史料批判一覧

第883話 2015/02/26

倭人はお酒好きで

   美人が多い?

 今日の午前中は二日市市にある福岡県工業技術センターを訪問し、同センターの堂ノ脇靖巳さんと旧交を暖めました。堂ノ脇さんはタンパク質のトリプトファン発色反応をウールやシルクに応用し、染料による染色ではなく、ウールやシルクそのものを化学反応で発色させ、衣料品に用いるという画期的な技術(中小企業庁長官賞受賞)を開発された優れた化学者です。十数年前、京都大学で開催された繊維学会でお会いして以来、同郷の化学者同士として、あるいはビジネスでもおつきあいをさせていただいています。
 午後からは新幹線「さくら」で大阪まで戻り、繊維応用技術研究会(事務局:大阪府立産業技術研究所)の理事会に出席しました。理事会の皆さんと夕食をご一緒したのですが、話題が古代史にも及び、盛り上がりました。理事全員が科学研究者ですので、様々な観点から『三国志』倭人伝の記事について持論が展開されました。特に拝聴したのが花王のヘアケア研究所のKさんの次のご意見でした。

1.倭人伝には女性のヘアスタイルに関する記事があることから、倭人の女性はおしゃれに興味があり、その結果、おそらく美人が多かったのではないか。
2.倭人はお酒が好きと書いてあるので、「邪馬台国」はお酒好きの地方にあったはず。
3.「博多美人」という言葉はあるが「奈良美人」というのは聞いたことがない。
4.博多と奈良に出張で行くことがあるが、博多の人の方が圧倒的に「飲兵衛」が多い。
5.従って、「邪馬台国」九州説(博多説)に賛成する。

 以上のような持論を開陳されました。学問的な論証としては「問題」が少なくないのですが、ヘアケアの専門家らしい視点だと思いました。
 言われてみれば、倭国へのプレゼントとして倭人伝に特記されている「鏡」(倭人の好物)や「錦」(シルク製品)など、いずれも女性が喜びそうなプレゼントです。そして当時の倭国は女王卑弥呼・壹与の時代ですから、女性が喜ぶような品々を中国側は意図して贈ったのかもしれません。学問的かどうか全く自信はありませんが、このような視点が古代史研究にあってもよいのではないでしょうか。
 花王のKさんに、そのご意見を「洛中洛外日記」に書いてもよいかと確認したところ、「OK」のご返事をいただいたものの、奈良県での花王の化粧品の売り上げが落ちたら申しわけないような気持ちです。あくまで食事の席での個人的見解ですので、大目に見てあげてください。なお、理事会に同席され、Kさんやわたしの会話を聞いておられた業界誌のS社長から、今の話を自社の雑誌のコラムに連載して欲しいとのご要望をいただきました。もちろん、わたしの返事は「OK」でした。


第882話 2015/02/25

雲仙普賢岳と布津

 昨日は鹿児島空港からレンタカーで鹿児島県伊佐市・宮崎県小林市などの顧客を訪問し、昨晩は熊本県の天草のホテルで宿泊し、今日は早朝から仕事です。フェリーで鬼池港から島原半島の口之津(くちのつ)に入り、異形の雲仙普賢岳を眺めながら島原市に向かっています。あんな山が噴火したのなら、あの大災害が起きるのも「納得」できるほどの火山岩むき出しの山肌でした。(合掌)
 島原市を走っているとき、「布津」という地名の看板があり、とても興味深い地名だと思いました。海岸通りの地名なので、「津」は港のことと思われますから、この地名の語幹は「布(ふ)」となります。「ふ」という場所にある港だから「ふつ」と呼ばれ、布津という漢字が当てられたと考えられます。そこで、次に問題となるのが「布(ふ)」の意味です。
 布津の東側には雲仙普賢岳がそびえており、とても印象的な地域です。そこでひらめいたのですが、布津の「ふ」は富士山の「ふ」と同義ではないか。すなわち、活火山やその近傍地名である「ふ」という地名語幹には共通性があるのではないでしょうか。少なくとも偶然の一致とするよりも、火山と地名の「ふ」には関係があるのではないかという作業仮説を検証する必要を感じています。
 この作業仮説を検証するためには、日本列島の火山と近隣地名を調査し、語幹に「ふ」を持つ地名や山名があるのかどうかを調べるという方法が有効と思われます。その結果、関係があれば次の問題、「ふ」の意味は何か、という学問的局面に進めますし、関係が認められなければ、とりあえず作業仮説としてペンディングしておけばよいのです。この作業仮説(思いつき)を皆さんはどのように思われますか。


