史料批判一覧

第1031話 2015/08/22

多元的「国分寺」研究のすすめ(1)

 このところ、「洛中洛外日記」やメールで進めている多元的「国分寺」研究ですが、学問の方法ともかかわって多方面への進展波及が進んでいます。古田学派における学問研究の方法、進め方についても意見を交わしており、ネット社会ならではの学問環境と言えそうです。
 このテーマに関して会員の皆さんからメールをいただいており、たいへんありがたく思っています。「お詫びメール」もときおりいただくのですが、学問研究途上の「過誤」は発生するのが当たり前で、特に誰もやっていない最先端研究は理系文系を問わず、失敗や誤りがあるのが当たり前で、そのことで学問研究が発展するのです。「答え」が無い最先端研究で苦しんだ経験をお持ちの方ならご理解いただけるはずです。
 わたしも企業の製品開発で納期に追われ成果を要求される「地獄の苦しみ」を何年も味わい、体調がおかしくなるほどでした。しかも企業機密のため、誰にも相談できないし、誰もやっていない開発ですから、社内に相談する相手もいないという孤独な毎日でした。ですから「STAP報道事件」で、そのような最先端研究の苦しみなど味わったこともないマスコミや評論家が小保方さんや笹井さんを犯罪者であるかのごとくバッシング(集団リンチ)を続けるのを見て、心から憤ったものです。
 昨日も、肥沼孝治さん(古田史学の会・会員、所沢市)から「お詫び」メールをいただきました。「法隆寺」の方位がネット検索により「7度西偏」と紹介したが、自ら文献などで調査したところ、3〜4度であったとのことでした。しかも、肥沼さんは法隆寺に直接電話して確認され、わたしに報告されたのでした。こうした「聞き取り調査」は現地調査に準ずるもので、立派な研究姿勢です。
 わたしからは、ネット検索は概略をおさえる程度のもので、学問的には実地調査や学術論文に依らなければならないと返信しました。いわばネット検索は「広く周囲の意見を聞く」という作業であり、それらの意見が妥当かどうか、仮説として検証するに値するかどうかは、別の問題です。ですから、不十分な「情報」や誤った「情報」があることも当然です。専門家の学術論文でも誤りがあることも少なくありませんから、このリスクは避けられません。しかしそれでも「広く周囲の意見を聞く」(今回は「ネット検索」)という作業は学問研究にとって大切な作業であり、それにより早く真実に近づくことも可能となり、自らの誤りにも気づきやすいという学問上のメリットがあります。「例会」活動にもこうした目的や利点があります。
 次に研究・考察過程を「洛中洛外日記」のようなブログでリアルタイムに発信する目的やメリットについて説明します。(つづく)


第1012話 2015/08/02

『「邪馬台国」論争を超えて』(仮称)の

「はじめに」

 昨日、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)と服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)が見えられ、9月6日に開催する『盗まれた「聖徳太子」伝承』出版記念東京講演会(東京家政学院大学千代田キャンパス)の打ち合わせなどを行いました。
また、ミネルヴァ書房から発行が予定されている『「邪馬台国」論争を超えて -邪馬壹国の歴史学-』(仮称)の編集についても検討を進めました。当初予定していた論稿に加えて、野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)の論文を新たに収録することも確認しました。
 巻頭に掲載する「はじめに」をわたしが書くことになっていましたので、昨日急いで書き上げ、服部さんに提出しました。今後、修正するかもしれませんが、ここに「はじめて」をご紹介します。年内の出版を目指していますが、会員には割引価格で提供することを検討しています。
 古田先生の講演録をはじめ、会員による論文などを収録しています。なかなかよい本になっていますので、ご期待ください。

 

