史料批判一覧

第1080話 2015/10/23

古田先生からいただいた宝物

 わたしが31歳のとき、古田先生に初めてお会いしたのですが、先生からはいくつかの「宝物」をいただきました。今回はその中の一つをご紹介します。
 それは2000年5月26日にいただいた、古田先生の自筆原稿「村岡典嗣論 -時代に抗する学問-」です。古田先生の東北大学時代の恩師、村岡典嗣先生を学問的に乗り越えるべく執筆された記念碑的論稿と言ってもよいでしょう。同論文は『古田史学会報』38号(2000年6月)に掲載されましたが、その自筆原稿をわたしにくださったのです。それには次の一文が付されていました。

 「この『村岡典嗣論』わたしにとって記念すべき論稿です。お手もとに御恵存賜らば終生の幸いと存じます。
  二〇〇〇 五月二十六日  古田武彦 拝
 古賀達也様」

 古田先生ご逝去により、『古代に真実を求めて』19集を追悼号としますが、この古田先生自らが「記念すべき論稿」として託された自筆原稿を巻頭写真に掲載し、同論稿を再録したいと思い、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)に検討を要請しました。この自筆原稿をいただいてから15年も経つのかと思うと、感無量です。もう一度、しっかりと読み直したいと思います。


第1078話 2015/10/20

池田大作氏の書評「批判と研究」

 古田先生が生前に親交をもたれていた各界の人士にご連絡をとっていますが、ご返信も届きはじめました。17日には創価学会名誉会長の池田大作氏から、知人を介して次の御伝言をいただきましたのでご紹介します。

 「ご生前の御功績をしのび、仏法者として懇ろに追善させていただきました。くれぐれもよろしくお伝え下さい。」(池田大作)

 古田先生と池田大作氏との交流は『「邪馬台国」はなかった』の発刊時にまで遡ります。同書は昭和46年11月に発行されています。わたしが古田先生からお聞きしたことですが、『「邪馬台国」はなかった』の書評を最初に発表されたのが池田大作氏で、それ以来、古田先生の著作が刊行されると贈呈し、そのたびに読書感想を交えた丁重なお礼状や池田氏の著作が届くという間柄になられたとのこと。先生のご自宅で池田氏のサイン入りの写真集なども見せていただいたことがあります。
 池田大作氏の書評は昭和47年1月15日の『週間読売』に掲載された「批判と研究」というものです。それは次のような文で始まります。

 「最近評判になっている『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著、朝日新聞社)という書物を一読した。はなはだ衝撃的な題名であるが、推論の方法は堅実であり、説得的なものがある。読んでいて、あたかも本格的な推理小説のような興味を覚えた。これが好評を博す理由もよく理解できる。」

 そして古田先生の邪馬壹国説を正確に要領よく紹介され、九州説の東大と近畿説の京大との学閥問題にも触れられます。さらには古田史学・フィロロギーの方法論と同一の考え方を示され、最後を次のように締めくくられています。

 「『批判』はどこまでも厳密であるべきだ。なればこそ『批判』にあたっては、偏見や先入観をできるかぎり排除して、まず対象そのものを冷静、正確に凝視することが大切であろう。そもそも『批判の眼』が歪んでいれば、対象はどうしても歪んだ映像を結ばざるをえないのだろうから--。」

 この池田氏の「批判と研究」は学問的にも大変優れた内容です。この書評は『きのうきょう』(聖教文庫81、聖教新聞社、1976年)に収録されています。
 わたしがこの書評の存在を古田先生からお聞きしたのは、「古田史学の会」創立後ですから、今から15年ほど前のことと思います。そのとき先生はうれしそうなお顔で次のように言われました。

