柿本人麻呂「大長七年丁未(707)」没の真実
『古田史学会報』77号(2006/12)に発表した「最後の九州年号−「大長」年号の史料批判−」において、九州年号の最後は「大長」で、703年から711年まで続いたことを論証しました。その史料根拠として、十六世紀に成立した辞書『運歩色葉集』の「柿本人丸」の項を紹介しました。次の記事です。
「柿本人丸 −−者在石見。持統天皇問曰對丸者誰。答曰人也。依之曰人丸。大長四年丁未、於石見国高津死。」(以下略) 柿本人麻呂が大長四年丁未に石見国高津で亡くなったという記事ですが、この大長七年丁未は707年に相当します。この時既に大和朝廷は自らの年号を制定し ており、慶雲四年にあたります。ということは、『運歩色葉集』が依拠した人麻呂没年原史料には九州年号の大長が記されており、その成立は8世紀初頭の同時 代史料に基づくと考えられます。
なぜなら、後代になって九州年号を記した年代暦などに基づいて「大長」年号を付加編纂した可能性は小さいからです。既に大和朝廷の年号「慶雲」があるの ですから、701年以後であれば慶雲を使用するでしょう。更に、現存する年代暦は大長がない『二中歴』が最古ですし、それ以外の年代暦には大長が700年 以前に「移動」されたものしかないので、後代に於いて707年丁未の没年に九州年号の大長が使用される可能性は考えにくいのです。
このように考えると、8世紀初頭の最末期の九州年号「大長」を使用していた人物により柿本人麻呂の没年記事が書かれたことにならざるを得ません。すなわ ち、九州王朝系の人物により柿本人麻呂の没年が記録されたことになるのです。したがって柿本人麻呂自身も九州王朝系の人物だったと論理は展開するのです が、これは既に古田先生が指摘されてきたことと一致します。
この没年記事の持つ論理性からも、柿本人麻呂は九州王朝の宮廷歌人だったことになります。恐らく、晩年は大和朝廷の歌人としても活躍したと思われますが、九州王朝の元宮廷歌人という輝ける経歴が、『続日本紀』などに柿本人麻呂の名前が登場しなかった理由だったのではないでしょうか。
しかし、九州王朝系の人物により柿本人麻呂の没年は九州年号「大長七年丁未」と記されたのです。この二年後に大長年号は終了し、九州年号と恐らくは九州王朝も終焉を迎えます。もし人麻呂が生きていれば、九州王朝の滅亡をどのように歌ったでしょうか。興味は尽きません。