難波朝廷(難波京)一覧

第526話 2013/02/13

大宰府政庁出土の須恵器杯B

 小森俊寛さんが前期難波宮を天武期の造営とされた考古学的理由は、その整地層からわずかに出土した須恵器杯Bの存在でした。小森さんは須恵器杯Bの存続期間(寿命)を20~30年とされ、藤原宮(700年頃)から多数出土する須恵器杯Bの発生時期を引き算で 670~680年とされ、したがって須恵器杯Bを含む前期難波宮整地層は660年より古くはならないと主張されたのです。
   この一見もっともなように見える小森さんの主張ですが、わたしには全く理解不能な「方法」でした。そもそも須恵器杯Bの継続期間(寿命)が20~30年 とする根拠が小森さんの著書『京から出土する土器の編年的研究』には明示されていませんし、証明もありません。あるいは、前期難波宮が天武期造営であるこ とを指し示すクロスチェックを経た考古学的史料も示されていません。更に、前期難波宮造営を7世紀中頃と決定づけた水利施設出土木枠の年輪年代測定にも全 く触れられていません。自説に不利な考古学的事実を無視されたのでしょうか。こうした点からも、わたしには小森説が仮説として成立しているとは全く見えな いのです。
   しかし、わたしはこの須恵器杯Bを別の視点から注目しています。それは大宰府政庁1期と2期の遺構から須恵器杯Bと見られる土器が主流須恵器杯として出 土しているからです。もちろん、大宰府政庁調査報告書などを見ての判断であり、出土土器を実見したわけではありませんので、引き続き調査を行いますが、少なくとも報告書には須恵器杯Bと同様式と見られる須恵器が掲載されています。この事実は重大です。
    小森さんの著書『京から出土する土器の編年的研究』は「京(みやこ)から出土する土器」とありますが、ここでいう「京(みやこ)」とは近畿天皇家の 「都」だけであり、近畿天皇家一元史観の限界ともいうべき著作なのです。ですから九州王朝の都、太宰府などの出土土器は比較考察の対象にさえなっていませ ん。したがって、古田学派・多元史観の研究者は、こうした一元史観論者の著作や仮説に「無批判に依拠」することは学問的に危険であること、言うまでもありません。
    須恵器杯Bが多数出土している大宰府政庁1期と2期遺構ですが、一元史観の通説でも1期の時期を天智の時代とされています。すなわち660年代としてい るのです。ところが小森説に従えば、この大宰府政庁1期も天武期以後となってしまいます。小森説では1個でも須恵器杯Bが出土したら、その遺構は680年 以後と見なされるのですから。古田学派の論者であれば、大宰府政庁1期を天武期以後とする人はいないでしょう。すなわち、前期難波宮を天武期とする小森説の支持者は、須恵器杯Bの編年を巡って、これまでの古田史学の学問的成果と決定的に矛盾することになるのです。(つづく)


第525話 2013/02/12

前期難波宮と藤原宮の整地層須恵器

 前期難波宮造営を天武期とする説の史料根拠は『日本書紀』天武12年条 (683)に見える「副都詔」とよばれる記事です。都や宮殿は2~3ヶ所造れ、まずは難波に造れ、という詔勅記事なのですが、このとき既に難波には孝徳紀 に造営記事が見える前期難波宮がありますから、この副都詔は問題視され、前期難波宮の「改築」を命じた記事ではないかなどの「解釈」が試みられてきました。

 他方、小森俊寛さんらからは天武紀の副都詔の方が正しいとし、出土須恵器の独自編年を提起され、前期難波宮を天武期の造営とされたのです。こうして『日 本書紀』の二つの難波宮造営記事(天武紀の副都詔は「造営命令」記事)のどちらが史実であるかの論争が文献史学と考古学の両分野の研究者により永く続けら れてきました。

  この論争に「決着」をつけたのが、前期難波宮遺構から出土した「戊申年(648)木簡」と水利施設出土木枠の年輪年代測定値(634)でした。須恵器の 相対編年をどれだけ精密に行っても絶対年代(暦年)を確定できないことは自明の理ですが、暦年とリンクできる干支木簡と伐採年年輪年代測定値により、前期 難波宮整地層出土土器をクロスチェックするという学問的手続きを経て、前期難波宮とされる『日本書紀』孝徳紀の造営記事の確かさが検証され、現在の定説と なったのです。

