史料批判一覧

第1215話 2016/06/21

健軍社縁起の九州年号「兄弟」

 熊本から島原に向かう高速フェリーの中で書いています。午前中に熊本駅に着きましたので、駅の近くの図書館で時間待ちをしました。地震で図書館も被災したようで、開架されているスペースが制限されており、歴史書や地誌はほとんど閲覧できませんでしたが、幸いにも『熊本市史』が並んでいましたので、「史料編 第三巻 近世1」(平成6年発刊)を大急ぎで調べたところ、探していた健軍社縁起「文化五年辰 詫摩健軍社縁起控」が収録されていました。
 その冒頭に次のような興味深い記事が、予想に違わず記されていました。

「健軍大明神縁起
一 天照大神六代之孫神、神武天皇第二之王子阿蘇大明神是也、兄弟天正五年十二月廿四日、十戊寅ノ歳、保昌国司、阿蘇大明神四社之一社、健軍ニ御建立被成候、」

 この「兄弟天正五年十二月廿四日、十戊寅ノ歳」の右横に細字で「是年号考ルニ、天平十年ナラン」と書き加えられています。活字本ではなく原文を見てみないと断定はできませんが、「兄弟天正五年」という表記について、干支の「戊寅ノ歳」から「天平十年(738年)」のことではないかと書き加えられたのと思われます。この冒頭の一見意味不明の「兄弟」こそ九州年号であり、558年に相当します。
 この「詫摩健軍社縁起控」は書写が繰り返されたようですので、本来は九州年号の「兄弟元年」とあったものが、書写段階で誤写誤伝されたようです。ちなみに「天正十五年」という表記が同縁起中に散見されることから、別の記事の「天正十五年」という表記が九州年号「兄弟元年」部分に書写段階で混ざり合ったものと思われます。
 他方、健軍神社の創建は欽明19年(558)と紹介されることが一般的ですから、これも本来の伝承は九州年号の「兄弟元年」であったものが、『日本書紀』成立以後に近畿天皇家の『日本書紀』紀年による表記「欽明天皇の19年」に置き換わったことがわかります。
 熊本駅でのわずかな待ち時間を利用しての図書閲覧でしたが、やはり健軍神社は九州王朝により「兄弟元年」に創建されたと考えてよいようです。健軍神社の縁起は他にも残されているはずですから、引き続き調査したいと思います。熊本県在住の方のご協力をいただければ幸いです。

 これからまたフェリーで天草に向かいます。大雨が心配です。


第1184話 2016/05/11

近江朝と「朝庭(錦織遺跡)」

 近江朝を論じる際、最も重要な考古学的論点が大津市錦織遺跡から出土した大規模な朝堂院様式の宮殿遺構でしょう。周囲が宅地化しているので全容は未解明ですが、前期難波宮に匹敵する大規模な北闕型(王宮が北側に位置し、「北を尊し」とする)の朝堂院様式の宮殿であることがわかっています。文字通り「近江朝庭」と呼ぶにふさわしい規模と様式です。通常使用される「朝廷」とはやや意味が異なる「朝庭」という表記には「朝堂院等の建物に囲まれた広場」という字義がありますが、『日本書紀』などでは混用されているようです。従って錦織遺跡の宮殿遺構はまさに「近江朝庭」なのです(通常は「近江大津宮」と呼ばれている)。
 わたしは「白鳳元年(661)、九州王朝の近江遷都」という仮説(「九州王朝の近江遷都」『古田史学会報』61号所収。2004年4月)や、天智による王朝継承・交替(「洛中洛外日記」580話「近江遷都と王朝交代」2013年8月15日)について発表したことがありますが、今回の正木新説は更に具体化させた「天智・大友による九州王朝を継承した九州王朝系近江朝」という新概念です。この考古学的痕跡が錦織遺跡の近江大津宮遺構ですが、実は『日本書紀』にも「近江朝庭」の史料的痕跡が残されています。
 以前、「古田史学の会」関西例会で冨川けい子さんから『日本書紀』には「大和朝廷」という表記はなく、明確に「地名+朝庭」と理解できる表記は「難波朝庭」と「近江朝庭」であるとの研究発表がありました。この指摘は考古学的出土事実に対応していることから、わたしは注目してきたところです。というのも、文字通りの「朝堂院等の建物に囲まれた広場」である大規模な「朝庭」遺構は、7世紀段階では前期難波宮と近江大津宮(錦織遺跡)、そして7世紀末の藤原宮だけなのです(太宰府政庁2期は規模がかなり小さい)。中でも北闕様式の「朝庭」は前期難波宮と近江大津宮です。ですから『日本書紀』の記事(難波朝庭・近江朝庭)と考古学的事実(前期難波宮遺跡・錦織遺跡)が一致しているのです。
 わたしは前期難波宮を「九州王朝の副都」と考えていますし、「九州王朝の近江遷都」があった可能性も高いと考えているのですが、こうした仮説がこれら文献史学と考古学の成果とよく対応しています。さらにこの仮説体系と今回の正木新説もうまく対応しているように思えますので、これからの正木説に対する検討や論争が期待されるところです。