はじめに

   古田史学の会・代表 古賀達也

 昭和四六年(一九七一)十一月、日本古代史学は「学問の夜明け」を迎えた。古田武彦著『「邪馬台国」はなかった 解明された倭人伝の謎』が朝日新聞社より上梓されたのである。この歴史的名著はそれまでの恣意的で非学問的な「邪馬台国」論争の風景と空気を一変させ、学問的レベルをまさに異次元の高みへと押し上げた。
 それまでの「邪馬台国」論争における全論者は『三国志』倭人伝原文の「邪馬壹国」を「邪馬台国」と論証抜きで原文改訂(研究不正)してきた。邪馬壹国ではヤマトとは読めないから「邪馬台国」と原文改訂し、延々と「邪馬台国」探しを続けてきたのである。それに対して、古田氏は原文通り「邪馬壹国」が正しいとされ、古代史学界の宿痾ともいえる、自説の都合にあわせた論証抜きの原文改訂(研究不正)を厳しく批判されたのである。
 また、帯方郡(ソウル付近)から女王国(邪馬壹国)までの距離が倭人伝には「万二千余里」とあり、一里が何メートルかがわかれば、その位置は自ずと明らかになる。そこで古田氏は『三国志』の記述から実証的に当時の一里が七五〜八〇メートル(魏・西晋朝短里説の提唱)であることを導きだし、その結果、「万二千余里」では博多湾岸までしか到達せず、およそ奈良県などには届かないことを明らかにされた。
 さらには倭人伝の記述から、倭人が南米(ペルー・エクアドル)にまで航海していたという驚くべき地点へと到達された。その後の自然科学的研究や南米から出土した縄文式土器の研究などから、この古田氏の指摘が正しかったことが幾重にも証明され、今日に至っている。
 こうした古田氏の画期的な邪馬壹国博多湾岸説は大きな反響を呼び、『「邪馬台国」はなかった』は版を重ね、洛陽の紙価を高からしめた。その後、古田氏の学説(九州王朝説など)は古田史学・多元史観と称され、多くの読者と後継の研究者を陸続と生み出し、今日の古田学派が形成されるに至ったのである。
本年、古田氏は八九歳になられ、今なお旺盛な研究と執筆活動を続けておられる。名著『「邪馬台国」はなかった』が世に出て既に四四年の歳月を迎えたのであるが、その邪馬壹国論の新段階の集大成として、本書は古田氏の講演録・論文とともに、氏の学問を支持する古田学派研究者による最先端研究論文を収録した。『「邪馬台国」はなかった』の「続編」として、百年後も未来の古田学派の青年により本書は読み継がれるであろう。
 最後に『「邪馬台国」はなかった』の掉尾を飾った次の一文を転載し、本書を全ての古田ファンと古田学派に送るものである。(二〇一五年八月一日)

今、わたしは願っている。
古い「常識」への無知を恥とせず、真実への直面をおそれぬ単純な心、わたしの研究をもさらにのり越えてやまぬ探求心。--そのような魂にめぐりあうことを。
それは、わたしの手を離れたこの本の出会う、もっともよき運命であろう。


第1004話 2015/07/21

猪垣(ししがき)と神籠石

 今日は久しぶりの北陸出張です。特急サンダーバードの車窓から湖西線沿いに電気柵が設置されているのが見えました。静岡県で鹿除けの電気柵で感電死事故が発生するという痛ましいニュースが流れたばかりでしたので、特に目に付いたのかもしれません。
 湖西線沿線や比叡山付近にはお猿さんが出没し、農作物被害を受けているとの話を聞いたことがあります。日枝神社ではお猿さんを神様の使いとしていますから、周辺住民も駆除しにくいのかもしれません。日本の信仰では動物が神様の使いとされたり、神様の化身とされるケースが少なくなく、たとえば奈良の春日大社の鹿なども有名です。もっとも現在は「神様のお使い」としての役割以上に「観光資源」として鹿さんたちは役立っていますから、少々の被害は目をつぶることになります。また、アイヌの「熊」も同様の例と言えるでしょう。
 現在は電気柵で獣害から農作物を守っていますが、昔は石積みの「猪垣(ししがき)」を巡らしてイノシシによる作物被害を防いでいました。今でも和歌山県熊野地方には長蛇の猪垣が山中や人里に連なっています。以前、古田先生や小林副代表らと熊野山中の猪垣を見学に行ったことがあります。古田先生はこの猪垣を神籠石のような山城の防壁跡ではないかと考えられ、現地見学となったものですが、実際に見てみますと高さも低く、石積みも堅牢とは言い難いもので、これでは敵の侵入を防げるものではないことがわかりました。やはり、ずっと昔から農家が累々とイノシシ除けに築造した「猪垣」だと思われました。小林さんも同意見だったようです。
 猪垣は山から降りてくるイノシシの田畑への侵入防御施設ですから、平地から攻めてくる敵軍の山城への侵入防御を目的としている神籠石とはその構造が全く異なります。すなわち、防御する向きと、「敵」がイノシシなのか武装集団なのかという防御対象も全く異なりますから、その構造が異なるのは当然です。
神籠石は大きな列石とその上に築かれた版築土塁、更にその上には柵が巡らされており、下からの侵入が困難な構造です。対して猪垣は山から降りてくるイノシシが超えられない程度の高さの積石による石垣と、山側にはイノシシを捕まえるための「落とし穴」が設けられています。
 「猪垣」調査のときは私自身の不勉強もあって、その差を十分には理解できていませんでしたが、最近の古代山城の研究により、こうした認識にまでようやくたどり着けました。引き続き、勉強していきたいと思います。なお、小林副代表は「猪垣」調査時点で既にこうした差異に気づかれていたようです。


