史料批判一覧

第851話 2015/01/14

 『三国志』のフィロロギー

     「短里の論理」

 賀詞交換会において古田先生が『三国志』の短里や行程について触れられました ので、近年の短里に関する諸論稿にざっと目を通しました。すべての論稿を読んだわけではありませんが、その内容が20年前当時から本質的に進展していないものも見受けられました。そこで、わたし自身の認識の整理見直しも含めて、『三国志』の短里問題について、フィロロギーの視点から見解を述べてみます。
 まず文献史学における研究の手続きとして、史料批判や史料性格の分析が不可欠ですが、『三国志』は古田先生が繰り返し指摘されてきたように、魏王朝の歴史を綴った「正史」であり、かつ三国時代の呉や蜀の歴史も綴られています。『三国志』と命名されたゆえんです。しかも魏を継いだ次王朝の西晋により編纂さ れており、同時代史料とみなされ、信頼性の高い史書です。著者の陳寿も歴史官僚としての高い能力や品性の持ち主であったことが、古田先生により紹介されて います。
 王朝にとって度量衡の統一や施行は、収税や調達、他国との交渉・戦争などにとっても不可欠な行政課題です。ですから魏王朝も当然のこととして、長里であれ短里であれ「里単位」を決定し、その使用を国内(国家官僚・地方役人)に指示したはずです。『三国志』にそうした「里単位」の制定記事がないことをもっ て、里単位の制定・統一はされなかったとする論者もおられるようですが、こうした理解は王朝(権力者)の支配意志を軽視したものであり、学問の方法論上でも誤りがあります。
 すなわち、史料などに「ある事物」の記載があれば、史料事実としてその事物が「存在した」とする根拠に使えますが、不記載・無記載をもって、「存在しない」という根拠には使えないのです。「存在」証明は史料中に一つでも証拠(記載)があればとりあえず可能ですが、「不存在」証明はよほど好条件に恵まれない限りできません。この理屈は自然科学でも同様です。これは学問の基本的な考え方なのです。
 従って、『三国志』に「里単位の制定」記事がないことをもって、魏王朝が統一した里単位を公認制定しなかったとは論理の問題としてできないのです。どうしても存在しなかったことにしたい論者は、「史料に記載が無いことはその時代に存在しなかった」という証明が必要です。逆から言えば、三国時代に存在した制度や事物は全て『三国志』に記載されている、という証明が要求されるのですが、そのようなことがあるはずがなく、証明できるとも思われません。むしろ、王朝(国家権力者)である以上、里単位の公認制定を行ったと考えるのが、国家や歴史に対する真っ当な理解なのです。くりかえしますが、たとえば現代の百科事典に記載されていない事物は現在の世界に存在しない、などという理屈は通用せず、そのような主張は学問的ではありません。(つづく)


第850話 2015/01/10

平成27年、賀詞交換会のご報告

断念  古田武彦
(『ギリシャ行き』2015.2.13)

お詫びと訂正

 「洛中洛外日記」850話に収録しました賀詞交換会における古田先生の「講演概要」に不正確な内容がありました。河西良浩様、寺坂国之様にお詫び申し上げ、当該部分を削除いたします。なお、当「講演概要」の文責はわたしにあります。

                古賀達也(2015.01.23)

 今日は古田先生とご子息の光河(こうが)さんをI-siteなんばにお迎えして、新年賀詞交換会を開催しました。竹村順弘さん(古田史学の会・全国世話人)と服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)にご自宅までクルマで古田先生を送迎していただきました。

 杉本三郎さん(古田史学の会・会計監査)の司会で賀詞交換会は始まりました。冒頭に水野代表から新年の挨拶があり、「古田史学の会・東海」の竹内強会長(古田史学の会・全国世話人)、中国曲阜市から一時帰国されている青木英利さん(古田史学の会・会員)からご 挨拶をいただきました。その後、服部静尚さんから『古代に真実を求めて』の発刊予定や特集テーマについての報告がありました。
 以下、古田先生の講演の概要を紹介します。(文責:古賀達也)

【古田先生講演】
 本日はこのような場を作っていただき、ありがとうございます。昨年11月に長野県の松本深志高校で講演したばかりなので、それと同じ内容になるのかと思っておりましたが、新たなテーマが続出しましたので、それをお話ししたいと思います。

 まず九州年号の問題ですが、『二中歴』に載っている九州年号が画期的であると思っています。『二中歴』では 九州年号が700年に終わり、701年に文武天皇の年号(大宝)に続いていますが、この701年こそ、「評」が終わり「郡」に変わった年であり、これは偶 然の一致ではなく、『二中歴』が示した内容が真実であり、九州年号は歴史事実である。従って、九州年号を制定した九州王朝もリアルである。これは確定論証である。九州王朝が存在しなかったことにしている『古事記』『日本書紀』こそ間違っていたことになる。