第881話 2015/02/24

長里から短里への換算の痕跡

 今朝は5時過ぎに自宅を発ち、阪急電車で大阪空港に向かっています。今日から九州出張で、鹿児島・宮崎・熊本・長崎・福岡と5県を廻ります。国内出張としてはハードな行程ですが、海外出張に比べれば楽なものです。

 さて、先日の関西例会で報告された『三国志』の短里に関するもうひとつの研究、西村秀己さんの「短里と景初」について、その概要をご紹介します。
 西村さんは魏朝における、長里(約435m)から短里(約77m)への変更時期を明帝の景初元年(237)に暦法を「殷制」に変更したときではないかとされ、その史料根拠として『三国志』魏書の文帝紀延康元年(220)十月条に見える、「暦」や「度量衡」の変更検討を命じた記事を指摘されました。この改定は文帝の時代には行われた痕跡が無く、明帝の景初元年に暦法が変更されていることから、文帝の命令が明帝の時代に実行されたと考えられたのです。
 さらに西村さんはこの仮説を証明するために、次のような作業仮説を導入され、それを検証されました。

〔作業仮説〕
1.魏朝における長里から短里への変更が景初元年であれば、それ以前は魏朝でも長里が使用されたはずで、その長里の期間に成立した史料(情報)は長里表記のはずである。
2.陳寿が『三国志』編纂に当たっては、編纂時の公認里単位「短里」で統一するために、長里史料を短里に換算する必要がある。
3.その換算方法として、たとえば1000里や100里の場合、正確には約6倍(435÷77=5.65)しなければならないが、その場合端数が出るので、「数千里」「数百里」と概算値表記とするのが簡便である。
(古賀注:1000里とか100里のような「丸められた」数値にかけ算して出た「端数」は数学の有効桁数としては意味がありませんから、「数千里」「数百里」という概算値表記に陳寿はしたものと思われます。)
4.その簡便な換算方法を陳寿が採用したのであれば、景初元年より前の長里の時代に「数千里」「数百里」という簡便換算表記が、景初元年以後の短里の時代よりも頻出するはずである。
5.作業仮説が妥当かどうか、『三国志』本文中の全里数表記を調べ、景初元年を境に有為の差があるかどうかを見ればよい。あるいは、長里を使用していたはずの呉や蜀と、短里の時代の魏の景初元年以後との比較で有為の差があるかを見ればよい。

〔検証結果と帰結〕『三国志』本文の全数調査
1,『三国志』本文中の「里」(距離としての「里」のみ)表記中に占める「数○○里」という概算表記の出現比率は次の通りであった。
  漢(長里使用) 21.3%
  魏 景初元年より前(長里の時代)37.5%
    景初元年以後(短里の時代)5.3%
  呉(長里使用) 33.3%
  蜀(長里使用) 40.0%
2.上記集計結果の通り、『三国志』中の「数○○里」という概算表記出現率は、魏における「短里の時代」である景初元年以後のみ明らかに低い。
3.従って、「短里の時代・領域」の史料(情報)はもともと短里で表記されており、『三国志』編纂時に短里に換算する必要がないので、「数○○里」という長里からの換算による概算表記する必要もなかったと考えるのが妥当である。
4.よって、『三国志』は短里で編纂されているとした古田説は正しいと判断して問題ない。
5.その論理的帰結として、「邪馬台国」畿内説は成立せず、邪馬壹国博多湾岸説の古田武彦説こそ歴史の真実とするべきである。

 以上が西村報告の骨子であり、その論理的帰結です。この報告に限らず、西村さんの研究手法(学問の方法)は統計的手法を手堅く用い、かつ、仮説とその証明方法が厳格に対応していることが特長です。ですから西村さんは、関西例会などでの発表を安心して聞ける研究者の一人なのです。