 「池田さんとお会いしたことはないのですが、是非、会ってみたいという気持ちと、このまま書簡と書籍を交換するだけの間柄を大切にしたいという気持ちの両方があります。」

 こうして、古田先生は池田大作氏とはお会いされることはないまま逝かれました。


第1075話 2015/10/13

「東寺百合文書」の思い出

 「東寺百合文書」(とうじひゃくごうもんじょ)がユネスコの世界記憶遺産に登録されたとのニュースに接し、30年程前のことを思い出しました。
 古田史学を知り、「市民の古代研究会」に入会したての頃、わたしは九州年号を研究テーマの一つにしました。当時の研究状況は九州年号史料の調査発掘がメインでしたので、研究や調査の方法もどこにどんな史料があるのかも全くわからない「ど素人」のわたしは、京都や滋賀の寺社を訪問したり、京都府立総合資料館にこもって史料探索をしていました。
 ちょうどそのころ、京都では「東寺百合文書」の調査と活字化が行われており、府立総合資料館には「東寺百合文書」の活字本が閲覧可能となっていました。そこでその中に九州年号があるかもしれないと思い、それこそ読めもしない漢文や漢字だらけの膨大な「東寺百合文書」を目を皿のようにして「眺め」ていました。ちなみに、当初わたしは「東寺百合文書」を何と読むのかさえも知らず、「とうじゆりもんじょ」と思いこんでいました。今から思い出してもお恥ずかしい限りです。
 当時は古田先生に入門したばかりで、化学系のわたしは古文書など読めもしませんし、まったくの初心者でした(今も得意ではありません)。そこで、読むのではなく「○○年」という文字列を検索(眺めて見つける)するという手法を採用しました。まだ若かったこともあり府立総合資料館の朝の開館から夕方の閉館まで昼食もとらずに何時間も「東寺百合文書」を猛烈なスピードで眺め続けました。結局、九州年号を見つけることはできませんでしたが、とても良い訓練となりました。このときの経験が後に何度も役立つのですが、そのことは別の機会にご紹介したいと思います。
 「東寺百合文書」が世界記憶遺産に登録されたことで、改めてネットで調べてみますと、なんと京都府立総合資料館のサイトでWEB検索ができるようになっていました。しかも「年号」での検索も可能です。隔世の感があります。今は視力も体力も集中力も落ちていますから、こうしたWEB検索機能は大変ありがたいことですが、若い頃のあのハードな訓練はやはり研究者にとって得難い体験です。古田学派の若い研究者にもWEBにあまり依存することなく、現物の古文書や紙媒体による史料調査の経験も積んでいただきたいと思いました。


第1070話 2015/10/07

『泰澄和尚傳』の道照と宇治橋

  『泰澄和尚傳』(金沢文庫本)によれば、道照が北陸修行時の「持統天皇(朱鳥)七年壬辰(692年)」に11歳の泰澄と出会い、神童と評したとあります。道照は宇治橋を「創造」した高僧として、『続日本紀』文武4年三月条(700)にその「傳」が記されています。
 それによれば道照の生年は舒明元年(629年、九州年号の仁王7年)となり、没年は文武4年(700年、九州年号の大化6年)72歳とあり、北陸で泰澄少年に出会ったのは道照64歳のときとなります。当時の寿命としては高齢であり、はたしてこの年齢で北陸まで修行に行けたのだろうかという疑問もないわけではありませんが、古代も現代も健康年齢には個人差がありますから、学問的には当否を判断できません。
 『続日本紀』には道照が宇治橋を「創造」したと記されています。ところが有名な金石文「宇治橋断碑」や『扶桑略記』『帝王編年記』などには、「大化二年丙午(646)」に道登が造ったと記されており、かねてから議論の対象となってきました。とりわけ「宇治橋断碑」については古田学派内でも20年以上も前に中村幸雄さんや藤田友治さんら(共に故人)が諸説を発表されてきましたが、その後はあまり論議検討の対象にはなりませんでした。今回、「泰澄和尚傳」で道照の名前に再会し、当時の論争風景を懐かしく思い起こしました。
 そこで、その後進展した現在の古田史学・多元史観の学問水準からみて、この宇治橋創建年二説について少しばかり整理考察してみたくなりました。結論など全く出ていませんが、次のように論点整理を試み、皆さんのご批判ご検討の材料にしていただければと思います。