第997話 2015/07/09

老松堂の韓国内陸行

 先日、名古屋で「古田史学の会・東海」の竹内会長らと懇談したとき、倭人伝の行程記事における「韓国内陸行」が話題に上りました。そのおり、後代史料ですが朝鮮通信使の記録『老松堂日本行録』を紹介し、その通信使節が韓国内を陸行していることを説明しました。
 わたしが岩波文庫から出されている『老松堂日本行録 朝鮮通信使が見た中世日本』を読んだのは25年ほど昔のことですが、同書は李氏朝鮮の文官「宋希環(老松堂)」が通信使として来日したときの記録で、1420年、朝鮮の首都漢城(今のソウル)を出発した通信使節団が日本に来るとき、朝鮮半島内は内陸部を斜めに縦断(陸行)していたことが、その記録(地名)からわかります。古代も中世も国家使節団は半島内を斜めに陸行しているのです。現在の地図で確認してもその行程が韓国内の幹線道路とほぼ重なっていますし、わたしも韓国出張のとき、同様のルートを高速道路で移動した経験がありますので、よく納得できます。
 逆に、朝鮮半島の西岸を「水行」するのは、大勢の犠牲者を出したフェリーの沈没事故などを見てもわかるように、古代も現代もリスクが大きいルートではないでしょうか。
 このようなことを竹内会長や林さん、石田さんと夕食をご一緒しながら懇談させていただきました。各地に「古田史学の会」の組織や会員がおられますから、これからも機会があれば懇談を続けたいと願っています。


第978話 2015/06/12

「兄弟」年号と筑紫君兄弟

 「洛中洛外日記」965話で、熊本市の「最古の神社」とされる健軍神社が「欽明19年(558年)」の創建で、この年こそ九州年号の「兄弟」元年に相当することから、「兄弟統治」を記念して「兄弟」と改元され、「肥後の翁」に相当する人物(兄か弟)が改元にあわせて健軍神社を創建したのではないかと述べました。
 この「兄弟」年号に関して興味深い論稿が林伸禧さん(古田史学の会・全国世話人)から発表されました。「『二中歴』年代歴の「兄弟、蔵和」年号について(追加)」(『東海の古代』第178号、2015年6月。「古田史学の会・東海」発行)という論文で、「兄弟」年号は6年間継続したとする新説が主テーマです。その中で『日本書紀』欽明17年条(556)に見える、筑紫君の二人の子供「火中君」(兄)と「筑紫火君」(弟)こそ、九州王朝の兄弟統治の当事者ではないかとされました。欽明17年の2年後が九州年号「兄弟」元年(558)ですから、その可能性は高そうです。わたしもこの兄弟のことは知っていましたし、論文でもふれたことがありますが、九州年号の「兄弟」と時代的に関係するものとは気づきませんでした。さすがは九州年号研究を永く続けられてきた林さんならではの慧眼です。
 わたしは九州王朝の兄弟統治における兄弟の一人が「肥後の翁」ではないかと考えてきましたが、筑紫君の兄弟の名前が共に「火」の字を持っていることから、「火国」=「肥国」と考えられ、どちらかが「肥後の翁」ではないでしょうか。肥後の古代史が九州王朝との関係から、ますます目が離せなくなってきました。