第880話 2015/02/22

長里と短里の牛車「里数」

 昨日の関西例会では、『三国志』や魏西晋朝の短里についての研究報告が正木裕さんと西村秀己さんから発表されました。両報告とも画期的で秀逸なものでした。今回は正木さんの報告を紹介します。
 それは「張家山漢簡・居延新簡」と「駑牛一日行三百里」という報告で、わたしが「洛中洛外日記」857話で紹介した『三国志』の「駑牛一日三百里」についての研究です。
 『三国志』ほう統伝中の裴松之注に「駑牛一日行三百里」とあり、牛車の一日の行程として短里では約24kmで妥当だが、長里ではありえない距離となり、この記事も魏西晋朝短里説の証拠になるとしました。裴松之注に引用されたこの記事は西晋の張勃(ちょうぼつ)による『呉録』が出典で、『三国志』の著者陳寿と同時代の人物によるものです。従って、魏西晋朝では短里が公認使用されており、『三国志』も『呉録』も短里で編纂されていたことがわかります。
 正木さんはこの「駑牛一日行三百里」が漢代の律令で定められた牛車の移動距離に基づくもので、漢代の長里表記「五十里」を短里に換算した数値であることを発見されました。その漢代の律令とは1983年に中国の湖北省江陵県張家山の漢墓から出土した大量の竹簡(1236枚)に記されていたもので、「頒布年」の呂后二年にちなみ「二年律令」と呼ばれているものです。
 それには、荷物の運搬には牛車(「車牛」と表記。「徭律(徭役に関する律)」簡411)が用いられており、その守るべき速度が「傳送重車、重負日行五十里、空車七十里、徒行八十里」(簡412)と記されています。これらの里数は漢代ですから長里(1里=約435m)が使用されています。重い荷物を積んだ牛車の里数が「五十里」とされていますから、これを短里(1里=約77m)に換算すると約282里となり、『三国志』の「駑牛一日行三百里」に相当します。従って、正木さんは『三国志』の「駑牛一日行三百里」は漢代の「二年律令」で規定された長里表記での「五十里」を短里に換算したものとされたのです。すなち、漠然と牛車の一日の運搬距離を300里としたのではなく、漢代の律令の規定に従い、それを短里換算したものと理解できるのです。
 この正木さんの発見により、同じ牛車での運搬距離を長里と短里で表記した史料がそろったことになり、漢代の長里と魏西晋朝の短里、すなわち『三国志』は短里で編纂されたとする古田説が正しかったことを史料根拠に基づいて証明されたのです。素晴らしい発見だと思います。それにしても漢代の竹簡が大量に発見され、「二年律令」が復元されたのですから、これもすごいことです。
 最後に付け加えれば、『三国志』が短里であったことが自明のものとなった以上、「邪馬台国」畿内説は完全に葬り去られました。帯方郡(ソウル付近と推定されています)より邪馬壹国への総里程一万二千余里(約924km)と倭人伝に明記されていますから、倭国の女王卑弥呼の都は博多湾岸で決まりです。一万二千余里では大和へは絶対に届きません。この単純な理屈から「邪馬台国」畿内説論者は逃げずに受け止めていただきたいと思います。「邪馬台国の場所は永遠の謎」などといいかげんな報道してきたマスコミ関係者も、もうそろそろ真実を国民に伝えていただきたいものです。日本の「真の学問」(吉田松陰『講孟余話』)の復活は、まずそこから始まるのではないでしょうか。


第874話 2015/02/15

京あすか「ロゼッタ石の解読」

 「古田史学の会・四国」の合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人、松山市)から同人誌『海峡』第33号(平成27年1月)が送られてきました。「古田史学の会・四国」会員の白石恭子さん(ペンネーム:京あすか)のエッセー「ロゼッタ石の解読」が掲載されていました。
 エジプトのロゼッタ石の古代エジプト文字を解読したフランソワ・シャンポリオンのことを記したエッセーで、2006年にロシアで出版されたワレーリー・ミハイロビッチ・ボスコイボイニコフ著『すばらしい子供たちの日々』(オニクス社)の一節を白石さんが訳されたものです。シャンポリオンの生い立ちや子供の頃から天才的才能の持ち主であったことなどが紹介されており、とても興味深く読みやすいエッセーでした。
 末尾には古田先生のことをシャンポリオンに匹敵する歴史学者であると、次のように紹介されています。

