史料批判一覧

第3363話 2024/10/06

アニメ『チ。-地球の運動について-』(1)

 ―真理(多元史観)は美しい―

 なかなかご理解いただけないかもしれませんが、いわゆる理系の中には、「美しい」という表現を好んで使う人がいます。「美しい」という概念は個人の主観的価値観に基づくものですから、客観性を重視し、自然法則を研究する科学の世界では、違和感がある言葉かもしれません。

 しかし、わたしが専攻した化学(有機合成化学)でも、次のような逸話があります。元勤務先の後輩、小川さんから聞いた話です。名古屋大学院でノーベル賞学者の野依先生のお弟子さんだった小川さんが、ある化学物質の分子構造式を描いたところ、野依先生から「美しくない」と、書き直しを命じられたというのです。複雑な分子構造式を分かりやすく描くのは結構難しいのですが、更にそれを美しく描かなければならないと学生に指導する野依先生のような人物だからこそ、ノーベル化学賞を受賞できたのかもしれません。

 野依先生とは次元もレベルも異なりますが、わたしも美しい分子構造をもつ化学物質の分子構造式を見ると、うっとりとします。なかでも現役時代に取り扱った物質で、構造式の上下左右が対称であり、その中心に金属原子を持つフタロシアニンやテトラアザポリフィリンなどは特に美しく感じたものです。これは、ケミストにとって、ある種の職業病かもしれません。

 物理学の分野でも、アインシュタインが発見した質量とエネルギーの等価性を示す関係式 E=mc2 は、ここまでシンプルで美しい計算式で、物質の基本原理を表せるものなのかと、感動した記憶があります。

 なぜ、「美しい」などという言葉を突然話題にしたのかというと、古田史学リモート勉強会に参加されている宮崎宇史さんから、地動説のために生涯を捧げた人々を主人公とするアニメ「チ。-地球の運動について-」(注)がNHKで放送されるので、是非、見るようにとのメールが届いたのです。宮崎さんからのお薦めであれば、これは見なければならないと思い、昨晩11:45から始まる同番組を見ました。聞けば、アニメ「チ。-地球の運動について-」は、今年、日本科学史学会特別賞を受賞したとのこと。

 そして、その番組の中で、地動説を支持する異端の天文学者フベルトが少年ファゥルに発した言葉が、「この真理(天動説)は美しいか。君は美しいと思ったか。」だったのです。この言葉がわたしの胸に突き刺さりました。(つづく)

(注)『ウィキペディア』に次の説明がある。
『チ。-地球の運動について-』は、魚豊による日本の青年漫画。『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)にて、2020年42・43合併号から2022年20号まで連載された。15世紀のヨーロッパを舞台に、禁じられた地動説を命がけで研究する人間たちの生き様と信念を描いたフィクション作品。2022年6月時点で、単行本の累計発行部数は250万部を突破。2022年6月にマッドハウス制作によるアニメ化が発表された。2024年5月、第18回日本科学史学会特別賞を受賞。


第3355話 2024/09/28

『続日本紀』道君首名卒伝の

    「和銅末」の考察 (番外編)

当連載では、『続日本紀』養老二年(718)四月条の道君首名卒伝に見える「和銅末」の「末」に焦点を当てて、『続日本紀』では「末」の字がどのような意味で使われているのかを論じています〈和銅年間の末年は和銅八年(715年)〉。従って、論証が機微に至り、検証対象が広範囲にわたっています。その為か、根源的な問題は何なのかという本来の論点から離れ、「末」の字義についての抽象論や「他の可能性もある」などの一般論(注①)がテーマと受け取られかねないことに気づきました。そこで、本テーマの本来の論点を再確認し、なぜ『続日本紀』の悉皆調査を行っているのかを改めて説明することにしました。そのきっかけの一つとなったのが次の対話でした。

わたしのFacebookで当連載を読んだKさんから質問とご意見が寄せられましたので、次のように返答しました。ちなみに、Kさんは熱心な読者で、真摯かつ鋭い質問や思いもよらぬ視点を度々いただいており、ありがたく思っています。

〝古賀 様 「末」の概念は「本」から離れた先の方とのことのようです。「本」にも幅があるように「末」にも先の方と幅があるようです。故に「最後」だけではないように思えます。ただ、その幅がどれくらいかは難しいのではと思います。〟

〝Kさん、今回の問題の根幹は、船王後墓誌の「アスカ天皇の「末」歳次辛丑(641年)」の「末」をどのように理解するのかにあります。ですから、抽象論ではなく、極めて具体的な文脈中にある「末」について、それを書いた人が、なぜ「末」の一字を墓誌に加えたのかというテーマです。船王後の没年は「歳次辛丑」により特定されており、九州王朝のアスカ天皇の没年がその5年後(注②)であったとするなら、「末」の字は全く不必要です。古田新説ではこの問題に答えることができません。

他方、通説では舒明天皇のこととしますから、舒明は辛丑年に没したと日本書紀にあり、文献と金石文が一致します(古田先生のいうシュリーマンの原則(注③)「史料と考古学事実が一致すれば、それはより真実に近い」です)。古田新説ではこの事実も「偶然の一致」として無視しなければならず、これは学問的ではありません。自説に都合の悪い「末」を本来の字義ではなく、異なる解釈論でスルーしたり、文献と金石文の一致を根拠としている通説を「偶然の一致」として無視するのも、古田先生から学んだ学問の方法とは異なります。

今回の連載では、続日本紀の首名卒伝に見える「和銅末」を根拠とする批判に対しての反論であり、従って続日本紀の「末」の悉皆調査により、当時の人々の認識を明確にし、「末」の字が具体的にどのようなことに対して使用しているのかを論じています。現代人の抽象論や一般的な可能性をテーマとはしていません。続日本紀内に『「末」は「先」ではなく「本の方に対して、先の方」という観念の文字』と理解しなければならない用例があるのでしたら、具体的にご指摘いただけないでしょうか。わたしが読んだ限りでは、そのような例は見当たりませんでしたので。〟