第969話 2015/06/04

「みょう」地名の分布

「洛中洛外日記」において、地名などを古田先生が提唱された「元素論」を援用して論じたことがありました。ところがまだ検討していないテーマがあります。それは「みょう」地名です。
うきは市の「楠名・重貞古墳(くすみょう・しげさだ古墳)」や福岡市西区の「女原(みょうばる)」などの「みょう」地名に関心を持っていたのですが、古田先生も「女原(みょうばる)」や「女山(ぞやま)神籠石」の「女」に着目され、九州王朝との関連で検討する必要性を述べられていました。
この「みょう」地名の淵源については様々な説が出されており、それぞれ有力とは思いますが、成立時代の差や地域差もありそうで、今のところよくわからない、というのが正直な感想です。また、当てられている漢字も「名」「女」「明」「妙」などがあり、この違いに何か意味があるのかも、まだよくわかりません(「名」が最も多い)。
他方、合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人、松山市)らによる精力的な調査により、愛媛県に「紫宸殿」「才明(さいみょう)」「天皇」地名を見いだされ、九州王朝と「越智国」との関係を論じた優れた研究も報告されてきました。わたしが今回着目したのはこの「才明(さいみょう)」でした。これは「みょう」地名の一つではないかと考えたのです。そこで良い機会なので基礎調査として、「みょう」地名のインターネット検索を行ってみました。まだ調査途中ですが、下記のような「みょう」地名がヒットしました。「西明寺」「光明池」などの寺名やそれに関係して成立したかもしれない「池」名などは、今回のテーマである「みょう」地名と見なしてよいか判断できませんでしたので、とりあえず検索対象から除外しました。
現時点で見つけた「みょう」地名は82件で、そのうち九州が36件(44%)で最も多く、中でも長崎県と鹿児島県に多く分布しています。次いで四国が19件(23%)です。このように全国的に「みょう」地名はありますが、九州と四国に多いという偏った分布を見せています。この分布が何を意味するのかはまだわかりませんし、成立時期や事情もそれぞれ異なると思われますが、その淵源が古代まで遡るものがあれば、九州王朝との関係を検討する必要があるかもしれません。
このように四国にも「みょう」地名が多いことを考えると、「斉明(さいみょう)」も「みょう」地名である可能性が高いようにも思われます。この件、引き続き考察します。(つづく)