第1154話 2016/03/23

「長良川うかいミュージアム」訪問

 今日は岐阜市の金華山(岐阜城)を望む長良川岸に仕事で行きました。ちょっと空き時間がありましたので、近くの「長良川うかいミュージアム」を見学しました。
 大きなスクリーンに映し出された長良川の鵜飼の歴史や展示はとても勉強になりました。『隋書』「イ妥国伝」に記された鵜飼の記事の紹介や、大宝二年の美濃国戸籍に「鵜養部」が見えることなどが紹介されていました。現在は六軒の鵜匠により鵜飼が伝承されており、その六軒は宮内庁式部職の職員とのこと。
 鵜飼の鵜は二羽セットで飼育されており、その二羽はとても仲がよいとのことなので、雄と雌のペアであれば『隋書』「イ妥国伝」の表記「ろ・じ」※(鵜の雄と雌、※=「盧」+「鳥」、「茲」+「鳥」)に対応していると思いましたが、同ミュージアムの売店の方にお聞きしたところ、鵜は外観からは雄と雌の区別はつかず、二羽セットも雄同士や雌同士の可能性もあり、雄と雌のペアとは限らないとのことでした。そして、長良川の鵜飼では大きな鵜が好まれることもあって、海鵜(茨城県の海岸の海鵜)を捕獲するときも大きな雄が選ばれるので、結果として長良川の鵜飼の鵜は雄がかなり多いのではないかとのこと。雄同士や雌同士のペアでも仲がよいのかとお聞きすると、よいとのことでした。
 『隋書』の記述とは異なる点として、『隋書』では鵜の首に小環がつけられているとされていますが、長良川では紐で首や体がくくられています。その首のくくり加減が重要で、小さな鮎は飲み込まれ、大きな鮎だけが首にとどまるようにするとのことでした。
 鵜飼の風景をビデオで見ますと、船の先端に吊された篝火を鵜は全く恐れていないことに気づきました。動物は火を恐れるものと考えていたのですが、鵜飼の鵜たちは篝火や火の粉を全く気にすることもなく鮎を捕っているのです。こうしたことも現地に行かなければ気づかないことでした。本当に勉強になりました。皆さんにも「長良川うかいミュージアム」はお勧めです。入館料は500円で、駐車場もあります。なお、5月から10月までは鵜飼のシーズンとなりますので、今の季節が空いているのではないでしょうか。


