史料批判一覧

第1281話 2016/10/04

小杉榲邨と喜田貞吉師弟

 『二中歴』国会図書館本の書写者、小杉榲邨(こすぎ すぎむら)氏については「洛中洛外日記」で紹介してきましたが、法隆寺再建・非再建論争で有名な喜田貞吉氏の東京帝国大学時代の恩師が小杉氏で、両氏は同郷(徳島県)だったことを知りました。
 吉川弘文館から発行されている『本郷』(2016.9 No.125)に掲載された千田稔さん(歴史地理学)の「『論争』の流儀 -喜田貞吉のこと-」を読みました。冒頭は次のような書き出しで、うなづけました。

 「学術研究は、つねに論争がつきまとう。健全なことである。いや健全でなければならない。ところが往々にして、喧嘩めいた様相がただよう。「正しい」「誤っている」という対立からもたらされる感情が研究の論理とは、別のところ刺激するからであろう。その点から見れば、研究上の論争は、まことに人間性をひきずっているとも言える。論敵から向けられた言葉の鋭さに、たじろぐこともある。」

 そして、法隆寺再建・非再建論争に喜田氏が関わったいきさつについて次のように紹介されています。

 「さて、法隆寺再建・非再建の論争のことである。喜田にとって法隆寺には関心がなかったが、明治三八年三月の中ごろ、東京帝国大学時代の恩師小杉榲邨(一八三四-一九一〇)先生を訪問したときに論争を知る。(中略)その場で、喜田ははじめて、再建・非再建について議論があることを知るのだが、喜田は、論点も吟味することなく、再建論の立場にあって、自説が否定されつつある恩師を、なんとか救いあげることに立ち上がるのである。研究者としては、信じがたい胆気である。(中略)喜田は、再建論について有利な論証ができるという自信はなかったが、水掛け論程度になら、引き戻せるであろうと、即日、筆を執って、『史学雑誌』と『歴史地理』に反論を発表する。」

 喜田貞吉氏といえば日本古代史学の大先達であり、古田先生の著作にもしばしば紹介される研究者です。わたしも喜田氏の著作や論文を少なからず読みましたが、法隆寺再建・非再建論争に関わった動機が、恩師への応援だったことに、氏のお人柄を初めて知ることができました。
 執筆者の千田稔さんは最後を次のように締めくくられています。

 「恩師を守るために異論に立ち向かうというような人情を現代の研究者がなくしつつあることに気付かせる。(中略)私は、再建論でよしとするが、それにしても、現法隆寺の施主については、複雑な人脈をたどらなければならないであろう。」

 8世紀初頭の和銅年間に法隆寺は再建されたとする見解が通説となっていますが、それでは金堂や五重塔、そして本尊の釈迦三尊像などが6世紀末から7世紀初頭のものであることの説明が困難です。やはり現法隆寺は7世紀初頭頃の九州王朝の寺院を8世紀初頭に移築したとする移築説が最有力です。そして、千田さんのいう「複雑な人脈」とは、九州王朝(倭国)から大和朝廷への王朝交代のことなのです。
 この『本郷』No.125は他にも面白い記事が掲載されており、大型書店で無料でいただけますので、お勧めです。


第1278話 2016/10/01

水城防衛技術の小論争

 「古田史学の会」の研究仲間との間で水城の防衛方法についてのちょっとした論争(意見交換)をメールで行っています。もちろん、わたしも勉強中のテーマですので、まだ結論には至っていませんが、とてもよい学問的刺激を受けています。
 その論争テーマとは、水城は博多方面から押し寄せる敵軍に対して、事前に御笠川をせき止め、太宰府側に溜めた水を一気に放流し、せん滅する防衛施設であるという意見が出され、それに対して、そのような御笠川をせき止めたり、水圧に抗して一気に放流するような土木技術が当時にあったとは思えないという意見のやりとりです。
 わたしは後者の立場ですが、いつ攻めてくるかわからない敵のために御笠川をせき止めて太宰府を水浸しにするよりも、土手を高くするなり、堅固な防塁を増やしたほうがより簡単で効果的と思っています。
 そんな論争もあって、大野城市のホームページを見ると、そうした議論は以前からあり、現在では決着がついているとする解説がありましたので、転載します。歴史学的にも土木工学的にも面白いテーマだと思いませんか。