【インターネット検索結果】
木明(きみょう) 青森県上北郡野辺地町
下名生(しものみょう) 宮城県柴田郡柴田町
上名生(かみのみょう) 宮城県柴田郡柴田町
古庭名(こてんみょう) 新潟県佐渡
求名(ぐみょう) 千葉県東金市
小苗(こみょう) 千葉県大多喜町
古名新田(こみょうしんでん) 埼玉県比企郡吉見町
外記明・善光明(げきみょう・ぜんこうみょう) 神奈川県大和市(『新編相模風土記稿』)
天明(てんみょう) 栃木県佐野市
三ケ名(さんがみょう) 静岡県焼津市
別名(べつみょう) 富山県富山市
十年明(じゅうねんみょう) 富山県砺波市
西明(さいみょう) 富山県南砺市
清水明(しみずみょう) 富山県南砺市
公文名(くもんみょう) 福井県敦賀市
円明(えんみょう) 大阪府柏原市
助命(ぜんみょう) 奈良県山辺郡山添村
二名(にみょう) 奈良県奈良市
西五明(にしごみょう) 兵庫県姫路市豊富町神谷岩屋
本明(ほんみょう) 兵庫県宍粟郡佐用町
両名(りょうみょう) 広島県三原市沼田東町
法名(ほうみょう) 山口県美祢市
開明(かいみょう) 山口県田布施町
市明(いちみょう) 山口県田布施町
殿明(とのみょう) 山口県周南市高瀬
秋字明(しゅうじみょう) 山口県周南市
地頭名(じとうみょう) 香川県高松市庵治町
三名町(さんみょうちょう) 香川県高松市
新名(しんみょう) 香川県高松市国分寺町
五名(ごみょう) 香川県かがわ市
長尾名(ながおみょう) 香川県さぬき市
新名(しんみょう) 香川県三豊市高瀬町
下名(しもみょう) 徳島県美馬市木屋平
下名影(しもみょうかげ) 徳島県三好市
下名(しもみょう) 徳島県三好市山城町
下名(しもみょう) 徳島県三好市西祖谷山村
本名(ほんみょう) 徳島県三好市池田町白地
別名(べつみょう) 愛媛県今治市
名(みょう)  愛媛県今治市吉海町
二名(にみょう) 愛媛県上浮穴郡久万高原町
妙口(みょうぐち)  愛媛県西条市小松町
才明(さいみょう)  愛媛県今治市朝倉
立川上名(たじかわかみみょう) 高知県長岡郡大豊町
立川下名(たじかわしもみょう) 高知県長岡郡大豊町
西森名(にしもりみょう) 高知県仁淀村
女原(みょうばる) 福岡県福岡市西区
光明(こうみょう) 福岡県北九州市八幡西区
下名(しもみょう) 福岡県八女市
重吉名(しげよしみょう) 筑後国上妻郡 中世文書に見える。
阿母名(あぼみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
牛口名(うしぐちみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
永中名(えいちゅうみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
大木場名(おおこばみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
川床名(かわとこみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
木場名(こばみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
田之平名(たのひらみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
布江名(ぬのえみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
馬場名(ばばみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
平江名(ひらえみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
古城名(ふるしろみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
本村名(もとむらみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
野副名(のぞえみょう) 長崎県長崎市多良見町
大搦名(おおからみみょう) 長崎県諫早市小長井町
坂上下名(さかうえしたみょう) 長崎県南島原市北有馬町乙
坂下名(さかしたみょう) 長崎県南島原市布津町丙
上与名(うわぐみみょう) 長崎県東彼杵郡高来町
下与名(したぐみみょう) 長崎県東彼杵郡高来町
余名(よみょう) 大分県杵築市
妙町(みょうまち) 宮崎県延岡市
久津良名(くつらみょう) 宮崎県宮崎市高岡町の旧名
浦之名西(うらのみょう) 宮崎県宮崎市
下名(しもみょう) 鹿児島県出水市野田町
上名(かみみょう) 鹿児島県出水市野田町
下名(しもんみょう) 鹿児島県鹿屋市吾平町
上名(かみみょう) 鹿児島県鹿屋市吾平町
下名(しもみょう) 鹿児島県いちき串木野市町
上名(かみみょう) 鹿児島県いちき串木野市町
上名(かみみょう) 鹿児島県姶良市
下名(しもみょう) 鹿児島県姶良市
求名(ぐみょう) 鹿児島県薩摩郡さつま町
浦之名西(うらのみょう) 鹿児島県薩摩川内市


第964話 2015/05/31

鞠智城はキクチ城かククチ城か

昨日とは打って変わり、今朝は雨もあがり、好天に恵まれました。今は新玉名駅に向かう九州新幹線の車中です。九州新幹線は座席が4列のグリーン車並で、木材を使用したゴージャスな作りです。窓のブラインドも木製の簾なのには驚きです。JR各社でも九州が最も車両デザインがおしゃれではないでしょうか(「七つ星」はその最高峰)。
わたしが研究開発にいた頃、JR九州の車両内装用のコルクボードを染色できる染料と染色処方の開発を試みたことがありましたので、九州新幹線とも少しは縁があります。ちょうど「木材染色」の技術開発に熱中していた頃でしたから、今でも懐かしく思います。開発した木材染色技術や専用染料はホテルや商業ビルの内装、大手家電メーカーの建材等に使用されており、一見すると木目が美しい「天然銘木」なのですが、わたしには人造の「染色木材」であることがわかります。出張先のホテルの内装などでみかけると、ここでも使用されているのかと、うれしくなります。ちなみに「古田史学の会」の水野代表は若い頃(日本ペイント株式会社勤務時代)、新幹線開業時の車両用塗料の開発に関わられたとのこと。
今日は玉名郡和水町で講演しますが、どうしても事前に調べておきたいことがあり、約束の時間よりも1時間早く新玉名駅に行くことにしました。今回の主要テーマの一つが鞠智城なのですが、わたしは「キクチじょう」と読んでいました。ところが、講演会主催者の菊水史談会の前垣芳郎さん(事務局長)から、メールで「ククチのキ」と読むのが正しいとする見解を知らせていただいていたので、この鞠智城についてしっかりと調べておく必要を感じたのです。
鞠智城については読み方だけでなく、その所在地も今までは漠然と菊池市と山鹿市にまたがった遺跡で、主には菊池市に含まれると思っていたのですが、これもよく調べてみると逆で、両市にまたがっているもののその多くは山鹿市に属しているのでした。
このように熊本県で講演するのに、あまりにもご当地についての知識が不足していたり、間違って理解していることもありそうなで、急遽、講演会の位置づけを少し変更して、わたしのアイデア(思いつき・作業仮説)をご披露し、その当否と新たな知見やご当地のご意見をうけたまわる、そのような「講演」にすることとしました。はたして、このような「講演」が受け入れられるか。いざ、「火の国」熊本県和水町へ。