 したがって、この定説よりも小森説が正しいとしたい場合は、そう主張する側に干支木簡や年輪年代測定値以上の具体的な科学的根拠を提示する学問的義務があるのですが、わたしの見るところ、この提示ができた論者は一人もいません。

 さて、問題点をより明確にするために、もし天武紀の副都詔(前期難波宮天武期造営説)が仮に正しかったとしましょう。その場合、次の考古学的現象が見られるはずです。すなわち、前期難波宮造営は683年以降となり、その整地層からは680年頃の須恵器が最も大量に出土するはずです。同様に680年代頃か ら造営されたことが出土干支木簡から判明している藤原宮整地層からも680年頃の須恵器が最も大量に出土するはずです。すなわち、両宮殿は同時期に造営開始されたこととなるのですから、その整地層出土土器様式は似たような「様相」を見せるはずです。ところが、実際の出土須恵器を報告書などから見てみます と、前期難波宮整地層の主要須恵器は須恵器杯HとGで、藤原宮整地層出土須恵器はより新しい須恵器杯Bで、両者の出土土器様相は明らかに異なるのです。

    藤原宮造営は出土干支木簡から680年代には開始されており、須恵器編年と矛盾せず、干支木簡によるクロスチェックも経ており、これを疑えません。した がって、藤原宮整地層と出土土器様式や様相が異なっている前期難波宮整地層は「時期が異なる」と見なさざるを得ないのです。ですから、既に繰り返し指摘し ましたように、その土器様式編年と共に「戊申年木簡」や年輪年代測定値により、7世紀中頃とクロスチェックを経ている前期難波宮は藤原宮よりも「古い」と いうことは明白なのです。

   この前期難波宮と藤原宮の整地層出土土器様式・様相の不一致という考古学的事実は、前期難波宮天武期造営説を否定する決定的証拠の一つなのです。(つづく)


第524話 2013/02/10

七世紀の須恵器編年

 前期難波宮九州王朝副都説に対しての御批判があり、その根拠として提示されたのが前期難波宮の創建を天武期とする小森俊寛さんの説でした。小森さんの説の根幹は七世紀の須恵器の独自編年に基づくもので、前期難波宮整地層からわずかに出土する須恵器杯Bの土器編年を七世紀後半の天武期とされたことです。
 そこでわたしは七世紀の須恵器編年の勉強を続けてきたのですが、その結果やはり小森説は成立しないという結論に至りましたので、何回かに分けてそのことを説明したいと思います。
 七世紀の編年に用いられる代表的須恵器として、須恵器杯H、G、Bがあります。この中で最も古い須恵器杯Hは古墳時代から続く様式とされ、囲碁の碁石の 容器を平たくした形をしています。須恵器杯Gは須恵器杯Hの次に現れる様式で、須恵器杯Hの蓋に「つまみ」がついたものです。その次に現れる須恵器杯B は、須恵器杯Gの碗の底に「脚」がついた様式です。このようにH・G・Bと様式が発展するのですが、それらは遺跡から併存して出土するのが通常です。従っ て、どの様式が最も大量に出土するかで、遺跡の先後関係が判断されます。
 たとえば前期難波宮整地層ではHとGが主流で、若干のBが出土します。藤原宮整地層からは須恵器杯Bが主流ですから、前期難波宮整地層との比較では、1様式から2様式ほど前期難波宮が藤原宮よりも早いというふうに判定されるのです。
 この判定から、仮に小森説に従って須恵器1様式の継続期間を約25年と仮定した場合、前期難波宮創建は藤原宮創建よりも25~50年先行するということ になります。その結果、藤原宮の整地層年代を680年頃とすると、前期難波宮整地層は630~655年頃となり、ほぼ定説通りとなります。前期難波宮完成 は『日本書紀』によると652年ですから、土器編年と矛盾しないのです。
 更に整地層と同じ須恵器杯H・Gと併存して難波宮北西の水利施設から出土した木枠の伐採年が年輪年代測定で634年であることから、須恵器編年が年輪年 代測定によるクロスチェックにより、その編年の正しさが証明され、暦年との関係が証明された「定点」史料となっています。
 こうした須恵器様式編年と年輪年代のクロスチェックにより、前期難波宮造営は七世紀中頃とする説が有力根拠を持った定説となったのです。この点、小森説はクロスチェックを伴った「定点」史料を明示できないため、ほとんどの考古学者の支持を得られていません。もちろん学問は多数決ではありませんが、小森説はクロスチェックを経た「定点」史料を明示できていない未証明の作業仮説であり、有力な「定点」根拠を有する定説編年により否定されたと言わざるを得ない のです。(つづく)