【大野城市HPから転載】
  『日本書紀』に「大堤を築き水を貯えしむ」と書かれている水城跡ですが、水をどのように貯えていたのでしょうか。
  このことについては古くから議論があり、中でも水城跡の中央部を流れる御笠川をせき止めて太宰府市側(土塁の内側)にダム状に水を貯め、博多湾側(土塁の外側)から敵が攻めて来た場合、堤を切って水を流し敵を押し流すという説が有力でした。
  ところが、昭和50年から52年にかけて九州歴史資料館が行った発掘調査によって、太宰府市側にあった内濠から水を取り、木樋を通して博多湾側の外濠に貯めるという仕組みが明らかになり、土塁と外濠で敵を防ぐという水城の構造が確認されました。


第1257話 2016/08/17

続・「系図」の史料批判の難しさ

 「洛中洛外日記」635話「『系図』の史料批判の難しさ」で、7世紀中頃よりも早い時代の「評」が記された「系図」があり、評制施行を7世紀中頃とするのは問題ではないかとするご意見に対して、わたしは次のように反論しました。

 「わたしは7世紀中頃より以前の『評』が記された『系図』の存在は知っていたのですが、とても『評制』開始の時期を特定できるような史料とは考えにくく、少なくともそれら『系図』を史料根拠に評制の時期を論じるのは学問的に危険と判断していました。『系図』はその史料性格から、後世にわたり代々書き継がれ、書写されますので、誤写・誤伝以外にも、書き継ぎにあたり、その時点の認識で書き改めたり、書き加えたりされる可能性を多分に含んでいます。」

 そのため、「系図」を史料根拠に使う際の史料批判がとても難しいとして、次の例を示しました。

 「『日本書紀』には700年以前から『郡』表記がありますが、それを根拠に『郡制』が7世紀以前から施行されていたという論者は現在ではいません。また、初代の神武天皇からずっと『天皇』と表記されているからという理由で、『天皇』号は弥生時代から近畿天皇家で使用されていたという論者もまたいません。」

 そして、ある「系図」の7世紀中頃より以前の人物に「○○評督」や「××評」という注記があるという理由だけで、その時代から「評督」や行政単位の「評」が実在したとするのは、あまりに危険なので、それら「系図」がどの程度歴史の真実を反映しているかを確認する「史料批判」が不可欠であると指摘しました。
 この指摘から3年が過ぎましたので、改めて「系図」の史料批判の難しさと、「評」系図の史料批判について、8月20日の「古田史学の会」関西例会にて報告することにしました。「洛中洛外日記」でも、その要点を紹介していきたいと思います。
 私事ではありますが、わたしの実家には畳二畳ほどの大きな「星野氏系図」があります。古賀家の先祖は星野氏で、「天小屋根命」に始まり、初代星野氏からわたしの曾祖父(古賀半助昌氏)までが記されています。その「星野氏系図」の途中から枝分かれした他家の部分を省いた「古賀家系図」を亡くなったわたしの父が三部作り、わたしたち兄弟三人に残してくれました。
 その「古賀家系図」を作成するにあたり、父は江戸時代の浮羽郡西溝尻村庄屋だった先祖の没年を古賀家墓地の墓石から読みとり、傍注として系図に付記しました。ところが、その注記に誤りがあることにわたしは気づきました。その原因は不明ですが、系図作成に於いて、こうした誤記誤伝が発生することを身を以て知ったものでした。
 古代に比べれば史料も豊富な江戸時代のことを平成になって誤り伝えるということが、系図のような「書き継ぎ文書」では発生してしまうのです。ましてや古代の部分に誤記誤伝が発生するのは避けられません。更に言えば、誤記誤伝ではなく大義名分による意図的な改訂、善意による改訂(原本の内容が誤っていると思い、その時代の認識で「訂正」する)さえも起こり得るのです。
 このような誤記誤伝、善意による原文改訂などを、わたしはこれまで何度も見てきました。ですから、「史料批判」抜きで、評価が定まっていない史料を自説の根拠にすることなどは恐くてとてもできないのです。(つづく)


