史料批判一覧

第860話 2015/01/26

『三国志』のフィロロギー

「『後漢書』の短里混在」

 漢代では長里が採用されており、魏・西晋朝になって周代の短里(注)が復活採用されたという里単位の歴史的変遷があったため、『三国志』は短里で編纂されたにもかかわらず、前代の長里が混在しうる可能性について考察を続けてきましたが、同様の方法で『後漢書』の里単位についても「思考実験」として考えてみたいと思います。
 『後漢書』はその時代を生きた人間が編纂した『三国志』のような同時代史料ではありません。中国では、ある王朝の歴史(正史)を編纂するのは、その後の別の王朝です。その点、近畿天皇家が自らの大義名分(自己利益)に基づいて編纂した『日本書紀』などとはその史料性格が大きく異なります。このように誰が何の目的で編纂した史料なのかという視点は、文献史学における史料批判という基礎的で重要な作業です。
 この史料批判の観点からすると、『後漢書』は複雑な史料性格を有しています。それは編纂時期の問題です。後漢(25〜220)の歴史を記録した『後漢書』は南朝宋(420〜479)の范曄(はんよう、398〜445)により編纂されていますから、『三国志』(魏、220〜265)よりも前の王朝の正史でありながら、その成立は西晋(265〜316)で編纂された『三国志』(著者:陳寿、233〜297)よりも遅れるのです。このような歴史的変遷を経て、『後漢書』は成立していますから、今回のように里単位を問題とするとき、次のような論理的可能性を考えなければなりません。

 1.長里を使用していた後漢の史料をそのまま引用・使用した場合は長里となる。
 2.編纂時期の南朝宋も長里を採用していたから、漢代史料の長里記録に対して、「矛盾」や「問題」は発生しない。ただし、漢代の長里(約435m)と南朝宋の長里が全く同じ距離かどうかは別途検討が必要。
 3.従って、『後漢書』は後漢と南朝宋の公認里単位の長里により編纂されたと考えるのが基本である。
 4.ところが、後漢と南朝宋の間に存在した魏・西晋朝では短里が復活採用されており、その短里に基づいた『三国志』が既に成立している。
 5.その結果、『三国志』や魏・西晋朝で成立した記録を『後漢書』に引用・使用した場合、短里が混在する可能性が発生する。
 6.そこで問題となるのが、『後漢書』の編纂時代の南朝宋において、「魏・西晋朝の短里」という認識が残っていのたか、忘れ去られていたのかである。
 7.著者范曄の短里認識の有無を『後漢書』などから明らかにできるかどうかが、史料批判上のキーポイントとなる。
 8.もし范曄が魏・西晋朝の短里を知っていたとすれば、その短里記事をそのまま採用したのか、長里に換算したのかが問題となり、知らなければ「無意識の混在」あるいは「おかしいなと思いながらも、他に有力な情報がないため短里記事をそのまま転用(せざるを得ない)」という史料状況を示すことが推定できる。

 以上のような論理的視点を踏まえて『後漢書』の里単位を論じるのが学問的・論理的な姿勢ですが、『三国志』長里論者の諸論に、このような厳密な学問的方法に基づいて論じられたものをわたしは知りません。「洛中洛外日記」本シリーズ冒頭の851話で、「その内容が20年前当時から本質的に進展していないものも見受けられました」と述べたのは、このような実態があったからなのです。(つづく)

(注)本シリーズ執筆を契機に、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)と短里の淵源などについて、メールで意見交換を続けています。その中で、短里の淵源は殷代に遡るのではないかとの仮説が浮上しました。論証が成立したら『古田史学会報』に発表されるよう御願いしています。


第859話 2015/01/25

『三国志』のフィロロギー

  「短里混在の無理」

 『三国志』の倭人伝や韓伝のみを、あるいは東夷伝のみを「短里」とする論者がいます。いわば「短里混在」説ともいうべき立場です。『三国志』は長里で編纂されており、どういうわけか「短里」が混在するという立場ですが、これは学問的論理的に突き詰めると成立困難であることを説明します。
 『三国志』に直前の漢代に採用されていた長里が混在する論理的可能性については説明してきたところですが、これとは逆のケース、すなわち長里で編纂された『三国志』に短里が混在するとしたい場合は、直前の漢代で短里が採用されており、魏・西晋朝になって長里が採用されたとしなければなりません。そうでなければ長里の史書に短里が混在することの説明ができないからです(「千里の馬」などの永く使われてきた成語は別です)。しかし、どの立場に立つ論者も漢代は長里であるとしており、そうであれば『三国志』において「短里混在」は論理上の問題として成立できないのです。
 このように『三国志』「短里混在」説に立つ論者には肝心要の「短里が混在」した理由が学問的論理的に説明できないのです。したがって、『三国志』はオール長里とする立場(短里を認めない)に固執せざるを得ません。あるいは、倭人伝や韓伝のみ短里とか、6倍に誇張されているとする「古代中国人はいいかげんで信用できない」説という非学問的な立場におちいってしまうのです。
 自説に不都合なことや自説では説明つかないことを「どこかの誰かが間違ったのだろう。だから無視する。好きなように原文改訂する。」という姿勢は非学問的であり、古田史学・フィロロギーとは正反対の立場なのです。(つづく)