第513話 2013/01/03

王朝交代の古代史

 あけましておめでとうございます。
 平成25年も興味をもっていただけるような充実した「洛中洛外日記」を綴っていきます。
 1月12日の新年賀詞交換会で古田先生のお話を聞いた後は、2月24日(日)の東京での講演(多元的古代研究会主催)の準備に入ります。演題は「王朝交代の古代史 -七世紀の九州王朝-」です。
 この数年、七世紀の九州王朝の復元研究にあたり、八世紀の大和朝廷との比較という研究方法を進めてきました。すなわち、701年を基点とした「王朝の相 似形」という視点で九州王朝の姿を推定するという方法です。例えば、列島の「全国」支配に必要な官僚群と官僚が勤務する役所は、その支配領域や律令支配の 形が九州王朝と大和朝廷でそれほど変わらなければ、両者は701年を基点として同じような規模や形式の宮殿・官衙を有していたはずという考え方です。
 701年直近の大和朝廷の王宮は藤原宮や平城宮ですが、共に大極殿や朝堂院を有した当時としては巨大(列島内最大)なものです。中でも律令体制を維持す るための朝堂院と官衙群を持った王宮であることは、七世紀の飛鳥にあった近畿天皇家の宮殿と比較しても、その差は歴然としています。すなわち、列島内ナン バーワン(701以後)と臣下としてのナンバーツー(700以前)の差です。厳密にいえば、藤原宮は701年をまたいで存在していますので、その位置づけは複雑で、今後の研究課題です。
 比べて、それらに匹敵する九州王朝の王宮・官衙は残念ながら大宰府政丁2期遺構は「内裏」も「朝堂院」も格段に見劣りがします。その理由も今後の研究課題です(白村江敗戦後の造営なのでこの程度の規模になったのではないか)。しかしながら、前期難波宮だけは藤原宮や平城宮に匹敵する規模と形式を有していますから、まさに九州王朝の副都にふさわしいのです。
 2月24日(日)の東京講演ではこうした「王朝の相似形」という方法論を駆使した研究成果を発表します。関東の皆様にお聞きいただければ幸いです。


第512話 2012/12/31

難波宮の礎石の行方

 2012年最後の洛中洛外日記です。12月の関西例会で、わたしが前期難波宮について発表したとき、今後の検討課題とし て何故難波宮が上町台地最北端で最高地点でもある大阪城のある場所に造営されなかったのかという疑問をあげました。そして、難波宮よりやや高台にあたる現 大阪城の場所には別の建築物(逃げ城的な要塞など)があったのではないかというアイデアを示しました。
 このとき西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、会計担当)より、大阪城の地は石山本願寺があったところで、もともと「石」がたくさんあったため「石山」という地名がつけられたという情報が寄せられました。お面白いご意見でしたので、このことを大阪歴博学芸員の李陽浩(リ・ヤンホ)さんに尋ねました。
 「石山」地名の由来については山根徳太郎さんの説だそうで、礎石などが遺っていたのではないかという説とのこと。そのことに関して、豊臣秀吉時代の大阪城石垣が出土していることを教えていただきました。発掘調査報告書(『大阪城跡?』大阪市文化財協会、2002年)を見せていただいたのですが、その石垣の中に建築物の礎石が転用されていることが写真付きで報告されていました。李さんの説明では、花崗岩の礎石であり、後期難波宮の礎石の可能性があるとのことでした。その根拠として、七世紀までの礎石は凝灰岩が使用されていることが多く、八世紀からは花崗岩が多く使われていることをあげられました。
 難波宮の時代、その北側の大阪城がある場所には何があったと考えられますかと、李さんに質問したところ、おそらく神社など神聖な場所であったと考えているとのことでした。王朝(権力者)にとっても宮殿を造営することさえはばかられる場所として、神聖な「神社(神域)」説はなるほどと思いました。山根徳太郎さんの著作を読んでみる必要がありそうです。
 前期難波宮が焼失後、その上に礎石造りの後期難波宮が造営され、その礎石が石山本願寺や大阪城に再利用され、その上に徳川家康の大阪城が造られたという ことになるのでしょうが、学術調査により明らかになりつつある歴史の変遷に不思議なものを感じます。こうしたことも歴史研究の醍醐味といえるでしょう。
 さて、本年最後の洛中洛外日記もこれで終わりますが、ご愛読いただいた皆様に御礼申し上げます。それでは良いお年をお迎えください。


