聖徳太子一覧

第3065話 2023/07/09

大雨警報下の久留米大学公開講座

本日は一年ぶりに久留米大学公開講座(御井キャンパス)で講演させていただきました(注①)。数日前から続く大雨で山陽新幹線が運休しそうでしたので、前日から福岡入りし、大野城市の弟の家に泊めてもらいました。午前中には山陽新幹線(広島博多間)が止まりましたので、この判断は良かったようです。心配された正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からはお電話をいただきました。わたしからは久留米大学の福山先生にお電話し、前日から福岡に着いていることをお知らせし、公開講座が予定通り開催されるのかを確認したところ、金曜日に大学側で検討した結果、大雨のピークは過ぎるだろうとの判断で開催するとのことでした。
福岡県内各地は大雨警報下でしたが、熱心な受講者約40名ほどが参加されました。そして、大雨の中、参加していただいたお礼に急遽追加したテーマ「吉野ヶ里出土石棺、被葬者の行方」を後半30分に発表しました。このタイミングで久留米まで来て、吉野ヶ里出土石棺について触れなければ、古田史学の名折れですので、石棺から被葬者や副葬品が出なかったことは学問的に重要な意味を持ち、新たな学問研究がその出土事実から始まると、その意義を説明しました(注②)。
「古田史学の会」書籍担当の仕事として、過剰在庫になっていた『俾弥呼と邪馬壹国』を数冊持ち込んだのですが、中村秀美さん(古田史学の会・会員、長崎市)や菊池哲子さん(久留米市)のご協力もいただき、おかげさまで完売できました。終了後は福山先生・中村さん・菊池さんと久留米の居酒屋で懇親会を行い、大雨警報下での楽しい一日を過ごすことができました。ありがとうございます。

(注)
①演題は「京都(北山背)に進出した九州王朝 ―『隋書』俀国伝の秦王国と太秦氏―」。同レジュメを本稿末尾に転載した。
②古賀達也「洛中洛外日記」3034話(2023/06/07)〝吉野ヶ里出土石棺墓が示唆すること (1) ―吉野ヶ里の日吉神社と須玖岡本の熊野神社―〟
同「洛中洛外日記」3035話(2023/06/08)〝吉野ヶ里出土石棺墓が示唆すること (2) ―蓋裏面に刻まれた「×」印―〟
同「洛中洛外日記」3047話(2023/06/20)〝吉野ヶ里出土石棺、被葬者の行方 (1)〟
同「洛中洛外日記」3049話(2023/06/22)〝吉野ヶ里出土石棺、被葬者の行方 (2) ―〝被葬者・副葬品不在墓〟の論理―〟

【転載 久留米大学公開講座レジュメ】
京都(北山背)に進出した九州王朝
―『隋書』俀国伝の秦王国と太秦氏―
古賀達也(古田史学の会・代表)

九州王朝史(倭国興亡の歴史)を概観する際の基本史料として歴代中国史書がある。なかでも『宋書』倭国伝に見える倭王武の上表文は倭国の軍事侵攻について触れており、注目されてきた。他方、『日本書紀』にも神武東征記事や景行紀に「東山道都督」記事が見え、これらは九州王朝(倭国)の東国侵攻の痕跡と思われる。

「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」『宋書』倭国伝
「彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。」『日本書紀』景行天皇五五年条

こうした九州王朝による東方侵攻が史実であれば、その痕跡や伝承が各地に遺されているはずである。そこで文献や考古学的出土事実を精査したところ、京都市(北山背)の古代寺院遺構の造営を担ったとされる秦(はた)氏は、『隋書』俀国伝に見える秦王国出身の有力氏族であり、九州王朝の軍事氏族とする理解に至った。

「明年(608年)、上遣文林郎裴清使於俀國。度百濟行至竹島南望 羅國。經都斯麻國逈在大海中。又東至一支國。又至竹斯國。又東至秦王國、其人同於華夏。以爲夷洲疑不能明也。又經十餘國達於海岸。自竹斯國以東皆附庸於俀。」『隋書』俀国伝

俀国伝の行程記事に見える秦王国の位置について、古田武彦氏は筑後川流域とした。

〝海岸の「竹斯国」に上陸したのち、内陸の「秦王国」へとすすんだ形跡が濃厚である。たとえば、今の筑紫郡から、朝倉郡へのコースが考えられよう。(「都斯麻国→一支国」が八分法では「東南」ながら、大方向(四分法)指示で「東」と書かれているように、この場合も「東」と記せられうる)
では「秦王国」とは、何だろう。現地名の表音だろうか。否! 文字通り「秦王の国」なのである。「俀王」と同じく「秦王」といっているのだ。いや、この言い方では正確ではない。「俀王」というのは、中国(隋)側の表現であって、俀王自身は、「日出づる処の天子」を称しているのだ。つまり、中国風にみずからを「天子」と称している。その下には、当然、中国風の「――王」がいるのだ。そのような諸侯王の一つ、首都圏「竹斯国」に一番近く、その東隣に存在していたのが、この「秦王の国」ではあるまいか。筑後川流域だ。
博多湾岸から筑後川流域へ。このコースの行く先はどこだろうか。――阿蘇山だ。〟(注①)

筑後川流域に秦王国があったとする説だが、筑後川流域という表現では南方向の久留米市などを含むため、二日市市から朝倉街道を東南に向かう筑後川北岸エリア、更に杷木神籠石付近で筑後川を渡河した先のうきは市エリアを秦王国とするのが穏当ではあるまいか。現在でも秦(はた)を名字とする人々が、うきは市に濃密分布していることも注目される(注②)。
また、秦王という名前は『新撰姓氏録』「左京諸蕃上」に見える。