第858話 2015/01/25

『三国志』のフィロロギー「短里説無視の理由」

 本テーマから少し外れますが、なぜ古代史学界は『三国志』短里説を認めようとしないのかという質問が、1月の関西例会で姫路市から熱心に参加されている野田利郎さん(古田史学の会・会員)から出されました。学問の本質にもかかわる鋭く基本的な質問と思い、わたしは次のように説明しました。
 短里説を認めると「邪馬台国」畿内説が全く成立しないから、「古代中国人の里数や記録などいいかげんであり信用しなくてもよい。だから倭人伝の原文を好きなように改訂してよい」という非学問的な立場に立たざるを得ないのです、と。
 「洛中洛外日記」の「『邪馬台国』畿内説は学説に非ず」で説明しましたように、『三国志』倭人伝には帯方郡(今のソウル付近)から邪馬壹国までの距離を一万二千餘里と記されており、長里(約435m)では太平洋の彼方までいってしまうので、畿内説論者は倭人伝の里数は6倍ほど誇張されていると解して、里数に意味はないと無視してきたのです。このように長里では一万二千餘里は非常識な距離となり、無視するしかないのですが、短里(約78m)だと博多湾岸付近となり、邪馬壹国の位置が明確となるのです。ですから、畿内説論者は絶対に短里説(の存在)を認めるわけにはいかないのです。
 他方、北部九州説の論者の場合、短里を認めることに問題はないのですが、古田先生のように『三国志』短里説に立つ論者とは別に、倭人伝や韓伝のみを、あるいは東夷伝のみを「短里」とする論者がいます。後者は『三国志』は長里で編纂されており、どういうわけか「短里」が混在するという立場ですが、これは学問的論理的に突き詰めると成立困難な立場なのです。(つづく)


第857話 2015/01/24

『三国志』のフィロロギー

 「長里への原文改訂」

 『三国志』に長里が混在する論理性とその理由についてフィロロギーの視点や学問の方法について縷々説明してきましたが、今回はちょっと息抜きに現代中国における『三国志』の「長里への原文改訂」についてご紹介します。
 『三国志』が短里で編纂されていることは動かないものの、長里が混在する可能性やその論理性について、15年ほど前から古田先生と検討を進めていまし た。そのときのエピソードですが、『三国志』の次の記事は長里ではないかと古田先生に報告しました。
 『三国志』ほう統伝(注)中の裴松之注に「駑牛一日行三十里」とあり、短里では1日に約2.4kmとなり、牛が荷を引く距離としても短すぎるので、これ は長里の例(約13km)ではないかと考えました。このことを古田先生に報告したところ、先生は怪訝な顔をされ、その記事は「三十里」ではなく、「三百里」ではないかと言われたのです。再度わたしが持っている『三国志』(中華書局本。1982年第2版・2001年10月北京第15次印刷)を確認したのですが、やはり「三十里」とありました。ところが古田先生の所有する同書局本1959年第1版では「駑牛一日行三百里」とあるのです。最も優れた『三国志』 版本である南宋紹煕本(百衲本二四史所収)でも「三百里」でした。なんと、中華書局本は何の説明もなく「三十里」へと第2版で原文改訂していたのでした。
 この現象は、現代中国には「短里」の認識が無いこと、そして長里の「三百里」では約130kmとなり、牛の1日の走行距離として不可能と判断したことが うかがえます。その結果、何の説明もなく「三百里」を「三十里」に原文改訂したのです。こうした編集方針の中華書局本を学問研究のテキストとして使用することが危険であることを痛感したものです。同時に、「駑牛一日行三百里」が『三国志』が短里で編纂されている一例であることも判明したのでした。
 この例を含めて『三国志』等に混在した「長里」「短里」について考察した次の拙稿が本ホームページに収録されていますので、ご参照下さい。(つづく)
 古賀達也「短里と長里の史料批判 —  『三国志』中華書局本の原文改定」(『古田史学会報』No.47、2001年12月)
 ※(注)ほう統伝のホウは、广編に龍。