学問や研究は、Kさんのように真摯な対話や論争により、深化発展するものと、わたしは考えています。なお、Kさんのご意見にもあるように、〝「本」にも幅があるように「末」にも先の方と幅がある〟というケースについては本連載で後述します。(つづく)

(注)
①他の可能性もあるとする一般論を否定しないが、その場合、なぜ第一義を採用してはならず、他の可能性を採用しなければらないのかの説明責任が、そう主張する側に発生する。

船王後墓誌の「末」の字の場合も同様の論証責任が発生する。なぜなら、通説の理解で問題なく墓誌の文章を読めるからだ。「末」本来の字義ではなく、九州王朝の天子の没年の五年前でも「末」の期間に含まれると考えればよいという方に、なぜ、アスカ天皇の没年と理解されかねない、かつ文脈上不要な「末」の一字が書かれたのかという説明責任も発生している。
②辛丑年(641年)は九州年号の命長二年に当たり、九州王朝の天子の崩御があれば改元するはずだが、命長七年(646年)の翌年(647年)に常色元年に改元されている。
③古田先生の「シュリーマンの原則」については次の論考を参照されたい。
古田武彦「補章 二十余年の応答」『「邪馬台国」はなかった』ミネルヴァ書房、古代史コレクション1、2010年。
https://furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku4/outouho.html
古田武彦「天孫降臨の真実」
https://furutasigaku.jp/jfuruta/kourinj/kourinj.html


第3353話 2024/09/26

『続日本紀』道君首名卒伝の

         「和銅末」の考察 (3)

 「末」の字義(ものごとの最後)は同一社会内での共通認識として〝頑固〟に成立していると、わたしは考えていますが(例外については後述)、『続日本紀』の時代やその編纂者たちがどのような意味で「末」という字を使用していたのかを理解するために、『続日本紀』そのものを調査する必要があります。その方法として、古田史学の研究者であれば当然のこととして「末」の字の悉皆調査を行うはずです。古田先生が『三国志』中の「壹」と「臺」の字の悉皆調査をされたようにです。

 服部さんの発表資料には「『日本書紀』および『続日本紀』での時を表わす「末」の使用例(実は非常に少なくたった2例)」とありましたが、わたしの調査では「末」の字そのものは112件ありました(注①)。見落としや、「末」と「未」の見誤り、写本間でも同様の差異があり、誤差があるかもしれませんが、本稿の論旨や結論に影響はないと思います。〝時を表す「末」〟も少なからずありましたので、順次紹介します。

 わたしは三十数年前にも、「従」の字の『続日本紀』悉皆調査を行った経験がありますが、同書は巻四十(文武天皇元年・697年~桓武天皇延暦十年・791年)まであり、難儀しました(岩波書店・新日本古典文学大系本全五巻を使用)。今回調べた「末」の字は、人名や宣命中の「マ」音表記に数多く使用されていました。それに比べるとはるかに少ないのですが、当時の人々の「末」の字義についての認識を示す記事もありました。次の三例を紹介します。
※読者が見つけやすいように、「末」の字に【】を付しています。

(1) 天平六年(734年)二月癸巳朔。
天皇御朱雀門覽歌垣。男女二百[四十*]餘人、五品已上有風流者皆交雜其中。正四位下長田王、從四位下栗栖王、門部王、從五位下野中王等爲頭。以本【末】唱和、爲難波曲、倭部曲、淺茅原曲、廣瀬曲、八裳刺曲之音。令都中士女縱觀、極歡而罷。賜奉歌垣男女等祿有差。
※[四十*]は「卅」の縦線が四本の字体。

これは朱雀門前で開催された歌垣の記事で、都の男女240名余りが参加した華やかな行事です。長田王ら4名が「頭」となり、参加した人々の「本末」が難波曲(なにわぶり)などを唱和したというものです。この「本末」とは本末転倒の「本末」のことで、歌垣参加者の初めから最後までの人々が唱和したという文脈ですから、「末」とは〝ものごとの最後〟という、「末」の字義通りの意味で使用されています。

(2) 天平十二年(740年)十月
己夘(26日)、勅大將軍大野朝臣東人等曰、朕縁有所意、今月之【末】、暫往關東。雖非其時、事不能已、將軍知之不須驚恠。
壬午(29日)、行幸伊勢國。以知太政官事兼式部卿正二位鈴鹿王、兵部卿兼中衛大將正四位下藤原朝臣豊成爲留守。是日、到山邊郡竹谿村堀越頓宮。
癸未(30日)、車駕到伊賀國名張郡。
十一月甲申朔(1日)、到伊賀郡安保頓宮宿。大雨、途泥人馬疲煩。
乙酉(2日)、到伊勢國壹志郡河口頓宮。謂之關宮也。
丙戌(3日)、遣少納言從五位下大井王、并中臣忌部等、奉幣帛於大神宮。車駕停御關宮十箇日。

 これは聖武天皇の伊勢行幸の発端とその様子が記された記事です。聖武天皇自らの命令(勅)に「今月之末、暫往關東」とあり、当時の朝廷内で、「今月之末」の「末」がどのような意味で使用されているのかを知る上で貴重な記事です。この時代の「関東」とは鈴鹿関・不破関以東を指し、この記事では目的地が伊勢国であることから、河口関より東という意味かもしれません。

 伊勢行幸の準備は10月19日から始めていますが、なぜか10月26日にこの勅を発し、都(平城京)を29日に出発、伊勢国河口頓宮に翌月の2日に到着しています。途中(11月1日)、伊賀郡安保頓宮に宿し、「大雨、途泥人馬疲煩」とあることから、大雨で旅程が遅れたのではないでしょうか。