 神籠石についても、山城説が発掘調査により明らかとなっており、単なる霊域てはなく軍事施設である。堀や木柵が発見されており、山城であることは間違いない。その分布も福岡県・佐賀県などが中心であり、近畿が中心ではない。この神籠石山城の分布の中心に権力者 がいたことになる。この防衛施設が『日本書紀』には全く書かれていない。書き忘れたのではなく、実在した九州王朝をなかったことにする近畿天皇家側の御用 史書である。

 次のテーマは阿蘇山である。『隋書』イ妥国伝には「阿蘇山あり」と書かれている。この7世紀前半の時代が近畿天皇家中心であれば、近畿・奈良県までの道程が書かれていなければならない。ところが、瀬戸内海領域や、あるいは日本海岸からのコースなど全く書かれて いない。一切ない。うっかりミスで書かれていないとするのは、歴史学の方法ではない。ということは、『隋書』イ妥国伝に記された権力者は近畿中心ではなく、筑紫・山口県中心の権力者である。中国の西安から見て、阿蘇山があり、その手前に神籠石がある。これを『隋書』イ妥国伝は描写している。これを否定するのは勝手だが、それは御用史学である。
 有名な「日出ずる処の天子」は近畿の推古天皇(女性)でも聖徳太子(皇子)でもなく、九州王朝の多利思北孤(男性・天子)である。『隋書』は同時代の史料に基づいて編纂された史書である。ところが、「日出ずる処の天子」を近畿天皇家の人物として教科書は作られており、今日まで謝りもせずに間違ったままで ある。

 『隋書』イ妥国伝の記事「婦、夫の家に入るや、必ず先ず犬(火)を跨ぎ、乃ち夫と相見ゆ。」と岩波文庫では原文の「犬」に「(火)」を付記している。確かに日本には「火」をまたぐ風習があったとされているが、「犬」も古くから人間とのつきあいがあり、『隋書』 の原文通り「犬」でもよいのではないか。旧石器時代から犬と人間は共存してきたのであり、「犬をまたぐ」とは、犬が新しい仲間と認めたという「儀式」では ないか。
 インターネットに面白い記事がありました。「犬神の由来」という記事によると、犬を埋めて首だけ出しておき、その後に犬の首を切るというような嫌な話しです。「犬神」という姓がありますが、姓にするほどですから「犬神」とはそんな嫌らしい説話から付けられたものではなく、犬との共存共栄の歴史から、神聖視されたのではないか。
 昨日気づいたことだが、『三国志』に狗奴国とありますが、狗奴国の「狗」は犬のことであり、神聖な種族だから狗奴国という国名が付けられたのではない か。倭人伝にある対海国・一大国の長官が「卑狗」とされており、この「狗」も神聖な犬が背景にあるのではないか。
 さらに志賀島の金印の「委奴国」も訓みは「いぬ国」であり、「犬(いぬ)」と関係するのではないか。漢が「いぬ」を神聖視した集団に与えたのが「漢委奴国王」印ではなかったか。というようなところまで話しが進んできました。昨日考えた話しなので断言はしませんが、そういうテーマに遭遇しました。

 最後に申し上げたいテーマがあります。一つは『東日流外三郡誌』という『古事記』『日本書紀』に匹敵する本がありますが、これの寛政原本がまだ「発掘」されていませんので、公的な組織(五所川原市など)で調査「発掘」する必要がある。そのための国立の歴史研究 所を作るべきである。本来の持ち主である安倍家(安倍総理)で調査保管してほしい。

 秋田孝季が言っているように、この世の中のものには始まりがあります。宗教も国家も始まりがあり、現在に至っている。宗教や国家に「人間を殺す権限」を与えたのが諸悪の根元である。人間が国家・宗教を作ったのであり、その国家・宗教にばかばかしいほどの権限を与えている。そんな権限は断固拒否すべきである。この問題が現代の最大の問題である。人間が作った国家・宗教に人間を殺す権利を与えてはならない。
 さらに言えば、神と悪魔は同一体ではないか。前が神で後ろが悪魔であり、同一体ではないか。そのような虚像で引っ張り回される時代はもう過ぎたのではないか。