第856話 2015/01/22

『三国志』のフィロロギー

   「上表文の長里」

 魏・西晋朝で採用された短里により『三国志』を編纂するという困難な任務を陳寿が行うにあたり、おそらく大きな問題の一つが、直前の漢代まで使用されていた長里により記録された史料をそのまま引用するか、短里に換算するべきかを考え抜いたことと思います。『三国志』のように里単位変更の前後を含む時代の正史編纂にはこうした課題は避けられません(里単位以外にも暦法や度量衡でも同様の問題が発生します)。
 前話までは短里で編纂された『三国志』に、長里が混在する可能性とその考えうるケースを論理の視点から解説しました。そこで、今回はそうした論理性に基づいて、『三国志』の長里記事の有無を具体例を挙げて解説します。
 1月の関西例会で正木裕さんから「魏・西晋朝短里」は揺るがないとする発表があり、その中で『三国志』の中の長里ではないかと考えられる記事と、なぜ長里が混在したのかという考察が報告されました。そして次の記事について長里ではないかとされました。

 「青龍四年(中略)今、宛に屯ず、襄陽を去ること三百餘里、諸軍散屯(後略)」(王昶伝、「魏志」列伝)

 この「三百餘里」が記された部分は王昶(おうちょう)による上表文の引用ですが、正木さんは「これは王昶の『上表文』の転記であり、魏の成立以前(漢代)から仕えていた王昶個人は長里を用いていたことがわかる。」とされました。
 それに対して、わたしは上表文という公式文書に長里が使われるというのは納得できないと批判したのですが、その後、魏ではいつ頃から短里に変更したのかという質問が参加者から出され、西村秀己さんが暦法を変更した明帝からではないかとされたことに触発され、この上表文が短里への変更以前であれば長里の可能性があることに気づいたのです。
 明帝の暦法変更時期について、暦法や中国史に詳しい西村秀己さんに調査を依頼したのですが、わたしも少しだけ調べたところ、明帝は景初元年(237)に「景初暦」を制定したようですので、もしこのときに短里が公認制定されたとすれば、王昶の上表文が出されたのはその直前の青龍四年(236)ですから、「三百餘里」が長里で記載されていても矛盾はありません。もしそうであれば、陳寿は上表文の文面についてはそのまま『三国志』に引用し、短里に換算することはしなかったことになります。もっとも、この「三百餘里」を短里とする理解もありますので、まだ断定すべきではないのかもしれません。
 詳しくは西村さんの研究報告を待ちたいと思いますが、魏を継いだ西晋朝の歴史官僚である陳寿はその上表文(あるいはその写本)を見た上で(見なければ『三国志』に引用できません)、皇帝に提出された上表文の文章は変更することはしないという編纂方針を採用したことになります。このように、短里で編纂された『三国志』に長里が混在する可能性について、具体的に個別に検証し、フィロロギーの方法によってその理由を明らかにしていくこと、これが学問なのです。すなわち、「学問は実証よりも論証を重んじる」(村岡典嗣先生)のです。(つづく)


第855話 2015/01/21

『三国志』のフィロロギー「長里混在の理由」

 『三国志』編纂時代(西晋朝)の公認里単位は短里であっても、漢代の公認里単位である長里が混在しうる論理性については、既に述べた通りですが、それでは『三国志』の中に長里が混在するとしたら、それはどのようなケースでしょうか。今回はこの問題について学問的・論理的に考察したいと思います。なお、ここでわざわざ「学問的・論理的」と断ったのには理由があります。
 「古代の中国人などいいかげんだから、史書に短里や長里が混在しても不思議ではない」として、「『三国志』は里単位など無視・無関心に編纂された」とする「論法」や「理解」で済ませてしまうケースがあるからです。これは倭人伝の「邪馬壹国」は「邪馬台国」の間違い、「南」は「東」の間違いとして、全て古代中国人(陳寿や書写者)のせいにし、自説に都合よく原文改訂をして済ませてきた従来の古代史学界と同じ「論法」であり、学問的ではありません。歴史学は学問ですから、「どこかの誰かが間違えたのだろう」などという非学問的な「論断」ではなく、学問的・論理的に考えて論証しなければなりません。
 ということで、『三国志』にもし長里が混在するとすれば、どのような場合なのかを学問的・論理的に考えてみます。先日の関西例会でも正木裕さんから、同様の問題提起があり、長里が混在する場合の理由についての報告がありました。そのときの正木さんの意見も含めて、次のようなケースが考えられます。