「太秦公宿禰
秦の始皇帝の三世の孫、孝武王より出づる也。(中略)大鷦鷯天皇〈諡仁徳。〉(中略)天皇詔して曰く。秦王が獻ずる所の絲綿絹帛。(後略)」(注③)

太秦公宿禰は秦の始皇帝の子孫とする記事で、大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の時代(五世紀頃か)には秦王と呼ばれていたと記されている。七世紀になると、広隆寺(蜂岡寺)を創建した秦造河勝(はたのみやっこ・かわかつ)が現れる。『日本書紀』は次のように伝える。

〝十一月一日。皇太子(厩戸皇子=「聖徳太子」)、諸々の大夫に語りて言う。
「私には尊い仏像が有る。誰かこの像を得て、恭拜せよ。」
時に秦造河勝、前に進みて言う。
「私が拝み祭る。」
すぐに仏像を受け取り、それで蜂岡寺を造る。〟『日本書紀』推古天皇十一年(603年)

この推古十一年条に見える蜂岡寺は京都市右京区太秦(うずまさ)蜂岡町にある広隆寺とされている。同寺の推定旧域内からは七世紀前半に遡る瓦が出土している。他方、北野廃寺(京都市北区)からも広隆寺よりも古い飛鳥時代の瓦が出土しており、その遺構を蜂岡寺とする見解もある。もう一つ注目されるのが皇極紀三年条に見える次の記事だ。

〝秋七月。東国の不尽河(富士川)のほとりに住む人、大生部多(おおふべのおお)は虫を祀ることを村里の人に勧めて言う。
「これは常世の神。この神を祀るものは富と長寿を得る。」
巫覡(かむなき)たちは、欺いて神語に託宣して言う。
「常世の神を祀れば、貧しい人は富を得て、老いた人は若返る。」
それでますます勧めて、民の家の財宝を捨てさせ、酒を陳列して、野菜や六畜を道のほとりに陳列し、呼んで言う。
「新しい富が入って来た。」
都の人も鄙の人も、常世の虫を取りて、清座に置き、歌い舞い、幸福を求め珍財を棄捨す。それで得られるものがあるわけもなく、損失がただただ極めて多くなるばかり。それで葛野(かどの)の秦造河勝は民が惑わされているのを憎み、大生部多を打つ。その巫覡たちは恐れ、勧めて祀ることを止めた。時の人は歌を作りて言う。
太秦(禹都麻佐)は 神とも神と 聞え来る 常世の神を 打ち懲(きた)ますも
この虫は常に橘の木になる。あるいは曼椒(山椒)になる。その虫は長さが四寸あまり。その大きさは親指ほど。その虫の色は緑で黒い点がある。その形は、蚕に似る。〟『日本書紀』皇極天皇三年(644年)

秦造河勝が駿河(東国の不尽河)の大生部多を討ったという記事で、その理由が〝都の人も鄙の人も、常世の虫〟を崇め私財を投じていることに対する、言わば「宗教弾圧」譚だ。都人までもが〝常世の虫〟を崇めており、ただならぬ事態が倭国(九州王朝)で発生していたことがうかがえる。しかも北山背の豪族(葛野の秦造河勝)が駿河の豪族(大生部多)を征討したというのだから、これは倭国(九州王朝)による大規模な東国征服の一端に他ならない。『日本書紀』の記述によれば7世紀前半の事件であり(注④)、それは『隋書』俀国伝に見える多利思北孤と利歌彌多弗利の時代となり、都とは太宰府(倭京)のことと考えられる。
九州王朝の天子、多利思北孤や次代の利歌彌多弗利の事績が聖徳太子伝承として伝わっていることが諸研究により判明しており(注⑤)、北山背地域や東近江に遺る聖徳太子と関係する寺院伝承も同様の視点で見直されている(注⑥)。本年の公開講座では、九州王朝の東征(列島支配の拡大)の痕跡について、考古学と文献史学の両面から解説する。

(注)
①古田武彦『邪馬一国の証明』角川文庫、1980年。ミネルヴァ書房より復刊。
②「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)によれば、名字「秦」の人口と分布は次のようである。
人口 約29,000人
【都道府県順位】
1 福岡県(約2,900人)
2 大分県(約2,700人)
3 大阪府(約2,400人)
4 東京都(約2,200人)
5 兵庫県(約1,600人)
【市区町村順位】
1 大分県 大分市 (約1,700人)
2 愛媛県 新居浜市(約600人)
3 島根県 出雲市 (約600人)
4 福岡県 うきは市(約500人)
5 愛媛県 西条市 (約400人)
③佐伯有清編『新撰姓氏録の研究 本文編』吉川弘文館、1962年。
④『日本書紀』では九州王朝の事績を年次をずらして転用しているとする指摘が日野智貴氏(古田史学の会・会員、たつの市)よりなされている。秦造河勝の東征記事の実年代についても検討が必要である。
⑤古田史学の会編『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
⑥古賀達也「近江の九州王朝 ―湖東の「聖徳太子」伝承―」『古田史学会報』160号、2020年。


第2942話 2023/02/12

甲斐の国府寺(医王山楽音寺)か (3)

 山梨県笛吹市一宮町塩田の醫王山楽音寺(がくおんじ)の創建年代が同寺ホームページにあるように、「今からおよそ1400年ほど前」「飛鳥時代の推古天皇の御代」とする史料根拠の調査を行っています。そこで、国会図書館デジタルコレクションに収録されている江戸期の史料『甲斐国志』(注①)を閲覧しました。そこに次の記事がありました。