第511話 2012/12/30

難波宮中心軸のずれ

 大阪歴博の学芸員・李陽浩(リ・ヤンホ)さんとの問答は多岐にわたりました。李さんは建築史や建築学が専門の考古学者ですので、前期難波宮の建築学的論稿も発表されておられ、わたしが矢継ぎ早に繰り出す質問に的確に答えていただきました。中でもわたしが知らなかった難波宮の中心軸が前期と後期とでわずかに角度が振れているという指摘には驚きました。
 李さんの説明では、前期難波宮の中心軸と後期難波宮の中心軸とでは、約7分角度が振れているとのことです(『難波宮祉の研究 第13』2005年)。極めて微妙なぶれですが、よく測定できたものだと驚いたのですが、前期の上に後期を造営しているのに何故ずれているのですかと、わたしは質問しました。それ に対する李さんの解説が見事でしたので、ご紹介します。
 わたしは中心軸が振れているのを「問題」ととらえたのですが、李さんの見解は逆でした。むしろ、よくこれだけ正確に前期の中心軸と「一致」させて後期を再建できたことこそ驚きであるというものでした。そしてその理由として、朱鳥元年(686年)に焼失した後も、その焼け跡の痕跡(柱など)が残っていたから、後期難波宮が前期の中心軸にほとんど重ねて造営することができたのではないかとされたのです。
 更にその考古学的痕跡として、前期難波宮の柱の抜き取り穴に、後期難波宮の瓦片が落ち込んでいる例が発見されており、この事実は686年に焼失した前期 難波宮の焼け残っていた柱が、後期難波宮造営開始時(神亀三年・726)まで残っていたことを意味します。
 こうした考古学的事実から、前期難波宮焼失跡地は後期難波宮建設時まで焼け跡のまま「保存」されていたと李さんは考えておられました。このことは前期難波宮(跡地)を近畿天皇家がどのように考えていたのか、取り扱っていたのかという問題を検討する上で参考になりそうです。
 さらに李さんは後期難波宮の規模や朝堂院部分の位置についても興味深い指摘をされました。前期に比べて後期の朝堂院の規模が小さいのですが、より詳しく見ると前期難波宮の朝堂院中庭部分に後期の大極殿と朝堂院がすっぽりと入る形で造営されています。この事実は前期の焼け跡が残っていたからこそ、建物跡が少ない中庭部分(平地)に後期の大極殿と朝堂院が意図的に造営されたと李さんは考えられたのです。卓見だと思いました。
 李さんは考古学的事実に基づいて仮説や推論を展開される反面、考古学では断定できない部分については判断できないと返答されるので、聞いていても大変波長があいました。二人の問答はさらに続きました。(つづく)


第510話 2012/12/29

歴博学芸員・李陽浩さんとの問答

 先日、大阪歴史博物館を訪問しました。三度目の訪問です。二階のなにわ歴史塾で前期難波宮のことなどを教えていただくのが目的です。今回の「相談員」は同館学芸員の李陽浩(リ・ヤンホ)さん。建築学・建築史が専門の考古学者で、前期難波宮についてとても詳しい方で、何を聞いてもただちに発掘調査報告書を提示して、懇切丁寧に説明していただきました。

 今回の質問も前回と同様で、須恵器編年において、1様式の継続期間が平均30年と小森俊寛さんの著書にあるが、それは考古学者の間では「常識」なのか、 もしそうであればその根拠は何かというものでした。李さんは小森さんの著書とこの説についてよくご存じで、次のような回答がなされました。

 須恵器1様式の期間が20~30年とは一般的にいわれている見解ですが、厳密にいうと、新たな様式が出現する「周期」が約25年程度ということで、その 様式が何年続くかは個別に異なるということでした。すなわち、ある様式が発生し25年ほどたつと新様式の土器が出現しますが、それにより前様式の土器が地上から消えてなくなるわけではないということでした。また、土器様式の寿命はそれほど短くはないともいわれました。

 この説明なら、なるほどよくわかります。その上で、李さんが何度も強調された言葉に「クロスチェック」が必要、というものがありました。土器の相対編年だけでは、土器発生の先後関係がわかるだけなので、絶対年を決定するさいには、土器様式相対編年以外の方法や原理に基づいた別の根拠による「クロスチェッ ク」が必要ということです。