 補足としてギリシアの話しをしておきたい。ギリシア神話をわれわれは知っているが、よく見てみると不思議なことがあります。アポロの神はオリンポスの山に帰るとされていますが、オリンポスはギリシアの北側にあり、南のアテネから北へ太陽神アポロが帰るというの はおかしい。アポロはオリンポスの真東にあるトルコのトロイから出発したのではないか。そうであれば、ギリシア神話ではなくトロイ神話となる。
 『古事記』『日本書紀』が九州王朝神話を取り込んで自らの神話としてすり替えたのと同様に、ギリシア神話もトロイ神話の盗作ではないか。そのトロイ神話をわれわれはギリシア神話として覚えさせられている。滅ぼされた古い王朝の歴史や神話を取り込んで利用するという手法が日本でもギリシアでも使われているのである。
 バイブル冒頭の長寿年齢記事も異なる暦を使用していた古い文明の説話を盗用した痕跡である。
 こうしたことを調べるためにも、ギリシアを訪問して史料調査を行いたい。わたしは反キリスト教でも反イスラム教でもない。イエスもマホメットも親鸞もすばらしい人物であり、わたしは尊敬しているが、尊敬されている人物に対する余計な侮辱が、はたして「表現の自由」なのか。襲撃されたパリの新聞社のことをよく知らないが、わたしは疑問に感じる。
 わたしはもう永くはない。後はみなさんによろしくお願いしたい。(拍手)

【質疑応答】
(問)日本の縄文宗教には「地獄の思想」はないと何かの本で読んだことがあるが、本当でしょうか。
(古田)親鸞の思想には地獄があります。親鸞はその地獄思想をさらに高い立場から乗り越えている。これがすばらしい。「地獄思想」に騙されないということが大事ではないか。
(問)仏教以前の宗教には「地獄の思想」がないとされているが、どうか。
(古田)仏教以前としては『祝詞』があり、そこには味方が犯した罪や敵の罪を「水に流し」て乗り越えるという思想が記されている。原爆投下というアメリカの戦争犯罪を忘れるのではなく、罪を明確に認めた上でそれを乗り越える思想が大切である。

 質疑応答の最後に古賀から、『三国志』における長里と短里の混在という主張に対して、『三国志』を編纂した 西晋の陳寿は、長里から短里に変更した王朝の歴史官僚であり、「短里」に変更した大義名分にそって『三国志』を編纂したはずであり、その陳寿や晋王朝が短 里と長里の混在に気づかない、あるいは気にしないとは考えられないと指摘しました。

 講演終了後に、古田先生と光河さんと共に参加者全員で記念写真を撮り、閉会となりました。先生と光河さんを竹村さんがご自宅まで送り、残った希望者により懇親会を開催しました。今日は今宮戎のお祭り(十日戎)で、会場周辺は夜遅くまで賑やかでした。今年も「古 田史学の会」にとって良い一年となりそうです。


断念  古田武彦

   一
 「『ギリシャ行き』を断念した。」
 今年(二〇一五)の二月一日(日曜日)、日本人二名(湯川遥菜・後藤健二氏)殺害の報道が発表された、その瞬間だった。
 わたしはすでに「ギリシャ行き」にO.Kの立場をとっていた。「もし、余命があるならば」の要望だった。直ちに和田マサミ(多元)さんから反応があり、 東京古田会・古田史学会等からも加わり、すでに三十数名を越えていた。しかし「人のいのちには代えられない。」わたしには迷いはなかった。

   二
 昨年の八月十八日(月) わたしは妻(泠子)を失った。午後一時四十分、桂病院である。長男(光河)と共に住むこととなった。余命のある限り、研究と執筆に全力で朝夕をすごしている。

  二〇一五、二月八日(日曜日)筆了


第847話 2015/01/02

吉田松陰書簡の思い出

 今年のNHK大河ドラマは吉田松陰の妹、杉文(すぎ・ふみ)を主人公とした「花燃ゆ」で、女優の井上真央さんが演じられます。大河ドラマも幕末や戦国時代ばかりではなく、いつの日かは古代や近代も取り上げてもらいたいものです。
 吉田松陰は歴史上の偉人として尊敬する人物の一人ですが、20年ほど前に、わたしは吉田松陰書簡など江戸時代の史料を集中して読んだことがありました。 それは和田家文書偽作キャンペーンに対抗するのに、江戸時代研究の必要があったためで、具体的には江戸時代の「藩」表記についての調査が目的でした。
 当時、和田家文書偽作論者から、和田家文書には「藩」という表記があるが、江戸時代に「藩」という行政単位名は無く、従って和田家文書は現代人が書いた偽作であるという批判がなされました。松田弘洲氏の『歴史読本別冊 古史古伝論争』所収「『東日流外三郡誌』にはネタ本がある」(1993年12月)や『季刊邪馬台国』55号誌に掲載された「やはり『古田史学』は崩壊する」という論文です。
 松田氏は「『東日流外三郡誌』にはネタ本がある」において、「江戸時代に津軽藩とか、三春藩などと称することはなかった。読者は手元の辞典を引いて、大名領をいつから“藩”と表記したか確認したらよろしい。」として、和田家文書を偽作とされたのですが、わたしはこの「批判」に接したとき、「はあ?」というのが第一印象でした。というのも、わたしの乏しい江戸期史料の知識でも、「藩」表記は頻繁に目にしていたからです。そこで、持っていた『吉田松陰書簡』 などにある「藩」表記を再確認し、「藩」表記は江戸時代成立の文書にいくらでもあると反論したのです。本ホームページ掲載の下記の拙稿をご参照ください。