第962話 2015/05/30

志賀島の「金印」か「銀印」か

本日の久留米大学公開講座では九州王朝の歴史の概略について説明し、特に学問の方法について意識的にふれました。冒頭、志賀島の金印の持つ論理性について述べ、金印は中国の王朝から見て、周囲の朝貢国内のナンバーワンの権力者に与えられるものであり、その金印が志賀島から出たのであれば、倭国の王者が北部九州にいた証拠であるとしました。
ちなみに、『三国志』倭人伝によれば卑弥呼には金印が下賜され、その部下の難升米には銀印が与えられたと記されています。このことから、金印は倭国のナンバーワンに与えられるのであり、ナンバーツー以下であれば銀印がふさわしいことがわかります。従って、志賀島の金印を従来説(近畿天皇家一元史観)のように「漢の委(わ)の奴(な)の国王」というように、大和朝廷(委)をトップとする下での奴国に与えられたとするのであれば、金印ではなく銀印か銅印でなければなりません。志賀島から出たのが金印ではなく銀印であれば、倭国のナンバーツー以下がもらったと言えないこともありませんが、事実は「志賀島の金印」であり「志賀島の銀印」ではないのです。
こうした「金印」と「銀印」の論理性に、今回の久留米大学での講演の準備をしていて気づきましたので、冒頭に話させていただいたものです。
講演の最後には、久留米出身の超有名古代人こそ九州王朝の天子・多利思北孤であり、その伝承が「聖徳太子」の事績として『日本書紀』などに盗用されていたことを『盗まれた「聖徳太子」伝承』に詳しく記したと紹介しました。おかげで会場に持ち込んだ同書を完売することができました。久留米の皆さん、お買い上げいただき、ありがとうございました。会場で販売していだいた不知火書房の米本様にも改めて御礼を申し上げます。


第954話 2015/05/17

倭人伝「周旋可五千余里」の新理解

昨日の関西例会で興味深い報告が野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)からなされました。「『三国志』と朝鮮半島の「倭」について」という研究報告の中で、『三国志』倭人伝に見える「倭地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、或は絶え或は連なること、周旋五千余里ばかり。」の「五千余里」を倭人伝に記された倭国内の陸地の合計距離とされ、下記の行程里数を示されました。

1,対海国の陸行           800里
2,一大国の陸行           600里
3,末廬国から女王国         600里
4,女王国(九州)から侏儒国(四国)3000余里
合計              5000余里

「周旋五千余里」記事は、女王国から侏儒国への行程記事や裸国・黒歯国記事の直後にあり、対海国から侏儒国への倭国内陸地行程の合計5000余里と偶然の一致とは思われない里数値です。なお、4の3000余里は女王国から侏儒国への「四千余里」から渡海里数の「女王国東渡海千余里」を引いた里数値です。
発表後の質疑応答のとき、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)から、この野田説に対してどう思うかと突然聞かれたのですが、わたしも野田さんのこの倭国内陸地里数合計値に注目していましたので、あたっているかどうかはわからないが、陳寿の認識(「周旋五千余里」を導き出した計算方法)をたどる上で興味深いと、やや曖昧な返事をしました。
この野田説は例会後の懇親会でも取り上げられ、もしかすると有力な仮説かもしれないと思うようになりました。この野田説は何年か前に野田さんから例会発表されていたことを西村さんから指摘されたのですが、わたしは失念していたようです。『三国志』での「参問」や「周旋」の使用例を調べると、野田説の当否を確認できるかもしれません。
従来は、倭人伝の記事から次のように「周旋五千余里」を理解していました。