 具体的には、年輪年代測定や干支木簡、あるいは文献との整合性で「クロスチェック」しなければならないということでした。これは、古田先生が主張されて いる「シュリーマンの法則」と同じ考え方で、考古学出土事実と文字史料などによる伝承とが一致すれば、それは史実と見なしうる、あるいはより真実と考えら れるという方法です。

 このデータのクロスチェックという方法は自然科学では当然のようになされる基本作業なのです。たとえばわたしの専門の有機合成化学であれば、実験データ だけではなく、その合成方法も記載しなければ学術論文として認められません。なぜなら、合成方法が明示されていれば、他の化学者により実験データが正しい かどうか「再現性試験」が可能だからです。そして、その再現試験結果データと論文のデータがクロスチェックされ、その論文が正しいかどうか判断されるわけです。

 自然科学では当然とされる「クロスチェック」が、考古学編年においても必要であるというのが李さんの返答の核心でした。この点、小森さんの論文は土器様式の相対編年のみで、他の方法に基づいたデータとのクロスチェックがなされていないと批判されました。その上で、前期難波宮整地層の土器編年は水利施設出 土木わくの年輪年代(534年)などによるクロスチェックを経ており、前期難波宮が七世紀中頃の造営であることは動かないとのことでした。

 ちなみに、前期難波宮水利施設出土木わくの年輪年代(534年)については、2000年に出された「難波宮趾の研究・第11」(大阪市文化財協会)で報 告されていますが、その後(2005年)に出された小森さんの著書『京から出土する土器の編年的研究』には、どういうわけかこの水利施設出土の年輪年代の報告については触れられていません。(つづく)


第507話 2012/12/22

九州王朝の天子たち

 九州王朝が百済救援のため、唐・新羅連合軍との「開戦の詔勅」が『日本書紀』斉明紀六年条(660)にあったことを述べ ましたが、それではこの詔勅を出した九州王朝の天子は誰でしょうか。『日本書紀』に散見される「伊勢王」という不詳の人物がいるのですが、この伊勢王の死亡記事が斉明七年(661)六月条にあります。
 この斉明七年にあたる661年には九州年号が白鳳に改元されていますから、伊勢王が九州王朝の天子であれば、その死去により改元されたこととなります。 この伊勢王を九州王朝の天子とする研究については、正木裕さんによる詳細な論稿がありますので、ご参照ください(「常色の宗教改革」『古田史学会報』85号、「伊勢王と筑紫君薩夜麻」『古田史学会報』86号、他)。
 正木さんの研究によれば、伊勢王は九州年号の常色・白雉年間に評制を施行し、白雉元年(652)には「難波遷都」した天子とされています。九州王朝最後 の天子とされる筑紫君薩野馬(明日香皇子)の父親でもあります。こうした研究成果によれば、七世紀におる九州王朝の歴代天子の系譜は次のように考えられま す。

 阿毎多利思北弧(上宮法皇) 端政元年(589)即位~倭京五年没(622、法興32年) ※筑後から太宰府に遷都(倭京元年)。遣隋使を派遣。九州島を「九州」に分国。
 利歌彌多弗利(カミトウの利) 仁王元年(623)即位~命長七年(646)没 ※多利思北弧の太子(「聖徳」太子か)。
 伊勢王 常色元年(647)即位~白鳳元年(661)没 ※評制を施行。難波遷都。
 筑紫君薩野馬(薩夜麻) 白鳳元年(661)即位~? ※おそらく701年以後の没。白村江戦の戦いで唐の捕虜となり、天智十年(671、白鳳十一年)帰国。