(1)2定点(出発地と到着地の具体的地名)が示されない「里数値」の場合です。陳寿自身もそれが短里による記録なのか、長里による記録なのかが不明な史料に基づいて引用した可能性があり、長里により記された史料を短里に換算せずに『三国志』に使用した場合。
(2)漢代成立の、あるいは魏朝が短里を公認する前の手紙や上表文、会話記録にあった里数値(長里)をそのまま『三国志』に引用した場合(引用せざるを得ない場合)。
(3)長里により成立した「成語」の場合。短里による成語である「千里の馬」(1日に千里走れる名馬)とは逆のケースです。
(4)長里を使用していたと考えられる呉や蜀で成立した記録をそのまま引用せざるを得ない場合。たとえば手紙や会話記録の引用です。
(5)極めて短距離であり、陳寿自身も長里か短里か判断できない記録を引用した場合。

 この他にもあると思いますが、このようなケースにおいては、『三国志』に長里が混在する可能性があります。もちろん、その場合でも陳寿は歴史官僚として公認の短里で『三国志』を編纂するという基本姿勢を貫いたはずです。おそらく長里記事をどのように引用・記載すべきか、天子に進呈する正史にふさわしい編纂方針を考え抜いたことでしょう(短里に換算するべきか、そのまま記載するべきかなど)。正史編纂を任された歴史官僚であれば当然です。このように作者の気持ち(立場)になって、史料を再認識する学問の方法こそ、古田史学の方法でありフィロロギーという学問なのです。(つづく)


第852話 2015/01/15

『三国志』のフィロロギー

    「陳寿の認識」

 魏王朝が周の時代の古制を王朝の大義名分として引き継ぎ、その里単位として周代の短里(約78m)を漢代の長里(約435m)に替えて公認したことが古田先生の研究で明らかとなっています。従って、『三国志』の著者陳寿自身は青年時代を「長里の時代の蜀地方」で過ごしているようですが、その後、『三国志』の編纂にあたっては魏・西晋朝の大義名分にそって正史に短里を採用するのは当然です。
 また、長里から短里への変更という歴史時間帯を生きてきたことから、正史に記載する里単位に無関心であったとは到底考えられません。作者(陳寿)の立場(気持ち)になってその史料を再認識するというフィロロギーの学問の方法論をご理解いただいている読者であれば、このことに御賛同いただけることと思います。これは学問の方法論の基礎的な問題でもありますから。(つづく)


第851話 2015/01/14

 『三国志』のフィロロギー

     「短里の論理」

 賀詞交換会において古田先生が『三国志』の短里や行程について触れられました ので、近年の短里に関する諸論稿にざっと目を通しました。すべての論稿を読んだわけではありませんが、その内容が20年前当時から本質的に進展していないものも見受けられました。そこで、わたし自身の認識の整理見直しも含めて、『三国志』の短里問題について、フィロロギーの視点から見解を述べてみます。
 まず文献史学における研究の手続きとして、史料批判や史料性格の分析が不可欠ですが、『三国志』は古田先生が繰り返し指摘されてきたように、魏王朝の歴史を綴った「正史」であり、かつ三国時代の呉や蜀の歴史も綴られています。『三国志』と命名されたゆえんです。しかも魏を継いだ次王朝の西晋により編纂さ れており、同時代史料とみなされ、信頼性の高い史書です。著者の陳寿も歴史官僚としての高い能力や品性の持ち主であったことが、古田先生により紹介されて います。
 王朝にとって度量衡の統一や施行は、収税や調達、他国との交渉・戦争などにとっても不可欠な行政課題です。ですから魏王朝も当然のこととして、長里であれ短里であれ「里単位」を決定し、その使用を国内(国家官僚・地方役人)に指示したはずです。『三国志』にそうした「里単位」の制定記事がないことをもっ て、里単位の制定・統一はされなかったとする論者もおられるようですが、こうした理解は王朝(権力者)の支配意志を軽視したものであり、学問の方法論上でも誤りがあります。
 すなわち、史料などに「ある事物」の記載があれば、史料事実としてその事物が「存在した」とする根拠に使えますが、不記載・無記載をもって、「存在しない」という根拠には使えないのです。「存在」証明は史料中に一つでも証拠(記載)があればとりあえず可能ですが、「不存在」証明はよほど好条件に恵まれない限りできません。この理屈は自然科学でも同様です。これは学問の基本的な考え方なのです。
 従って、『三国志』に「里単位の制定」記事がないことをもって、魏王朝が統一した里単位を公認制定しなかったとは論理の問題としてできないのです。どうしても存在しなかったことにしたい論者は、「史料に記載が無いことはその時代に存在しなかった」という証明が必要です。逆から言えば、三国時代に存在した制度や事物は全て『三国志』に記載されている、という証明が要求されるのですが、そのようなことがあるはずがなく、証明できるとも思われません。むしろ、王朝(国家権力者)である以上、里単位の公認制定を行ったと考えるのが、国家や歴史に対する真っ当な理解なのです。くりかえしますが、たとえば現代の百科事典に記載されていない事物は現在の世界に存在しない、などという理屈は通用せず、そのような主張は学問的ではありません。(つづく)