第1138話 2016/02/13

小保方晴子著『あの日』を再読

 STAP報道事件で日本中からバッシングされた小保方さんの手記『あの日』(講談社)を発売初日に購入し再読しています。一読して思ったのが、和田家文書偽作キャンペーンと構造がよく似ていることでした。古田先生の邪馬壹国説や九州王朝説に一元史観側がまともな論争では勝てないと見るや、学問的本質とは無関係な偽作キャンペーンでバッシングを続け、古田説全体のイメージダウンと、「偽書」を支持している古田武彦を相手にしなくてもよい、無視してもよいという構造とそっくりです。
 小保方さんのケースでは、STAP細胞・技術の本質ではなく、結論にも影響しない悪意のない単純な写真の取り違えや、博士号論文のコピペ(アメリカ政府が使用自由と公開した記事部分であり著作権侵害にあたらない)を取り上げてバッシングし、STAP細胞も抹殺するという手法がとられました。
 他方、小保方さんの優れた文章力や表現力、何よりもハーバード大学のバカンティ研でのSTAP細胞発見に至る過程は、学問研究の醍醐味を充分に感じさせるものでした。分子生物学の専門用語が多用されてはいるものの、最初から丁寧に読めば自然と理解できるような内容になっており、勉強にもなりました。
 同書には複数のクライマックスシーンがあるのですが、ハーバード大学留学中に、「STAP細胞」と理研の笹井さんから後に名付けられることになる「スフェア細胞」に多能性(様々な細胞に変化できる能力)を発見したシーンは感動的でした。そのことをバカンティ研で発表したとき、バカンティ教授から「過去15年間で最高のプレゼンテーションだった」と絶賛され、早稲田大学からの半年の留学期限をバカンティ教授からの滞在費用提供により延長されたほどですから、いかに小保方さんが優秀な研究者であったのかがわかります。早稲田大学の指導教授からも小保方さんを「過去ベストスリーに入る優秀な学生」とバカンティ教授に紹介しています。ちなみに、このプレゼンはバカンティ教授から2週間前に指示されたもので、そのための先行論文調査や深夜におよぶ実験を小保方さんはわずか2週間でやりとげたことになります。
 そのプレゼンの後、バカンティ研では小保方さんのSTAP細胞・現象の仮説を証明するべく、研究室の総力をあげて検証実験に入ります。そしてSTAP細胞の作製に成功し、それが「万能細胞」であることを証明するための実験を行うのですが、三つある証明実験の内、二つには成功しますが、最も難しいキメラマウスの作製がバカンティ研の装置や技術ではできないため、小保方さんは帰国し、世界で最もキメラマウスの作製がうまいとされている若山さんに協力依頼を早稲田大学から行います。その結果、小保方さんは無給研究員として理研の若山研でSTAP細胞の量産技術開発に取り組みます。
 若山研ではSTAP細胞の作り方を他の研究員にも小保方さんは教え、そうしてできたSTAP細胞を用いて若山さんが試行錯誤の末、キメラマウス作製に成功します。そしてその成果を海外の研究誌に投稿するのですが、採用されないため、理研はエース級の研究者である笹井さんを投入し、小保方さんのネイチャー用論文の執筆指導に当たらせます。そして、STAP細胞論文はネイチャーに採用されるのですが、同時に理研は国際特許(アメリカで出願)も出願しています。このことから、無給研究員だった小保方さんのSTAP細胞研究を理研がいかに高く評価していたかがわかります。そして運命の記者会見の日、2014年1月28日を迎えます。(つづく)