 おおよそこのような系譜が想定されます。もちろん、今後の研究の進展により修正がなされるかもしれませんが、大きくは間違っていないと思います。


第503話 2012/12/09

拡大する前期難波宮祉

 先月、難波宮朝堂院の西方に当たる国立病院機構大阪医療センター敷地西南部より、前期難波宮期の遺構(塀跡、建物跡)が出土したことが新聞などで報道されました。この発見により、前期難波宮の規模が従来の想定規模よりも西へ100mほど拡大すると指摘されていました。
 12月1日には現地説明会が開催されましたが、当日は残念ながら定期健康診断の予約日と重なっていたため、説明会に行くことができませんでした。その事情を知った西井健一郎さん(古田史学の会々員・大阪市在住)が、わざわざ現地説明会資料を入手され、送っていただきました。大変、有り難いことです。おかげで、今回の発掘調査の概況を知ることができました。その資料の簡単な説明と、それが何を意味するのかについて考察してみました。
 説明資料によると、今回の遺構発見地は谷町筋(南北の通りで上町台地の西側の谷筋に相当)の東側に位置し、このことから前期難波宮とそれに隣接する役所群が上町台地北端の広範囲に広がっていたことが推測されます。すなわち、前期難波宮の内裏と朝堂院、内裏西方官衙、東方官衙、そして今回発見された「西方 官衙」が上町台地上に広がっていたのです。
 おそらく上町台地からはこれからも官衙群の発掘発見が続くことでしょう。既に発見されたこれら遺構群だけでも、前期難波宮は七世紀中頃における列島内最 大規模の、しかも類例の無い卓越した行政都市といえる景観を有しているからです。今回の発見により、こうした官衙群を周囲に有する大規模な前期難波宮は、列島を代表する王朝の宮都であることが、ますます確かなものになったのではないでしょうか。
 更に、今回の発掘成果で注目されるのが、谷を埋め立てた厚い整地層から、七世紀中葉以前の多数の土器とともに、人形や斎串、鏃形・琴柱形などの木製祭祀具が出土したことです。
 すでに内裏西方官衙などから木簡をはじめ多数の木製品が出土しており、前期難波宮以前から当地は「木製品祭祀」「木簡行政」が実施されていたことがうかがわれていたのですが、七世紀前半にかかるこれら木簡(戊申年木簡など)・木製品(水利施設・他)の出土は、全国的にも珍しい状況です。
 また、上町台地やその周辺地域からは「四天王寺創建瓦」と同類のものが数カ所から出土しており、仏教寺院先進地域の様相も呈しています。これら考古学的史料事実を見ても、上町台地には仏教を崇敬した列島を代表する中心権力者が七世紀初頭から存在していたと考えざるを得ないのではないでしょうか。


第499話 2012/12/05

難波京の冨本銭

 「洛中洛外日記」で古代貨幣についての考察を記してきましたが、それを読んで正木裕さん(古田史学の会々員)からメールが届きました。それには難波宮の南方にある細工谷遺跡から冨本銭や和同開珎が出土していることが記されていました。中でも和同開珎は鋳造途中(失敗作か)の「枝銭」と呼ばれるもので、同地(難波京内)で貨幣鋳造されていたことがわかり、貴重な発掘事例です。
 その後、正木さんとお会いしてこの出土状況について意見交換しました。大阪歴史博物館などの報告では冨本銭は七世紀のものとされているようなのですが、その根拠やアンチモンの含有率の調査、そして飛鳥池出土の冨本銭との関連や比較が必要との認識で意見が一致しました。
 さらに前期難波宮と細工谷の貨幣鋳造遺構との関係も注目されます。同遺跡出土冨本銭は飛鳥池出土のものよりサイズが小さいようですので、これも検討すべき問題です。近いうちに大阪歴史博物館を訪問し、発掘調査報告書を閲覧したいと思います。