「偽書説と真実 真偽論争以前の基礎的研究のために」『古田史学会報』創刊号(1994年6月)
「知的犯罪の構造 『偽作』論者の手口をめぐって」『新・古代学』2集(新泉社、1996年)

 こうした論争を経験していましたので、今年の大河が吉田松陰の妹を主人公にしたことを知って、わたしは20年前に読み返 した『吉田松陰書簡』のことを思い出したのです。ちなみに、わたしからの史料根拠を提示しての具体的な反論に対して、松田氏も『季刊邪馬台国』編集部(安本美典責任編集)も「だんまり」を決め込み、某新聞社のように、論文(誤論・誤解)の撤回も訂正も謝罪も行わないまま、その後も延々と偽作キャンペーン (個人攻撃・人格攻撃)を続けました。それは、およそ学問的態度とは言い難いものでした。
なお、ご参考までに江戸期史料に見える「藩」表記の例をご紹介します。

○「吉田松陰書簡」嘉永四・五年、兄の杉梅太郎宛書簡
「肥後藩」「御藩之人」「本藩」
○根岸鎮衛(1737-1815)『耳嚢』
「会津の藩中」「尾州藩中」「佐竹の藩中」
○新井白石『折たく芝の記』(1716年成立、自筆原本現存)
「藩邸」
○「新井白石書簡」(『新井白石全集』より)
「賢藩」「加藩」※いずれも加賀藩のこと。
○杉田玄白『蘭東事始』(1815年成立)
「藩邸」「我藩」「藩士」「藩医」


第845話 2015/01/01

百済武寧王陵墓碑が出展

 みなさま、あけましておめでとうございます。
 実家の久留米に帰省し、毎日のんびりとテレビを見ています。さすがに地元だけあって、HKT48が頻繁にテレビ出演しています。更に元日から開催される九州国立博物館の「古代日本と百済の交流 大宰府・飛鳥そして公州・扶餘」の告知コマーシャルもよく目にします。特別展示として七支刀(期間限定 1/15~2/15)や百済武寧王陵墓碑が出展されるとのこと。3月まで開催されるようですので、是非、拝見したいものです。
 特に武寧王陵墓碑は見てみたいと願っています。というのも、墓碑に記された武寧王の没年干支を確認したいのです。通常、同碑文の没年干支は「癸卯」 (523年)と紹介されることが多いのですが、実は古田先生等が1998年に同碑文を実見されたところ、干支部分は改刻されて「癸卯」とされていますが、 本来の原刻は「甲辰」であることを発見されたのです。すなわち、干支が一年ずれているのです。このことについて、わたしは『古田史学会報』31号 (1999年4月)において、「一年ずれ問題の史料批判 百済武寧王陵碑『改刻説』補論」として報告しました。本ホームページに掲載していますので、ご覧ください。
 韓国国宝の同墓碑が国内で見られるとは思ってもいませんでしたので、何とか展示期間中に九州国立博物館を訪れ、この目で見てみたいものです。

(後記)JR久留米駅で入手した観光案内パンフレット「太宰府天満宮&九州国立博物館」に「古代日本と百済の交流 大宰府・飛鳥そして公州・扶餘」の紹介があり、そこに「武寧王墓誌」の写真が掲載されていました。その写真をよく見ると、「癸卯」の二字部分が少し 削られて、へこんでいることがわかります。もちろん、このことを知らなければ気づかない程度ですが、写真でもわかるのですから、実物を直接見れば、削られ た原刻の「甲辰」という字の痕跡を確認できると思います。