 こうした文脈から判断すれば、天皇は今月末(10月30日)に伊勢国に行くと命じたものの、それを10月26日に命じられた将軍や官僚たちにとっては突然だったようで(注②)、準備も大変ですし、大雨にもたたられ、2日遅れの11月2日到着になったものと思われます。従って、天皇が言った「今月之末」とは字義通り10月30日のつもりだったと考えてよいでしょう。当初から11月2日到着が目的であれば、「今月之末」ではなく、「来月之初」と言ったはずですから。また、今月内の到着でよければ「今月中」と言うでしょう(実現困難と思いますが)。しかし、聖武天皇は「今月之末」と、わざわざ「末」を付けて命じているのですから、10月26日にそれを聞いた官僚たちは10月30日には着かなければならないと、大慌てしたのではないでしょうか。聖武天皇は人使いが荒い天皇だったようです。

(3) 神護景雲元年(767年)八月
癸巳。改元神護景雲。詔曰、(中略)復陰陽寮毛七月十五日尓西北角仁美異雲立天在。同月廿三日仁東南角仁有雲本朱【末】黄稍具五色止奏利。如是久奇異雲乃顯在流所由乎令勘尓。

 「神護景雲」改元の詔です。改元の理由がいくつか記されており、その一つとして、7月23日に「東南の角(すみ)に有る雲、本(もと)朱に末(すえ)黄に稍(やや)五色を具(そな)へつと奏(もう)せり」とあります。五色の雲の色として、最初(本)が朱色、最後(末)が黄色という意味ですから、ここでも〝ものごとの最後〟の意味で「末」という字が使用されています。

 このように、聖武天皇の発言時(740年)や『続日本紀』の成立時(797年)においても、「末」という字は現代と同様に〝ものごとの最後〟の意味で使用されていたことがわかります。わたしの読んだ限りでは、〝ものごとの途中〟〝終わりに近い途中〟のことを表すために、「末」という字は使用されていませんでした。

 次に、『続日本紀』に記された各「卒伝」中の〝年号+「末」〟の諸例を紹介します。(つづく)

(注)
①『続日本紀』全四十巻中に「末」の字は112件あり、巻毎の検索件数は次のとおり。
[巻1]1、[巻2]0、[巻3]0、[巻4]0、[巻5]0、[巻6]0、[巻7]0、[巻8]1、[巻9]2、[巻10]0、[巻11]1、[巻12]1、[巻13]1、[巻14]0、[巻15]3、[巻16]0、[巻17]2、[巻18]0、[巻19]0、[巻20]0、[巻21]0、[巻22]0、[巻23]1、[巻24]0、[巻25]21、[巻26]17、[巻27]13、[巻28]6、[巻29]2、[巻30]1、[巻31]2、[巻32]0、[巻33]0、[巻34]6、[巻35]6、[巻36]7、[巻37]3、[巻38]7、[巻39]5、[巻40]3。
②この直前(天平十二年九月)に、九州で藤原広嗣の乱が勃発しており、配下の将軍(大野朝臣東人)たちは進軍の準備をしていた。


第3343話 2024/09/10

『魏書』の中国風一字名称への改姓記事

 ある調査のため『魏書』(注①)全巻を斜め読みしたのですが、興味深い記事がありました。「官氏志九第十九」(魏書 一百一十三)の末尾に見える「一字名称への改姓記事」の一群です(少数ですが二字の姓も見えます)。

 北魏(386~535年)は中国の南北朝時代に鮮卑族の拓跋氏によって建てられた国ですが(注②)、国内で中国化を目指す勢力と鮮卑族の風習を守ろうとする勢力による対立が続きました。孝文帝の漢化政策により鮮卑の服装や言語の使用禁止、漢族風一字姓の採用などが実施されました。

 この漢族風一字姓とは異なりますが、古田先生は倭国では中国風一字名称が採用され、『宋書』倭国伝に見える倭王の名前「讃」「珍」「済」「興」「武」がそうであると指摘しました。北魏においては漢族風一字姓への改姓が強力に推し進められたことが『魏書』「官氏志九第十九」に次のように記録されています。比較しやすいように、旧姓と改姓に「 」を付しました。