一〔護國山國分寺〕《國分村》臨済宗妙心寺末 御朱印七石六斗餘境内貳千八百坪 時記云天平年中勅ニヨリテ建ツル所ナリ 開山行基金光明四天王護國寺ト勅號アリ事ハ歴史ニ載セテ詳カナリ 但シ一州ノ國分寺ニ限ラサレハ盡ク記スルニハ及ハス(後略)
一〔醫王山樂音寺〕《鹽田村》同宗惠林寺末 御朱印九百五拾坪 本尊地蔵佛殿本尊薬師《共ニ行基ノ作、額ハ醫王殿ノ三字 聖武帝ノ勅額ヲ大覚ノ所模寫ト云》嘗テ夢想アリトテ婦人血症ノ藥五香湯ヲ出ス
『甲斐国志 下』巻之七十六 327~328頁、《》内は二行割注。

 最初の「〔護國山國分寺〕《國分村》」は、聖武天皇による八世紀創建の国分寺(笛吹市一宮町国分)のことと記されています。その次の「〔醫王山樂音寺〕《鹽田村》」は現在の楽音寺(笛吹市一宮町塩田)のことで、本尊の地蔵と薬師が共に行基の作とされており、お寺そのものの創建時期については記されていません。しかし、飛鳥時代に創建されたとも記されていませんから、九州年号の告貴元年(594年)創建「国府寺」(注②)とする史料根拠にはできません。(つづく)

(注)
①『甲斐国志』松平定能編、文化十一年(1814年)成立、全124巻。甲陽図書刊行会、明治44~45年刊。
②九州年号(金光三年、勝照三年・四年、端政五年)を持つ『聖徳太子伝記』(文保二年〔1318年〕頃成立)の告貴元年甲寅(594年)に相当する「聖徳太子二三歳条」に次の記事が見える。
「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺」(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)


第2898話 2022/12/19

筑紫舞「翁」と六十六国分国

 「聖徳太子」の命により蜂岡寺(広隆寺)を建立し仏像を祀った秦造河勝について調査したところ、正木裕さんの能楽研究に行き着きました。同研究によれば、世阿弥『風姿華傳』に見える秦河勝記事などに注目され、「上宮太子、天下少し障りありし時、神代・佛在所の吉例に任(せ)て六十六番の物まねを、彼河勝に仰(せ)て、同(じく)六十六番の面を御作にて、則、河勝に與へ給ふ。」(『風姿華傳』)は九州王朝の多利思北孤(上宮太子)が支配領域の三十三国を六十六国に分国したことを表現しているとされました。そして、次のように結論づけました。

〝本来、「六十六国分国」を詔し、「六十六番の遊宴、ものまね」を命じたのは九州王朝の天子多利思北孤であり、彼こそが世阿弥のいう「申楽の祖」だった。そして筑紫舞は、そうした諸国から九州王朝への歌舞の奉納の姿を今に残すものといえるのだ。〟(注①)

 世阿弥の娘婿の禅竹(金春禅竹、1405-1471年)が著した『明宿集』にも同様の記事があり、翁面の謂われや秦河勝の所伝が記されています。

〝昔、上宮太子ノ御時、橘ノ内裏ニシテ、猿楽舞ヲ奏スレバ、国穏ヤカニ、天下太平ナリトテ、秦ノ河勝ニ仰セテ、紫宸殿ニテ翁ヲ舞フ。ソノ時ノ御姿、御影ノゴトシ。〟
〝河勝ノ御子三人、一人ニワ武ヲ伝エ、一人ニワ伶人ヲ伝エ、一人ニワ猿楽ヲ伝フ。武芸ヲ伝エ給フ子孫、今ノ大和ノ長谷川党コレナリ。伶人ヲ伝エ給フ子孫、河内天王寺伶人根本也。コレワ、大子、唐ノ舞楽ヲ仰テナサシメ給フ。仏法最初ノ四天皇寺ニ於キテ、百廿調ノ舞ヲ舞イ初メシナリ。猿楽ノ子孫、当座円満井金春大夫也。秦氏安ヨリ、今ニ於キテ四十余代ニ及ベリ。〟
〝一、面ノ段ニ可有儀。翁ニ対シタテマツテ、鬼面ヲ当座ニ安置〔シ〕タテマツルコト、コレワ聖徳太子御作ノ面也。秦河勝ニ猿楽ノ業ヲ被仰付シ時、河勝ニ給イケル也。是則、翁一体ノ御面ナリ。(中略)マタ、河勝守屋ガ首ヲ打チタリシソノ賞功ニヨテ施シ給エル仏舎利有之。〟『明宿集』

 この『明宿集』の記事で注目されるのが、「秦ノ河勝ニ仰セテ、紫宸殿ニテ翁ヲ舞フ」「翁一体ノ御面ナリ」とあるように、秦河勝が「翁」を舞ったという所伝です。倭国(九州王朝)の宮廷舞楽として伝えられた筑紫舞に「翁(おきな)」という演目があります(注②)。西山村光寿斉さん(注③)により、現代まで奇跡的に伝承された舞です。正木さんが論じられたように、九州王朝の「六十六国分国」と筑紫舞の「翁」には深い歴史的背景があるようです。(つづく)

(注)
①正木裕「盗まれた分国と能楽の祖 ―聖徳太子の「六十六ヶ国分国・六十六番のものまね」と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)古田史学の会編、明石書店、2015年。
②『続日本紀』天平三年(731年)七月条に雅楽寮の雑楽生として「筑紫舞二十人」が見える。筑紫舞の「翁」には、「三人立」「五人立」「七人立」「十三人立」があるが、「十三人立」は伝わっていないという。
③西山村光寿斉(旧名・山本光子、2013年没)。先の大戦の最中、菊邑検校から只一人筑紫舞を伝受した。古田武彦『よみがえる九州王朝』「幻の筑紫舞」(角川選書、1983年。ミネルヴァ書房より復刊)に、その経緯が詳述されている。