第850話 2015/01/10

平成27年、賀詞交換会のご報告

断念  古田武彦
(『ギリシャ行き』2015.2.13)

お詫びと訂正

 「洛中洛外日記」850話に収録しました賀詞交換会における古田先生の「講演概要」に不正確な内容がありました。河西良浩様、寺坂国之様にお詫び申し上げ、当該部分を削除いたします。なお、当「講演概要」の文責はわたしにあります。

                古賀達也(2015.01.23)

 今日は古田先生とご子息の光河(こうが)さんをI-siteなんばにお迎えして、新年賀詞交換会を開催しました。竹村順弘さん(古田史学の会・全国世話人)と服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)にご自宅までクルマで古田先生を送迎していただきました。

 杉本三郎さん(古田史学の会・会計監査)の司会で賀詞交換会は始まりました。冒頭に水野代表から新年の挨拶があり、「古田史学の会・東海」の竹内強会長(古田史学の会・全国世話人)、中国曲阜市から一時帰国されている青木英利さん(古田史学の会・会員)からご 挨拶をいただきました。その後、服部静尚さんから『古代に真実を求めて』の発刊予定や特集テーマについての報告がありました。
 以下、古田先生の講演の概要を紹介します。(文責:古賀達也)

【古田先生講演】
 本日はこのような場を作っていただき、ありがとうございます。昨年11月に長野県の松本深志高校で講演したばかりなので、それと同じ内容になるのかと思っておりましたが、新たなテーマが続出しましたので、それをお話ししたいと思います。

 まず九州年号の問題ですが、『二中歴』に載っている九州年号が画期的であると思っています。『二中歴』では 九州年号が700年に終わり、701年に文武天皇の年号(大宝)に続いていますが、この701年こそ、「評」が終わり「郡」に変わった年であり、これは偶 然の一致ではなく、『二中歴』が示した内容が真実であり、九州年号は歴史事実である。従って、九州年号を制定した九州王朝もリアルである。これは確定論証である。九州王朝が存在しなかったことにしている『古事記』『日本書紀』こそ間違っていたことになる。

 神籠石についても、山城説が発掘調査により明らかとなっており、単なる霊域てはなく軍事施設である。堀や木柵が発見されており、山城であることは間違いない。その分布も福岡県・佐賀県などが中心であり、近畿が中心ではない。この神籠石山城の分布の中心に権力者 がいたことになる。この防衛施設が『日本書紀』には全く書かれていない。書き忘れたのではなく、実在した九州王朝をなかったことにする近畿天皇家側の御用 史書である。

 次のテーマは阿蘇山である。『隋書』イ妥国伝には「阿蘇山あり」と書かれている。この7世紀前半の時代が近畿天皇家中心であれば、近畿・奈良県までの道程が書かれていなければならない。ところが、瀬戸内海領域や、あるいは日本海岸からのコースなど全く書かれて いない。一切ない。うっかりミスで書かれていないとするのは、歴史学の方法ではない。ということは、『隋書』イ妥国伝に記された権力者は近畿中心ではなく、筑紫・山口県中心の権力者である。中国の西安から見て、阿蘇山があり、その手前に神籠石がある。これを『隋書』イ妥国伝は描写している。これを否定するのは勝手だが、それは御用史学である。
 有名な「日出ずる処の天子」は近畿の推古天皇(女性)でも聖徳太子(皇子)でもなく、九州王朝の多利思北孤(男性・天子)である。『隋書』は同時代の史料に基づいて編纂された史書である。ところが、「日出ずる処の天子」を近畿天皇家の人物として教科書は作られており、今日まで謝りもせずに間違ったままで ある。