第841話 2014/12/21

2014年の回顧

   「関西例会」

 2014年における「古田史学の会」での優れた研究は『古田史学会報』に掲載されたもの以外にも、「関西例会」で発表された研究にも少なくありません。わたしの記憶に残っている特に優れた例会発表についても解説したいと思います。
 まず発表件数ですが、毎回、古田先生近況や会務報告とご自身の研究を報告されている水野代表は別格としても、服部静尚さん(八尾市)の22件が際だっています。次いで正木裕さん(川西市)の14件で、両者の発表件数が群を抜いていますし、研究水準も高いものでした。以下、岡下英男さん(京都市)の7件、萩野秀公さん(東大阪市)・西村秀己さん(高松市)・出野正さん(奈良市)・古賀(京都市)の6件と続いています。最も遠方からの発表者は中国曲阜市の青木英利さんでした。
 皆さん研究熱心で、「古田史学の会」や古田学派の研究活動を牽引されています。いずれも甲乙つけ難い研究内容ですが、最も印象強く残っているのが安随俊昌さん(芦屋市)が7月に発表された「『唐軍進駐』への素朴な疑問」でした。「洛中洛外日記」748話で紹介しましたが、『日本書紀』天智10年条(671)に見える唐軍2000人による倭国進駐記事について、安随さんによれば、この2000人のうち1400人は倭国と同盟関係にあった百済人であり、600人の唐使「本体」を倭国に送るための「送使」だったとされたのです。すなわち、百済人1400人は戦闘部隊(倭国破壊部隊)ではないとされたのです。
 この安随説は論証が成立しており、もし正しければ白村江敗戦以降の倭国(九州王朝)と唐との関係の見直しが迫られます。すなわち、数次にわたり筑紫に進駐した数千人規模の唐軍が倭国を「軍事制圧」していたという認識に基づいた諸仮説が成立困難となるかもしれないからです。
 このように、従来の研究の見直しをも迫る安随説は、2014年の関西例会で最も気になる研究発表だったのです。『古田史学会報』での発表が待たれる所以です。
 最後に、例会後の懇親会の幹事を担当していただいている西井健一郎さん(古田史学の会・全国世話人)のご尽力にも触れなければなりません。どんなに激しい論争があっても、懇親会で酌み交わすお酒のおかげで関西例会は長く続けられています。こうしたことも「古田史学の会」の大切な目的です。


第828話 2014/11/29

地名接尾語「さ」と「言素論」

 地名接尾語としての「ま」や「の」について論じてきましたが、まだよくわからない地名接尾語に「さ」があります。宇佐・土佐・稻佐・三笠・須佐・伊佐・石原(いさ)・麻・厚狭(あさ)・安佐・小佐(おさ)・岩佐・笠・加佐・笠佐・ 吉舎(きさ)・笹・奈佐・波佐・布佐・三佐・武佐・与謝・若狭など末尾に「さ」が付く地名は多数あります。従って、共通した何らかの意味を持つと考えられ ます。
 言葉の先頭に付く「さ」は、小百合や小夜曲のように「小さな」という意味の「さ」が知られていますが、地名接尾語の場合はそれとは違うようです。このように、「さ」の音に複数の異なる意味があることになるのですから、「言素論」で言葉を分析するさいに、どちらの意味を取るのかで恣意性が発生することもあ り、こうしたケースは学問的に不安定なことがご理解いただけると思います。
 「さ」の意味を探る上で注目されるのが京都府福知山市の石原(いさ)という地名です。「原」という字に「さ」という発音はなさそうですから、音ではなく訓(字の意味)の一致から「さ」の音に当てたのではなないでしょうか。そうであれば、「さ」は「原」(フィールド)の意味を持っていたことになります。そうしますと、「ま」(一定領域の意味)と似た意味となり、「○○さ」とは「○○」のフィールドということになります。まだアイデア段階ですが、地名接尾語 「さ」の意味をこれからも考えていきます。