第2891話 2022/12/09

『風姿華傳』『明宿集』

    に記された秦河勝

 「聖徳太子」の命により蜂岡寺(広隆寺)を創建したとされる秦河勝は、〝申楽(さるがく)の祖〟として世阿弥(1363-1443年)の『風姿華傳』にも名を遺しています。

〝上宮太子、天下少し障りありし時、神代・佛在所の吉例に任(せ)て六十六番の物まねを、彼河勝に仰(せ)て、同(じく)六十六番の面を御作にて、則、河勝に與へ給ふ。橘の内裏紫宸殿にて、これを懃ず。天(下)治まり、國静かなり。上宮太子、末代の爲、神楽なりしを、神といふ文字の片を除けて、旁を残し給(ふ)。是日暦の申なるが故に、申楽と名付く。すなはち、楽しみを申(す)によりてなり。又は、神楽を分くればなり。
 彼河勝、欽明・敏達・用明・崇峻・推古・上宮太子に仕へ奉る。(中略)上宮太子、守屋〔の〕逆臣を平らげ給(ひ)し時も、かの河勝が神通方便の手を掛りて、守屋は失せぬと、云々。〟『風姿華傳』(注①)

 世阿弥の娘婿の禅竹(金春禅竹、1405-1471年)が著した『明宿集』には、荒唐無稽とも思われる翁面の謂われや秦河勝の所伝が記されており、その記事の一部を紹介します。

〝昔、上宮太子ノ御時、橘ノ内裏ニシテ、猿楽舞ヲ奏スレバ、国穏ヤカニ、天下太平ナリトテ、秦ノ河勝ニ仰セテ、紫宸殿ニテ翁ヲ舞フ。ソノ時ノ御姿、御影ノゴトシ。〟
〝河勝ノ御子三人、一人ニワ武ヲ伝エ、一人ニワ伶人ヲ伝エ、一人ニワ猿楽ヲ伝フ。武芸ヲ伝エ給フ子孫、今ノ大和ノ長谷川党コレナリ。伶人ヲ伝エ給フ子孫、河内天王寺伶人根本也。コレワ、大子、唐ノ舞楽ヲ仰テナサシメ給フ。仏法最初ノ四天皇寺ニ於キテ、百廿調ノ舞ヲ舞イ初メシナリ。猿楽ノ子孫、当座円満井金春大夫也。秦氏安ヨリ、今ニ於キテ四十余代ニ及ベリ。〟
〝一、面ノ段ニ可有儀。翁ニ対シタテマツテ、鬼面ヲ当座ニ安置〔シ〕タテマツルコト、コレワ聖徳太子御作ノ面也。秦河勝ニ猿楽ノ業ヲ被仰付シ時、河勝ニ給イケル也。是則、翁一体ノ御面ナリ。(中略)マタ、河勝守屋ガ首ヲ打チタリシソノ賞功ニヨテ施シ給エル仏舎利有之。〟『明宿集』(注②)

 これらの能楽書の秦河勝記事で注目されるのが、「上宮太子、天下少し障りありし時、神代・佛在所の吉例に任(せ)て六十六番の物まねを、彼河勝に仰(せ)て、同(じく)六十六番の面を御作にて、則、河勝に與へ給ふ。」に見える「上宮太子」と「六十六番」という表記です。というのも、九州王朝の多利思北孤が支配領域の三十三国を六十六国に分国したことが、わたしたちの研究により判明しているからです(注③)。能楽書に基づいて、このテーマを詳述した正木裕さん(古田史学の会・事務局長)による優れた研究もあります(注④)。
 こうした伝承も、「蜂岡寺」(後の広隆寺)が倭国(九州王朝)下の寺院であり、秦造河勝に仏像の恭拜を命じた「皇太子」も九州王朝の多利思北孤とすることを示唆しています。従って、七世紀の京都市の廃寺群は九州王朝の進出の痕跡と考えることができます。従って、『日本書紀』はこれら廃寺(注⑤)の存在を記さなかったのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①『歌論集 能楽論集』日本古典文学大系、岩波書店、1961年。
②『世阿弥 禅竹』日本思想体系24、岩波書店、1974年。
③古賀達也「続・九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の分国」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』明石書店、2000年。
 同「『聖徳太子』による九州の分国」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
④正木裕「盗まれた分国と能楽の祖 ―聖徳太子の「六十六ヶ国分国・六十六番のものまね」と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)古田史学の会編、明石書店、2015年。
⑤北野廃寺(北区)、樫原廃寺(西京区)、北白川廃寺(左京区)、大宅廃寺(山科区)など。
 北野廃寺は北山背最古(七世紀初頭頃)の寺院で、国内でも最古級。樫原廃寺は七世紀で唯一の八角仏塔をもち、創建年代も八角殿を持つ前期難波宮(652年)と同時期。北白川廃寺は吉備池廃寺に次ぐ巨大金堂基壇を持つ。大宅廃寺の瓦は藤原宮の瓦と同范で、大宅廃寺が先行する。


第2871話 2022/11/04

奈良新聞に「真説・聖徳太子」講演会記事が掲載

 「洛中洛外日記」2861話(2022/10/20)〝15年ぶりの斑鳩の里(法隆寺)〟で紹介した「古代大和史研究会」(原幸子代表)主催の講演会「徹底討論 真実の聖徳太子 in 法隆寺」の記事が奈良新聞(令和4年11月1日)に掲載されましたので、全文を転載します。奈良新聞社の取材と掲載に感謝いたします。