 1.「宇治橋断碑」などにある「大化二年丙午」は『日本書紀』の大化年号(645〜649年、元年干支は乙巳)によっており、それは九州年号の大化(695〜703年、元年干支は乙未)の盗用であり、従って「大化二年丙午(646)」という年号が記された「宇治橋断碑」などは『日本書紀』成立(720年)以後に造られたものである。
 2.『続日本紀』の記事は文武4年条(700年)だが、『続日本紀』の最終的成立は延暦16年(797年)なので、8世紀末頃の近畿天皇家の公式の見解では宇治橋を創建したのは道照であり、その時期は早くても遣唐使から帰国した「白雉4年」以後(斉明7年説が有力)とされる。
 3.また、「大化二年」では道照18歳のときであり、宇治橋「創造」のような大事業を行えるとは考えにくいとする意見も根強くある。
 4.「宇治橋断碑」などの「大化二年丙午(646年)」は九州年号の「大化二年丙申(696年)」とする本来の伝承を『日本書紀』の大化により干支を書き換えられたものとすれば、「大化二年丙申(696年)」は、道照の晩年(68歳)の事業となり、やや高齢に過ぎると思われるが、健康年齢の個人差を考慮すれば不可能とまでは言えない。もちろん道照自身が橋を建築するわけでもないので。
 5.他方、道登は『日本書紀』の大化元年・白雉元年条などに有力な僧侶として登場しており、その約50年後ではたとえ健在であったとしても道照以上に高齢となり、宇治橋「創造」事業の中心人物とはなりにくいように思われる。
 6.宇治橋そのものに焦点を当てると、『日本書紀』の天武元年条(672年)に「宇治橋」という記事が見え、その頃には宇治橋は存在していたこととなり、九州年号の大化2年(696年)「創造」説とは整合しない。

 以上のように今のところ考えているのですが、結論としては、まだよくわからないという状況です。勘違いや別の有力な視点もあると思いますので、引き続き検討したいと思います。


第1062話 2015/09/25

加賀の「天皇」と「臣」

 「古田史学の会」9月の関西例会では重要なテーマの研究発表がいくつもありましたが、中でも今後の展開が期待される研究が冨川ケイ子さん(会員、相模原市)から報告されました(加賀と肥後の道君 越前の「天皇」と対高句麗外交)。それは6世紀(欽明期)の加賀に「天皇」と「臣」を称した有力者がいたというものです。
 『日本書紀』欽明31年(570年、九州年号の金光元年)3〜5月条に見える、高麗の使者が加賀に漂流し、当地の豪族である道君を天皇と思い、貢ぎ物を献上したという記事です。そのことをこれも当地の豪族の江淳臣裙代が京に行って訴え、其の結果、道君が天皇ではないことを高麗の使者は知り、貢ぎ物は取り返されたと記されています。
 冨川さんは、道君は高麗の使者が天皇と間違えるほどの有力者であることに着目され、当時の加賀(越の国)では道君が「天皇」を自称したのではないかとされました。また8世紀初頭において、道君首名(みちのきみ・おびとな)が筑後と肥後の国司を兼任していることから、筑紫舞の翁(三人立)の登場人物が都の翁と肥後の翁、加賀の翁であることと、何らかの関係があるのではないかとされました。
 肥後が鉄の産地で、加賀がグリーンタフ(緑色凝灰岩)の産地であることから、九州王朝の天子を中心としながらも、加賀にナンバーツーの「天皇」を名乗れるほどの有力者がいたかもしれないという仮説は大変興味深いものです。
 高麗(高句麗)の使者が倭国(九州王朝)の代表者が九州にいたのか、加賀にいたのかを知らなかったとは考えられません。もしかすると、九州ではなく最初から加賀の「天皇」に会うために高麗の使者は加賀に向かったのかもしれません。まだ当否の判断はできない新仮説ですが、これからどのような展開を見せるのかが楽しみな研究発表でした。


第1061話 2015/09/24

九州発か「○○丸」名字(3)

 「○○丸」名字の考察と調査を進めてきましたが、その中心地(淵源)が福岡県を筆頭とする九州地方であることは、まず間違いなさそうです。そうなると、やはり古代九州王朝との関係が気になるところです。そもそも「丸(まる)」とは何を意味するのでしょうか。古田先生が提唱された元素論でもちょっと説明できません。「ま」や「る」の元素論的定義(意味)から解明できればよいのですが、今のところよくわかりません。
 しかし、まったくヒントがないかと言えば、そうでもありません。たとえばお城の「本丸」や「二の丸」の「丸」や、日本の船の名前に多用される「丸」などと関係があるのではないかと睨んでいます。古代伝承でも朝倉の「木(こ)の丸殿」に天智天皇がいたとするものがあり、「天皇」の宮殿名にも「丸」が採用されていた痕跡かもしれません。
 こうしたことから推察すると、「丸」とは周囲とは隔絶された重要(神聖)な空間・領域を意味する用語と考えてもよいのではないでしょうか。そうすると「丸」の「ま」は地名接尾語の「ま」(一定領域)と同源のように思われます。
 ラグビーの五郎丸選手のおかげで、ここまで考察を進めることができましたが、まだ作業仮説(思いつき)の域を出ていませんので、これからも勉強したいと思います。