 「現在、日本のシャンポリオンとも言うべき偉大な歴史学者がいます。元昭和薬科大学教授で、文献史学の研究に打ち込んでこられた古田武彦先生です。シャンポリオンは四一才で亡くなりましたが、古田先生は八八才で現在もお元気です。先生は、これまで日本書紀に基づいて語られてきた日本の古代史に数々の疑問を呈してこられました。四〇年余り前に先生の著作『「邪馬台国」はなかった-解読された倭人伝の謎』という本が朝日新聞より刊行され、話題になりました。」

 このように紹介され、次の一文でエッセーを締めくくられています。

 「古田先生は日本の古代史の常識を覆した歴史学者として歴史に刻まれることでしょう。」

 このように、様々な分野の人々により古田先生の偉業が語られ、発信されています。わたしも古田先生のお名前が歴史に刻まれることを全く疑っていません。


第873話 2015/02/15

須玖岡本D地点出土

「キ鳳鏡」の証言

 「洛中洛外日記」872話で紹介しました須玖岡本遺跡(福岡県春日市)D地点出土「キ鳳鏡」の重要性について少し詳しく説明したいと思います。
 北部九州の弥生時代の王墓級の遺跡は弥生中期頃までしかなく、「邪馬台国」の卑弥呼の時代である弥生後期の3世紀前半の目立った遺跡は無いとされてきました。そうしたこともあって、「邪馬台国」東遷説などが出されました。
 しかし、古田先生は倭人伝に記載されている文物と須玖岡本遺跡などの弥生王墓の遺物が一致していることを重視され、考古学編年の方が間違っているのでは ないかと考えられたのです。そして、昭和34年(1959)に発表された梅原末治さんの論文に注目されました。「筑前須玖遺跡出土のキ鳳鏡に就いて」(古代学第八巻増刊号、昭和三四年四月・古代学協会刊)という論文です。
 同論文にはキ鳳鏡の伝来や出土地の確かさについて次のように記されています。

 「最初に遺跡を訪れた八木(奘三郎)氏が上記の百乳星雲鏡片(前漢式鏡、同氏の『考古精説』所載)と共にもたらし帰ったものを昵懇(じっこん)の間柄だった野中完一氏の手を経て同館(二条公爵家の銅駝坊陳列館。京都)の有に帰し、その際に須玖出土品であること が伝えられたとすべきであろう。その点からこの鏡が、須玖出土品であることは、殆(ほとん)ど疑をのこさない」
 「いま出土地の所伝から離れて、これを鏡自体に就いて見ても、滑かな漆黒の色沢の青緑銹を点じ、また鮮かな水銀朱の附着していた修補前の工合など、爾後和田千吉氏・中山平次郎博士などが遺跡地で親しく採集した多数の鏡片と全く趣を一にして、それが同一甕棺内に副葬されていたことがそのものからも認められ る。これを大正5年に同じ須玖の甕棺の一つから発見され、もとの朝鮮総督府博物館の有に帰した方格規玖鏡や他の1面の鏡と較べると、同じ須玖の甕棺出土鏡でも、地点の相違に依って銅色を異にすることが判明する。このことはいよいよキ鳳鏡が多くの確実な出土鏡片と共存したことを裏書きするものである」

 更にそのキ鳳鏡の編年についても海外調査をも踏まえた周到な検証を行われています。その結果として須玖岡本遺跡の編年を3世紀前半とされたのです。

 「これを要するに須玖遺跡の実年代は如何に早くても本キ鳳鏡の示す2世紀の後半を遡り得ず、寧(むし)ろ3世紀の前半に上限を置く可きことにもなろう。此の場合鏡の手なれている点がまた顧みられるのである」
 「戦後、所謂(いわゆる)考古学の流行と共に、一般化した観のある須玖遺跡の甕棺の示す所謂『弥生式文化』に於おける須玖期の実年代を、いまから凡(およ) そ二千年前であるとすることは、もと此の須玖遺跡とそれに近い三雲遺跡の副葬鏡が前漢の鏡式とする吾々の既往の所論から導かれたものである。併(しか)し 須玖出土鏡をすべて前漢の鏡式と見たのは事実ではなかった。この一文は云わばそれに就いての自からの補正である」
 「如上の新たなキ鳳鏡に関する所論は7・8年前に到着したもので、その後日本考古学界の総会に於いて講述したことであった。ただ当時にあっては、定説に異を立つるものとして、問題のキ鳳鏡を他よりの混入であろうと疑い、更に古代日本での鏡の伝世に就いてさえそれを問題とする人士をさえ見受けたのである」