【以下、転載】
法隆寺の築造などを議論
徹底討論「真説・聖徳太子」

 古代大和史研究会(原幸子代表)は10月19日、斑鳩町法隆寺1丁目の法隆寺iセンター多目的ホールで、徹底討論「真説・聖徳太子」を開催。謎の多い聖徳太子の姿や、法隆寺の築造などの議論に、約50人の古代史ファンが熱心に耳を傾けた。
 雑誌「古代に真実を求めて」前編集長の服部静尚さんが「聖徳太子と仏教」、大阪府立大学の正木裕講師が「聖徳太子の実像と政治的功績」と題して基調講演を行った。
 シンポジウムでは「古田史学の会」の古賀達也代表が進行役を務め、服部さんと正木さんがパネリストとして参加。会場からの質疑応答を受けたり、聖徳太子にまつわる金石文や法隆寺の築造に関する疑問などを議論した。
 古賀代表は「法隆寺の若草伽藍(がらん)焼失後の再建論が盛んだが、今の法隆寺は移築されたもの。移築元は不明で、これからの研究課題になる」などと述べた。


第2861話 2022/10/20

15年ぶりの斑鳩の里(法隆寺)

 昨日は15年ぶりに斑鳩の里(法隆寺)を訪れました。「古代大和史研究会」(原幸子代表)主催の講演会「徹底討論 真実の聖徳太子 in 法隆寺」にコーディネーターとして参加するためです。JR法隆寺駅から会場の法隆寺i-センターまで12kmほど歩いたのですが、15年前に比べると足腰が弱っているようで、この距離が長く感じられました。
 講師と演題は、服部静尚さん「聖徳太子と仏教」と正木裕さん「聖徳太子は実在した」で、ご当地と関係が深い聖徳太子がテーマということもあり、会場はほぼ満席でした。奈良県民の歴史への関心の高さがうかがわれました(注①)。服部さんは『古田史学会報』172号に発表されたテーマで(注②)、女性差別の思想を持つ仏教を〝女帝〟の推古の時代のヤマト王権が受容したとは考えられず、九州王朝の多利思北孤が受容したとする説を中心に講演されました。正木さんからは、いわゆる聖徳太子とは九州王朝の天子、阿毎多利思北孤であるとする古田説の解説を中心に、九州王朝説や九州年号、『隋書』俀国伝や『旧唐書』倭国伝・日本国伝に記された倭国(九州王朝)の歴史と概要をわかりやすく解説されました。
 会場からは、初めて九州王朝説を聞いた方から「よくわかった、正しいと思う」との賛意が寄せられたり、「教科書に載るように頑張ってほしい」と応援する声もあり、盛況でした。「古田史学の会」の使命の大きさを改めて認識しました。講師のお二人を始め、主催者と参加された皆様に御礼申し上げます。

(注)
①30年ほど前、「市民の古代研究会」の会員数が700名を超えたとき、都道府県別の会員数と会員人口比率を調べたことがあった。会員数は大阪府や東京都など大都市が多く、県民数に占める会員の比率は奈良県が全国トップであった。
②服部静尚「倭国の女帝は如何にして仏教を受け入れたか」『古田史学会報』172号、2022年10月。


第2689話 2022/02/26

東宮聖徳と利歌彌多弗利

 本日は東京古田会の月例会にリモート参加させていただきました。今回は、同会々員の新保高之さん(調布市)による、『日本書紀』に記された「聖徳太子」の名称についての研究発表がありました。同研究は「聖徳太子は異名王」(注①)として『東京古田会ニュース』に発表されていたもので、発表当初から注目していた論考でした。
 新保稿では、『日本書紀』に見える「聖徳太子」を指す多くの異名を抽出し、その中のキーワードから見えてきた〝「東宮聖徳」「厩戸皇子」「上宮太子」という、三つの人物像の重ね合わせ〟が「聖徳太子」記事であるとされました。簡明な方法論から導かれた穏当な仮説と思います。新保さんの発表を聴講して、「東宮聖徳」という名称とその人物像について次のような見通し(史料根拠に基づく論理展開)を抱きました。

(1) 九州年号史料に見える「聖徳」年号は利歌彌多弗利の法号とする正木裕説(注②)が有力であり、『日本書紀』に見える「東宮聖徳」は、利歌彌多弗利の呼称や伝承を転用した可能性がある。
(2) 「東宮」は皇太子を指す言葉であることから、「東宮聖徳」は皇太子時代の利歌彌多弗利の呼称だったのではあるまいか。
(3) 『二中歴』「年代歴」の「倭京」年号の細注にある「倭京二年(619) 難波天王寺を聖徳が造る」の「聖徳」も皇太子時代の利歌彌多弗利の事績と考えられる(注③)。「倭京」年間(618~622年)は多利思北孤(上宮法皇)の治世期であるため。
(4) 多利思北孤が「上宮法皇」であり、利歌彌多弗利が「東宮聖徳」であれば、「上宮」「東宮」は両者が居住した宮殿名ではあるまいか。
(5) そうであれば、「東宮」とは九州王朝の都(太宰府、倭京)に対して、その東の難波(大阪市上町台地)にあった利歌彌多弗利の宮殿名とする理解も可能。
(6) 『二中歴』「年代歴」の「白鳳」(661~683年)年号の細注「観世音寺東院造」(注④)も、太宰府の観世音寺を東院が造ったと解すれば、この「東院」も当時の皇太子が居た宮殿名に由来する呼称とできそうである。