第1060話 2015/09/23

九州発か「○○丸」名字(2)

 名字や地名の由来をネット検索で調べてみますと、「○○丸」地名の説明として、「丸」とは新たな開墾地のことで、例えば田中さんが開墾すれば「田中丸」という地名が付けられ、その地に住んでいた人が「田中丸」を名字にしたとするものがありました。しかし、これはおかしな説明で、それでは新たな開墾地は九州や広島県に多く、その他の地方では開拓しなかったのかという疑問をうまく説明できません。さらに「五郎丸」の場合は「五郎」さんが開墾したことになり、これではどこ家の五郎さんかわかりません。やはり、この解説ではこれらの批判に耐えられず、学問的な仮説とは言い難いようです。ネットの匿名でのもっともらしい説明はあまり真に受けない方がよいと思います。
 それでは「五郎丸」の「五郎」は人名に基づいたものでしょうか。わたしはこのことにも疑問をいだいています。たとえば、わたしの名字の「古賀」は福岡県に圧倒的に濃密分布しているのですが、「名字由来net」で検索したところ「古賀丸」という名字は1件もヒットしないのです。「古賀」さんたちは新たに開墾しなかったのでしょうか。自らの名字に「丸」を付けるのがいやだったのでしょうか。ちなみに、「古賀」「○○古賀」という地名は福岡県内にけっこう存在します。
 このような疑問の連鎖が続くこともあり、「五郎丸」名字と関連した「○郎丸」名字を「名字由来net」で調べてみました。次の通りです。数値は概数のようですので、「傾向」としてご理解ください。

〔「○郎丸」名字 県別ランク人数〕(人)
名字  1位   2位   3位       全国計
太郎丸 福岡80    佐賀10  長崎10          130
次郎丸 福岡230  大分50  神奈川,東京30   440
一郎丸 福岡50                              50
二郎丸 福岡60   東京10                    70
三郎丸 広島50   福岡40  大分・長崎20    150
四郎丸 福岡70   広島50  東京30          180
五郎丸 福岡500  山口120  広島60         990
六郎丸 大分・広島10                        10
七郎丸 大分・福井10                        20
八郎丸 無し                                 0
九郎丸 熊本50   福岡30  埼玉・兵庫10     90
十郎丸 無し                                 0

 以上の結果から、やはり「○郎丸」名字は福岡県に多いことがわかり、中でも「五郎丸」さんが他と比べて断トツで多いことが注目されます。人名がその名字の由来であれば、長男や次男の「太郎丸」「次郎丸」の方が多いのが普通と思うのですが、五男の「五郎丸」が多いのでは辻褄があいません。やはり、これらの名字は単純な人名由来ではないと考えたほうがよいように思われますが、いかがでしょうか。
 余談ですが、「○郎丸」名字検索で、超有名な「○郎」さんとして、「金太郎丸」「桃太郎丸」を調べたところ0件でした。そんな名字の人がおられたら、テレビなどで取り上げられるはずですから、やはりおられないのでしょう。(つづく)


第1059話 2015/09/22

九州発か「○○丸」名字(1)

 ラグビーワールドカップでの南アフリカ戦での劇的な逆転勝利で一躍有名になった五郎丸選手ですが、キックの時の印象的なルーチンと呼ばれる動作とともに、その珍しいお名前に、わたしの好奇心がフツフツと沸いてきました。というのも、「五郎丸」のように名字が「○○丸」という人が何故か九州に多いと感じていたので、もしやと思い、五郎丸さんのご出身地を調べてみると、やはり福岡市ということでした。わたしの母校(久留米高専)の後輩にも小金丸さんがいましたし、知人には田中丸さん市丸さんもおり、いずれも福岡県や佐賀県の出身です。また、筑後地方には田主丸という地名もあり、この「丸」地名や「丸」名字は古代九州王朝に淵源するのではないかと考えていたのです。
 そこで、インターネットの「名字由来net」というサイトを利用して、「丸」名字の分布を調べてみました。五郎丸さんをはじめ、著名人や知人の「丸」名字の県別分布ランキングは次のようでした。数字は概数であることから、あくまでも大まかな傾向と理解した方がよさそうですが、やはり推定通りの結果となりました。次の通りです。なお、これは漢字表記の分類で、複数の訓みがある場合はその合計です。