 このように梅原氏は自らの弥生編年をキ鳳鏡を根拠に「補正」されたのです。真の歴史学者らしい立派な態度ではないでしょうか。現代の考古学者にはこの梅原論文を真正面から受け止めていただきたいと願っています。
 なお、この梅原論文の詳細な紹介と解説が次の古田先生の論文でなされており、本ホームページにも掲載されていますので、是非お読みください。

 古田武彦『よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』(角川選書 謎の歴史空間をときあかす)所収「第二章 邪馬一国から九州王朝へ III理論考古学の立場から」


第872話 2015/02/14

弥生時代の絶対年代編年の根拠?

 昨日は正木裕さん(古田史学の会・全国世話人、川西市)と服部静尚さん(古田史学の会・『古代に真実を求めて』編集責任者、八尾市)が京都にみえられ、拙宅近くの喫茶店で3時間以上にわたり古代史鼎談を行いました。主なテーマは弥生時代や古墳時代前期の土器編年の根拠、畿内出土画文帯神獣鏡の位置付けについてでした。さらには「古田史学の会」におけるインターネットの活用についても話題は及びました。
 近年の考古学界の傾向ですが、畿内の古墳時代の編年が古く変更されています。大和の前期古墳を従来は弥生後期とされていた3世紀中頃に古く編年し、「邪馬台国」畿内説を考古学の面から「保証」しようとする動きと思われます。すなわち、卑弥呼が魏からもらった鏡が弥生時代の遺跡から出土しない畿内地方を「邪馬台国」にしたいがために、銅鏡が出土する畿内の前期古墳を3世紀前半に編年しなければならないという「動機」と「意図」が見え隠れするのです。
 その編年は主に土器(庄内式土器など)の相対編年に依っているのですが、それら土器の相対編年が絶対年代とのリンクがどのような根拠に基づいているのか疑問であり、その「本来の根拠」を調査する必要があります。服部さんは関西の考古学者と討論や面談を積極的に行われており、考古学者の見解がかなり不安定な根拠に基づいているらしく、人によって出土事実知識さえも異なることが明らかになりつつあります。考古学界の多数意見となっている「邪馬台国」畿内説の「本来の根拠(土器編年の絶対年代とのリンク)」を、丹念に調べてみたいと思います。「邪馬台国」畿内説という「結論」を先に決めて、それにあうように土器編年を操作するという学問の「禁じ手」が使われていなければ幸いです。
 他方、北部九州の弥生時代の編年も大きな問題があります。その最大の問題の一つが須玖岡本遺跡(福岡県春日市)の編年です。主に弥生中期(紀元0年付近)と編年されてきたのですが、古田先生は梅原末治さんの晩年の研究成果として須玖岡本D地点出土の「き鳳鏡」が魏西晋時代のものであり、従って須玖岡本遺跡は3世紀前半とされたことを繰り返し紹介されています。ところが、梅原さん自らが作成した従来説を梅原さん自身が否定した画期的な報告を古代史学界や梅原さんのお弟子さんたちは「無視」しました。
 この梅原新編年によれば、須玖岡本遺跡は邪馬壹国の卑弥呼の時代に相当します。弥生遺跡の編年が100〜200年近く新しくなる可能性がある梅原新編年こそ、『三国志』倭人伝の内容と考古学的出土事実が一致対応する重要な学説なのです。この点を九州の考古学者は正しく認識すべきです。
 倭人伝の考古学的研究の再構築が大和朝廷一元史観の考古学者にできないのであれば、わたしたち古田学派がやらなければなりません。こうした問題意識に到着した今回の鼎談はとても有意義でした。