第827話 2014/11/23

「言素論」の可能性

 「言素論」は日本古代史研究に新たな可能性を秘めているのですが、古代中国の音韻研究にも寄与できる可能性もあります。たとえば音韻復元が未だ困難とされている『三国志』時代の音韻研究ですが、倭人伝の国名分析により解明できるケースがあります。たとえば、「奴国」などの「奴」の音韻が、通説の「な」や「ど」ではなく、「ぬ」あるいは「の」の可能性が最も高いということがわかっ てきました。
 『三国志』倭人伝に記された倭国内の国名に「奴」の字がよく使われています(奴国・彌奴国・姐国・蘇奴国・華奴蘇奴国・鬼奴国・烏奴国・狗奴国)。現在では「ぬ」「ど」とわたしたちは発音しますが、志賀島金印の「漢委奴国王」の場合は通説では「な」と訓まれています。倭人伝国名の末尾に「奴」が使用されていることが注目されますが、おそらく倭人の発音に基づき漢字を当てたものと思われますから、この「奴」が地名接尾語の可能性をまず考えるべきです。そうしますと、日本列島内の地名接尾語として多用されているのが、「ま」の他には「の」「さ」「な」などがあり、この中から「奴」の音の可能性があるのは 「の」と「な」です。しかし、地名としては「の」が圧倒的に多いことから、「の」の可能性が最も高いと思われます。
 たとえば思いつくだけでも、昨晩地震があった長野をはじめ、吉野・熊野・日野・信濃・星野・茅野・真野・高野・美濃・小野・遠野・角野・中野などいくらでもあります。したがって日本列島内に多数ある「○○の」という国名が倭人伝に無いと言うことは考えにくいので、「奴」を「の」と訓むのは合理的な選択肢となります。ただし、古代から現代までの音韻変化という問題がありますので、ここでは「の」あるいは「ぬ」に近い音という程度にとどめておくほうが学問的には安心です。中村通敏さん(古田史学の会・会員、福岡市)も著書『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』(海鳥社、2014年)で同様の考えを発表され ています。好著ですので、ご一読をお勧めします。
 「奴」の発音を「の」「ぬ」と考えた場合、次に問題となるのが、その意味です。地名接尾語として何らかの共通した意味があったはずですから、「言素論」 としてこの考察を避けて通れません。これまでは何となく「野原の野(の)」のことで、野原や広原の多い地名に接尾語の「の」が付けられたと考えていました。現に「○○野」という地名が数多くあります。もちろんこうした意味で「○○の」という地名が付けられたケースも少なくないと思われますが、倭人伝の 「奴国」や志賀島の金印の「委奴国」の場合、かなり大きな領域の国名と思われますから、古代においては「の」「ぬ」に単に「野原」ではなく何か特別な意味があったのではないかと考えています。残念ながら今のところ良いアイデアはありません。
 古田先生が提唱された「言素論」は発展途上の先駆的学問領域であるがゆえの限界や欠陥、想定できない問題の発生を避けられませんが、同時に大きな可能性も秘めています。古田学派内での活発な論議や仮説発表を通して発展させていきたいと思います。


第826話 2014/11/22

「言素論」の方法論

 「洛中洛外日記」824話などで、地名接尾語「ま」について紹介しましたが、 西村秀己さんから、「ま」が一定領域をあらわす言葉なら、なぜ「ま」が地名に付いたり付かなかったりするのか、地名そのものが一定領域を表しているのに、 なぜ更に一定領域を意味する「ま」が付く必要性があるのかという鋭いご質問をいただきました。そこで、今回はこの地名接尾語「ま」についてわたしの考えを説明し、「言素論」の方法論について触れることにします。
 まず、「ま」を地名接尾語とするための条件としては、末尾に「ま」を持つ多数の地名の存在が必要です。数が少なければ、偶然の一致かもしれないという批判をクリアできないからです。すでに何度も紹介しましたように、日本列島にはかなり多くの末尾に「ま」がつく地名があり、これを偶然とするよりも、何らかの必要性があり、地名の末尾に「ま」を付けた文明や集団が存在したと理解する方が合理的なのです。
 次に、「ま」が付いたり付かなかったりする理由ですが、幸いにも末尾に「ま」が付いたり付かなかったりする例が現在もあります。「床の間」「土間」「居間」「客間」「応接間」というように「ま」が付くケースと、「玄関」「便所」「台所」のように「ま」が付かない場所が家の中にあります。前者は「間」が付くことにより一定領域(空間)であることと、それがどのような目的の領域であるかがわかる仕組みになっています。後者は「間」の代わりに「所」という一定 領域(空間)であることを示す言葉が付加されています。あるいは漢語として目的と一定空間であることが明らかな「玄関」のような言葉には「ま」が不要であ り、付加されていません。
 おそらく、これと同様に末尾に「ま」を付加することにより、ある集団などの一定領域を意味するケースとしての地名接尾語「ま」が付けられたのではないで しょうか。すなわち古代日本列島において、特定集団の領域を表す言葉として「ま」があり、その集団名などの末尾に「ま」を付ける慣習があり、その結果、末尾に「ま」を持つ地名が多数成立したのではないでしょうか。
 実はこれと同様の地名領域表現として、中国風の「国(くに)」「県(あがた)」「里(さと)」名称などが導入され、後には「評」「郡」「郷」が国家権力の行政単位として採用されます。このように、より古い時代に一定領域をあらわす言葉として地名接尾語「ま」などが発生したと、わたしは考えています。
 以上、地名接尾語「ま」の成立を「言素論」の視点から考察したのですが、もちろん他に有力で合理的な説明や仮説があれば、比較検証し、どの仮説が最も妥当かを判断すればよいと思います。「言素論」を古代史研究に使用する場合は、少なくともこの程度の学問的手続きと用心深さは必要でしょう。(つづく)