〔著名人・知人の県別「丸」名字人数〕(人)
名字  1位   2位  3位    全国計
五郎丸 福岡500  山口120 広島60     990
小金丸 福岡1400 長崎170 東京130   2200
薬師丸 福岡10  神奈川10        20
田中丸 佐賀130  福岡90   神奈川30   380
薬丸  福岡190  鹿児島120 宮崎70    740
金丸  宮崎5200 東京2400 福岡2300 25600
市丸  佐賀1200 福岡820  東京290   3800
力丸  福岡1200 福島550  神奈川190 2800
井丸  広島50   福岡40   大阪30     240
田丸  千葉1700 神奈川1400 広島1400 11700

 以上のように、田丸さんを除けばほぼ九州、特に福岡県に「丸」名字が集中していることがわかります。九州以外では何故か広島にも多く、これが何を意味するのか興味深いところです。田丸さんだけは傾向が異なり、関東に多く分布していますが、ここでも2位に広島県が食い込んでいることが注目されます。なお、「丸」一字の名字もあり、1位が千葉2400、2位東京830、3位神奈川470で、全国合計5300でした。千葉県に「丸」さん「田丸」さんが多いことが注目されます(千葉県南房総市に「丸」という地名もあるようです)。(つづく)


第1052話 2015/09/12

考古学と文献史学の「四天王寺」創建年

 「洛中洛外日記」1047話『「武蔵国分寺跡」主要伽藍と塔の年代差』において、考古学編年と文献史学との関係性について次のように述べました。

 「考古学者は出土事物に基づいて編年すべきであり、文献に編年が引きずられるというのはいかがなものか」
 「大阪歴博の考古学者は、考古学は発掘事実に基づいて編年すべきで、史料に影響を受けてはいけないと言われていた」

 優れた考古学編年と多元史観が見事に一致し、歴史の真実に肉薄できた事例として、大阪難波の四天王寺創建年について紹介し、考古学と文献史学の関係性について説明したいと思います。
 四天王寺(大阪市天王寺区)の創建(開始)は『日本書紀』により、推古元年(593)と説明されていますが、他方、大阪歴博の展示説明では620年頃とされています。この『日本書紀』との齟齬について大阪歴博の学芸員の方にたずねたところ、考古学は出土物に基づいて編年するものであり、史料に引きずられてはいけないというご返答でした。まことに考古学者らしい筋の通った見解だと思いました。その根拠は出土した軒丸瓦の編年によられたようで、同笵の瓦が創建法隆寺や前期難波宮整地層からも出土しており、その傷跡の差から四天王寺のものは法隆寺よりも時代が下るとされました。
 ところが九州年号史料として有名な『二中歴』年代歴には「倭京二年(619)」に「難波天王寺」の創建が記されており、大阪歴博の考古学編年と見事に一致しているのです。ちなみに、歴博の学芸員の方はこの『二中歴』の記事をご存じなく、純粋に考古学出土物による編年研究から620年頃とされたのです。わたしは、この考古学的編年と『二中歴』の記録との一致に驚愕したのものです。そして、大阪歴博の7世紀における考古学編年の精度の高さに脱帽しました。
 このように文献史学における史料事実が考古学出土事実と一致することで、仮説はより真実に近い有力説となります。しかし事態は「天王寺(四天王寺)」の創建年の問題にとどまりません。すなわち、『二中歴』年代歴の「九州年号」やその「細注」記事もまた真実と見なされるという論理的関係性を有するのです。文献史学が考古学などの関連諸学の研究成果との整合性が重視される所以です。
 古田学派研究者においても、この関連諸学との整合性が必要とされるのですが、残念ながらこうした学問的配慮がなされていない論稿も少なくありません。自分自身への戒めも含めて、このことを述べておきたいと思います。


第1032話 2015/08/22

多元的「国分寺」研究のすすめ(2)