第1103話 2015/12/08

九州年号の「地域性」について

 『東京古田会ニュース』165号に「法興」年号に関する二論稿が掲載されました。石田敬一さん(古田史学の会・東海、名古屋市)の「法興年号 その2」と正木裕さん(古田史学の会・事務局長、川西市)の「『法興』年号について」です。いずれも学問的に刺激的なテーマを取り扱っておられ、とても興味深いものです。
 両者の論点の一つは「法興」年号を九州王朝・多利思北孤のものとするのか、近畿の蘇我馬子のものとするのかということですが、蘇我氏の年号とする論拠の一つが「法興」年号史料が主に近畿に分布していることにあるようです。よい機会ですので、この九州年号の「地域性(分布)」という史料状況を仮説の根拠に使用する場合の、学問の方法論上の問題点などについて説明したいと思います。
 九州年号史料の「地域性」を論じる場合、「史料は移動する」という避けられない問題があります。たとえば、青森県五所川原市の「三橋家文書」に九州年号「善記」が見られますが、同文書によれば三橋家の先祖は甲府地方出身であり、その「来歴」を綴った史料中に「善記」が使用されたのであって、6世紀初頭の津軽地方で九州年号「善記」が使用されていたことを意味しません。しかし「分布図」には青森県に1件とプロットされてしまいます。九州年号史料にはこのようなケースが少なからずありますので、その分布状況から九州王朝時代の歴史に迫る場合は、こうした「誤差」を無視できるほどの多数の母集団サンプルが必要です。
 さらに現在発見されている九州年号史料の分布には次のような問題もあります。本来なら九州王朝の中心領域として最も多くの九州年号史料が残っていてもよさそうな筑前には、首都(太宰府)所在地にふさわしいような濃密分布を示していません。その理由の一つとして、江戸時代の筑前黒田藩の学者、貝原益軒らが九州年号偽作説に立っていたことがあります。そのため、江戸時代に黒田藩で作成された地誌などに寺社縁起を収録する際に九州年号が消された可能性が高いのです。もっとも、江戸時代よりも古い現地史料の調査が進めば、筑前から新たな九州年号史料が発見される可能性もあります。しかし現状では近畿天皇家一元史観に基づいた史料改変が、九州年号分布に影響しているのです。
 また、現在までの九州年号史料調査における、古田学派の主体的力量の問題もあります。「市民の古代研究会」時代に九州年号史料の発掘を精力的に行った会員の所在地の偏在も、同様に九州年号史料の偏在の原因の一つになっています。当時の九州年号研究者はそれほど多くはありませんでしたから、その研究者の調査範囲でしか、九州年号史料は見つかっていないのです。
 たとえばわたしが地方に旅行したとき、なるべく現地の資料館や図書館を訪問し、現地史料に目を通すようにしていますが、その短時間の閲覧でも結構九州年号を発見できます。残念ながらそうして発見した九州年号史料は未報告のものが大多数なのです。それらを分布図に加えれば、九州年号史料の「地域性」も修正されますから、現時点の分布図を使用して何かを論じようとする場合は注意が必要なのです。
 以上のような基本的な史料批判の観点から「法興」年号史料の分布を見たとき、同様の問題点、すなわち「史料は移動する」「調査対象の偏在」「サンプル数が少ない」という課題の他に、史料性格上から発生する更に難しい問題があります。それは盗用された九州王朝の「聖徳太子」伝承とともに「法興」年号も盗用され、更に後代の「太子信仰」の拡散とともに、盗用された「法興」年号も拡散するという問題です。
 九州王朝の「聖徳太子」伝承の盗用問題は『盗まれた「聖徳太子」伝承』(古田史学の会編。2015年、明石書店)に詳しく論じていますので、ご参照いただきたいのですが、わたしの見るところ、「法興」年号史料のほとんどは後代に「聖徳太子」伝承とともに「盗用」「転用」されたものであり、同時代史料、あるいは二次史料として史料批判に耐えうるものは法隆寺の釈迦三尊像光背銘と「伊予温湯碑(逸文)」くらいです。しかも、より厳密に言えば釈迦三尊像は「移動した史料」であり、その移動前の寺院の場所は不明です。ですから、「分布図」としての地域を特定できないのです。
 以上のように問題点の大きい「法興」年号史料分布状況を自説の根拠に使用することは、学問の方法論上の危険性を伴います。こうした九州年号の「地域性」について、学問の方法上の問題点があることを九州年号研究者には留意していただきたいと願っています。


第1092話 2015/11/13

「とーとーたらり、とーたらり」

 奄美大島出身の歌手、城南海(きずき・みなみ)さん(25歳)のニューアルバム「尊々加那志〜トウトガナシ〜」を購入したのですが、奄美大島の方言で「尊々加那志〜トウトガナシ〜」とは「大切なあなた」「尊い人」という意味とのこと。そこで、謡曲「翁」などで歌われる意味不明のフレーズ「とーとーたらり、とーたらり」の「とーとー」とは「尊い」「大切な」という意味ではないかと思いつきました。
 正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が謡曲に滅法詳しいので、先日、朝来市の赤淵神社訪問のおり、おたずねしました。やはり「とーとーたらり」は「翁」で謡われるものの、意味は諸説有るが不明とのことでした。
 インターネットで調べたところ、「とーとー」は「尊い」とする説があり、その発音からも現代語の「とおとい」と共通したものと思われました。「たらり」は「きらり」とひかるという説があり、「大切なもがきらきら光っている」という意味でしょうか。沖縄や奄美大島で「たらり」という方言があれば、それは有力説となりそうですが、ご存じの方があればご教示ください。
 いずれにしても、「とーとーたらり」で始まる「翁」などの謡曲の歌詞の淵源は南方系のようです。しかし、時代の流れの中で、意味不明となってしまった歴史的背景が問題となります。このテーマも古田先生が提起された言素論で解明できれば面白いのですが、引き続き検討したいと思います。