第825話 2014/11/21

「言素論」の困難性

 今回は「言素論」の学問としての困難性について説明します。それは古代における発音・音韻が現在のわたしたちにはわからないことが多いことと、残されている史料の文字表記と古代の音韻とが正確に対応しているかどうか、これもわからないケースがあるという点です。
 このことを具体例(わたしの失敗)で説明しますと、たとえば「洛中洛外日記」820話で紹介した「○○じ(ぢ)」地名の音韻における、「じ」と「ぢ」の 違いです。姫路や淡路、庵治、但馬、味野は「ぢ」と思われますが、「吉備の児島」の場合は普通「こじま」であり、「じ」です。わたしはこの「児島」も「こじ(ぢ)+ま」とするアイデア(思いつき)として述べたのですが、この点、倉敷市の「味野」地名を教えていただいた安田さんからメールをいただき、「ぢ」 ではなく「じ」ではないかとのご指摘をいただきました。『古事記』の国生み神話に見える「吉備児嶋」は「嶋」ですから「こじま」と発音され、安田さんのご指摘はもっともなものでした。
 ただ、わたしには思い当たることがあり、あえて「吉備の児島」の「児島」を「こじ(ぢ)+ま」とするアイデアを述べました。それは『古事記』の国生み神 話の「大八島国」の次に登場する六つの「嶋」(吉備児嶋・小豆嶋・大嶋・女嶋・知訶嶋・両児嶋)のうち、「吉備児嶋」だけは「嶋」(アイランド)ではなく半島で、しかも「吉備」という地名表記つきで、他の五つの「嶋」とは表記方法が異なっています。そこで、この「児嶋」は「嶋」と表記されていますが、本来 は「こぢ+ま」という領域名であり、それを『古事記』編者は「こじま」として他の五つの「嶋」と同様に「児嶋」と表記したのではないかと考えたのです。
 しかし、わたしのこのアイデア(思いつき)に対して、西村秀己(古田史学の会・全国世話人、『古田史学会報』編集担当、会計。高松市)さんから「児島半島は昔は島で、戦国時代以降の干拓により半島になった」とのご指摘があり、わたしの思いつきは成立困難であることがわかりました。
 「じ」と「ぢ」に限らず、古代日本語の発音は現代の五十音よりも多く(たとえば万葉仮名の甲類・乙類など)、今のわたしたちの発音・音韻感覚によって十把一絡げに同音だから同じ意味とすることはかなり危険が伴うのです。ここに「言素論」を利用するさいの難しさの一つがあります。(つづく)


第824話 2014/11/20

「言素論」の応用例

 「言素論」の学問的性格や方法論について説明したいと思いますが、抽象論ではわかりにくいので、なるべく具体論をあげるようにします。今回は応用例として「松」地名分析での経験を紹介します。
 語尾に「松(まつ)」がつく地名は全国にたくさんあります。たとえば有名な都市では浜松(静岡県)・高松(香川県)・小松(石川県)などです。いずれも海岸付近にあることから、何となく海岸に松林が多い所なのだろうと思っていたのですが、古田先生の「言素論」を知ってからは、考えを改めました。「松(ま つ)」の「ま」は地名接尾語の「ま」、「つ」は港を意味する「津」のことと理解できたのです。従って、地名の語幹部分は「はま(浜)」「たか(高)」「こ (小)」となります。
 「ま」が末尾につく地名は、薩摩・播磨・須磨・有馬・球磨・三潴・朝妻・鞍馬・宇摩・但馬・生駒・門真・筑摩・詫間・群馬・多摩・浅間・中間・置賜・埼玉・大間など数多くあり、これらは偶然ではなく、地名の末尾に付くべき何らかの意味を持つ言葉であることは間違いないでしょう。現在でも、土間・床の間・ 応接間・居間・隙間などのように、一定の空間・領域を意味する言葉として「ま」が使用されています。従って地名接尾語の「ま」も同様に一定領域や空間を意味すると考えられます。さらに敷衍すれば、山(やま)・島(しま)・浜(はま)・沼(ぬま)などの基本的一般名詞末尾の「ま」も語原が共通している可能性 があります。
 「つ」は現在でも大津(滋賀県)のように、港を意味する言葉として使用されています。以上の理解から、地名の末尾につく「松(まつ)」は、「ある一定領域にある港」とする理解でその多くは説明可能です。その証拠に、浜松・高松・小松の他、末尾に「松」を持つ地名の多くは海岸・湖岸・川岸付近にあり、この理解が正当であることを裏付けています。
 以上のように、「松」地名を松林が多い所とする浅薄な理解から、「言素論」により本来の意味に肉薄する深い理解が可能となるのです。これは「言素論」の応用例でも比較的成功した事例です。(つづく)