獻帝以兄為「紇骨」氏、後改為「胡」氏。
次兄為「普」氏、後改為「周」氏。
次兄為「拓拔」氏、後改為「長孫」氏。
弟為「達奚」氏、後改為「奚」氏。
次弟為「伊婁」氏、後改為「伊」氏。
次弟為「丘敦」氏、後改為「丘」氏。
次弟為「侯」氏、後改為「亥」氏。
七族之興、自此始也。
又命叔父之胤曰「乙旃」氏、後改為「叔孫」氏。
又命疏屬曰「車焜」氏、後改為「車」氏。
凡與帝室為十姓、百世不通婚。太和以前、國之喪葬祠禮、非十族不得與也。高祖革之、各以職司從事。
神元皇帝時、餘部諸姓内入者。
「丘穆陵」氏、後改為「穆」氏。
「步六孤」氏、後改為「陸」氏。
「賀賴」氏、後改為「賀」氏。
「獨孤」氏、後改為「劉」氏。
「賀樓」氏、後改為「樓」氏。
「勿忸于」氏、後改為「於」氏。
「是連」氏、後改為「連」氏。
「僕蘭」氏、後改為「僕」氏。
「若干」氏、後改為「茍」氏。
「拔列」氏、後改為「梁」氏。
「撥略」氏、後改為「略」氏。
「若口引」氏、後改為「寇」氏。
「叱羅」氏、後改為「羅」氏。
「普陋茹」氏、後改為「茹」氏。
「賀葛」氏、後改為「葛」氏。
「是賁」氏、後改為「封」氏。
「阿伏於」氏、後改為「阿」氏。
「可地延」氏、後改為「延」氏。
「阿鹿桓」氏、後改為「鹿」氏。
「他駱拔」氏、後改為「駱」氏。
「薄奚」氏、後改為「薄」氏。
「烏丸」氏、後改為「桓」氏。
「素和」氏、後改為「和」氏。
「吐谷渾」氏、依舊「吐谷渾」氏。
「胡古口引」氏、後改為「侯」氏。
「賀若」氏、依舊「賀若」氏。
「谷渾」氏、後改為「渾」氏。
「匹婁」氏、後改為「婁」氏。
「俟力伐」氏、後改為「鮑」氏。
「吐伏盧」氏、後改為「盧」氏。
「牒云」氏、後改為「雲」氏。
「是雲」氏、後改為「是」氏。
「叱利」氏、後改為「利」氏。
「副呂」氏、後改為「副」氏。
「那」氏、依舊「那」氏。
「如羅」氏、後改為「如]氏。
「乞扶」氏、後改為「扶」氏。
「阿單」氏、後改為「單」氏。
「俟幾」氏、後改為「幾」氏。
「賀兒」氏、後改為「兒」氏。
「吐奚」氏、後改為「古」氏。
「出連」氏、後改為「畢」氏。
「庾」氏、依舊「庾」氏。
「賀拔」氏、後改為「何」氏。
「叱呂」氏、後改為「呂」氏。
「莫那婁」氏、後改為「莫」氏。
「奚斗盧」氏、後改為「索盧」氏。
「莫蘆」氏、後改為「蘆」氏。
「出大汗」氏、後改為「韓」氏。
「沒路真」氏、後改為「路」氏。
「扈地於」氏、後改為「扈」氏。
「莫輿」氏、後改為「輿」氏。
「紇干」氏、後改為「干」氏。
「俟伏斤」氏、後改為「伏」氏。
「是樓」氏、後改為「高」氏。
「尸突」氏、後改為「屈」氏。
「沓盧」氏、後改為「沓」氏。
「嗢石蘭」氏、後改為「石」氏。
「解枇」氏、後改為「解」氏。
「奇斤」氏、後改為「奇」氏。
「須卜」氏、後改為「卜」氏。
「丘林」氏、後改為「林」氏。
「大莫干」氏、後改為「郃」氏。
「爾綿」氏、後改為「綿」氏。
「蓋樓」氏、後改為「蓋」氏。
「素黎」氏、後改為「黎」氏。
「渴單」氏、後改為「單」氏。
「壹斗眷」氏、後改為「明」氏。
「叱門」氏、後改為「門」氏。
「宿六斤」氏、後改為「宿」氏。
「馥邗」氏、後改為「邗」氏。
「土難」氏、後改為「山」氏。
「屋引」氏、後改為「房」氏。
「樹洛于」氏、後改為「樹」氏。
「乙弗」氏、後改為「乙」氏。
東方宇文、慕容氏、即宣帝時東部,此二部最為強盛,別自有傳。
南方有「茂眷」氏、後改為「茂」氏。
「宥連」氏、後改為「雲」氏。
次南有「紇豆陵」氏、後改為「竇」氏。
「侯莫陳」氏、後改為「陳」氏。
「庫狄」氏、後改為「狄」氏。
「太洛稽」氏、後改為「稽」氏。
「柯拔」氏、後改為「柯」氏。
西方「尉遲」氏、後改為「尉」氏。
「步鹿根」氏、後改為「步」氏。
「破多羅」氏、後改為「潘」氏。
「叱干」氏、後改為「薛」氏。
「俟奴」氏、後改為「俟」氏。
「輾遲」氏、後改為「展」氏。
「費連」氏、後改為「費」氏。
「其連」氏、後改為「綦」氏。
「去斤」氏、後改為「艾」氏。
「渴侯」氏、後改為「緱」氏。
「叱盧」氏、後改為「祝」氏。
「和稽」氏、後改為「緩」氏。
「冤賴」氏、後改為「就」氏。
「嗢盆」氏、後改為「溫」氏。
「達勃」氏、後改為「褒」氏。
「獨孤渾」氏、後改為「杜」氏。
凡此諸部、其渠長皆自統眾,而尉遲已下不及賀蘭諸部氏。
北方「賀蘭」、後改為「賀」氏。
「鬱都甄」氏、後改為「甄」氏。
「紇奚」氏、後改為「嵇」氏。
「越勒」氏、後改為「越」氏。
「叱奴」氏、後改為「狼」氏。
「渴燭渾」氏、後改為「味」氏。
「庫褥官」氏、後改為「庫」氏。
「烏洛蘭」氏、後為「蘭」氏。
「一那蔞」氏、後改為「蔞」氏。
「羽弗」氏、後改為「羽」氏。

 この改姓リストを見ると、国を挙げて中国化を進めたことがわかります。北方系異民族である鮮卑族の王朝が漢民族の文化を積極的に受け入れたという事実は、歴史現象としても興味深いものです。

 この中国化という視点で日本列島の動向を考えると、『宋書』倭国伝に見える倭王が中国風一字名称を採用したことは、五世紀の倭国(九州王朝)に於いて中国化が進んでいたのかもしれません。多利思北孤の時代(七世紀初頭)になると、「阿毎多利思北孤」と倭語の名前が『隋書』俀国伝に記されていますから、中国の天子に宛てた国書の自署名に中国宇一字名称ではなく、「阿毎多利思北孤」を使用したと考えざるを得ません。従って、この時代には倭国の中国化は進まず、倭国文化(万葉仮名、舞楽など)が花開いたのではないでしょうか。

(注)
①『魏書』(一)~(三)、百衲本二十四史、台湾商務印書館。
②国号は魏だが、戦国時代の魏や三国時代の魏と区別するため、通常はこの拓跋氏の魏は「北魏」と呼ばれている。


第3328話 2024/07/23

『九州倭国通信』215号の紹介

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.215号が届きましたので紹介します。同号には拙稿「城崎温泉にて」を掲載していただきました。これは昨年末に家族旅行で訪れた城崎温泉の紀行文で、タイトルは志賀直哉の「城崎にて」に倣ったものです。初めて訪れた城崎温泉ですが、そのお湯がきれいで日本を代表する名湯「海内第一泉」とされていることも頷けました(注①)。
現地伝承では、舒明天皇の時代、傷ついたコウノトリが山中の池で湯浴みしているのを見た村人により、温泉が発見されたとのこと。これが史実を反映した伝承であれば、舒明天皇の時代(六二九~六四一年)とあることから、本来は当時の九州年号「仁王」「僧要」「命長」により、その年代が伝えられ、後世になって『日本書紀』紀年に基づき、「舒明天皇の時代」とする表記に変えられたものと思われます。