第1256話 2016/08/16

難波朝廷の官僚7000人

 難波宮址からは次々と考古学的発見が続いています。正木裕さんの説明によると、前期難波宮の宮域北西の谷から7世紀代の漆容器が3000点以上出土しているとのこと。しかも驚いたことに、平安京では宮域の北西地区に大蔵省があり、その管轄である「漆室」が隣接していました。前期難波宮においても宮域北西地区に「大蔵」と推定される遺構が出土しており、その北側の谷に大量の漆容器が廃棄されていたのです。この出土事実によれば、前期難波宮と平安京において律令官制に基づいた宮域内の同じ位置に同じ役所(大蔵省・漆室)が存在していたこととなります。
 こうした説明を聞き、わたしは驚愕しました。もし前期難波宮の時代の「九州王朝律令」と大和朝廷の『養老律令』(その基となった『大宝律令』)が類似していたとすれば、前期難波宮の宮域で勤務する律令官僚は7000人(服部静尚さんの調査による)ほどとなるからです。これほどの官僚群が勤務し、その家族も含めて居住できる宮殿・官衙と都市は、7世紀において大和朝廷の藤原宮(藤原京)と前期難波宮(難波京)しかなく、飛鳥清御原宮や大宰府政庁では規模が小さく、大官僚群とその家族を収容できません。
 論理と考古学事実から、こうした理解へと進まざるを得なくなるのですが、そうすると前期難波宮は九州王朝の副都ではなく首都と考えなければなりません。この問題は重要ですので、引き続き慎重に検討したいと思います。なお、前期難波宮出土の木柱や漆容器について、8月20日の「古田史学の会」関西例会で正木裕さんから詳細な報告がなされる予定です。


第1248話 2016/08/08

信州と九州を繋ぐ「異本阿蘇氏系図」

 信州に多数分布する「高良社」や、熊本県天草市と長野県岡谷市に分布する「十五社神社」など、信州と九州に密接な関係があることに強い関心を持ってきました。たとえば「十五社神社」に関しては「洛中洛外日記」でも取り上げてきました。下記の通りです。

第422話 2012/06/10 「十五社神社」と「十六天神社」

第483話 2012/10/16 岡谷市の「十五社神社」

第484話 2012/10/17 「十五社神社」の分布

 この両地方の関係について、その淵源が古代にまで遡るのか、九州王朝によるものかなどわからないことばかりでしたが、「評」系図としても有名な「異本阿蘇氏系図」を精査再検討していたところ、両者の関係が古代に遡るとする痕跡を見いだしましたので、概要のみご紹介します。
 『田中卓著作集』に収録されている「異本阿蘇氏系図」によると、「神武天皇」から始まる同系図は、その子孫の阿蘇氏(阿蘇国造・阿蘇評督など)の系譜を中心にして、途中から枝分かれした「金刺氏」(科野国造・諏訪評督など)や「多氏」などの系譜が付記(途中で接ぎ木)された様相を示しています。従って、阿蘇氏内に伝来した阿蘇氏系譜部分は比較的「精緻」と思われることに対して、「金刺氏」系譜部分は遠く離れた「信州の分家」からもたらされた系図を、後世になって阿蘇氏自らの系図に付記したものと考えられ、史料的な信頼性は劣ると考えざるを得ません。この点については、「系図の史料批判の方法」として別の機会に詳述する予定です。
 阿蘇氏や金刺氏・諏訪氏の系図は各種あるようで、どれが最も古代の真実を伝えているのかは慎重に検討しなればなりませんが、「異本阿蘇氏系図」の編者にとっては、信州の金刺氏(後の諏訪氏)は継躰天皇の時代以前に阿蘇氏から分かれて信州に至ったと主張、あるいは理解していることとなります。もちろんこうした「理解」が真実かどうかは他の史料や考古学的事実を検討しなければなりませんが、信州と九州の関係が古代に遡ることの傍証になるかもしれません。
 「異本阿蘇氏系図」の「金刺氏系譜」部分でもう一つ注目されたのが、「諏訪評督」の注を持つ「倉足」の兄弟とされる「乙穎」の細注に見える次の記事です。

「一名神子、又云、熊古」

 「神子」の別称を「熊古」(「くまこ」か)とするものですが、「神」を「くま」と訓むことは筑後地方に見られます。たとえば「神代」と書いて「くましろ」と当地では読みます。ちなみに「神代家」は高良玉垂命の後裔氏族の一つです。この「神(くま)」という訓みは九州王朝の地(筑後地方・他)に淵源を持っているようですので、「異本阿蘇氏系図」に見えるこの「熊古」記事は諏訪氏と九州との関係をうかがわせるのです。
 この信州と九州とを繋ぐ「異本阿蘇氏系図」の史料批判や研究はこれからの課題ですが、多元史観・九州王朝説により新たな展開が期待されます。