第1084話 2015/10/29

「邪馬壹国」説、

昭和44年「読売新聞」が紹介

 「洛中洛外日記」1078話で、古田先生の『「邪馬台国」はなかった』の最初の書評「批判と研究」(『週間読売』昭和47年1月)が池田大作氏により発表されたことを紹介しました。『「邪馬台国」はなかった』の元となった最初の論文、すなわち古田先生の「邪馬壹国」説が最初に発表されたのは東京大学の『史学雑誌』で、昭和44年、古田先生が43歳のときです。それは「邪馬壹国」という論文で、その年の日本古代史分野では最も優れた論文と高く評価されました。
 その「邪馬壹国」説を最初に紹介した読売新聞の記事を茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員)が見つけて下さり、その記事を正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が活字データにしていただきましたので、ご紹介します。
 今、読んでみてもかなり正確な内容の記事です。当時の新聞記者の優秀さがうかがわれます。現在のように記者クラブなどで政府や官邸から流される発表をそのまま記事にする記者とは大違いです。それと同時に、この記事はある程度の学力(北畠親房や新井白石の業績を知っている)がないと深く理解できません。当時の新聞読者(国民)の学問レベルも新聞記者と同様に高かったように思われます。
 正木さんからのメールには次のような的確な感想が付されており、こちらもご紹介します。

《正木さんからのメール》
 茂山さんから昭和44年の古田先生の史学雑誌への発表をとりあげた読売新聞の記事を頂きました。記事を添付しましたが、見にくいので記事起ししました。 東大榎、京大上田、松本清張という「巨頭」がこぞって大きく評価しており、いかに大きな衝撃だったかがわかります。
 今日の「古田無視」の状況がどのような経過でもたらされたのか、その理由・背景に何があったのか、学問的にも大きな研究課題になろうかと思います。
 正木拝

《昭和四十四年十一月十二日読売新聞》

(大見出し)邪馬臺ヤマタイ国ではなく邪馬壹ヤマイチ国
 後漢書こそ三国志を誤記

(中見出し)古代史の根源に波紋
(*魏志倭人伝と後漢書の写真、古田先生の写真を掲載)

(リード)三世紀の日本にあったのは、邪馬台(ヤマタイ)国ではなく邪馬壹(ヤマイ)国だったーヤマタイの発音からヤマトを想定したわが国の古代史の序章を白紙に戻させるような研究論文が、この秋、突然、学術専門誌に発表され、歴史学会に大きな波紋を投じている。
 京都の市立洛陽工業高校古田武彦教諭(四三)が五年間を費やした労作。これまで三国志の魏志倭人伝(当時の日本の情勢が書かれている)に出てくる邪馬壹国の「壹」は「臺」の書き誤りというのが定説になっていたが、古田教諭は「壹が正しく、臺の誤記ではない」という結論に達したという。ヤマタイ国について独自の推理を展開してきた松本清張氏は「大きな盲点をつかれた」と”古田研究”を高く評価しており、学会でも「もう一度出発点に戻らなければ」と古代史の”再点検”をうながす声が起こっている。

(小見出し)近畿、九州論争根拠を失う

(記事)これまでヤマタイ国の根拠とされてきたのは、五世紀の中国の史書、後漢書に出てくる「邪馬臺国」で、それ以後の史書も後漢書にならって同じ表記をしており、三世紀に書かれた三国志の「邪馬壹国」の方が書き誤りとされてきた。
 古田教諭の研究は、史学会代表者榎一雄東大教授の推薦で、同会の機関紙「史学雑誌」最近号に「研究ノート」として発表された。
 そのポイントは、女王ヒミコが統治する国についての最古の文献である三国志には「邪馬壹国」とあり、北畠親房、新井白石から今日にいたるまで「これは臺の誤記」という説がうのみにされてきたが、科学的に検討すると「壹」と「臺」の書き間違いは考えられないーというもの。
 三国志の「邪馬壹国」と、後漢書の「邪馬臺国」とを比較、検討した結果、文献上、字形上、発音上、次のような点が明らかであるとしている。
 ①三国志の文中には合計八十六個の「壹」の字が使われている。しかし、一つとして混同は認められない。一方、後漢書は、三国志の文面をもとにしながら「女子の多い国」などと才気走った修飾があちこちに見られ、誤記の可能性はむしろ後漢書の方こそ強い。②三国志が書かれた三世紀当時の「臺」の字には「天子の宮殿」という意味がある。また邪、馬、奴などはいずれも蔑称(べっしょう)で邪馬という蔑称の下に「臺」の字を使うはずがない③後漢書の「邪馬臺国」には、唐時代の学者李賢(七世紀)の注として「案ずるに今の名、邪馬惟(ヤマイ)の音の訛(なまり)なり」とあり、唐代になっても邪馬惟だったと思われる④仮に一歩譲って「邪馬臺国」が存在したとしても、発音は濁った「ダイ」であって「台(タイ)」にはならず、これを「ヤマト」と類推するには飛躍がありすぎる。
 つまりヤマタイ国は、それこそ”まぼろし”だったというわけで、八世紀の古事記、日本書紀に初めて現れる大和朝廷をヤマタイ国と結びつける従来の古代史は、それ以前の糸をぷっつりと断ち切られることになるし、発音からきた福岡県山門(やまと)郡説も、根拠を失ってしまう。
 これまでの学会は、ヤマタイ国近畿説、北九州説に分かれながらも、ヤマタイ国の存在そのものは疑わなかったが、その根源にいきなりメスを当てられたかっこう。いまのところ「結論的には賛成しかねるが、新しい研究方向を示し、大きな波紋を投ずるものと思って推薦した」(東大榎教授)「三国志自体の信ぴょう性という問題は残る。しかし従来の研究の重大な弱点を指摘してくれた」(京都大上田正昭助教授)など、専門学者の反応はさまざまだが、それぞれ大きなショックを受けたことは間違いなさそうだ。