 「洛中洛外日記」1031話で紹介しました肥沼さんからの「お詫び」メールに対して、わたしは返信で次のような言葉も付け加えました。仮説検証過程の紆余曲折過程を明白にしながらブログでの検証作業を進めることで、古田学派全体に寄与できることを願っていると。そこで、今回は学問研究において、学術論文や著作での発表と、インターネットでのブログ発信の学問的性格の違いについて、わたしの考えを説明させていただきます。
 インターネット検索は「広く周囲の意見を聞く」という作業であることに対して、わたしのブログでの発信は「自説に対して広く周囲の意見を聞く」という意味合いが含まれています。すなわち、学術論文や著作のように、自説を広く発表するという目的とは少し異なり、自らの仮説(アイデア・思いつき)に対して、リアルタイムで読者に意見を聞くという目的が大きいのです。いわば読者との「対話」という性格を色濃く有しています。
 今回の多元的「国分寺」研究においては、この「対話」が極めて有効に作用し、わたしの学問的認識や問題点の所在などが、一人で考察するよりも何倍も早く広く深く明らかになっています。これこそ、学問的対話の真骨頂でしょう。例会などでは参加者が地域的時間的に制約されますが、ネットではほぼ無限に対象者が広がり、それだけ多くの知識が集約され、誤りや誤解の訂正もスピーディーとなります。
 こうしたネットの特長を「洛中洛外日記」(洛洛メール便)という一方的発信ではありますが、それにメールでの交信という機能がプラスされることにより、「インターネット例会」のような空間が実現しています。将来的にはSNSを利用して、もっと幅広い「交流」の場を持てればと願っています。
 もし、従来のように私が何ヶ月も一人で考察研究し、会報などで研究発表するというスタイルでは、これだけの速度で研究が進展することは不可能でした。もちろん論文発表という形式は学問研究では普遍的価値を持ちますが、それとは少し異なったブログでの発信は新たな研究スタイルを可能としました。そうした意味でも、今回の多元的「国分寺」研究の成果が期待されるところです。これからも未知の可能性を秘めたインターネットを駆使した共同研究という分野に挑戦したいと思います。


第1031話 2015/08/22

多元的「国分寺」研究のすすめ(1)

 このところ、「洛中洛外日記」やメールで進めている多元的「国分寺」研究ですが、学問の方法ともかかわって多方面への進展波及が進んでいます。古田学派における学問研究の方法、進め方についても意見を交わしており、ネット社会ならではの学問環境と言えそうです。
 このテーマに関して会員の皆さんからメールをいただいており、たいへんありがたく思っています。「お詫びメール」もときおりいただくのですが、学問研究途上の「過誤」は発生するのが当たり前で、特に誰もやっていない最先端研究は理系文系を問わず、失敗や誤りがあるのが当たり前で、そのことで学問研究が発展するのです。「答え」が無い最先端研究で苦しんだ経験をお持ちの方ならご理解いただけるはずです。
 わたしも企業の製品開発で納期に追われ成果を要求される「地獄の苦しみ」を何年も味わい、体調がおかしくなるほどでした。しかも企業機密のため、誰にも相談できないし、誰もやっていない開発ですから、社内に相談する相手もいないという孤独な毎日でした。ですから「STAP報道事件」で、そのような最先端研究の苦しみなど味わったこともないマスコミや評論家が小保方さんや笹井さんを犯罪者であるかのごとくバッシング(集団リンチ)を続けるのを見て、心から憤ったものです。
 昨日も、肥沼孝治さん(古田史学の会・会員、所沢市)から「お詫び」メールをいただきました。「法隆寺」の方位がネット検索により「7度西偏」と紹介したが、自ら文献などで調査したところ、3〜4度であったとのことでした。しかも、肥沼さんは法隆寺に直接電話して確認され、わたしに報告されたのでした。こうした「聞き取り調査」は現地調査に準ずるもので、立派な研究姿勢です。
 わたしからは、ネット検索は概略をおさえる程度のもので、学問的には実地調査や学術論文に依らなければならないと返信しました。いわばネット検索は「広く周囲の意見を聞く」という作業であり、それらの意見が妥当かどうか、仮説として検証するに値するかどうかは、別の問題です。ですから、不十分な「情報」や誤った「情報」があることも当然です。専門家の学術論文でも誤りがあることも少なくありませんから、このリスクは避けられません。しかしそれでも「広く周囲の意見を聞く」(今回は「ネット検索」)という作業は学問研究にとって大切な作業であり、それにより早く真実に近づくことも可能となり、自らの誤りにも気づきやすいという学問上のメリットがあります。「例会」活動にもこうした目的や利点があります。
 次に研究・考察過程を「洛中洛外日記」のようなブログでリアルタイムに発信する目的やメリットについて説明します。(つづく)