〔後注〕信州と九州の関係について研究されている長野県上田市の吉村八洲男さんと、最近、知り合いになりました。共同研究により、更に研究が進展するものと楽しみにしています。


第1245話 2016/08/05

「論証と実証」論の古田論文

 7月の「古田史学の会」関西例会での大下隆司さんからの「学問は実証よりも論証を重んじる」に関する発表を受けて、茂山憲史さん(古田史学の会・編集委員)も8月の関西例会で同問題について報告されることになりました。
 わたしはこの「学問は実証よりも論証を重んじる」という村岡典嗣先生の言葉は学問の金言と理解していますが、古田先生から直接詳しい説明をお聞きしたことはありませんでした。ところが、「古田史学の会」会員で多元的「国分寺」研究サークルの肥沼さんが同サークルのホームページに、古田先生による解説文を転載されました。古田先生の「学問的遺言」とも言うべきものですので、ここに転載させていただき、ご紹介いたします(転載にあたり、若干の編集を行いました)。

多元的「国分寺」研究ホームページより転載

2016年7月29日 (金)
「論証と実証」論(古田論文を収録!)

 もしかしたら,「学問は実証より論証を重んじる」について,以下のところに書いていないでしょうか?「新古代学の扉」サイトを眺めていて,そう思いました。筑紫舞のことが載っている『よみがえる九州王朝』の復刻版で,ミネルヴァ書房のものです。
 以下,古田武彦著『よみがえる九州王朝』(ミネルヴァ書房)より

日本の生きた歴史(十八)
 第一 「論証と実証」論

          一

 わたしの恩師、村岡典嗣先生の言葉があります。
「実証より論証の方が重要です。」と。
 けれども、わたし自身は先生から直接お聞きしたことはありません。昭和二十年(一九四五)の四月下旬から六月上旬に至る、実質一カ月半の短期間だったからです。
 「広島滞在」の期間のあと、翌年四月から東北大学日本思想史科を卒業するまで「亡師孤独」の学生生活となりました。その間に、先輩の原田隆吉さんから何回もお聞きしたのが、右の言葉でした。
 助手の梅沢伊勢三さんも、「そう言っておられましたよ。」と“裏付け”られたのですが、お二方とも、その「真意」については、「判りません。」とのこと。“突っこんで”確かめるチャンスがなかったようです。

          二

 今のわたしから見ると、これは「大切な言葉」です。ここで先生が「実証」と呼んでおられたのは、「これこれの文献に、こう書いてあるから」という形の“直接引用”の証拠のことです。
 これに対して「論証」の方は、人間の理性、そして論理によって導かれるべき、“必然の帰結”です。わたしが旧制広島高校時代に、岡田甫先生から「ソクラテスの言葉」として教えられた、
「論理の導くところへ行こうではないか、たとえそれがいかなるところへ到ろうとも」(趣意)こそ、本当の「論証」です。
 一例をあげましょう。
 三国志の魏志倭人伝には,直接「南米」そのものをしめす文面はありません。その点、狭い意味での「実証」では、「南米問題」は出てこないのです。
 しかし、倭人伝には次の文面があります。

①「(侏儒国)その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里」
②「(裸国・黒歯国)あり。またその南東にあり。船行一年にして至るべし」

 わたしが『「邪馬台国」はなかった』で論証したように、倭人伝は、「短里」(七十五〜九十メートル。七十五メートルに近い)で記されているという立場からすれば、

(その一)「侏儒国」は足摺岬(高知県)近辺である。
(その二)「裸国・黒歯国」は南米のエクアドル近辺である。

 という、二つの命題に至らざるをえません。右の(その一)は「黒潮と日本列島の接点」であり、(その二)は「黒潮とフンボルト大寒流の接点」と対応しているのです。

 幸いに、わたしの「論証」は、“裏付け”られました。

(α)マラウージョ(一九八〇年)・フェレイラ(一九八三、八八年)の論文によって、化石ならびにミイラを通して日本列島側との交流が報告された(『「邪馬台国」はなかった』「補章 二十余年の応答」。ミネルヴァ書房版では三六六ページ)。