(小見出し)説得力十分だ

(記事)松本清張氏の話「この問題を、これほど科学的態度で追跡した研究は、他に例がないだろう。十分に説得力もあり、何もあやしまずにきた学会は、大きな盲点をつかれたわけで、虚心に反省すべきだと思う。ヤマタイではなくヤマイだとしたら、それはどこに、どんな形で存在したのか、非常に興味深い問題提起で、私自身、根本的に再検討を加えたい」


第1080話 2015/10/23

古田先生からいただいた宝物

 わたしが31歳のとき、古田先生に初めてお会いしたのですが、先生からはいくつかの「宝物」をいただきました。今回はその中の一つをご紹介します。
 それは2000年5月26日にいただいた、古田先生の自筆原稿「村岡典嗣論 -時代に抗する学問-」です。古田先生の東北大学時代の恩師、村岡典嗣先生を学問的に乗り越えるべく執筆された記念碑的論稿と言ってもよいでしょう。同論文は『古田史学会報』38号(2000年6月)に掲載されましたが、その自筆原稿をわたしにくださったのです。それには次の一文が付されていました。

 「この『村岡典嗣論』わたしにとって記念すべき論稿です。お手もとに御恵存賜らば終生の幸いと存じます。
  二〇〇〇 五月二十六日  古田武彦 拝
 古賀達也様」

 古田先生ご逝去により、『古代に真実を求めて』19集を追悼号としますが、この古田先生自らが「記念すべき論稿」として託された自筆原稿を巻頭写真に掲載し、同論稿を再録したいと思い、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)に検討を要請しました。この自筆原稿をいただいてから15年も経つのかと思うと、感無量です。もう一度、しっかりと読み直したいと思います。


第1078話 2015/10/20

池田大作氏の書評「批判と研究」

 古田先生が生前に親交をもたれていた各界の人士にご連絡をとっていますが、ご返信も届きはじめました。17日には創価学会名誉会長の池田大作氏から、知人を介して次の御伝言をいただきましたのでご紹介します。

 「ご生前の御功績をしのび、仏法者として懇ろに追善させていただきました。くれぐれもよろしくお伝え下さい。」(池田大作)

 古田先生と池田大作氏との交流は『「邪馬台国」はなかった』の発刊時にまで遡ります。同書は昭和46年11月に発行されています。わたしが古田先生からお聞きしたことですが、『「邪馬台国」はなかった』の書評を最初に発表されたのが池田大作氏で、それ以来、古田先生の著作が刊行されると贈呈し、そのたびに読書感想を交えた丁重なお礼状や池田氏の著作が届くという間柄になられたとのこと。先生のご自宅で池田氏のサイン入りの写真集なども見せていただいたことがあります。
 池田大作氏の書評は昭和47年1月15日の『週間読売』に掲載された「批判と研究」というものです。それは次のような文で始まります。

 「最近評判になっている『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著、朝日新聞社)という書物を一読した。はなはだ衝撃的な題名であるが、推論の方法は堅実であり、説得的なものがある。読んでいて、あたかも本格的な推理小説のような興味を覚えた。これが好評を博す理由もよく理解できる。」

 そして古田先生の邪馬壹国説を正確に要領よく紹介され、九州説の東大と近畿説の京大との学閥問題にも触れられます。さらには古田史学・フィロロギーの方法論と同一の考え方を示され、最後を次のように締めくくられています。