第823話 2014/11/19

「言素論」の基本前提

 古田先生が提唱され古代史研究において援用展開されている「言素論」について、古田学派内では様々な論議がなされています。特に「古田史学の会」関西例会では、その使用方法や理解をめぐって激しい論争が今も続けられています。わたし自身も「言素論」を利用して多くの仮説やアイデアを述べてきたこともあり、この「言素論」について整理する必要を感じています。そこでわたしの理解もまだ不十分ですが、「言素論」について見解をのべてみたいと思います。
 まず「言素論」成立のための基本的前提として、古代日本語の単語や文字表記において、一般的には「一字・一音節・一義」がより古い形態と考えることがあります。たとえば、「魚」という字で表記される意味はfishですが、音は「ぎょ」(音読み)と「な」「うお」「さかな」(訓読み)などがあります。この fishを意味する日本語のうち、「な」を最も古いとする、これが「言素論」の基本前提です。すなわち、「魚」という表記の訓みの「一字・一音節・一義」 が「な」なのです。
 この基本前提に基づき、「一音節」ごとに言葉を分解し、その言葉の本来の意味の構成を明らかにするのですが、同時に「どうとでも言える」という恣意性に対する批判を避けられないのです。その「どうとでも言える」という恣意性に基づいて立てられた「仮説」は危ういという批判が西村秀己さんらから出されており、それに対して「言素論」の持つ先駆性による限界をわきまえた上で、その学問的可能性を追求すべきという反論があり、わたしはこの立場に立っています。
 この対立は、賛成反対を問わず、「言素論」を古代史研究に利用しようとする論者にとって重要な問題なのですが、残念ながら十分な理解がなされないまま、 論文に「言素論」が使用されるケースが散見されます。こうした感想はわたしも西村さんも同様に抱いており、そこにおいてお互いの意見の違いはありません。 誤解を恐れず単純化すれば、「言素論」使用に対して厳格な条件を要求する西村さんと、とりあえず作業仮説(思いつき)として利用する分には、あまり厳しいことは言わないでもよいのでは、とするのがわたしです。
 もっとも西村さんが指摘されるように、「一音節」に複数の意味があるケースでは、どの意味とするのかは個人の勝手な判断となりかねず、論証抜きの恣意的な判断となる、という批判はわたしも認めるところです。たとえば「洛中洛外日記」820話で紹介しました瀬戸内海地方に散見される「○○じ(ぢ)」という 地名の「じ(ぢ)」には共通した意味があるのではないかとする、わたしのアイデア(思いつき)においても、「ぢ」を神の古名である「ち」が濁音化したものとする理解もあれば、「道」を意味する「ぢ」かもしれず、どちらが妥当かは論証の対象であり、個人の勝手な判断で論を進めるのはあまり学問的態度とは言え ません。(つづく)


第820話 2014/11/13

瀬戸内海地域の

「じ(ぢ)」地名の考察

 「洛中洛外日記」817話「姫路・淡路・庵治の作業仮説(思いつき)」で紹介しました瀬戸内海地域の「じ(ぢ)」地名のアイデア(思いつき)ですが、それを読まれた神戸市にお住まいの安田さんという方から、倉敷市に味野(あじの) という地名があることを教えていただきました。安田さんのご意見では「あじ」が語幹で、高松市の庵治(あじ)と同じではないかとのこと。わたしもそう思います。こうした、情報を読者からお知らせいただくことが多く、ありがたいことです。
 安田さんの味野のご指摘により、「○○じ(ぢ)+地名接尾語」という地名がありうることに気づきました。その視点から、改めて「じ(ぢ)」地名を探索し てみますと、たとえば但馬や田島は「たじ(ぢ)+ま」ということになり、地名接尾語の「ま」が付いた形ではないかと思われます。薩摩・須磨・播磨などの地名接尾語の「ま」です。
 この考え方が正しければ、もしかすると味野と同じ倉敷市にある児島も、「こ+島(アイランド)」ではなく、「こじ(ぢ)+ま」ではないかというアイデア (思いつき)も浮かんできました。まだ、無責任な思いつきのレベルですが、これからよく考えてみたいと思います。
 更に敷衍すれば、『日本書紀』(孝徳紀)に見える難波の「味経の宮」の「あじふ」も、「あじ+ふ」かもしれません。ただしこの場合、「ふ」の意味がまだわかりません。
 以上、「じ(ぢ)」地名の思いつきでしたが、いかがでしょうか。

〔追記〕今朝は仕事で名古屋市に来ていますが、地下鉄の路線図を見ていますと、名鉄小牧線の駅名に、味鋺(あじま)・味美(あじよし)・味岡(あじおか)と、三つも「あじ」がつく駅名がありました。この地域も「じ(ぢ)」地名が多いのでしょうか。
 大分県豊後高田市にも香々地(かかぢ)という地名があります。いかにも古く謂われがありそうな地名です。