 以上のような見通しを持っていますが、本格的な検証や論証はこれからの仕事です。

(注)
①新保高之「聖徳太子は異名王」『東京古田会ニュース』201号、2021年。
②正木裕「利歌彌多弗利の法号『聖徳』の意味と由来」古田史学の会・関西例会で発表、2014年12月。
 正木裕「盗まれた『聖徳』」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
③古賀達也「洛中洛外日記」1391話(2017/05/11)〝『二中歴』研究の思い出(4)〟
 古賀達也「『二中歴』九州年号研究の紹介 ―九州王朝史復元研究の成果―」『東京古田会ニュース』183号、2018年。
④古賀達也「九州王朝の難波天王寺建立」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。
 古賀達也「洛中洛外日記」1392話(2017/05/11)〝『二中歴』研究の思い出(5)〟


第2514話 2021/07/08

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (10)

九州年号「蔵和」の出典は『大乘菩薩藏正法經』か

 『大正新脩大蔵経』の検索サイト「SAT大蔵経DB 2018」(注①)を利用して、九州年号「僧要」(635~639年)に続いて、九州年号「蔵和」(559~563年)の出典を調べました。検索すると多くの経典がヒットしますが、その多くが「三蔵和尚」「三蔵和上」などで、その他に「○○蔵和合」(菩薩蔵和合、如来蔵和合、衆生蔵和合、地蔵和合、他)もありました。いずれにしても単語や文章中の二文字です。しかし、九州王朝(倭国)の時代、七世紀以前の漢訳となりますと、次の経典が検索されました。

○『佛説大乘菩薩藏正法經卷第二十』竺法護 訳
 「所有諸大菩薩藏 和合甚深正法義」

 ウィキペディアによれば、竺法護(じく ほうご、239~316年)は西晋時代に活躍した西域僧で、鳩摩羅什以前に多くの漢訳経典にたずさわった代表的な訳経僧とのこと。別に敦煌菩薩、月氏(または月支)菩薩、竺曇摩羅刹とも称され、漢訳した経典は約150部300巻に及ぶとあります。
 九州年号「蔵和」の出典がこのような経典でしたら、『万葉集』「梅花の歌」序文中の漢字二文字を〝集成〟した「令和」(注②)と同様に、九州王朝も経典内の「大菩薩藏」と「和合」の二つの単語から、その末尾と冒頭の二文字を〝集成〟して「蔵和」という年号にしたことになります。この理解が正しいかどうか断定はできませんが、一仮説として提起したいと思います。(つづく)

(注)
①SAT大蔵経テキストデータベース研究会 https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/master30.php。
②現在の年号「令和」(2019年~)は、『万葉集』巻五「梅花の歌」序の一節「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」を出典とする。


第2513話 2021/07/07

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (9)

 九州年号「僧要」の出典は『四分律』か

 西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から紹介していただいた『大正新脩大蔵経』の検索サイト「SAT大蔵経DB 2018」(注①)のおかげで、連日のように発見が続いています。
 たとえば、九州年号には仏教関連の用語や漢字が多用されていますが、それらの九州年号の出典はおそらく仏典ではないかと、わたしは推定していました。しかし、膨大な仏典を調べることは大変な作業のため、なかなか調査に取り組めなかったのですが、今回、大蔵経検索サイトを利用して、九州年号の出典を片っ端から調べています。その成果の一端をご披露します。
 かなり確実な安定した成果として、九州年号「僧要」(635~639年)のケースがあります。「僧要」で検索するといくつかの経典がヒットしますが、その中で最も可能性が高いのが『四分律』六十巻で、そこには次の「僧要」用例がありました。

○『四分律卷第四十六三分之十』
 「隨如法僧要。隨如法僧要不違逆。如法僧要不入違逆説中。(中略)如法僧要、如法僧要違犯、如法僧要呵説。入如法僧要呵説中。」
 「云何如法僧要不隨。如因縁相貌。如法僧要不隨、比丘見此相貌。知此比丘、如法僧要不隨。若不見此比丘、如法僧要不隨。聞彼某甲比丘如法僧要不隨。(中略)云何如法僧要違逆如因縁相貌。如法僧要違逆。比丘見此相貌。知此比丘如法僧要違逆。若不見此比丘如法僧要違逆。聞彼某甲比丘如法僧要違逆。(中略)某甲比丘如法僧要違逆。(中略)某甲比丘入如法僧要違逆説中。」

○『四分律卷第六十第四分之十一』
 「隨如法僧要。如法僧要不呵。不隨如法僧要呵説中。」

 このように「僧要」の文字が集中して現れます。この「僧要」の教義上の正確な意味はわかりませんが、〝僧の求め〟のようなことでしょうか。ご存じの方があれば、ご教示下さい。
 『四分律』とは僧侶の戒律として伝えられたもので、罽賓国の僧、佛陀耶舎らにより東晋代に漢訳されています。「オンライン版 仏教辞典」(注②)には次のように解説されています。一部抜粋します。

【四分律】
〔漢訳〕『四分律』六十巻は、カシュミール(罽賓)の佛陀耶舎が、四分律を暗記して長安に来て、自己の暗記に基づいて訳した。訳時は410~412年のことである。
〔特徴〕四分律は曇無徳部、すなわち法蔵部が伝えた広律である。中国における律学は、はじめは鳩摩羅什などが訳出した説一切有部の十誦律が主流を占めていたが、北魏仏教の隆盛と共に慧光(468~537年)らが四分律を宣揚し、その系統に道宣が出るに及んで全土を風靡するに至った。道宣の起こした律宗を〈南山(律)宗〉と呼び、日本律学の実質的な祖と目される鑑真もこの系統に属する。したがって本書は日本や中国の律宗の原典というべき特に重要な位置にある。