 「『批判』はどこまでも厳密であるべきだ。なればこそ『批判』にあたっては、偏見や先入観をできるかぎり排除して、まず対象そのものを冷静、正確に凝視することが大切であろう。そもそも『批判の眼』が歪んでいれば、対象はどうしても歪んだ映像を結ばざるをえないのだろうから--。」

 この池田氏の「批判と研究」は学問的にも大変優れた内容です。この書評は『きのうきょう』(聖教文庫81、聖教新聞社、1976年)に収録されています。
 わたしがこの書評の存在を古田先生からお聞きしたのは、「古田史学の会」創立後ですから、今から15年ほど前のことと思います。そのとき先生はうれしそうなお顔で次のように言われました。

 「池田さんとお会いしたことはないのですが、是非、会ってみたいという気持ちと、このまま書簡と書籍を交換するだけの間柄を大切にしたいという気持ちの両方があります。」

 こうして、古田先生は池田大作氏とはお会いされることはないまま逝かれました。


第1075話 2015/10/13

「東寺百合文書」の思い出

 「東寺百合文書」(とうじひゃくごうもんじょ)がユネスコの世界記憶遺産に登録されたとのニュースに接し、30年程前のことを思い出しました。
 古田史学を知り、「市民の古代研究会」に入会したての頃、わたしは九州年号を研究テーマの一つにしました。当時の研究状況は九州年号史料の調査発掘がメインでしたので、研究や調査の方法もどこにどんな史料があるのかも全くわからない「ど素人」のわたしは、京都や滋賀の寺社を訪問したり、京都府立総合資料館にこもって史料探索をしていました。
 ちょうどそのころ、京都では「東寺百合文書」の調査と活字化が行われており、府立総合資料館には「東寺百合文書」の活字本が閲覧可能となっていました。そこでその中に九州年号があるかもしれないと思い、それこそ読めもしない漢文や漢字だらけの膨大な「東寺百合文書」を目を皿のようにして「眺め」ていました。ちなみに、当初わたしは「東寺百合文書」を何と読むのかさえも知らず、「とうじゆりもんじょ」と思いこんでいました。今から思い出してもお恥ずかしい限りです。
 当時は古田先生に入門したばかりで、化学系のわたしは古文書など読めもしませんし、まったくの初心者でした(今も得意ではありません)。そこで、読むのではなく「○○年」という文字列を検索(眺めて見つける)するという手法を採用しました。まだ若かったこともあり府立総合資料館の朝の開館から夕方の閉館まで昼食もとらずに何時間も「東寺百合文書」を猛烈なスピードで眺め続けました。結局、九州年号を見つけることはできませんでしたが、とても良い訓練となりました。このときの経験が後に何度も役立つのですが、そのことは別の機会にご紹介したいと思います。
 「東寺百合文書」が世界記憶遺産に登録されたことで、改めてネットで調べてみますと、なんと京都府立総合資料館のサイトでWEB検索ができるようになっていました。しかも「年号」での検索も可能です。隔世の感があります。今は視力も体力も集中力も落ちていますから、こうしたWEB検索機能は大変ありがたいことですが、若い頃のあのハードな訓練はやはり研究者にとって得難い体験です。古田学派の若い研究者にもWEBにあまり依存することなく、現物の古文書や紙媒体による史料調査の経験も積んでいただきたいと思いました。


第1070話 2015/10/07

『泰澄和尚傳』の道照と宇治橋

  『泰澄和尚傳』(金沢文庫本)によれば、道照が北陸修行時の「持統天皇(朱鳥)七年壬辰(692年)」に11歳の泰澄と出会い、神童と評したとあります。道照は宇治橋を「創造」した高僧として、『続日本紀』文武4年三月条(700)にその「傳」が記されています。
 それによれば道照の生年は舒明元年(629年、九州年号の仁王7年)となり、没年は文武4年(700年、九州年号の大化6年)72歳とあり、北陸で泰澄少年に出会ったのは道照64歳のときとなります。当時の寿命としては高齢であり、はたしてこの年齢で北陸まで修行に行けたのだろうかという疑問もないわけではありませんが、古代も現代も健康年齢には個人差がありますから、学問的には当否を判断できません。
 『続日本紀』には道照が宇治橋を「創造」したと記されています。ところが有名な金石文「宇治橋断碑」や『扶桑略記』『帝王編年記』などには、「大化二年丙午(646)」に道登が造ったと記されており、かねてから議論の対象となってきました。とりわけ「宇治橋断碑」については古田学派内でも20年以上も前に中村幸雄さんや藤田友治さんら(共に故人)が諸説を発表されてきましたが、その後はあまり論議検討の対象にはなりませんでした。今回、「泰澄和尚傳」で道照の名前に再会し、当時の論争風景を懐かしく思い起こしました。
 そこで、その後進展した現在の古田史学・多元史観の学問水準からみて、この宇治橋創建年二説について少しばかり整理考察してみたくなりました。結論など全く出ていませんが、次のように論点整理を試み、皆さんのご批判ご検討の材料にしていただければと思います。