1.帯方郡から倭の北岸の狗邪韓国まで「七千余里」
2.帯方郡から女王国まで「万二千余里」
3.倭地参問が「周旋五千余里」

このように、「七千余里」と「周旋五千余里」の合計が帯方郡から女王国までの総里程「万二千余里」に一致し、「周旋五千余里」には狗邪韓国から女王国までの海を渡る水行距離も含まれていると理解されてきました。
この従来説と野田新説のどちらが妥当(陳寿の認識)なのか、今後の研究の進展が期待されます。


第939話 2015/04/30

古田武彦著

『古田武彦の古代史百問百答』が復刊

ミネルヴァ書房から古田先生の『古田武彦の古代史百問百答』が復刊されました。同書は東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)により、2006年に発行されたものをミネルヴァ書房から「古田武彦 歴史への探究シリーズ」として復刊されたものです。
同書冒頭の藤沢徹さん(東京古田会・会長)による「はしがき」に「敗戦後、節操なき『思想の裏切り』に絶望した旧制高校生が、老年に至るまで反骨の『心理の探求』に没頭した」とあるとおり、古田先生の古代史研究から思想史研究に至る、「百問百答」の名に偽りのない質疑応答が展開された一冊に仕上がっていま す。東京古田会による優れた業績として、後世に残る本です。
同書は古田先生の近年の研究成果と、それに基づいた問題意識が、「百問」に答えるという形式をとって、縦横無尽に展開されています。かつ、その「百答」は「結論」ではなく、新たな問題意識の出発点ともいうべき性格を有しています。古田学 派の研究者にとって、古田先生から与えられた「課題」「宿題」としてとらえ、そこから新たなる「百問」が生まれる、というべきものです。同書を企画編纂された東京古田会の皆様に敬意を表したいと思います。


第937話 2015/04/28

「年代歴」編纂過程の考察(3)

 「年代歴」の九州年号群は「年号一覧」ともいうべき史料性格ですから、その元史料は「九州年号群」史料である、いわゆる「年代記」あるいは「年表」であり、それらに記された九州年号を抜粋して「年代歴」は作成されたものと思われます。それら以外に代々の九州年号が記された史料の存在をわたしは知りませんし、想定もできないからです。
 そうした九州年号が記された「年表」はおよそ次のようなことが記されていたはずです。「九州年号」「年次」「干支」「その年に起きた事件」といった構成です。具体例をあげれば次のようなかたちです。

法清元年甲戌「記事」二年乙亥「記事」三年丙子「記事」四年丁丑「記事」兄弟元年戊寅「記事」蔵和元年己卯「記事」二年庚辰「記事」三年辛巳「記事」四年壬午「記事」五年癸未「記事」〜