 以上のように説明されており、仏教教団にとって重要な律書のようです。なお、「四分律六十巻」は僧要年間に伝来した一切経『歴代三宝紀』(注③)にも小乗経典として収録されており、九州王朝(倭国)に伝わったていたことは確実と思われます。ただ、九州年号の「僧要」改元(635年)までに伝わっている必要があり、『歴代三宝紀』よりも先に伝来していたことになります。こうして、九州王朝(倭国)の仏典受容史の一つを明らかにし得たのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①SAT大蔵経テキストデータベース研究会 https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/master30.php。
②「オンライン版 仏教辞典」 http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%97%E3%81%B6%E3%82%8A%E3%81%A4
③隋代(開皇十七年、597年)に成立した一切経。費長房撰述。1076部、3292巻。九州王朝(倭国)へ僧要年間(635~639年)に伝来したことが『二中歴』「年代歴」の九州年号「僧要」細注に見える。


第2512話 2021/07/06

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (8)

  後漢代に漢訳された阿弥陀経典『般舟三昧経』

 『大正新脩大蔵経』の検索サイト「SAT大蔵経DB 2018」(注①)で見つけた支謙訳「阿弥陀経二巻」(注②)でしたが、内容を精査したところ、残念ながら「命長七年文書」(注③)の語句とは異なっていました。関係する部分は次の通りです。

○「命長七年文書」
         「御使 黒木臣
名号称揚七日巳(ママ) 此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
   命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来寶前
        斑鳩厩戸勝鬘 上」

○『佛説阿弥陀經巻下』(支謙訳「阿弥陀経二巻」)
 「如是法者。當一心念欲往生阿彌陀佛國。晝夜十日不斷絶者。壽命終即往生阿彌陀佛國。」

 このように、「名号称揚」と「當一心念欲往生阿彌陀佛國」、「七日」と「晝夜十日」と、両者は修行の内容やその期間が全く異なっており、直接的な影響関係はうかがえません。他方、参考になったのが『印度学仏教学研究』(注④)に掲載された眞野龍海氏の論文「小阿彌陀經の成立」でした。同論文には次の阿弥陀経典が紹介されていました。

Ⅰ『般舟三昧経』一巻経(後漢、支婁迦讖訳)
Ⅱ『般舟三昧経』三巻経(後漢、支婁迦讖訳)
Ⅲ『抜陂菩薩経』(後漢、支婁迦讖訳)
Ⅳ『無量寿経』(魏代、康僧鎧訳)
Ⅴ『仏説阿弥陀経』(後秦、鳩摩羅什訳)
Ⅵ『大方等大集経賢護分』(隋代、闍那崛多訳)
 ※()内は略称。

 眞野論文はこれらの経典の成立年代・成立順位について論じたものですが、それは漢訳年代の先後関係ではなく、漢訳の元本(サンスクリット原文等)の成立順位についてです。なお、九州王朝に伝来した一切経『歴代三宝紀』(注⑤)にはⅠⅡⅣⅥが収録されています。また、「命長七年文書」と類似する部分は次の通りです。

Ⅰ『般舟三昧経』一巻経
 「一心念之。一日一夜若七日七夜。過七日已後見之。」
Ⅱ『般舟三昧経』三巻経
 「一心念若一晝夜。若七日七夜。過七日以後。見阿彌陀佛。」
Ⅲ『抜陂菩薩経』
 「淨心念一日一夜至七日七夜。如是七日七夜畢念便可見阿彌陀佛。」
Ⅳ『無量寿経』
 「皆積衆善無毛髮之惡。於此修善十日十夜。」
Ⅴ『仏説阿弥陀経』
 「聞説阿彌陀佛。執持名号。若一日。若二日。若三日。若四日。若五日。若六日。若七日。一心不乱。其人臨命終時。阿彌陀佛。」
Ⅵ『大方等大集経賢護分』
 「或經一日或復一夜。如是或至七日七夜。如先所聞具足念故。是人必覩阿彌陀如來應供等正覺也。」

 以上のように、「名号」「七日」「阿弥陀仏」の語はありますが、「命長七年文書」に見える「名号称揚」の語は、今回の調査でも見つかりませんでした。しかしながら、『般舟三昧経』などに〝釈迦の時代のインドにおける二倍年歴(二倍年齢)の痕跡〟を発見することができました。(つづく)

(注)
①SAT大蔵経テキストデータベース研究会 https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/master30.php。同サイトには『大正新脩大蔵経』の影印画像ファイルも収録されていることに気づいた。研究者にとっては有り難い機能である。
②『佛説阿彌陀三耶三佛薩樓佛檀過度人道經卷上』『佛説阿弥陀經巻下』の二巻。
③『善光寺縁起集註(4) 』天明五年(1785)成立に集録。
④『印度学仏教学研究』第14巻 第2号。日本印度学仏教学会、昭和四一年(1966)三月。本書を京都府立洛彩館の方に紹介いただいた。
⑤隋代(開皇十七年、597年)に成立した一切経。費長房撰述。1076部、3292巻。九州王朝(倭国)へ僧要年間(635~639年)に伝来したことが『二中歴』「年代歴」の九州年号「僧要」細注に見える。


第2511話 2021/07/05

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (7)