第870話 2015/02/13

古代における「富の再分配」

 極端な富の集中と格差拡大に警鐘を打ち鳴らした『21世紀の資本』ですが、その対策として著者のトマ・ピケティ氏は富裕層への国際的な累進課税を提案されているとのこと。
 確かマルクスが言っていたと記憶していますが、資本主義のメカニズムは、労働者の賃金を「労働力の再生産」が可能なレベルまで引き下げるとされています。「労働力の再生産」とは労働者夫婦が二人以上の子供(将来の労働力)を産み育てることで、これが不可能なほどまで賃金が下がると、労働人口が減少し、社会や国家がいずれ消滅し、商品を購買するマーケットさえも縮小します。そのため、労働者の最低賃金は本人が生きていくだけではなく、子供二人以上を養えるレベルが必要であり、同時にそのレベルまで賃金は下がるとマルクスは指摘しています。十代の頃に読んだ本の記憶ですから、正確ではないかもしれませんが、本質的な指摘だと青年の頃のわたしの心を激しく揺さぶった記憶があります。
 『21世紀の資本』ブームの影響を受けて、古代日本において「富の再分配」は行われたのか、行われていたとすればそれはどのようなものだったのか、というようなことをこの数日考えています。
 『日本書紀』『続日本紀』には、天災や不作のときには当該地域の「税」を免除する記事が見えますが、これは「富の再分配」とは異なります。国家の制度、あるいは習慣などによる政策的な「富の再分配」として、どのようなものがあったのでしょうか。公共事業(都や宮殿、大仏・寺院の造営など)の実施により、権力が蓄えた富を消費するという経済活動も、ある意味では「富の再分配」を促しますが、もっと直接的な「富の再分配」はなかったのでしょうか。
 『続日本紀』には高齢者(70歳や80歳)に対して、ときおり「褒美」が出された記事がありますが、国家が行う経済政策としての「富の再分配」にしては規模が小さいように思われます。このようなことは「古代経済学史」ともいうべき学問分野かもしれません。どなたかご教示いただければ幸いです。


第869話 2015/02/12

トマ・ピケティ

『21世紀の資本』ブーム

 フランスの経済学者トマ・ピケティ著『21世紀の資本』がブームとなっているようで、700頁の分厚い経済学の本が国内で既に13万部も売れているのには驚きです。大勢の人が並んで買うようなモノには、ブームが過ぎた頃にしか手を出さないというクセがわたしにはあるので、まだ同書を読んでいません。しかし、ちょっとは気になりますので、同書が特集された『週間ダイアモンド』2/14号を京都駅の書店で購入し、新幹線の車中で読みました。
 同書の核心は先進国の税務当局などが公表した公式データに基づいて、資本収益率(r)が経済成長率(g)を常に上回ることを「実証」した点にあるようで、平たく言えば「資本」の持ち主は労働者の所得よりも常に富を増やすことができる。つまり、金持ちはより金持ちになるということですので、たしかに「格差」が広がっている今の日本で売れるのも理解できます。
 詳細な内容は読んでいないのでわかるはずもないのですが、著者のピケティは15年間かけて世界各国の200年以上にわたるデータを実証的に調査分析したというのですから、この点はすごいと思います。古田先生が『三国志』全文から「壹」と「臺」を全て抜き出して、両者が間違って混用された例はないことを実証的に証明された方法に相通じるものを感じました。そういう意味では、学問分野は異なりますが、古田学派の研究者なら読んでおくべき本かもしれませんね。


第864話 2015/02/06

中華書局本『旧唐書』の原文改訂

 正月明けから、年始の御挨拶周りと三月決算期に向けての予算達成のための新製品投入による採用交渉や開発・マーケティング等連日の出張で神経を使っているせいか、帰宅しても仕事から古代史への頭の切り替えに苦しんでいます。

 「洛中洛外日記」857話で『三国志』中華書局本の原文改訂(三百里→三十里)を紹介しましたが、実は他にも中華書局本にはこのような不注意・誤解に基づく誤りがありました。
 それは中華書局本『旧唐書』貞元二十一年(805)条に見える、「日本国王ならびに妻蕃に還る」という記事です。日本国王夫妻(天皇・皇后か)が805年に唐から帰国したという不思議な記事で、従来から注目していました。
 あるとき、この記事のことを古田先生に相談したのですが、805年ですので九州王朝の国王夫妻のこととも思えず、まして近畿天皇家の天皇夫妻が訪中したなどという痕跡は国内史料にはありませんので、どのように理解したらよいのかずっと考えあぐねていました。
 ところが古田先生はこの難問を見事に解決されたのです。すなわち、これは中華書局本の誤読、句読点のミス(文章の区切り方の誤り)であり、正しくは「方(まさ)に釋(ゆる)すの日、本国王(吐蕃国王)ならびに妻(め)とり蕃(吐蕃)に還る。」と読解するべきであるとされたのでした。古田先生はこのことを「歴史ビッグバン」という小論にされ、『学士会会報』(第816号、1997年所収)で発表されました。
 このときも本当に古田先生はすごいなあと感心し、同時に中華書局本を歴史研究テキストとして用いることの危険性を痛感しました。以来、わたしは史料の選択や史料批判に一層慎重となりました。これは、わたしが古田先生から学んだ「学問の方法」の一つです。