 本号の表紙には韓国慶州市の明活山城石垣が掲載されています。「九州古代史の会」では五月に「伽耶・新羅の旅」を行われており、会報紙面にもその報告が収録されています(注②)。福岡は地理的にも歴史的にも韓国との関係が深く、日韓の古代史研究も盛んです。これは同会の強みの一つと思います。同会事務局長の前田和子さんからは、「日本古代史研究のためにも、古賀さんは韓国を訪問するべき」と言われています。仕事で何度も韓国出張しましたが、残念ながら毎回ハードスケジュール続きで、当地の博物館や遺跡巡りの機会はありませんでした。退職後も国内旅行が精一杯で、韓国訪問の機会はないままです。

(注)
①一の湯には「海内第一泉」の石碑がある。江戸時代の医師、香川修庵が「天下一の湯」と推奨したことが一の湯の由来。
②鹿島孝夫「青龍か天馬かそれとも? 伽耶・新羅の旅を終えて」
工藤常泰「慶州の金冠と糸魚川の翡翠」
前田和子「その「一語」とあの「一文」の罪52 (再び白村江の戦い)~伽耶・新羅の旅~」


第3321話 2024/07/10

金光上人関連の和田家文書 (5)

 和田家文書の金光上人史料を調査した金子寛哉氏による『金光上人関係伝承資料集』によれば、(A)~(D)群に分類した和田家文書中の金光上人関連史料について、次の所見が記されています。

(A)群 和田喜八郎氏が持参した記録物数点。薄墨にでも染めたかのような色を呈していた。
(B)群 浄円寺所蔵の軸装した史料十本。『金光上人の研究』には収録されていない。
(C)群 大泉寺に所蔵されている軸装史料、三七本。
(D)群 北方新社版『東日流外三郡誌』の編者、藤本光幸氏より借用した史料。一枚物が多いが、小間切れのものもかなり見られ、奇妙な香りと湿り気を帯びたものがあった。藤本氏によれば、三十年以上も前からそうした状態だったとのこと。他群よりも(D)群の文書はより拙劣であり、誤字(誤記ではなく文字そのものの誤り)が多いことも目立つ。佐藤堅瑞、開米智鎧両師とも、この(D)群資料をその著書に全く用いていない。

 金子氏はこれら計一五九資料を古文書の専門家に見せ、「あくまで写真で見た限りという条件つきではあるが、古くとも江戸末期のものでしかない」との所見を得ています。どうやら金子氏は、現存する和田家文書が和田末吉らによる明治・大正写本であるという史料性格をご存じなかったのかもしれません。ですから、古文書の専門家の所見「古くとも江戸末期のもの」は妥当な判断です。

 さらに金子氏の所見「他群よりも(D)群の文書はより拙劣であり、誤字(誤記ではなく文字そのものの誤り)が多い」「佐藤堅瑞、開米智鎧両師とも、この(D)群資料をその著書に全く用いていない」も重要です。すなわち、戦後作成の模写(レプリカ)と思われるものの文字は他群より稚拙であり、佐藤・開米両氏の著書には採用されていないということは、次のことを示しています。

(1) 戦後レプリカと明治・大正写本とは筆跡が異なっている。
(2) 戦後早い時期に和田家文書と接した開米智鎧氏と佐藤堅瑞氏が、著書執筆に採用した和田家文書は戦後レプリカではなく、明治・大正写本であった。

 この二点が金子氏の報告から読み取れますが、このことは和田家文書偽作説を否定するものです。ですから、わたしは金子氏の調査報告を、「いわゆる偽作論者による浅薄で表面的な批判とは異なり、史料状況の分類や他史料との関係にも言及が見られ、その批判的な姿勢も含めて、学問研究としては比較的優れたものでした」と前話で評価したのです。偽作キャンペーンとは一線を画し、和田家文書(金光上人関連史料)159点を和田喜八郎氏や藤本光幸氏らから借用し、写真撮影まで行って調査分類した金子氏の証言だけに貴重ではないでしょうか。(つづく)


第3320話 2024/07/08

金光上人関連の和田家文書 (4)

 和田家文書の金光上人史料を調査した研究者に金子寛哉氏がいます。氏は『金光上人関係伝承資料集』(注①)の編著者です。同書は浄土宗宗務庁教学局が発行したもので、言わば浄土宗々門の公的な金光上人資料集として刊行されたものです。それには、佐藤堅瑞氏や開米智鎧氏らによる金光上人研究(注②)についても紹介されており、興味深い見解が示されています。いわゆる偽作論者による浅薄で表面的な批判とは異なり、史料状況の分類や他史料との関係にも言及が見られ、その批判的な姿勢も含めて、学問研究としては比較的優れたものでした。その重要部分について紹介します。

 金子氏は和田家文書に基づいて活字化発表された諸資料(『蓬田村史』第一一章、『金光上人の研究』、『金光上人』)の存在を紹介し、「平成になってからも新規発見を見るなど「和田文書」の全容は今なお不明であるが、『東日流外三郡誌』によってその存在がクローズアップされる遥か以前に、金光上人関係「和田文書」資料は公開されている。このことは充分留意しておくべきであろう。」(1076頁)と指摘します。わたしは『蓬田村史』を知りませんでしたので、参考になりました。

 わたしが最も感心したのが、金子氏が和田喜八郎氏や柏村・浄円寺の佐藤堅瑞氏(『金光上人の研究』著者)、開米智鎧氏(『金光上人』著者)が住職をしていた五所川原飯詰の大泉寺を訪問し、金光上人関連和田家文書の実見調査(昭和六二年五月二八・二九日)と写真撮影を行い、それぞれを分類比較したことです。現存史料の基礎的調査に基づいて史料批判を行うという姿勢には共感を覚えました。金子氏は史料を次のように分類し、所見を述べています。