第474話 2012/09/26

前期難波宮「孝徳朝説」の矛盾

 過日の二回目の大阪歴史博物館訪問で貴重な知見を得たのですが、最大の収穫は大阪歴史博物館研究員の伊藤純さんのお話を聞けたことです。
 伊藤さんへのわたしからの質問は、須恵器編年において、1様式の継続期間が平均30年と小森俊寛さんの著書にあるが、それは考古学者の間では「常識」なのか、もしそうであればその根拠は何かというものでした。残念ながら、伊藤さんは小森さんの著書をご存じなく、須恵器の平均継続期間について明確な見解は お聞かせいただけませんでした。もしそういう見解があるとすれば、須恵器製造職人の寿命や製造に携わる期間から導き出されたのかもしれないとのご意見でし た。こうした返答から、思うに須恵器1様式の継続期間平均30年というのは、小森さんのご意見であり、考古学界全般の共通「常識」ではないように感じまし た。この点、引き続き他の考古学者にも聞いてみたいと思います。
 この後、質疑応答は前期難波宮造営年代へと移りました。わたしは当然のごとく伊藤さんも前期難波宮孝徳期造営説に立っておられると思いこみ、その根拠について質問を続けていたのですが、どうも様子が違うのです。そこで突っ込んでおたずねしたところ、なんと伊藤さんは前期難波宮天武朝造営説だったのです。 いわく「わたしは少数派です。九十数パーセント以上の考古学者は孝徳朝説です。」とのこと。更に「学問は多数決ではありませんから」とも付け加えられまし た。
 「学問は多数決ではない」というご意見には大賛成ですとわたしは述べ、考古学的出土物(土器編年・634年伐採木樋:年輪年代・「戊申」648年木簡) などは全て孝徳期造営説に有利ですが、天武期でなければ説明がつかない出土物はあるのですかと質問しました。伊藤さんの答えは「明瞭」でした。もし「宮殿平面の編年」というものがあるとすれば、前期難波宮の規模は孝徳朝では不適格であり、天武朝にこそふさわしいというものでした。
 この伊藤さんの見解にわたしは深く同意しました。もちろん、「天武朝造営説」にではなく、「前期難波宮の規模が孝徳朝では不適格」という部分にです。こ の点こそ、わたしが前期難波宮九州王朝副都説に至った理由の一つだったからです。すなわち、7世紀中頃の大和朝廷の宮殿としては、その前後の飛鳥宮と比較して突出した規模と全く異なった様式(朝堂院様式)だったからです。
 更に言えば、九州王朝説に立つものとして、太宰府「政庁」よりも格段に大規模な前期難波宮が大和の天皇のものとするならば、701年の王朝交代まで列島の代表王朝だったとする九州王朝説そのものが揺らぎかねないからです。この問題に気づいてから、わたしは何年も考え続け、その結果出した回答が前期難波宮九州王朝副都説だったのです。
 わたしは伊藤さんへの質問を続けました。
 考古学的に見て、孝徳期説と天武期説のどちらが妥当と思われますか。この問いに対して、伊藤さんは孝徳期説の方が「おさまりがよい」と述べられたのです。 自説は「天武朝説」であるにもかかわらず、考古学的な判断としては「孝徳朝の方がおさまりがよい」と正直に述べられたのです。この言葉に、伊藤さんの考古学者としての誠実性を感じました。
 最後にわたしは、「大阪歴史博物館の研究者は全員が孝徳期造営説と思いこんでいたのですが、伊藤さんのような少数説があることに、ある意味安心しまし た。これからは文献研究者も考古学者も、考古学編年と宮殿発展史との矛盾をうまく説明することが要請されます。学問は多数決ではありませんので、これからも頑張ってください。今日はいろいろと教えていただき、ありがとうございました。」とお礼を述べました。そして、この矛盾を解決できる仮説は前期難波宮九州王朝副都説しかない、と改めて確信を深め、大阪歴史博物館を後にしたのでした。


第473話 2012/09/25

四天王寺創建瓦の編年

 第472話で紹介しましたように、今回の歴博訪問ではいくつかの新知見がもたらされました。その一つは四天王寺創建瓦の編年を歴博では620~630年代としていたことです。
 『日本書紀』には四天王寺の創建を587年(崇峻天皇即位前紀)、あるいは593年(推古元年条)と記されているのですが、歴博では『日本書紀』のこの記述を採用せず、土器や瓦の相対編年と年輪年代などとの暦年をリンクした編年観を採用し、四天王寺の創建を620年~630年代としたようなのです。この620年~630年代という編年は、『二中歴』の「年代歴」(九州年号)に記されている「倭京二年(619)難波天王寺聖徳造」の倭京二年(619)に近く、このこと(文献と考古学の一致)から7世紀における畿内の土器編年が比較的正確であることがうかがえるのです。従って、上町台地にある四天王寺創建の編年が正確であるということは、同じ上町台地にある前期難波宮の編年(7世紀中頃、孝徳期とする)も信頼してよいと思われます。
 今から十年ほど前、わたしは『二中歴』に見える「倭京二年(619)難波天王寺聖徳造」の「難波」を北部九州(博多湾岸)にあった難波ではないかと考え、「難波」と「天王寺」の地名セットや7世紀初頭の寺院跡をかなり探しましたが、結局それらしいものは見つかりませんでした。そのため、「倭京二年 (619)難波天王寺聖徳造」の「難波」を北部九州にあった難波とするアイデア(思いつき)を封印し、後に撤回しました。アイデア(思いつき)を仮説として提起するためには、その根拠(証拠)を探し、提示することが「学問の方法」上、不可欠な手続きだからです。(つづく)