第863話 2015/01/31

『三国志』のフィロロギー

    「質直の人、陳寿」

 『三国志』のフィロロギーと題して、短里説とその学問の方法についての連載も今回が最終回となります。文献史学の学問の基本的方法として史料批判の大切さ、すなわち『三国志』が誰により誰のために何の目的で編纂されたのかという史料性格の検証の重要性を繰り返し説明してきました。さらに著者である陳寿の認識や編纂方針について、フィロロギーの方法論に基づいて分析してきました。そこで今回は陳寿その人について解説したいと思います。
 『晋書』陳寿伝には陳寿の人となりを次のように高く評価した上表文が記されています。

 「もとの侍御史であった陳寿は、三国志を著作しました。その言葉(辞)には、後代へのいましめになるものが多く、わたしたちが何によって得、何によって失うか、それを明らかにしています。人々に有益な感化を与える史書です。
 文章の持つ、つややかさでは司馬相如には劣りますが、『質直』つまり、その文書がズバリ、誰にも気がねせず真実をあらわす、その一点においては、あの司馬相如以上です。
 そこで漢の武帝の先例にならい、彼の家に埋もれている三国志を天子の認定による『正史』に加えられますように。」(古田武彦『邪馬一国への道標』128頁、講談社、1978年)
 この上表文を天子が受け入れ、既に没していた陳寿の遺書ともいえる『三国志』が正史として世に出たのです。
 この上表文で陳寿のことを「質直」と評していますが、「質直」とは、飾り気なく、ストレートに事実をのべて他にはばかることがない、という意味で、出典は『論語』です。

 「達とは質直にして義を好み、言を察し、色を観(み)、慮(おもんばか)りて以て人に下るなり。」『論語』願淵篇

 古田先生はこの文を次のように訳されています。
 「あくまで真実をストレートにのべて虚飾を排し、正義を好む。そして人々の表面の『言葉』や表面の『現象』(色)の中から、深い内面の真実をくみとる。そして深い思慮をもち、高位を求めず、他に対してへりくだっている。」
 わたしたち古田学派の研究者は、陳寿がそうであったように「質直」であらねばなりません。このことを最後に述べて、本シリーズの結びとします。


第861話 2015/01/28

『三国志』のフィロロギー

「『後漢書』倭伝の短里」

 『後漢書』はその複雑な史料性格から、長里で編纂されているにもかかわらず、『後漢書』成立時期よりも早い魏・西晋朝で成立した短里史料、たとえば『三国志』の短里記事が混在する可能性について説明してきました。今回はその具体例について紹介します。
 『後漢書』倭伝に「楽浪郡はその国を去る万二千里、その西北界拘邪韓国を去ること七千余里」と「邪馬台国」への距離が記されています。これは『三国志』倭人伝の次の記事の改訂引用となっています。

「その北岸狗邪韓国に到る七千余里」
「郡より女王国に至る万二千余里」

 このように『三国志』倭人伝の短里記事の里程「七千余里」「万二千里」を転載採用していることがわかります。従って、范曄は『三国志』倭人伝の里程情報(短里による距離)を採用しているのですが、その理由としては倭人伝よりも信頼のおける倭国への里程情報を范曄は有していなかったことが推定されます。すなわち、後漢代における長里による倭国への里程情報が『後漢書』編纂時代(南朝宋)には無かったと考えざるを得ません。もしあったのなら范曄はそちらを採用したはずですから。
 さらに言えば、范曄は『三国志』倭人伝の里単位(短里)を認識したうえで使用したのか、短里の認識がないまま使用したのかという興味深い問題がありますが、今のところわたしには判断がつきません。おそらく、短里の認識がないまま使用したと推測していますが、今後の課題です。
 このように『後漢書』倭伝に短里が混在しているのですが、『後漢書』全体では他にも短里が混在している可能性がありますが、これも今後の研究課題であり、その場合も『三国志』のときと同様に、個別にその検証を行い、混在した事情(范曄の認識、編纂方針)についても判断するべきであることは当然です。(つづく)