 さらに、

(β)南米の「インディオ」のウィルスと遺伝子が日本列島(太平洋側)の住民と「同一型」であることが証明された(田島和雄氏)。
(γ)南米の地名中の「スペイン語・ポルトガル語以外の地名」に「原初日本語」の存在が「発見」された(「トリ」「ハタ」「マナビ」等)。さらに有名な南米最大の湖「チチカカ湖」は、「チ(神の古名)」と「カ(神聖な水)」のダブリ言語(日本語では、チチブ山脈など)であり、「太陽の神の作りたもうた神聖な湖」(「アイマラ語」インカ語以前の諸言語)の意義であることが判明した(藤沢徹氏の報告による)。

 ここでも、日本語と南米の「原初語(地名)」がまさに“共通”していたのです。
 やはり、村岡先生の言われたように、学問にとって重要なのは、「論証」、この二文字だったようです。


第1239話 2016/07/28

理系の学会での論争

 今日は大阪で開催された繊維応用技術研究会に参加しました。同会の理事をしているので、座長なども仰せつかっています。
 今回の講演で最も面白かったのが、澤田和也さん(大阪成蹊短期大学教授)による「再生医療用材料としての動物毛由来タンパク質」で、豚の組織(心臓の弁など)を人間に移植する際に、界面活性剤で豚の細胞を構造タンパク(繊維質)から完全に除去しておくと免疫による拒否反応を押さえられるという研究でした。この「脱細胞化」した構造タンパクを人体に移植すると、その周りに人間の細胞が形成され、損傷した部位を再生できるというもので、この研究が完成すると、再生医療に大きく役立ちます。
 澤田さんの研究は更に進展し、豚の構造タンパクの代わりにコラーゲンやウールのケラチンを使用する方法、そして患者自らの毛髪から取り出したケラチンを使用することも検討されているとのこと。自らの毛髪ですとコストも安く、拒否反応も起こらないということでした。
 わたしは分子生物学は全くの素人ですが、とても刺激的な講演でした。分野が異なっても最先端研究は興味深く、面白いものです。本日の講演プログラムは下記の通りで、最後の上甲先生(椙山女学園大学教授、繊維応用技術研究会々長)のご発表で座長をさせていただきました。
 そこで発表された、繊維への染料の染色挙動に関する新仮説は、わたしが学んできた定説や実際の経験とは異なる部分を含んでいたので、その新仮説を証明する上において、提示された実験系の設定や実験条件は適切なのかという疑問をわたしはぶつけました。時間切れのため、その討論は二次会のお蕎麦屋さんでも続きました。
 このように理系の学会では理詰めの論争を行いますし、仮説と証明方法の因果関係の妥当性なども検討の対象とされます。しかし、実験データの改竄などはありえません。もし自説に都合良くデータを改竄したり、どうとでも言えるような都合の良いデータ解釈を行い、自説の根拠に使用するなどということは、まず起こりません。そんなことをしたら、即アウト、レッドカードです。ところが日本古代史学界は「邪馬壹国」を「邪馬台国」に、「南に至る」を「東に至る」にというデータ(倭人伝原文)改竄がほぼ全員で当たり前のように行われています。本当に不思議な学界というほかありません。

〔講演プログラム〕
①再生医療用材料としての動物毛由来タンパク質 澤田和也(大阪成蹊短期大学教授)
②静電気について(基礎編) 平井学(大阪府立産業技術総合研究所)
③X線による毛髪や羊毛の構造解析 伊藤隆司(花王株式会社)
④走査型プローブ顕微鏡による毛髪・羊毛の観察について 名和哲平(ホーユー株式会社)
⑤羊毛繊維の実用染色における染色温度と酸の作用 上甲恭平(椙山女学園大学教授)

 わたしのfacebookに、澤田さんの講演風景、澤田さん、上甲先生、京都大学原子炉実験所の川口昭夫さんらとの上本町のお蕎麦屋さんでの二次会風景を掲載していますので、ご覧ください。


第1238話 2016/07/28

拝読中『九州倭国通信』

  (No.182 2016.7.20)

