交換と論議を続けています。まだ見解の一致を見ていませんが、現時点での両者の考え(作業仮説)を紹介したいと思います。
 わたしは次の史料状況から判断して、西周は二倍年暦を採用しており、東周のどこかで一倍年暦に変更したと考えています。

①西周建国前後の周王四代にわたって約百歳の寿命であり、このことから西周は二倍年暦を採用していると考えざるを得ない。
 武王の曽祖父、古公亶父(ここうたんぽ):120歳説あり。
 武王の祖父、季歴:100歳。(『資治通鑑外紀』『資治通鑑前編』)
 武王の父、文王:97歳。在位50年。(『綱鑑易知録』『史記・周本紀』『帝王世紀』)
 初代武王:93歳。在位19年。(『資治通鑑前編』『帝王世紀』)
②五代穆王は50歳で即位、55年間在位。105歳で没した(『史記』)。
③九代夷王の在位年数がちょうど二倍になる例がある。『竹書紀年』『史記』は8年、『帝王世紀』『皇極經世』『文獻通考』『資治通鑑前編』は16年。この史料状況は、一倍年暦と二倍年暦による伝承が存在したためと考えざるを得ない。
④十代厲(れい)王も在位年数が二倍になる例がある。『史記』などでは厲王の在位年数を37年としており、その後「共和の政」が14年続き、これを合計した51年を『東方年表』は採用。『竹書紀年』では26年とする。
⑤十一代宣王の在位年数46年、東周初代の平王の在位年数51年など、長期の在位年数から〝長寿命〟と推定できる周王が存在しており、これらも二倍年齢の可能性をうかがわせる。(『竹書紀年』)

 西村さんの見解は、『史記』に付されている黄帝から周の共和までの年表「三代世表」を根拠に、西周末期の共和までが二倍年暦で、その後に一倍年暦に改暦されたというものです。すなわち、司馬遷が『史記』編纂にあたり参照した史料を整理した結果が「三代世表」であり、それ以降の年表とは性格が異なっていることから、二倍年暦から一倍年暦という改暦による激変がこの間にあったと考えると、年表の大きな変化を説明できるというものです。
 この西村見解(作業仮説)も魅力的ですので、自説にこだわることなく、検討を続けています。(つづく)

(注)〝sanmaoの暦歴徒然草〟


第2345話 2021/01/10

古田武彦先生の遺訓(23)

―没年齢記事が少ない「周本紀」以前―

 『史記』(注①)を読んでいて気づいたのですが、「周本紀」以前の登場人物の没年齢記事が少ないのです。史書ですから、基本的には中心王朝の「王年」(各王の即位何年)で『史記』は編年されています。ですから、登場人物の年齢や没年齢の記載が必ずしも必要ではありません。そのような史料性格にあって、例外的に没年齢が推定できる次の年齢記事が見えます。

○堯(百十八歳)「堯は即位して七十年たって舜をみいだして挙用し、それから二十年たって年老いて引退し、舜に天子の政を摂行させて、これを天に推薦した。つまり、事実上、舜に位をゆずって二十八年たつて崩じた。」五帝本紀、『中国古典文学大系 史記』上巻、12頁。
○舜(百歳)「舜は、二十歳にして孝行できこえ、三十歳にして堯に挙用され、五十歳にして天子の政を摂行した。五十八歳にして堯が崩じ、六十一歳にして堯に代わって帝位についた。帝位について三十九年、南方に巡幸中、蒼梧の野(湖南省)で崩じて、江南の九疑山(江西省)に葬られた。」五帝本紀、同、16頁。
○穆王(百五歳)「穆王は即位したとき、すでに五十歳であった。」「穆王は立ってから五十五年で崩じた。」周本紀、同、42、44頁。

 次いで「秦本紀」になると、先に紹介した百里傒の記事を含めて次の例があります。

○寧公(二十二歳)「寧公は生まれて十歳で立ち、立って十二年で死んだ。」秦本紀、同、57頁。
○出子(十一歳)「出子は生まれて五歳で立ち、立って六年で死んだ。」秦本紀、同、57頁。
○徳公(三十五歳)「徳公は生まれて三十三歳で立ち、立って二年で死んだ。」秦本紀、同、58頁。
○百里傒(百余歳)「〔繆公五年〕楚人は承諾して百里傒を返した。このとき、百里傒はすでに七十余歳であった。」秦本紀、同、58頁。
○孝公(四十五歳)「二十四年に、献公が死んで、その子の孝公が立った。ときに、孝公はすでに二十一歳であった。(中略)二十四年に、晋(魏)と岸門(河南省)で戦い、その将、魏錯をとりこにした。孝公が死んで、その子の恵文君が立った。」秦本紀、同、66~67頁。
○恵文君(王)(四十六歳)「三年に、恵文君が二十歳に達したので冠礼の式をおこなった。(中略)十四年に、あらためて元年とした(前年から王を称した故)。十四年に、楚を伐って召陵(河南省)を取った。(中略)恵文王が死んで、その子の武王が立った。」秦本紀、同、67~68頁。
○昭襄王(七十三歳)「三年に、昭襄王が二十歳に達したので冠礼をおこなった。(中略)五十六年に昭襄王が死んで、その子の孝文王が立った。」秦本紀、同、68~70頁。

 以上の史料状況から、歴代秦公(王)の没年齢は一倍年暦と考えて問題なく、二倍年暦では没年齢が若くなりすぎて不自然です。司馬遷の時代(前漢代)は既に一倍年暦であり、「秦本紀」の秦公(王)の年齢も一倍年齢と司馬遷は理解していたはずですから、百里傒の百余歳については超高齢の珍しい例として『史記』に特記したのではないでしょうか。
 他方、「周本紀」以前の百歳以上の事例(堯、舜、穆王)は二倍年齢と考えざるを得ないのですが、司馬遷にはその認識がありませんから、恐らく上古の聖人は超長生きと理解していたのではないでしょうか。これは司馬遷に限らず、『史記』と同じく前漢代に成立した『黄帝内経素問』にも次のように記されていることから、当時の知識人の共通した認識だったようです。

 「余(われ)聞く、上古の人は春秋皆百歳を度(こ)えて動作は衰えず、と。今時の人は、年半百(五十歳)にして動作皆衰うるというは、時世の異なりか、人将(ま)さにこれを失うか。」(『素問』上古天真論第一)

 二倍年暦による「百歳」を一倍年暦表記と誤解し、「今時の人は、年半百(五十歳)にして動作皆衰う」のは「時世の異なりか」とあります。この記事からも前漢代での人の一般的寿命は五十歳と認識されていたことがうかがえます。なお、『黄帝内経素問』の書名は『漢書』芸文志に見えます(注②)。(つづく)

(注)
①野口定男訳『中国古典文学大系 史記』全三巻。平凡社、1968~1971年。
②漢代における年齢認識について、古賀達也『二倍年暦と「二倍年齢」の歴史学 ―周代の百歳と漢代の五十歳―』(『東京古田会ニュース』195号、2010年10月)で詳述した。