 このような年代記(年表)から「年代歴」に必要な「年号」「継続年」「元年干支」を抜き取る作業となるわけですから、編者は次の手順で「年代歴」を作成するはずです。

(1)年号を抜粋する。
(2)その年号の最末尾の「年数」を抜粋する。
(3)元年干支を抜粋する。
(4)その年間の代表的記事を抜粋する。なければ書かない。

以上の作業を、上記の例で行うと次のような内容となります。

「法清・四年・甲戌 (記事)」
「兄弟・元年・戊寅 (記事)」
「蔵和・五年・己卯 (記事)」

 このように、記された文字をそのまま抜粋すると、元年しかない「兄弟」は「元年」とそのまま書き写す可能性が発生するのです。その結果、書写が繰り返された『二中歴』「年代歴」のどこかの書写段階で、「元」が「六」に誤写されたと、わたしは現存する『二中歴』「年代歴」の「兄弟六年」とある史料事実から判断するに至ったのです。今のところ、この編纂過程以外に、この誤写が発生する状況をわたしには想定できません。もし、もっと合理的な誤写過程があれば賛成するにやぶさかではありませんが、いかがでしょうか。
 また、「年代歴」の九州年号の下に細注があり、その年間の事件が記されているという史料事実も、これら九州年号の元史料が年代記(年表)の類であったとする、わたしの推定を支持します。
 以上、3回にわたり、『二中歴』「年代歴」の編纂過程について考察してきました。史料批判とはこうした考察の集大成であり、その結果、当該史料がどの程度信頼してよいのかが推定できます。こうした作業、すなわち史料批判は文献史学における学問の方法の基本ですから、私自身の勉強も兼ねて、これからも機会があれば繰り返しご紹介したいと思います。

(補記)「師安一年」というように1年しかない年号の場合は「元年」ではなく、「一年」と記すのが『二中歴』「年代歴」の九州年号部分の「表記ルール」と紹介しましたが、「年代歴」の近畿天皇家の年号部分には、1年しかない年号「正長」が「正長元」 (1428年)と表記されています(正確には翌二年の九月に永享と改元。従って年表上では元年のみの表記となります)。『二中歴』そのものが複数の編者により書写・追記されていますから、上記のような「表記ルール」が全てに厳密に採用されているわけではありません。この点、『二中歴』の全体像をご存知ない方も多いと思いますので、補足しておきます。


第932話 2015/04/24

『二中歴』九州年号細注の史料批判

 今回は『二中歴』所収「年代歴」に見える九州年号に付記された細注について、その史料性格を考察してみます。
 既に何度も指摘しましたように、同九州年号の下に付記された細注記事は九州王朝系史料に基づいていると考えられ、九州王朝史研究にとって貴重なものです。しかしながら、それら細注は後世に改訂された痕跡を残しており、いわゆる同時代史料の忠実な書写ではなく、その二次史料的性格を有しています。従って、九州王朝系史料に基づいてはいるものの、取り扱いには慎重な史料批判や手続きが必要です。
 たとえば、細注が「年代歴」に記録された時期は、その当該細注が付記された各九州年号の時代ではありません。そのことが端的に現れているのが細注記事に散見する「唐」という国名表記です。例をあげれば「法清」「端政」「定居」「仁王」「僧要」に付記された次の細注です。

「法清四年 元甲戌 法文ゝ唐渡僧善知傳」
「端政五年 己酉 自唐法華経渡」
「定居七年 辛未 法文五十具従唐渡」
「仁王十二年 癸巳 自唐仁王経渡仁王会始」
「僧要五年 乙未 自唐一切経三千余巻渡」

 いずれの記事も「唐」より「法文」「法華経」「仁王経」「一切経」が渡ってきたという内容ですが、唐王朝が成立したのは618年で、九州年号の「倭京」元年に相当します。従って、それ以前の九州年号「法清(554〜557)」「端政(589〜593)」「定居(611〜617)」の時には中国の王朝はまだ 「唐」ではありません。ですから、これら細注記事は「唐」の時代になってから付記され、その際に当時の中国王朝名の「唐」という表記にされたと考えられます。おそらく原史料にはその当時の中国王朝名が記されていたと思われますが、「年代歴」編纂時(正確には「年代歴」中の九州年号史料部分の成立時)に「唐」と統一した表記にしたのです。
 このような編纂時の国名で過去の記事も統一して表記することは普通に行われ、それほど不可解な現象ではありません。現代でも「中国の孔子」とか言ったり書いたりするように、孔子が生きた時代の国名で表記するとは限らないのです。
 このようなことから、「年代歴」九州年号の細注には、細注付記当時の認識で書き換えられたりする可能性がありますから、論証などの史料根拠に使用する場合は注意が必要です。史料性格を十分に確認し、その史料の有効性(どの程度真実か)と限界を見極める作業、すなわち史料批判が文献史学では大切になるのです。残念ながら、古田学派の論考にも、わたしも含めて史料批判が不十分であったり、問題があったりするケースが少なくありません。お互いに切磋琢磨し研鑽していきたいと願っています。