(A)群 和田喜八郎氏が持参した記録物数点。薄墨にでも染めたかのような色を呈していた。
(B)群 軸装した史料十本。『金光上人の研究』には収録されていない。
(C)群 大泉寺に所蔵されている軸装史料、三七本。
(D)群 北方新社版『東日流外三郡誌』(注③)の編者、藤本光幸氏より借用した史料(調査日時は上記3群とは異なるようである)。一枚物が多いが、小間切れのものもかなり見られ、奇妙な香りと湿り気を帯びたものがあった。藤本氏によれば、三十年以上も前からそうした状態だったとのこと。他群よりも(D)群の文書はより拙劣であり、誤字(誤記ではなく文字そのものの誤り)が多いことも目立つ。佐藤堅瑞、開米智鎧両師とも、この(D)群資料をその著書に全く用いていない。

 こうした分類と所見に基づき、金子氏はこれら計一五九資料を整理検討します。わたしの調査経験から判断すると、おそらく(A)(D)群は戦後レプリカに属するものと思われます(注④)。この点、後述します。(つづく)

(注)
①『金光上人関係伝承資料集』金光上人関係伝承資料集刊行会発行、1999年(平成11年)。
②佐藤堅瑞『殉教の聖者 東奥念仏の始祖 金光上人の研究』1960年(昭和35年)。
開米智鎧編『金光上人』1964年(昭和39年)。
③『東日流外三郡誌』北方新社版(全六冊) 小舘衷三・藤本光幸編、1983~1985年(昭和58~60年)。後に「補巻」1986年(昭和61年)が追加発行された。
④「謝辞に代えて ―冥界を彷徨う魂たちへ―」(『東日流外三郡誌の逆襲』八幡書店より刊行予定)において、わたしは次のように和田家文書を三分類した。
《α群》和田末吉書写を中心とする明治写本群。主に「東日流外三郡誌」が相当する。紙は明治の末頃に流行し始めた機械梳き和紙が主流。
《β群》主に末吉の長男、長作による大正・昭和(戦前)写本群。筆跡は末吉よりも達筆である。大福帳などの裏紙再利用が多い。「北鑑」「北斗抄」に代表される一群。
《γ群》戦後作成の模写本(レプリカ)。筆跡調査の結果、書写者は不詳。紙は戦後のもので、厚めの紙が多く使用されており、古色処理が施されているものもある。展示会用として外部に流出したものによく見られ、複数の筆跡を確認した。


第3307話 2024/06/22

難波宮を発見した山根徳太郎氏の苦難 (5)

 『日本書紀』孝徳紀に記された難波長柄豊碕宮を大阪市北区の長柄豊崎とした喜田貞吉氏の見解は、『日本書紀』の史料事実と現存地名との対応という文献史学の論証に基づいており、他方、山根徳太郎氏の上町台地法円坂説は考古学的出土事実により立証されました。なぜ、このように論証と実証の結果が異なったのでしょうか。ここに、近畿天皇家一元史観では解き難い問題の本質と矛盾があるのです。

 結論から言えば、山根氏が発見した前期難波宮は『日本書紀』孝徳紀に書かれた「難波長柄豊碕宮」ではなく、九州王朝の王宮(難波宮)だったのです。その証拠の一つとして、法円坂から出土した聖武天皇の宮殿とされた後期難波宮は、『続日本紀』では一貫して「難波宮」と表記されており、「難波長柄豊碕宮」とはされていません。この史料事実は、法円坂の地は「難波長柄豊碕」という地名ではなかったことを示唆しています。このことについては、わたしが既に論じてきました(注①)。

 そして、この結論が妥当であれば、孝徳天皇の宮殿「難波長柄豊碕宮」は、九州王朝の難波宮(前期難波宮)で執行された賀正礼に参加し、その日の内に帰還が可能な近隣にあったはずです(注②)。その「難波長柄豊碕宮」の最有力候補地こそ、大阪市北区に現存する豊崎町・長柄ではないでしょうか。そうであれば、喜田貞吉氏が論証した長柄豊崎説と山根徳太郎氏が発掘実証した上町台地法円坂説は相並び立つことができるのです。わたしは、孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」が北区の長柄豊崎にあったことを立証してみたいと考えています。(おわり)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」163話(2008/02/24)〝前期難波宮の名称〟
同「洛中洛外日記」175話(2008/05/12)〝再考、難波宮の名称〟
同「洛中洛外日記」1418話(2017/06/09)〝前期難波宮は「難波宮」と呼ばれていた〟
同「洛中洛外日記」1421話(2017/06/13)〝前期難波宮の難波宮説と味経宮説〟
「白雉改元の宮殿 ―「賀正礼」の史料批判―」『古田史学会報』116号、2013年。『古代に真実を求めて』(17集、2014年)に再録。
②『日本書紀』白雉元年(650)と三年(652)の正月条に次の記事が見える。
「白雉元年の春正月の辛丑の朔に、車駕、味経宮に幸して、賀正礼を観る。(中略)是の日に、車駕宮に還りたまふ。」
「三年の春正月の己未の朔に、元日礼おわりて、車駕、大郡宮に幸す。」


第3306話 2024/06/18

難波宮を発見した山根徳太郎氏の苦難 (4)

 『日本書紀』孝徳紀に記された難波長柄豊碕宮を大阪市北区の長柄豊崎とした喜田貞吉氏の見解は、『日本書紀』の史料事実と現存地名との対応に基づいており、大阪の他の場所に同様の地名が見当たらないことから、山根徳太郎氏による難波宮跡発見までは最有力説であったと思われます。

 喜田氏には、この他にも法隆寺再建論争や藤原宮長谷田土壇説など、『日本書紀』や諸史料に見える記事を根拠とした仮説提唱と論争があったことは著名です(注①)。例えば、天智紀に法隆寺が全焼したと記されており、燃えてもいない法隆寺が火災で失われたなどと『日本書紀』に書く必要はないという文献史学の骨太な論証方法で、法隆寺再建説を喜田氏は唱えました。対して、仏教建築史学や仏像研究による実証的で強力な非再建説がありましたが、若草伽藍の出土により、喜田の再建説が認められました。しかし、それではなぜ現在の法隆寺が推古朝にふさわしい建築様式であり、仏像も飛鳥仏なのかという疑問は未解決のままでした。しかも、その後に五重塔の心柱伐採年が594年であることが年輪年代測定により判明し、再建説ではますます説明が困難となりました(注②)。