第1012話 2015/08/02

『「邪馬台国」論争を超えて』(仮称)の

「はじめに」

 昨日、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)と服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)が見えられ、9月6日に開催する『盗まれた「聖徳太子」伝承』出版記念東京講演会(東京家政学院大学千代田キャンパス)の打ち合わせなどを行いました。
また、ミネルヴァ書房から発行が予定されている『「邪馬台国」論争を超えて -邪馬壹国の歴史学-』(仮称)の編集についても検討を進めました。当初予定していた論稿に加えて、野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)の論文を新たに収録することも確認しました。
 巻頭に掲載する「はじめに」をわたしが書くことになっていましたので、昨日急いで書き上げ、服部さんに提出しました。今後、修正するかもしれませんが、ここに「はじめて」をご紹介します。年内の出版を目指していますが、会員には割引価格で提供することを検討しています。
 古田先生の講演録をはじめ、会員による論文などを収録しています。なかなかよい本になっていますので、ご期待ください。

 

はじめに

   古田史学の会・代表 古賀達也

 昭和四六年(一九七一)十一月、日本古代史学は「学問の夜明け」を迎えた。古田武彦著『「邪馬台国」はなかった 解明された倭人伝の謎』が朝日新聞社より上梓されたのである。この歴史的名著はそれまでの恣意的で非学問的な「邪馬台国」論争の風景と空気を一変させ、学問的レベルをまさに異次元の高みへと押し上げた。
 それまでの「邪馬台国」論争における全論者は『三国志』倭人伝原文の「邪馬壹国」を「邪馬台国」と論証抜きで原文改訂(研究不正)してきた。邪馬壹国ではヤマトとは読めないから「邪馬台国」と原文改訂し、延々と「邪馬台国」探しを続けてきたのである。それに対して、古田氏は原文通り「邪馬壹国」が正しいとされ、古代史学界の宿痾ともいえる、自説の都合にあわせた論証抜きの原文改訂(研究不正)を厳しく批判されたのである。
 また、帯方郡(ソウル付近)から女王国(邪馬壹国)までの距離が倭人伝には「万二千余里」とあり、一里が何メートルかがわかれば、その位置は自ずと明らかになる。そこで古田氏は『三国志』の記述から実証的に当時の一里が七五〜八〇メートル(魏・西晋朝短里説の提唱)であることを導きだし、その結果、「万二千余里」では博多湾岸までしか到達せず、およそ奈良県などには届かないことを明らかにされた。
 さらには倭人伝の記述から、倭人が南米(ペルー・エクアドル)にまで航海していたという驚くべき地点へと到達された。その後の自然科学的研究や南米から出土した縄文式土器の研究などから、この古田氏の指摘が正しかったことが幾重にも証明され、今日に至っている。
 こうした古田氏の画期的な邪馬壹国博多湾岸説は大きな反響を呼び、『「邪馬台国」はなかった』は版を重ね、洛陽の紙価を高からしめた。その後、古田氏の学説(九州王朝説など)は古田史学・多元史観と称され、多くの読者と後継の研究者を陸続と生み出し、今日の古田学派が形成されるに至ったのである。
本年、古田氏は八九歳になられ、今なお旺盛な研究と執筆活動を続けておられる。名著『「邪馬台国」はなかった』が世に出て既に四四年の歳月を迎えたのであるが、その邪馬壹国論の新段階の集大成として、本書は古田氏の講演録・論文とともに、氏の学問を支持する古田学派研究者による最先端研究論文を収録した。『「邪馬台国」はなかった』の「続編」として、百年後も未来の古田学派の青年により本書は読み継がれるであろう。
 最後に『「邪馬台国」はなかった』の掉尾を飾った次の一文を転載し、本書を全ての古田ファンと古田学派に送るものである。(二〇一五年八月一日)

今、わたしは願っている。
古い「常識」への無知を恥とせず、真実への直面をおそれぬ単純な心、わたしの研究をもさらにのり越えてやまぬ探求心。--そのような魂にめぐりあうことを。
それは、わたしの手を離れたこの本の出会う、もっともよき運命であろう。