 『隋書』イ妥国伝の記事「婦、夫の家に入るや、必ず先ず犬(火)を跨ぎ、乃ち夫と相見ゆ。」と岩波文庫では原文の「犬」に「(火)」を付記している。確かに日本には「火」をまたぐ風習があったとされているが、「犬」も古くから人間とのつきあいがあり、『隋書』 の原文通り「犬」でもよいのではないか。旧石器時代から犬と人間は共存してきたのであり、「犬をまたぐ」とは、犬が新しい仲間と認めたという「儀式」では ないか。
 インターネットに面白い記事がありました。「犬神の由来」という記事によると、犬を埋めて首だけ出しておき、その後に犬の首を切るというような嫌な話しです。「犬神」という姓がありますが、姓にするほどですから「犬神」とはそんな嫌らしい説話から付けられたものではなく、犬との共存共栄の歴史から、神聖視されたのではないか。
 昨日気づいたことだが、『三国志』に狗奴国とありますが、狗奴国の「狗」は犬のことであり、神聖な種族だから狗奴国という国名が付けられたのではない か。倭人伝にある対海国・一大国の長官が「卑狗」とされており、この「狗」も神聖な犬が背景にあるのではないか。
 さらに志賀島の金印の「委奴国」も訓みは「いぬ国」であり、「犬(いぬ)」と関係するのではないか。漢が「いぬ」を神聖視した集団に与えたのが「漢委奴国王」印ではなかったか。というようなところまで話しが進んできました。昨日考えた話しなので断言はしませんが、そういうテーマに遭遇しました。

 最後に申し上げたいテーマがあります。一つは『東日流外三郡誌』という『古事記』『日本書紀』に匹敵する本がありますが、これの寛政原本がまだ「発掘」されていませんので、公的な組織(五所川原市など)で調査「発掘」する必要がある。そのための国立の歴史研究 所を作るべきである。本来の持ち主である安倍家(安倍総理)で調査保管してほしい。

 秋田孝季が言っているように、この世の中のものには始まりがあります。宗教も国家も始まりがあり、現在に至っている。宗教や国家に「人間を殺す権限」を与えたのが諸悪の根元である。人間が国家・宗教を作ったのであり、その国家・宗教にばかばかしいほどの権限を与えている。そんな権限は断固拒否すべきである。この問題が現代の最大の問題である。人間が作った国家・宗教に人間を殺す権利を与えてはならない。
 さらに言えば、神と悪魔は同一体ではないか。前が神で後ろが悪魔であり、同一体ではないか。そのような虚像で引っ張り回される時代はもう過ぎたのではないか。

 補足としてギリシアの話しをしておきたい。ギリシア神話をわれわれは知っているが、よく見てみると不思議なことがあります。アポロの神はオリンポスの山に帰るとされていますが、オリンポスはギリシアの北側にあり、南のアテネから北へ太陽神アポロが帰るというの はおかしい。アポロはオリンポスの真東にあるトルコのトロイから出発したのではないか。そうであれば、ギリシア神話ではなくトロイ神話となる。
 『古事記』『日本書紀』が九州王朝神話を取り込んで自らの神話としてすり替えたのと同様に、ギリシア神話もトロイ神話の盗作ではないか。そのトロイ神話をわれわれはギリシア神話として覚えさせられている。滅ぼされた古い王朝の歴史や神話を取り込んで利用するという手法が日本でもギリシアでも使われているのである。
 バイブル冒頭の長寿年齢記事も異なる暦を使用していた古い文明の説話を盗用した痕跡である。
 こうしたことを調べるためにも、ギリシアを訪問して史料調査を行いたい。わたしは反キリスト教でも反イスラム教でもない。イエスもマホメットも親鸞もすばらしい人物であり、わたしは尊敬しているが、尊敬されている人物に対する余計な侮辱が、はたして「表現の自由」なのか。襲撃されたパリの新聞社のことをよく知らないが、わたしは疑問に感じる。
 わたしはもう永くはない。後はみなさんによろしくお願いしたい。(拍手)

【質疑応答】
(問)日本の縄文宗教には「地獄の思想」はないと何かの本で読んだことがあるが、本当でしょうか。
(古田)親鸞の思想には地獄があります。親鸞はその地獄思想をさらに高い立場から乗り越えている。これがすばらしい。「地獄思想」に騙されないということが大事ではないか。
(問)仏教以前の宗教には「地獄の思想」がないとされているが、どうか。
(古田)仏教以前としては『祝詞』があり、そこには味方が犯した罪や敵の罪を「水に流し」て乗り越えるという思想が記されている。原爆投下というアメリカの戦争犯罪を忘れるのではなく、罪を明確に認めた上でそれを乗り越える思想が大切である。

 質疑応答の最後に古賀から、『三国志』における長里と短里の混在という主張に対して、『三国志』を編纂した 西晋の陳寿は、長里から短里に変更した王朝の歴史官僚であり、「短里」に変更した大義名分にそって『三国志』を編纂したはずであり、その陳寿や晋王朝が短 里と長里の混在に気づかない、あるいは気にしないとは考えられないと指摘しました。