 同様の問題が難波宮所在地論争にも横たわっています。『日本書紀』孝徳紀に見える孝徳天皇の宮殿名「難波長柄豊碕宮」を史料根拠として、それが現存地名の「長柄・豊崎」(大阪市北区)と対応し、その地の方が狭隘な上町台地よりも広く、王都王宮の地に相応しいという、極めて常識的で合理的な長柄豊崎説でしたが、山根徳太郎氏の執念の発掘により、難波宮が上町台地法円坂(大阪市中央区)に存在していたことが明らかとなりました。しかし、それではなぜ『日本書紀』にも記された「長柄・豊崎(碕)」という有名な地名が法円坂ではなく、他の場所(北区)に遺存するのかという問題が残されたままなのです。わたしが前話で述べたように、「真の問題」とはこのことなのです。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」30973106話(2023/08/22~09/07)〝喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (1)~(7)〟
②現法隆寺は飛鳥時代の古い寺院が移築されたものとする、移築説が古田学派の研究者、米田良三氏より発表されている。
米田良三『法隆寺は移築された』新泉社、1991年。


第3285話 2024/05/14

前期難波宮孝徳朝説は「定説」です (2)

 大下隆司さんが前期難波宮孝徳朝説への反対論者として紹介した研究者に白石太一郎さん(注①)がいます。しかし、白石さんは大下さんや泉武さんの天武朝説とは異なり、天智朝造営説です。白石さんの論文「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」(注②)冒頭の「はじめに」に次のように記されています。

「今日では、少なくとも考古学の分野では、前期難波宮を孝徳朝の難波長柄豊碕宮と考える説がほぼ定説化している。」3頁

 このように、孝徳朝説に反対する白石さん自身が、孝徳朝説を「少なくとも考古学の分野では(中略)ほぼ定説化している」と認識していることがわかります。わたしが〝前期難波宮孝徳朝説はほとんどの考古学者が認めている定説である〟としたことと同様の認識なのです。そして、白石さんは次のような見解をくり返し述べ、孝徳朝説と同時に天武朝説(672~686年)をも否定しています。

 「前期難波宮整地層出土の土器群の中には明らかに西暦660年代頃のものが含まれている可能性が大きいと思われる。」3頁
「このように、前期難波宮整地層にはおそらくは水落段階、すなわち前章の検討結果からは660年代中頃から後半の土器が含まれていることになる。」17頁
「前期難波宮の整地層と水利施設の厳密な層位関係はもとより不明であるが、この水利施設が前期難波宮造営の一環として建設されたものであることについては疑いなかろう。ただしその時期は、飛鳥編年では坂田寺池段階のものであり、660年代前半、遡っても660年前後にまでしか上らない。」20頁
「前期難波宮下層の土器が『到底天武朝まで下がるものとは考えられない』という考え方が大きな落とし穴になっていたように思われる。それは天武朝までは下がらないとしても、孝徳朝までは遡らないのである。」22頁 ※この部分は白石氏自身の以前の見解に対してのもの。

 以上のように、白石さんは前期難波宮天武朝説ではなく、天智朝説(662~671年)なのです。その根拠は飛鳥編年に基づくもので、「最近の飛鳥編年にもとづく土器の編年研究では、少なくとも七世紀中葉から第3四半期では10年単位の議論が可能な段階になってきている」(20頁)として、孝徳朝説も天武朝説も否定し、天智朝説を主張されています。
ですから、孝徳朝説(定説)を否定する少数意見のなかにも両立し得ない天智朝説と天武朝説があり、飛鳥編年による土器編年も一様ではないことが見て取れます。ここで重要な視点は、飛鳥編年とは『日本書紀』の記事をその年次も含めて正しいとすることを前提として成立しています。更に、飛鳥から出土した遺構や層位を『日本書紀』の特定の記事に対応させ、そこからの出土土器を相対編年するという手法を採用しています。

 従って、『日本書紀』の記述が正しいかどうかは検証の対象であり、論証抜きで是とする一元史観を批判するわたしたち古田学派の研究者にとっては、飛鳥編年も検証の対象であり、採用する場合でも用心深く使用しなければならないことを改めて指摘しておきたいと思います(注③)。わたしは、白石さんのように土器の相対編年だけで10年単位の年次判定をすることは危険であり、難波編年を作成した佐藤隆さんのように前葉・中葉・後葉の幅で土器編年を捉えるのが妥当と考え、佐藤さんの七世紀の難波編年を支持してきました(注④)。
今回紹介した白石さんの論文によっても、前期難波宮孝徳朝説が定説となっていることがご理解いただけると思います。(つづく)

(注)
①下記①の論文発表時、大阪府立近つ飛鳥博物館々長。
②白石太一郎「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」『大阪府立近つ飛鳥博物館 館報16』大阪府立近つ飛鳥博物館、2012年。
③飛鳥編年の基礎データそのものが信頼性に問題があるとした次の論文がある。
服部静尚「須恵器編年と前期難波宮 ―白石太一郎氏の提起を考える―」『古代に真実を求めて』17集。古田史学の会編、明石書店、2014年。
④佐藤隆『難波宮址の研究 第十一 前期難波宮内裏西方官衙地域の調査』2000年、大阪市文化財協会。


第3284話 2024/05/13

前期難波宮孝徳朝説は「定説」です (1)