 1.「宇治橋断碑」などにある「大化二年丙午」は『日本書紀』の大化年号(645〜649年、元年干支は乙巳)によっており、それは九州年号の大化(695〜703年、元年干支は乙未)の盗用であり、従って「大化二年丙午(646)」という年号が記された「宇治橋断碑」などは『日本書紀』成立(720年)以後に造られたものである。
 2.『続日本紀』の記事は文武4年条(700年)だが、『続日本紀』の最終的成立は延暦16年(797年)なので、8世紀末頃の近畿天皇家の公式の見解では宇治橋を創建したのは道照であり、その時期は早くても遣唐使から帰国した「白雉4年」以後(斉明7年説が有力)とされる。
 3.また、「大化二年」では道照18歳のときであり、宇治橋「創造」のような大事業を行えるとは考えにくいとする意見も根強くある。
 4.「宇治橋断碑」などの「大化二年丙午(646年)」は九州年号の「大化二年丙申(696年)」とする本来の伝承を『日本書紀』の大化により干支を書き換えられたものとすれば、「大化二年丙申(696年)」は、道照の晩年(68歳)の事業となり、やや高齢に過ぎると思われるが、健康年齢の個人差を考慮すれば不可能とまでは言えない。もちろん道照自身が橋を建築するわけでもないので。
 5.他方、道登は『日本書紀』の大化元年・白雉元年条などに有力な僧侶として登場しており、その約50年後ではたとえ健在であったとしても道照以上に高齢となり、宇治橋「創造」事業の中心人物とはなりにくいように思われる。
 6.宇治橋そのものに焦点を当てると、『日本書紀』の天武元年条(672年)に「宇治橋」という記事が見え、その頃には宇治橋は存在していたこととなり、九州年号の大化2年(696年)「創造」説とは整合しない。

 以上のように今のところ考えているのですが、結論としては、まだよくわからないという状況です。勘違いや別の有力な視点もあると思いますので、引き続き検討したいと思います。


第1062話 2015/09/25

加賀の「天皇」と「臣」

 「古田史学の会」9月の関西例会では重要なテーマの研究発表がいくつもありましたが、中でも今後の展開が期待される研究が冨川ケイ子さん(会員、相模原市)から報告されました(加賀と肥後の道君 越前の「天皇」と対高句麗外交)。それは6世紀(欽明期)の加賀に「天皇」と「臣」を称した有力者がいたというものです。
 『日本書紀』欽明31年(570年、九州年号の金光元年)3〜5月条に見える、高麗の使者が加賀に漂流し、当地の豪族である道君を天皇と思い、貢ぎ物を献上したという記事です。そのことをこれも当地の豪族の江淳臣裙代が京に行って訴え、其の結果、道君が天皇ではないことを高麗の使者は知り、貢ぎ物は取り返されたと記されています。
 冨川さんは、道君は高麗の使者が天皇と間違えるほどの有力者であることに着目され、当時の加賀(越の国)では道君が「天皇」を自称したのではないかとされました。また8世紀初頭において、道君首名(みちのきみ・おびとな)が筑後と肥後の国司を兼任していることから、筑紫舞の翁(三人立)の登場人物が都の翁と肥後の翁、加賀の翁であることと、何らかの関係があるのではないかとされました。
 肥後が鉄の産地で、加賀がグリーンタフ(緑色凝灰岩)の産地であることから、九州王朝の天子を中心としながらも、加賀にナンバーツーの「天皇」を名乗れるほどの有力者がいたかもしれないという仮説は大変興味深いものです。
 高麗(高句麗)の使者が倭国(九州王朝)の代表者が九州にいたのか、加賀にいたのかを知らなかったとは考えられません。もしかすると、九州ではなく最初から加賀の「天皇」に会うために高麗の使者は加賀に向かったのかもしれません。まだ当否の判断はできない新仮説ですが、これからどのような展開を見せるのかが楽しみな研究発表でした。