 講演終了後に、古田先生と光河さんと共に参加者全員で記念写真を撮り、閉会となりました。先生と光河さんを竹村さんがご自宅まで送り、残った希望者により懇親会を開催しました。今日は今宮戎のお祭り(十日戎)で、会場周辺は夜遅くまで賑やかでした。今年も「古 田史学の会」にとって良い一年となりそうです。


断念  古田武彦

   一
 「『ギリシャ行き』を断念した。」
 今年(二〇一五)の二月一日(日曜日)、日本人二名(湯川遥菜・後藤健二氏)殺害の報道が発表された、その瞬間だった。
 わたしはすでに「ギリシャ行き」にO.Kの立場をとっていた。「もし、余命があるならば」の要望だった。直ちに和田マサミ(多元)さんから反応があり、 東京古田会・古田史学会等からも加わり、すでに三十数名を越えていた。しかし「人のいのちには代えられない。」わたしには迷いはなかった。

   二
 昨年の八月十八日(月) わたしは妻(泠子)を失った。午後一時四十分、桂病院である。長男(光河)と共に住むこととなった。余命のある限り、研究と執筆に全力で朝夕をすごしている。

  二〇一五、二月八日(日曜日)筆了


第847話 2015/01/02

吉田松陰書簡の思い出

 今年のNHK大河ドラマは吉田松陰の妹、杉文(すぎ・ふみ)を主人公とした「花燃ゆ」で、女優の井上真央さんが演じられます。大河ドラマも幕末や戦国時代ばかりではなく、いつの日かは古代や近代も取り上げてもらいたいものです。
 吉田松陰は歴史上の偉人として尊敬する人物の一人ですが、20年ほど前に、わたしは吉田松陰書簡など江戸時代の史料を集中して読んだことがありました。 それは和田家文書偽作キャンペーンに対抗するのに、江戸時代研究の必要があったためで、具体的には江戸時代の「藩」表記についての調査が目的でした。
 当時、和田家文書偽作論者から、和田家文書には「藩」という表記があるが、江戸時代に「藩」という行政単位名は無く、従って和田家文書は現代人が書いた偽作であるという批判がなされました。松田弘洲氏の『歴史読本別冊 古史古伝論争』所収「『東日流外三郡誌』にはネタ本がある」(1993年12月)や『季刊邪馬台国』55号誌に掲載された「やはり『古田史学』は崩壊する」という論文です。
 松田氏は「『東日流外三郡誌』にはネタ本がある」において、「江戸時代に津軽藩とか、三春藩などと称することはなかった。読者は手元の辞典を引いて、大名領をいつから“藩”と表記したか確認したらよろしい。」として、和田家文書を偽作とされたのですが、わたしはこの「批判」に接したとき、「はあ?」というのが第一印象でした。というのも、わたしの乏しい江戸期史料の知識でも、「藩」表記は頻繁に目にしていたからです。そこで、持っていた『吉田松陰書簡』 などにある「藩」表記を再確認し、「藩」表記は江戸時代成立の文書にいくらでもあると反論したのです。本ホームページ掲載の下記の拙稿をご参照ください。

「偽書説と真実 真偽論争以前の基礎的研究のために」『古田史学会報』創刊号(1994年6月)
「知的犯罪の構造 『偽作』論者の手口をめぐって」『新・古代学』2集(新泉社、1996年)

 こうした論争を経験していましたので、今年の大河が吉田松陰の妹を主人公にしたことを知って、わたしは20年前に読み返 した『吉田松陰書簡』のことを思い出したのです。ちなみに、わたしからの史料根拠を提示しての具体的な反論に対して、松田氏も『季刊邪馬台国』編集部(安本美典責任編集)も「だんまり」を決め込み、某新聞社のように、論文(誤論・誤解)の撤回も訂正も謝罪も行わないまま、その後も延々と偽作キャンペーン (個人攻撃・人格攻撃)を続けました。それは、およそ学問的態度とは言い難いものでした。
なお、ご参考までに江戸期史料に見える「藩」表記の例をご紹介します。

○「吉田松陰書簡」嘉永四・五年、兄の杉梅太郎宛書簡
「肥後藩」「御藩之人」「本藩」
○根岸鎮衛(1737-1815)『耳嚢』
「会津の藩中」「尾州藩中」「佐竹の藩中」
○新井白石『折たく芝の記』(1716年成立、自筆原本現存)
「藩邸」
○「新井白石書簡」(『新井白石全集』より)
「賢藩」「加藩」※いずれも加賀藩のこと。
○杉田玄白『蘭東事始』(1815年成立)
「藩邸」「我藩」「藩士」「藩医」