 わたしは前期難波宮を七世紀中葉(九州年号の白雉元年、652年創建)に造営された九州王朝の複都の一つと考えていますが、近畿天皇家一元史観の学界では、近畿天皇家(後の大和朝廷)の孝徳天皇が造営した難波長柄豊碕宮とする説、すなわち孝徳朝説が定説の位置を占めています。このことを少なからぬ考古学者にも直接あるいは論文を読んで確かめてきましたので、〝前期難波宮孝徳朝説はほとんどの考古学者が認めている定説である〟と、これまでも紹介してきました。

 ところが、昨日の多元的古代研究会月例会での大下隆司さんの研究発表では、孝徳朝説は大阪歴博による間違った見解であり、多くの考古学者や研究者から反対意見が出されており、定説はおろか、多数説でもないかのような説明がなされました。学問研究ですから、意見や解釈が異なるのは全くかまいませんし、異説が学問の発展に寄与することも稀ではありません。わたしも常々「学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる」と言ってきた通りです。しかし、事実(エビデンス)に対しては、誠実かつ正確であらねばなりません。良い機会でもありますので、前期難波宮孝徳朝説が古代史学界の「定説」であることを改めて具体的に紹介します。

 まず、大下さんが高く評価され、紹介した泉武さんの論文(注)冒頭の「要旨」には次の一文があります。

 「前期難波宮は乙巳の変(645年)により孝徳朝が成立し、難波遷都によって造営された難波長柄豊碕宮であることが定説化している。この宮殿が図1で示した正方位の建物を指し、前期難波宮整地層の上に造営されたことも周知されている。」

 このように、前期難波宮天武朝説の泉さんご自身が、前期難波宮整地層上の正方位の建物(前期難波宮)が孝徳朝の難波長柄豊碕宮であることが「定説化している」「周知されている」と明言しています。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の「難波宮」の項目にも「前期難波宮」の解説として、次の記事があります。

 「乙巳の変(大化元年〈645年〉)ののち、孝徳天皇は難波(難波長柄豊崎宮)に遷都し、宮殿は白雉3年(652年)に完成した。(中略)
建築物の概要
回廊と門で守られた北側の区画は東西185メートル、南北200メートル以上の天皇の住む内裏。その南に当時としては最大級の東西約36メール・南北約19メートルの前殿、ひとまわり小さな後殿が廊下で結ばれている。前殿が正殿である。内裏南門の左右に八角形の楼閣状の建物が見つかった。これは、難波宮の荘厳さを示す建物である。(後略)」

 このように定説に反対する研究者も、web辞書にも孝徳朝説を定説として取り扱っています。しかもウィキペディアには、少数説の天武朝説の紹介さえもなく(これはこれで問題ですが)、大下さんの発表内容とはかなり様子が異なっていることをご理解いただけることでしょう。(つづく)

(注)泉武「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。
上町台地法円坂から出土した南北正方位の巨大宮殿である前期難波宮を天武朝、その下層遺構の東偏(N23°E)した建物跡(SB1883)などを孝徳朝の宮殿とする。


第3283話 2024/05/09

「正方位」宮殿の一元史観による編年

 泉論文(注①)では、下層遺跡土壙(SK10043)から出土した「贄」木簡、湧水施設(SG301)から出土した「謹啓」木簡などを根拠として、南北正方位の巨大宮殿である前期難波宮を天武朝、その下層遺構の東偏(N23°E)した建物跡(SB1883)などを孝徳朝の宮殿としました。これら木簡の他に、その建物の建築方位についても自説の根拠としました。それは飛鳥宮跡などの建築方位の変遷を根拠とする次の解釈によります。

(1) 飛鳥宮跡第Ⅰ期は舒明天皇の飛鳥岡本宮(630~636年)に比定されており、その建築方位は北で約20度西に振る。
(2) 第Ⅱ期は皇極天皇の飛鳥板蓋宮(643年)であり、それ以降は建物主軸は正方位となる(注②)。
(3) 石舞台古墳の西の地域に造営された島庄遺跡は、Ⅰ~Ⅲ期(600~670年代)までは西偏する建物であり、Ⅳ期(670年以降)は正方位となる。Ⅳ期の建物は大規模な土地造成と設計計画のもとに建てられている(注③)。
(4) これらの調査成果により、自然地形に制約された建物主軸が正方位に変更されるのは七世紀中頃以降であるとの見通しが得られる。
(5) 以上のように、飛鳥京の諸宮殿と前期難波宮の二つの宮殿建物(前期難波宮と下層遺跡建物)は、斉明朝(皇極朝カ)から孝徳朝にかけて正方位建物ではなかった蓋然性が強い。

 この説明のうち、(1)(2)(3)は考古学的エビデンスとその編年の解釈で、それらに基づいた編年理解が(4)(5)になります。しかし、(1)(2)に基づけば正方位建物の出現は七世紀中葉であり、(3)を重視すれば七世紀後葉となりますので、そうした二つの解釈の内、後者の解釈を採用して(5)の自説を導き出すのは恣意的のように見えます。

 わたしは難波や飛鳥の王宮建築では、七世紀中葉になって正方位を採用したと考えていますが、仮に泉論文の解釈(5)が成立するとしても、前期難波宮を九州王朝(倭国)の複都の一つとするわたしの見解によれば、九州王朝が飛鳥の近畿天皇家よりも早く正方位の宮殿建築を採用したと理解することが可能であり、やはり問題はありません。

 このように泉論文の一見鋭い指摘は、近畿天皇家一元史観に基づく通説に対して有効ではあっても、九州王朝説にとってはむしろ通説の限界や矛盾を指摘した視点となり、前期難波宮九州王朝複都説を側面から支持する研究と言うことができるのです。

(注)
①泉武「前期難波宮孝徳朝説の検討」『橿原考古学研究所論集17』2018年。
同「前期難波宮孝徳朝説批判(その2)」『考古学論攷 橿原考古学研究所紀要』46巻、2023年。
②『飛鳥京跡Ⅲ』橿原考古学研究所調査報告第102冊、2008年。
③相原嘉之「嶋宮をめぐる諸問題 ―島庄遺跡の発掘成果とその意義―」『明日香村文化財調査研究紀要』第10号、明日香村教育委員会、2011年。