 現存していた支謙訳「阿弥陀経二巻」

 膨大な『大正新脩大蔵経』の調査と漢字だらけの経典読解に悪戦苦闘していたわたしに、強力な〝助っ人〟が現れました。西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)からご紹介いただいた『大正新脩大蔵経』の全文デジタルデータによる検索サイト「SAT大蔵経DB 2018」(注①)です。
 この検索機能のおかげで、『大正新脩大蔵経』調査のスピードが劇的にアップし、しかも正確になりました。それまで行っていた調査作業(自転車で洛彩館に行き、『大正新脩大蔵経総索引』からめぼしい経典を探し、その分厚い収録巻を書庫から何冊も出してもらい、当該経典を読み、必要な箇所をコピーし、それを自宅に持ち帰り、繰り返し読む)が自宅のパソコンで可能となったのです。研究者として、便利な時代に生まれたもので、なんとありがたいことか。しかし、最終的には『大正新脩大蔵経』を本で読まなければなりません。経典全体の雰囲気(文字配列、細注などの状況)や新旧字体の確認が学問研究には不可欠だからです。
 早速、このサイトで「支謙」「阿弥陀経」のキーワード検索したところ、『佛説阿彌陀三耶三佛薩樓佛檀過度人道經卷上(佛説阿彌陀經上)』『阿弥陀三耶三佛薩樓檀過度人道經下(佛説阿彌陀經下)』がヒットしました。この経典名には見覚えがありました。『歴代三宝紀』巻第五(注②)にある支謙訳「阿弥陀経二巻」の細注に「内題云阿弥陀三耶三佛薩樓檀過度人道經亦云無量寿經見竺道祖呉録」とあり、「阿弥陀三耶三佛薩樓檀過度人道經」「無量寿經」の内題・別名を持っているのです。この内題と「支謙訳」「二巻本」であることが一致しており、『歴代三宝紀』の「阿弥陀経二巻」と検索でヒットした『阿弥陀三耶三佛薩樓檀過度人道經上下巻』とは同じ経典と見てよいと思います。
 力強い〝助っ人〟のおかげをもって、僧要年間(635~639年)に伝来した一切経『歴代三宝紀』中にある支謙訳「阿弥陀経二巻」を発見することができました。改めて、検索サイトをご紹介いただいた西村さんに感謝します。九州王朝(倭国)の仏典受容史研究は飛躍的に進展することでしょう。(つづく)

(注)
①SAT大蔵経テキストデータベース研究会 https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/master30.php
②隋代(開皇十七年、597年)に成立した一切経。費長房撰述。1076部、3292巻。


第2506話 2021/06/30

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (3)

 ―九州王朝に伝来した『仏説阿弥陀経』―

 九州王朝が釈迦信仰(法華経)から阿弥陀信仰(無量寿経)へと変容したとされた服部静尚さん(古田史学の会・会員、八尾市)は、その史料痕跡として次の「命長七年文書」を挙げられました(注①)。

         「御使 黒木臣
名号称揚七日巳(ママ) 此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
   命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来寶前
        斑鳩厩戸勝鬘 上」

 これは信州の善光寺史料(注②)に収録されたもので、聖徳太子から善光寺如来に宛てた書簡の一つと伝えられてきたものです。往復書簡として全六通の内の最初のものです。法隆寺にも〝善光寺如来の御文箱〟という寺宝が伝えられており、その内の一通が「公開」されています。これらのことについては拙稿「法隆寺の中の九州年号 ―聖徳太子と善光寺如来の手紙の謎―」(注③)などで発表していますのでご参照ください。
 わたしは九州年号「命長」が記された、この「命長七年(646年)文書」を九州王朝の有力者が善光寺如来に宛てた「願文」であり、おそらく死期が迫った利歌彌多弗利によるものではないかとしました。阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)は差出人の名前「斑鳩厩戸勝鬘」にある「勝鬘」を重視され、女性とする説(注④)を発表され、服部さんも支持されています。この理解も有力と思います。
 九州王朝の仏典受容史の視点から同文書を見たとき、服部さんが指摘されたように、『無量寿経』などによる浄土信仰の影響を受けていることは歴然です。そこで、「名号称揚七日」という部分に焦点を当てて、どの経典の影響が強いのかを調査したところ、浄土三部経(『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』)の一つ、『仏説阿弥陀経』(注⑤)の次の説話に注目しました。

『仏説阿弥陀経』(抜粋)
 「舍利弗。若有善男子。善女人。聞説阿弥陀仏。執持名号。若一日。若二日。若三日。若四日。若五日。若六日。若七日。一心不乱。其人臨命終時。阿弥陀仏。与諸聖衆。現在其前。是人終時。心不顛倒。即得往生。阿弥陀仏。極楽国土。舍利弗。我見是利。故説此言。若有衆生。聞是説者。応当発願。生彼国土。」

 七日間、一心不乱に「執持名号」することにより、善男子と善女人は臨終後に阿弥陀仏の極楽国土に往生できるとされており、「名号称揚七日」とある「命長七年文書」はこの『仏説阿弥陀経』の影響を受けているのではないでしょうか。もちろん仏典全てを精査したわけではありませんので、有力な可能性の一つとして提起したいと思います。この見解が正しければ、七世紀前半頃までには九州王朝へ『仏説阿弥陀経』が伝来していたことになります。(つづく)

(注)
①服部静尚「女帝と法華経と無量寿経」『古田史学会報』164号、2021年6月。
②『善光寺縁起集註(4) 』天明五年(1785)成立。
③古賀達也「法隆寺の中の九州年号 ―聖徳太子と善光寺如来の手紙の謎―」『古田史学会報』15号、1996年8月
 古賀達也「九州王朝仏教史の研究 ―経典受容記事の史料批判―」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
④阿部周一「『厩戸勝鬘』とは誰か」ブログ〝古田史学とMe〟、2021年2月27日。
⑤ウィキペディアによれば、『仏説阿弥陀経』一巻は姚秦の鳩摩羅什訳(402年ごろ訳出)。