 福岡市を中心に活動されている「九州古代史の会」(-「倭国」を徹底して研究する-九州古代史の会、代表:木村寧海氏)とわたしたち「古田史学の会」は双方の機関紙を交流することとなりました。昨日、同会のニュース『九州倭国通信』(No.182 2016.7.20)が送られてきました。「古田史学の会」からは8月発行予定の『古田史学会報』を同会に送付させていただく予定です。いただいた『九州倭国通信』は「古田史学の会」関西例会にて参加者に配布いたします。
 現在、『九州倭国通信』を拝読中ですが、特に注目した記事に、木村寧海さんによる同会の6月例会報告「榊原氏講演より」と中小路竣逸先生(故人)の学問の方法に関する論稿「古代史のカンどころノート」がありました。
 同例会報告では、伊都国歴史博物館元館長の榊原英夫氏が講演「海を渡った倭国王」で述べられた『後漢書』に見える倭国王帥升は使節団を率いて自ら訪中したとする説を紹介されました。興味深い説であり、この件について古田先生がどのように理解されていたのか調べてみたいと思います。
 中小路先生の「古代史のカンどころノート」を読んで、わたしが30代の頃に教えていただいたことを思い出し、とても懐かしく思いました。当時、論証とは何か、論証するとはどういうことか、という問題に悩んでいたわたしに、「ああも言えれば、こうも言える、というのは論証ではない」という中小路先生の言葉がきっかけとなり、ようやく論証や学問研究の方法が見え始めました。中小路先生の論稿は連載されるようですので、これからも楽しみです。
 この度の機関紙交流が契機となり、両会の学問研究分野への交流も進められればと期待しています。


第1233話 2016/07/16

投馬国五万戸の領域

 いつもの大阪府立大学なんばキャンパスが使用できなかったので、大阪歴史博物館の会議室で開催した本日の「古田史学の会」関西例会では、古田史学の方法論に関する大下さんの発表など刺激的な報告が続きました。評制施行時期に関する谷本さんの発表では、わたしと谷本さんとで論争となり、懇親会で服部静尚さん(古田史学の会・編集長)から感情的になりすぎるとお叱りをうけました。論争になるとついつい声が大きくなるという欠点は、還暦を過ぎてもなかなかなおりません。ごめんなさい。
 出野さんの発表で、倭人伝の投馬国を薩摩とする古田説に対して、筑前・筑後・肥前に広がる邪馬壹国の七万戸と比較して、薩摩で五万戸は無理とする出野さんからの指摘に、なるほどと思いました。懇親会でもこのことが話題となり、出野さんや大下さんと検討した結果、投馬国は薩摩だけではなく肥後も含まれていたのではないかという意見にまとまりました。最近、わたしが研究を進めている肥後の古代の見直しを、倭人伝の時代にまで遡って研究する必要を感じました。懇親会も有意義な関西例会に是非ご参加ください。
 7月例会の発表は次の通りでした。

〔7月度関西例会の内容〕
①暁鐘成(あかつきかねなる)の証言-大仁村にあった石棺(八尾市・服部静尚)
②難波宮の羅城 -暁鐘成の証言2(八尾市・服部静尚)
③「古田史学」の基本は実証主義 “学問は実証よりも論証を重んじる”について(豊中市・大下隆司)
④『住吉大社神代記』にあった「国宰」(奈良市・原幸子)
⑤古田先生は孔穎達をどう訓んでいたか(奈良市・水野孝夫)
⑥帯方郡から狗邪韓国の行程は水行か陸行か(奈良市・出野正)
⑦トリ氏出で埋められた神代巻-天照大神とその後の時代-(大阪市・西井健一郎)
⑧「評」史料の再検討(神戸市・谷本茂)
⑨実在した「イワレヒコ(神武)」-神話・伝承はある事実の反映だった-(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 7/23 「古田史学の会」東京講演会シンポジウム(正木さん・服部さん・古賀)の案内・9/03 狭山池博物館 西川寿勝さん講演の案内・「九州古代史の会」との交流開始・7/02 四国の会講演会(正木さん)の報告・8/31 NHK文化センター特別講座(谷本茂さん)の案内・「古代史セッション」(森ノ宮)の案内・その他


第1232話 2016/07/15

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(10)