第845話 2015/01/01

百済武寧王陵墓碑が出展

 みなさま、あけましておめでとうございます。
 実家の久留米に帰省し、毎日のんびりとテレビを見ています。さすがに地元だけあって、HKT48が頻繁にテレビ出演しています。更に元日から開催される九州国立博物館の「古代日本と百済の交流 大宰府・飛鳥そして公州・扶餘」の告知コマーシャルもよく目にします。特別展示として七支刀(期間限定 1/15~2/15)や百済武寧王陵墓碑が出展されるとのこと。3月まで開催されるようですので、是非、拝見したいものです。
 特に武寧王陵墓碑は見てみたいと願っています。というのも、墓碑に記された武寧王の没年干支を確認したいのです。通常、同碑文の没年干支は「癸卯」 (523年)と紹介されることが多いのですが、実は古田先生等が1998年に同碑文を実見されたところ、干支部分は改刻されて「癸卯」とされていますが、 本来の原刻は「甲辰」であることを発見されたのです。すなわち、干支が一年ずれているのです。このことについて、わたしは『古田史学会報』31号 (1999年4月)において、「一年ずれ問題の史料批判 百済武寧王陵碑『改刻説』補論」として報告しました。本ホームページに掲載していますので、ご覧ください。
 韓国国宝の同墓碑が国内で見られるとは思ってもいませんでしたので、何とか展示期間中に九州国立博物館を訪れ、この目で見てみたいものです。

(後記)JR久留米駅で入手した観光案内パンフレット「太宰府天満宮&九州国立博物館」に「古代日本と百済の交流 大宰府・飛鳥そして公州・扶餘」の紹介があり、そこに「武寧王墓誌」の写真が掲載されていました。その写真をよく見ると、「癸卯」の二字部分が少し 削られて、へこんでいることがわかります。もちろん、このことを知らなければ気づかない程度ですが、写真でもわかるのですから、実物を直接見れば、削られ た原刻の「甲辰」という字の痕跡を確認できると思います。


第841話 2014/12/21

2014年の回顧

   「関西例会」

 2014年における「古田史学の会」での優れた研究は『古田史学会報』に掲載されたもの以外にも、「関西例会」で発表された研究にも少なくありません。わたしの記憶に残っている特に優れた例会発表についても解説したいと思います。
 まず発表件数ですが、毎回、古田先生近況や会務報告とご自身の研究を報告されている水野代表は別格としても、服部静尚さん(八尾市)の22件が際だっています。次いで正木裕さん(川西市)の14件で、両者の発表件数が群を抜いていますし、研究水準も高いものでした。以下、岡下英男さん(京都市)の7件、萩野秀公さん(東大阪市)・西村秀己さん(高松市)・出野正さん(奈良市)・古賀(京都市)の6件と続いています。最も遠方からの発表者は中国曲阜市の青木英利さんでした。
 皆さん研究熱心で、「古田史学の会」や古田学派の研究活動を牽引されています。いずれも甲乙つけ難い研究内容ですが、最も印象強く残っているのが安随俊昌さん(芦屋市)が7月に発表された「『唐軍進駐』への素朴な疑問」でした。「洛中洛外日記」748話で紹介しましたが、『日本書紀』天智10年条(671)に見える唐軍2000人による倭国進駐記事について、安随さんによれば、この2000人のうち1400人は倭国と同盟関係にあった百済人であり、600人の唐使「本体」を倭国に送るための「送使」だったとされたのです。すなわち、百済人1400人は戦闘部隊(倭国破壊部隊)ではないとされたのです。
 この安随説は論証が成立しており、もし正しければ白村江敗戦以降の倭国(九州王朝)と唐との関係の見直しが迫られます。すなわち、数次にわたり筑紫に進駐した数千人規模の唐軍が倭国を「軍事制圧」していたという認識に基づいた諸仮説が成立困難となるかもしれないからです。
 このように、従来の研究の見直しをも迫る安随説は、2014年の関西例会で最も気になる研究発表だったのです。『古田史学会報』での発表が待たれる所以です。
 最後に、例会後の懇親会の幹事を担当していただいている西井健一郎さん(古田史学の会・全国世話人)のご尽力にも触れなければなりません。どんなに激しい論争があっても、懇親会で酌み交わすお酒のおかげで関西例会は長く続けられています。こうしたことも「古田史学の会」の大切な目的です。