 正木裕さんに続いて、前期難波宮九州王朝副都説を支持する研究を発表されたのが、服部静尚さん(古田史学の会・編集長)です。服部さんの研究の中でも、わたしが特に注目しているのは「竜田の関」問題と「律令制官僚の人数と宮殿の規模」問題です。
 服部さんが指摘された「竜田の関」問題は意表をついたもので、大和川沿いに河内と大和を繋ぐ道に設けられた「竜田の関」は河内方面から大和盆地に進入する勢力から大和朝廷を防衛するためのものと考えられてきました。しかし、服部さんの調査によると、なんと「竜田の関」は大和盆地方面からの侵入に対して河内側を防衛する位置にあるとのこと。河内の先には前期難波宮があり、従って「竜田の関」は大和の近畿天皇家の勢力から前期難波宮を防衛するための関ということになります。
 確かに地図で確認すると、「竜田の関」があったとされる場所の地勢は、東側からの侵入を阻止するのに効果的な位置です。このことは大和朝廷一元論ではうまく説明できず、東の勢力(近畿天皇家等)から九州王朝の難波副都を防衛するための関という理解を支持します。近畿にある古代の関が九州王朝と関係していたという画期的な服部説ではないでしょうか。(つづく)


第1231話 2016/07/14

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(9)

 わたしが「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の《三の矢》に対抗する、前期難波宮九州王朝副都説を唱えて大和朝廷一元論との「他流試合」に挑み、古田学派の中では「古田先生と異なる意見を述べるのはけしからん」という「批判」を浴びながら孤軍奮闘していたとき、「古田史学の会」関西例会でわたしの説を支持する研究が発表され始めました。
 まず最初に紹介するのが正木裕さん(古田史学の会・事務局長)による九州年号史料『伊予三島縁起』に記されている「番匠の初め」記事の「発見」です。九州年号史料として著名な『伊予三島縁起』には九州年号の端政・金光・常色・白雉・大長などが用いられており、その内容から九州王朝系史料であることは疑えません。記事中には九州王朝の事績とみられるものが少なくありませんが、正木さんは次の記事に注目されました。

 「孝徳天王位、番匠初。常色二戊申、日本国御巡礼給。」
 「孝徳天皇のとき、番匠がはじまる。常色二年戊申(648)に日本国を御巡礼される。

という記事です。この「番匠」とは『広辞苑』によれば、「番上の工匠の意。古代、交代で都に上り、木工(もく)寮で労務に服した木工。」とあります。『日本書紀』孝徳紀には見えない記事ですから、九州王朝が常色二年(648)頃に各地から番匠を集め、大規模な土木工事を行った記事と考えられます。前期難波宮の完成が九州年号の白雉元年(652)ですから、まさに常色二年(648)はその四年前に当たり、前期難波宮造営のための番匠として時期的に見事に一致します。九州年号で記された『伊予三島縁起』中の記事ですから、まさに九州王朝が前期難波宮を造営したとする、わたしの前期難波宮九州王朝副都説を支持する記事だったのです。『伊予三島縁起』を九州年号研究のため、わたしはこれまで何度も読んでいたのですが、この「番匠」記事の意味に気づきませんでした。
 正木さんの見解では、常色二年に九州王朝の天子(正木説によれば伊勢王)が前期難波宮造営のための筑紫の番匠を伴って、更に評制施行のために天下を巡行し、その途中に伊予に寄ったものとされました。前期難波宮から出土した「戊申年木簡」も、常色二年戊申の天下巡行と関係があるのではないかと、正木さんは考えておられます。わたしも両者の「戊申(648年)」は偶然の一致とは思えません。なお、この正木さんの研究は「常色の宗教改革」(『古田史学会報』85号、2008年4月8日。「古田史学の会」HP「新・古代学の扉」に収録)として発表されていますので、是非ご参照ください。とても刺激的な論文で、「番匠」問題以外にも重要な仮説や発見が記されています。(つづく)


第1221話 2016/07/03九州王朝説に突き刺さった三本の矢(1)

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(1)

 わたしたち古田学派にとって九州王朝の実在は自明のことですが、実は九州王朝説にとって今なお越えなければならない三つの難題があります。しかし残念ながらほとんどの研究者はその問題の重要性に気づいていないか、あるいは曖昧に「解釈」しているようで、ごく一部の研究者だけがその難題に果敢に挑戦してます。
 わたしはそれを「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」と表現していますが、7月23日(土)に東京家政学院大学で開催する『邪馬壹国の歴史学』出版記念講演会でこの問題を取り上げますので、それに先だってこの「三本の矢」について説明することにします。
 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」とは次の三つの「考古学的出土事実」のことです。

《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

 7月23日(土)の東京講演会では《三の矢》に関してのシンポジウムも開催しますので、ふるってご参加ください。(つづく)